No.179 - 中島みゆきの詩(9)春の出会い [音楽]
今回は、No.168「中島みゆきの詩(8)春なのに」の続きです。No.168では中島みゆき作詞・作曲の、
をとりあげました。2曲とも "春の別れ" をテーマとした詩です。そのときに別の中島作品を連想したのですが、今回はそれを書きます。2曲とは全く対照的な "春の出会い" をテーマとする曲、
です。
ふたりは
「ふたりは」は、1990年に発売されたアルバム『夜を往け』に収録されている曲です。また、その年の暮れの第2回目の「夜会」で最後に歌われました。その詩を引用すると以下の通りです。
さっき書いたように、この曲は1990年の第2回目の「夜会」の最後に歌われました。その前の年、1989年の夜会(第1回)の最後は『二隻の舟』です。『二隻の舟』は「夜会」のために書かれた曲で、1990年の「夜会」の最初の曲でもあり、3年後にアルバムに収録されました(『EAST ASIA』1992)。『ふたりは』という曲は、"二人" ないしは "あなたと私" のことを詩にしているという点で『二隻の舟』と似ています。アルバム『夜を往け』の発売(1990.6.13)は「夜会 1990」(1990.11.16~)より先なのですが、「夜会」の最後に歌うことを想定して書かれたのかもしれません。
シャンソン
『ふたりは』という曲を初めて聴いたとき、詩で描かれた物語について、"どこかで聴いた(見た)ような・・・・・・" という既視感がぬぐえませんでした。
男と女の物語です。男は、社会や町、ないしはコミュニティーの "アウトサイダー" です。最も極端なのはヤクザですが、そこまで行かなくても、不良、チンピラ、アウトロー、嫌われ者であり、蔑んだ言い方では「ゴロツキ」です。
対するのは「性的に奔放な女性」です。職業としては「売春婦」ないしは「風俗嬢」ですが、そうでなくても「あばずれ」とか「ふしだら女」と呼ばれる女性。「誰とでもやる女」と見られていて、蔑んだ言い方では「バイタ(売女)」です。
要するに、社会や町やコミュニティーの表ではなく裏、光の部分ではなく陰の部分を象徴するような二人です。しかし二人の心の奥底には非常にピュアな部分があり、人を愛したい、人から愛されたいとの思いを秘めている。人々からは蔑まれてはいるが、内心は愛を求めている。二人とも "夢破れて"、夢とは正反対の状況で生きている。そんな「ごろつき」と「バイタ」が、たまたま街で出会い、惹かれ合う、そういった物語・・・・・・。
これって、映画か歌に似たようなストーリーがあったのではないでしょうか。映画だとすると、イタリア映画かフランス映画です。イタリア映画だと、最後は二人の意志とは無関係な悲劇で終わるというような・・・・・・。映画だと登場人物も多いし、さまざまな尾鰭がついてはいるが、ストーリーの骨子は上のような映画です。
・・・・・・と思ったものの、その映画の題名は何かと問われると、ピッタリとした映画が思い出せません。それに近い映画はあるのですが・・・・・・。
「既視感」が映画ではなく歌によるのだとすると、思い浮かぶのはシャンソンです。しかし、シャンソンでも同じストーリーの曲は思い出せません。
そこで、既視感を抱いた理由はストーリーそのものというより、この曲の構成スタイルがシャンソンのあるジャンルを思い起こさせたから、とも考えました。つまり、物語性がある歌詞で、人生の一断面にハイライトが当たっている。曲の作りとしては「街の人々の声や囁き」と「主人公の言葉」が交錯する。つまり「語りのような部分」と「歌の部分」、オペラで言うとレチタティーボとアリアが交替するような作りになっている。こういった曲の作り方はシャンソンにいろいろあったと思います。
「語りと歌の交替」でいうと、大御所、シャルル・アズナブールの『イザベル』などはその典型です。イザベルという女性への思いを綿々と綴った詩ですが、「歌」の部分の歌詞は "イザベル" という女性名が繰り返されるだけであり、その他の歌詞はすべてメロディーをつけない「語り」になっています。ちょっと極端かもしれませんが。
『ふたりは』と似た詩の内容のシャンソンは思い出せないのですが、詩の内容はともかく、曲の作り方がシャンソンの影響を感じる。そういった全体の雰囲気から既視感を覚えたのだと思いました。既視感の本来の意味は、本当は見聞きしたり体験したことがないのに、あたかも過去に経験したことのように感じることなのです。
言葉の力
中島みゆき『ふたりは』の詩の話でした。ここには "あそびめ"、"ばいた"、"ごろつき" など、あまり日常的ではない言葉が使われています。そうしたこともあり、描かれた物語は「ある種のおとぎ話」のように聞こえます。詩の中に主人公の言葉として "おとぎばなし" が出てきますが、全体が「おとぎばなし」のようです。物語の内容もシンプルで、中島作品にしてはめずらしく平凡な感じがします。もっとストレートに言うとステレオタイプに思える。中島みゆき "らしくない" 物語という感じがします。
しかしこの詩には全体を引き締める「言葉」があると思うのですね。それは4回繰り返される「緑為す春の夜」という表現です。この印象的な一言があるために、詩の全体が生きてくる。物語としては "ありがちな" 話かもしれないけれど、短いが印象的な言葉の力で詩全体が独特の光を放っていると強く感じます。
その「緑為す春の夜」とはどういう意味でしょうか。まず「夜」ですが、主人公の二人は社会において、光よりは陰、表よりは裏のポジションにいる男と女です。二人が出会う時間は「夜」というのが当然の設定でしょう。この曲が収められたアルバムのタイトルも『夜を往け』です。男と女はまだ "夜を往って" いる。
しかし季節は「春」です。冬が終わり、肌にあたる空気も刺すような冷たさではありません。夜に戸外をさまよったりすると "凍えきる" かもしれないが、空気感は明らかに冬とは違う。"春先" か "早春" と言うべきかもしれません。生命の活動が再開する季節であり、物語としてはポジティブな将来を予想させます。夜もいずれ終わり朝がくることも暗示しているようです。"夜を往った" 向こうには朝がある。
この「春の夜」ですが、古今和歌集や新古今和歌集に「春の夜」を詠った和歌がいくつもあったと思います。古今和歌集の有名な歌に、
があります。「春の夜の闇は、わけの分からないことをするものだ。梅の花は隠しても、香りは隠せるだろうか(隠せない)」というほどの意味ですが、ここで「春の夜」に付け加えられているモチーフは花(梅)の香りです。夜であっても香りは感じます。
ほかに五感に関係するもので「春の夜」に合わせるとしたら月でしょう。それも、空気が乾燥してくっきりと見える冬の月ではなく、南からの風が吹いて湿度が高くなったときの朧月です。「春の夜」に朧月を登場させた短歌もいろいろあったと思います。
しかし『ふたりは』において「春の夜」に添えられているのは「緑為す」という形容句です。これはどういう意味でしょうか。少なくとも「春の夜」に戸外では「緑」を視認しにくいはずだし、ここに「緑」をもってくるのは意外な感じがします。これには、次の二つの意味が重なっていると思います。
ひとつは、日本に古来からある「緑なす黒髪」という表現で、女性のつややかな黒髪を表します。確か、枕草子にもあったはずです。現代でも、ポップスの歌詞に現れたりする。つまり「緑なす」は「黒」を連想させる言葉であり、と同時に "好ましい黒" というイメージになります。それがこの詩では「夜」に懸かっている。つまり「緑為す夜」であり、それは "好ましい夜" です。
もうひとつの「緑為す」の含意は、草木の葉の緑です。季節は春(春先、早春)なので、新芽や若葉の緑、生命の再生や息吹きを感じさせる緑です。つまり「緑為す春」という連想が働く。まとめると「緑為す」は「春」と「夜」の両方にかかる表現になっていると思います。
「緑為す春の夜」は、きわめて短い表現だけれども『ふたりは』という詩で語られる物語の全体をギュッと濃縮したような言葉になっています。この「緑」と「春」と「夜」の三つの単語を一つのフレーズに持ち込んだのは、ちょっと大袈裟ですが、日本文学史上初めてではないでしょうか。もちろん "あてずっぽう" ですが、そう感じるほと言葉が輝いています。
さらにこの曲は、中島さんの圧倒的な歌唱力と「歌で演技する力」が遺憾なく発揮されています。それとあいまって、数ある中島作品の中でも出色の曲に仕上がっていると思います。
出会い
No.168で取り上げた2曲を含めて
の3曲を比較すると顕著な対比がみられます。「春なのに」と「少年たちのように」は、純真な少年と少女が(卒業で)春に別れる詩です。一方、「ふたりは」のほうは、純真とは真逆の男と女が春に出会い、一緒に旅立とうとする詩です。前の2つの別れの詩とは全くの対極にあります。
『ふたりは』という詩は、1990年代からの中島さんの詩の新しい潮流を象徴するかのようです。この前後から中島さんは、二人でいることの喜び、人が人と出会うことの意義、めぐり逢うことの素晴らしさ、パートナーシップの大切さなどを言葉にした詩を発表しています。
などです。そのことは、No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも書きました。数々のアーティストによってカバーされている『糸』は、その典型でしょう。
これら一連の詩の中で、強い物語性をもっている『ふたり』の詩は異色であり特別だと言えます。そして物語の "結論"、つまり最後の言葉は「もう二度と傷つかないで」です。中島さんが数多く作ってきた「別れ」のシチュエーションの詩では、傷ついた主人公の女性を表現していることがほとんどでした。強がりを言っているようでも、内心は深く傷ついている。そういった数々の詩に対して『ふたりは』の最後の言葉、
は、傷ついている過去の幾多の主人公への呼びかけのように聞こえます。
この曲は1970年代から数多く作られてきた「別れ」の詩とは逆の内容を提示することにより、クリエーターとしての中島さんが新しい段階に進んだことを示しているようです。その意味では「中島みゆき作品史」の中では一つの記念碑的な作品だと思います。
柏原芳恵への提供曲(1983) | ||||
三田寛子への提供曲(1986) |
をとりあげました。2曲とも "春の別れ" をテーマとした詩です。そのときに別の中島作品を連想したのですが、今回はそれを書きます。2曲とは全く対照的な "春の出会い" をテーマとする曲、
アルバム『夜を往け』1990 |
です。
ふたりは
「ふたりは」は、1990年に発売されたアルバム『夜を往け』に収録されている曲です。また、その年の暮れの第2回目の「夜会」で最後に歌われました。その詩を引用すると以下の通りです。
|
中島みゆき「夜を往け」(1990)
①夜を往け ②ふたつの炎 ③3分後に捨ててもいい ④あした ⑤新曾根崎心中 ⑥君の昔を ⑦遠雷 ⑧ふたりは ⑨北の国の習い ⑩with |
さっき書いたように、この曲は1990年の第2回目の「夜会」の最後に歌われました。その前の年、1989年の夜会(第1回)の最後は『二隻の舟』です。『二隻の舟』は「夜会」のために書かれた曲で、1990年の「夜会」の最初の曲でもあり、3年後にアルバムに収録されました(『EAST ASIA』1992)。『ふたりは』という曲は、"二人" ないしは "あなたと私" のことを詩にしているという点で『二隻の舟』と似ています。アルバム『夜を往け』の発売(1990.6.13)は「夜会 1990」(1990.11.16~)より先なのですが、「夜会」の最後に歌うことを想定して書かれたのかもしれません。
シャンソン
『ふたりは』という曲を初めて聴いたとき、詩で描かれた物語について、"どこかで聴いた(見た)ような・・・・・・" という既視感がぬぐえませんでした。
男と女の物語です。男は、社会や町、ないしはコミュニティーの "アウトサイダー" です。最も極端なのはヤクザですが、そこまで行かなくても、不良、チンピラ、アウトロー、嫌われ者であり、蔑んだ言い方では「ゴロツキ」です。
対するのは「性的に奔放な女性」です。職業としては「売春婦」ないしは「風俗嬢」ですが、そうでなくても「あばずれ」とか「ふしだら女」と呼ばれる女性。「誰とでもやる女」と見られていて、蔑んだ言い方では「バイタ(売女)」です。
要するに、社会や町やコミュニティーの表ではなく裏、光の部分ではなく陰の部分を象徴するような二人です。しかし二人の心の奥底には非常にピュアな部分があり、人を愛したい、人から愛されたいとの思いを秘めている。人々からは蔑まれてはいるが、内心は愛を求めている。二人とも "夢破れて"、夢とは正反対の状況で生きている。そんな「ごろつき」と「バイタ」が、たまたま街で出会い、惹かれ合う、そういった物語・・・・・・。
これって、映画か歌に似たようなストーリーがあったのではないでしょうか。映画だとすると、イタリア映画かフランス映画です。イタリア映画だと、最後は二人の意志とは無関係な悲劇で終わるというような・・・・・・。映画だと登場人物も多いし、さまざまな尾鰭がついてはいるが、ストーリーの骨子は上のような映画です。
・・・・・・と思ったものの、その映画の題名は何かと問われると、ピッタリとした映画が思い出せません。それに近い映画はあるのですが・・・・・・。
「既視感」が映画ではなく歌によるのだとすると、思い浮かぶのはシャンソンです。しかし、シャンソンでも同じストーリーの曲は思い出せません。
そこで、既視感を抱いた理由はストーリーそのものというより、この曲の構成スタイルがシャンソンのあるジャンルを思い起こさせたから、とも考えました。つまり、物語性がある歌詞で、人生の一断面にハイライトが当たっている。曲の作りとしては「街の人々の声や囁き」と「主人公の言葉」が交錯する。つまり「語りのような部分」と「歌の部分」、オペラで言うとレチタティーボとアリアが交替するような作りになっている。こういった曲の作り方はシャンソンにいろいろあったと思います。
「語りと歌の交替」でいうと、大御所、シャルル・アズナブールの『イザベル』などはその典型です。イザベルという女性への思いを綿々と綴った詩ですが、「歌」の部分の歌詞は "イザベル" という女性名が繰り返されるだけであり、その他の歌詞はすべてメロディーをつけない「語り」になっています。ちょっと極端かもしれませんが。
『ふたりは』と似た詩の内容のシャンソンは思い出せないのですが、詩の内容はともかく、曲の作り方がシャンソンの影響を感じる。そういった全体の雰囲気から既視感を覚えたのだと思いました。既視感の本来の意味は、本当は見聞きしたり体験したことがないのに、あたかも過去に経験したことのように感じることなのです。
余談ですが、シャルル・アズナブールは92歳(2016年5月現在)です。その「最後の日本公演」を2016年6月に東京と大阪で行うそうです。92歳で現役というのは凄いことですが、「最後の」と銘打って宣伝するプロモーター側の言い方も相当なものです。さっきアズナブールの名前を出したのは、この日本公演のことが頭にあったからでした。 |
言葉の力
中島みゆき『ふたりは』の詩の話でした。ここには "あそびめ"、"ばいた"、"ごろつき" など、あまり日常的ではない言葉が使われています。そうしたこともあり、描かれた物語は「ある種のおとぎ話」のように聞こえます。詩の中に主人公の言葉として "おとぎばなし" が出てきますが、全体が「おとぎばなし」のようです。物語の内容もシンプルで、中島作品にしてはめずらしく平凡な感じがします。もっとストレートに言うとステレオタイプに思える。中島みゆき "らしくない" 物語という感じがします。
しかしこの詩には全体を引き締める「言葉」があると思うのですね。それは4回繰り返される「緑為す春の夜」という表現です。この印象的な一言があるために、詩の全体が生きてくる。物語としては "ありがちな" 話かもしれないけれど、短いが印象的な言葉の力で詩全体が独特の光を放っていると強く感じます。
その「緑為す春の夜」とはどういう意味でしょうか。まず「夜」ですが、主人公の二人は社会において、光よりは陰、表よりは裏のポジションにいる男と女です。二人が出会う時間は「夜」というのが当然の設定でしょう。この曲が収められたアルバムのタイトルも『夜を往け』です。男と女はまだ "夜を往って" いる。
しかし季節は「春」です。冬が終わり、肌にあたる空気も刺すような冷たさではありません。夜に戸外をさまよったりすると "凍えきる" かもしれないが、空気感は明らかに冬とは違う。"春先" か "早春" と言うべきかもしれません。生命の活動が再開する季節であり、物語としてはポジティブな将来を予想させます。夜もいずれ終わり朝がくることも暗示しているようです。"夜を往った" 向こうには朝がある。
この「春の夜」ですが、古今和歌集や新古今和歌集に「春の夜」を詠った和歌がいくつもあったと思います。古今和歌集の有名な歌に、
春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる(凡河内 躬恒) |
があります。「春の夜の闇は、わけの分からないことをするものだ。梅の花は隠しても、香りは隠せるだろうか(隠せない)」というほどの意味ですが、ここで「春の夜」に付け加えられているモチーフは花(梅)の香りです。夜であっても香りは感じます。
ほかに五感に関係するもので「春の夜」に合わせるとしたら月でしょう。それも、空気が乾燥してくっきりと見える冬の月ではなく、南からの風が吹いて湿度が高くなったときの朧月です。「春の夜」に朧月を登場させた短歌もいろいろあったと思います。
しかし『ふたりは』において「春の夜」に添えられているのは「緑為す」という形容句です。これはどういう意味でしょうか。少なくとも「春の夜」に戸外では「緑」を視認しにくいはずだし、ここに「緑」をもってくるのは意外な感じがします。これには、次の二つの意味が重なっていると思います。
ひとつは、日本に古来からある「緑なす黒髪」という表現で、女性のつややかな黒髪を表します。確か、枕草子にもあったはずです。現代でも、ポップスの歌詞に現れたりする。つまり「緑なす」は「黒」を連想させる言葉であり、と同時に "好ましい黒" というイメージになります。それがこの詩では「夜」に懸かっている。つまり「緑為す夜」であり、それは "好ましい夜" です。
もうひとつの「緑為す」の含意は、草木の葉の緑です。季節は春(春先、早春)なので、新芽や若葉の緑、生命の再生や息吹きを感じさせる緑です。つまり「緑為す春」という連想が働く。まとめると「緑為す」は「春」と「夜」の両方にかかる表現になっていると思います。
「緑為す春の夜」は、きわめて短い表現だけれども『ふたりは』という詩で語られる物語の全体をギュッと濃縮したような言葉になっています。この「緑」と「春」と「夜」の三つの単語を一つのフレーズに持ち込んだのは、ちょっと大袈裟ですが、日本文学史上初めてではないでしょうか。もちろん "あてずっぽう" ですが、そう感じるほと言葉が輝いています。
さらにこの曲は、中島さんの圧倒的な歌唱力と「歌で演技する力」が遺憾なく発揮されています。それとあいまって、数ある中島作品の中でも出色の曲に仕上がっていると思います。
出会い
No.168で取り上げた2曲を含めて
1983 | ||||
1986 | ||||
1990 |
の3曲を比較すると顕著な対比がみられます。「春なのに」と「少年たちのように」は、純真な少年と少女が(卒業で)春に別れる詩です。一方、「ふたりは」のほうは、純真とは真逆の男と女が春に出会い、一緒に旅立とうとする詩です。前の2つの別れの詩とは全くの対極にあります。
『ふたりは』という詩は、1990年代からの中島さんの詩の新しい潮流を象徴するかのようです。この前後から中島さんは、二人でいることの喜び、人が人と出会うことの意義、めぐり逢うことの素晴らしさ、パートナーシップの大切さなどを言葉にした詩を発表しています。
「夜を往け」1990 | ||||
「夜を往け」1990(アルバム最終曲) | ||||
「夜会」1989。「EAST ASIA」1992 | ||||
「EAST ASIA」1992(アルバム最終曲) |
などです。そのことは、No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも書きました。数々のアーティストによってカバーされている『糸』は、その典型でしょう。
|
これら一連の詩の中で、強い物語性をもっている『ふたり』の詩は異色であり特別だと言えます。そして物語の "結論"、つまり最後の言葉は「もう二度と傷つかないで」です。中島さんが数多く作ってきた「別れ」のシチュエーションの詩では、傷ついた主人公の女性を表現していることがほとんどでした。強がりを言っているようでも、内心は深く傷ついている。そういった数々の詩に対して『ふたりは』の最後の言葉、
「 | もう二度と傷つかないで」 |
は、傷ついている過去の幾多の主人公への呼びかけのように聞こえます。
この曲は1970年代から数多く作られてきた「別れ」の詩とは逆の内容を提示することにより、クリエーターとしての中島さんが新しい段階に進んだことを示しているようです。その意味では「中島みゆき作品史」の中では一つの記念碑的な作品だと思います。
(続く)
No.168 - 中島みゆきの詩(8)春なのに [音楽]
今までに「中島みゆきの詩」について8回書きましたが(No.35, No.64, No.65, No.66, No.67, No.68, No.130, No.153)、その続編です。
2016年2月23日(火)にTBSで放映された「マツコの知らない世界」では "卒業ソング" が特集されていました。ここに柏原芳恵さんがサプライズ登場し、『春なのに』(1983)を歌いました。マツコさんは柏原さんに「変わらない」「相変わらず素敵な胸で」と言っていましたね。確かに50歳(1965年生まれ)にしてはお美しい姿で、マツコさんの発言も分かります。失礼ながら、歌は現役時代のほうがうまいと思いました。高音が少し出にくく微妙な音程だった気がします。しかしそれはやむを得ないというものでしょう。
この「柏原芳恵・サプライズ登場」を見て思ったのは、テレビ局の(テレビ業界の)"番組制作力" はあなどれないということでした。もちろん視聴者の中には、卒業ソング特集だったはずが、途中から柏原芳恵特集になってしまう、この「強引さ」に違和感や反発を覚えた人がいたでしょう。だけど話は全く逆では?と想像します。はじめから柏原芳恵特集として企画されたのでは、と思うのですね。そのポイントは、
という点です。Wikipedia情報によると皇太子殿下は、皇太子になる以前の浩宮の時代に柏原芳恵さんのリサイタルにお忍びで行かれ、花束まで贈呈されたそうです。ロンドンに留学されていたころには部屋に柏原さんのポスターが貼ってあった、というような話もあります。おそらく、この番組のディレクター(ないしは今回の番組の企画をした人。あるいは企画をTBSに売り込んだ人)は次のように考えたのではないでしょうか。
つまり、柏原芳恵さんの出演を大前提として考えたとき、番組制作サイドとしては、
の3つが揃えば、これで話題にならないはずがないと読んだのではないでしょうか。この3つの一致は偶然にしてはでき過ぎています。「卒業ソング特集」あくまで "前振り" に過ぎず、本番はサプライズ登場、そいういう風に思いました。番組の作り方としての善悪は別にして、テレビ業界の(TBSの)バイタリティーを感じたし、この記事の最初の方に "あなどれない" と書いたのも、その感想の一環です。
このサプライズ登場は、隠れた「殿下へのプレゼント」という意味があったのかもしれません。TBSの上層部は内々に宮内庁を通して皇太子殿下に伝えたとも考えられます。というのも、TBSは「皇室アルバム」を毎週放映している局だからです。毎日放送(MBS)制作の番組ですが、TBS系列で1959年からずっと放映されている番組であり、半世紀を越える民放の最長寿番組です。ひょっとしたら、とも思います。
憶測はさておき、あのような「強引な番組作り」に反発を覚えた人もいたでしょう。と同時に、もっといろんな卒業ソングを聞きたかったという人も多いと思います。卒業ソングには名曲が多いし、人それぞれの思い出が詰まっているのだから・・・・・・。
しかし私にとっては、柏原芳恵さんが『春なのに』を熱唱したシーンは大変に好ましいものでした。その理由はもちろん、『春なのに』が中島みゆき作詞・作曲の、屈指の名曲だからです。そして、そのことを改めて再認識できたからです。
中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』
本題は、中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』のことでした。その詩についてです。
中島さんは、他の歌手に提供した曲をセルフ・カバーしたアルバムを何枚か出していますが、この曲もアルバム『回帰熱』(1989)に収められています。『回帰熱』の最後を飾る曲が『春なのに』です。
「卒業」という言葉で始まるこの曲は、卒業ソングには違いありません。卒業ソングというと、普通、学園生活の思い出が語られ、クラスメートとの別れの悲しさがあり、今後始まる新しい人生への希望(や、ちょっぴりした不安)が語られるものです。
しかしこの詩は「別れ」が強調されていて、少女からみた少年との別れ = 失恋が語られています。卒業ソングというより「失恋ソング」と言った方が適切でしょう。その失恋も、少女からみて "結局自分の片思いだった" というあきらめ感が出ている。
というのは、"なじる" ような感じもあり、
というところは、「君の話はなんだったの」という少年の言葉に落胆し(ないしは愕然とし)、"大きな決意"をして言おうとしていたはずの言葉が言えなかった、その "少女のあきらめ感" が出ています。
シチュエーションとしては、少女の完全な片思いか、片思いではないにしろ、二人の思いのレベルには決定的な差があるという状況です。実は、No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」で書いたように、中島さんは「二人の "思い" のレベルに決定的な差がある状況での女性心理を描いた詩」を数々書いています。そういった一連の詩の一つと考えてよいでしょう。
この詩の場合、別れの契機は「卒業」です。季節は春で、すがすがしい青空が広がり、おそらく桜も咲きはじめているでしょう。少なくとも蕾は膨らんでいる。詩の中では、
と、たたみかけるように、しつこいぐらいに「春」が繰り返され、そのあいだに「涙」「ため息」「お別れ」「捨てる」といった言葉が散りばめられて、春とのキャップ感が強調されています。いい詩だと思います。
「マツコの知らない世界」の中で、マツコさんは「昔のアイドルはレベルが高い。アイドル=歌手だった」という意味の発言をしていましたが、確かにそうだと思います。付け加えると『春なのに』は、詩に加えて曲が素晴らしい。流れるような美しいメロディーが続きます。名曲とされるゆえんでしょう。昔のアイドルはこんな名曲を歌っていたと考えると(しかも作詞・作曲は中島みゆき!)、マツコさんの感想も納得が行くというものです。
ところで、『春なのに』から連想する、中島みゆきさんの別の作品があります。それは『春なのに』と同じく、
で、『春なのに』の続編と言ってもよい曲です。『少年たちのように』という曲で、No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも取り上げたのですが、そこでは簡単に触れただけだったので、『春なのに』つながりでもう一度書くことにします。
少年たちのように
三田寛子さんは、現在は歌舞伎役者の三代目 中村橋之助夫人ですが、元はというと柏原芳恵さんとおなじくアイドル歌手でした。その三田寛子さんが歌った中島みゆき作品に『少年たちのように』(1986)があります。
『少年たちのように』の詩の出だしは、
となっていて、これだけを聴くと「何のことか?」と思ってしまいますが、詩が進むにつれて次第に状況が明らかになってきます。ちなみに「女の胸」というは「女ごころ」と思えるし、もっと直接的に少女の体の胸という意味を含めてもいいと思います。
次第に明らかになってくる状況は「春」と「別れ」という2点で『春なのに』と共通しています。「春咲く柳」「春は咲き」「春は行き」「春は降り」と、春が続くところなどは『春なのに』とよく似ている。「恋人ですか サヨナラですか」とありますが、その後に「せかされて むごい別れになる」とあり、「嗚呼 でもそれは」と出てきて「別れ」の詩だと分かります。
しかしこの詩は3つの点で『春なのに』とは違っている。まず第1点は「別れ」の背景が卒業とは限らないことです。「季節(春)があなた(少年)を困らせている」とあるので、その困ってしまう契機は普通に考えると卒業でしょうが、あえて卒業とはしてありません。卒業よりもっと抽象化され一般化された「春の別れ」と受けとった方が、より詩の味わいが増すと思います。「春は降り」とあるので、"まるで空から降ってくるかように" あたり一面に春の雰囲気が充満しています。木々の新芽が膨らみ、花が開花し、自然が生き生きと復活している。それとは全くの対極にある「むごい別れ」がテーマになっています。「春の別れ」よりもっと強い表現の、「春が降る中での、むごい別れ」です。
2番目は、この詩のポイントとも言えるところですが、少女(主人公)が「少年のようになりたい」と願うことで、少女が抱く別れの悲しみが表現されていることです。そもそも題名が「少年たちのように」であり、これを含んで、
などは、少年たちのようになりたいということの具体的表現です。主人公が少年たちを妬み、そして少年たちのようになりたいと願うのは、少年に変身してしまえば「ともだちでいられる」し「裸足でじゃれあう」こともできるからです。つまり、女性であることからくる恋心のつらさ、そこから引き起こされた別離の悲しみを断ち切りたいのです。
「髪を短く切る」という表現がありますが、中島さんの詩においては(特に1980年代かそれ以前の詩では)「長い髪」が「恋をする存在としての女性」の象徴になっています。このことは別にめずらしくはありません。女性が失恋して心気一転のために髪を切る、というのもよく聞く話です。しかし中島さんの(そしてこの詩の)「髪を切る」は、「少年たちのようになるため」という理由が第一義なのですね。そこがこの詩のポイントであり、題名そのものです。中島さんの初期の作品に似たコンセプトの詩がありました。そのものズバリ『髪』という詩です。
『少年たちのように』が『春なのに』と違っている点の3番目は、単に「別れの悲しみ」を表しているだけではなく、人が抱く「深い孤独感」をダイレクトに表現していることです。No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも引用したのですが、次の部分です。
こういう言葉の使い方は、単に少女が少年と別れて孤独を味わっている、というようなものではありません。人が人生のさまざまな局面で味わう強い孤独感、自分と自分以外のものとの間の大きな距離感や断絶感が、「昨日の国」「日暮れ」「ボール」「コツリ」「返せる近さ」などの言葉の連鎖で的確にとらえられています。これしかないと思わせる適切な言葉を次々と繰り出していって、人の感情の奥深いところをピタリと表現する・・・・・・。中島さんの詩人としての才能が光っています。
『春なのに』は、"卒業と別れ" というテーマの詩でしたが、『少年たちのように』は突き詰められた別れの表現であり、人の心理の洞察であり、人が抱く孤独感を言語化した作品だという気がします。
10代後半の感情と経験
実質的な失恋ソングである『春なのに』はまだしも、『少年たちのように』は "アイドル歌手" が歌うにはふさわしくない曲のように感じられるかも知れません。
しかしそう思ってしまうのは、我々が現代のアイドルの感覚で昔の(30年前の)アイドルを見てしまうからなのですね。まさに「マツコの知らない世界」の番組でマツコさんが言っていたように「昔のアイドルは歌手だった」のです。「歌手」だと考えると『春なのに』も『少年たちのように』も違和感はありません。松任谷(荒井)由実さんの『ひこうき雲』は "死" をテーマしていますが、彼女が19才で発表した曲です。それから考えると、10代後半の女の子が感情をこめて失恋を歌うのは当然だし、失恋からくる深い孤独感を歌ってもよい。そういう経験をしても全くおかしくない年齢です。中島さんがそういう作品を "アイドル歌手" に提供しても、それはクリエーターとしては自然だと思います。
『春なのに』も『少年たちのように』も、10代後半の少女の感情をテーマに書かれた詩です。大人になる前の10代の少年・少女は、人生でその時にしかもてない感情に動かされ、その時にしかできない経験をし、それが人格を形づくります。10代が人生にとって貴重な時期であることは、少年・少女を主人公にした傑作小説が大人によって数多く書かれてきたことで実証されているでしょう。
中島さんが10代の少女を主人公にした詩を10代の少女歌手に提供するということも、それと同じことかと思います。2曲とも、中島さんが30代前半に書いた作品です。
2019年5月1日に平成から令和に改元された前後、TV番組では上皇・上皇后陛下、天皇・皇后陛下のこの数十年の "歩み" がいろいろと特集されました。その中で、ある情報番組を見ていたら、天皇陛下が浩宮親王の時代に柏原芳恵さんのコンサートに行かれた様子の動画が紹介されていました。
1986年10月19日の新宿厚生年金会館のロビーで柏原さん(当時21歳)が陛下(当時26歳)を迎え、写真集をプレゼントしています。陛下はそのお返しに、お住まいだった東宮御所の庭でとったピンクの薔薇を一輪、渡されていました。番組によると "一輪の薔薇" の花言葉は「一目ぼれ。あなたしかいない」とのことです。柏原さんはこの薔薇をドライフラワーにして今でも大切に持っているそうです。このブログの本文中に「花束を贈呈」と書いたのはちょっと不正確で、「束」ではなく「一輪の薔薇」が正解でした。それも "自宅の庭の薔薇" というのがポイントです。
この動画シーンで流れた曲が、やはりというか、中島みゆき作詞・作曲の「春なのに」です。この曲をテレビで聴いたのは、2016年2月23日(陛下の誕生日)に放映された「マツコの知らない世界」(TBS)以来、3年ぶりだったというわけでした。
2016年2月23日(火)にTBSで放映された「マツコの知らない世界」では "卒業ソング" が特集されていました。ここに柏原芳恵さんがサプライズ登場し、『春なのに』(1983)を歌いました。マツコさんは柏原さんに「変わらない」「相変わらず素敵な胸で」と言っていましたね。確かに50歳(1965年生まれ)にしてはお美しい姿で、マツコさんの発言も分かります。失礼ながら、歌は現役時代のほうがうまいと思いました。高音が少し出にくく微妙な音程だった気がします。しかしそれはやむを得ないというものでしょう。
この「柏原芳恵・サプライズ登場」を見て思ったのは、テレビ局の(テレビ業界の)"番組制作力" はあなどれないということでした。もちろん視聴者の中には、卒業ソング特集だったはずが、途中から柏原芳恵特集になってしまう、この「強引さ」に違和感や反発を覚えた人がいたでしょう。だけど話は全く逆では?と想像します。はじめから柏原芳恵特集として企画されたのでは、と思うのですね。そのポイントは、
・ | 放送日の2月23日は皇太子殿下の誕生日であり | ||
・ | 殿下が若い時には柏原芳恵ファンだった |
という点です。Wikipedia情報によると皇太子殿下は、皇太子になる以前の浩宮の時代に柏原芳恵さんのリサイタルにお忍びで行かれ、花束まで贈呈されたそうです。ロンドンに留学されていたころには部屋に柏原さんのポスターが貼ってあった、というような話もあります。おそらく、この番組のディレクター(ないしは今回の番組の企画をした人。あるいは企画をTBSに売り込んだ人)は次のように考えたのではないでしょうか。
◆ | 2月23日は皇太子殿下の誕生日だ。 | ||
◆ | この日にあわせて、かつて皇太子殿下がファンだった柏原芳恵を番組にサプライズ登場させよう。 | ||
◆ | 柏原芳恵の代表曲に『春なのに』がある。 | ||
◆ | 『春なのに』は卒業ソングだ。 | ||
◆ | だったら、この日の「マツコの知らない世界」を「卒業ソング」特集ということにしてしまおう。そして柏原芳恵を登場させよう。 |
つまり、柏原芳恵さんの出演を大前提として考えたとき、番組制作サイドとしては、
① | 柏原芳恵さんが2月23日にサプライズ登場 | ||
② | 2月23日は皇太子殿下の誕生日(恒例の記者会見がニュースで放映される) | ||
③ | 皇太子殿下は、かつて柏原芳恵さんのファン |
の3つが揃えば、これで話題にならないはずがないと読んだのではないでしょうか。この3つの一致は偶然にしてはでき過ぎています。「卒業ソング特集」あくまで "前振り" に過ぎず、本番はサプライズ登場、そいういう風に思いました。番組の作り方としての善悪は別にして、テレビ業界の(TBSの)バイタリティーを感じたし、この記事の最初の方に "あなどれない" と書いたのも、その感想の一環です。
このサプライズ登場は、隠れた「殿下へのプレゼント」という意味があったのかもしれません。TBSの上層部は内々に宮内庁を通して皇太子殿下に伝えたとも考えられます。というのも、TBSは「皇室アルバム」を毎週放映している局だからです。毎日放送(MBS)制作の番組ですが、TBS系列で1959年からずっと放映されている番組であり、半世紀を越える民放の最長寿番組です。ひょっとしたら、とも思います。
憶測はさておき、あのような「強引な番組作り」に反発を覚えた人もいたでしょう。と同時に、もっといろんな卒業ソングを聞きたかったという人も多いと思います。卒業ソングには名曲が多いし、人それぞれの思い出が詰まっているのだから・・・・・・。
しかし私にとっては、柏原芳恵さんが『春なのに』を熱唱したシーンは大変に好ましいものでした。その理由はもちろん、『春なのに』が中島みゆき作詞・作曲の、屈指の名曲だからです。そして、そのことを改めて再認識できたからです。
中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』
本題は、中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』のことでした。その詩についてです。
中島さんは、他の歌手に提供した曲をセルフ・カバーしたアルバムを何枚か出していますが、この曲もアルバム『回帰熱』(1989)に収められています。『回帰熱』の最後を飾る曲が『春なのに』です。
①黄砂に吹かれて、②肩幅の未来、③あり、か、④群衆、⑤ロンリー カナリア、⑥くらやみ乙女、⑦儀式(セレモニー)、⑧未完成、⑨春なのに
|
|
「卒業」という言葉で始まるこの曲は、卒業ソングには違いありません。卒業ソングというと、普通、学園生活の思い出が語られ、クラスメートとの別れの悲しさがあり、今後始まる新しい人生への希望(や、ちょっぴりした不安)が語られるものです。
しかしこの詩は「別れ」が強調されていて、少女からみた少年との別れ = 失恋が語られています。卒業ソングというより「失恋ソング」と言った方が適切でしょう。その失恋も、少女からみて "結局自分の片思いだった" というあきらめ感が出ている。
会えなくなるねと 右手を出して さみしくなるよ それだけですか |
というのは、"なじる" ような感じもあり、
卒業しても 白い喫茶店 今までどおりに 会えますねと 君の話はなんだったのと きかれるまでは 言う気でした |
というところは、「君の話はなんだったの」という少年の言葉に落胆し(ないしは愕然とし)、"大きな決意"をして言おうとしていたはずの言葉が言えなかった、その "少女のあきらめ感" が出ています。
シチュエーションとしては、少女の完全な片思いか、片思いではないにしろ、二人の思いのレベルには決定的な差があるという状況です。実は、No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」で書いたように、中島さんは「二人の "思い" のレベルに決定的な差がある状況での女性心理を描いた詩」を数々書いています。そういった一連の詩の一つと考えてよいでしょう。
この詩の場合、別れの契機は「卒業」です。季節は春で、すがすがしい青空が広がり、おそらく桜も咲きはじめているでしょう。少なくとも蕾は膨らんでいる。詩の中では、
春なのに、春なのに、春・・・、春・・・ |
と、たたみかけるように、しつこいぐらいに「春」が繰り返され、そのあいだに「涙」「ため息」「お別れ」「捨てる」といった言葉が散りばめられて、春とのキャップ感が強調されています。いい詩だと思います。
「マツコの知らない世界」の中で、マツコさんは「昔のアイドルはレベルが高い。アイドル=歌手だった」という意味の発言をしていましたが、確かにそうだと思います。付け加えると『春なのに』は、詩に加えて曲が素晴らしい。流れるような美しいメロディーが続きます。名曲とされるゆえんでしょう。昔のアイドルはこんな名曲を歌っていたと考えると(しかも作詞・作曲は中島みゆき!)、マツコさんの感想も納得が行くというものです。
ところで、『春なのに』から連想する、中島みゆきさんの別の作品があります。それは『春なのに』と同じく、
◆ | 春の別れをテーマとし、 | ||
◆ | 中島さんがアイドル歌手に提供した曲 |
で、『春なのに』の続編と言ってもよい曲です。『少年たちのように』という曲で、No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも取り上げたのですが、そこでは簡単に触れただけだったので、『春なのに』つながりでもう一度書くことにします。
少年たちのように
三田寛子さんは、現在は歌舞伎役者の三代目 中村橋之助夫人ですが、元はというと柏原芳恵さんとおなじくアイドル歌手でした。その三田寛子さんが歌った中島みゆき作品に『少年たちのように』(1986)があります。
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「中島みゆき ソング・ライブラリー」は、中島みゆきが他の歌手に提供した曲(ないしは他の歌手が中島みゆきをカバーした曲)のオリジナル音源を集めたコンピレーション・アルバムで、第5集まである。「少年たちのように」は第3集に収められている。
「ソング・ライブラリー」の曲は、中島みゆきがアルバムでセルフ・カバーした曲が多いが、中にはそうではない「少年たちのように」のような曲もあり、貴重なCDである。「窓ガラス」(研ナオコ)も同じである。 ちなみに第3集の収録曲は、①すずめ(増田けい子)、②FU-JI-TSU(工藤静香)、③煙草(古手川祐子)、④美貌の都(郷ひろみ)、⑤みにくいあひるの子(研ナオコ)、⑥海と宝石(松坂慶子)、⑦少年たちのように(三田寛子)、⑧命日(日吉ミミ)、⑨帰っておいで(ちあきなおみ)、⑩りばいばる(研ナオコ)、⑪最愛(柏原芳恵)、⑫しあわせ芝居(桜田順子) |
『少年たちのように』の詩の出だしは、
女の胸は春咲く柳 逆らいながら春咲く柳 私は髪を短く切って 少年たちを妬んでいます |
となっていて、これだけを聴くと「何のことか?」と思ってしまいますが、詩が進むにつれて次第に状況が明らかになってきます。ちなみに「女の胸」というは「女ごころ」と思えるし、もっと直接的に少女の体の胸という意味を含めてもいいと思います。
次第に明らかになってくる状況は「春」と「別れ」という2点で『春なのに』と共通しています。「春咲く柳」「春は咲き」「春は行き」「春は降り」と、春が続くところなどは『春なのに』とよく似ている。「恋人ですか サヨナラですか」とありますが、その後に「せかされて むごい別れになる」とあり、「嗚呼 でもそれは」と出てきて「別れ」の詩だと分かります。
しかしこの詩は3つの点で『春なのに』とは違っている。まず第1点は「別れ」の背景が卒業とは限らないことです。「季節(春)があなた(少年)を困らせている」とあるので、その困ってしまう契機は普通に考えると卒業でしょうが、あえて卒業とはしてありません。卒業よりもっと抽象化され一般化された「春の別れ」と受けとった方が、より詩の味わいが増すと思います。「春は降り」とあるので、"まるで空から降ってくるかように" あたり一面に春の雰囲気が充満しています。木々の新芽が膨らみ、花が開花し、自然が生き生きと復活している。それとは全くの対極にある「むごい別れ」がテーマになっています。「春の別れ」よりもっと強い表現の、「春が降る中での、むごい別れ」です。
2番目は、この詩のポイントとも言えるところですが、少女(主人公)が「少年のようになりたい」と願うことで、少女が抱く別れの悲しみが表現されていることです。そもそも題名が「少年たちのように」であり、これを含んで、
・ | 髪を短く切る | ||
・ | 荒げたことばをかじってみる | ||
・ | 兄のシャツを着る |
などは、少年たちのようになりたいということの具体的表現です。主人公が少年たちを妬み、そして少年たちのようになりたいと願うのは、少年に変身してしまえば「ともだちでいられる」し「裸足でじゃれあう」こともできるからです。つまり、女性であることからくる恋心のつらさ、そこから引き起こされた別離の悲しみを断ち切りたいのです。
「髪を短く切る」という表現がありますが、中島さんの詩においては(特に1980年代かそれ以前の詩では)「長い髪」が「恋をする存在としての女性」の象徴になっています。このことは別にめずらしくはありません。女性が失恋して心気一転のために髪を切る、というのもよく聞く話です。しかし中島さんの(そしてこの詩の)「髪を切る」は、「少年たちのようになるため」という理由が第一義なのですね。そこがこの詩のポイントであり、題名そのものです。中島さんの初期の作品に似たコンセプトの詩がありました。そのものズバリ『髪』という詩です。
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『少年たちのように』が『春なのに』と違っている点の3番目は、単に「別れの悲しみ」を表しているだけではなく、人が抱く「深い孤独感」をダイレクトに表現していることです。No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも引用したのですが、次の部分です。
昨日の国から抜け出るように 日暮れをボールが転がってくる つま先コツリと受けとめるけど 返せる近さに誰も無い |
こういう言葉の使い方は、単に少女が少年と別れて孤独を味わっている、というようなものではありません。人が人生のさまざまな局面で味わう強い孤独感、自分と自分以外のものとの間の大きな距離感や断絶感が、「昨日の国」「日暮れ」「ボール」「コツリ」「返せる近さ」などの言葉の連鎖で的確にとらえられています。これしかないと思わせる適切な言葉を次々と繰り出していって、人の感情の奥深いところをピタリと表現する・・・・・・。中島さんの詩人としての才能が光っています。
『春なのに』は、"卒業と別れ" というテーマの詩でしたが、『少年たちのように』は突き詰められた別れの表現であり、人の心理の洞察であり、人が抱く孤独感を言語化した作品だという気がします。
10代後半の感情と経験
実質的な失恋ソングである『春なのに』はまだしも、『少年たちのように』は "アイドル歌手" が歌うにはふさわしくない曲のように感じられるかも知れません。
しかしそう思ってしまうのは、我々が現代のアイドルの感覚で昔の(30年前の)アイドルを見てしまうからなのですね。まさに「マツコの知らない世界」の番組でマツコさんが言っていたように「昔のアイドルは歌手だった」のです。「歌手」だと考えると『春なのに』も『少年たちのように』も違和感はありません。松任谷(荒井)由実さんの『ひこうき雲』は "死" をテーマしていますが、彼女が19才で発表した曲です。それから考えると、10代後半の女の子が感情をこめて失恋を歌うのは当然だし、失恋からくる深い孤独感を歌ってもよい。そういう経験をしても全くおかしくない年齢です。中島さんがそういう作品を "アイドル歌手" に提供しても、それはクリエーターとしては自然だと思います。
『春なのに』も『少年たちのように』も、10代後半の少女の感情をテーマに書かれた詩です。大人になる前の10代の少年・少女は、人生でその時にしかもてない感情に動かされ、その時にしかできない経験をし、それが人格を形づくります。10代が人生にとって貴重な時期であることは、少年・少女を主人公にした傑作小説が大人によって数多く書かれてきたことで実証されているでしょう。
中島さんが10代の少女を主人公にした詩を10代の少女歌手に提供するということも、それと同じことかと思います。2曲とも、中島さんが30代前半に書いた作品です。
(続く)
 補記  |
2019年5月1日に平成から令和に改元された前後、TV番組では上皇・上皇后陛下、天皇・皇后陛下のこの数十年の "歩み" がいろいろと特集されました。その中で、ある情報番組を見ていたら、天皇陛下が浩宮親王の時代に柏原芳恵さんのコンサートに行かれた様子の動画が紹介されていました。
1986年10月19日の新宿厚生年金会館のロビーで柏原さん(当時21歳)が陛下(当時26歳)を迎え、写真集をプレゼントしています。陛下はそのお返しに、お住まいだった東宮御所の庭でとったピンクの薔薇を一輪、渡されていました。番組によると "一輪の薔薇" の花言葉は「一目ぼれ。あなたしかいない」とのことです。柏原さんはこの薔薇をドライフラワーにして今でも大切に持っているそうです。このブログの本文中に「花束を贈呈」と書いたのはちょっと不正確で、「束」ではなく「一輪の薔薇」が正解でした。それも "自宅の庭の薔薇" というのがポイントです。
この動画シーンで流れた曲が、やはりというか、中島みゆき作詞・作曲の「春なのに」です。この曲をテレビで聴いたのは、2016年2月23日(陛下の誕生日)に放映された「マツコの知らない世界」(TBS)以来、3年ぶりだったというわけでした。
(2019.5.8)
No.154 - ドラクロワが描いたパガニーニ [音楽]
No.124「パガニーニの主題による狂詩曲」では、ラフマニノフがパガニーニの主題にもとづいて作曲した狂詩曲(= 変奏曲形式のピアノ協奏曲)をとりあげました。この曲が、ラフマニノフのパガニーニに対する強いリスペクトによるものだという主旨です。今回はそのパガニーニに関する話です。
フィリップス・コレクション
アメリカの首都・ワシントン D.C.にある美術館の話からはじめます。今までの記事で、ワシントン D.C.の2つの美術館の絵を紹介しました。
の2つです。私は一度だけワシントン D.C.に行ったことがあるのですが、その時は光琳の『群鶴図屏風』は展示してありませんでした。しかし運良く日本で『群鶴図屏風』の精密な複製(キヤノン株式会社 制作)を見られたのは、No.85 に書いた通りです。
ワシントン D.C.には上記の2つのギャラリー以外にも "スミソニアン博物館群" があります。自然史博物館とか航空宇宙博物館など、観光で訪れても飽きることがありません。しかしもう一つ(美術好きなら)見逃せないミュージアムがあります。フィリップス・コレクションです。
フィリップス・コレクションは、ダンカン・フィリップス(1886-1966)が1921年に創設した美術館です。その建物はフィリップスの邸宅を改造したもので、いかにも個人コレクションらしい。ヨーロッパ近代絵画やアメリカの20世紀絵画の収集で有名ですが、最もよく知られているのは、ルノワールの『舟遊びの昼食』でしょう。パリ郊外に出かけてボートで遊ぶという、当時の先端の風俗を反映した、いかにも印象派らしい絵であり、明るい色彩の作品です。
このフィリップス・コレクションが所蔵する多数の作品の中に、ドラクロワが描いたパガニーニの演奏姿があります。
ドラクロワ『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』
『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』は、フィリップス・コレクションの中では見逃してしまいそうな小品(30cm×45cm)です。しかし、モデルがモデルだけに音楽好きには印象深い。しかも描いたのはドラクロワです。
ドラクロワは友人のショパンの肖像を描いていますね。ルーブル美術館にある有名な絵は、ショパンの肖像画としては代表的なものです。それに対し、パガニーニは演奏中の姿です。つまりこの絵は、
というところに価値があるでしょう。
今までの記事で、絵の解説として中野京子さんの文章を多数引用してきましたが、今回もそうします。まず、この絵が描かれるまでの背景というか、パガニーニのパリ公演までの話です。
中野さんも続く文章で書いているのですが、パガニーニはヴァイオリンの演奏技術や音色が驚嘆すべきものだっただけではありません。彼が作った曲も大変に魅力的だった。でないと、パガニーニにもとづく変奏曲や編曲が続々と作られることはなかったでしょう。これらの「パガニーニを踏まえた作品」で最も有名なのが、
です。中野さんの文章の引用を続けます。
ここまでは前置きです。話の本筋はパガニーニの「パリ初演」でした。その初演の会場に、当時の新進気鋭の画家であるドラクロワもいました。
ラフマニノフもマルファン症候群ではと言われることがありますね。しかし中野さんも書いているように、研究者はその「可能性を示唆」しているわけであって、あくまで伝えられる外見からの推測です。パガニーニの遺体からDNAを採取し遺伝子検査をすれば断定できるとは思いますが・・・・・・。ひょっとしたら「マルファン症候群説」は、後世にできた「パガニーニ伝説」の一つなのかもしれないと思ったりします。しかしそうだとしても確実に言えることは、さまざまな伝説が生まれるほど同時代の人たちはパガニーニの演奏を「聴いて」また「見て」全く驚いてしまい、それが後世にも伝わったいうことです。
だだし、同時代人であるドラクロワの描いたパガニーニは、単に風貌を描いた以上のものになっています。次に引用する部分が、この絵についての評論の核心部分です(下線は原文にはありません)。
我々はパガニーニの演奏を知りません。しかし、生演奏を聴いたドラクロワが捉えたパガニーニの姿、およびそれについての中野さんの「自らが奏でた音の神秘を味わい尽くすかのように、静けさの極みにある」という解釈に共感します。パガニーニの演奏は、おそらくそうだったのだろうと強く思うのです。
なぜそう思うかというと、パガニーニが残した作品を現代の演奏で聞くと「きわめて繊細優美、ロマンティックな芳香に満ちている」からです。24のカプリースのような超絶技巧が連続する曲を聞いていると、どうしても技巧に耳を奪われて「繊細優美、ロマンティックな芳香」の部分が分かりにくいのですが、パガニーニの音楽の本質はそうなのです。以下に、そのことを最もよく示していると思うパガニーニ作品をとりあげてみたいと思います。
音楽の陶酔:ヴァイオリンとギターのための作品全集
パガニーニはヴァイオリンの奇才であっただけでなく、ギターやマンドリンの名手でした。そのパガニーニがヴァイオリンとギターのために作曲した曲が相当数あります。
パガニーニの生誕地であるジェノヴァに "DYNAMIC" という音楽レーベルがあるのですが、そこから『ヴァイオリンとギターのための作品全集』が発売されています(9枚組みCD)。私の愛聴CDの一つですが、ここに収録された曲を、パガニーニ作品目録番号(MS番号)の順に並べると以下のようです。
これらの曲の多くは、
というスタイルです。ただし中には、
もあります。歴史上、数多く作られた「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」で ①や② はよくあります。③ はモーツァルトの「ヴァイオリンとクラヴィーアのためのソナタ」がそうですね(特に初期の曲)。ヴァイオリンが伴奏に回っています。それと似ている。パガニーニの場合、ギターの柔らかい音色と、それを彩るヴァイオリンの華やかな伴奏がよくマッチしています。
ヴァイオリンとギターのデュエットなので、これらの曲は「どこでも演奏できる」ことに注目すべきでしょう。ウォークマンから始まってiPodやスマホなど、我々はどこででも音楽を聴くことに慣れきってしまいました。しかし一昔前までは、私的に音楽を聴くのは家の部屋しかなかった。さらに録音技術が発達する以前は生演奏しかなく、自分の居室で音楽を聴くには演奏家を呼ぶしかなかったわけです。ルッカ公国の宮廷音楽家であるパガニーニが、ギタリストを引き連れエリザ公の居室で演奏する・・・・・・。そのような姿を想像してしまいます。
「どこでも演奏できる独奏、ないしはデュエット」が器楽曲の原点でしょう。パガニーニのヴァイオリンとギターのデュエットを聴いていると、まさにその原点の感じがします。
全曲集におさめられたヴァイオリンとギターのための多くの作品には、ヴァイオリンの優美な音色とギターの優しい響きが充満しています。ただし、ここにはラフマニノフの「狂詩曲 第18変奏」のような、とびきり美しい旋律はありません。また狂詩曲のもとになったパガニーニ「カプリース 第24番」の主題のような、強く印象的なテーマがあるわけではない。
曲の構成も皆「似たり寄ったり」です。ソナタは判で押したように、緩・急の2部(楽章)構成か、急・緩・急の3部(楽章)構成です。でなければ、主題と数10曲の変奏というスタイルです。聴いている限り、演奏も比較的容易そうです。アマチュア・ヴァイオリニストの上位の方なら弾きこなせると思います。
全体的に、何かが突出しているわけではないが、優美で軽やかで、のびのびとしていて、繊細で、ロマンティックで、明るい詩情が溢れています。ときおり挟み込まれる激しい音の動きも含めて、ヴァイオリンの特質が引き出されています。それも、高度な演奏技術で引き出すのではなく、音の流れで本来の楽器のありようが出ている。その流れに、ギターの優しい音色が組み合わされ、聴いていて癒される感じがします。これは音楽の本質的な楽しみの一つだと思います。
もちろん、たとえばコンサート会場で『運命』を一音一音、聴き逃すまいとして聴き、気分が高揚して最後に大きな拍手をする・・・・・・というのも良いでしょう。しかしそうでない音楽の楽しみもある。
パガニーニの『ヴァイオリンとギターのための作品』は、静かに聴く音楽です。ただし BGM のように聞き流す「環境音楽」ではなく、音楽に耳を傾け、音楽がもたらす愉悦に静かに浸るためのものです。そして曲想というと、まさに中野さんが書いているように、
音楽です。それがパガニーニという音楽家の本質だと強く感じさせられます。
アーティストが描いたアーティスト
ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』に話を戻しますと、この絵は「超一流のアーティストが超一流のアーティストを描いた」作品です。そのため、パガニーニの演奏姿を描いたように見えて、それ以上のものになった。音楽好きのドラクロワは間違いなくパガニーニの演奏に驚いたはずです。しかし、描かれた絵は表面的な「驚き」に惑わされることなく、パガニーニの音楽の本質を突いたものとなった。このあたりが「みどころ」だと思います。
パガニーニは19世紀当時、悪魔と契約としてその演奏技術を手に入れたとまで噂された人です。しかし、現代の一流のヴァイオリ二ストはパガニーニの難曲をわけなく弾いてしまいますね。パガニーニ程度の演奏技術を持った人は、現代ではいっぱいいるということです。問題は、難曲を正確に弾けたとして、その上で人を感動させる「音楽」をそこから引き出せるかどうかです。
人を感動させるのは演奏技術ではなく、音楽が本質的にもっている「ちから」であり、メロディーやハーモニーが人に与える影響力だと強く思います。それはパガニーニの時代も現代も全く同じでしょう。
2019年10月20日の日本経済新聞・日曜版(NIKKEI The STYLE)の「美の粋」というコラムに、多摩美術大学の小川教授がパガニーニについて書かれていました。タイトルは「ヴァイオリンの神秘(下)時代を熱狂させた悪魔の超絶技巧」で、ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』も画像とともに紹介してあります。その文中にヴァイオリニストの庄司紗矢香さん(No.11 参照)の発言がありました。その部分を引用します。
庄司さんが、パガニーニの曲は「演奏者にベルカント的な歌い回しを求める」と言っているのは、なるほどと思いました。
もう一つ、庄司さんは(彼女にとっては)ヴィオラと同じくらいに大きいパガニーニ愛用のグァルネリで、苦労しながらも「カプリース第17番と第24番」を演奏したわけです。パガニーニ以降のヴァイオリン演奏技術の大進歩を感じました。
フィリップス・コレクション
アメリカの首都・ワシントン D.C.にある美術館の話からはじめます。今までの記事で、ワシントン D.C.の2つの美術館の絵を紹介しました。
◆ | ワシントン・ナショナル・ギャラリー
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◆ | フリーア美術館
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の2つです。私は一度だけワシントン D.C.に行ったことがあるのですが、その時は光琳の『群鶴図屏風』は展示してありませんでした。しかし運良く日本で『群鶴図屏風』の精密な複製(キヤノン株式会社 制作)を見られたのは、No.85 に書いた通りです。
ワシントン D.C.には上記の2つのギャラリー以外にも "スミソニアン博物館群" があります。自然史博物館とか航空宇宙博物館など、観光で訪れても飽きることがありません。しかしもう一つ(美術好きなら)見逃せないミュージアムがあります。フィリップス・コレクションです。
ルノワール
「舟遊びの昼食」 |
このフィリップス・コレクションが所蔵する多数の作品の中に、ドラクロワが描いたパガニーニの演奏姿があります。
フィリップス・コレクション
2つの建物が連結されて美術館になっている。入り口は奥の方の建物にある。
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ドラクロワ『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』
『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』は、フィリップス・コレクションの中では見逃してしまいそうな小品(30cm×45cm)です。しかし、モデルがモデルだけに音楽好きには印象深い。しかも描いたのはドラクロワです。
ドラクロワは友人のショパンの肖像を描いていますね。ルーブル美術館にある有名な絵は、ショパンの肖像画としては代表的なものです。それに対し、パガニーニは演奏中の姿です。つまりこの絵は、
演奏中の "大音楽家" の姿を、同時代の音楽好きの画家、しかも後世に大きな名を残した "大画家" が描いた |
というところに価値があるでしょう。
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』(1831)
(site : www.phillipscollection.org)
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今までの記事で、絵の解説として中野京子さんの文章を多数引用してきましたが、今回もそうします。まず、この絵が描かれるまでの背景というか、パガニーニのパリ公演までの話です。
|
中野さんも続く文章で書いているのですが、パガニーニはヴァイオリンの演奏技術や音色が驚嘆すべきものだっただけではありません。彼が作った曲も大変に魅力的だった。でないと、パガニーニにもとづく変奏曲や編曲が続々と作られることはなかったでしょう。これらの「パガニーニを踏まえた作品」で最も有名なのが、
『パガニーニ大練習曲』 | |||
『パガニーニの主題による変奏曲』 | |||
『パガニーニの主題による狂詩曲』 |
です。中野さんの文章の引用を続けます。
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ここまでは前置きです。話の本筋はパガニーニの「パリ初演」でした。その初演の会場に、当時の新進気鋭の画家であるドラクロワもいました。
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中野京子
「名画の謎・対決篇」 |
だだし、同時代人であるドラクロワの描いたパガニーニは、単に風貌を描いた以上のものになっています。次に引用する部分が、この絵についての評論の核心部分です(下線は原文にはありません)。
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我々はパガニーニの演奏を知りません。しかし、生演奏を聴いたドラクロワが捉えたパガニーニの姿、およびそれについての中野さんの「自らが奏でた音の神秘を味わい尽くすかのように、静けさの極みにある」という解釈に共感します。パガニーニの演奏は、おそらくそうだったのだろうと強く思うのです。
なぜそう思うかというと、パガニーニが残した作品を現代の演奏で聞くと「きわめて繊細優美、ロマンティックな芳香に満ちている」からです。24のカプリースのような超絶技巧が連続する曲を聞いていると、どうしても技巧に耳を奪われて「繊細優美、ロマンティックな芳香」の部分が分かりにくいのですが、パガニーニの音楽の本質はそうなのです。以下に、そのことを最もよく示していると思うパガニーニ作品をとりあげてみたいと思います。
ここからは、いったんドラクロワの絵と中野さんの評論から離れます。 |
音楽の陶酔:ヴァイオリンとギターのための作品全集
パガニーニはヴァイオリンの奇才であっただけでなく、ギターやマンドリンの名手でした。そのパガニーニがヴァイオリンとギターのために作曲した曲が相当数あります。
パガニーニの生誕地であるジェノヴァに "DYNAMIC" という音楽レーベルがあるのですが、そこから『ヴァイオリンとギターのための作品全集』が発売されています(9枚組みCD)。私の愛聴CDの一つですが、ここに収録された曲を、パガニーニ作品目録番号(MS番号)の順に並べると以下のようです。
Carmagnola con variazioni(主題と14の変奏) | |||
Sonata concertata | |||
Grande Sonata | |||
Entrata | |||
Sonatas Opera(6曲) | |||
Sonatas Opera(6曲) | |||
Sonatas Opera(6曲) | |||
Sonatas Opera(6曲) | |||
Sonatas Opera(6曲) | |||
Sei Sonate(6曲) | |||
Sei Sonate(6曲) | |||
Cantabile | |||
Variazioni sul Barucaba(主題と60の変奏) | |||
Allegro vivace | |||
Cantabile | |||
Sei Duetti(6曲) | |||
Duetto Amoroso(10曲) | |||
Centone di Sonate(18曲) | |||
Sonate di Lucca(6曲) | |||
Sonate di Lucca(6曲) |
これらの曲の多くは、
① | ヴァイオリンの独奏と、ギターによる伴奏 |
というスタイルです。ただし中には、
② | ヴァイオリンとギターを対等に(協奏的に)扱った曲 (MS002 - Sonata concertata など) | ||
③ | ギターの独奏と、ヴァイオリンによる伴奏 (MS003 - Grande Sonata)。 |
もあります。歴史上、数多く作られた「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」で ①や② はよくあります。③ はモーツァルトの「ヴァイオリンとクラヴィーアのためのソナタ」がそうですね(特に初期の曲)。ヴァイオリンが伴奏に回っています。それと似ている。パガニーニの場合、ギターの柔らかい音色と、それを彩るヴァイオリンの華やかな伴奏がよくマッチしています。
ヴァイオリンとギターのデュエットなので、これらの曲は「どこでも演奏できる」ことに注目すべきでしょう。ウォークマンから始まってiPodやスマホなど、我々はどこででも音楽を聴くことに慣れきってしまいました。しかし一昔前までは、私的に音楽を聴くのは家の部屋しかなかった。さらに録音技術が発達する以前は生演奏しかなく、自分の居室で音楽を聴くには演奏家を呼ぶしかなかったわけです。ルッカ公国の宮廷音楽家であるパガニーニが、ギタリストを引き連れエリザ公の居室で演奏する・・・・・・。そのような姿を想像してしまいます。
「どこでも演奏できる独奏、ないしはデュエット」が器楽曲の原点でしょう。パガニーニのヴァイオリンとギターのデュエットを聴いていると、まさにその原点の感じがします。
全曲集におさめられたヴァイオリンとギターのための多くの作品には、ヴァイオリンの優美な音色とギターの優しい響きが充満しています。ただし、ここにはラフマニノフの「狂詩曲 第18変奏」のような、とびきり美しい旋律はありません。また狂詩曲のもとになったパガニーニ「カプリース 第24番」の主題のような、強く印象的なテーマがあるわけではない。
曲の構成も皆「似たり寄ったり」です。ソナタは判で押したように、緩・急の2部(楽章)構成か、急・緩・急の3部(楽章)構成です。でなければ、主題と数10曲の変奏というスタイルです。聴いている限り、演奏も比較的容易そうです。アマチュア・ヴァイオリニストの上位の方なら弾きこなせると思います。
・・・・・・ と思って聞いていると、突如、超絶技巧が始まったりするので油断はできません(左手のピッツィカートと弓で引く部分が速いスピードで交錯するような曲、など)。しかしそういうのはごく少ない。「技巧」が曲づくりの主眼にはなっていません。 |
全体的に、何かが突出しているわけではないが、優美で軽やかで、のびのびとしていて、繊細で、ロマンティックで、明るい詩情が溢れています。ときおり挟み込まれる激しい音の動きも含めて、ヴァイオリンの特質が引き出されています。それも、高度な演奏技術で引き出すのではなく、音の流れで本来の楽器のありようが出ている。その流れに、ギターの優しい音色が組み合わされ、聴いていて癒される感じがします。これは音楽の本質的な楽しみの一つだと思います。
もちろん、たとえばコンサート会場で『運命』を一音一音、聴き逃すまいとして聴き、気分が高揚して最後に大きな拍手をする・・・・・・というのも良いでしょう。しかしそうでない音楽の楽しみもある。
パガニーニの『ヴァイオリンとギターのための作品』は、静かに聴く音楽です。ただし BGM のように聞き流す「環境音楽」ではなく、音楽に耳を傾け、音楽がもたらす愉悦に静かに浸るためのものです。そして曲想というと、まさに中野さんが書いているように、
繊細優美、ロマンティックな芳香に満ちている |
音楽です。それがパガニーニという音楽家の本質だと強く感じさせられます。
DYNAMICレーベルで発売された、パガニーニのヴァイオリンとギターのための曲集(全集の前に発売されたCD)。 |
( site : www.dynamic.it ) |
アーティストが描いたアーティスト
ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』に話を戻しますと、この絵は「超一流のアーティストが超一流のアーティストを描いた」作品です。そのため、パガニーニの演奏姿を描いたように見えて、それ以上のものになった。音楽好きのドラクロワは間違いなくパガニーニの演奏に驚いたはずです。しかし、描かれた絵は表面的な「驚き」に惑わされることなく、パガニーニの音楽の本質を突いたものとなった。このあたりが「みどころ」だと思います。
パガニーニは19世紀当時、悪魔と契約としてその演奏技術を手に入れたとまで噂された人です。しかし、現代の一流のヴァイオリ二ストはパガニーニの難曲をわけなく弾いてしまいますね。パガニーニ程度の演奏技術を持った人は、現代ではいっぱいいるということです。問題は、難曲を正確に弾けたとして、その上で人を感動させる「音楽」をそこから引き出せるかどうかです。
人を感動させるのは演奏技術ではなく、音楽が本質的にもっている「ちから」であり、メロディーやハーモニーが人に与える影響力だと強く思います。それはパガニーニの時代も現代も全く同じでしょう。
 補記:庄司紗矢香  |
2019年10月20日の日本経済新聞・日曜版(NIKKEI The STYLE)の「美の粋」というコラムに、多摩美術大学の小川教授がパガニーニについて書かれていました。タイトルは「ヴァイオリンの神秘(下)時代を熱狂させた悪魔の超絶技巧」で、ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』も画像とともに紹介してあります。その文中にヴァイオリニストの庄司紗矢香さん(No.11 参照)の発言がありました。その部分を引用します。
|
庄司さんが、パガニーニの曲は「演奏者にベルカント的な歌い回しを求める」と言っているのは、なるほどと思いました。
もう一つ、庄司さんは(彼女にとっては)ヴィオラと同じくらいに大きいパガニーニ愛用のグァルネリで、苦労しながらも「カプリース第17番と第24番」を演奏したわけです。パガニーニ以降のヴァイオリン演奏技術の大進歩を感じました。
ジェノヴァ市役所に展示されている「グァルネリ・デル・ジェス イル・カノーネ」。パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールの優勝者に演奏する機会が与えられる。 |
(日本経済新聞 2019.10.20) |
(2019.10.22)
No.153 - 中島みゆきの詩(7)樋口一葉 [音楽]
今までに、中島みゆきの詩に関して7つの記事を書きました。
No. 35 - 中島みゆき「時代」
No. 64 - 中島みゆきの詩( 1)自立する言葉
No. 65 - 中島みゆきの詩( 2)愛を語る言葉
No. 66 - 中島みゆきの詩( 3)別れと出会い
No. 67 - 中島みゆきの詩( 4)社会と人間
No. 68 - 中島みゆきの詩( 5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩( 6)メディアと黙示録
の7つですが、今回はその続きです。
日本文学からの引用
No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」で、《重き荷を負いて》(A2006『ララバイSINGER』)という曲の題名は、徳川家康の遺訓である「人の一生は、重き荷を負いて遠き道を行くがごとし」を連想させると書きました。あくまで連想に過ぎないのですが、こういう連想が働くのも、中島作品には日本の歴史や文化に根ざした詩がいろいろあるからで、たとえば、
などがある、としました。ここにあげたのは題名が「日本関連」のもので、その内容は小説・神話・宗教・文化など、さまざまです。
しかし中島さんの詩の中には、題名には現れてはいないが、日本文学、それも明治時代の小説にストレートに影響されたと考えられる作品があります。今回はその話で、《帰れない者たちへ》(A2005『転生』)という作品です。
帰れない者たちへ
《帰れない者たちへ》は、2005年のアルバム『転生』に収められた曲で、その詩を引用すると次の通りです。
この詩は樋口一葉の小説『十三夜』を踏まえて作られていると思います。その理由ですが、まず「十三夜」という、現代ではあまり馴染みのない昔の風習(後述)が詩のキーワードになっていることです。しかし、それだけでは偶然の一致ということも考えられる。「十三夜」というタイトルの曲を書いた人もいるぐらいです(谷村新司)。
樋口一葉の小説を踏まえているとする大きな理由は、詩のタイトルと内容に小説との本質的な類似点があることです。以下にそれを順に書いてみます。
樋口一葉『十三夜』
『十三夜』は樋口一葉(明治5 - 明治29。1872-1896)が明治28年(1895。23歳)に発表した小説です。この年、一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「ゆく雲」「十三夜」と、たて続けに名作を発表しました。その翌年の明治29年春には結核が悪化し、年の暮れには息を引き取ります。樋口一葉の作家としてのピークはほんの1年少々ですが、その短い期間に彼女は次々と日本文学史上に残る傑作を書いた。その一つが『十三夜』です。
「十三夜」は、かつては「十五夜」と並ぶ「お月見」の日でした。旧暦(太陰暦)の8月15日は、いわゆる中秋の名月 = 十五夜です。現代では9月の秋分の日の前後の満月の日を中秋の名月としています。一方、旧暦の9月13日の十三夜にも月見をする風習が江戸期にはあり、これを「後の月」などと言っていました。そして、両方の月見をするのが正式であり、一方だけでは「片月見」といって縁起が悪いとされていました。樋口一葉の『十三夜』には「片月見」という言葉とともに「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれど・・・・・・」と出てきます。明治28年の段階では、十三夜の月見は「旧弊」と意識されていたようです。
樋口一葉の『十三夜』は、次のようなあらすじの小説です。
主人公の "お関" は、高級官僚・原田勇の妻で、一人息子の太郎の母です。実家の斉藤家は貧しい庶民ですが、お関が17歳のとき、遊んでいるところをたまたま通りかかった原田がお関を見染め、是非にと請われて嫁に行ったのでした。当初、お関は大切にされましたが、太郎が生まれると原田は人が違ったように、お関に辛くあたるようになります。お関は、今では原田から精神的虐待を受ける日々を送っています(ちなみに原文では阿関となっている)。
物語は(上)と(下)の二つに分かれています。まず(上)は、旧暦9月13日の夜、お関が離縁を決意して実家の斉藤家を人力車で訪れるところから始まります。突然の来訪に両親は驚きますが、もちろん久しぶりに会うお関を歓待します。弟の亥之助は、たまたま夜学に行って不在でした。
お関は思い切って、離縁したいと打ち明けます。原田は毎日小言が絶えず、女中の前でもお関の不器用なところを並べ立てる。二言目には「教育がない」と、お関の出自を蔑む。家の中がつまらないのはお関のせいだと、理由もなしに罵る。太郎の乳母として置いてやっているのだと嘲る。一昨日に出かける時も、着物のそろえ方が悪いといって着物をたたきつけ、洋服を着て出ていった・・・・・・。お関は、息子の太郎と別れるのは忍びないが、原田の家には戻らない、実家に置いてほしいと訴えます。
お関の母親は同情します。元々、お関は請われて嫁がせたものだ、それを、親なし子をもらったように扱うのは何だ、自分も身分の差を考えて娘に会いに行きたいのを我慢してきた、女中の前でそんな扱いを受けたのでは太郎も母親をバカにするだろう、今までが我慢のし過ぎだよ・・・・・・。
しかし父親は、お関に深く同情しながらも、お関を諭します。身分差があるのだから考えや思うことに違いが出てくるのは当然だ。原田さんも勤めの不平を家に帰ってぶちまけているのかもしれない。原田の妻という座を捨てて世間に笑われてもいいのか。亥之助が就職できたのも原田さんの口添えがあったからこそだ。それに太郎はどうする。離縁して継母がくれば二度と会えないのだぞ。どうせ不幸に泣くなら原田の妻で泣け。おまえの涙は亥之助を含め、我々家族が分かち合うよ・・・・・・。
一人息子の存在という痛いところをつかれたお関は、結局のところ父の説得を受け入れ、無理に自分自身を納得させて原田の家の戻ることにします。そして人力車を拾ったのでした。
ここからが(下)になります。原田の家に人力車で戻る途中、お関は車夫から意外なことを言われます。「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」とのことなのです。お関はドキッとし「こんな夜道で降ろされても困る、せめて車が拾える広小路まで」と、少し震えながら車夫を説得します。当然ですが、お関は強請のたぐいだと思ったはずです(そうは書いてませんが)。しかしそれは違いました。車夫は説得を受け入れます。
ところが、お関は車夫の顔に見覚えがあったのです。車夫は幼なじみの高坂録之助でした。録之助も "斉藤のお関さん" と気づきます。高坂録之助は斉藤家の近くの煙草屋の一人息子で、お関は「将来は録之助と連れ合いになるのかな」と、子供心に想像していました。その録之助も、お関に恋心をもっていました。しかしお関には原田との結婚話がもち上がりました。そのころから録之助は人が変わったように放蕩を始めたのです。
録之助と知ったからには車には乗れないと、お関は車から降りて、広小路の方へと一緒に歩き出します。その道すがら聞いた身の上話によると、録之助の放蕩は結婚してからも続き、女房は実家へ帰り、子供は風の便りに病気で死んだとのことです。録之助は、今は住む家もなく、"村田" という木賃宿の二階に宿泊し、気が向いた時だけ車夫をしています。もう何もかも、世の中が厭になっているようです。
昔は賢そうな少年だったが、今は見るかげもない色黒の小男の車夫になっている・・・・・・。お関は録之助のあまりの変わりように驚きつつも、何がしのお金を包んで渡します。そして「以前のような録之助さんに戻ってください」と言って広小路で分かれました。その二人を十三夜の月が照らしています。小説は以下の文章で終わります。
十三夜の月の下、お関の "力なさそうな" 塗り下駄の音が響く・・・・・・という最後の情景が印象的です。
『十三夜』と「帰れない者たち」
鮮やか、としか言いようのない小説です。前半の(上)を読んでいると、"家" という制度にからめとられた女性の苦しみが描かれていて、それを親が励ますという構図です。これだけなら普通の小説です。もちろん、お関の結婚のいきさつからその後の経緯、今の精神的苦痛、父親の説得までを、三人の会話だけで流れるように提示していく樋口一葉の文章は素晴らしいと思いますが、文章がいいだけでは小説とは言えません。
しかし後半になって、全く意外な展開になります。特に後半の出だしに「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」という、車夫としては "あり得ない" 言葉をもってきたのがうまいと思います。えっ、いったいこれは何だ、と読者は思うわけです。この車夫が実は「家族と別れ、住む家もなく、腑抜けのようになっている "幼なじみ" であり、かつて互いに恋心を抱いていた間柄」だと分かる。
お関は「家という制度の中で虐げられている可哀想な女」ですが、録之助という人物を対比させることによって、しょせん人間は人間同士の関係性の中で生きていくしかないことが炙り出されてきます。お関は一児の母で、夫の精神的虐待に耐える現在であり、それを実家の両親に訴えもした。目下のお関の最大の関心事はその「耐えている」ことですが、社会における人間関係を一切無くし、人間らしい感情まで失った録之助は「耐えることさえ出来ない」わけです。父親に諭され励まされたお関は、皮肉にも録之助を励ます側になってしまった。
この小説には当然のことながら "結論" がありません。塗り下駄の音が響く中で終わります。お関も録之助も、これからどうなるのか何も分からない。宙ぶらりんの状態で、読者は置いていかれます。どうなるのかと想像するのも意味がないのでしょう。ただ、人が生きることはどういうことかを考えさせられる。
家という制度のなかの女性の苦しみだと思って読み進むうちに、一挙に "人が生きることについての洞察" へと突き進んでしまう・・・・・・。この樋口一葉の小説づくりは見事だと思います。「たけくらべ」から始まる樋口一葉の「傑作の年 = 明治28年」の最後を飾るにふさわしい、完成度の高い作品です。
そこで、中島みゆき《帰れない者たちへ》との関係です。『十三夜』の登場人物である "お関" も "録之助" も、帰る場所がありません。お関にとっての原田家は精神的に帰る場所ではないし、実家の斉藤家は帰る場所ではないことが分かってしまった。録之助にとっては、そもそも「この世」が帰る場所ではありません。この二人を「帰れない者たち」ととらえ、それをヒントに発想を膨らませて書かれたのが、《帰れない者たちへ》だという気がします。詩の中にある、
などの句は、いかにも『十三夜』を思い起こさせます。『十三夜』の(下)の部分は、まさに「異人」の録之助と原田家にとっての「よそ者」であるお関が出合うシーンと言えるでしょう。
もちろん《帰れない者たちへ》が『十三夜』の登場人物の二人を描いた詩だとか、そういうことではありません。ただ、詩の発想の "きっかけ" になったのが『十三夜』だったはずです。
《帰れない者たちへ》の詩を読んで気づくのは「十三夜」という言葉を持ち出さなくても、十分に詩として成立することです。逆に「十三夜」と言われても、それが読者のイメージを膨らませることには(一般的には)ならないと思います。"昔のお月見の日" だと知っている人は少ないはずです。もうすぐ満月(十五夜の前々日)というぐらいは分かるが、そうだからといって詩の内容と密接な関係があるようにも思えない。
このことから考えると、《帰れない者たちへ》という詩は「十三夜」というキーワードをあえて使うことによって、中島さんが自ら「樋口一葉が好き」と明らかにした詩・・・・・・、そういういう風に思います。さらに、詩の中に出てくる "戻れぬ関" とはズバリ、『十三夜』の主人公の "お関" のことだと思える。『十三夜』の(上)は、まさに "戻れぬお関" の物語なのです。つまり「関」とは、物事をさえぎり分け隔てるもの(関所の "関")という本来の意味であると同時に、『十三夜』の主人公である "お関" をも意味していて、つまり日本文学で言う掛詞なのでしょう。詩の中に "関" という言葉を出したのは「樋口一葉を踏まえている」という中島さんの "念を押した" メッセージだと思います。
樋口一葉が好きというのは、取り立てて珍しいことではありません。五千円札の肖像にもなっている日本文学の代表者の一人だし、「たけくらべ」や「にごりえ」は明治文学の代表作です。特に女性作家で樋口一葉に影響を受けたと公言している人もいます。樋口一葉の現代語訳に挑戦した作家もいます。最近では川上未映子さんが「たけくらべ」の現代語訳をしましたが(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13。河出書房新社。2015年)、樋口一葉を尊敬し、かつその文章が好きでないとできないことです。いつかは「たけくらべ」の現代語訳をしてみたいという "野心" を抱いている人は、他にもいるのではないでしょうか。
詩人であり小説も書いている中島さんが一葉を尊敬していたとしても、それは自然なことでしょう。しかし《帰れない者たちへ》が普通ではないのは、中島さんがこの詩で創作の秘密というか、インスピレーションの源泉を明らかにしていることです。しかもそれは "先輩筋" と言ってもいい作家の文学作品です。そういった例はごく少ないと思うのです。その意味で《帰れない者たちへ》という詩は特別という気がします。
失恋と別れ
そこで考えるのですが、「樋口一葉が好き」なら、他にも一葉を "踏まえた" 中島作品があるのでは、と思うわけです。もしあったとしたら、どの詩だろうかと・・・・・・。これは、一葉の作品を隅々まで知っているわけではないので非常に難しい設問です。ただ、一つだけ思い当たるフシがあります。それは「失恋」に関するものです。
今ではそれほどでもありませんが、中島さんのシンガー・ソングライターとしてのキャリアの特に初期は、失恋や男女の別れの歌が非常に多かったわけです。それは No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」に書いた通りです。
樋口一葉も "別れ" を経験しています。一葉は明治24年(1891)19歳の時、小説家として身を立てることを決意し、東京朝日新聞の専属の小説家であった半井桃水(1861-1926)を訪れて、教えを請います。桃水は31歳で、妻と死別して独身でした。一葉は翌、明治25年3月(1892。20歳)、桃水が創刊した同人誌「武蔵野」に処女作の『闇桜』を発表します。桃水は一葉の小説家としての師匠です。
しかし桃水は何かと女性関係が絶えない人で、一葉との関係も巷の噂になりはじめました。一葉は 14歳の時から中島歌子の主宰する歌塾に入門していたのですが、師の歌子は一葉の行く末を心配し、桃水と別れるように忠告します。一葉はこの忠告を受け入れ、明治25年6月に桃水を訪れて、もう会えなくなったと伝えました(以上の顛末は集英社文庫『たけくらべ』の解説によります)。しかし半井桃水と別れはしたが「樋口一葉は生涯、半井桃水への思慕の情をもっていた」というのが研究者の間では定説になっています。
半井桃水と別れた約1年後、一葉はそれまで住んでいた本郷区菊坂町の借家を離れ、母(滝)と妹(邦子)とともに下谷区龍泉町に転居しました。ここで荒物・駄菓子店を開いて、貧困の中で何とか一家を養おうとします。樋口一葉は父と兄が病没したため、17歳で戸籍上の戸主になった人です。戸主としての責任を一葉は負っていました。ちなみに、吉原にも近い龍泉町での経験が「たけくらべ」の原点になったとされています。
一葉は半井桃水と会った頃から日記をつけていて、それがほとんど残っていることで有名です。龍泉町に転居した当日の明治26年(1893。21歳)7月20日の日記に、次の記述があります。
「樋口一葉全集」の注釈に、「斯の君」とは「かの人」であり、半井桃水のことだとあります。上に引用した部分の直後の文章で一葉は、本郷・菊坂町の家は桃水も訪れたことがあるが、この家(龍泉町)は桃水も知らない、私は忘れられていくだろう、という意味のことを書いています。半井桃水は「菊坂町の一葉」を思い出すことはできるが「龍泉町の一葉 = 今の自分」を思い出すことはできないと、ふと思い当たって愕然とする・・・・・・。「忘られて」という言葉に、別れて1年たつが、引っ越しで改めて引き起こされた一葉の感情が籠もっています。この引用の中の、
という "歌" は、数ある一葉日記の中でも有名なところです。一葉が明治28年(1895)に発表した小説「ゆく雲」の題は、ここから採られていると言われています。
この「忘られて 忘られはてて」の歌が、中島みゆきさんのある詩を連想させます。1982年のアルバム『寒水魚』に収められた《捨てるほどの愛でいいから》です。あくまで連想ですが・・・・・・。この詩は No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」でも引用しました。
三角関係にもなれない "片想い" の詩です。それも「究極の片想い」とでもいうのでしょうか。もし中島さんが彼女の歌唱力をもってしてコンサートで歌ったとしたら、詩の主人公に感情移入した女性ファンのすすり泣きがあちこちから聞こえて来そうな、そんな感じの詩です。
しかし問題は詩が喚起するイメージです。この詩にある
という言葉の使い方は、一葉日記の
という言葉の使い方とそっくりだと思うのですね。この部分から受けるイメージは「波=海」と「雲=空」が違うだけで、ほぼ同じと言えるでしょう。また、一葉日記にある「浮かぶ瀬もなく 朽ちはてる」的な表現も、中島さんの「一人の浜辺に打ちあげられるだけ」と類似している。もちろん、この詩と一葉日記のシチュエーションはかなり違います。しかし「忘られて・・・・・・」の言葉使いと喚起されるイメージが似ている。
これは全くの偶然なのでしょうか・・・・・・。たぶん偶然だと思います。しかし可能性として、中島さんが樋口一葉を踏まえて書いた詩、ないしは無意識に樋口一葉に似てしまった詩ということが「全く無いわけではない」とも思います。もちろん想像するとしたら、その方が興味深い。
中島さんは 1982年(30歳)に、樋口一葉をそっと忍ばせた詩を書いた(=《捨てるほどの愛でいいから》)。その23年後(53歳)に、今度は "あからさまに" 樋口一葉を踏まえた詩を発表した(=《帰れない者たちへ》)。「帰れない者たちへ」という詩を知ってしまった以上、是非ともそう考えたい感じがします。
今まで「十三夜」とか「忘れられて」のようなキーワードから中島作品と樋口一葉との関係を推測してきたのですが、中島さんが真に樋口一葉に影響を受けたとしたら、それは単なる「ことば」ではなく「樋口一葉ワールド」そのものかも知れません。特に「たけくらべ」や「にごりえ」は「十三夜」と違って、社会の底辺に生きる人たちを男女の感情や情念とともに描いています。底辺に生きる人々という面では、中島作品にもいろいろあることが思い起こされます。
しかし中島さんの詩は、何よりも「ことば」が大切にされています。「十三夜」や「忘れられて 忘れられて」は、そこにそういう「ことば」があることが、彼女の中では必然的だったと考えるのが妥当です。そこに、「ことば」を頼りに中島作品と先人の文芸作品、たとえば樋口一葉との関連性を考える "拠り所" があると思います。
No. 35 - 中島みゆき「時代」
No. 64 - 中島みゆきの詩( 1)自立する言葉
No. 65 - 中島みゆきの詩( 2)愛を語る言葉
No. 66 - 中島みゆきの詩( 3)別れと出会い
No. 67 - 中島みゆきの詩( 4)社会と人間
No. 68 - 中島みゆきの詩( 5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩( 6)メディアと黙示録
の7つですが、今回はその続きです。
日本文学からの引用
No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」で、《重き荷を負いて》(A2006『ララバイSINGER』)という曲の題名は、徳川家康の遺訓である「人の一生は、重き荷を負いて遠き道を行くがごとし」を連想させると書きました。あくまで連想に過ぎないのですが、こういう連想が働くのも、中島作品には日本の歴史や文化に根ざした詩がいろいろあるからで、たとえば、
『夜を往け』1990 | |||
『EAST ASIA』1992 | |||
『時代』1993 | |||
『10 WINGS』1995 | |||
『おとぎばなし』2002 | |||
『DRAMA !』2009 |
などがある、としました。ここにあげたのは題名が「日本関連」のもので、その内容は小説・神話・宗教・文化など、さまざまです。
しかし中島さんの詩の中には、題名には現れてはいないが、日本文学、それも明治時代の小説にストレートに影響されたと考えられる作品があります。今回はその話で、《帰れない者たちへ》(A2005『転生』)という作品です。
帰れない者たちへ
《帰れない者たちへ》は、2005年のアルバム『転生』に収められた曲で、その詩を引用すると次の通りです。
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中島みゆき「転生」(2005)
収録曲 ①遺失物預り所 ②帰れない者たちへ ③線路の外の風景 ④メビウスの帯はねじれる ⑤フォーチュン・クッキー ⑥闇夜のテーブル ⑦我が祖国は風の彼方 ⑧命のリレー ⑨ミラージュ・ホテル ⑩サーモン・ダンス ⑪ 無限・軌道
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この詩は樋口一葉の小説『十三夜』を踏まえて作られていると思います。その理由ですが、まず「十三夜」という、現代ではあまり馴染みのない昔の風習(後述)が詩のキーワードになっていることです。しかし、それだけでは偶然の一致ということも考えられる。「十三夜」というタイトルの曲を書いた人もいるぐらいです(谷村新司)。
樋口一葉の小説を踏まえているとする大きな理由は、詩のタイトルと内容に小説との本質的な類似点があることです。以下にそれを順に書いてみます。
樋口一葉『十三夜』
『十三夜』は樋口一葉(明治5 - 明治29。1872-1896)が明治28年(1895。23歳)に発表した小説です。この年、一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「ゆく雲」「十三夜」と、たて続けに名作を発表しました。その翌年の明治29年春には結核が悪化し、年の暮れには息を引き取ります。樋口一葉の作家としてのピークはほんの1年少々ですが、その短い期間に彼女は次々と日本文学史上に残る傑作を書いた。その一つが『十三夜』です。
一葉肖像
(明治28年。23歳頃の肖像。集英社文庫「たけくらべ」より)
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「十三夜」は、かつては「十五夜」と並ぶ「お月見」の日でした。旧暦(太陰暦)の8月15日は、いわゆる中秋の名月 = 十五夜です。現代では9月の秋分の日の前後の満月の日を中秋の名月としています。一方、旧暦の9月13日の十三夜にも月見をする風習が江戸期にはあり、これを「後の月」などと言っていました。そして、両方の月見をするのが正式であり、一方だけでは「片月見」といって縁起が悪いとされていました。樋口一葉の『十三夜』には「片月見」という言葉とともに「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれど・・・・・・」と出てきます。明治28年の段階では、十三夜の月見は「旧弊」と意識されていたようです。
樋口一葉の『十三夜』は、次のようなあらすじの小説です。
主人公の "お関" は、高級官僚・原田勇の妻で、一人息子の太郎の母です。実家の斉藤家は貧しい庶民ですが、お関が17歳のとき、遊んでいるところをたまたま通りかかった原田がお関を見染め、是非にと請われて嫁に行ったのでした。当初、お関は大切にされましたが、太郎が生まれると原田は人が違ったように、お関に辛くあたるようになります。お関は、今では原田から精神的虐待を受ける日々を送っています(ちなみに原文では阿関となっている)。
物語は(上)と(下)の二つに分かれています。まず(上)は、旧暦9月13日の夜、お関が離縁を決意して実家の斉藤家を人力車で訪れるところから始まります。突然の来訪に両親は驚きますが、もちろん久しぶりに会うお関を歓待します。弟の亥之助は、たまたま夜学に行って不在でした。
お関は思い切って、離縁したいと打ち明けます。原田は毎日小言が絶えず、女中の前でもお関の不器用なところを並べ立てる。二言目には「教育がない」と、お関の出自を蔑む。家の中がつまらないのはお関のせいだと、理由もなしに罵る。太郎の乳母として置いてやっているのだと嘲る。一昨日に出かける時も、着物のそろえ方が悪いといって着物をたたきつけ、洋服を着て出ていった・・・・・・。お関は、息子の太郎と別れるのは忍びないが、原田の家には戻らない、実家に置いてほしいと訴えます。
お関の母親は同情します。元々、お関は請われて嫁がせたものだ、それを、親なし子をもらったように扱うのは何だ、自分も身分の差を考えて娘に会いに行きたいのを我慢してきた、女中の前でそんな扱いを受けたのでは太郎も母親をバカにするだろう、今までが我慢のし過ぎだよ・・・・・・。
しかし父親は、お関に深く同情しながらも、お関を諭します。身分差があるのだから考えや思うことに違いが出てくるのは当然だ。原田さんも勤めの不平を家に帰ってぶちまけているのかもしれない。原田の妻という座を捨てて世間に笑われてもいいのか。亥之助が就職できたのも原田さんの口添えがあったからこそだ。それに太郎はどうする。離縁して継母がくれば二度と会えないのだぞ。どうせ不幸に泣くなら原田の妻で泣け。おまえの涙は亥之助を含め、我々家族が分かち合うよ・・・・・・。
一人息子の存在という痛いところをつかれたお関は、結局のところ父の説得を受け入れ、無理に自分自身を納得させて原田の家の戻ることにします。そして人力車を拾ったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・
ここからが(下)になります。原田の家に人力車で戻る途中、お関は車夫から意外なことを言われます。「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」とのことなのです。お関はドキッとし「こんな夜道で降ろされても困る、せめて車が拾える広小路まで」と、少し震えながら車夫を説得します。当然ですが、お関は強請のたぐいだと思ったはずです(そうは書いてませんが)。しかしそれは違いました。車夫は説得を受け入れます。
ところが、お関は車夫の顔に見覚えがあったのです。車夫は幼なじみの高坂録之助でした。録之助も "斉藤のお関さん" と気づきます。高坂録之助は斉藤家の近くの煙草屋の一人息子で、お関は「将来は録之助と連れ合いになるのかな」と、子供心に想像していました。その録之助も、お関に恋心をもっていました。しかしお関には原田との結婚話がもち上がりました。そのころから録之助は人が変わったように放蕩を始めたのです。
録之助と知ったからには車には乗れないと、お関は車から降りて、広小路の方へと一緒に歩き出します。その道すがら聞いた身の上話によると、録之助の放蕩は結婚してからも続き、女房は実家へ帰り、子供は風の便りに病気で死んだとのことです。録之助は、今は住む家もなく、"村田" という木賃宿の二階に宿泊し、気が向いた時だけ車夫をしています。もう何もかも、世の中が厭になっているようです。
昔は賢そうな少年だったが、今は見るかげもない色黒の小男の車夫になっている・・・・・・。お関は録之助のあまりの変わりように驚きつつも、何がしのお金を包んで渡します。そして「以前のような録之助さんに戻ってください」と言って広小路で分かれました。その二人を十三夜の月が照らしています。小説は以下の文章で終わります。
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十三夜の月の下、お関の "力なさそうな" 塗り下駄の音が響く・・・・・・という最後の情景が印象的です。
集英社文庫「たけくらべ」
1993年刊。「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」が原文で収められている。この文庫は樋口一葉を原文で読みやすくするためのさまざまな工夫がしてあり、編集者の一葉に対する「思い入れ」が感じられる。なお2015年現在では表紙カバーが変更されている。
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『十三夜』と「帰れない者たち」
鮮やか、としか言いようのない小説です。前半の(上)を読んでいると、"家" という制度にからめとられた女性の苦しみが描かれていて、それを親が励ますという構図です。これだけなら普通の小説です。もちろん、お関の結婚のいきさつからその後の経緯、今の精神的苦痛、父親の説得までを、三人の会話だけで流れるように提示していく樋口一葉の文章は素晴らしいと思いますが、文章がいいだけでは小説とは言えません。
しかし後半になって、全く意外な展開になります。特に後半の出だしに「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」という、車夫としては "あり得ない" 言葉をもってきたのがうまいと思います。えっ、いったいこれは何だ、と読者は思うわけです。この車夫が実は「家族と別れ、住む家もなく、腑抜けのようになっている "幼なじみ" であり、かつて互いに恋心を抱いていた間柄」だと分かる。
お関は「家という制度の中で虐げられている可哀想な女」ですが、録之助という人物を対比させることによって、しょせん人間は人間同士の関係性の中で生きていくしかないことが炙り出されてきます。お関は一児の母で、夫の精神的虐待に耐える現在であり、それを実家の両親に訴えもした。目下のお関の最大の関心事はその「耐えている」ことですが、社会における人間関係を一切無くし、人間らしい感情まで失った録之助は「耐えることさえ出来ない」わけです。父親に諭され励まされたお関は、皮肉にも録之助を励ます側になってしまった。
この小説には当然のことながら "結論" がありません。塗り下駄の音が響く中で終わります。お関も録之助も、これからどうなるのか何も分からない。宙ぶらりんの状態で、読者は置いていかれます。どうなるのかと想像するのも意味がないのでしょう。ただ、人が生きることはどういうことかを考えさせられる。
家という制度のなかの女性の苦しみだと思って読み進むうちに、一挙に "人が生きることについての洞察" へと突き進んでしまう・・・・・・。この樋口一葉の小説づくりは見事だと思います。「たけくらべ」から始まる樋口一葉の「傑作の年 = 明治28年」の最後を飾るにふさわしい、完成度の高い作品です。
そこで、中島みゆき《帰れない者たちへ》との関係です。『十三夜』の登場人物である "お関" も "録之助" も、帰る場所がありません。お関にとっての原田家は精神的に帰る場所ではないし、実家の斉藤家は帰る場所ではないことが分かってしまった。録之助にとっては、そもそも「この世」が帰る場所ではありません。この二人を「帰れない者たち」ととらえ、それをヒントに発想を膨らませて書かれたのが、《帰れない者たちへ》だという気がします。詩の中にある、
・ | 異人の形です 旅した者は | ||
・ | 戻れぬ関です よそ者には | ||
・ | 帰れない歳月を 夢だけがさかのぼる |
などの句は、いかにも『十三夜』を思い起こさせます。『十三夜』の(下)の部分は、まさに「異人」の録之助と原田家にとっての「よそ者」であるお関が出合うシーンと言えるでしょう。
もちろん《帰れない者たちへ》が『十三夜』の登場人物の二人を描いた詩だとか、そういうことではありません。ただ、詩の発想の "きっかけ" になったのが『十三夜』だったはずです。
《帰れない者たちへ》の詩を読んで気づくのは「十三夜」という言葉を持ち出さなくても、十分に詩として成立することです。逆に「十三夜」と言われても、それが読者のイメージを膨らませることには(一般的には)ならないと思います。"昔のお月見の日" だと知っている人は少ないはずです。もうすぐ満月(十五夜の前々日)というぐらいは分かるが、そうだからといって詩の内容と密接な関係があるようにも思えない。
このことから考えると、《帰れない者たちへ》という詩は「十三夜」というキーワードをあえて使うことによって、中島さんが自ら「樋口一葉が好き」と明らかにした詩・・・・・・、そういういう風に思います。さらに、詩の中に出てくる "戻れぬ関" とはズバリ、『十三夜』の主人公の "お関" のことだと思える。『十三夜』の(上)は、まさに "戻れぬお関" の物語なのです。つまり「関」とは、物事をさえぎり分け隔てるもの(関所の "関")という本来の意味であると同時に、『十三夜』の主人公である "お関" をも意味していて、つまり日本文学で言う掛詞なのでしょう。詩の中に "関" という言葉を出したのは「樋口一葉を踏まえている」という中島さんの "念を押した" メッセージだと思います。
樋口一葉が好きというのは、取り立てて珍しいことではありません。五千円札の肖像にもなっている日本文学の代表者の一人だし、「たけくらべ」や「にごりえ」は明治文学の代表作です。特に女性作家で樋口一葉に影響を受けたと公言している人もいます。樋口一葉の現代語訳に挑戦した作家もいます。最近では川上未映子さんが「たけくらべ」の現代語訳をしましたが(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13。河出書房新社。2015年)、樋口一葉を尊敬し、かつその文章が好きでないとできないことです。いつかは「たけくらべ」の現代語訳をしてみたいという "野心" を抱いている人は、他にもいるのではないでしょうか。
詩人であり小説も書いている中島さんが一葉を尊敬していたとしても、それは自然なことでしょう。しかし《帰れない者たちへ》が普通ではないのは、中島さんがこの詩で創作の秘密というか、インスピレーションの源泉を明らかにしていることです。しかもそれは "先輩筋" と言ってもいい作家の文学作品です。そういった例はごく少ないと思うのです。その意味で《帰れない者たちへ》という詩は特別という気がします。
失恋と別れ
そこで考えるのですが、「樋口一葉が好き」なら、他にも一葉を "踏まえた" 中島作品があるのでは、と思うわけです。もしあったとしたら、どの詩だろうかと・・・・・・。これは、一葉の作品を隅々まで知っているわけではないので非常に難しい設問です。ただ、一つだけ思い当たるフシがあります。それは「失恋」に関するものです。
今ではそれほどでもありませんが、中島さんのシンガー・ソングライターとしてのキャリアの特に初期は、失恋や男女の別れの歌が非常に多かったわけです。それは No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」に書いた通りです。
樋口一葉も "別れ" を経験しています。一葉は明治24年(1891)19歳の時、小説家として身を立てることを決意し、東京朝日新聞の専属の小説家であった半井桃水(1861-1926)を訪れて、教えを請います。桃水は31歳で、妻と死別して独身でした。一葉は翌、明治25年3月(1892。20歳)、桃水が創刊した同人誌「武蔵野」に処女作の『闇桜』を発表します。桃水は一葉の小説家としての師匠です。
しかし桃水は何かと女性関係が絶えない人で、一葉との関係も巷の噂になりはじめました。一葉は 14歳の時から中島歌子の主宰する歌塾に入門していたのですが、師の歌子は一葉の行く末を心配し、桃水と別れるように忠告します。一葉はこの忠告を受け入れ、明治25年6月に桃水を訪れて、もう会えなくなったと伝えました(以上の顛末は集英社文庫『たけくらべ』の解説によります)。しかし半井桃水と別れはしたが「樋口一葉は生涯、半井桃水への思慕の情をもっていた」というのが研究者の間では定説になっています。
半井桃水と別れた約1年後、一葉はそれまで住んでいた本郷区菊坂町の借家を離れ、母(滝)と妹(邦子)とともに下谷区龍泉町に転居しました。ここで荒物・駄菓子店を開いて、貧困の中で何とか一家を養おうとします。樋口一葉は父と兄が病没したため、17歳で戸籍上の戸主になった人です。戸主としての責任を一葉は負っていました。ちなみに、吉原にも近い龍泉町での経験が「たけくらべ」の原点になったとされています。
一葉は半井桃水と会った頃から日記をつけていて、それがほとんど残っていることで有名です。龍泉町に転居した当日の明治26年(1893。21歳)7月20日の日記に、次の記述があります。
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「樋口一葉全集」の注釈に、「斯の君」とは「かの人」であり、半井桃水のことだとあります。上に引用した部分の直後の文章で一葉は、本郷・菊坂町の家は桃水も訪れたことがあるが、この家(龍泉町)は桃水も知らない、私は忘れられていくだろう、という意味のことを書いています。半井桃水は「菊坂町の一葉」を思い出すことはできるが「龍泉町の一葉 = 今の自分」を思い出すことはできないと、ふと思い当たって愕然とする・・・・・・。「忘られて」という言葉に、別れて1年たつが、引っ越しで改めて引き起こされた一葉の感情が籠もっています。この引用の中の、
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という "歌" は、数ある一葉日記の中でも有名なところです。一葉が明治28年(1895)に発表した小説「ゆく雲」の題は、ここから採られていると言われています。
ちなみに、引用した日記の名前は『塵之中』で、明治26.7.15 - 明治26.8 の記録です。「塵」とは、樋口一葉が自らの住居を指してそう言っています。 |
この「忘られて 忘られはてて」の歌が、中島みゆきさんのある詩を連想させます。1982年のアルバム『寒水魚』に収められた《捨てるほどの愛でいいから》です。あくまで連想ですが・・・・・・。この詩は No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」でも引用しました。
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中島みゆき「寒水魚」(1982)
収録曲 ①悪女 ②傾斜 ③鳥になって ④捨てるほどの愛でいいから ⑤B.G.M. ⑥家出 ⑦時刻表 ⑧砂の船 ⑨歌姫
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三角関係にもなれない "片想い" の詩です。それも「究極の片想い」とでもいうのでしょうか。もし中島さんが彼女の歌唱力をもってしてコンサートで歌ったとしたら、詩の主人公に感情移入した女性ファンのすすり泣きがあちこちから聞こえて来そうな、そんな感じの詩です。
しかし問題は詩が喚起するイメージです。この詩にある
・ | 忘れられて、忘れられて | ||
・ | 波間に漂い | ||
・ | 消えていく |
という言葉の使い方は、一葉日記の
・ | 忘られて 忘られはてて | ||
・ | 行雲とともに | ||
・ | 空に消えていく |
という言葉の使い方とそっくりだと思うのですね。この部分から受けるイメージは「波=海」と「雲=空」が違うだけで、ほぼ同じと言えるでしょう。また、一葉日記にある「浮かぶ瀬もなく 朽ちはてる」的な表現も、中島さんの「一人の浜辺に打ちあげられるだけ」と類似している。もちろん、この詩と一葉日記のシチュエーションはかなり違います。しかし「忘られて・・・・・・」の言葉使いと喚起されるイメージが似ている。
これは全くの偶然なのでしょうか・・・・・・。たぶん偶然だと思います。しかし可能性として、中島さんが樋口一葉を踏まえて書いた詩、ないしは無意識に樋口一葉に似てしまった詩ということが「全く無いわけではない」とも思います。もちろん想像するとしたら、その方が興味深い。
中島さんは 1982年(30歳)に、樋口一葉をそっと忍ばせた詩を書いた(=《捨てるほどの愛でいいから》)。その23年後(53歳)に、今度は "あからさまに" 樋口一葉を踏まえた詩を発表した(=《帰れない者たちへ》)。「帰れない者たちへ」という詩を知ってしまった以上、是非ともそう考えたい感じがします。
今まで「十三夜」とか「忘れられて」のようなキーワードから中島作品と樋口一葉との関係を推測してきたのですが、中島さんが真に樋口一葉に影響を受けたとしたら、それは単なる「ことば」ではなく「樋口一葉ワールド」そのものかも知れません。特に「たけくらべ」や「にごりえ」は「十三夜」と違って、社会の底辺に生きる人たちを男女の感情や情念とともに描いています。底辺に生きる人々という面では、中島作品にもいろいろあることが思い起こされます。
しかし中島さんの詩は、何よりも「ことば」が大切にされています。「十三夜」や「忘れられて 忘れられて」は、そこにそういう「ことば」があることが、彼女の中では必然的だったと考えるのが妥当です。そこに、「ことば」を頼りに中島作品と先人の文芸作品、たとえば樋口一葉との関連性を考える "拠り所" があると思います。
(続く)
No.137 - グスタフ・マーラーの音楽(2) [音楽]
(前回から続く)
前回に続き『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾・村上春樹)から、マーラーの音楽が語られている部分を紹介します。前回の終わりの方にも取り上げた「音楽の形式」に関係したものです。
形式を意識的に崩した音楽
「形式を意識的に崩した音楽」というマーラーの特徴に関して、小澤征爾・村上春樹両氏が語り合う場面があります。交響曲 第1番『巨人』の第3楽章を聞きながらの会話です。第3楽章はコントラバスのソロが演奏する「葬送のマーチ」で始まります(譜例71)。
前回(No.136)でも話題になったように、ここは「重々しく、しかし引きずらないように」という指示が楽譜にあります(譜例71のドイツ語)。村上さんはそういう音をどのように作るのかを小澤さんに質問します。
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音楽の始めに「コントラバスのソロ」をもってくるという前代未聞のやり方をし、同時に「重々しく、しかし引きずらないように」という "いかにも難しそうな指示" を楽譜に書き込む作曲家は、確かに「変わった人」でしょう。と同時に、ここでは常識的な音楽のスタイル感が覆されています。
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「不思議な雰囲気をもった重々しい葬送のマーチ(重々しいが決して深刻ではない)」(p.226)が終わると、突然、ユダヤの俗謡的な音楽が登場します(譜例72、譜例73)。
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しばらくすると葬送のマーチが復帰しますが、すぐそのあとに美しく叙情的な旋律(譜例74)が登場します。これは『さすらう若人の歌』に収められた歌曲のメロディーです。
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パストラルの音楽は、再び葬送のマーチへと転換します。
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小澤さんの「たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と」は、復帰した葬送のマーチに重ねられるクラリネットでしょう(譜例75の後半、keckの指示の2小節あとのところ。keckは「大胆に、威勢よく」というような意味)。普通のクラリネットより小さめのE♭管(Es管)なので「このちっちゃなクラリネット」という表現になったのだと思います。このモチーフで出すべき「表情」を小澤さんは歌ってみせているのですが、それを村上流に言語化すると「深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色が、メロディーにどことなく妖しい風合いを与える」となるわけですね。なるほどという感じです。
「さすらう若人の歌」の旋律による「パストラル」が終わったあとに葬送のマーチが回帰する部分。フルートとクラリネット(E♭管)のパートを抜き出した。小澤さんの「たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と」というのは、譜例75におけるクラリネットの末尾2小節を指していると考えられる。
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ドイツ正統派音楽とは異質
マーラーの音楽にはドイツ正統派音楽とは異質な面が多々あります。「正統派の後継者」であるリヒャルト・シュトラウスの音楽とマーラーの音楽を比較した小澤さんの発言があります。マーラーもリヒャルト・シュトラウスもオーケストラを駆使する名手であり、楽器の性格を熟知しています。
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小澤さんは、マーラーのオーケストレーションを、
・ | 音がナマである | ||
・ | 音が原色で使われている | ||
・ | 音が浮き出るようだ | ||
・ | 楽器の個性を挑発的に引き出す |
というように表現しています。音楽家としての感覚的な言語表現なので、我々も感覚的に理解するしかないと思います。しかし、このあたりは前回に紹介した、
・ | 複数の異質な要素が同時平行的に進行する | ||
・ | 個々の要素は、他の要素とは無関係に独立して演奏すべきである | ||
・ | 演奏方法について、細かく楽譜で指示されている | ||
・ | そういった細部の集合として、全体が浮かび上がる |
といったマーラーの音楽の特色と表裏一体なのだと思いました。
確かにリヒャルト・シュトラウスの曲を聴くと、全体の計画があり、それが細部に分解・分担され、個々の楽器は全体との関連で役割を保ち、音と音とが組み合わされて融合し、結果として壮麗な建造物が構築されるという感じを持ちます。まさにベートーヴェン、ブラームスの後継です。マーラーはそういう方向とは対極にあるわけです。
小澤さんの言葉で、芸術としてのジャンルは違うけれど、アンリ・マティスの絵を連想しました。「ナマ」「原色」「浮き出る」「挑発的」などの形容詞は、それが「音」のことではなく「色」のことだとすると、マティスの絵そのものだと思ったのです。マティスの絵は「浮き出るような原色をナマで挑発的に使い」ながら、全体としては独特の調和感を出しているのではないでしょうか。
(ウィーン国立歌劇場)
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カラヤンのマーラー
小澤征爾さんの指揮者としての「師匠」はヘルベルト・フォン・カラヤンです。本書の中でも小澤さんは必ず「カラヤン先生」と呼んでいます。そのカラヤンがドイツ正統派音楽の正統的継承者であることは間違いないでしょう。カラヤンはマーラーの音楽をどのように演奏したのか。交響曲 第9番についての小澤さんの発言があります。
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村上さんの発言の中の「ディレクション」とは何でしょうか。実は、本書の中で小澤さんはこの言葉を詳しく解説しています。
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ひとつの意志として長いフレーズを作り、太い一本の線として繋げていく能力・・・・・・。小澤さんがヘルベルト・フォン・カラヤンから学んだ大きなものが「ディレクション」だったようです。本書にはカラヤンの具体的な指導も書かれています。カラヤンはシベリウスの交響曲 第5番が好きで(4回も録音している)、この曲を使って弟子に教えるのがうまかったと小澤さんは言っています。
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長いフレーズを作るのが指揮者の役目だと考えるカラヤンにとって、マーラーの9番は "うってつけの" 曲だったようです。従って「カラヤン先生の九番はすばらしい(小澤征爾)」となるのですが、その「素晴らしさ」について村上さんは次のように発言しています。
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上の引用にある「新ウィーン楽派の初期の作品」の代表作をシェーンベルクの『浄められた夜』だと考えると、カラヤンは『浄められた夜』のような音色で『マーラーの9番』を演奏した、となります。具体的に言うとそうなる。そして私には当然そうあるべきだと思えます。
シェーンベルク(や、リヒャルト・シュトラウス)をドイツ正統音楽の継承者だとすると、マーラーはそれとは異質な面が多々あります。しかし、音楽史の流れと同時代性からくる類似点も当然ある。特に『浄められた夜』と『交響曲 第9番』は、何だか非常に似ていると感じます。それは「これが音楽の到達点である」というような感じです。あるいは「これが "最後の輝き" だという緊迫した雰囲気」であり、「巨大なものがぎゅっと凝縮されている感じ」です。そういった2曲を「音がまるでしたたり落ちるみたいに美しく」、似たような音色で演奏されるのは当然だと思うのです。
村上さんの言う「カラヤンの得意分野」ですが、それは9番の演奏スタイルだけでなく、シンフォニーの選曲にも現れているようです。本書によると、カラヤンはマーラーのシンフォニーを何曲か録音したが、録音しなかった曲もある。それを分類すると、
録音した | 4番 | 5番 | 6番 | 9番 | 大地の歌 | |||||||
録音しなかった | 1番 | 2番 | 3番 | 7番 | 8番 |
だそうです。なるほど・・・・・・。
このリストは「正統派」という観点からすると分かるような気がします。カラヤンが録音しなかった曲をみると、8番はあまりに巨大なので「録音のチャンスがなかった」のかもしれません。しかしその他の曲には共通点がある感じがする。特に3番と7番に関しては、その「形式感の崩れ」から小澤さんが最も「あやしい」と発言しているシンフォニーです(前回の No.136「グスタフ・マーラーの音楽(1)」参照)。カラヤンは間違っても3番、7番を録音することはなかったのでしょう。また1番の第3楽章や2番の第5楽章の「崩れている感じ」も、まさに本書の「マーラー論」のテーマになっているところです。つまり、マーラーの真にマーラー的なディープな部分をカラヤンは受け入れなかったのではないか。「カラヤンは自分の得意な分野にマーラーをぐっと引き寄せて、そこで演奏している」という村上さんの言い方は、なるほどと思いました。引き寄せられる曲を選んだ、ということでもあるのでしょう。
グスタフ・マーラー
1982年のベルリン芸術週間でのライブ録音。究極の音楽の究極の演奏。「交響曲 第9番」二長調(1910) ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 |
マーラーの音楽の世界性
マーラーの音楽にみられる「ドイツ正統派音楽とは異質な面」は、ウィーンという都市に関係があると小澤さんと村上さんは語っています。
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マーラーの音楽は19世紀末のウィーンの爛熟と伝統的なドイツ文化の崩れを反映していますが、それだけではありません。ウィーンの「周辺文化」を取り込んでいるところに特徴がある、というのが村上さんの見立てです。
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作曲家の生誕地
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カリシュト(カリシチェ)にあるマーラーの生家。現在はペンションになっている。ちなみに、「見渡す限り畑」という村上春樹さんのコメントはGoogle Street Viewでもよく分かる。
(Google Street View)
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この引用の終わりの方の村上さんの質問(下線)に対して、小澤征爾さんは「日本人として切り込んでいけるところがあると思いたい」という風に答えています。「世界のマエストロ」にしても「思いたい」という答えなのですね。断定はしていません。それだけマーラーの音楽が巨大だということでしょう。またマーラーの音楽だけではなく「日本人が西洋音楽をやる意味」を小澤征爾さんは自問し続けているのだと思いました。
その自問は、小澤征爾というマエストロが(こういう言い方が適切かどうか分からないけれど)「今も発展途上」だからこそと感じます。それは本書の「まえがき」で村上さんが「小澤さんに共感する」としていた点の一つです。
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感想
ここからは『小澤征爾さんと、音楽について話をする』の中の「マーラー論」の部分を読んだ感想のまとめです。
 異質さの同居と同時進行  |
二人の対談では、マーラーの音楽の顕著な特質として、
◆ | 複数の異質なモチーフが、同時進行的に、対等に現れる | ||
◆ | 形式感をあえて無視する感じで、唐突に、脈絡がなく音楽が変化する |
マーラーの墓はウィーン市街の北にあるグリンツィング(Grinzing)墓地にあり、市の中心部からはトラムを乗り継いで行ける。名前しか刻まれていないシンプルな墓標である。グリンツィングはホイリゲで有名。
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たとえば演劇、ないしは演劇の延長としてのオペラを考えてみます。仮に男女の三角関係の場面だとします。舞台には男一人、女二人の俳優(歌手)がいます。移り気で優柔不断な男と、愛されていると思って幸福感いっぱいの女と、捨てられたと思って悲痛な思いの女の3人です。観客には「全く違った感情を持つ3人が同時に舞台に存在する」ことが一目でわかるし、舞台では三者三様の思いをほとんど同時に科白(ないしは歌)で吐露したりするわけです。これに類似した場面は演劇やオペラにいっぱいあるでしょう。以前の記事を例にとると、No.8「リスト:ノルマの回想」で紹介したベッリーニのオペラ『ノルマ』には「三角関係の修羅場」の三重唱がありました。
もし仮に「3人の全く異なった人間感情」を器楽曲で表現しようとしたら「複数の異質なモチーフが、同時進行的に、対等に現れる」ことになるのではないでしょうか。マーラーの音楽がそいういう情景を描いたと言っているのではありません。「異質さの同居と同時進行」は、文芸作品や芸術にはよくあることだと言いたいだけです。
「形式感をあえて無視する感じで、唐突に、脈絡がなく音楽が変化する」ことを考えてみると、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』でその例として語られているのが交響曲 第1番の第3楽章でした。この楽章は、
① | 葬送のマーチ | ||
② | ユダヤの俗謡風の音楽 | ||
③ | 葬送のマーチ | ||
④ | パストラル(さすらう若人の歌から引用した美しいメロディー) | ||
⑤ | 葬送のマーチ |
という順序で音楽が進行します。「葬送のマーチ」とは異質な ② と ④ は「脈絡なく唐突に現れる」ようにも感じます。
しかしこれが小説だと「よくあること」だと思います。たとえば葬送の列を見守る人がいたとして、その人は亡くなった方の幼なじみだとします。そして葬送を見守るなかで、小さいころに一緒に地域の祭りに参加した情景や、野原で一緒に遊び回った記憶をふと思い出すとします。それを文章に書くとき、葬送の行進の時間的経緯の描写(=現在。悲しみの情景)の中に、思い出の描写(=過去。俗謡やパストラル。幸福な情景)を挟み込むという手法は、大いにありうるわけです。第1番の第3楽章がそういうものだと言いたいのではなく、文芸作品ではありうる構成方法だと言いたいだけです。
映画となるともっと顕著です。つまり、現在の描写の中にさまざまな過去の時間を混入させる手法を使った映画はたくさんあります。むしろそれが映画の一般的な作り方かもしれない。時間的な連続性を破っているので始めは戸惑いますが、次第に全体のつながりが見えてくるというわけです。いったんそれに慣れると違和感は無くなってしまう。
こういった小説や映画の技法を考えると、マーラーの音楽が取り立てて異質だとか変だということはないと思うのです。ただ、小説や映画は言葉(や映像)があるので「異質さの同居と同時進行」があっても納得性の高い説明ができるのですが、音楽には説明がありません。音楽を聴く人は「感じる」しかなく、それが全てです。ということは、異質な要素が同時進行したり脈絡なく唐突に現れるところで、我々は何かを感じればよいと思うのです。音楽なのだから。
ベートーヴェンやブラームスの視点からすると、マーラーが音楽を構成したスタイルは異質かもしれませんが、現代を生きる我々は、小説や映画や演劇や20世紀の絵画を知っています。現代の視点からすると、マーラーの音楽は芸術としてごく自然なものだと思います。
 カラヤンが録音したマーラー  |
マーラーの音楽がもつ「ドイツ正統派音楽とは異質な面」が本書に何回か出てきましたが、これは全くその通りだと思います。しかしマーラーの音楽はそれだけではありません。本書の紹介で「カラヤンが録音したマーラーと、録音しなかったマーラーがある」ことを書きました。
録音した | 4番 | 5番 | 6番 | 9番 | 大地の歌 | |||||||
録音しなかった | 1番 | 2番 | 3番 | 7番 | 8番 |
その「カラヤンが録音したマーラー」は、むしろドイツ正統派音楽の継承に近いと思います。たとえば5番のシンフォニーですが、これなどはごく「ノーマルな」音楽であり、数百年の西洋音楽文化の到達点(のマーラーなりの表現)という感じです。第4楽章の「アダージェット」はハープと弦楽合奏の有名な曲ですが、聴く人によってさまざまな印象を受けるにしろ、誰もが抱く共通の印象は「シンプルに、音楽として美しい」ことではないでしょうか。
マーラーの音楽は正統音楽からすると「継承面」と「異質面」の両面があり、またその二つがないまぜになっていて、そこに我々が惹かれるのだと思います。『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本は、9番を例外として、あえて「カラヤンが録音しなかったマーラーに論を絞った感」があります。「マーラー論」はこの本の一部だし、インタビュー時間と紙数の制約があるのでやむをえなかったのでしょう。
 文学者が言語化する音楽  |
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本のポイントは、村上春樹さんがものすごい音楽好きで、かつレコード・マニアであることだと書きました(No.135「音楽の意外な効用(2)村上春樹」参照)。マニアといってもレコードを集めるのが目的でなく、音楽を深く聴いて思索をめぐらせる人です。インタビューの中には村上さんが音楽論をリードするような場面もあり、感心しました。
しかしもう一つのポイントは、村上さんが小説家であり、言葉を駆使するプロフェッショナルだということです。音楽を言葉で表現するのは難しいものです。小澤征爾さんは指揮者なので、そのプロとしての最良の言葉は主としてオーケストラのメンバー(=プロの演奏家)に向けられるはずです。そこではプロ同士が理解し合える言葉で十分です。またオーケストラの練習では、言葉にならなくても歌ってみせることができます。村上さんのインタビューの中にも、小澤さんが歌ってみせる場面が何度かありました。本書の「はじめに」で村上さんは次のように書いています。
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この記事の最初に引用した、交響曲 第1番の第3楽章を聴きながら語り合う場面にも小澤さんの「歌」がありましたが( "たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と" )、それを村上さんは(村上流に)言語化していました( "深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色が、メロディーにどことなく妖しい風合いを与える" )。
小澤征爾という世界の大指揮者を中心にした本を作るときに、そのパートナーとして言葉を操るプロフェッショナルである村上春樹がいる・・・・・・。この状況が『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本の最大の魅力だと感じました。
No.136 - グスタフ・マーラーの音楽(1) [音楽]
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
前回のNo.135「音楽の意外な効用(2)村上春樹」では、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社。2011)という本から、村上春樹氏が「文章の書き方を音楽から学んだ」と語っている部分を紹介しました。今回はこの本から別の話題をとりあげたいと思います。
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』は、村上春樹さんが小澤征爾さんに長時間のインタビューをした内容(2010年11月~2011年7月の期間に数回)にもとづいていて、語られている話題は多岐に渡っています。小澤さんが師事したカラヤンやバーンスタインのこと、欧米の交響楽団やサイトウ・キネンの内輪話、ベートーベンやブラームスのレコードを聞きながらの指揮や演奏の "キモ" の解説、小澤さん主宰の「スイス国際音楽アカデミー」の様子などです。
しかし何と言ってもこの本の最大の "読みどころ" は、グスタフ・マーラーの音楽について二人が語り合った部分でしょう(個人的感想ですが)。本のうちの 84 ページが「グスタフ・マーラーの音楽をめぐって」と題した章になっています。360 ページほどの本なので、4分の1近くが「マーラー論」ということになります。そして、ここで展開されている「マーラー論」は納得性が高く「その通り!」と思うことが多々あったので、何点かのポイントを以下に紹介したいと思います。以下、引用中の下線・太字は原文にはありません。
マーラーの復興
小澤征爾さんがはじめてマーラーに接したのは、アメリカのマサチューセッツ州・タングルウッドで夏期に開かれる音楽学校の学生の時だった、とあります。同室の学生がマーラーの交響曲 第1番と第5番のスコアを勉強しているのを見たのが最初だったと・・・・・・。小澤さんは大きなショックを受けました。
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そして、楽譜で初めて接したマーラーをどう思ったのかが書かれています。ここは村上さんが「仰天した」と言っているところです。
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「それまで一度も聴いたことがないマーラーの音楽を、楽譜で読んで強い感銘を受けたという話には仰天させられた」と、村上さんは本書に書いています。
小澤さんがマーラーの生演奏を初めて聴いたのは、レナード・バーンスタインのアシスタントとしてニューヨークにいた時だといいます。それまでは聴いたことがなかったわけです。小澤さんがアシスタントだったのは1960年代初頭(1960-63)なので、20歳代後半ということになります(1935年生まれ)。桐朋学園の音楽科を卒業しプロの指揮者としての活動を開始した人が、20歳台後半までマーラーの音楽を聴いたことがなかった。しかも初めてマーラーに接したのは楽譜だった・・・・・・。現在では全く考えられない話ですが、50年前にはそうだったわけです。
マーラーが亡くなったのは1911年です。しかしその後「ナチが政権をとった1933年から戦争が終わる1945年まで、12年の長きに渡ってマーラーの音楽が文字通り抹殺されてしまった歴史」(p.249)があるのですね。それが演奏されなくなった大きな要因でしょう。
マーラーの音楽の復興に大きく貢献したのが、レナード・バーンスタインです。彼は1960年代にニューヨーク・フィルの演奏会で執拗にマーラーの交響曲をとりあげ、全曲を録音しました。また、かつてマーラーの本拠地だったウィーンに出向き、それまでマーラーには "冷たかった"(村上さんの表現)ウィーン・フィルで演奏したわけです。
レナード・バーンスタインは小澤さんの先生にあたる人です。小澤さんの指揮者としてのキャリアの初期にバーンスタインのそういう活動があり、それを彼は間近に見ていた。マーラーの音楽は小澤さんにとって特別のものであることが想像できます。本書で小澤さんが語っている「マーラー論」は、そのことを抜きにしては考えられないと思います。
小澤さんが「1960年代以前はマーラーを取り上げる指揮者はあまりいなかった、取り上げていたのはマーラーの弟子のワルターぐらいで、そのワルターのレコードも聴いたことがない」と語るところで、すかさず村上春樹さんが次のように発言しています。
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マーラーの演奏史・録音史が概観されています。ワルターとメンゲルベルクの1930年代の録音というとモノラル録音・SPレコードの時代ですが、最近はCDによる復刻版も出ているようなので、村上さんはそれを聞いたのだと想像します。小澤さんとの対談の準備とも考えられますが、そうであるにせよ、1930年代の録音を聞いみようとする村上さんのレコード・マニアぶりがよく分かる一節です。
(ウィーン国立歌劇場)
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細部を掘り下げ、全体を浮かび上がらせる
ここからはマーラーの音楽そのものについてです。まずその特色は、音楽が非常に複雑に聞こえることです。
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小澤さんによると、音楽の個々の要素は比較的単純であり、わけの分からないものではない。気持ちが入りさえすれば理解できる。ただ、それが幾つも重なるので、こんがらかって複雑に聞こえるといいます。
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マーラーの演奏では、その複雑さを構成している細部が重要です。1960年代以降の「マーラー復興」における演奏では「細部を突っ込んでいけば全体が浮かび上がる」というアプローチが重要視されるようになり、これにはバーンスタインの功績が大だったといいます。
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演奏者は自分のパートを気持ちを込めて渾身の力で弾かねばならないと小澤さんは言ってるのですが、その演奏はプロにとっても難しい部分が多々あるようです。バーンスタインがマーラーに取り組んでいる頃のニューヨーク・フィルの楽団員の様子があります。
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演奏技術も進歩するので、半世紀前のニューヨーク・フィルよりも現代のオーケストラの技術の方が上でしょう。しかし現代でもマーラーの演奏は難しいという話を聞きます。本書の中でも小澤さんは「演奏家にしてみれば、こんなことできっこないよ、というくらいの部分もあるみたい」(p.236)と語っています。「弦楽器にしたって、これがもう技術的に限度だ、みたいなことをさせられる」(p.255)という発言もある。
半世紀前には全然メジャーでなかったマーラーをニューヨーク・フィルの「楽団員が必死になってさらっている」という小澤さんの回想は、いかにもそうだろうと思わせるものがあります。
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レナード・バーンスタイン
ニューヨーク・フィルハーモニック 「マーラー交響曲全集」
1960年(第4番)から1967年(第6番)に至る、1960年代に録音されたバーンスタイン最初のマーラー交響曲全集である(旧全集)。第8番だけがロンドン交響楽団との共演。
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楽譜の指示の細かさ
マーラーの音楽の特色の一つは「楽譜に書き込まれた指示の細かさ」だと言います。これは聴いているだけでは分からないので、プロの音楽家ならではの感想です。指示は音楽の表情から始まって演奏方法にまで及んでいます。
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マーラーの書いた楽譜には、こと細かに演奏方法の指示がされています。しかしそれにもかかわらず、指揮者によって音楽が大きく変わって聞こえる。それはなぜなのか。
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マーラーの楽譜には、演奏方法についての具体的な指示を越えた「概念的な」指示もあります。交響曲 第1番の第3楽章の「葬送のマーチ」についての会話です。このあたりは楽譜を見ながらの対談です。
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さまざまな指示を楽譜に書き込んだマーラーですが、不思議なことにテンポの指示だけはありません。
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3番と7番はなんだか「あやしい」
マーラーの音楽の特徴の一つは「形式(フォーム)を意識的に崩した音楽」だということです。村上さんはまず、交響曲 第2番『復活』の第5楽章から質問しています。このあたりの会話は「その通り」と強く思ったので、ちょっと長くなりますが、引用します。
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『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本全体で、個人的に最も共感を覚えたのはこのくだりです。マーラーのシンフォニーでどれが一番好きかと質問されたら、私なら「3番」と即答します。あらゆるジャンルの曲で生演奏をもっとも多く聴いたのがこの曲です。その次に好きな曲はというと「7番」です。
ほかのシンフォニーが好きでないのかというと、そんなことは全くありません。9番を論議の対象外として、全部好きです。9番は村上さんがいみじくも言っているように「別格」です。我々は9番をじっと聴き、その壮絶で悲壮な美しさに打たれ、敬虔な気持ちになって、心が再生できればよい。一番好きとかそうでないとか、そういう下世話な議論の対象にすべき音楽ではありません。その9番は別格として、マーラーのシンフォニーで個人的に最も好きな2曲を小澤さんは「あやしい」と言っているわけです。「我が意を得たり」という感じです。
3番について村上さんの表現を借用すると、第5楽章までは「あっちいったり、こっちいったり」で「なんでこんなところで、こんな風になるんだ」と思うことも多々あります。「最後にカタルシスがやってくる」第6楽章も含めて、とにかく全体にダラダラと長く、演奏に1時間半近くもかかる。しかしその長いところがこの曲の魅力であり、小澤さんの言う「あやしい」ところに強く惹かれます。
7番を指して「混乱している」という評論を読んだことがありますが、ちゃんとした演奏を聴けば決してそんなことはありません。指揮者として「相当集中してしっかりやらないと、途中で溺れる」と、小澤さんは言っています。溺れてしまった指揮者の演奏が混乱して聞こえるのだと思います。溺れない指揮者の代表は(7番に関しては)クラウディオ・アバドだと思います。
小澤征爾
ボストン交響楽団 「マーラー交響曲全集」
1980年(第8番)から1993年(第3番)にわたって録音された全集である。
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(続く)
No.135 - 音楽の意外な効用(2)村上春樹 [音楽]
(前回から続く)
前回からの続きです。「音楽を愛でるサル」(No.128, No.129)の要点は、以下の3つでした。
◆ | 音楽の記憶は「手続き記憶=体の記憶」であり、言葉の記憶とは異なる。手続き記憶とは、
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◆ | 音楽は「認知的不協和」を緩和する働きをもつ。「認知的不協和」とは、「したくてもできない」という状況に置かれたときの心の葛藤を言う。この音楽の働きは、俗に言う「モーツァルト効果」の一つである。 | ||||||||||
◆ | ヒト(霊長類)は、節をつけて声を発することをまず覚え、そこから言語が発達した(と推定できる)。 |
今回は最後の項目の「言葉と音楽の関係」です。
小澤征爾さんと音楽を語る
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本があります(新潮社。2011)。この本は作家の村上春樹氏が企画し、村上さんが小澤さんとの対談を何回か行って、その録音をもとに村上さんがまとめた本です。小澤征爾さんが経験した音楽界の「内幕」がいろいろ語られていたりして、大変に興味をそそる本です。
この本の大きなポイントは、村上春樹さんが大の音楽好きで(クラシック音楽とジャズ)、またレコード・マニアだということです。本の中では、小澤さんもびっくりするような音楽知識を村上さんが知っていたり、また超レアなレコードを持っていたりなど、いろいろと出てきます。「アマチュアの音楽好き」が「プロの音楽家」と音楽の話をするわけですから「村上さんが小澤さんにインタビューする」のが基本ですが、村上さんも語られる音楽についての意見をいろいろと言ったりしていて、ユニークな対談になっています。
この本の中で村上さんは、文章を書く技術を音楽に学んだという主旨の発言をしていました。言葉と音楽の関係に関わる話なので、そこを抜き出してみます。
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村上さんは「文章の書き方を音楽から学んだ」と明言しています。もちろん若いときから大量の本を読んできただろうし、その経験が文章を書くときの糧になっていることは想像に難くありません。しかし、文章力を向上させようと意識して学んだのは音楽からだ、と発言しているわけです。
ここで取り上げられている「文章のリズム」ということですが、村上さんはその「リズム」が作家の最重要資質だと考えているようです。
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対談相手の小澤征爾さんは「文章のリズム」が必ずしも納得できないので、村上春樹さんに質問します。
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小澤さんには思い当たるフシがありました。小澤さんは成城に住んでいるのですが、この前、ある候補者の選挙パンフレットを読んだところ、どうしても3行以上は読めなかった、「この候補者はダメだ」と思った、という経験です。
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この最後に引用したところで村上さんは、
夏目漱石の文章はとても音楽的だが、それは江戸時代の「語りもの」の影響が大きい |
と推測しているのですが、ここで「音楽を愛でるサル」が想起されます。「音楽を愛でるサル」において京都大学の正高教授は、浄瑠璃の「リズム」を解説していました。つまり、
◆ | 浄瑠璃の七五調の節回しは、3拍子のリズムが基本となっている。 | ||
◆ | その3拍子も、日本語の音節数でいうと 3・4・5 2・5・5 7・3・2 4・3・5 などの各種の3拍子があって(数字は音節数)、それがリズムを作っている |
という点です。言葉に音楽の要素(節やリズム)が加わることによって、言葉は「体に染み込む」ものになるのです。一般に、江戸時代以前に成立した日本の声楽は、
・ | 歌いもの | ||
・ | 語りもの |
に分けられます。「歌いもの」は旋律やリズムなどの音楽的要素に主体があるもので、小唄や長唄、地唄がそうです。一方「語りもの」は、言葉で語られる内容に主体があり、浄瑠璃、義太夫、浪曲、浪花節などがあります。
村上さんは「夏目漱石は語りものに影響をうけた」と推定しているのですが、どういう「語りもの」のジャンルかは分かりません。しかしいずれにせよ、「話を語るときに音楽的要素(旋律・節とリズム)が付帯したもの」であることは確かで、これと村上さんが大切にしている「リズムをもった小説の文章」は非常に近いことになります。
①器楽曲 | 小澤征爾 | |||
②歌曲 | ||||
③歌いもの | ||||
④語りもの | ||||
⑤言葉(演劇・朗読) | ||||
⑥文章(小説・詩) | 村上春樹 |
という一連の文芸ジャンルの近接性を思います。①~④に共通するのは「旋律・節」であり、②~⑥は「言葉」です。そしてこれらのジャンル、①~⑥のすべてを貫いているのは、程度の差こそあれ「リズム」なのですね。村上春樹さんが言いたかったことは、そういうことだと思いました。
ひょっとしたら
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読んで改めて認識したのは、村上春樹という人がものすごい「音楽好き」だということです。つまり、文章の書き方を音楽に学んだと断言するほどに音楽好きなのです。村上さんは以前にも音楽評論の本(「意味がなければスイングはない」 文藝春秋。2005)を出しているので「音楽好き」は分かっていたつもりですが、改めて認識しました。それは小澤征爾さんの「あとがき」の言葉にも現れています。
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「正気の範囲をはるかに超えた」音楽好きの人が、「音楽から学んだ」文章の書き方で小説を書き、世界的な(ノーベル文学賞候補にもあげられる)小説家となる・・・・・・。村上文学を評論する評論家は数多くいますが、「音楽と村上文学の関係」を評論の視点に入れることが必須だと思いました。
そしてひょっとしたら・・・・・・。
村上文学の中には、音楽が隠れた「下敷き」となってる小説があるのでは、と夢想してしまいました。『ノルウェーの森』のように音楽そのものが出てくる小説ではありません。音楽はいっさい出てこないが、下敷きに音楽があるという小説です。
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本はマーラーの音楽について多くのページがさかれています。たとえば、マーラーの交響曲 第1番「巨人」の楽章の構成、各楽章の曲想の展開順序、そういったものに対応してストーリーが展開する小説があるのではないだろうか。音楽はひとつも出てこないけれど・・・・・・。そういった想像です。村上さんは「文章の書き方を音楽から学んだ」と明言しているのだから、小説の組み立てやストーリーの流れを音楽から学んだとしてもおかしくはないと思うのです。
いまマーラーと書いたのは全くの例であって、本にあったからに過ぎません。村上さんはクラシック音楽とジャズについては「正気の範囲をはるかに超えた音楽好き」(小澤征爾)なのです。村上作品のどこかに、音楽が「ネタ」になった小説があるのではないか・・・・・・。こういう想像を誘発するような本でした。
No.134 - 音楽の意外な効用(1)渋滞学 [音楽]
No.128, No.129「音楽を愛でるサル」の続きというか、補足です。
「音楽を愛でるサル」で紹介した研究(京都大学霊長類研究所の正高教授による)の要点は、以下の3つでした。
このことに関係した話題を書きます。「音楽の意外な効果」と呼べるものですが、「渋滞学」に関係した話です。
渋滞学
東京大学の西成活浩教授は『渋滞学』(新潮社。2006)という本を書き、大変に有名になりました。この本で西成教授は分野横断的にさまざまな渋滞現象を取り上げています。その中で、我々の非常に身近なものとして高速道路の「自然渋滞」が解説されています。高速道路で起こる各種の渋滞のうち、「事故」「工事」「合流」「出口」などの「通行上の障害」が原因のものは理解しやすいわけです。しかし不思議なのは自然渋滞です。自然渋滞の中ではノロノロ運転が続き、途中で完全にストップしたりもするが、いったん渋滞を抜けると道路はガラガラ、という経験がよくあります。途中に「通行上の障害」らしきものは何も見当たりません。この自然渋滞が起こるメカニズムは『渋滞学』によると以下のようです。
高速道路に「サグ」を作ってしまった以上、自然渋滞を回避するためには速度低下が起きないようにドライバーが注意するか(「速度低下注意」の看板)、クルマの密度を減らすしかないように見えます。しかし西成教授は実測データの分析の結果、重要な指摘をしてます。それは、
ことです。クルマの密度で言うと「1車線あたり、1kmの間に25台の通行量」ということになります。
よく「時速の数字だけの車間距離をあけろ」と言われます。時速80kmだと車間を80メートルあけよ、というように・・・・・・。クルマの制動距離を考えて事故回避のために必要な車間ということだと思います。これは「理想的には」ということで、それだけの車間距離をとるのは現実の運転ではちょとむずかしい。しかし、その半分の40メートルの車間距離を常にとるのは、そんなに違和感がないと思います。つまりドライバーが「気をつけて、協調して運転」すれば自然渋滞は回避できるわけです。しかしそれが出来ないのが人間の悲しいところです。どうしても車間距離を詰めてしまう。
自然渋滞から言える教訓は、
ということです。西成教授はそれを渋滞現象で分析的に説明したわけです。そもそも西成教授は数理物理学者であり、その手法を社会現象に応用したものです。
社会における渋滞現象は、交通網だけではありません。宅配業における配送拠点での荷物の渋滞とか、工場における部品・中間生産物・完成品の在庫の問題とか、インターネット上のメールの渋滞とか、いろいろあります。
しかし社会現象で我々に身近な渋滞は、「クルマの渋滞」についで「人の渋滞」でしょう。つまり多人数の人が集まる建物やホールで、「窓口」「入口」「出口」の人の渋滞です。
そこで音楽との関係になります。西成教授はある講演で大きなホールから多人数が出るときの「出口」の渋滞を取り上げていました。これが音楽と関係しています。その話です。
70 BPM の音楽
BPM とは「Beat Per Minute」の略で、音楽における「1分間の拍子数」のことです。70 BPM の音楽とは「メトロノームが1分間に70回打つ音楽のスピード」を意味します。BPM は心臓の鼓動にも使います。西成教授はその講演で、以下のように発言をしていました。
なるほど・・・・・・。講演では流すべき 70 BPM の曲の例はなかったのですが、ネットの情報によると西成教授は森山良子さんの「さとうきび畑」を推奨しているようです。「♪ ざわわ、ざわわ、ざわわ」という例の歌です。反戦歌ですが、歌詞の内容より 70 BPM という速度が重要なのでしょう。ただ、きっかり 70 BPM でないとまずいのかは分かりません。80 BPM ではだめなのか。西成教授はたまたま「歩行の同期」を発見し、その時の音楽が 70 BPM だったのか。そのあたりは是非、先生に尋ねたいところです。
この話のポイントは「同期」と「無意識」だと思います。自然渋滞を回避するために40メートルの車間距離を保てばよいというのは、一人のドライバーだけがそうしたのではダメで、皆がそうしなければならない。「協調し」「同期して」運転するというのがキーポイントです。
退出時の「歩行の同期」も同じ話です。70 BPM というのは歩行のリズムに近いわけです。従って70 BPM の音楽は人々の歩行の同期を引き起こす。出口に早足で我先にと行くことが少なくなり、人の流れが整流化され、これが「全体最適」を生んで退出時間が短くなる・・・・・・。そういうことだと考えられます。70 BPM というのは人間の心拍数(65~75が普通)に近いので、それも影響しているのかもしれません。
もう一つのポイントは「無意識」です。西成教授の話は、
わけです。あくまで何も言わずにBGMとして 70 BPM の音楽を流すに過ぎない。行進曲ではないので、音楽に合わせて意識的に歩くというのでもない。それでも歩行の同期が起きる。スピーカーで「あわてずに、ゆっくりと退出してください」と言うよりは効果的なのでしょう。そういう風に言葉で「指示」されると、反発する人も出てきそうです。
最初に「音楽を愛でるサル」の要約で述べたように、音楽の記憶は「体の記憶」であり、音楽は体に直接影響します。BGMというと「人の気分を和ませる」といった効果をすぐに連想しますが、そういった精神的影響だけでなく、体への無意識の影響があることが西成教授の実験で分かります。
モーツァルト効果
ここまで書いて思い出すことが二つあります。一つは 70 BPM は、音楽用語でいうアンダンテに近いことです。アンダンテはまさに「歩く速さで」という速度指示なのです。もっとも 70 BPM は普通はアンダンテよりも遅いアダージョの速度です。メトロノーム製造会社であるセイコー・インスツルのホームページを見ると、目安として、
とあります。Andante と指定された曲を 70 BPM で演奏するとしたら「かなり遅い演奏」になるでしょう。
もう一つ思い出すのが、音楽の「モーツァルト効果」です。「音楽を愛でるサル」の要約(この記事の冒頭)に書いたように、音楽には「認知的不協和」を和らげる効果があります。認知的不協和とは「したくてもできないという状況に置かれたときの心の葛藤」です。多人数が部屋から退出するときに「認知的不協和」とか「心の葛藤」が起こると言うのは大袈裟ですが、「早くホールから出たいのに、出れない」という「軽い葛藤」が生じると考えられます。
だとすると、音楽が「モーツァルト効果」によって葛藤を和らげ、人と人の協調と同期をより誘発しやすくするとも考えられる。以上の考察から判断すると、
ではないでしょうか。もちろん 70 BPM の音楽なら基本的に何でもよいはずですが、ここは「モーツァルト効果」にひっかけて是非とも(無理矢理でも)モーツァルトの楽曲、かつ Andante(歩く速さで)の指示のある曲にして欲しいところです。「さとうきび畑」が悪いわけではありませんが・・・・・・。
モーツァルトのアンダンテ
そこで、モーツァルトのどの曲を流すべきかという問題になります。モーツァルトのアンダンテの曲はいっぱいあります。しかし「歩行の同期を誘発する」という目的だとすると、
のが「理想」だと推測できます。これはかなり難しい設問です。モーツァルトと限定しているのが難しい。音楽全般で「時計のようにリズムを刻む楽曲」ならすぐに思いつくのですが・・・・・・。
いろいろ考えてみたのですが、交響曲 第40番 ト短調の第2楽章・Andante はどうでしょうか。その出だしは譜例70のようです。譜例はヴァイオリンとヴィオラのパートだけを抜き出したものです。
第2楽章は変ホ長調ですが、譜例70で明らかなように曲は連続した8分音符から始まります。この後も随所に8分音符の「刻み」が出てくる。これは「歩行同期誘発曲」として適しているのではないでしょうか。
この楽章を手元にある2種類の演奏で聞くと、遅い方の演奏(往年の大指揮者、クレンペラー指揮・フィルハーモニア管弦楽団)で 80 BPM 程度のようです。普通はこれよりもっと速く演奏されるし、100 BPM 以上での演奏もあるようです。そもそも演奏速度は指揮者によってかなり違うし、一般的に言ってクラシック音楽は近年の演奏ほど速くなる傾向にあると思います。
しかしこの第2楽章・Andante を 70 BPM で演奏したとしても、遅い演奏だなとは感じるでしょうが、そんなに違和感はないと思うのです。また仮に 80 BPM 程度でも歩行の同期が起こるとしたら、クレンペラーのスピードでよいことになります。もちろん「歩行同期誘発曲」としては、リズムを明確にはっきりと、メリハリを利かせて演奏するのが望ましいわけです。
「"さとうきび畑"で退出時間が短くなった」では、外国人には何のことだか分かりません。「モーツァルトの40番のシンフォニーで退出時間が早くなった」と言ってこそ、欧米人にもインパクトがあるはずです。日本を代表する大学である東京大学の西成教授としては、是非ともそうしてもらいたいと思います。
「音楽を愛でるサル」で紹介した研究(京都大学霊長類研究所の正高教授による)の要点は、以下の3つでした。
◆ | 音楽の記憶は「手続き記憶=体の記憶」であり、言葉の記憶とは異なる。手続き記憶とは、
| ||||||||||
◆ | 音楽は「認知的不協和」を緩和する働きをもつ。「認知的不協和」とは、「したくてもできない」という状況に置かれたときの心の葛藤を言う。この音楽の働きは、俗に言う「モーツァルト効果」の一種である。 | ||||||||||
◆ | ヒト(霊長類)は、節をつけて声を発することをまず覚え、そこから言語が発達した(と推定できる)。 |
このことに関係した話題を書きます。「音楽の意外な効果」と呼べるものですが、「渋滞学」に関係した話です。
渋滞学
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① | 車が一定以上の「密度」で走行している条件で自然渋滞は起きる。 | ||
② | 渋滞の「引き金」となるクルマがスピードを落とすと、後続車がブレーキをかけ、そのブレーキが次々と後続のクルマに伝播していき、ついには自然渋滞に陥る。 | ||
③ | 「引き金」となるクルマがスピードを落とす一番の理由は「サグ(sag)」と呼ばれる道路形状の箇所である。 | ||
④ | 「サグ」は、ゆっくりとした上り坂(100mで1m程度の勾配)が続く部分であり、ドライバーにとっては上り坂だとは認識しにくい。従って意図せずに走行スピードが落ち、後続車がブレーキを踏む要因となる。 |
高速道路に「サグ」を作ってしまった以上、自然渋滞を回避するためには速度低下が起きないようにドライバーが注意するか(「速度低下注意」の看板)、クルマの密度を減らすしかないように見えます。しかし西成教授は実測データの分析の結果、重要な指摘をしてます。それは、
各クルマの車間距離が40メートル以上あるとブレーキの伝播が押さえられ、自然渋滞は発生しない |
ことです。クルマの密度で言うと「1車線あたり、1kmの間に25台の通行量」ということになります。
よく「時速の数字だけの車間距離をあけろ」と言われます。時速80kmだと車間を80メートルあけよ、というように・・・・・・。クルマの制動距離を考えて事故回避のために必要な車間ということだと思います。これは「理想的には」ということで、それだけの車間距離をとるのは現実の運転ではちょとむずかしい。しかし、その半分の40メートルの車間距離を常にとるのは、そんなに違和感がないと思います。つまりドライバーが「気をつけて、協調して運転」すれば自然渋滞は回避できるわけです。しかしそれが出来ないのが人間の悲しいところです。どうしても車間距離を詰めてしまう。
自然渋滞から言える教訓は、
各人が自己の利益を追求すると、そのことが全体としての不利益を招き、それは結果として自己の不利益になってしまう |
ということです。西成教授はそれを渋滞現象で分析的に説明したわけです。そもそも西成教授は数理物理学者であり、その手法を社会現象に応用したものです。
社会における渋滞現象は、交通網だけではありません。宅配業における配送拠点での荷物の渋滞とか、工場における部品・中間生産物・完成品の在庫の問題とか、インターネット上のメールの渋滞とか、いろいろあります。
しかし社会現象で我々に身近な渋滞は、「クルマの渋滞」についで「人の渋滞」でしょう。つまり多人数の人が集まる建物やホールで、「窓口」「入口」「出口」の人の渋滞です。
そこで音楽との関係になります。西成教授はある講演で大きなホールから多人数が出るときの「出口」の渋滞を取り上げていました。これが音楽と関係しています。その話です。
70 BPM の音楽
BPM とは「Beat Per Minute」の略で、音楽における「1分間の拍子数」のことです。70 BPM の音楽とは「メトロノームが1分間に70回打つ音楽のスピード」を意味します。BPM は心臓の鼓動にも使います。西成教授はその講演で、以下のように発言をしていました。
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なるほど・・・・・・。講演では流すべき 70 BPM の曲の例はなかったのですが、ネットの情報によると西成教授は森山良子さんの「さとうきび畑」を推奨しているようです。「♪ ざわわ、ざわわ、ざわわ」という例の歌です。反戦歌ですが、歌詞の内容より 70 BPM という速度が重要なのでしょう。ただ、きっかり 70 BPM でないとまずいのかは分かりません。80 BPM ではだめなのか。西成教授はたまたま「歩行の同期」を発見し、その時の音楽が 70 BPM だったのか。そのあたりは是非、先生に尋ねたいところです。
この話のポイントは「同期」と「無意識」だと思います。自然渋滞を回避するために40メートルの車間距離を保てばよいというのは、一人のドライバーだけがそうしたのではダメで、皆がそうしなければならない。「協調し」「同期して」運転するというのがキーポイントです。
退出時の「歩行の同期」も同じ話です。70 BPM というのは歩行のリズムに近いわけです。従って70 BPM の音楽は人々の歩行の同期を引き起こす。出口に早足で我先にと行くことが少なくなり、人の流れが整流化され、これが「全体最適」を生んで退出時間が短くなる・・・・・・。そういうことだと考えられます。70 BPM というのは人間の心拍数(65~75が普通)に近いので、それも影響しているのかもしれません。
もう一つのポイントは「無意識」です。西成教授の話は、
70 BPM の音楽を流して「さあ皆さん、音楽に合わせてゆっくり退出しましょう」というのではない |
わけです。あくまで何も言わずにBGMとして 70 BPM の音楽を流すに過ぎない。行進曲ではないので、音楽に合わせて意識的に歩くというのでもない。それでも歩行の同期が起きる。スピーカーで「あわてずに、ゆっくりと退出してください」と言うよりは効果的なのでしょう。そういう風に言葉で「指示」されると、反発する人も出てきそうです。
最初に「音楽を愛でるサル」の要約で述べたように、音楽の記憶は「体の記憶」であり、音楽は体に直接影響します。BGMというと「人の気分を和ませる」といった効果をすぐに連想しますが、そういった精神的影響だけでなく、体への無意識の影響があることが西成教授の実験で分かります。
モーツァルト効果
ここまで書いて思い出すことが二つあります。一つは 70 BPM は、音楽用語でいうアンダンテに近いことです。アンダンテはまさに「歩く速さで」という速度指示なのです。もっとも 70 BPM は普通はアンダンテよりも遅いアダージョの速度です。メトロノーム製造会社であるセイコー・インスツルのホームページを見ると、目安として、
ゆっくりと | 音符=66~76 | |||||
歩くような速さで | 音符=76~108 |
とあります。Andante と指定された曲を 70 BPM で演奏するとしたら「かなり遅い演奏」になるでしょう。
もう一つ思い出すのが、音楽の「モーツァルト効果」です。「音楽を愛でるサル」の要約(この記事の冒頭)に書いたように、音楽には「認知的不協和」を和らげる効果があります。認知的不協和とは「したくてもできないという状況に置かれたときの心の葛藤」です。多人数が部屋から退出するときに「認知的不協和」とか「心の葛藤」が起こると言うのは大袈裟ですが、「早くホールから出たいのに、出れない」という「軽い葛藤」が生じると考えられます。
だとすると、音楽が「モーツァルト効果」によって葛藤を和らげ、人と人の協調と同期をより誘発しやすくするとも考えられる。以上の考察から判断すると、
退出時に流す音楽は、モーツァルトのアンダンテの曲を 70 BPM で演奏したものが最適 |
ではないでしょうか。もちろん 70 BPM の音楽なら基本的に何でもよいはずですが、ここは「モーツァルト効果」にひっかけて是非とも(無理矢理でも)モーツァルトの楽曲、かつ Andante(歩く速さで)の指示のある曲にして欲しいところです。「さとうきび畑」が悪いわけではありませんが・・・・・・。
モーツァルトのアンダンテ
そこで、モーツァルトのどの曲を流すべきかという問題になります。モーツァルトのアンダンテの曲はいっぱいあります。しかし「歩行の同期を誘発する」という目的だとすると、
◆ | 70 BPM で演奏しても違和感がなく | ||
◆ | リズムが比較的単調で | ||
◆ | そのリズムが目立ち | ||
◆ | 極端に言うとメトロノームのようにリズムが刻まれる |
のが「理想」だと推測できます。これはかなり難しい設問です。モーツァルトと限定しているのが難しい。音楽全般で「時計のようにリズムを刻む楽曲」ならすぐに思いつくのですが・・・・・・。
いろいろ考えてみたのですが、交響曲 第40番 ト短調の第2楽章・Andante はどうでしょうか。その出だしは譜例70のようです。譜例はヴァイオリンとヴィオラのパートだけを抜き出したものです。
第2楽章は変ホ長調ですが、譜例70で明らかなように曲は連続した8分音符から始まります。この後も随所に8分音符の「刻み」が出てくる。これは「歩行同期誘発曲」として適しているのではないでしょうか。
この楽章を手元にある2種類の演奏で聞くと、遅い方の演奏(往年の大指揮者、クレンペラー指揮・フィルハーモニア管弦楽団)で 80 BPM 程度のようです。普通はこれよりもっと速く演奏されるし、100 BPM 以上での演奏もあるようです。そもそも演奏速度は指揮者によってかなり違うし、一般的に言ってクラシック音楽は近年の演奏ほど速くなる傾向にあると思います。
しかしこの第2楽章・Andante を 70 BPM で演奏したとしても、遅い演奏だなとは感じるでしょうが、そんなに違和感はないと思うのです。また仮に 80 BPM 程度でも歩行の同期が起こるとしたら、クレンペラーのスピードでよいことになります。もちろん「歩行同期誘発曲」としては、リズムを明確にはっきりと、メリハリを利かせて演奏するのが望ましいわけです。
「"さとうきび畑"で退出時間が短くなった」では、外国人には何のことだか分かりません。「モーツァルトの40番のシンフォニーで退出時間が早くなった」と言ってこそ、欧米人にもインパクトがあるはずです。日本を代表する大学である東京大学の西成教授としては、是非ともそうしてもらいたいと思います。
(続く)
No.130 - 中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録 [音楽]
No.64~68 は「中島みゆきの詩」と題して、中島みゆきさんが35年に渡って書いた詩(の一部。約70編)を振り返りました。その中の No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」では、現代社会に対するメッセージと考えられる詩や、社会と個人の関わりについての詩を取り上げました。今回はその続きです。
最近、内田樹氏の「街場の共同体論」(潮出版社 2014)を読んでいたときに、中島さんの「社会に関わった詩」を強く思い出す文章があったので、そのことを書きます。
内田 樹・著「街場の共同体論」は、家族論、地域共同体論、教育論、コミュミケーション論、師弟論などの「人と人との結びつき」のありかたについて、あれこれと論じたものです。主張の多くは内田さんの今までのブログや著作で述べられていることなのですが、「共同体 = 人と人との結びつき」に絞って概観されていて、その意味ではよくまとまった本だと思いました。この中に「階層社会」について論じた部分があります。
階層社会の本質
「階層社会」という言葉をどうとらえるかは難しいのですが、ここではごくアバウトに、
という風に考えておきます。人の格差を測定する"ものさし"とは、その人の「年収」や、もっと曖昧には「社会的地位」であり、固定的とは、階層上位のものは(あるいは集団は)ずっと上位にとどまり、それは世代を越えて続く傾向にあることを言います。この階層社会の特徴、ないしは本質を、内田さんは
と、とらえています。でないと階層社会はできあがらないと・・・・・・。格差の"ものさし"である年収で言うと、誰だって年収は多い方がいいわけです。なぜ「自らの意志で階層下位にとどまろうとする」のか。その重要な要因は、
というのが、内田さんの見立てです。そのメッセージは時とともに変わる。それは、あまり長く続けているとメッセージの欺瞞性がバレてしまうからです。一時「自分探し」とか「自分らしさの探求」とか「自己実現」が大々的に宣伝されたことがありました。しかし、さすがにそれではまずいと多くの人が気づいた。趣味の世界の話ならまだしも、「自分探し」などという理由で転職をすると、ごく一部の人はそれで成功するかもしれないが、多くの人はそうではなく、結局「転職産業」と「人材派遣会社」と「低賃金かつ解雇しやすい労働者を確保したい企業」の利益になるだけなのですね。「自分探し」は、大多数の人にとっては「自滅的イデオロギー」です。
しかし「階層下位のものが階層下位にとどまるように仕向けるメッセージ」は、手を変え品を変えて継続的に続いています。その例として内田さんがあげている代表格が、
です。反知性主義について、内田さんは次のように書いています。
確かに、自分の興味の範囲だけで生きていては上位には行けません。「自分はものごとを知らない、だから知りたい」という態度で人に教えを請い、また勉強もする。そして人的ネットワークを広げ、自分の興味の幅も広げて、自身の能力を磨く・・・・・・。会社を考えてみても、新入社員の時からその後のキャリア・アップまで、そういうタイプの人間の査定が高くなり上位ポジションへと引き上げられる(=年収が多くなる)のは当然です。
なかなか中島みゆきさんの詩との関係にまで行かないのですが、次の「クレーマー」ついての内田さんの文章が、それと関係しています。
クレーマー的人間
「階層社会では、階層下位のものが、自らの意志で階層下位にとどまろうとする」例の一つとして内田さんが指摘しているのが、クレーマー的人間です。そして、クレーマーの増加を助長したのはメディアの責任だと、内田さんは言っています。
内田さんが指摘するメディアの責任とは、
ということです。確かに、大きな事件や事故が起きたときにテレビの情報番組を見ていると「レポーター」や「コメンテーター」と称する人たちが出てきて、その事件・事故の「責任者」を「一方的」に宣告し、いかにも「被害者に成り代わってという態度で」責任を追求する(強く言えば、糾弾する)ことがよくあります。宣告された「責任者」とは、公的な職についている人だったり(警察、自治体の担当官、学校の先生、・・・・・・)、企業の経営層だったりです。こういう報道姿勢がクレーマー的人間の増長させている一つの要因でしょう。内田さんは一つの報道をあげています。
内田さんが言う「暴漢が小学校に進入して、小学生を襲った事件(その結果、二人の先生が死傷)」とは何でしょうか。まず思い出すのは、2001年、大阪教育大学附属池田小学校にテロリストが進入し、小学生を無差別に刃物で殺傷した前代未聞の事件です(=附属池田小事件)。この事件では児童8名が殺され、児童13名と教員2名が重軽傷を負いました。わずか5~10分間の犯行だったと言います。
また2005年には、大阪の寝屋川市立中央小学校に暴漢(卒業生の少年)が侵入し、一人の教師の方を殺害し、教師と栄養士2人に重傷を負わせる事件が発生しました(=寝屋川中央小事件)。この時には授業中の小学生は襲われませんでした。犯人の在校当時の教師に対する恨み(死傷した教師は無関係)が「動機」だったようです。
どちらかの事件だと思いますが、附属池田小事件だとすると「教師が死亡」というのは違っているし、寝屋川中央小事件だとすると「小学生を襲う」というところが違っています。内田さんも混同したのかもしれません(ただし、私の記憶にない別の事件の可能性もある)。
しかしそれは些細なことであって、論旨には影響しません。内田さんの言いたいことは、こういう事件でメディアは何を報道すべきかということです。仮に附属池田小事件の例だとしても、重傷を負った教師は死ぬかもしれなかったわけだし、凶器を振り回すテロリストを素手で取り押さえた教師たちも一歩間違えば死んでもおかしくはなかった。前代未聞の、しかもわずか10分以内の無差別テロに対して、附属池田小の教師の方々は混乱状況の中で精一杯のことをしたのではないでしょうか。また、寝屋川中央小事件だとすると、実際に教師の方が包丁で刺されて亡くなっているのです。
「学校は何をしていたんだと怒鳴りつける発言を、まず報道するのはおかしい」という内田さんの指摘は、全くその通りだと思います。
実は『街場の共同体論』のこの部分で、中島みゆきさんのある歌を連想してしまいました。No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でもとりあげた《4.2.3.》です。
メディアの報道に対する異議申し立て
No.67で書いたことを簡単に振り返りますと、1996年12月17日、ペルーの首都・リマにある在ペルー日本大使公邸に反政府組織(トパク・アマル革命運動。MRTA)のメンバーが乱入し、日本人・日系ペルー人を中心に約600人を人質にとって立てこもるという事件が勃発しました。「ペルー日本大使公邸占拠事件」です。事件は4ヶ月後の1997年4月22日(日本時間、4月23日)、ペルー軍の特殊部隊が大使公邸に突入し、最後まで残った人質72人のうち71人を救出することで幕を閉じました。しかし人質一人(ペルー最高裁判事)と突入したペルー軍特殊部隊の兵士二人が犠牲になったのです。特殊部隊の突入と人質救出の模様は全世界にテレビ中継され、その映像はニュースで何回となく放映されました。負傷した特殊部隊の兵士が担架で運び出される生々しい様子などです。
そして中島さんは「日本人人質の安否や、日本人は無事ということだけを放送し、人質を救うため命をかけて突入して重傷を負った(実際は死んだ)兵士の安否については、全く一言も触れなかった日本のテレビの実況中継」に対して、非常に強い違和感をいだいたのです。
『街場の共同体論』における内田さんの論と、中島さんの《4.2.3.》はテーマは全く違いますが、以下の点で大変よく似ています。
の2点です。「テロリストを許すな」とか「テロに屈服するな」と論陣を張るメディアなら、現場の最前線でテロと対峙した人たち、しかもそれによって死傷した人たちのことを大きく(賞賛も込めて)報道するのが当然でしょう。『街場の共同体論』を読んでいて中島みゆきさんの歌を連想したという一つはこの点でした。
しかし、ここまでに書いたことは、実は「前振り」と言うか、連想したことの一部です。『街場の共同体論』を読んでいて最も強く中島さんの歌を連想したのは別の部分なのです。
黙示録
内田さんは『街場の共同体論』で、少年犯罪件数の戦後のピークが1958年だったことを述べています。自殺率のピークも1958年だそうです。これは「少年犯罪が最近増えている、という全く根拠のない論調」に対する反論なのですが、その議論はここではさておきます。その1960年前後がどういう時代だったのか、内田さんは次のように書いています。
「黙示録」というのは言うまでもなく、新約聖書の最終文書である「ヨハネの黙示録」のことです。そこでは世界の終末、キリストの降臨、最後の審判などが語られています。
現代史を振り返ってみると、第2次世界大戦が終了してから旧ソ連の崩壊(1989年)までの45年の期間は、いわゆる「冷戦 = Cold War」の期間でした。アメリカとソ連という、大量の核兵器を保有する2つの超大国の「冷たい」戦争が続きました。最も核戦争の危機に近づいたのは1962年のキューバ危機だと思いますが、両大国の直接戦争にならないまでも、冷戦を背景とする「代理戦争」がいろいろあった。アメリカ軍がベトナムに介入したベトナム戦争(1960-1975)や、ソ連軍のアフガニスタン侵攻(1979-1989)などです。ソ連のアフガニスタン侵攻は、1980年のモスクワオリンピックを西側諸国がボイコットするという事態に発展しました。
1983年には、ソ連の領空に進入した大韓航空の旅客機が撃墜されるという事件が起こりました。真相は不明の部分が多いのですが、大韓航空機は「誤って」ソ連領空を侵犯し、ソ連空軍は民間航空機を「誤って敵の軍用機とみなして」撃墜したとされています。ということは、偶発的事件が米ソの直接対決を招きかねないということです。その最悪の事態は核戦争です。
冷戦は文学作品や映画にも影響を与えています。有名なところで言うと、ネヴィル・シュートの小説『渚にて』(1957。映画:1959)は「核戦争で人類が終末を迎える、その終末の迎えかた」の物語です。スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』(1964)は、核戦争というテーマをブラック・コメディに仕立てたものでした。1980年代に至っても影響は続きます。アーノルド・シュワルツネッガーを一躍スターにした映画『ターミネーター』(ジェームズ・キャメロン監督。1984)においては、未来の地球がロボットと人類の戦争状態になっています。その戦争は、意志を持ってしまったコンピュータが人類を抹殺するために核戦争のボタンを起動したのが発端、という設定です。ここにあげた作品はいずれもSF(Science Fiction)ですが、そもそもSFは冷戦を背景として興隆したジャンルなのですね(内田さんの指摘)。
冷戦の約45年間の期間は、緊張が極度に高まった時から、緩んだ時期までいろいろあり、それが繰り返されたのですが、とにかくこの期間は日本のみならず世界の人たちが「黙示録的な恐怖」を潜在的に感じていたのだと思います。少なくとも内田さんは、同時代を生きた経験からそう振り返っている。人々が日常会話で口に出すことは決してなかったけれど・・・・・・。
内田さんが「黙示録的な恐怖」を持ち出したのは、高い自殺率と少年犯罪件数の背景にそれがあるという仮説につなげるためなのですが、その論の妥当性はここではさておきます。
実はこの「黙示録的な恐怖」という文章で強く連想した中島みゆきさんの楽曲があります。映画『ターミネーター』と同じ1984年(32歳)に発表されたアルバム『はじめまして』に収録されている《僕たちの将来》です。
僕たちの将来
何となく「危うい感じ」がする若い男女の物語です。アルバムが発表された1984年というと、高度成長期の真っただ中ですね。そこで描かれるのは、宿で寝た恋人たちが(いわゆるラブホテルでしょう)、深夜に抜け出して24時間営業のファミレス(おそらく)に行き、ビールを飲みながらスパゲティとステーキを食べるという情景です。2人の若者が生まれた頃(たとえば1960年前後)には考えられもしなかった「ライフスタイル」が、ここでは現実になっている。いかにもありそうな光景ですが、当時としては、ある意味では「時代の最先端の」風俗だったのでしょう。
しかしこの曲は単に風俗を描いただけではありません。4つの点で「えっ」と思わせるものがある。一つ目は「閃光」という言葉です。実は、
というところを、中島さんは、
と歌っています。歌としては、つまり聴いているだけでは「光」です。しかし文字で書かれた「詩」としては「閃光」なのです。
閃光とは瞬間的に輝く強い光のことです。日常生活で経験するのは、稲妻、打ち上げ花火、カメラのフラッシュなどでしょう。しかし「非日常の」閃光もある。それは、爆弾の爆発や大砲の発射時に出る閃光です。そして人類が作り出した最も強い閃光を放つものが何かは書くまでもないでしょう。「将来は光の中」だと「未来は明るい」というようなイメージをまず持ちますが、「将来は閃光の中」だと、全く反対の意味にとる方が自然です。
2つ目は、詩の終わりの方で唐突とも思える感じで出てくる「戦争」という言葉です。ファミレスでの男女のたわいのない会話を並べただけの詩だと思って聴いていると、それは完全に裏切られてしまう。「暑い国の戦争」とありますが、アルバムが発売された1984年当時は、たとえばアフガン戦争のまっただ中でした。
3つ目は、最後にある、
という一言です。「将来は良くなってゆく筈だね」と2回繰り返したあとに出てくるのは、「良くなってゆくだろうか」という疑問形なのです。中島さんは、この部分だけは「強く、厳しく、問い詰めるような口調」で歌っています。
4つ目は、歌が終わったあとに挿入された「カウントダウン」のエフェクトです。ゆっくりとした、低い、押し殺したような男の声で、Six から始まって Three まで続き、Two の途中で途切れます(アルバムでは途切れてすぐに最後の曲である『はじめまして』が始まる)。
「閃光」「戦争」「カウントダウン」という"仕掛け"が配置されたうえに、最後は「将来は良くなってゆくだろうか」という疑問形で終わるこの曲は、「黙示録的な不安感」をバックにしたものだと思います。それが核戦争のことかどうかは分かりません。しかし、もっと一般化して、
と考えるなら、そういう感情を背景にしているのだと思います。深夜の24H営業のファミレスでの、男女のたわいのない会話から透けて見える人間関係の「危うさ」と、それに対比された「閃光・戦争・カウントダウン」で、この曲は1984年当時の「時代の気分」の一端を、潜在意識まで含めて見事に切り取ってみせた。
中島みゆきというシンガー・ソングライターのある面での真骨頂というか、凄さを感じる楽曲です。
現代の「黙示録」
アルバム『はじめまして』が発表されたのは、まだ冷戦が続いている1984年で、今から30年前です。かなり昔のことで、それから世界は大きく変わりました。冷戦が終結し、経済はグローバル化し、戦争の原因も東西対立ではなく、民族対立や宗教要因になった。では、この現代において「黙示録的な恐怖」はないのでしょうか。
そんなことはないと思います。「自分たちの運命が、世界のどこかで決められる」という状況は、強弱は別にして起こっている(起こる)のではないでしょうか。もちろん、核戦争の危険性も依然として続いているのですが(いがみ合っている隣国同士が核兵器を保有しているケースがある)、それはさておいても近年で思い起こすのは2008年のリーマン・ショックです。
アメリカの「金融貴族」たちが、サブプライム・ローンという信用度の低い債権をもとにした金融商品のバブルを作り出したあげく、手仕舞いに遅れた(ババが残ってしまった)リーマン・ブラザースが破綻する。それが金融・保険業界の連鎖的な信用不安を招き、金融危機がグローバルに波及して、日本の景気後退と、産業界やサービス業界の売上げダウンにまでつながる。当時、派遣労働者の契約打ち切り(いわゆる派遣切り)や、一部は正規労働者の解雇までありました。アメリカの金融貴族のマネーゲームが原因で、日本の(一部の)若者が職を失う・・・・・・。これは現実に起こったことなのですね。
そういう意味も含めれば《僕たちの将来》で語られた「時代の気分」は形を変えながら続いていると思うし、我々はそれを感じるべきなのだろうと思います。
《僕たちの将来》という曲を改めて聴いてみて思ったのは、この曲が30年前の社会情勢のもとで書かれたはずなのに、全く色褪せていないということでした。
同世代からの発言
ここからは補足です。「黙示録」というキーワードで、内田樹氏の「街場の共同体論」の中の文章から、中島みゆきさんの《僕たちの将来》という楽曲を連想したのですが、この連想には、もう少し意味があるように思います。それは内田さんと中島さんが「同世代」だということです。2人の誕生日を比較すると、
です。ということは、小・中・高校は1学年違いということになります。また、大学入学の年は2人とも1970年春です。出身地は違うものの(内田さん:東京、中島さん:札幌)、明らかに同世代です。全く面識はないだろうけれど。
人の考え方や価値観は、同世代で共有する部分があるのではないでしょうか。1950年前後に生まれた人で言うと、ものごごろついた10歳の頃が1960年であり、30歳台の終わりまでが日本では高度成長期です。その間、世界情勢としてはずっと東西対立を軸とする冷戦が続いていた。この間に日本で起こった数々の政治情勢や社会的事件、新しい風俗や、メディアの発達や変化を、同世代ならリアルタイムで共有してきたわけです。
一例をあげると、内田さんと中島さんが大学に入った1970年は、大学紛争がピークを迎え、東京大学の入試が中止になるという前代未聞の事態になった1969年の翌年です。それが何らかの影響を与えなかったはずがない。中島さんの『世情』(1978。アルバム「元気ですか」)という名曲を思いだします(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」参照)。
同世代が共有している何かがあるのでは、といったことをふと思いました。
作曲家:中島みゆき
もう一つ補足したいのは、《僕たちの将来》という曲を改めて聴いて思ったことです。中島さんは、今でこそ演劇活動などにもアーティストとしての活動の幅を広げていますが、《僕たちの将来》が発表された1984年当時は「ピュアな」シンガー・ソングライターでした(プラス、他の歌手に楽曲を提供するソングライターだった)。
言うまでもなく、シンガー・ソングライターとは「歌手」「作曲家」「作詞家」の3つを兼ねた存在なのですが、この3つの力量が極めて高いレベルで統合されているということで、中島さんはアーティストとして突出していると思います。特に、作曲については語られることが少ないと思うのですが(歌唱力や、詩人としての才能を絶賛する人は多い)、《僕たちの将来》を聴いても、作曲の部分が(作曲の部分も)非常に優れています。3拍子の曲なのですが、たわいのない軽い気分のノリで、なんとなく「けだるい」感じも漂わせ、会話調の言葉の繋がりをサラッと歌にしてしまうメロディー・ラインがとても印象的です。
歌手・作詞家・作曲家、中島みゆきの、もっと優れた部分がストレートに現れた曲だと感じました。
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内田 樹・著「街場の共同体論」は、家族論、地域共同体論、教育論、コミュミケーション論、師弟論などの「人と人との結びつき」のありかたについて、あれこれと論じたものです。主張の多くは内田さんの今までのブログや著作で述べられていることなのですが、「共同体 = 人と人との結びつき」に絞って概観されていて、その意味ではよくまとまった本だと思いました。この中に「階層社会」について論じた部分があります。
階層社会の本質
「階層社会」という言葉をどうとらえるかは難しいのですが、ここではごくアバウトに、
単一の、あるいは数少ない "ものさし"で測定される「格差」があり、その格差が「固定的」である社会 |
という風に考えておきます。人の格差を測定する"ものさし"とは、その人の「年収」や、もっと曖昧には「社会的地位」であり、固定的とは、階層上位のものは(あるいは集団は)ずっと上位にとどまり、それは世代を越えて続く傾向にあることを言います。この階層社会の特徴、ないしは本質を、内田さんは
階層社会では、階層下位のものが、自らの意志で(進んで)階層下位にとどまろうとする |
と、とらえています。でないと階層社会はできあがらないと・・・・・・。格差の"ものさし"である年収で言うと、誰だって年収は多い方がいいわけです。なぜ「自らの意志で階層下位にとどまろうとする」のか。その重要な要因は、
階層下位のものが階層下位にとどまるように仕向ける「メッセージ」が、マスメディアを通して大々的に流されているから |
というのが、内田さんの見立てです。そのメッセージは時とともに変わる。それは、あまり長く続けているとメッセージの欺瞞性がバレてしまうからです。一時「自分探し」とか「自分らしさの探求」とか「自己実現」が大々的に宣伝されたことがありました。しかし、さすがにそれではまずいと多くの人が気づいた。趣味の世界の話ならまだしも、「自分探し」などという理由で転職をすると、ごく一部の人はそれで成功するかもしれないが、多くの人はそうではなく、結局「転職産業」と「人材派遣会社」と「低賃金かつ解雇しやすい労働者を確保したい企業」の利益になるだけなのですね。「自分探し」は、大多数の人にとっては「自滅的イデオロギー」です。
しかし「階層下位のものが階層下位にとどまるように仕向けるメッセージ」は、手を変え品を変えて継続的に続いています。その例として内田さんがあげている代表格が、
・ | 反知性主義 | ||
・ | クレーマー |
です。反知性主義について、内田さんは次のように書いています。
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確かに、自分の興味の範囲だけで生きていては上位には行けません。「自分はものごとを知らない、だから知りたい」という態度で人に教えを請い、また勉強もする。そして人的ネットワークを広げ、自分の興味の幅も広げて、自身の能力を磨く・・・・・・。会社を考えてみても、新入社員の時からその後のキャリア・アップまで、そういうタイプの人間の査定が高くなり上位ポジションへと引き上げられる(=年収が多くなる)のは当然です。
なかなか中島みゆきさんの詩との関係にまで行かないのですが、次の「クレーマー」ついての内田さんの文章が、それと関係しています。
クレーマー的人間
「階層社会では、階層下位のものが、自らの意志で階層下位にとどまろうとする」例の一つとして内田さんが指摘しているのが、クレーマー的人間です。そして、クレーマーの増加を助長したのはメディアの責任だと、内田さんは言っています。
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内田さんが指摘するメディアの責任とは、
一番うるさく文句を言う人の言い分を最優先に聞くべきだということを、その報道姿勢によって暗黙のルールにしてしまった |
ということです。確かに、大きな事件や事故が起きたときにテレビの情報番組を見ていると「レポーター」や「コメンテーター」と称する人たちが出てきて、その事件・事故の「責任者」を「一方的」に宣告し、いかにも「被害者に成り代わってという態度で」責任を追求する(強く言えば、糾弾する)ことがよくあります。宣告された「責任者」とは、公的な職についている人だったり(警察、自治体の担当官、学校の先生、・・・・・・)、企業の経営層だったりです。こういう報道姿勢がクレーマー的人間の増長させている一つの要因でしょう。内田さんは一つの報道をあげています。
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内田さんが言う「暴漢が小学校に進入して、小学生を襲った事件(その結果、二人の先生が死傷)」とは何でしょうか。まず思い出すのは、2001年、大阪教育大学附属池田小学校にテロリストが進入し、小学生を無差別に刃物で殺傷した前代未聞の事件です(=附属池田小事件)。この事件では児童8名が殺され、児童13名と教員2名が重軽傷を負いました。わずか5~10分間の犯行だったと言います。
また2005年には、大阪の寝屋川市立中央小学校に暴漢(卒業生の少年)が侵入し、一人の教師の方を殺害し、教師と栄養士2人に重傷を負わせる事件が発生しました(=寝屋川中央小事件)。この時には授業中の小学生は襲われませんでした。犯人の在校当時の教師に対する恨み(死傷した教師は無関係)が「動機」だったようです。
どちらかの事件だと思いますが、附属池田小事件だとすると「教師が死亡」というのは違っているし、寝屋川中央小事件だとすると「小学生を襲う」というところが違っています。内田さんも混同したのかもしれません(ただし、私の記憶にない別の事件の可能性もある)。
しかしそれは些細なことであって、論旨には影響しません。内田さんの言いたいことは、こういう事件でメディアは何を報道すべきかということです。仮に附属池田小事件の例だとしても、重傷を負った教師は死ぬかもしれなかったわけだし、凶器を振り回すテロリストを素手で取り押さえた教師たちも一歩間違えば死んでもおかしくはなかった。前代未聞の、しかもわずか10分以内の無差別テロに対して、附属池田小の教師の方々は混乱状況の中で精一杯のことをしたのではないでしょうか。また、寝屋川中央小事件だとすると、実際に教師の方が包丁で刺されて亡くなっているのです。
「学校は何をしていたんだと怒鳴りつける発言を、まず報道するのはおかしい」という内田さんの指摘は、全くその通りだと思います。
実は『街場の共同体論』のこの部分で、中島みゆきさんのある歌を連想してしまいました。No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でもとりあげた《4.2.3.》です。
メディアの報道に対する異議申し立て
中島みゆき 「わたしの子供になりなさい」 (1998) |
そして中島さんは「日本人人質の安否や、日本人は無事ということだけを放送し、人質を救うため命をかけて突入して重傷を負った(実際は死んだ)兵士の安否については、全く一言も触れなかった日本のテレビの実況中継」に対して、非常に強い違和感をいだいたのです。
|
『街場の共同体論』における内田さんの論と、中島さんの《4.2.3.》はテーマは全く違いますが、以下の点で大変よく似ています。
◆ | マスメディアの報道姿勢に対する異議申し立てである。 | ||
◆ | 自らの職務を全うするためにテロリストに立ち向かい、その結果負傷した人たちのことを全く報道しないメディアに対する抗議である。 |
の2点です。「テロリストを許すな」とか「テロに屈服するな」と論陣を張るメディアなら、現場の最前線でテロと対峙した人たち、しかもそれによって死傷した人たちのことを大きく(賞賛も込めて)報道するのが当然でしょう。『街場の共同体論』を読んでいて中島みゆきさんの歌を連想したという一つはこの点でした。
しかし、ここまでに書いたことは、実は「前振り」と言うか、連想したことの一部です。『街場の共同体論』を読んでいて最も強く中島さんの歌を連想したのは別の部分なのです。
黙示録
内田さんは『街場の共同体論』で、少年犯罪件数の戦後のピークが1958年だったことを述べています。自殺率のピークも1958年だそうです。これは「少年犯罪が最近増えている、という全く根拠のない論調」に対する反論なのですが、その議論はここではさておきます。その1960年前後がどういう時代だったのか、内田さんは次のように書いています。
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「黙示録」というのは言うまでもなく、新約聖書の最終文書である「ヨハネの黙示録」のことです。そこでは世界の終末、キリストの降臨、最後の審判などが語られています。
現代史を振り返ってみると、第2次世界大戦が終了してから旧ソ連の崩壊(1989年)までの45年の期間は、いわゆる「冷戦 = Cold War」の期間でした。アメリカとソ連という、大量の核兵器を保有する2つの超大国の「冷たい」戦争が続きました。最も核戦争の危機に近づいたのは1962年のキューバ危機だと思いますが、両大国の直接戦争にならないまでも、冷戦を背景とする「代理戦争」がいろいろあった。アメリカ軍がベトナムに介入したベトナム戦争(1960-1975)や、ソ連軍のアフガニスタン侵攻(1979-1989)などです。ソ連のアフガニスタン侵攻は、1980年のモスクワオリンピックを西側諸国がボイコットするという事態に発展しました。
1983年には、ソ連の領空に進入した大韓航空の旅客機が撃墜されるという事件が起こりました。真相は不明の部分が多いのですが、大韓航空機は「誤って」ソ連領空を侵犯し、ソ連空軍は民間航空機を「誤って敵の軍用機とみなして」撃墜したとされています。ということは、偶発的事件が米ソの直接対決を招きかねないということです。その最悪の事態は核戦争です。
The Terminator(1984)
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冷戦の約45年間の期間は、緊張が極度に高まった時から、緩んだ時期までいろいろあり、それが繰り返されたのですが、とにかくこの期間は日本のみならず世界の人たちが「黙示録的な恐怖」を潜在的に感じていたのだと思います。少なくとも内田さんは、同時代を生きた経験からそう振り返っている。人々が日常会話で口に出すことは決してなかったけれど・・・・・・。
内田さんが「黙示録的な恐怖」を持ち出したのは、高い自殺率と少年犯罪件数の背景にそれがあるという仮説につなげるためなのですが、その論の妥当性はここではさておきます。
実はこの「黙示録的な恐怖」という文章で強く連想した中島みゆきさんの楽曲があります。映画『ターミネーター』と同じ1984年(32歳)に発表されたアルバム『はじめまして』に収録されている《僕たちの将来》です。
僕たちの将来
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何となく「危うい感じ」がする若い男女の物語です。アルバムが発表された1984年というと、高度成長期の真っただ中ですね。そこで描かれるのは、宿で寝た恋人たちが(いわゆるラブホテルでしょう)、深夜に抜け出して24時間営業のファミレス(おそらく)に行き、ビールを飲みながらスパゲティとステーキを食べるという情景です。2人の若者が生まれた頃(たとえば1960年前後)には考えられもしなかった「ライフスタイル」が、ここでは現実になっている。いかにもありそうな光景ですが、当時としては、ある意味では「時代の最先端の」風俗だったのでしょう。
中島みゆき「はじめまして」(1984)
収録曲:①僕は青い鳥 ②幸福論 ③ひとり ④生まれた時から ⑤彼女によろしく ⑥不良 ⑦シニカル・ムーン ⑧春までなんぼ ⑨僕たちの将来 ⑩はじめまして
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しかしこの曲は単に風俗を描いただけではありません。4つの点で「えっ」と思わせるものがある。一つ目は「閃光」という言葉です。実は、
僕たちの将来はめくるめく閃光の中 |
というところを、中島さんは、
ぼくたちのしょうらいは めくるめくひかりのなか |
と歌っています。歌としては、つまり聴いているだけでは「光」です。しかし文字で書かれた「詩」としては「閃光」なのです。
閃光とは瞬間的に輝く強い光のことです。日常生活で経験するのは、稲妻、打ち上げ花火、カメラのフラッシュなどでしょう。しかし「非日常の」閃光もある。それは、爆弾の爆発や大砲の発射時に出る閃光です。そして人類が作り出した最も強い閃光を放つものが何かは書くまでもないでしょう。「将来は光の中」だと「未来は明るい」というようなイメージをまず持ちますが、「将来は閃光の中」だと、全く反対の意味にとる方が自然です。
2つ目は、詩の終わりの方で唐突とも思える感じで出てくる「戦争」という言葉です。ファミレスでの男女のたわいのない会話を並べただけの詩だと思って聴いていると、それは完全に裏切られてしまう。「暑い国の戦争」とありますが、アルバムが発売された1984年当時は、たとえばアフガン戦争のまっただ中でした。
3つ目は、最後にある、
僕たちの将来は良くなってゆくだろうか |
という一言です。「将来は良くなってゆく筈だね」と2回繰り返したあとに出てくるのは、「良くなってゆくだろうか」という疑問形なのです。中島さんは、この部分だけは「強く、厳しく、問い詰めるような口調」で歌っています。
4つ目は、歌が終わったあとに挿入された「カウントダウン」のエフェクトです。ゆっくりとした、低い、押し殺したような男の声で、Six から始まって Three まで続き、Two の途中で途切れます(アルバムでは途切れてすぐに最後の曲である『はじめまして』が始まる)。
「閃光」「戦争」「カウントダウン」という"仕掛け"が配置されたうえに、最後は「将来は良くなってゆくだろうか」という疑問形で終わるこの曲は、「黙示録的な不安感」をバックにしたものだと思います。それが核戦争のことかどうかは分かりません。しかし、もっと一般化して、
自分たちの運命が、自分たちの全くあずかり知らない、世界レベルの巨大な力によって決められるのではないか、ないしは決まっているのではないかという、潜在意識としての不安感 |
と考えるなら、そういう感情を背景にしているのだと思います。深夜の24H営業のファミレスでの、男女のたわいのない会話から透けて見える人間関係の「危うさ」と、それに対比された「閃光・戦争・カウントダウン」で、この曲は1984年当時の「時代の気分」の一端を、潜在意識まで含めて見事に切り取ってみせた。
中島みゆきというシンガー・ソングライターのある面での真骨頂というか、凄さを感じる楽曲です。
現代の「黙示録」
アルバム『はじめまして』が発表されたのは、まだ冷戦が続いている1984年で、今から30年前です。かなり昔のことで、それから世界は大きく変わりました。冷戦が終結し、経済はグローバル化し、戦争の原因も東西対立ではなく、民族対立や宗教要因になった。では、この現代において「黙示録的な恐怖」はないのでしょうか。
そんなことはないと思います。「自分たちの運命が、世界のどこかで決められる」という状況は、強弱は別にして起こっている(起こる)のではないでしょうか。もちろん、核戦争の危険性も依然として続いているのですが(いがみ合っている隣国同士が核兵器を保有しているケースがある)、それはさておいても近年で思い起こすのは2008年のリーマン・ショックです。
アメリカの「金融貴族」たちが、サブプライム・ローンという信用度の低い債権をもとにした金融商品のバブルを作り出したあげく、手仕舞いに遅れた(ババが残ってしまった)リーマン・ブラザースが破綻する。それが金融・保険業界の連鎖的な信用不安を招き、金融危機がグローバルに波及して、日本の景気後退と、産業界やサービス業界の売上げダウンにまでつながる。当時、派遣労働者の契約打ち切り(いわゆる派遣切り)や、一部は正規労働者の解雇までありました。アメリカの金融貴族のマネーゲームが原因で、日本の(一部の)若者が職を失う・・・・・・。これは現実に起こったことなのですね。
そういう意味も含めれば《僕たちの将来》で語られた「時代の気分」は形を変えながら続いていると思うし、我々はそれを感じるべきなのだろうと思います。
《僕たちの将来》という曲を改めて聴いてみて思ったのは、この曲が30年前の社会情勢のもとで書かれたはずなのに、全く色褪せていないということでした。
同世代からの発言
ここからは補足です。「黙示録」というキーワードで、内田樹氏の「街場の共同体論」の中の文章から、中島みゆきさんの《僕たちの将来》という楽曲を連想したのですが、この連想には、もう少し意味があるように思います。それは内田さんと中島さんが「同世代」だということです。2人の誕生日を比較すると、
1950年9月30日 | |||
1952年2月23日 |
です。ということは、小・中・高校は1学年違いということになります。また、大学入学の年は2人とも1970年春です。出身地は違うものの(内田さん:東京、中島さん:札幌)、明らかに同世代です。全く面識はないだろうけれど。
人の考え方や価値観は、同世代で共有する部分があるのではないでしょうか。1950年前後に生まれた人で言うと、ものごごろついた10歳の頃が1960年であり、30歳台の終わりまでが日本では高度成長期です。その間、世界情勢としてはずっと東西対立を軸とする冷戦が続いていた。この間に日本で起こった数々の政治情勢や社会的事件、新しい風俗や、メディアの発達や変化を、同世代ならリアルタイムで共有してきたわけです。
一例をあげると、内田さんと中島さんが大学に入った1970年は、大学紛争がピークを迎え、東京大学の入試が中止になるという前代未聞の事態になった1969年の翌年です。それが何らかの影響を与えなかったはずがない。中島さんの『世情』(1978。アルバム「元気ですか」)という名曲を思いだします(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」参照)。
内田さんと中島さんが大学に入ったのが1970年春ということで思い出したのですが、その年の秋に公開された、学生運動をテーマにしたアメリカ映画があります。「いちご白書」です。No.35「中島みゆき:時代」に、中島さんは大学1年生のときに(札幌で)この映画を見たのではないかという憶測を書きました。一方、内田さんは大学時代に学生運動にずいぶん関わったようです。ひょっとしたら内田さんも(東京で)「いちご白書」を見たのではないでしょうか。「いちご白書」のような同じ世代を描いた映画を同じ時期にみるというのは、同一世代であることの典型例です。 |
同世代が共有している何かがあるのでは、といったことをふと思いました。
作曲家:中島みゆき
もう一つ補足したいのは、《僕たちの将来》という曲を改めて聴いて思ったことです。中島さんは、今でこそ演劇活動などにもアーティストとしての活動の幅を広げていますが、《僕たちの将来》が発表された1984年当時は「ピュアな」シンガー・ソングライターでした(プラス、他の歌手に楽曲を提供するソングライターだった)。
言うまでもなく、シンガー・ソングライターとは「歌手」「作曲家」「作詞家」の3つを兼ねた存在なのですが、この3つの力量が極めて高いレベルで統合されているということで、中島さんはアーティストとして突出していると思います。特に、作曲については語られることが少ないと思うのですが(歌唱力や、詩人としての才能を絶賛する人は多い)、《僕たちの将来》を聴いても、作曲の部分が(作曲の部分も)非常に優れています。3拍子の曲なのですが、たわいのない軽い気分のノリで、なんとなく「けだるい」感じも漂わせ、会話調の言葉の繋がりをサラッと歌にしてしまうメロディー・ラインがとても印象的です。
歌手・作詞家・作曲家、中島みゆきの、もっと優れた部分がストレートに現れた曲だと感じました。
(続く)
No.129 - 音楽を愛でるサル(2) [音楽]
(前回から続く)
キツネとブドウ
前回からの続きで、正高信男・著『音楽を愛でるサル』(中公新書 2014)についての話です。著者は音楽が「認知的不協和」に与える影響を実験したのですが、「認知的不協和」を説明するためにイソップ寓話の「キツネとブドウ」を例にあげています。
「キツネとブドウ」は大変に有名な話で、数々の類話や脚色があります。著者もかなり「脚色して」紹介しているのですが、オリジナル版の話は短いものです。最も広まっているシャンブリ版(フランス 1927)のイソップ寓話集からの訳を掲げます。
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キツネが立ち去る時の「捨てぜりふ」は、要するに「負け惜しみ」です。英語で「酸っぱいブドウ=sour grapes」と言うと、ズバリ負け惜しみを意味します。
この話を心理学的に解釈するとどうなるでしょうか。心理学では「したくてもできない」という状況に置かれたとき「認知的不協和」が生じたと言い、そのとき人は(イソップではキツネですが)心のバランスを回復するために自分の認識を都合よく修正する傾向があるとされています。キツネは自分の力不足を認めると「心」のバランスが崩れるので、あのブドウは酸っぱいから欲しくないと、認識を都合よく修正したわけです。
この話のポイントの一つは、キツネが(おそらく)ジャンプしてブドウを取ろうとしたことだと思います。ジャンプしたら取れるとキツネは思ってしまった。しかし取れない。もしブドウが絶対に取れないようなところ、たとえば垂直に切り立った崖の上の方にあったとしたら、キツネは初めから諦めて、取ろうなどとはしないわけです。その場合は「認知的不協和の解消」の必要はなく、「ブドウは美味しいな、欲しいな」と思いつつ去って行ったでしょう。
これが「認知的不協和とその解消」という心理学の理論です。著者はこの「認知的不協和」が起きるとき、音楽がどういう影響を持つかを実験しました。
認知的不協和実験
著者の実験結果を一言でいうと
モーツァルト効果により、認知的不協和が緩和する |
となります(モーツァルト効果については、前回の No.128 参照)。次のような実験です。
25人の4歳の男の子のグループを2グループ作り、その子たちに被験者になってもらいます。仮にAグループ(25人)とBグループ(25人)としておきます。Aグループ、Bグループとも実験の内容はほとんど同じです。
まず男の子を一人ずつ部屋に呼んで、ポケモンに出てくる5種類の怪獣のフィギュアを与えます。そして、その子にとっての5種類の好みの「ランキング」を決めます。どうやって決めるのかと言うと、5種から2種を取り出す合計10個の組み合わせ全部について、どっちが好きかを質問し、その結果を総合します。
ポケモンのフィギュア
本書の実験で使われたものではありません。バンダイのホームページより引用。
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次に実験者は「10分間、一人だけにしておくから自由にフィギュアで遊んでいいよ」と言います。ただし、それぞれの子が2番目に好きなフィギュアだけは、遊ぶことを禁止します。この禁止のしかたが、AグループとBグループでは違います。
Aグループの男の子に対しては「厳しく禁止」します。つまり実験者は男の子に次のように言います。
もしこの(と、二番目に好みのフィギュアを指して)怪獣で遊んだら、すごくがっかりするよ。あんまりがっかりするので、怪獣を全部持って家に帰ってしまって、もう戻ってこないかもしれないなあ。もしこれで遊んだら、それは赤ちゃんのすることだよね。じゃあ行くからね。 |
一方、Bグループの男の子に対しては「緩やかに禁止」します。
もしも、この怪獣で遊んだら困ったことになるんだ。でもいない間、ほかの怪獣では遊んでいいよ。じゃあ行くからね。 |
そう言って、実験者は部屋を退出します。
10分後に部屋に戻った実験者は、再びフィギュアの好みの「ランキング」を調査します。そして遊ぶのを禁止されたフィギュア(それぞれの男の子が2番目に好きだったフィギュア)のランキングが上昇したか下降したかを調べます。その結果が表1です。
表1:禁止の程度とランキングの変化
「音楽を愛でるサル」の表から作成(以下同じ)
「音楽を愛でるサル」の表から作成(以下同じ)
グループと禁止の程度 |  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化  | ||
上昇した | 変わらない | 下降した | |
 Aグループ:厳しく禁止  | 16 | 7 | 2 |
 Bグループ:緩やかに禁止  | 5 | 14 | 6 |
2ヶ月後、再び50人の男の子に集まってもらいます。今度も全く同じ手順で調査をするのですが、言葉による禁止ではなく、2番目に好きなフィギュアを持ち去ります。つまり、Aグループ、Bグループとも実験者は、
「ほんのちょっとの間、ここから出ていくけれどすぐに戻ってくるから、ポケモン怪獣で遊んでいていいよ」とだけ言い、子どもが2番目に好きなフィギュアを黙って手にして退出する |
わけです。そして10分後に実験者は持ち出したフィギュアを手にして部屋に戻り、そのフィギュアの「好みランキング」の変化を調べます。その結果が表2です。
表2:"持ち去り"がランキングに与える影響
グループ |  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化  | ||
上昇した | 変わらない | 下降した | |
 Aグループ  | 14 | 7 | 4 |
 Bグループ  | 16 | 6 | 3 |
表1と表2から、次の2点が分かります。
◆ | フィギュアで遊べないという状況(厳しい禁止、持ち去り)は、そのフィギュアに対する好みを増大させる。これが普通である。 | ||
◆ | しかし「緩やかに禁止」すると、フィギュアに対する好みが増大しない。禁止したのに増大しないという意味では、他のケースとの比較において、相対的に好みが低下したと言える。 |
この実験結果は心理学における「認知的不協和の理論」に合致しています。つまり男の子は、怪獣のフィギュアで遊ぶことを「緩やかに禁止」されると、遊びたいのに遊べないという心的葛藤状態になり、心のバランスをとるために自分はそのフィギュアでそれほど遊びたくはないのだと認識を修正し、本来あるべき「禁止による好みの上昇」を消してしまう、というのが最も妥当な解釈なのです。「強い禁止」や「持ち去り」では、子どもは初めから遊ぶのを諦めてしまって、心の葛藤は起きません。そして「遊べない」ことが好みを増大させるのです。
そこで音楽の登場となります。実はこの実験には、もう一つのCグループ(25人)があります。実験者はCグループに対して、1回目の実験では「緩やかに禁止」し、実験者が退室している間はモーツァルトのピアノ・ソナタをBGMとして流します(またしてもモーツァルトのピアノ・ソナタ!!)。2回目の実験でフィギュアを持ち去るのも同じですが、この時も退室している間にモーツァルトが流れます。このCグループの「好みランキング」の変化をさっきの表に加えたのが、「表1追加」と「表2追加」です。AグループとBグループの値は前の表と同じです。
表1追加:禁止の程度とランキングの変化
グループと禁止の程度 |  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化  | ||
上昇した | 変わらない | 下降した | |
  |
16 | 7 | 2 |
  |
5 | 14 | 6 |
  音楽を流しつつ緩やかに禁止  |
15 | 7 | 3 |
表2追加:"持ち去り"がランキングに与える影響
グループ |  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化  | ||
上昇した | 変わらない | 下降した | |
 Aグループ  | 14 | 7 | 4 |
 Bグループ  | 16 | 6 | 3 |
 Cグループ  | 16 | 5 | 4 |
2つの表で一目瞭然なのは「モーツァルトを流しながら緩やかに禁止」するのは「厳しく禁止」するのと全く同じ傾向を示すということです。つまり、実験全体をまとめると、
◆ | 緩やかな禁止は、好みを相対的に低下させる。これは認知的不協和の理論と合致している。 | ||
◆ | モーツァルトのピアノ・ソナタは、認知的不協和の状態を緩和し、一般のケースと同じように禁止によって好みが増大する効果を与える。 |
となります。著者はモーツァルトのピアノ・ソナタ以外の音楽では実験しなかったようなので、あえてモーツァルトと書きましたが、本当はモーツァルトに限らないはずです。
では、なぜこんなことになるのでしょうか。『音楽を愛でるサル』から引用します。
|
認知的不協和は思考によって生まれる、その思考は言語でなされる、音楽はそこに影響を与える、というのキーポイントになっています。
ということは「そもそも思考しないのであれば、認知的不協和は生じない」ことになります。それがまさに、イソップ寓話の擬人化されたキツネではない、自然界のキツネでしょう。
|
著者は引用部分で、
・・・とも書けなくはない | |||
・・・とも言えなくはないだろう | |||
・・・ではないかと考えられないだろうか(一つ前の引用) | |||
・・・とみなせないことはないようにも思えてくる(前回での引用) |
などと、断定を避けた「曖昧な」表現をしているのですが(本書全体にそういう表現が多い)、科学者として「断定できないものは、できない」ことを明確にしたかったのだと思います。「モーツァルト効果」を研究する者は「エセ科学者」と見なされるリスクがあるとしたら(前回の No.128 参照)、なおさらです。
それはともかく、音楽には私たちを言語で思考しだした以前の段階へと回帰させる力があるというところが核心だと思います。それは、テナガザルの「歌」にみられるように、歌唱行動から言語が発達したとする推測と整合的です。
ストループ干渉実験
『音楽を愛でるサル』には、もう一つの「モーツァルト効果」の実験が示されています。それは先ほどの「認知的不協和実験」よりはシンプルなものです。
「ストループ干渉」という心理学で有名な現象があります。被験者は単語を見せられて文字がどいういう色で書かれているかを答えるのですが、その単語は赤とか青などの色の名前(色名)であって、しかも色名と文字の色が合致している場合もあれば、合致していない場合もあります。そして、合致していない場合の方が答えるのに時間がかかる、というのが「ストループ干渉」です。要するに、
◆ | 赤色で「あか」と書かれた文字を見て「赤」と答えるのは容易だが | ||
◆ | 赤色で「くろ」と書かれた文字を見て「赤」と答えるのは時間がかかる |
ということです。人間はどうしても一瞥して「文字」→「言語」→「意味」という思考が入ってしまい、それが色を答えるという動作に「干渉」して、答えに要する時間を増やしてしまうのです。これは「認知的不協和」の一種です。
「ストループ干渉」は米国のジョージ・ストループという心理学者が1935年に発表したもので、心理学では非常に有名な実験です。最も繰り返し行われた実験とも言われていて、極めて再現性が高いものです。
英語でのストループ干渉
上左から右へ、下へと文字の色を英語で答えていく。答えは、red, blue, orange(黄色っぽい色), purple(紫色)、green の5つである。 上2行は単語の意味と文字の色が一致しているが、3行目以降は一致していない。3行目以降の方が答えるのが難しいはずである。 もし上2行と3行目以降が同じスピードで答えられるとしたら、ストループ干渉は起きていないことになり、中学・高校の6年間、英語を勉強したはずのあなたの英語力は「問題あり」である(冗談です)。
(日経サイエンス「脳が生み出すイリュージョン」より引用)
なお、日本語のストループ干渉のカラー図版を「音楽を愛でるサル」の口絵としてちゃんと載せるべきである。読者としては見ないと理解しにくいのだから。中公新書も「コスト削減」の方向に向かっているのだろうか。 |
著者が「ストループ干渉」における音楽の影響を調べた実験の内容と、その結果のグラフが以下です。
◆ | 8~9歳の子供を被験者に選ぶ。ポケモン怪獣の実験(3~4歳の子)よりは「高度」だから、年齢層を上げる。 | ||
◆ | 「あか」「あお」などの単語を見せ、字の色を答えてもらう。字の色には、単語が表す色名とは違う色が使われている。その答えに要する時間を測定する。 | ||
◆ | 比較対照のために「XXX]といった、意味のない記号列を着色したものでも実験をする。 | ||
◆ | BGMなしの場合と、BGMとして音楽を流す場合を測定する。音楽としては「モーツァルトのメヌエット」(作曲は父親のレオポルト・モーツァルト)を選んだ。大変シンプルなピアノ曲(ハ長調)である。 | ||
◆ | さらに、音楽は2種類を用意する。一つは「モーツァルトのメヌエットの原曲」、もうひとつは「モーツァルトのメヌエットの変曲(編曲)」である。その「変曲」とは、原曲の「ソ」と「レ」の音を半音下げる(フラットをつける)ものであり、つまり意図的に「不協和音」の響きを作り出すものである。もちろん原曲は「協和音」からできている。 |
モーツァルトのメヌエット
(「音楽を愛でるサル」より引用。以下同じ) |
モーツァルトのメヌエットを"変曲"した「不協和メヌエット」
|
ストループ干渉の実験結果
|
この結果が次のことが分かります
◆ | 「XXX」といった無意味な記号より、「あか」といった色名の方が答える時間が長くなる。つまり確かにストループ干渉が起こっていることが分かる。 | ||
◆ | 「XXX」といった無意味な記号の場合、BGMがあってもなくても回答時間は同じである。 | ||
◆ | 色名の場合、BGMとして「モーツァルトのメヌエット」を流すとストループ干渉が緩和され、答える時間が(BGMがないよりも)早くなる。 | ||
◆ | 一方、不協和音を含む「変曲」をBGMとして流すと、今度は回答時間が(BGMがないよりも)長くなる。ストループ干渉をより強めたことになる。 |
この結果は、音楽が「認知的不協和」を緩和するというポケモン怪獣の実験と同じです。被験者は「あか」という文字を見た瞬間、文字→言語→意味という「言語活動」が働いてしまい、本来あるべき回答(青色で「あか」と書かれていたら「青」と答える)までの時間が延びるのです。音楽はその「言語による脳の活動」を緩和していることになります。
この実験のもう一つのポイントは「不協和音」の効果です。不協和音の音楽は、認知的な「不協和、干渉、葛藤、ストレス」を高める効果があるようなのです。この「不協和音」を不快だと感じるのはヒトの生来の性質で、遺伝的要素が強いものだと言います。
|
我々は何となく「協和音」とか「不協和音」というのは音楽理論だと思っています。人為的に作られた理論である、というような・・・・・・。しかしそれは違うようです。協和音とか不協和音というのは、ヒトはそういう遺伝的な性質をもっているという、ヒトについての説明に近いものなのですね。ここにも、音楽が人間にとって非常に根源的なものだということが現れていると思います。
『音楽を愛でるサル』では、音楽がストループ干渉を緩和することについて、ヒトの脳の前頭葉の発達との関係で説明されているのですが、省略したいと思います。また本書には、音楽と人間に関するさまざまな話題が、音楽と直接関係がないものを含めて述べられています。多岐に渡り過ぎてまとまりが薄く、著者のこの10年の研究に関する話題を詰め込んだ感じです(「あとがき」にそう書いてあります。こういう新書の作り方がいいのか疑問ですが)。また、著者は現代音楽や現代のポピュラー・ミュージックが嫌いなようで、それらについての「理解のなさ」が露呈しています(クラシック音楽は好きなようですが)。しかしそれらを飛ばして、音楽についての類人猿研究や心理学研究のところだけをとると、そこは一読の価値があると思いました。
感想:音楽の不思議
ここからは『音楽を愛でるサル』の感想です。
そもそもの疑問は、No.128「音楽を愛でるサル(1)」の最初に書いたように、「メロディーの記憶がなぜ長期間残るのか」というものでした。この記憶は器楽曲でも起こります。歌という「体の運動」が「手続き記憶」として長く残るというのは本書に説明があるのですが、「体の運動」がなくても、つまり純粋な器楽曲を聞いただけでも、印象的なメロディーの記憶は長く残ります。それはなぜかについての私の理解は次の通りです。
◆ | 我々はメロディーを聞くとき(たとえば、器楽曲のメロディーを聞くとき)、暗黙にそれを「歌」として聞いている。 | ||
◆ | つまり、もし歌ったとしたらどうなるか、体の運動の時間的な変化パターン(=声帯の緊張の変化など)はどうなのか、それを無意識に想像しながら聞いている。 | ||
◆ | その変化パターンが「手続き記憶」として、体に染み込む。だから印象的なメロディーの記憶は長く残る。 |
というものです。たとえ歌ではなくても、音楽はその背後に「歌」を仮定して聞くとき最も心に刻み込まれるものになるのだと思います。No.124「パガニーニの主題による狂詩曲」で、平原綾香さんがラフマニノフのメロディー(譜例67)に歌詞をつけて歌っていることを書きましたが、このように「器楽曲を歌にする」のは、人間と音楽の関わりの最も本質のところをついているのだと認識しました。
余談になりますが、この手の曲で最も印象深いのがビリー・ジョエルの「This Night」(アルバム「イノセント・マン」に収録。1983)です。ベートーベンの悲愴ソナタの第2楽章の有名なメロディー(譜例69)に歌詞をつけて自分の曲の中に取り込み、自らが作曲した部分と融合させている。才人、ビリー・ジョエルの面目躍如という感じで、見事な出来栄えです。ちなみにこのベートーベンの旋律もラフマニノフと同じく「Cantabile」という指示がついています。メロディー・メーカーたる大作曲家が「歌うように演奏しなさい」言っているのだから、本当に歌いたくなるのは当然だと言えるでしょう。
本筋に戻って、本書を読んで分かることの一つは、歌を作るときに、メロディーを先に作り(あるいはすでにメロディーがあって)、あとからそのメロディーにフィットする歌詞をつけるのは、極めてまっとうな曲の作り方ということです。ヒトの歴史をみると、節を伴う発声がまずあって、その次に言葉が発達したのだから・・・・・・。
さらに言うと、オペラは普通、歌だけで劇が進みます。ミュージカルにも、台詞がいっさい無く、歌だけでストーリーが進行するものがあります。こういった作品は、ヒトの本性に根差した最も根源的な表現手段だと思いました。
これでいちおう納得なのですが、なんとなく割り切れない感じがしないでもない。なぜメロディーの記憶が長く続くのか、なぜヒトは音楽を求めるのか(なくても生活に支障は全くないのに)。その問いに対する本書の答えは、要するに「それが本能だから」「ヒトとはそういうものだから」ということに近いわけです。
「本能です」と言われると、それで回答は終わりです。何となく割り切れない感じが残る。それでは、おもしろくない、もっと理由がないのか、という・・・・・・。
子供が「どうして・・・なの?」を連発する段階からはじまって、我々には「理由を求めたい」「納得できる説明が聞きたい」という思いがつきまとっています。理由がないと自分が宙ぶらりんになったような気がして不安にかられる。それは言語能力を獲得した人間の性であり、ある意味では本能とも言えるものです。そして、理由を知りたいからこそ、科学や学問や宗教が発達し、今の人間社会ができた。
しかしよくよく考えてみると、音楽にまで理由を求めるべきではないのですね。音楽に理由を求めるのは『音楽を愛でるサル』に書かれている学問的知見に反します。なぜなら、「理由」というのは人間の言語活動の範疇に属するものであり、音楽は言語以前のものだからです。
理由の詮索はやめて、それよりも好きな音楽に浸ろう。我々は、ホモ・サピエンス(言葉をあやつるサル)であると同時に、いや、それ以前にホモ・ミュージエンス(音楽を愛でるサル)なのだから |
というのが、本書を読んだ最大の感想=教訓です。
No.128 - 音楽を愛でるサル(1) [音楽]
No.62「音楽の不思議」で、音楽の「不思議さ」についていろいろ書きました。特に、
ことです。自分が好きな曲ならまだしも、(私にとっての)キャンディーズの楽曲のように、知らず知らずのうちに意識することなく憶えた曲が30年たっても忘れずにいることが大変に不思議だったのです。
それはなぜなのか。音楽は人間の言語活動と関係しているのでは、というようなことを書いたのですが、最近出た本にその疑問に答えるヒントがあったので紹介したいと思います。正高信男氏の『音楽を愛でるサル』(中央公論社。中公新書 2014)です。正高氏は心理学が専門で、京都大学霊長類研究所教授です。なぜ心理学者が霊長類の研究をするのかというと、サルの研究の大きな目的が人間の研究だからです。
以下は『音楽を愛でるサル』に書かれていることのうち、音楽がヒトに与える影響についての学問的知見の部分です。
ホモ・ミュージエンス
本書の題名はもちろん「音楽を愛でるサルがいる」という意味ではなく「ヒトは音楽を愛でるサルである」という意味です。本書の「はじめに」では、ニホンザルについての次のような話が書かれています。
音楽は「なくても生活できる」ものです。無人島の一軒家に一人で生活し、音楽から遮断された生活を送ったとしても、全く正常な生活ができるはずです。また音楽といっても、そのありようは世界の各地で非常に違うわけです。特に「伝統音楽」は非常に違う。それでも「音楽がない」地域はないのです。
体の記憶
歌を歌うことは、人間にどういう影響を与えるのでしょうか。著者は、クラシック音楽やポップスではなく、少々意外なことに浄瑠璃の節回しを例にとって説明しています。たとえば近松門左衛門の『曾根崎心中』で、お初と徳兵衛が心中を企てる「道行」の場面です。七五調が反復されるので、「七五」を一行に書くと次のようになります。
この節回しは、日本語の音節を考えると三拍子が基本になっていると、著者は指摘しています。最初の「七五」は、
という4・3・2・3の4拍子ですが、以降は、
というわけです。以下、「道行」を分析すると
のパターンがほとんどを占めています。まとめると、曾根崎心中の節回しには(そして浄瑠璃の節回しには)、
という特徴があり、つまり音楽の基本要素を備えていることになります。そしてこの「音楽的要素」が人に大きな影響を与えているのです。それは言葉を頭で理解するという以上のものです。
ではなぜ音楽は「ものごとを系列に即して記憶するという系列学習を促す上で多大な効果がある」のでしょうか。
「手続き記憶」としての「音楽の記憶」
本書によると、そもそも「記憶」には以下の種類があります。
我々が一般に「記憶」と呼んでいるものは陳述記憶です。「陳述記憶」には「エピソード記憶」と「意味記憶」があります。
エピソード記憶とは、遭遇した出来事の記憶であり、意味記憶とは、仕入れた知識の記憶です。「最近『音楽を愛でるサル』という本を読んだ」というのはエピソード記憶であり、『音楽を愛でるサル』という本にはヒトと音楽の関わりについての有益なことが書かれてあった、というのは意味記憶です。音楽についての有益な本を読んだが本の名前が思い出せない、というのは「エピソード記憶の喪失」が起こっているのであり、逆に『音楽を愛でるサル』を読んだが、どいう内容だったか全く覚えていないというのであれば「意味記憶の喪失」が起こっているわけです。
いずれにせよ「陳述記憶」とは、それが曖昧か詳細かは別にして、言葉で表現できる記憶であり、言語化できる記憶と言ってよいでしょう。
しかし記憶の中には、これとは全く別種の記憶があります。手続き記憶と呼ばれているものです。手続き記憶は、
というような性質があります。つまり、頭とはひとまず切り離された、身体がおぼえている情報のたくわえが手続き記憶です。
世の中に広くみられる「技能の習熟」は、まさに手続き記憶で成り立っています。音楽の演奏、工芸、スポーツ、ものづくりの職人・・・いっぱいあります。『音楽を愛でるサル』という本なので音楽を例にとりますと、プロのピアニストやヴァイオリニストは演奏会で長い曲を暗譜で演奏しますね。小さい頃からの訓練に加えて、その曲の猛練習によって、曲を体に染み込ませているわけです。「演奏の途中で、突然指の動かし方を忘れる」ことはありません。
手続き記憶はプロフェッショナルに限ったことではなく、一般人が毎日使っています。「指の動かし方」を例にとると、たとえばいま私がやっているような「キーボードを見ないキーボード操作」(いわゆるタッチ・タイピング)です。さっき「一般人が毎日使っています」というフレーズを書こうと思い浮かべて、
IPPANJINNGAMAINITITUKATTEIMASU_
( _ はスペースキー = 変換 )
と、31回キーを打鍵したのですが、「ひとりでに」指が動くわけですね。まだ習熟していない子供に「どうしてできるの?」「どうしたらできるの?」と問われても、それは答えようがない。せいぜい「キーボードにはホームポジションの印があって、親指はそこに置く」ぐらいでしょうか。あとは、やればできる、慣れればできる、と言うしかないわけです。しかも「明日、突然タッチ・タイピングを忘れるのではないか」という不安は全くありません。
手続き記憶は
であり、身体に染み込んだ手続き記憶は容易には忘れないのです。そして音楽に関して言うと、
のです。だから、身体に染み込んだ歌は容易には忘れない。逆に、歌のこの性質を利用して科白やテキストに節をつけておぼえるのが、たとえば浄瑠璃であるわけです。
この「手続き記憶」に関して思い当たることがあります。我々は「楽曲の題名を言われても、メロディーが思い出せない」ということがしばしばあります。ところが、曲の最初の部分や歌い出しの部分を耳で聴くと、その後のメロディーはスラスラと思い出すということが、これもまたしばしばある。メロディーの記憶は「体の記憶 = 手続き記憶」であり、言葉の記憶(陳述記憶)とは別種のものである、という本書の説明が納得できました。
テナガザルに見る「歌」の起源
音楽性の起源は、チンパンジーとテナガザルに見られます。チンパンジーは「パントフート」と呼ばれる、相手を威圧するための誇示行動(動物行動学ではディスプレイと呼ぶ)をします。それは3つの部分に分かれます。
の3つです。チンパンジーのパントフートは約7秒という短いものですが、「リズムの変化」と「音程の変化」があり、音楽性の萌芽とも言えます。
中国南部から東南アジアの森林には各種のテナガザルが生息しています。類人猿の中では例外的に種の数が多く、10種を越えています。このテナガザルは、チンパンジーよりもはるかに「高度で複雑化した声によるディスプレイ」を行うことが知られています。テナガザルは、オスとメスと子供の「核家族」が単位となって、木の上(樹冠)で生活します。地上に降りてくることはまずありません。そして家族の縄張りを示すためにオス・メスのペアは、枝から枝へと移動しながら「声によるディスプレイ」を行います。本書によってその特徴をまとめると、以下です。
カラオケで男女がデュエット曲を歌うことを想像してみると、明らかにユニゾンの部分より交替の部分の方が技能がいるわけです。なぜなら、そこは一人で歌わないといけないし、全体の曲の構造や流れを把握していて、相手が歌っている時にどこで自分の番が回ってくるかを認識できないといけないからです。つまり自分が歌っていないときの発声パターンを聴覚的情報として記憶していることが必須です。正高教授はここで「交替型デュエット」と言語習得との類似性を指摘しています。
この引用のところが、京都大学霊長類研究所教授としての発言の核心部分でしょう。なぜヒトにとって「歌」が記憶しやすいのか。それは言葉をしゃべることよりも、もっと根源的なヒトの能力だからのようです。ちなみに、同じ考えを述べた人が140年以上前にいました。
さすがはダーウィン先生というところです。
ところで『音楽を愛でるサル』という本のユニークな点は、歌を含む「音楽」が科白やテキストの記憶以外に人間にどういう効果を与えるのか、その効果を著者自身が実験した部分です。音楽の効果というと音楽の種類によってさまざまですが、普通、
が思い浮かびます。しかし著者の実験はそういう効果をみるのではなく「人間の認知能力にどういう影響を与えるか」という実験です。興味津々の話なので、紹介したいと思います。そのためにはまず「モーツァルト効果」の説明が必要です。
モーツァルト効果
モーツァルト効果とは何か。その内容と発表された後の経緯を『音楽を愛でるサル』の記述にそって要約すると以下のようになります。
専門家やプロでもやすやすと騙されてしまう、という見本のような話です。この「大騒ぎ」は、音楽が人間心理に与える影響を「まじめに」研究しようとする(著者のような)立場からすると、大変に不幸な事態です。「まじめな」学者も、世の中によくある「ホンマでっか」科学者や「トンデモ」科学者(著者の表現)と十把一からげの扱いを受けかねません。
余談になりますが、オリジナルの研究が大センセーションになったのは、それが「モーツァルト」だったからでしょう。実験に使う音楽は、研究目的だけであれば別にモーツァルトではなくても、バッハでもベートーベンでもシューベルトでもよいはずです。しかし、ここは絶対にモーツァルトに限るわけです。つまり人々は「モーツァルトの音楽には特別な力があるとしても不思議ではない」と潜在的に思っていて、そこに研究がピタッとハマったと考えられます。そして、その潜在意識を世界的に広めたのは、ミロシュ・フォアマン監督の映画『アマデウス』(1984年)だと思います。
『アマデウス』はアカデミー賞を総なめにし、世界中で大ヒットしました。あの映画を見ると「音楽の神がモーツァルトに降臨して曲を書かせた」というような印象を暗黙のうちに受けてしまいます。その印象は、オーストリア帝国の宮廷楽長、つまり当時のヨーロッパ音楽界の頂点に立つ人物だった音楽家・サリエリの視点でモーツァルトを描くという秀逸な構成で倍加された。もちろん「神童」とか「神に愛された子」とか、そいういった表現は昔からあったのですが、以前にも何回か書いたように映画の影響力は大きいのです。
映画がヒットし(1984 - )、ビデオが発売され、数年後にTVでも放映され、「アマデウス効果」が行き渡ったところに「モーツァルト効果」の研究(1993)が出てきた。センセーションが起こるのは必然だったのでしょう。
余談の余談になりますが「モーツァルトの音楽には特別な何かがある」という意識を広めたのが映画『アマデウス』だとしても、そもそも潜在意識的にそう感じている人が少なからずあったからこそ、広まったと言えるでしょう。
モーツァルトの音楽には駄作がありません。一般的にはそうではなく、どんな大作曲家・アーティストでも駄作はあります。あのベートーヴェンだって、現在ではほとんど演奏されない大曲がある。モーツァルトを一言でいうと、
です。こんな人は他にいません。
どんな作曲家・アーティストも個性的であろうとします。作品に独自の特徴を出そうとする。天才作曲家はそこで個性的な名曲を作る。没個性的なアーティストはいずれ忘れられます。職人ではあっても芸術家ではない。もちろんモーツァルトも個性的です。しかしその音楽は、時間経緯とともに流れる音の運びがものすごく必然的に感じられます。それは個性を超越している感じがします。モーツァルトの音楽は、
だと思います。なんだか「人智を越えた感じ」がする。どんな曲を作っても名曲にしかなりえないと感じる音楽、とも言える。
これが、人々が無意識に、暗黙にモーツァルトの音楽に対して抱いている感覚ではないかと思います。
本題に戻ります。『音楽を愛でるサル』の著者である正高教授は、「ホンマでっか」科学者や「トンデモ」科学者と十把一からげの扱いを受けるリスクを承知で(そんなことは本書には書いてありませんが)、モーツァルト効果の「まじめな」研究をしました。その一つが「音楽が認知的不協和に与える効果」です。
「認知的不協和」とは何か。それを理解するには、有名なイソップ寓話が最適です。
兵庫県の丹波篠山市に鳳鳴酒造という、1797年(寛政9年)創業の老舗酒造メーカーがあります。ここでは "音楽振動醸造酒" と称して、「音楽を振動に変換して桶に伝えながら醸造した日本酒」を造っています。酵母に振動を与えることで "まろやかな口当たり" になるとのことです。酒のブランドは「夢の扉」です。
そして、その振動の元になる音楽ですが、鳳鳴酒造のサイトを見ると「夢の扉」ブランドには純米吟醸・本醸造・普通酒の3種があり、それぞれ "聞かせる" 音楽は、
と書いてあります。私は日本酒醸造の専門家ではないので「振動を与えながら醸造すると "まろやかな口当たり" になる」のかどうか、どの程度 "まろやか" になるのかは分かりません。そういうこともあり得るだろうなとは思います。
そして醸造中の桶に振動を与えるとしたら、規則正しい単調な振動(音で言うと音叉の振動)ではなく、実際の音楽を機械的振動に変換したものが適切だというのも何となく理解できます。音楽から作られる振動には当然 "ゆらぎ" があって、それが酵母に良い効果をもたらすだろうと想像するからです。
そこまでは理解できますが、音楽が特定のものであるべき日本酒醸造上の理由はないはずです。リズムや強弱が心地よく変化する曲であれば何だってよいはずで、クラシック音楽でもポピュラー音楽でも何でも良い。むしろ各種の曲をランダムに聞かせた方がよいとも思えます。
という風に考えると、鳳鳴酒造の銘柄ごとの "曲の選択" は大変に微妙です。まず、普通酒だけがクラシック音楽ではなくてデカンショ節というのは何となくわかる感じがします。そういう雰囲気のもとに飲まれるべき酒というわけでしょう。
そして純米吟醸がモーツァルトというのも納得性があります。つまり、こと日本酒を醸造するという一点に関してはベートーベンよりモーツァルトの方が格上ということでしょう。最も手間とコストをかけて醸造する酒にモーツァルトの40番が選ばれているわけで、これはまさに「モーツァルト効果」と言えると思います。
印象的なメロディーは、長い期間たっても忘れない |
それはなぜなのか。音楽は人間の言語活動と関係しているのでは、というようなことを書いたのですが、最近出た本にその疑問に答えるヒントがあったので紹介したいと思います。正高信男氏の『音楽を愛でるサル』(中央公論社。中公新書 2014)です。正高氏は心理学が専門で、京都大学霊長類研究所教授です。なぜ心理学者が霊長類の研究をするのかというと、サルの研究の大きな目的が人間の研究だからです。
以下は『音楽を愛でるサル』に書かれていることのうち、音楽がヒトに与える影響についての学問的知見の部分です。
ホモ・ミュージエンス
本書の題名はもちろん「音楽を愛でるサルがいる」という意味ではなく「ヒトは音楽を愛でるサルである」という意味です。本書の「はじめに」では、ニホンザルについての次のような話が書かれています。
|
音楽は「なくても生活できる」ものです。無人島の一軒家に一人で生活し、音楽から遮断された生活を送ったとしても、全く正常な生活ができるはずです。また音楽といっても、そのありようは世界の各地で非常に違うわけです。特に「伝統音楽」は非常に違う。それでも「音楽がない」地域はないのです。
|
体の記憶
歌を歌うことは、人間にどういう影響を与えるのでしょうか。著者は、クラシック音楽やポップスではなく、少々意外なことに浄瑠璃の節回しを例にとって説明しています。たとえば近松門左衛門の『曾根崎心中』で、お初と徳兵衛が心中を企てる「道行」の場面です。七五調が反復されるので、「七五」を一行に書くと次のようになります。
この世のなごり、夜もなごり 死ににゆく身を、たとふれば あだしが原の、道の霜 一足づつに、消えていく 夢の夢こそ、あはれなれ ・・・・・・・・ |
この節回しは、日本語の音節を考えると三拍子が基本になっていると、著者は指摘しています。最初の「七五」は、
この世の(4)なごり(3)、夜も(2)なごり(3) |
という4・3・2・3の4拍子ですが、以降は、
死にに(3)ゆく身を(4)、たとふれば(5) あだしが原の(7)、道の(3)霜(2) 一足づつに(7)、消えて(3)いく(2) 夢の(3)夢こそ(4)、あはれなれ(5) |
というわけです。以下、「道行」を分析すると
3・4・5 2・5・5 7・3・2 4・3・5 |
のパターンがほとんどを占めています。まとめると、曾根崎心中の節回しには(そして浄瑠璃の節回しには)、
・ | 3拍子が基本 | ||
・ | それぞれの拍には長短の変化がある | ||
・ | 音程をつけて発話される |
という特徴があり、つまり音楽の基本要素を備えていることになります。そしてこの「音楽的要素」が人に大きな影響を与えているのです。それは言葉を頭で理解するという以上のものです。
|
|
|
ではなぜ音楽は「ものごとを系列に即して記憶するという系列学習を促す上で多大な効果がある」のでしょうか。
「手続き記憶」としての「音楽の記憶」
本書によると、そもそも「記憶」には以下の種類があります。
┬ | ┬ | |||
│ | └ | |||
└ |
我々が一般に「記憶」と呼んでいるものは陳述記憶です。「陳述記憶」には「エピソード記憶」と「意味記憶」があります。
エピソード記憶とは、遭遇した出来事の記憶であり、意味記憶とは、仕入れた知識の記憶です。「最近『音楽を愛でるサル』という本を読んだ」というのはエピソード記憶であり、『音楽を愛でるサル』という本にはヒトと音楽の関わりについての有益なことが書かれてあった、というのは意味記憶です。音楽についての有益な本を読んだが本の名前が思い出せない、というのは「エピソード記憶の喪失」が起こっているのであり、逆に『音楽を愛でるサル』を読んだが、どいう内容だったか全く覚えていないというのであれば「意味記憶の喪失」が起こっているわけです。
いずれにせよ「陳述記憶」とは、それが曖昧か詳細かは別にして、言葉で表現できる記憶であり、言語化できる記憶と言ってよいでしょう。
しかし記憶の中には、これとは全く別種の記憶があります。手続き記憶と呼ばれているものです。手続き記憶は、
・ | 当事者が「おぼえている」ことすら自覚しない記憶 | ||
・ | おぼえた記憶のない記憶 | ||
・ | おぼえているつもりはない。けれども自分のからだが勝手に動く |
というような性質があります。つまり、頭とはひとまず切り離された、身体がおぼえている情報のたくわえが手続き記憶です。
世の中に広くみられる「技能の習熟」は、まさに手続き記憶で成り立っています。音楽の演奏、工芸、スポーツ、ものづくりの職人・・・いっぱいあります。『音楽を愛でるサル』という本なので音楽を例にとりますと、プロのピアニストやヴァイオリニストは演奏会で長い曲を暗譜で演奏しますね。小さい頃からの訓練に加えて、その曲の猛練習によって、曲を体に染み込ませているわけです。「演奏の途中で、突然指の動かし方を忘れる」ことはありません。
手続き記憶はプロフェッショナルに限ったことではなく、一般人が毎日使っています。「指の動かし方」を例にとると、たとえばいま私がやっているような「キーボードを見ないキーボード操作」(いわゆるタッチ・タイピング)です。さっき「一般人が毎日使っています」というフレーズを書こうと思い浮かべて、
IPPANJINNGAMAINITITUKATTEIMASU_
( _ はスペースキー = 変換 )
と、31回キーを打鍵したのですが、「ひとりでに」指が動くわけですね。まだ習熟していない子供に「どうしてできるの?」「どうしたらできるの?」と問われても、それは答えようがない。せいぜい「キーボードにはホームポジションの印があって、親指はそこに置く」ぐらいでしょうか。あとは、やればできる、慣れればできる、と言うしかないわけです。しかも「明日、突然タッチ・タイピングを忘れるのではないか」という不安は全くありません。
手続き記憶は
特定の運動・動作パターンの、身体による記憶 |
であり、身体に染み込んだ手続き記憶は容易には忘れないのです。そして音楽に関して言うと、
歌の記憶は「声帯を含む発声器官の、特定の運動パターンの記憶」であり、それは「手続き記憶」として身体におぼえ込まれる |
のです。だから、身体に染み込んだ歌は容易には忘れない。逆に、歌のこの性質を利用して科白やテキストに節をつけておぼえるのが、たとえば浄瑠璃であるわけです。
この「手続き記憶」に関して思い当たることがあります。我々は「楽曲の題名を言われても、メロディーが思い出せない」ということがしばしばあります。ところが、曲の最初の部分や歌い出しの部分を耳で聴くと、その後のメロディーはスラスラと思い出すということが、これもまたしばしばある。メロディーの記憶は「体の記憶 = 手続き記憶」であり、言葉の記憶(陳述記憶)とは別種のものである、という本書の説明が納得できました。
テナガザルに見る「歌」の起源
音楽性の起源は、チンパンジーとテナガザルに見られます。チンパンジーは「パントフート」と呼ばれる、相手を威圧するための誇示行動(動物行動学ではディスプレイと呼ぶ)をします。それは3つの部分に分かれます。
・ | イントロダクション 低い声で「フー、フー」と長く、うなり声をあげる | ||
・ | ビルドアップ | ||
「ホッホッホッホッ」と軽やかなリズムでテンポを上げる | |||
・ | クライマックス 声の高さを上げて「ワァー」という大音響を出す。 |
の3つです。チンパンジーのパントフートは約7秒という短いものですが、「リズムの変化」と「音程の変化」があり、音楽性の萌芽とも言えます。
中国南部から東南アジアの森林には各種のテナガザルが生息しています。類人猿の中では例外的に種の数が多く、10種を越えています。このテナガザルは、チンパンジーよりもはるかに「高度で複雑化した声によるディスプレイ」を行うことが知られています。テナガザルは、オスとメスと子供の「核家族」が単位となって、木の上(樹冠)で生活します。地上に降りてくることはまずありません。そして家族の縄張りを示すためにオス・メスのペアは、枝から枝へと移動しながら「声によるディスプレイ」を行います。本書によってその特徴をまとめると、以下です。
◆ | リズム、音の高低のパターンが、チンパンジーよりも変化に富んでいる。 | ||
◆ | 「イントロダクション」と「ビルドアップ」だけで数分、時には十数分も続く(チンパンジーは数秒)。 | ||
◆ | 「クライマックス」の部分まで含めると、全体は半時間に及ぶ。 | ||
◆ | オスとメスがデュエットする。 | ||
◆ | デュエットには2種類あり、唱和型(オスとメスがユニゾンで歌う)と、交替型(オスとメスが交互に歌う)がある。 | ||
◆ | テナガザルの10を越える種は、唱和型しか歌わない種と唱和型・交替型を歌う種に分かれる。交替型まで歌う種は比較的新しく分化した種である。ということは、テナガザルの「歌」は、唱和型から交替型へと進化したことが推測できる。 |
シロテテナガザル
( site : wwf.panda.org )
|
カラオケで男女がデュエット曲を歌うことを想像してみると、明らかにユニゾンの部分より交替の部分の方が技能がいるわけです。なぜなら、そこは一人で歌わないといけないし、全体の曲の構造や流れを把握していて、相手が歌っている時にどこで自分の番が回ってくるかを認識できないといけないからです。つまり自分が歌っていないときの発声パターンを聴覚的情報として記憶していることが必須です。正高教授はここで「交替型デュエット」と言語習得との類似性を指摘しています。
|
この引用のところが、京都大学霊長類研究所教授としての発言の核心部分でしょう。なぜヒトにとって「歌」が記憶しやすいのか。それは言葉をしゃべることよりも、もっと根源的なヒトの能力だからのようです。ちなみに、同じ考えを述べた人が140年以上前にいました。
|
さすがはダーウィン先生というところです。
ところで『音楽を愛でるサル』という本のユニークな点は、歌を含む「音楽」が科白やテキストの記憶以外に人間にどういう効果を与えるのか、その効果を著者自身が実験した部分です。音楽の効果というと音楽の種類によってさまざまですが、普通、
癒し、幸福感、平穏、厳粛、高揚、熱狂、といった人間の心的状況を作り出すこと |
が思い浮かびます。しかし著者の実験はそういう効果をみるのではなく「人間の認知能力にどういう影響を与えるか」という実験です。興味津々の話なので、紹介したいと思います。そのためにはまず「モーツァルト効果」の説明が必要です。
モーツァルト効果
モーツァルト効果とは何か。その内容と発表された後の経緯を『音楽を愛でるサル』の記述にそって要約すると以下のようになります。
◆ | 1993年、あるカリフォルニア大学の教授とその同僚が学術雑誌として著名な『ネイチャー』に論文を寄稿し、短報として掲載された。 | ||
◆ | 内容は「空間認識能力」を測定する実験である。被験者は下の図のような図形を見せられ、上に描かれた立体イメージと、下の二つの立体イメージが同じ立体を表しているのか、それとも違うのかを答える(下図の場合は同じ立体を表現)。 | ||
◆ | この実験をすると、モーツァルトのピアノ・ソナタが流れている場合の方が、成績が良くなった。これがいわゆる「モーツァルト効果」である。ただしこれは「空間認識能力」に限ったことであり、その効果は15分~20分しか持続しないと、短報には明記されていた。 | ||
◆ | 『ネイチャー』の短報は、学界の内外に大センセーションを巻き起こした。学界もさることながら、一般社会からの反応がすごかった。 | ||
◆ | その後、1990年代には追試を行って「モーツァルト効果」を肯定する研究、ないしは否定する研究が続々と発表された。しかし事態は異常な方向に行ってしまう。 | ||
◆ | 1996年に「The Mozart Effect」がアメリカで商標登録された。登録を行った当人は、翌年から相次いで著作を出版し、モーツァルトの音楽の効果を大々的に喧伝しだした。いわく、心身の健康や創造性を向上させる、知能の発育を促す、・・・・・・。オリジナルの短報にあった「空間認識能力に限ったもの」とか「効果は15分~20分しか持続しないこと」は意図的に無視された。 | ||
◆ | この結果、専門家ですら「モーツァルトの音楽を聞くと頭が良くなる、特に子供に効果がある」というのが「モーツァルト効果」だと誤解してしまった。そしてその「効果」を追認する研究が無数に行われた。 | ||
◆ | 状況のあまりのひどさに、ドイツの教育省は「今後、モーツァルト効果の検証をうたった研究費の申請は、申請そのものを受け付けない」というアナウンスをしたほどである。 | ||
◆ | こういった大騒ぎのおかげて、モーツァルト効果を口にするだけで、その研究者は「エセ科学者」であるかのように見なされるという反動を引き起こしてしまった。 |
専門家やプロでもやすやすと騙されてしまう、という見本のような話です。この「大騒ぎ」は、音楽が人間心理に与える影響を「まじめに」研究しようとする(著者のような)立場からすると、大変に不幸な事態です。「まじめな」学者も、世の中によくある「ホンマでっか」科学者や「トンデモ」科学者(著者の表現)と十把一からげの扱いを受けかねません。
余談になりますが、オリジナルの研究が大センセーションになったのは、それが「モーツァルト」だったからでしょう。実験に使う音楽は、研究目的だけであれば別にモーツァルトではなくても、バッハでもベートーベンでもシューベルトでもよいはずです。しかし、ここは絶対にモーツァルトに限るわけです。つまり人々は「モーツァルトの音楽には特別な力があるとしても不思議ではない」と潜在的に思っていて、そこに研究がピタッとハマったと考えられます。そして、その潜在意識を世界的に広めたのは、ミロシュ・フォアマン監督の映画『アマデウス』(1984年)だと思います。
|
映画がヒットし(1984 - )、ビデオが発売され、数年後にTVでも放映され、「アマデウス効果」が行き渡ったところに「モーツァルト効果」の研究(1993)が出てきた。センセーションが起こるのは必然だったのでしょう。
余談の余談になりますが「モーツァルトの音楽には特別な何かがある」という意識を広めたのが映画『アマデウス』だとしても、そもそも潜在意識的にそう感じている人が少なからずあったからこそ、広まったと言えるでしょう。
モーツァルトの音楽には駄作がありません。一般的にはそうではなく、どんな大作曲家・アーティストでも駄作はあります。あのベートーヴェンだって、現在ではほとんど演奏されない大曲がある。モーツァルトを一言でいうと、
借金に追いまくられて書きなぐった "大量生産曲" が、すべて珠玉の名曲として残っている作曲家 |
です。こんな人は他にいません。
どんな作曲家・アーティストも個性的であろうとします。作品に独自の特徴を出そうとする。天才作曲家はそこで個性的な名曲を作る。没個性的なアーティストはいずれ忘れられます。職人ではあっても芸術家ではない。もちろんモーツァルトも個性的です。しかしその音楽は、時間経緯とともに流れる音の運びがものすごく必然的に感じられます。それは個性を超越している感じがします。モーツァルトの音楽は、
個性を完全に通り越した、必然性の音楽 |
だと思います。なんだか「人智を越えた感じ」がする。どんな曲を作っても名曲にしかなりえないと感じる音楽、とも言える。
普通の人間社会では起こりえないことが、モーツァルトでは起こっている、と感じさせる。 |
これが、人々が無意識に、暗黙にモーツァルトの音楽に対して抱いている感覚ではないかと思います。
本題に戻ります。『音楽を愛でるサル』の著者である正高教授は、「ホンマでっか」科学者や「トンデモ」科学者と十把一からげの扱いを受けるリスクを承知で(そんなことは本書には書いてありませんが)、モーツァルト効果の「まじめな」研究をしました。その一つが「音楽が認知的不協和に与える効果」です。
「認知的不協和」とは何か。それを理解するには、有名なイソップ寓話が最適です。
(次回に続く)
 補記:モーツァルト効果で純米吟醸酒を造る  |
兵庫県の丹波篠山市に鳳鳴酒造という、1797年(寛政9年)創業の老舗酒造メーカーがあります。ここでは "音楽振動醸造酒" と称して、「音楽を振動に変換して桶に伝えながら醸造した日本酒」を造っています。酵母に振動を与えることで "まろやかな口当たり" になるとのことです。酒のブランドは「夢の扉」です。
そして、その振動の元になる音楽ですが、鳳鳴酒造のサイトを見ると「夢の扉」ブランドには純米吟醸・本醸造・普通酒の3種があり、それぞれ "聞かせる" 音楽は、
純米吟醸:
モーツァルトの交響曲第40番
| |
本醸造:
ベートーベンの交響曲第6番(田園)
| |
普通酒:
デカンショ節
|
と書いてあります。私は日本酒醸造の専門家ではないので「振動を与えながら醸造すると "まろやかな口当たり" になる」のかどうか、どの程度 "まろやか" になるのかは分かりません。そういうこともあり得るだろうなとは思います。
|
そこまでは理解できますが、音楽が特定のものであるべき日本酒醸造上の理由はないはずです。リズムや強弱が心地よく変化する曲であれば何だってよいはずで、クラシック音楽でもポピュラー音楽でも何でも良い。むしろ各種の曲をランダムに聞かせた方がよいとも思えます。
という風に考えると、鳳鳴酒造の銘柄ごとの "曲の選択" は大変に微妙です。まず、普通酒だけがクラシック音楽ではなくてデカンショ節というのは何となくわかる感じがします。そういう雰囲気のもとに飲まれるべき酒というわけでしょう。
そして純米吟醸がモーツァルトというのも納得性があります。つまり、こと日本酒を醸造するという一点に関してはベートーベンよりモーツァルトの方が格上ということでしょう。最も手間とコストをかけて醸造する酒にモーツァルトの40番が選ばれているわけで、これはまさに「モーツァルト効果」と言えると思います。
音楽を物理振動に変えるトランスデューサを桶に装着して醸造する。鳳鳴酒造のサイトより。 |
(2020.7.17)
No.124 - パガニーニの主題による狂詩曲 [音楽]
変奏という音楽手法
今まで何回かクラシック音楽をとりあげていますが、今回はその継続で、「変奏」ないしは「変奏曲」がテーマです。
No.14-17「ニーベルングの指環」で中心的に書いたのは「変奏」という音楽手法の重要性でした。ちょっと振り返ってみると、ワーグナーが作曲した15時間に及ぶ長大なオペラ『ニーベルングの指環』には、「ライトモティーフ」と呼ばれる旋律(音楽用語で「動機」)が多種・大量に散りばめられていて、個々のライトモティーフは、人物、感情、事物、動物、自然現象、抽象概念(没落、勝利、愛、・・・・・・)などを象徴しているのでした。そして重要なことは「ライトモティーフ・A」が変奏、ないしは変形されて別の「ライトモティーフ・B」になることにより、AとBの関係性が音楽によって示されることでした。
たとえば「自然の生成」というライトモティーフの変奏(の一つ)が「神々の黄昏」であり、これは「生成と没落は表裏一体である」「栄えた者は滅びる」という、このオペラの背景となっている思想を表現しています。また、主人公の一人である「ジーフリート」を表すライトモティーフの唯一の変奏は「呪い」であり、それは「ジーフリートは呪いによって死ぬ」という、ドラマのストーリーの根幹のところを暗示しているのでした。
もちろん『ニーベルングの指環』だけでなく、変奏はクラシック音楽(や、ジャズ)のありとあらゆる所に出現します。ベートーベンの『運命』を聞くと、第1楽章の冒頭の「運命の動機」がさまざまに変奏されていき、それは第3楽章にまで現れることが、聴いていてすぐに分かります。学校の音楽の授業でも取り上げられる、最もよく知られたクラシック音楽(=運命)を聴くということは、暗黙に「変奏」という音楽スタイルに親しむということでもあるのです。
そしてクラシック音楽の中には、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』のように「作品全体が変奏で成り立っている」もの(=変奏曲)があります。つまり「主題」が提示され、その変奏が10曲とか20曲とか続き、それが曲のすべてである、というたぐいの音楽作品です。
今回はその変奏曲の一つをとりあげます。ラフマニノフ(1873-1943)の『パガニーニの主題による狂詩曲』です。なぜこの曲かと言うと、私がよく行くカフェでBGMとして流れる(ことが多い)からです。
パガニーニの主題による24の変奏
ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲 作品43(1934)』は、パガニーニ(1782-1840)が作曲した『24の奇想曲 作品 1』の終曲(第24曲)の主題をもとに、その24の変奏で構成されています。これはピアノとオーケストラのための作品で「変奏曲形式のピアノ協奏曲」です。
そもそもパガニーニの『24の奇想曲の第24曲』が、主題と11の変奏(そして終曲)から成り立っています。もちろんヴァイオリン独奏曲(無伴奏)です。その主題が譜例66です。
Quasi Presto は「ほとんどプレストで」という意味ですが、プレスト(=急いで)とい指定のように、素早く演奏されるイ短調の主題です。
この主題を以下では「パガニーニ主題」と呼ぶことにします。またこの主題の中で特徴的な「ラ→ド→シ→ラ」という4つの音(16分音符)の形を「4音動機」と呼ぶことにします。この主題は、全体的にスピード感と躍動感が溢れていて、生命力や力強さを感じるし、音楽の流れをドライブする推進力が非常にあります。この「パガニーニ主題」は後世の作曲家にインスピレーションを与え、その編曲や変奏曲が多数作られました。有名なところでは、リストやブラームスです。
リスト(1811-1886)はパガニーニのライブ演奏を聴いて感動し「ピアノのパガニーニになる」と一念発起して猛練習に励んだと言います。彼が作曲した『パガニーニ大練習曲』は、パガニーニの『24の奇想曲』と『ヴァイオリン協奏曲』を素材にした6曲のピアノ練習曲集で、その第6曲が「パガニーニ主題」にもとづいています。
ブラームス(1833-1897)の『パガニーニの主題による変奏曲 作品35』は「パガニーニ主題」を使った合計28の変奏(!)からなる変奏曲(ピアノ独奏)です。そういった大作曲家たちの一人としてラフマニノフもいるというわけです。
ところで、よく知られているように、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』は、24の変奏のうちの「第18変奏」だけが突出して有名です。カフェでBGMとして流れていたのも「第18変奏」の編曲だし、映画音楽に使われるのもこれです。平原綾香さんは歌詞をつけて歌っているし(=ラヴ・ラプソディー)、テレビのCMにも使われたりする(最近では東急不動産のCM。関東圏ですが)。
その「第18変奏」の旋律を「譜例67」に掲げます。原曲ではピアノがこの旋律を演奏したあとに弦楽器が続きますが、譜例67はその第1ヴァイオリンのパートだけを抜き出したものです。
フラット5つの「変二長調」で、「レ♭」の音が主音です。「アンダンテ・カンタービレ」という指定があるように、パガニーニ主題とはまったく違ったムードの、ゆっくりと歌い、流れる旋律です。カンタービレは「歌うように」という意味なので、平原さんのように歌詞をつけて歌うには最適かもしれません。
その譜例67の出だし、ラ♭→ファ→ソ♭→ラ♭ という音の並びが、パガニーニの「4音動機」の「反行形」になっています。「反行形」というのは古くからある変奏の手法で、音の上昇・下降の関係を逆転させるものです。
『パガニーニの主題による狂詩曲』では、パガニーニの「4音動機の反行形」が7回繰り返されます。その繰り返しによって、曲は次第に盛り上がっていき、頂点に達したと思ったその瞬間、最後の反行形はオクターブ以上の下降音形(ファ→ファ♭)と、それに続く上昇音形(ラ♭→ド→レ♭)という、ちょっと意外性のある展開で終わります。
さらに、譜例67の旋律全体が「4音動機」の反行形を「時間的に引き延ばしたもの」になっています。下の譜例68は第18変奏の「4音動機・反行形」だけを抜き出して並べたものですが(1オクターブ下に移調)、これを見ると旋律全体の音の流れが「下降し、徐々に上昇する、という反行形そのもの」になっていることが分かります。
ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲 第18変奏」を編曲した「ラヴ・ラプソディー」が収録されている。そう言えば彼女は、ラフマニノフ「交響曲第2番 第3楽章(アダージョ)」もカヴァーしている(my Classics2)。
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つまり、シンプルな旋律が少しづつ変形されて、しつこいほど繰り返される。次々と出てくる美しい旋律が、行く末が読めない感じで、延々と続く。ちょっと「くどい」と暗に感じるが、聞き惚れてしまう。全体としては、しつこさなど吹き飛んでしまう魅力がある。そういった感じの曲です。
・ | ピアノ協奏曲第2番の第1楽章や第2楽章 | ||
・ | 交響曲第2番の第3楽章(アダージョ) | ||
・ | ヴォカリーズ |
などはその典型でしょう。第18変奏も、旋律は短いものの、なんとなくそういう雰囲気を感じるのです。
「突出している」第18変奏
そして『パガニーニの主題による狂詩曲』の全体を聴くとよく分かるのですが、第18変奏だけが「際だっていて」「突出して」います。曲全体の構成(調性、拍子、演奏時間)を一覧にしてみると以下です。演奏時間は、ウラジミール・アシュケナージ(ピアノ)、ハイティンク指揮:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のCDのものを採りました。曲全体の演奏時間は約24分です。
一見して分かることは、第18変奏は他の変奏に比べて演奏時間が長いことです(3分11秒)。また、長調の変奏は第14変奏、第15変奏、第18変奏だけですが、第14変奏、第15変奏はアレグロ、ないしはアレグレットの、速いテンポの曲です。長調の、ゆっくりしたアダージョの曲は第18変奏しかありません。
一覧表で多くを占めているのは、2拍子か4拍子の短調(ほとんどがイ短調)の変奏です。これはもちろん「パガニーニ主題」がそうだからです。それらの中で「長調・アダージョ・3拍子」で「長い」第18変奏は、独特の美しさで際だっています。つまり、
・ | 第18変奏だけが独立している感じ | ||
・ | 他の変奏とは一線を画している感じ |
が非常にするのです。鳶が鷹を生む、ということわざがあります。このことわざになぞらえると『パガニーニの主題による狂詩曲』の第18変奏は、
鷹が白鳥を生んだ |
ように感じる。鷹とはパガニーニ主題であり、白鳥が第18変奏です。他の変奏はあくまで「鷹の子」だが、これだけは白鳥のようだ、という・・・・・・。
想像をめぐらすと・・・・・・
そこで、想像をめぐらす余地が出てきます。ひょっしたら第18変奏(譜例67)のメロディー、特に最初の2小節分は、『パガニーニの主題による狂詩曲』とは全く別の目的で作られたのではないでしょうか。次のようなことを想像してしまうのです。
◆ | ラフマニノフは、他の曲(たとえば、交響曲やピアノ協奏曲)を作曲しているときに、第18変奏のメロディーを思いついた。 | ||
◆ | ところが、ふと気づいた。これは「パガニーニ主題」の変奏だと考えても全くおかしくはない。 | ||
◆ | そこで思い立った。「パガニーニ主題」にもとづく変奏曲を作曲したらどうか。その中のヤマ場に、思いついたメロディー(=第18変奏)をもってくる。 | ||
◆ | 先人の大作曲家たちは「パガニーニ主題」による変奏曲を作曲している。自分もその中に加わろう。もとより、パガニーニを深く尊敬してるのだから・・・・・・。 |
つまり、先に『第18変奏』が発想され、後からそれを生かした『パガニーニの主題による狂詩曲』が作られたという想像です。この想像にはいくつかのヴァリエーションが考えられる。たとえば『パガニーニの主題による狂詩曲』の作曲の途中でふと気が付いた、以前書き溜めていたメロディーがこの変奏曲に仕えるのでは・・・・・・というような。とにかく、『パガニーニの主題による狂詩曲』の作曲開始以前に『第18変奏』のメロディーが作られた、というのが想像です。
違うでしょうか。違うかもしれない。しかし、実証できないと同時に、反証もできないでしょう。普通、アーティストは自分の創作の秘密を公開することはないからです。
パガニーニに対するリスペクト
上の「想像」が違っていたとしても、一つだけ確実と思える推測があります。それは『パガニーニの主題による狂詩曲』が、パガニーニに対するリスペクトを背景に作られたということです。ラフマニノフは大変なピアノの名手でした。その人が、ヴァイオリンの鬼才・パガニーニを尊敬するのは自然です。また作曲家としてもパガニーニは名曲を書いていて、この点もラフマニノフに似ている。しかも「パガニーニをリスペクトする大ピアニスト、兼作曲家」と言えば、言わずと知れたフランツ・リストです。リストに自分をなぞらえたということも考えられます。
そして、もし上の「想像」が正しいとすると、ラフマニノフは自分の作ったメロディーをパガニーニの変奏とすることで、パガニーニに対する「二重のリスペクト」を表したということになるでしょう。自分のオリジナルのメロディーを、あえてパガニーニ作品の変奏だとしたのだから(=仮説)・・・・・・。もちろん「鷹から白鳥を生み出せる技量」を誇りたい気があったのかも知れません。
アーティストが生み出した作品は、アーティストのものであると同時に、アーティストのものではない。なぜなら、作品は独立した存在であって、受け手の解釈にゆだねられるから、という意味のことを中島みゆきさんが言っていました(No.35「中島みゆき:時代」参照)。
音楽、特に純粋音楽は、聴き手の受けとめかたが非常に自由です。BGMとして聴き流してもいいし、深い精神性や意味を汲み取ってもよい。そこがおもしろいところだし、音楽を聴く楽しみだと思います。
No.99 - ドボルザーク:交響曲第3番 [音楽]
チェコ
No.1-2 の「千と千尋の神隠しとクラバート」で紹介した小説『クラバート』は、現在のチェコ領内(リベレツ)で生まれたドイツ人作家、オトフリート・プロイスラーが、ドイツ領内(シュヴァルツコルム)に住むスラヴ系民族・ソルブ人を描いた小説でした。
それが契機で、スラブ系民族の国・チェコにまつわる作曲家の話を2回書きました。
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スメタナ(1824-1884)- ボヘミア地方・リトミシュル出身 No.5「交響詩:モルダウ」 | |
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コルンゴルト(1897-1957)- モラヴィア地方・ブルノ出身 No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」 |
の二つです。
ドヴォルザークの名曲はたくさんあり、取り上げたい作品も迷うところですが、交響曲第3番(作品10。33歳)ということにします。初期の作品ですが、それだけにドヴォルザーク「らしさ」がよく現れていると思うのです。
ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 作品10
ドヴォルザーク
ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(録音:1985年)
交響曲第3番 変ホ長調 Op.10(1873) |
 第1楽章:Allegro moderato  (約11分30秒)  |
ごく短い序奏があって第1主題(譜例55の最初の5小節)が提示されます。この主題は非常に晴れやかな感じで、なんだか「うきうきした気分」になる旋律です。ベートーベンの田園交響曲の第1楽章には「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」という表題がついていますが、そんな感じもする。現代風に言うと「秋に高原のペンションに1泊した翌朝にすがすがしい朝を迎え、朝食前に少し散歩しよう」という気分でしょうか。
譜例55は第1ヴァイオリンのパートですが、この主題は16分音符(A)が特徴的であり、次に音階を単純に上昇します(B)。そして7小節目以降でオーケストラは、スキップするようなリズム(第1ヴァイオリンではCの部分)を続けるという構成になっています。AやCのリズムは第1楽章全体でたびたび現れます。またCのリズムは第3楽章で重要な役割を果たすことになります。
第1主題が展開・変奏され、何回か繰り返されたあと、第2主題(譜例56)が出てきます。変ト長調の音階を4つの音で下るというシンプルな出だしですが、愛らしくて印象的な動機です。第1主題(譜例55)には、変ホ長調の音階を8つの音で単純に上るところがありましたが(Bの部分)、音階をシンプルに上ったり・下ったりが、なぜこうも魅力的に聞こえるのか。「ドヴォルザーク・マジック」と言ったところでしょうか。
オーボエが短調で第1主題を演奏する付近からが、いわゆるこの楽章の「展開部」です。すぐに長調に戻り、第1主題と第2主題の数々の変奏や発展形が続きます。
そのうちに第1主題が冒頭の形で再現される部分が出てきます。以降は第1主題だけを軸とした展開が続き、その流れで楽章は終わりを迎えます。
第1楽章はいわゆる「ソナタ形式」ですね。その伝統的な形式を踏まえて作られています。
 第2楽章(約17分)  |
第2楽章は、Adagio molto, tempo di marcia と題されていて、
第1部
第2部
第3部(終結部)
の3部構成をとっています。Tempo di marcia とは「マーチのテンポで」という意味ですが、行進曲という感じはありません。あくまで静粛に演奏される「リズムが行進曲風」の楽章で、全体的にゆっくりしたテンポで演奏される緩徐楽章になっています。
第1部の主題は、この楽章の冒頭から演奏される譜例57です(譜例57はオーボエとイングリッシュホルンのパート)。この主題の中の16分音符(6連符)のパターン(D)は以降もたびたび現れ、第1部を支配します。
この主題の変奏や発展で第1部は進行します。途中に譜例58のような新たな動機も出てきますが、ちょっとした寄り道という感じで、すぐに主題(譜例57)を軸とした展開に戻ります。
第2部で曲想はガラッと変わります。主題は譜例59で、オーケストラにはハープも加わります。
途中に譜例60や譜例61の新たな旋律が出てきますが、これもちょっとした寄り道で、あくまで譜例59の発展型が主体で音楽が進行します。
第2部の途中(譜例60と譜例61の間)に、金管が譜例59をファンファーレ風に演奏し、その裏で弦楽器群が分散和音を演奏するところがありますが、このあたりはワーグナーの音楽を連想させます。
そうこうしているうちに第1部の動機が混じり始めて、曲は終結部(第3部)へと向かいます。
終結部では第1部の主題(譜例57)が回帰します。第1部の回想が続いたあと、最後に弦楽器とハープの奏でる和音の音形に乗って、金管・木管が第2部の主題(譜例59)コラール風に演奏し、第2楽章は終わります。このあたりもワーグナー風の響きというか、ないしはブルックナーのような感じがするところです。
 第3楽章:Allegro vivace(約9分30秒)  |
第3楽章には約30秒間の序奏がついています。その動機が譜例62です。
この動機は第2楽章・第2部の主題(譜例59)と関係しています。曲のテンポは全然違いますが、リズムが似通っています。序奏の後に演奏される主題(譜例63)がこの楽章全体を支配する旋律です。
これはいかにも「舞曲風」というか、飛び跳ね、スキップして踊っているような、明るく快活で、うきうきするような主題です。この「うきうき感」は第1楽章の第1主題(譜例55)と双璧でしょう。しかもこの主題は、第1楽章の第1主題の断片(譜例55のCの部分)の発展型です。いや話は逆で、譜例63の動機とリズムがまずあって、それを第1楽章の第1主題に埋め込んだとも考えられる。おそらくこの方が当たっていると思います。
ちなみに、この交響曲は楽章をまたいでリズムの類似した部分がいろいろ出てきます。 ・譜例55のC(第1楽章) ⇔ 譜例63(第3楽章) ・譜例55のA(第1楽章) ⇔ 譜例57のD(第2楽章) ・譜例59 (第2楽章) ⇔ 譜例62(第3楽章) などです。このあたりは、作曲上の「計画性」を感じさせます |
第3楽章にはこの主題(譜例63)の変形や、そのままの再現が繰り返し出てきて、その間に別の曲想の動機(譜例64)や譜例63の変奏形(譜例65)が挟み込まれるという構成で曲が進行していきます。
その意味で、いわゆる「ロンド形式」に近いのですが、ちょっと異質な面もある。主題(譜例63)は次々と変形されていき、その中で新たな旋律が出てくる。そうこうしているうちに主題がもとの形で再現したり、また新たな変奏が始まったり、ないしは意外な展開をしたりする。個々の旋律や動機は魅力的で、その過程が楽しい・・・・・・。そういう感じの作りになっています。
主題と変奏は約8分間続き、終結部に入ると飛び跳ねるような主題の符点音符の音型が繰り返され、熱狂のうちにシンフォニーは終了します。
この第3楽章は、ひょっとしたらベートーヴェンの交響曲 第7番の第4楽章を意識しているのではないでしょうか。つまり、ドヴォルザーク「交響曲 第3番」とベートーヴェン「交響曲 第7番」は、
最終楽章において、舞曲風のリズムが何度も執拗に繰り返され、Allegro の疾走感が持続する中で熱狂的なフィナーレを迎える |
という点がよく似ています。
音楽の構造と魅力
ドヴォルザークの交響曲 第3番は、ドヴォルザークの作品の中でも大変に魅力的で、個人的には非常に好きな曲です。その魅力はどこにあるのでしょうか。
この交響曲は、ベートーベンやブラームスのシンフォニーのように構成や組立てがはっきりしている曲ではありません。ドヴォルザーク自身の交響曲と比較しても、後期の交響曲(7番、8番、9番)のような「ガッチリした」ものではない。
確かに第1楽章はソナタ形式ですが、第2・第3楽章となると構成が甘く、崩れかけています。全体が3楽章というのも、その「崩れ」を象徴的に表している感じがする。
第2楽章などは「不必要に長い楽章」です。推測すると、A-B-Aという「3部形式」にしようとしたが、A-Bだけで長くなり過ぎ、あわてて短いAをつけ加えて終わらせたという感じがします。
第3楽章の主題は特徴的で非常にはっきりしています(譜例63)。この「主題の繰り返し」の間に譜例64や譜例65のような要素が挟み込まれるのですが、主題が完全な形で繰り返されるのは1回だけに過ぎず、あとの繰り返しは主題の「断片」や「変奏」です。
さっき書いたように、主題が何回か繰り返され、その間に別の要素が挟み込まれるのを「ロンド」と言います。主題が同一の形で4回とか5回とか出てくると「ロンドという形式感」を感じるのですが、第3楽章はそこからは離れています。自由な発想による変奏曲だと言った方が、より当たっているかもしれません。
交響曲 第3番の3つの楽章全体を聞いていて感じることは以下のようです。
一つの動機が出てくると、その動機は変容し、装いを新たにして現れる、その中に新たな旋律が出てきて、それがまた展開される。そうこうしているうちに主題が再現し、また新たな変奏が始まる。何となく「とりとめのなさ」を感じてしまうが、個々の旋律や動機は魅力的・・・・・・。
ちょっ脇道にそれた「たとえ」を書きますと、花が咲いている野原をあちこち歩き回る感じです。野原の中に道はあるが、美しい花を見つけると道からそれて見に行く。その向こうにも別の花があるからまた行く・・・・・・。そうこうしているうちに道を見失わないように元に戻る・・・・・・。
もっと脇道にそれた「たとえ」と言うと、ショッピング・モールを見て歩く感じです。目的の商品はあるが、それよりも「見て歩くこと」と「買うこと」が真にやりたいことであり、「目的の商品を買う」のはあくまで真にやりたいことの付随物である。従って結果として目的以外の買い物をしてもよい・・・・・・。
別の作曲家の音楽を引き合いに出すと、シューベルトの作品の中には「不必要に(?)長い曲」がありますよね。ピアノソナタのあるものとか、交響曲でいうと「第8番 ハ長調 グレート」です。「グレート」の演奏には50分以上かかります。同等の素晴らしい曲がもっとコンパクトに作れるはずという思いが募っても、シューベルトは「やめてくれない」。途中で聴くのをやめようとも思うが、美しい旋律や魅惑的な動機が次々と出てきて、やめるにやめられず、結局、全部聴いてしまう・・・・・・。ドヴォルザークのこの曲も、何となくそれと似た雰囲気があります。
ドヴォルザークの交響曲 第3番は「何かを達成しようとする音楽」ではありません。今演奏されている「音楽の流れそのものや、過程と細部に意味がある曲」です。もともと何かを達成しようして書き始めたのかもしれないが、次々と沸いてくる曲想に作曲家自身が裏切られてしまい、楽章間のリズムの類似性に見られるような「計画性」が曖昧になってしまった。そんな感じをうける曲です。
構成が崩れかけていると言いましたが、それは別に悪いことではありません。それは非難の言葉ではなく、魅力の表現です。この曲は崩れかけているからこそ、ドヴォルザークの音楽精神と言うか、パッションが直接的に表現されていて、聴くと「生身の作曲家に向かい合っている」という感覚になる曲です。そして、作曲家の豊かな発想の流れ中に、譜例55や譜例63のような、大変に印象的でインパクトのあるメロディーが宝石の様に輝いている・・・・・・。
「ドヴォルザーク大好き」という人は多いと思いますが、ドヴォルザークの音楽が好きだという要因、その要因となっている作曲家の特質が如実に現れている曲、それが交響曲第3番だと思います。
No.91 - サン・サーンスの室内楽 [音楽]
「時代錯誤」の音楽
No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で、この曲について以下の主旨のことを書きました。
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この曲は1945年にアメリカで作曲されたが、その50年前の1895年にウィーンで作曲されたとしても全くおかしくない曲である。それほど19世紀末のウィーン音楽に似ている。 | |
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この曲の発表当時、音楽批評家は「時代錯誤だ」という批判を浴びせた。ニューヨーク・タイムス紙は「これはハリウッド協奏曲である」と切り捨てた。コルンゴルトが映画音楽を作曲していたことによる。 | |
◆ | しかし、時代錯誤であろうとなかろうと、映画音楽であろうとなかろうと、音楽の良し悪しとは関係がない。 |
コルンゴルトの『ヴァイオリン協奏曲』(譜例9は第1楽章の冒頭)はCDも出ているし、コンサートでも演奏されます。私も1年ほど前に初めてナマ演奏を聞きました。しかし、これほどの名曲(私見)にもかかわらず『ヴァイオリン協奏曲』のジャンルでは、世間の一般的な評価はそれほど高くはないようです。その理由ですが「発表された時に時代錯誤などという評価を受け、その評価が現代まで続いているのではないか」と疑っています。
実は、これと類似の状況が他の作曲家にもあると思うのです。同時代の批評家や音楽家からのネガティブな評価(時代錯誤など)を受け、現代も評価が低い作曲家です。その例としてフランスの作曲家、サン・サーンスをあげたいと思います。
サン・サーンスの音楽
サン・サーンスは19世紀前半(1835)に生まれ、1921年(86歳)まで生きた作曲家です。よく演奏される曲を何点かあげると、
◆ | 『動物の謝肉祭』 | |
◆ | 『交響曲 第3番 ハ短調』(オルガン付き) | |
◆ | 『序奏とロンド・カプリチオーソ』(ヴァイオリン曲) | |
◆ | 『ハバネラ』(ヴァイオリン曲) | |
◆ | 『ヴァイオリン協奏曲 第3番』 | |
◆ | 『あなたの声に私の心は開く』(歌劇「サムソンとデリラ」の中のアリア) |
などで、特に『動物の謝肉祭』の中の『白鳥』は誰もが知っている有名な曲です。サン・サーンスは明らかに「大変よく知られた作曲家」です。
それに起因しているのでしょうか、現代においてもサン・サーンスは「大作曲家」とは見なされていないのではと、何となく感じます。もちろん、サン・サーンスの音楽が好きな人は多いと思いますが、音楽評論とか音楽史の本などから判断すると、フランス近代の作曲家ではドビュッシー、フォーレ、ラベルあたりが「格上」であり、サン・サーンスは(暗に)一段低いと考えられているのではないでしょうか。私の思い過ごしかもしれませんが・・・・・・。
しかし曲が書かれた時代とスタイルを問題にするのではなく、純粋に音楽として聴くと良い曲がいろいろあります。サン・サーンスはオペラ、交響曲、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽、交響詩、各楽器の独奏曲、歌曲をはじめ、かなりの数の作品を残しています。もちろん全部を知っているわけではないのですが、これらの中には「かなりの名曲なのに、演奏会でとりあげられることがあまりなく、CDの数も限られる」という曲があります。その例として、若い時と最晩年の室内楽作品、
『ピアノ3重奏曲 第1番』 | (1863。28歳) | ||
『クラリネット・ソナタ』 | (1921。86歳) |
の2曲を取り上げ、その感想を書きたいと思います。後者は死の直前に書かれた曲です。
ピアノ3重奏曲 第1番 ヘ長調 作品18(1863)
 第1楽章 Allegro vivace  |
曲が始まってすぐにチェロが第1主題(譜例40)を演奏し、チェロ→ヴァイオリン→ピアノと移っていきます。主題の前半は8分休符がはさまったリズム、後半が八分音符の連続するリズムで、躍動している感じがします(譜例40はヴァイオリンのパート)。
その後、譜例41の音型がヴァイオリンとチェロに現れ、これが第2主題です。第1主題とは対象的な、優雅で伸びやかな感じです。第2主題の変形(譜例42)が出てくるあたりで主題の提示が締めくくられます。
その後は第1主題と第2主題をもとに、それらが変形され、展開されて音楽が進みます。そして2つの主題が元の形で再現して楽章が終わります。これは典型的な「ソナタ形式」というやつですね。ハイドン以来の音楽の様式が踏まえられています。
 第2楽章 Andante  |
譜例43のゆっくりとした、重厚で、引きずるような短調の旋律で始まります。この楽章は、
A - B - A - C - A
という構成ですが、Aの部分が譜例43です。つまり曲の中間と最後にもこの主題は現れて、シンメトリーの構成を形作っています。
Aとは対照的に、BとCの部分は長調の伸びやかで優雅な旋律がいろいろ出てきます。譜例44はCの部分に現れる旋律の例で、流れるような優美さが印象的です。全体的にこの楽章は、重厚と優雅、単調と長調の対比がポイントとなっています。
 第3楽章 Scherzo : Presto  |
第3楽章ははスケルツォ楽章で、全体は
S - T - S - T - S
の形です。Sのスケルツォの部分は、チェロ・バイオリンのピチカートとピアノの飛び跳ねるような音型ではじまり、ピアノのいかにもスケルツォらしい主題(譜例45)が続きます。Tのトリオの部分の音楽は、シンコペーションが印象的です(譜例46)。
 第4楽章 Allegro  |
最終楽章は
A - B - C
の構成です。曲の最初のAの部分は、チェロとバイオリンの優雅な掛け合いの旋律(譜例47)で始まります。それとは対照的なチェロとピアノの力強い主題(譜例48)が現れ、優雅と強さの対比が続きます。Aの部分の締めくくりには、譜例49の流麗な旋律がでてきます。Aはそのままの形で繰り返されます。
繰り返しが終わったあと、曲は次第に静かになり、短いBの部分に入ります。ピアノがゆっくりとたたずむように譜例50の旋律を演奏します。
曲は再びAllegroに戻り、Cの部分です。ここはAの発展形といえる部分で、譜例47-49の再現や変奏が続きます。譜例50の変奏が出てきたあたりから曲は最終段階に入り、短いコーダがあって楽章が締めくくられます。
サン・サーンス ビアノ三重奏曲 第1番・第2番 ヨアヒム・トリオ(NAXOS版) |
「対比の妙」もこの曲の特徴です。「優雅さと力強さ」「長調と短調」「躍動・スピードと落ち着き・ゆったり」といった対比が、一つの楽章の中に何度も交代して現れ、それらが違和感なく組み合わされています。
この曲から全体的に受ける印象は「音楽の喜び、幸福感」といった感じです。音楽としての型は伝統的ですが、かなり「自由闊達に」作られている。その自由さが聴く人の感情に影響するのだと思います。
ピアノ3重奏という音楽のジャンルは、ベートーベンが金字塔を建てたわけです。7番まであるピアノ3重奏曲、特に第7番(いわゆる「大公トリオ」)は大変な名曲です。その後は、ブラームス、シューマン、ドボルザーク、フォーレなどがピアノ3重奏曲を書いていますが、サン・サーンスのこの『ピアノ3重奏曲 第1番』も、このジャンル屈指の名曲と言っていいと思います。「ピアノ3重奏の名曲を5曲選べ」と言われたなら、私ならこの曲はそのリストに入れます。もっと聴かれていい曲だと思います。
クラリネット・ソナタ 変ホ長調 作品167(1921)
若い時の『ピアノ3重奏曲 第1番』とは対照的な、最晩年の作品です。以下に、各楽章の冒頭のクラリネットの旋律を引用します。
 第1楽章:Allegretto  |
第1楽章は22小節に及ぶクラリネットの長い旋律(譜例51)で始まります。哀愁を帯びたというか、長調なのに短調っぽいところがあるというか、心に滲み入るような印象的な旋律です。一度聞いたら忘れられない、とはこういう曲ですね。この旋律は第1楽章の最後に繰り返されます。
 第2楽章:Allegro Aninato  |
譜例52で始まる第2楽章は Aninato と題されているように、クラリネットの快活な動きがいろいろと凝縮されています。約2分の、最も短い楽章です。
 第3楽章:Lento  |
第3楽章は第1・第2楽章とはうってかわった、ゆっくりとした音楽です。譜例53の重い旋律が低音のクラリネットで演奏されます。この主題は2オクターブ上の音で繰り返されるのですが、クラリネットの音域が全く違うと音楽も違って感じられます。
 第4楽章:Molto Allegro  |
第4楽章の冒頭は、音階を素早く上昇・下降するクラリネットの音型で始まります(譜例54)。そして3連符やトリルなども含んで、クラリネットが縦横無尽に駆けめぐるという感じの音楽が続きます。
その中に第1楽章の冒頭の主題(譜例51)の変形が挟み込まれ、そうこうしているうちに、曲は落ち着いてきます。そして最後は譜例51が再び完全な形で演奏され、このクラリネット・ソナタは終わります。
つまりこの曲は「最後に、始めに戻る曲」であり、いわゆる「循環形式」の曲です。サン・サーンスは86歳の人生の最後の年にこの曲を書きました。86歳でこのような佳曲が書けるというのは驚きですが、「最後に、始めに戻る」というのは何らかの暗示かもしれません。
クラリネット、オーボエ、ファゴットのソナタが収録されている。この3つのソナタはいずれも1921年に作曲された。 |
もちろん『春の祭典』は素晴らしい曲です。不協和音や複雑なリズムは、現代人からすると「慣れっこ」でマイナスにはならない。むしろ、曲が持つエネルギー感に圧倒されるわけです。
しかしその一方で、『春の祭典』の8年後に作曲された『クラリネット・ソナタ』を聴くとき、何となくホッとするのですね。それは「音楽の良さは様式とは関係ないのだ」という安堵感、安心感からくるものだと思います。
『クラリネット・ソナタ』の既視感
この曲を初めてCDで聞いたときのことです。冒頭のクラリネットの旋律(譜例51)を聞いたとき、どこかで聞いたな、と直感的に思いました。「デジャヴュ」という言葉があります。「既視感」と訳されていますが、ある光景を見たり、ある体験をしたときに「どこかで見た光景だ」「以前にこの体験をしたことがある」という思いに駆られることを言います。初めてこの『クラリネット・ソナタ』を聞いたときに思ったことを具体的に言うと、
この曲は映画音楽として使われたはずで、その映画を見たと思う。それはフランス映画かイタリア映画。 |
という「既視感」です。そう強く思ったので、いろいろと映画を調べてみたのですが、どうもサン・サーンスの『クラリネット・ソナタ』が映画音楽として使われたことはないようです。「デジャヴュ」というのは「一度も見たり体験したことがないのに、見たり体験したように感じられる」ことを言います。まさに「デジャヴュ」なのでした。
その「既視感」の原因は何なのか、それは謎です。はっきりとした理由はわかりません。しかし考えられることとしては、
『クラリネット・ソナタ』の冒頭の旋律(譜例51)と似た雰囲気の、クラリネットで演奏される映画音楽があり、それが「既視感」を引き起こした |
というものです。ひとつ思い当たるのは、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の「愛のテーマ」です。エンニオ・モリコーネが作曲した「ニュー・シネマ・パラダイス」の音楽は、美しい曲が多いのですが、一番有名なのはこの映画のメインテーマで、これはテレビ・コマーシャルにも使われました(確か、日本生命のCM)。「愛のテーマ」その次に有名な旋律だと思います。「愛のテーマ」はクラリネットだけで演奏されるわけではありませんが、サウンドトラックのCDを聞くと、出だしはクラリネットです。何となく、雰囲気がサン・サーンスと似ている。
確証は持てないのですが「ニュー・シネマ・パラダイス」の音楽が『クラリネット・ソナタ』を初めて聞いたときの「既視感」を引き起こした・・・・・・、そう思うことにしています。
映画音楽
映画音楽といえば、サン・サーンスは「世界初の映画音楽を書いた人」です。「ギーズ公の暗殺」(1908)という無声映画の音楽(作品128)で、私は聞いたことがないのですが、1908年ということは、まさに映画の黎明期です。
余談ですが「ギーズ公の暗殺」のギーズ公とは「ギーズ公アンリ」のことで、サン・バルテルミの虐殺(1572)の首謀者(カトリック側)です。サン・バルテルミの虐殺については、No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」を参照。 |
黎明期の映画は、新しいテクノロジーを使った「動く写真」という見せ物でした。それは、No.76「タイトルの誤訳」でマーティン・スコセッシ監督の映画「ヒューゴの不思議な発明」について書いたとおりです。
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サン・サーンスは映画音楽という、まったく新しいジャンルを「73歳でやってみた」わけですね。伝統を守るだけの人ではないようです。そう言えば『動物の謝肉祭』にも、従来にない斬新な響きのところがあります。
この文章はコルンゴルトから始めました。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で詳しく書いたように、19世紀末・20世紀初頭のウィーンの「後期ロマン派」音楽は(コルンゴルトを介して直接的に)ハリウッドの映画音楽につながっています。
その言い方をまねるなら、サン・サーンスは(直接的ではないけれど)エンニオ・モリコーネにつながっている・・・・・・。そう言えるのかもしれません。
No.68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代 [音楽]
人生について
No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」において、1990年代以降の詩に「ふたり」や「愛について」のテーマが増えることを言ったのですが、同じ時期から「人生」や「生きること」について、また「人の一生」について語った作品が発表されるようになりました。その例が1991年の《永久欠番》です。
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《永久欠番》のような曲を聞くと詩だけを引用することの限界を強く感じます。上に引用したのは最後の部分ですが、全体の構成(詩の大意と時間配分)は次のようになっています。
◆ | 人は忘れられていく存在。人の代わりはある。[4分30秒] | |
◆ | しかし、それでも人は永久欠番。[45秒] |
つまりこの曲の大部分(4分30秒)では「人はいずれ忘れられていく存在だ」ということが歌われるわけです。そして最後の45秒になって「しかし、それでも人は・・・・・・」というように「転換」が起こる。上に引用した部分で言うと、最初のパラグラフと2番目のパラグラフの間です。そこで詩の意味内容がガラッと変わる。
その転換を効果的にし、永久欠番というメッセージを決定的に印象付けているのは、ひとえに中島さんの「歌い方」とそのバックにある彼女の「歌唱力」なのですね。この曲は中島さんの歌唱力とペアでないと意味が完全には伝わらない。「歌の力」を非常に感じます。まさに「歌でしか言えない」のです。
A1992『EAST ASIA』 |
翌年、1992年には《誕生》という詩も発表されています。「誰もが最初に言われたはずのWelcome。それを思いだそう」という、非常にポジティブなスタンスで人生を語る曲です。
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以降、最近までの「人生について」語った曲を何曲か引用します。
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余談ですが、この《重き荷を負いて》は徳川家康の遺訓を連想させますね。
人の一生は、重き荷を負いて遠き道を行くがごとし |
という例のやつです。それを念頭に置いた詩ではないでしょうか。違うかもしれません(違うような気がする)。しかしこういう連想が働くのも、中島作品には日本の歴史や文化に根ざした詩がいろいろあるからです。題名に現れているものだけを思いつくままにリストすると、
《見返り美人》 | A1986『36.5℃』 | |
《新曾根崎心中》 | A1990『夜を往け』 | |
《萩野原》 | A1992『EAST ASIA』 | |
《雨月の使者》 | A1993『時代 - Time goes around -』 | |
《泣かないでアマテラス》 | A1995『10 WINGS』 | |
《雪・月・花》 | A2002『おとぎばなし - Fairy Ring -』 | |
《十二天》 | A2009『DRAMA !』 |
といった具合です。《萩野原》は平安時代の代表的な歌枕である「宮城野の萩」を連想させるので挙げました。中島さんは小野小町の歌「花の色は・・・・・・」をモチーフに「夜会」を演じたことがあるので、ありうることだと思います。《雪・月・花》は、No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」で書いたように「日本の美の典型」です。《十二天》には毘沙門天や帝釈天が出てきます。
「人生について」語った曲の引用に戻ります。
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「正しさは道具じゃない」という言葉を含むこの詩は、人生を語ると同時に人間社会を語っています。No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」の「社会を語る」のところで引用してもよかったと思います。
人間社会の不幸、特に人間の集団同士の関係で起こる不幸のほとんどは「正義」に発端があります。つまり「正しさを道具として使う正義の主張」が人間社会を不幸に導く。「正しさは道具じゃない」というのは、人間社会の長い歴史に一貫している真実だと思います。
最近のアルバム『荒野より』(2011)からも、一つ引用しておきます。
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歌・歌い手・歌手
中島作品には「歌」を詩の重要なモチーフに使った詩があります。それはまず「歌が特定の記憶を呼び覚ます」という形の詩で、
《根雪》 | A1979『親愛なる者へ』 | |
《りばいばる》 | S1979『りばいばる / ピエロ』 | |
《B.G.M.》 | A1982『寒水魚』 |
などです。このうち《B.G.M.》は、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用しました。《根雪》と《りばいばる》の冒頭を以下に引用しておきます。2つとも「特定の記憶」とは過去の別れや失恋の記憶であり「封印していたものを歌が呼び起こす」という詩です。
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1989年の『回帰熱』に収められた《未完成》では、男と女の間の(愛情の)コミュニケーションが「歌」という象徴で表現されています。
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A1989『回帰熱』 |
1998年の『わたしの子供になりなさい』というアルバムのタイトルは「わたしは子守歌の歌い手です」という意味に聞こえる。それが一番シンプルな解釈でしょう。その観点では“ララバイSINGER”と同じです。『心守歌』という2001年のアルバムのタイトルも子守歌からの連想だと思います。《子守歌》という曲もあります(A1995『10 WINGS』)。
ロックに関連した詩もありますね。《ばいばいどっくおぶざべい》(A1983『予感』)、《背広の下のロックンロール》(A2007『I Love You, 答えてくれ』)はロックシンガーがテーマです。ちなみに前者は1960年代のアメリカのシンガー、オーティス・レディングの作品「The Dock of the Bay」にもとづいています。
さらに中島作品には、もっと一般的に「歌い手」ないしは「歌手」をテーマにした作品があります。覚えている限りでは次の3作品です。
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A1982『寒水魚』 |
一般的に言って、中島さんの作品に「自分のことを表現している詩」はないと思います。失恋の詩であっても中島さんの失恋経験がもとになってるとは限らない。おそらくそうではないと思います。本を読むことにより、失恋の(疑似)体験はいくらでもできます。疑似ではあるけれど、実体験よりはよほど広範囲に可能です。
しかし《夜曲》と《歌姫》の2曲については「自分のことを表現している詩」ではないかと直感的に思うのです。それはプロのシンガー・ソングライターである中島さんが、プロの歌手に関する詩を書いているからです。自己表現、ないしは、ありたい姿の表現と考えるのが最も自然な感じがします。
ちなみに《歌姫》には「潮風」「船」「デッキ」などの言葉が出てきます。一般的に言って、中島さんの詩における「海」に関係した言葉、つまり「海」「渚」「舟(船)」「港」などは、「癒しや落ち着きを与えてくれるもの。包容力のある母性的な存在」といったイメージで使用されます(例外はある)。それは最初のアルバム『私の声が聞こえますか』の《海よ》から始まって、かなり一貫しています(ちなみに《海よ》はリメイクされて、A2002『おとぎばなし』に収録されています)。『歌でしか言えない』(A1991)に収められた《渚へ》などは「裏切った男を恨みたくない。だから渚で癒されたい」という意味内容なのですね。以前に引用した詩では《二隻の舟》(A1992『EAST ASIA』)がイメージの典型だし、《白鳥の歌が聴こえる》(A1986『36.5℃』)も海と密接にからんでいる。
その「中島みゆき・用語辞典」から「潮風」「船」「デッキ」「水夫」という言葉を取り出して構成した《歌姫》もまた、「癒される」というイメージの詩に仕上がっているのは当然でしょう。
《時代》を振り返る
いままで書いてきた「中島みゆきの詩」という文章は、そもそも《時代》(No.35「中島みゆき:時代」)が発端でした。その《時代》で表現されたコンセプトは、以降の中島作品ではどうなったのでしょうか。
《時代》の詩を特徴づけているものの一つは「時はめぐる、回る、循環する」というイメージです。それは、No.35「中島みゆき:時代」に書いたように、2004年の「夜会」で演じられた「24時着 0時発」の重要なモチーフになっていました。楽曲で言うと2005年のアルバム『転生』の《サーモン・ダンス》や《命のリレー》がその具体例です。
これ以外に「時はめぐる、循環する」というイメージの詩はあるでしょうか。1986年の『36.5℃』に収録された《HALF》では「次に生まれて来る時は」という言葉が何回か繰り返され、《時代》の「生まれ変わって めぐり逢うよ」に近いと思います。しかし「時はめぐる、循環する」という詩は多くはない。
このイメージがストレートに、そっと表現されている例は《樹高千丈 落葉帰根》でしょう。
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A2001『心守歌』 |
・悲しみは乗り越えられる
・前向きに生きる時がくる
という「励まし」です。この要素は他の曲にあるでしょうか。
《ファイト!》(A1983『予感』)は前に書いたように、この社会で懸命に生きている若者に対する「共感」と「連帯感」で綴られたメッセージです。《空と君のあいだに》(A1994『LOVE OR NOTHING』)や、《荒野より》(A2011『荒野より』)も、人と人の絆や連帯を表現したと言っていいでしょう。
《時代》の詩に含まれる「悲しみは乗り越えられる」「前向きに生きる時がいずれくる」というメッセージに最も近いと感じるのは、ちょっと意外かもしれませんが《肩に降る雨》です。
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A1985『miss M.』 |
しかし「私」はまだ生きているし、生きたいと迷っている。その「私」に誰かが声をかけているのです。
肩に降る雨の冷たさは 生きろと叫ぶ誰かの声 |
生きろと叫んでいる誰かは《時代》の歌い手だと思います。《肩に降る雨》は《時代》を立場を変えて語った詩であり、《時代》に呼応した「こだま」のような曲という感じがする。
古今東西、神話・戯曲・小説でさまざまな「死と再生の物語」が語られてきました。《肩に降る雨》はそれにつながる強い吸引力を感じます。その観点からすると《時代》もまた、その物語の一環と言えると思います。
No.35「中島みゆき:時代」の「補記1」に、歌手の一青窈さんが東日本大震災の被災地で《時代》を歌ったことを書きました。もし仮に、私が一青窈さんのコンサートをプロデュースする立場にあって、彼女から「《時代》を歌いたい」と言われたとしたら、「是非、《肩に降る雨》も歌うように」と強く勧めるでしょう。もちろん《肩に降る雨》の次に《時代》という順序です。東日本大震災で被災された方々への「再生の祈り」を中島みゆき作品に託するのなら、《肩に降る雨》と《時代》の組み合わせがベストだと思います。
「かけがえのなさ」を歌うこと
No.64 - 中島みゆきの詩(1)自立する言葉
No.65 - 中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉
No.66 - 中島みゆきの詩(3)別れと出会い
No.67 - 中島みゆきの詩(4)社会と人間
No.68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代
と、中島さんの詩・約70編を引用してきましたが、ここで引用した詩の多くには、一言で言い表せる共通項があるように思います。それは「かけがえのなさ」を歌った詩ということです。
愛に応えてくれない男、愛しているのに去っていこうとする恋人、別れたが今も愛している人、社会の中で懸命に生きている若者、この社会を生き抜いてきた老人、人生の大切なパートナー、悲しみに沈んでいる孤独な自分、雨の中で線路沿いを歩き続けている私・・・・・・。これらはすべて「かけがえのない」存在です。だからこそ人は、自分自身について、また人に対してさまざまな感情を抱く。
これは決して「中島みゆきの詩 = かけがえのなさを歌った詩」と言っているのではありません。中島さんは500以上の作品を作っています。さまざまなジャンルの詩があり、一言で言い表せるものではありません。あくまでここで引用した詩、つまり私が気に入っている詩には「かけがえのなさを歌う」という共通項がありそうで、逆に言うと「中島さんのそういう詩が好きだ」という個人的な嗜好の表明です。
「かけがえのなさを歌う」という視点で考えたとき、代表的な詩を選ぶとすると何でしょうか。一つだけあげるとすると、この冒頭に掲げた《永久欠番》かと思います。普通の中島さんの作品には珍しいようなシンプルでストレートなメッセージであり、それがかえって代表にふさわしい感じがする。それと、この詩に含まれる象徴性です。
かけがえのない存在、それを象徴する言葉を一つだけ選ぶとすると、それは「星」だと思います。
宇宙の掌の中 人は永久欠番 |
曲の最後の最後のところで「永久欠番」という言葉とともに「そら」が出てきます。なぜ突如として「そら」が出てくるのでしょうね。しかも聴いているだけでは分からないけれど「詩」としては「宇宙」となっている。なぜ宇宙(うちゅう)なのでしょうか。
それは、かけがえのない「人」という存在を「星」に重ね合わせているからです。
《永久欠番》は1991年の作品ですが、3年後の1994年には長距離トラック運転手を「流れる星」と表現した曲が作られています。No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で引用した《流星》です。そしてこの発展形が、言うまでもなく2000年の《地上の星》(A2000『短篇集』)です。《永久欠番》と《地上の星》の2曲は「かけがえのない人という存在 = 星」という言葉で結ばれた兄弟に思えます。《永久欠番》に「星」という言葉は全く出てこないけれど・・・・・・。
No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で《地上の星》について「プロジェクト・リーダを象徴したものとだけ受け取る必要はない」という意味のことを書きましたが、その本質的な理由は「星」という言葉が持つ象徴性なのです。
この文章の冒頭に《永久欠番》のような曲を「詩」として引用することの限界を書いたのですが、それと同時に、独立した「詩」として考える意義も大いにあると改めて思います。特に「中島みゆきの詩」は・・・・・・。
今までに引用した数々の詩を代表するに値する作品、それをもう一つあげるとすると《歌姫》ですね。この作品は「歌を歌う人、ないしは歌を歌う行為そのものをテーマとした歌」です。他の作品が「ソング」だとすると、この作品は「メタ・ソング」になっている。その意味で《歌姫》は「かけがえのなさを歌う」ということを越えた、中島みゆきの代表作になりうる作品だ思います。
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No.67 - 中島みゆきの詩(4)社会と人間 [音楽]
社会を見つめる
A1978『愛していると 云ってくれ』 |
「デビュー」して3年目(26歳)に作られた《世情》という作品。
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中島さんと同時代に10代後半から20代前半を過ごした人にとっては、この詩のもつ意味は非常によくわかると思います。「意味」だけでなく「体温」や「肌触り」を共有できると感じる人は多いのではないでしょうか。
しかしそういった1960-70年代だけでなく、今から振り返ってみてもこの詩のもつ普遍性は明らかでしょう。「時の流れをとめて夢を見たがる者」と「時の流れの中に夢を見たがる者」の戦いは1960-70年代以降も続いてきたし、今のこの日本でも現在進行形だからです。
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《世情》の5年後(31歳)の時には《ファイト!》がリリースされています。
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この詩は中島さんがDJをしていた時に受け取った投書に触発されて書かれたと言われていますね。詩の中に「女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている」という表現も出てきます。
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《ファイト!》は1994年にリメイクされ、《空と君のあいだに》と合わせてシングルCDとして出されています。中島さんにとっても重要な曲なのだと思います。
《ファイト!》の2年後には、TVにまつわる現代社会を歌った詩が書かれています。
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同じアルバム『miss M.』には《忘れてはいけない》という曲もありました。
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「許さない」と「野良犬」、「認めない」と「少女」という対応関係にある言葉は、現代社会に対する発言であることは確かだと思います。
『miss M.』の3年後(36歳)には《吹雪》という作品が書かれました。
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その6年後(42歳)に発表された《ひまわり“SUNWARD”》は、うって変わって具体的イメージに富んでいます。これは国レベルの戦争や抗争、ないしは内戦がテーマです。
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私の中の父の血と 私の中の母の血と どちらか選ばせるように 柵は伸びてゆく |
ですが、まさにその通りだと思ったものです。
社会に対するメッセージとしての「極めつけ」は、1998年の《4.2.3.》(46歳)です。
1996年12月17日、ペルーの首都・リマにある在ペルー日本大使公邸では、当時の青木大使が主催する恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが開催され、ペルー政府要人や各国の在ペルー大使館関係者、日系の人たちが招かれていました。そこへ反政府組織メンバーが乱入し、約600人を人質にとって立てこもるという大事件が勃発しました。いわゆる「在ペルー日本大使公邸占拠事件」です。
事件は4ヶ月後の1997年4月22日(日本時間、4月23日)、ペルー軍の特殊部隊が大使公邸に突入し、最後まで残った人質72人のうち71人を救出することで幕を閉じました。しかし人質一人(ペルー最高裁判事)と、突入したペルー軍特殊部隊の兵士2人が犠牲になったのです。
特殊部隊の突入と人質救出の模様は全世界にTVで中継され、その映像はニュースで何回となく放映されました。私も、負傷した特殊部隊の兵士が担架で運び出される生々しい様子を鮮明に記憶しています。そして・・・・・・。
中島さんは「日本人人質の安否や、日本人は無事ということだけを放送し、人質を救うため命をかけて突入して重傷を負った(実際は死んだ)兵士の安否については全く一言も触れなかったTVの実況中継」に対して、非常に強い違和感をいだいたのです。担架で運び出された兵士の胸には赤いシミが広がっているというのに・・・・・・。その違和感をもとに作られたのが《4.2.3.》です。
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曲のタイトルが「4.2.2」(1997年4月22日:現地時間)ではなく「4.2.3」(1997年4月23日:日本時間)となっているのは、あくまで日本におけるメディアの報道のあり方がテーマだからと推測されます。
A1998『わたしの子供に なりなさい』 |
あえて言うと《4.2.3.》は、曲と詩の両面からみて失敗作だと思います。「メッセージ」があまりにダイレクトに詩と曲にぶつけられていて、作品としての完成度を殺いでいる。しかしたとえ失敗作だとしても、こうような作品をアルバムの最後の曲として「堂々と」収録する中島さんの勇気に敬意を表したいと思います。最初に書いたように、社会に対するメッセージ性のある詩を書き続けているシンガー・ソングライターは、今となっては少ないのです。
最近のアルバム『真夜中の動物園』(2010)からも引用しておきます。
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ちなみにこの詩は、4つ前に引用した《忘れてはいけない》(A1985『miss M.』)とコンセプトが非常によく似ていて、それは詩全体を読めば良く分かります。「小さき負傷者」は、すなわち「許さないと叫ぶ野良犬」および「認めないと叫ぶ少女」でしょう。2つの作品には25年の時間の経過があるのですが、中島さんは一貫するところは極めて一貫しています。
人間を見つめる
「社会を見つめる」というテーマの一部と言えますが、中島さんの詩には、この社会の中で生きていく(生きてきた)「人」に焦点を当てた詩があります。特に社会の底辺で生きる人や若年層、老人などがテーマの詩です。ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)の《アザミ嬢のララバイ》という曲における「アザミ嬢」とは、詩の内容からして、いわゆる「水商売」の女性でしょう。この曲を含めて次のような曲が思い出されます。
《アザミ嬢のララバイ》 | A1976『私の声が聞こえますか』 | |
《彼女の生き方》 | A1976『みんな去ってしまった』 | |
《狼になりたい》 | A1979『親愛なる者へ』 | |
《エレーン》 | A1980『生きていてもいいですか』 | |
《白鳥の歌が聴こえる》 | A1986『36.5℃』 | |
《流星》 | A1994『LOVE OR NOTHING』 |
この中の《白鳥の歌が聴こえる》ですが、伝説では「白鳥は死の前に鳴く」と言われます。そのイメージを職業女性に重ねた詩です。
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なぜ「港・船関係専門用語」を使うのか。おそらくこの詩の主人公である娼婦の生きている世界を表したかったのだと想像します。しかし明らかに聴くだけでは分からない。
この詩だけはないのですが、中島さんの詩には時として耳で聴くだけでは分からない言葉が出てきます。これらは「歌詞」から独立した「詩」として理解すべきべきでしょう。No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用した例のように・・・・・・。
『LOVE OR NOTHING』の《流星》という曲では、長距離トラックの運転手が描かれます。全体の構成と内容にユーモアを感じさせる、おもしろい作品です。
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中島さんの全国ツアーの合間の1シーンをユーモラスに描いたもの、というのが普通の見方でしょう。「演歌じゃねえんだろ、そのなりじゃあな」! 「吹く口笛はスプリングスティーン」!・・・・・・。
しかし決してそれだけではない。長距離トラックの運転手を「流れる星」と表現し、曲の題名を「流星」とすることこそ中島みゆきの真骨頂なのですね。この曲の6年後に《地上の星》がテレビのドキュメンタリー番組のテーマ曲として発表されました。長距離トラックのおっちゃん達もまた「地上の星」ということなのでしょう。
アルバム『寒水魚』の中の《傾斜》は、老女、ないしは人間の老いそのものがテーマになっています。
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この《傾斜》から28年もたった後ですが《鷹の歌》という作品が発表されました。
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「杖をついて」とか「いたわりの手」ということから「鷹」とは老人を想像します(別の解釈も可能でしょうが)。この詩は「傾斜:第2部」のような作品だと思っています。
「社会と人間を見つめる」詩に関連して、中島さんは人生や人の一生を語った詩も書いています。それは別途。
No.66 - 中島みゆきの詩(3)別れと出会い [音楽]
失恋と別れ
中島さんの詩における失恋や別れに関係した歌は、No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」で「報われない愛」として引用した以外にも多数あります。つまり、
A1976『私の声が |
・ |
愛の終わり | |
・ |
離れていく心 | |
・ |
失恋、そして別れ | |
・ |
別れた恋人への強い思い |
などがテーマの詩です。それは中島さんのキャリアの初期から一貫しています。
その彼女のキャリアの最初のアルバム『私の声が聞こえますか』(1976)の《踊り明かそう》は、題名だけからすると「マイ・フェア・レディ」の有名な曲を連想させますが、詩の内容は全く違います。
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この最初のアルバム以降も、愛の終わり・別れの詩はたくさんあります。個人的な印象で主な作品を年代順にピックアップすると、
《ほうせんか》 | S1978『おもいで河 / ほうせんか』 |
《わかれうた》 | A1978『愛していると云ってくれ』 |
《根雪》 | A1979『親愛なる者へ』 |
《あばよ》 | A1979『おかえりなさい』 |
《かなしみ笑い》 | S1980『かなしみ笑い / 霧に走る』 |
《ひとり》 | A1984『はじめまして』 |
《つめたい別れ》 | S1985『つめたい別れ / ショウ・タイム』 |
《かもめはかもめ》 | A1985『御色なおし』 |
《どこにいても》 | S1986『見返り美人 / どこにいても』 A2004『いまのきもち』 |
《見返り美人》 | A1986『36.5℃』 |
《湾岸24時》 | A1988『中島みゆき』 |
《涙 - Made in tears -》 | A1988『グッバイ ガール』 |
《春なのに》 | A1989『回帰熱』 |
《浅い眠り》 | A1992『EAST ASIA』 |
《もう桟橋に灯りは点らない》 | A1994『LOVE OR NOTHING』 |
《アローン、プリーズ》 | A1996『パラダイス・カフェ』 |
《恋文》 | A2003『恋文』 |
《雪傘》 | A2010『真夜中の動物園』 |
などです。これらの中から《あばよ》《つめたい別れ》《かもめはかもめ》《どこにいても》《恋文》の5つの詩の一部を引用しておきます。
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A2003『恋文』 |
中島さんの手にかかるとクリスマスも別れと結びつきます。クリスマスという言葉が出てくる曲は、
《クリスマスソングを唄うように》 | A1987『歌暦』 | |
《LOVERS ONLY》 | A2001『心守歌』 |
中島作品には、女性が男性を振る話(《愛情物語》A1998『わたしの子供になりなさい』)や、男性に思いを打ち明けなかった後悔を綴った詩(《後悔》A2000『短篇集』)もありますが、そういう詩は極めて少ない。まして「私はあなたを愛しています」式の詩は皆無と言っていいのではと思います。ちょっと思い当たらないのです。
ひとり:孤独と喪失感
中島さんの失恋や別れをテーマにした詩を取り上げてきたのですが、中島作品には失恋や別れという状況を越えて、もっと普遍的な「深い孤独」や「喪失感」「あるべきものの不在感」を突き詰めた一連の詩があります。これを「ひとり」というキーワードで呼びたいと思います。
「ひとり」がテーマの詩も中島さんのキャリアの最初からあり、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)に収められている《ひとり遊び》がそういう詩です。
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2枚目のアルバム『みんな去ってしまった』(1976)の中の《雨が空を捨てる日は》も、孤独をコンセプトにした作品です。
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A1976『みんな去って |
《ひとり遊び》も《雨が空を捨てる日は》も、孤独の原因については書かれていません。失恋の結果とも考えられるが、そうでないかもしれない。特に前者は同じアルバムの《あぶな坂》と同じように、象徴詩と言えるものです(No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」)。従って「鬼さん」「影」「独楽」「鞠」などの言葉をどう解釈するかによって「ひとり」の理由も違ってくるでしょう。この2編の詩は孤独の原因がどうというより、もっと普遍的な「ひとりだけ取り残されている感じ」や「大切なものを失ってしまった喪失感」を言葉にしたと言っていいと思います。
《ひとり遊び》がそうなのですが、中島さんの詩には「ひとり」という言葉がしばしば現れます。《ひとり》という題名の曲もあります(A1984『はじめまして』)。《ひとり上手》という作品もありました(A1981『臨月』)。「ひとり」は中島作品の重要キーワードの一つでしょう。
「孤独」という言葉をタイトルに含む《孤独の肖像》という作品もありますね。この曲は、
| A1985『miss M.』 | ||
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A1993『時代 |
さらに中島さんの作品には、親しい人の死による喪失感を綴った詩もあります。
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A1977『あ・り・が・ |
「ひとり:孤独と喪失感」のテーマを代表する詩として、別れによる孤独感を描いた詩をあげておきます。
三田寛子さんといえば、現在は歌舞伎の中村橋之助夫人ですが、もとはと言うとアイドル歌手でした。その三田寛子さんに中島さんが提供した《少年たちのように》という曲があります。
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アイドル歌手の女の子に提供する曲に「せかされて せかされて むごい別れになる」というような詩を書くとは「中島さん、どういうつもりだったのですか?」と聞いてみたいところですが、詩は素晴らしい。
誰だったか思い出せないのですが、ある人が上の引用の最後のところ、
昨日の国から抜け出るように 日暮れをボールが転がってくる つま先コツリと受けとめるけど 返せる近さに誰も無い |
この詩はどういう情景を想像してもよいのですが、たとえば都会の広い公園の春の日の夕暮れ時、遊んでいた少年・少女たちが次第に少なくなる中で、「私」はベンチにずっと腰掛けて思いにふけっている。ふと、ボールがころがってくる。立ち上がって足で受け止め、返そうとしたけれど、見渡すとあたりには誰もいない・・・・・。「昨日の国から抜け出るように」「コツリ」「返せる近さ」などの言葉の連鎖が、私と私以外の距離感をイメージさせて秀逸です。中島さんの繰り出す言葉の力は相当のものだと思います。
ふたり : 出会いとパートナーシップ
中島作品には、いわゆる「ラブソング」は非常に少ないわけです。「愛の芽生えを感じます」とか「愛を確信しました」とか「ずっと愛します」というようなスタンスの曲は皆無に近いのではないでしょうか。
しかし1990年代以降の中島作品には「出会いの大切さ」や「巡り合うことの喜び」や「パートナーシップの大切さ」を歌った詩があります。こういったテーマの詩を「ふたり」というキーワードで呼びたいと思います。
その典型は1990年の『夜を往け』に収録された《ふたりは》です。この曲は、街で「バイタ」と陰口をたたかれる女と「ゴロツキ」の男が出会う物語です。男女の出会いを、希望を込めたポジティブな態度で詩にしたのは、これが初めてではないでしょうか。
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A1995『10 |
1992年のアルバム『EAST ASIA』には、人生におけるパートナーシップの重要性をダイレクトに表現した曲が2曲収められています。この2曲も中島作品の中では大変に重要なものです。
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A1992『EAST |
愛について
「ふたり」をテーマとする曲と平行して、1990年代から「愛について語った詩」が増えてきます。つまり「愛することの素晴らしさ」「ほんとうの愛とは」「人生における愛の意味」などを綴ったものです。何点かの作品を引用します。
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A1996『パラダイス・ |
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このほか《I Love You, 答えてくれ》(A2007『I Love You, 答えてくれ』)、《愛だけを残せ》(A2010『真夜中の動物園』)も、愛について語った詩です。
最後に引用した《愛が私に命ずること》では
ある朝 誰の国と名付けられても 王冠は日暮れには転がるもの |
という表現が出てきます。ここでは「愛」は広い意味の「人間への愛」という意味に拡大されているようです。
「愛について」や、その前の「ふたり」といったテーマの詩は、1990年代以降の作品にみられるものです。中島さんの作品はデビュー以来、数々の変貌を遂げたと見えるのですが、前にも書いたように一貫しているものは一貫している(No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」)。その中で新しい要素が付け加わり「発展し進化してきている」というのが正確だと思います。それは劇場作品(夜会)を引き合いに出すまでもなく、CDとしてリリースされた曲を聴いているだけでも明らかです。この「発展」が、アーティスト・中島みゆきの真価といえるでしょう。
人間同士の愛、男女の愛をテーマにした中島さんの詩は多くあるのですが、それらも中島作品の中では一部です。もっと広く「社会」や「人生」という構えで書かれた詩も多いわけですが、それは別途。
No.65 - 中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉 [音楽]
No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」の続きで、本題である中島さんの「詩」の特徴と思える点について書きます。中島さんは30年以上に渡って500を超える多数の作品を作っているので、とても全部を「概観」するようなことは出来ません。以下はその一部を眺めてみるに過ぎないことを断っておきます。対象はCDとして発売された曲に限定します。
よく言われるように、中島作品には失恋の歌が多いのですが、まずこれについてです。
報われない愛
中島さんの書く失恋の詩には一つの傾向があります。「報われない愛」とでも言うべきテーマの作品が多いことです。つまり
です。これに伴って「私」の「深いあきらめ」や「絶望感」が語られる。それは「自己嫌悪」にもつながる。時には男に「懇願」することもあるが、反対に「恨み言」や「恨みそのもの」にも転化する。それは男に対してだけでなく「恋敵」にも及ぶことがある・・・・・・。そういった心理がないまぜになった「報われない愛、または、報われなかった愛」です。
No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用した詩の朗読 「元気ですか」 が、まさに「報われない愛」の詩でした。この中に出てくる「いやな私です / あいつに嫌われるの当たり前」という言葉が、全体の構造を暗示しています。
以下に、初期の楽曲から順に「報われない愛」のテーマの代表的な作品を取り上げてみたいと思います。
3枚目のアルバムである『あ・り・が・と・う』(1977)の第5曲である《朝焼け》は、男が去っていった(そして別の女性を選んだ)あとの情景です。
この詩には「うらみ言」という言葉が出てくるのですが、何度か繰り返される
ああ あの人は いま頃は
例の ひとと 二人
という言葉に「私」が男を忘れられない、その「忘れられなさ」がよく表現されています。
この引用のあとに続く詩は
バカだね バカだね
バカだね あたし
愛してほしいと
思ってたなんて
バカだね バカだね
バカのくせに
愛してもらえるつもりで
いたなんて
ですが、中島さんは「泣きながら声を出す」というような歌い方をしていて「バカだね」という表現が徹底的に強められています。「バカだね」は自分を卑下する表現ですが、しかしその「私」は今でも「あなた」を深く愛しているということが「化粧」というたった一言で表現されています。そのことは、
という冒頭の2行で分かる仕掛けになっている。上手だと思います。
1979年に出された6枚目のアルバム『おかえりなさい』は、タイトルが暗示しているように中島さんが他の歌手に提供した曲のセルフカバー集です。この中にも「報われない愛」をテーマとした曲が何曲かあります。
《髪》
《サヨナラを伝えて》
《しあわせ芝居》
などです。この中の《髪》という作品。
『おかえりなさい』の2年後に発表されたアルバム『臨月』に収められている《ひとり上手》も髪をキーワードに「報われぬ愛」を綴った詩です。「あなたの帰る家は / 私を忘れたい街角 / 肩を抱いているのは / 私と似ていない長い髪」・・・・・・。
1982年に出された9枚目のオリジナル・アルバム『寒水魚』は名曲がぎっしりと詰まっていて、今でも中島さんの最高傑作だと思っています。こういう完成度の極めて高いアルバムを30歳そこそこで作ってしまうと、あとは何をやるべきか、彼女も迷ったに違いありません。その『寒水魚』の中の《鳥になって》という作品。
美しいメロディーと、澄んだ声の清楚な歌い方。それに合わせて、絶望感が漂う研ぎ澄まされた詩が流れます。死を匂わせたと考えることもできるでしょう。
「鳥」がキーワードですね。No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で書いたように、中島作品での「鳥」は
のどちらか、あるいは両方を同時に表現するキーワードです。《鳥になって》は②でしょう。「鳥」はあこがれの意味を込めて使われることが多い。この曲の「鳥」は、愛することの束縛と重圧からの自由を象徴する存在です。
1982年に出されたシングル《横恋慕》は、その22年後のアルバム『いまのきもち』(2004)でリメイクされました。
「恋敵」の女性に電話をかける、その部屋には実は彼がいる・・・・・・というシチュエーションの詩を、中島さんは何曲か書いています。No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用した、
「元気ですか」(1978)
《B.G.M.》(1982)
がそうです。「報われない(報われなかった)愛」を典型的に表すシチュエーションです。
『寒水魚』と《横恋慕》の翌年に出されたアルバム『予感』(1983)にも「報われない愛」をテーマにした曲があります。
《この世に二人だけ》
《夏土産》
《テキーラを飲みほして》
です。この中の《この世に二人だけ》という詩。
「死に絶えてしまえばいい」「それでもあなたは私を選ばない」といった強烈な言葉を繰り出すのも、中島さんの詩の特徴だと思います。
1985年のアルバム『御色なおし』は、『おかえりなさい』(1979)と同じくセルフカバー・アルバムです。ここに収められた
《すずめ》
《最愛》
《煙草》
も「報われない愛」をテーマとしています。その中の《最愛》という曲。
『御色なおし』と同じ年に発売されたアルバム『miss M.』の中の《それ以上言わないで》も、別の女性のもとへ去っていく男性に対する思いの強さが詩になっています。
《この世に二人だけ》と同じような「強い言葉」が使われています。「貴方を殺したかった」とか「私に命をほしい」とか・・・・・・。
しかしそれと同時に「それ以上言わないで」という懇願するような言葉があって、その対比が見事だと思います。
以降、1990年代のアルバムから、英語の題名がついている2曲をあげておきます。
報われない愛と「誤解」
「報われない愛」を テーマとする詩の中には、
があります。
男性はそもそも女性に愛情を感じていないので恋愛とは言いがたいのですが、女性の方からすると主観的には恋愛であり、失恋です。最初の方に引用した《化粧》も、そういう雰囲気が漂う詩なのですが、より直接的な「誤解」を何曲かあげておきます。
中島さんの初期の有名な曲です。騙された女性、少なくとも主観的には騙されたと認識している女性からの「うらみます」という強烈な言葉が発せられています。
アルバム『寒水魚』の《鳥になって》を「報われない愛」の例として引用しましたが、もう一つが《鳥になって》の次の曲である《捨てるほどの愛でいいから》です。薄々感じながらも「報われない愛」にのめり込んで行った、その後の「懇願」が詩になっています。メロディー・ラインと歌い回しがシャンソンに影響されたのではと思える作品です。
ちなみにこの《捨てるほどの愛でいいから》は、2つ前に引用した《You don't know》(A1998『わたしの子供になりなさい』)と詩の発想が酷似していますね。2つの詩には16年の時間差があるのですが・・・・・・。
中島さんの長いキャリアの中で、詩のテーマや内容は数々の変貌を遂げてきたと見えますが、実は新たな要素が付け加わり発展してきた、というのが正確です。一貫しているところは極めて一貫している。中島さんは意外と(と言うより、アーティストとしては当然)「しつこい」のです。
1989年の『回帰熱』は提供曲のセルフカバー・アルバム第3弾ですが、その中に《くらやみ乙女》という曲があります。相手が「全く本気じゃなかった」とは信じたくない心境を綴った詩です。
この曲が、もともとは他の歌手に提供した曲だとは信じられないという感じです。強い言葉が次々と繰り出される詩と、それにマッチしたメロディー・ライン。そして何よりも詩とメロディーを効果的に生かす中島さんの歌唱力。「中島みゆきが歌わなければ価値がなくなる曲」だと思ってしまうのは私だけではないと思います。
2000年の『短篇集』というアルバムからは《MERRY-GO-ROUND》をあげておきます。
「報われない」理由
「報われない愛」のテーマの詩を見渡してみて気づくことがあります。第一人称である私(女性)の主観的な思いはどうであれ、客観的に眺めてみると、
なのです。二人の「思いのレベル差」が別れを生むという構図です。
2002年の『おとぎばなし』に収録された《雪・月・花》という曲があります。これは中島作品にしては珍しく失恋の歌ではありません。「あなたへ思いがつのります」という「ラブソング」です。その初めの方を引用すると次の通りです。
「どこへゆけばあなたに会える / 会ってるよとあなたは笑う / もっと会うと私はねだる / なんにもわかっていない人ね」というところなど、二人の思いのレベル差が明示されています。
《雪・月・花》は愛する2人を歌っているようで、ある種の「影」がさしている。そもそも「雪・月・花」とは「日本の美の典型」を言っていて、その美意識の最大要素は、四季の変化を含む「移ろいゆくものの美しさ」です。「移ろわないのが恋心」と言うはものの、2人の関係の「移ろい」を予感させる詩になっています。
客観的に眺めてみると、私(女)の愛があなた(男)を苦しめる・・・・・・。このことをダイレクトに表現した詩もあります。2003年のアルバム『恋文』の《寄り添う風》という作品です。
「人恋しさは諸刃の剣」という単純明快な言葉が、この詩の主題でしょう。
1990年のアルバム『夜を往け』の中の《ふたつの炎》という詩では、二人の思いのレベル差の構図が端的に言い表されています。
ふたつの炎が燃える速度が問題です。「愛」も「人との関わり」も、2人ないしは2人以上の人間のコミュニケーションです。人間はコミュニケートしないと絶対に生きていけない。そこで大切なのは、その時点でどの程度深くコミュニケートしたいかという「レベル感」のマッチングなのでしょう。
「報われない愛」をテーマとする詩は結局のところ、人と人との関わりに内包された「逆説」をえぐり出しています。愛すれば愛するほど、愛が遠のいていく。深く関わろうとすればするほど、関わりが気薄になる。求めようとするから、傷ついてしまう・・・・・・。必ずそうなるわけではないけれど、しばしば起こることである・・・・・・。
しかしそれだからこそ「愛」や「コミュニケーション」の持続的な成立は貴重で大切なものなのだと思います。
「報われない愛」のテーマは、愛ないしは失恋がテーマになっている中島作品の一部なのですが、ここまでで長くなったので、続きはまたにします。
よく言われるように、中島作品には失恋の歌が多いのですが、まずこれについてです。
報われない愛
中島さんの書く失恋の詩には一つの傾向があります。「報われない愛」とでも言うべきテーマの作品が多いことです。つまり
これだけ私(女)はあなた(男)を愛しているのに、
という言い方で語られる失恋 |
です。これに伴って「私」の「深いあきらめ」や「絶望感」が語られる。それは「自己嫌悪」にもつながる。時には男に「懇願」することもあるが、反対に「恨み言」や「恨みそのもの」にも転化する。それは男に対してだけでなく「恋敵」にも及ぶことがある・・・・・・。そういった心理がないまぜになった「報われない愛、または、報われなかった愛」です。
No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用した詩の朗読 「元気ですか」 が、まさに「報われない愛」の詩でした。この中に出てくる「いやな私です / あいつに嫌われるの当たり前」という言葉が、全体の構造を暗示しています。
以下に、初期の楽曲から順に「報われない愛」のテーマの代表的な作品を取り上げてみたいと思います。
 朝焼け  |
3枚目のアルバムである『あ・り・が・と・う』(1977)の第5曲である《朝焼け》は、男が去っていった(そして別の女性を選んだ)あとの情景です。
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A1977『あ・り・が・と・う』 |
ああ あの人は いま頃は
例の ひとと 二人
という言葉に「私」が男を忘れられない、その「忘れられなさ」がよく表現されています。
 化粧  |
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A1978『愛していると 云ってくれ』 |
バカだね バカだね
バカだね あたし
愛してほしいと
思ってたなんて
バカだね バカだね
バカのくせに
愛してもらえるつもりで
いたなんて
ですが、中島さんは「泣きながら声を出す」というような歌い方をしていて「バカだね」という表現が徹底的に強められています。「バカだね」は自分を卑下する表現ですが、しかしその「私」は今でも「あなた」を深く愛しているということが「化粧」というたった一言で表現されています。そのことは、
化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど |
という冒頭の2行で分かる仕掛けになっている。上手だと思います。
A1979『おかえりなさい』 |
 髪  |
1979年に出された6枚目のアルバム『おかえりなさい』は、タイトルが暗示しているように中島さんが他の歌手に提供した曲のセルフカバー集です。この中にも「報われない愛」をテーマとした曲が何曲かあります。
《髪》
《サヨナラを伝えて》
《しあわせ芝居》
などです。この中の《髪》という作品。
|
『おかえりなさい』の2年後に発表されたアルバム『臨月』に収められている《ひとり上手》も髪をキーワードに「報われぬ愛」を綴った詩です。「あなたの帰る家は / 私を忘れたい街角 / 肩を抱いているのは / 私と似ていない長い髪」・・・・・・。
 鳥になって  |
1982年に出された9枚目のオリジナル・アルバム『寒水魚』は名曲がぎっしりと詰まっていて、今でも中島さんの最高傑作だと思っています。こういう完成度の極めて高いアルバムを30歳そこそこで作ってしまうと、あとは何をやるべきか、彼女も迷ったに違いありません。その『寒水魚』の中の《鳥になって》という作品。
|
A1982『寒水魚』 |
「鳥」がキーワードですね。No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で書いたように、中島作品での「鳥」は
① | 状況を広範囲に見通せる視点をもった存在 | |
② | 最大限の自由を象徴する存在 |
のどちらか、あるいは両方を同時に表現するキーワードです。《鳥になって》は②でしょう。「鳥」はあこがれの意味を込めて使われることが多い。この曲の「鳥」は、愛することの束縛と重圧からの自由を象徴する存在です。
 横恋慕  |
1982年に出されたシングル《横恋慕》は、その22年後のアルバム『いまのきもち』(2004)でリメイクされました。
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S1982『横恋慕 / 忘れな草をもう一度』 |
「元気ですか」(1978)
《B.G.M.》(1982)
がそうです。「報われない(報われなかった)愛」を典型的に表すシチュエーションです。
 この世に二人だけ  |
A1983『予感』 |
『寒水魚』と《横恋慕》の翌年に出されたアルバム『予感』(1983)にも「報われない愛」をテーマにした曲があります。
《この世に二人だけ》
《夏土産》
《テキーラを飲みほして》
です。この中の《この世に二人だけ》という詩。
|
「死に絶えてしまえばいい」「それでもあなたは私を選ばない」といった強烈な言葉を繰り出すのも、中島さんの詩の特徴だと思います。
A1985『御色なおし』 |
 最愛  |
1985年のアルバム『御色なおし』は、『おかえりなさい』(1979)と同じくセルフカバー・アルバムです。ここに収められた
《すずめ》
《最愛》
《煙草》
も「報われない愛」をテーマとしています。その中の《最愛》という曲。
|
 それ以上言わないで  |
『御色なおし』と同じ年に発売されたアルバム『miss M.』の中の《それ以上言わないで》も、別の女性のもとへ去っていく男性に対する思いの強さが詩になっています。
|
A1985『miss M.』 |
しかしそれと同時に「それ以上言わないで」という懇願するような言葉があって、その対比が見事だと思います。
 YOU NEVER NEED ME   You don't know  |
以降、1990年代のアルバムから、英語の題名がついている2曲をあげておきます。
|
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報われない愛と「誤解」
A1980『生きていても いいですか』 |
私はあなたを愛したが、
という語り口の「失恋」 |
があります。
男性はそもそも女性に愛情を感じていないので恋愛とは言いがたいのですが、女性の方からすると主観的には恋愛であり、失恋です。最初の方に引用した《化粧》も、そういう雰囲気が漂う詩なのですが、より直接的な「誤解」を何曲かあげておきます。
 うらみ・ます  |
|
中島さんの初期の有名な曲です。騙された女性、少なくとも主観的には騙されたと認識している女性からの「うらみます」という強烈な言葉が発せられています。
 捨てるほどの愛でいいから  |
|
アルバム『寒水魚』の《鳥になって》を「報われない愛」の例として引用しましたが、もう一つが《鳥になって》の次の曲である《捨てるほどの愛でいいから》です。薄々感じながらも「報われない愛」にのめり込んで行った、その後の「懇願」が詩になっています。メロディー・ラインと歌い回しがシャンソンに影響されたのではと思える作品です。
ちなみにこの《捨てるほどの愛でいいから》は、2つ前に引用した《You don't know》(A1998『わたしの子供になりなさい』)と詩の発想が酷似していますね。2つの詩には16年の時間差があるのですが・・・・・・。
中島さんの長いキャリアの中で、詩のテーマや内容は数々の変貌を遂げてきたと見えますが、実は新たな要素が付け加わり発展してきた、というのが正確です。一貫しているところは極めて一貫している。中島さんは意外と(と言うより、アーティストとしては当然)「しつこい」のです。
 くらやみ乙女  |
1989年の『回帰熱』は提供曲のセルフカバー・アルバム第3弾ですが、その中に《くらやみ乙女》という曲があります。相手が「全く本気じゃなかった」とは信じたくない心境を綴った詩です。
|
A1989『回帰熱』 |
 MERRY-GO-ROUND  |
2000年の『短篇集』というアルバムからは《MERRY-GO-ROUND》をあげておきます。
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A2000『短篇集』 |
「報われない」理由
「報われない愛」のテーマの詩を見渡してみて気づくことがあります。第一人称である私(女性)の主観的な思いはどうであれ、客観的に眺めてみると、
失恋の理由、ないしは男性が去っていった理由が、まさに「これだけ私はあなたを愛している」という女性の思いそのものであるような詩 |
なのです。二人の「思いのレベル差」が別れを生むという構図です。
2002年の『おとぎばなし』に収録された《雪・月・花》という曲があります。これは中島作品にしては珍しく失恋の歌ではありません。「あなたへ思いがつのります」という「ラブソング」です。その初めの方を引用すると次の通りです。
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A2002『おとぎばなし - Fairy Ring -』 |
《雪・月・花》は愛する2人を歌っているようで、ある種の「影」がさしている。そもそも「雪・月・花」とは「日本の美の典型」を言っていて、その美意識の最大要素は、四季の変化を含む「移ろいゆくものの美しさ」です。「移ろわないのが恋心」と言うはものの、2人の関係の「移ろい」を予感させる詩になっています。
客観的に眺めてみると、私(女)の愛があなた(男)を苦しめる・・・・・・。このことをダイレクトに表現した詩もあります。2003年のアルバム『恋文』の《寄り添う風》という作品です。
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「人恋しさは諸刃の剣」という単純明快な言葉が、この詩の主題でしょう。
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1990年のアルバム『夜を往け』の中の《ふたつの炎》という詩では、二人の思いのレベル差の構図が端的に言い表されています。
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ふたつの炎が燃える速度が問題です。「愛」も「人との関わり」も、2人ないしは2人以上の人間のコミュニケーションです。人間はコミュニケートしないと絶対に生きていけない。そこで大切なのは、その時点でどの程度深くコミュニケートしたいかという「レベル感」のマッチングなのでしょう。
「報われない愛」をテーマとする詩は結局のところ、人と人との関わりに内包された「逆説」をえぐり出しています。愛すれば愛するほど、愛が遠のいていく。深く関わろうとすればするほど、関わりが気薄になる。求めようとするから、傷ついてしまう・・・・・・。必ずそうなるわけではないけれど、しばしば起こることである・・・・・・。
しかしそれだからこそ「愛」や「コミュニケーション」の持続的な成立は貴重で大切なものなのだと思います。
「報われない愛」のテーマは、愛ないしは失恋がテーマになっている中島作品の一部なのですが、ここまでで長くなったので、続きはまたにします。
No.64 - 中島みゆきの詩(1)自立する言葉 [音楽]
No.35「中島みゆき・時代」に続いて「中島みゆきの詩」を取り上げます。今回は特定の曲ではなく、楽曲全体に関わることです。私は評論家ではないので詩の内容についての深いコメントはできないのですが、中島さんの詩が「どういう特徴や特質を持っているか」に絞って書いてみたいと思います。なお、歌詞は歌として歌われることが前提ですが、その言葉だけに注目して鑑賞する場合に「詩」と言うことにします。
No.35「中島みゆき・時代」において、朝日新聞社が『中島みゆき歌集』を3冊も出版していることに触れて、
と書きました。
確かに、曲として歌われる「詞」の言葉だけに注目し「詩」として鑑賞したりコメントしたりすることの妥当性が問題になるでしょう。あまり意味がないという意見もあると思います。特に「夜会」のために作られた曲となると、本来は劇の一部なので話は複雑です。
しかし、こと中島作品に限って言うと、彼女はそのキャリアの初期から「私は言葉を大変重要視する」と暗黙に宣言していると思うのです。その点が「詩」として鑑賞する大きな「よりどころ」です。その中島さんの「言葉の重視宣言」とでも言うべきものを以下にあげてみます。
言葉の重視宣言1 : 象徴詩
中島さんがプロのシンガー・ソングライターとして最初に出したアルバムは『私の声が聞こえますか』(1976)ですが、このアルバムは《あぶな坂》という歌で始まります。
20代前半の新進シンガー・ソングライターのファースト・アルバムの第1曲目としては、ずいぶん「変わった」詩です。独特の雰囲気があって、一種異様な感じがしないわけでもない。こういう詩を最初のアルバムの最初にもってくる人は、あまりいないのではと思います。
これはいわゆる「象徴詩」というやつですね。詩の中の「坂」「越える」「けが」「橋」「こわす」「ふるさと」「おちる」などの言葉は、現実そのままの説明ではなく、全てが《何か》の象徴になっている。作者が込めた意味や思いはあるのだろうけれど、それらの言葉をどう解釈するか、何の象徴と受け取るかは曲を聴く人(ないしは詩を読む人)に任されている・・・・・・。そういった詩です。
ちなみに中島さんは2004年に過去の自作をリメイクしたアルバム『いまのきもち』を出したのですが、その第1曲目も《あぶな坂》でした。思い入れのある曲なのでしょう。
《あぶな坂》に限らず、中島さんは「象徴」を前提とした詩をずいぶん書いています。全く違った雰囲気の詩をとりあげてみると、たとえば《キツネ狩りの歌》です。
イギリス貴族(の末裔)でもない限りキツネ狩りをした人はいないはずで、当然、現実ではありません。これはファンタジーであり、「童話」か「昔ばなし」ないしは「民話」のようなスタイルの詩です。日本ではキツネやタヌキが人を化かすという言い伝えがありますね。タヌキ狩りにいってタヌキを捕獲し、猟師仲間とタヌキ汁を作ろうと準備していたが、何かがおかしい。実は仲間はタヌキが化けたもので、自分を「タヌキ汁」にしようとしていた・・・・・・。いかにも民話にありそうです。
しかし『生きていてもいいですか』という「深刻な」タイトルのアルバムに童話をもってくる必然性はありません(このアルバムの第1曲目は《うらみ・ます》です)。やはりこの詩は「象徴」と考えた方が妥当です。「キツネ狩り」という言葉、ないしはそれを取り巻く状況が《何か》の象徴になっている。
大ヒットになった《地上の星》も「象徴」の視点で見るべきでしょう。
この曲はNHKの「プロジェクトX」のテーマ曲です。従って、詩の中に出てくる惑星・恒星・星団・星座・銀河などの名前は、テレビで描かれたプロジェクト・リーダたちを指していると解釈するのが普通でしょう。以前、NHK教育の視聴者参加番組でこの曲について意見を交わすシーンを見たことがありますが「すばるは星団だからチームで遂行するプロジェクト」というような解釈を言っている人がいました。
その解釈がまずいわけではありませんが、もっと広くとった方がよいように思います。天体群は「自分の人生に影響を与えた恩師・友人・同僚たちの象徴」でもいいし、「昔つきあった女性(男性)たちを回想している」のでもよい。聴くときの気分によって異なるイメージを投影してもよいわけです。
《地上の星》のキーワードは「つばめ」です。一般的に中島さんの詩において「鳥」は
のどちらか、あるいは両方を同時に表現するキーワードとして現れます(例外はある)。①②とも一般的に人が「鳥」に描くイメージとしてはごくノーマルなもので、《地上の星》は①です。
《地上の星》の「つばめ」と対応するかのように、「鳥」の視点からの詩があります。『短篇集』の翌年に出されてアルバム『心守歌』に納められた《ツンドラ・バード》です。
ツンドラなので、カナダかロシアの北極圏に近い地域が舞台であり、そこに生息する「オジロワシ」が主人公です。しかしこれは、寒帯に生息する鳥(しかもかなり珍しい鳥)の生態を詩にすることが目的ではないでしょう。中島さんも想像だけで、ないしは動物写真集などを見ての想像で詩を書いているはずです。ここに出てくる「オジロワシ」「寒い空」「イバラ」「狩り」などは、それ総体として《何か》の象徴だと考えるのが自然です。
もとより「象徴詩」と「普通の詩」に境目があるわけではありません。詩は多かれ少なかれ象徴詩、という言い方もできるでしょう。これは象徴詩、これはそうではないというような色分けはできない。しかし中島作品は「何かの象徴と考えられる詩」が非常に多いのが特徴だと思います。これが歌詞を「詩」としてとらえたい一つの理由です。
言葉の重視宣言2 : 無曲歌
中島さんはそのキャリアの初期から「私は言葉を大変重要視する、と暗黙に宣言している」と書きましたが。それを如実に示す「曲」があります。4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭に収録されている「元気ですか」です。これは曲のない「詩の朗読」です。
メンデスルゾーンが作曲した『無言歌』というピアノ曲集があります(この中の「春の歌」は非常に有名です)。歌曲というと「歌+ピアノ伴奏」が普通ですが、ここから歌を取り去った「ピアノ独奏だけの歌曲 = 無言歌」というわけです。
この例にならうと「元気ですか」は「無曲歌」と言えるでしょう。中島さんの「無曲歌」は1曲しかないと思いますが、1曲でも十分です。つまり「私は、言葉 = 詩を大変に重要視する」と宣言するにはこれで十分なのです。
言葉の重視宣言3 : 短篇小説
「元気ですか」は「恋敵」の女性に電話をかける情景ですが、上に引用した以降もストーリーが続き、最後は「うらやましくて うらやましくて 今夜は 泣くと・・・・・・思います」という言葉で終わります。これはある種の短篇小説のような作品です。「無曲歌」つまり「詩の朗読」なので、必然的に小説的な展開をすることは納得できます。
そして中島作品には、普通の歌でも「短篇小説として書き直しても十分に成立する」と思える詩がいろいろとあるのです。これは中島さんの曲の大きな特徴と言えると思います。つまり、
といった詩です。たとえば、8枚目のアルバム『臨月』に収められた《バス通り》ですが、その冒頭を引用すると以下のようです。
「私」がカフェの窓際に座っていると、外の通りでバスを待つ男女の会話が聞こえてくる(上の引用では明らかではありませんが、男女です)。男は昔の恋人で、何と「私」の話をしている。雨でバスはなかなか来ない。店の音楽がふと止まったとき、男のなつかしい口癖までがはっきりと聞こえる。それが一層つらい・・・・・・。引用した後もさらに状況の進展があり、男女がバスをあきらめて雨の中を走り去るところで終わります。
こういう展開の詩を、軽快そのもののメロディーに乗せてさらりと歌ってしまう中島さんの力量は相当なものだと思います。詩がうまいというだけでなく、作曲家、歌い手として総合的な力量です。
アルバム『臨月』の次に出された『寒水魚』に収められた《B.G.M.》も短篇小説のような作品です。
「あなたが留守とわかっていたから / 嘘でつきとめた電話をかける」という最初の2行で、少々複雑なシチュエーションがさっと提示されます。「少々複雑」というのは、このたった2行に次のような「含み」があるからです。
中島ファンからすると "しびれる" 感じの導入部です。この詩を短篇小説にしたら、この部分だけで数ページになるはずです。そして主人公は「カナリヤみたいな声」と「呼び捨て」を聞いて、半ば予想していたショックを受ける。それに追い打ちをかけるように、聞こえてきたメロディーに本当のショックをうける。知らなかったのは自分だけだった、と・・・・・・。
「カナリアみたいな声」と「呼び捨て」は、ショックだろうけれど想定内なのです。しかし電話から聞こえてきたBGMは、全く思いもしなかった。それは2人だけのメロディーだったはずです。そのメロディーを電話の相手の女性は、今ひとりでいるにもかかわらず部屋に流している。だから本当のショックがくるのです。男を取られただけでなくメロディーまで奪われたと感じて・・・・・・。二人だけのメロディーになった経緯を回想して短篇小説に書くなら、それもまた数ページになりそうです。
《バス通り》とはうって変わった雰囲気の、それこそ全体が「部屋に静かに流れるBGM」のような曲です。具体的な音楽を連想させるものは何もありません。どういうメロディーを想像するかは聴き手に任されています。
この詩の題名を「メロディー」とするのも大いにアリだと思います。それが詩の核心だからです。しかし中島さんはそうはしない。「私」を孤独と寂寥の世界に突き落とす最後の一押しとなるのは「BGM」という無機質で無色透明な言葉・・・・・・。彼女の詩人としての才能が光っていると思います。
「短篇小説」の極めつけは《南三条》でしょう。この曲の歌詞の内容は次のような展開をします。
①から②は中島さんの詩によくある展開で、ここまでは言わば「普通」です。しかし③で「えっ」と思ってしまうのですね。さらに④で、どんでん返しのような展開になる。このあとに続く詩を最後まで引用すると、次の通りです。
初めから聴いていると「いったい、どこへ行き着くのだろう?」と思ってしまいますが、最後は
という結末なのです。「そこへ行くのか」という感じですが、このエンディングは非常に中島作品らしい感じもする。
7分を越す「大作」ですが、ロックのビートとリズムに乗せて一気に歌われるこの曲は、長いという感じは全くしません。場面は札幌の地下鉄の駅付近の人の流れのまっただ中です。詩のスピード感あふれる展開と曲の疾走感、それに中島さんの歌い方の3つがよくマッチしています。ほとんどのJポップのアーティストはロックの影響を受けていて、中島さんもその一人なのですが、ロックのリズムとノリの中に失恋感情をキーとする短篇小説を押し込めてしまった希有な作品だと思います。
言葉の重視宣言4 : 読む言葉
中島さんの詩には、時として歌を聴いただけでは分からない言葉、日常的にはまず使わない言葉が出てきます。典型的な例を2つあげます。
この詩の「瀞箱(とろばこ)」ですが、魚などの海産物を入れる箱のことをトロ箱と言います。現在はほとんど発砲スチロールで作られていますが、昔は木製もあったようです。「トロ」とは、トロール船のトロからきているようです。そのトロに瀞という字を当てた。瀞とは川が深くなって流れが静かなところです(埼玉県の長瀞の瀞)。
「とろばこ」は一般的な言葉ではないので、聴いても意味がとれません。歌詞を読んで瀞箱という字を見てもわからない。「とろばこ」を調べてみて「魚などを入れるために水産業者が使う箱」だとわかり、さらに瀞が当て字らしいともわかる。
文字として書かれた詩や詩集の本の詩なら、こういうプロセスで理解をするのは大いにあり得ることだと思います。つまりこの詩は「字として読まれることを前提としている」ことになります。少なくとも 《白鳥の歌が聴こえる》 のこの部分はそうです。
柳絮(りゅうじょ)とは、白い綿毛の付いた柳の種子のことで、また、春にその綿毛が空中に漂うことも指します。私は残念ながら日本で柳絮が漂っている光景に出会った記憶がないのですが、海外旅行ではあります(イギリス、ハンガリー)。町のどこへ行っても綿毛が飛び交っている光景は非常に印象深く、記憶に残りました。
しかし恥ずかしながら、この綿毛を「柳絮」と言うのを中島さんの詩で初めて知りました。中島ファンは多いと思いますが、《EAST ASIA》を最初に耳で聴いたときに "りゅうじょ" の意味が分かった方は少ないのではないでしょうか。この詩も「字として読まれることを前提としている」と思います。
中島さんの詩の言葉は、その言葉であることが必須というのが多い。「瀞箱」も「柳絮」も、彼女は是非その言葉を使いたかったのだと思います。であれば、楽曲の "詞" を "詩" として取り出して鑑賞する意義は十分にあると思います。
「象徴詩」「無曲歌 = 詩の朗読」「短篇小説」「読む言葉」と書いて来ましたが、これらはいずれも「言葉を非常に重視します、という宣言」だと思えます。「短篇小説」にしても、そもそも中島さんは小説を書いているので違和感はありません。2000年に出された29枚目のオリジナル・アルバムのタイトルは、ずばり『短篇集』です。
中島作品における詩について書こうとしたのですが、「言葉だけの詩として扱うことの妥当性」の話だけになってしまいました。これからが本論のはずですが、長くなったので、また次の機会にします。
No.35「中島みゆき・時代」において、朝日新聞社が『中島みゆき歌集』を3冊も出版していることに触れて、
歌は最低限「 詞 + 曲 」で成り立つので、詩だけを取り出して議論するのは本来の姿ではないとは思うのですが、中島さんの曲を聞くと、どうしても詩(詞)を取り上げたくなります。朝日新聞社の(おそらく)コアな「みゆきファン」の人が、周囲の(おそらく)冷ややかな目をものともせずに歌集(詩集)を出した気持ちも分かります。 |
中島みゆき全歌集Ⅱ (朝日新聞社 1998) |
確かに、曲として歌われる「詞」の言葉だけに注目し「詩」として鑑賞したりコメントしたりすることの妥当性が問題になるでしょう。あまり意味がないという意見もあると思います。特に「夜会」のために作られた曲となると、本来は劇の一部なので話は複雑です。
しかし、こと中島作品に限って言うと、彼女はそのキャリアの初期から「私は言葉を大変重要視する」と暗黙に宣言していると思うのです。その点が「詩」として鑑賞する大きな「よりどころ」です。その中島さんの「言葉の重視宣言」とでも言うべきものを以下にあげてみます。
言葉の重視宣言1 : 象徴詩
中島さんがプロのシンガー・ソングライターとして最初に出したアルバムは『私の声が聞こえますか』(1976)ですが、このアルバムは《あぶな坂》という歌で始まります。
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A1976『私の声が |
これはいわゆる「象徴詩」というやつですね。詩の中の「坂」「越える」「けが」「橋」「こわす」「ふるさと」「おちる」などの言葉は、現実そのままの説明ではなく、全てが《何か》の象徴になっている。作者が込めた意味や思いはあるのだろうけれど、それらの言葉をどう解釈するか、何の象徴と受け取るかは曲を聴く人(ないしは詩を読む人)に任されている・・・・・・。そういった詩です。
ちなみに中島さんは2004年に過去の自作をリメイクしたアルバム『いまのきもち』を出したのですが、その第1曲目も《あぶな坂》でした。思い入れのある曲なのでしょう。
《あぶな坂》に限らず、中島さんは「象徴」を前提とした詩をずいぶん書いています。全く違った雰囲気の詩をとりあげてみると、たとえば《キツネ狩りの歌》です。
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A1980『生きていても |
しかし『生きていてもいいですか』という「深刻な」タイトルのアルバムに童話をもってくる必然性はありません(このアルバムの第1曲目は《うらみ・ます》です)。やはりこの詩は「象徴」と考えた方が妥当です。「キツネ狩り」という言葉、ないしはそれを取り巻く状況が《何か》の象徴になっている。
大ヒットになった《地上の星》も「象徴」の視点で見るべきでしょう。
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A2000『短篇集』 |
その解釈がまずいわけではありませんが、もっと広くとった方がよいように思います。天体群は「自分の人生に影響を与えた恩師・友人・同僚たちの象徴」でもいいし、「昔つきあった女性(男性)たちを回想している」のでもよい。聴くときの気分によって異なるイメージを投影してもよいわけです。
《地上の星》のキーワードは「つばめ」です。一般的に中島さんの詩において「鳥」は
① | 状況を広範囲に見通せる視点をもった存在 | |
② | 最大限の自由を象徴する存在 |
のどちらか、あるいは両方を同時に表現するキーワードとして現れます(例外はある)。①②とも一般的に人が「鳥」に描くイメージとしてはごくノーマルなもので、《地上の星》は①です。
《地上の星》の「つばめ」と対応するかのように、「鳥」の視点からの詩があります。『短篇集』の翌年に出されてアルバム『心守歌』に納められた《ツンドラ・バード》です。
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A2001『心守歌』 |
もとより「象徴詩」と「普通の詩」に境目があるわけではありません。詩は多かれ少なかれ象徴詩、という言い方もできるでしょう。これは象徴詩、これはそうではないというような色分けはできない。しかし中島作品は「何かの象徴と考えられる詩」が非常に多いのが特徴だと思います。これが歌詞を「詩」としてとらえたい一つの理由です。
言葉の重視宣言2 : 無曲歌
中島さんはそのキャリアの初期から「私は言葉を大変重要視する、と暗黙に宣言している」と書きましたが。それを如実に示す「曲」があります。4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭に収録されている「元気ですか」です。これは曲のない「詩の朗読」です。
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A1978『愛していると |
この例にならうと「元気ですか」は「無曲歌」と言えるでしょう。中島さんの「無曲歌」は1曲しかないと思いますが、1曲でも十分です。つまり「私は、言葉 = 詩を大変に重要視する」と宣言するにはこれで十分なのです。
言葉の重視宣言3 : 短篇小説
「元気ですか」は「恋敵」の女性に電話をかける情景ですが、上に引用した以降もストーリーが続き、最後は「うらやましくて うらやましくて 今夜は 泣くと・・・・・・思います」という言葉で終わります。これはある種の短篇小説のような作品です。「無曲歌」つまり「詩の朗読」なので、必然的に小説的な展開をすることは納得できます。
そして中島作品には、普通の歌でも「短篇小説として書き直しても十分に成立する」と思える詩がいろいろとあるのです。これは中島さんの曲の大きな特徴と言えると思います。つまり、
◆ | 場面設定と状況設定があり | |
◆ | 状況の「展開」ないしは「進展」があり | |
◆ | その展開・進展の中で、人間の心理が突き詰められたり、心の動きの綾があぶり出される |
といった詩です。たとえば、8枚目のアルバム『臨月』に収められた《バス通り》ですが、その冒頭を引用すると以下のようです。
|
A1981『臨月』 |
こういう展開の詩を、軽快そのもののメロディーに乗せてさらりと歌ってしまう中島さんの力量は相当なものだと思います。詩がうまいというだけでなく、作曲家、歌い手として総合的な力量です。
アルバム『臨月』の次に出された『寒水魚』に収められた《B.G.M.》も短篇小説のような作品です。
|
「あなたが留守とわかっていたから / 嘘でつきとめた電話をかける」という最初の2行で、少々複雑なシチュエーションがさっと提示されます。「少々複雑」というのは、このたった2行に次のような「含み」があるからです。
◆ | 女(主人公)は、別れた男の居場所を知らない。当然、電話番号も知らない。 | ||
◆ | しかし女は、今日、男がその居所に居ないことだけは知っている(この理由はいろいろ想像できる)。 | ||
◆ | 女は、男の電話番号を知ると思われる人物(共通の友人?)に電話をし、嘘の理由を言って、電話番号を聞き出した(この嘘もいろいろ想像できる)。 | ||
◆ | 女はそこに電話をかける。男が留守だとは知っているが、誰かがそこに居るはずだと思うから。誰も電話に出ないという淡い期待を抱きつつ・・・・・・。 |
A1982『寒水魚』 |
「カナリアみたいな声」と「呼び捨て」は、ショックだろうけれど想定内なのです。しかし電話から聞こえてきたBGMは、全く思いもしなかった。それは2人だけのメロディーだったはずです。そのメロディーを電話の相手の女性は、今ひとりでいるにもかかわらず部屋に流している。だから本当のショックがくるのです。男を取られただけでなくメロディーまで奪われたと感じて・・・・・・。二人だけのメロディーになった経緯を回想して短篇小説に書くなら、それもまた数ページになりそうです。
《バス通り》とはうって変わった雰囲気の、それこそ全体が「部屋に静かに流れるBGM」のような曲です。具体的な音楽を連想させるものは何もありません。どういうメロディーを想像するかは聴き手に任されています。
この詩の題名を「メロディー」とするのも大いにアリだと思います。それが詩の核心だからです。しかし中島さんはそうはしない。「私」を孤独と寂寥の世界に突き落とす最後の一押しとなるのは「BGM」という無機質で無色透明な言葉・・・・・・。彼女の詩人としての才能が光っていると思います。
「短篇小説」の極めつけは《南三条》でしょう。この曲の歌詞の内容は次のような展開をします。
① | 地下鉄の駅の人の流れなかで「私」は昔の知人の女性に呼び止められる。 | |
② | 知人女性はかつての「恋敵」で、その人さえ来なかったら彼とは今でも続いていたはずと、「私」は今でもその女性を憎んでいる。 | |
③ | しかしその女性は「私」が彼と別れた後に、彼と知り合いになった。「私」はそのことを知っていたが、憎まずにはいられなかった。 | |
④ | 知人女性は、今の彼=夫を紹介する。その男性を見て「私」は愕然とする。 |
①から②は中島さんの詩によくある展開で、ここまでは言わば「普通」です。しかし③で「えっ」と思ってしまうのですね。さらに④で、どんでん返しのような展開になる。このあとに続く詩を最後まで引用すると、次の通りです。
|
初めから聴いていると「いったい、どこへ行き着くのだろう?」と思ってしまいますが、最後は
許せないのは 許せなかったのは あの日あいつを惚れさせるさえできなかった 自分のことだった |
という結末なのです。「そこへ行くのか」という感じですが、このエンディングは非常に中島作品らしい感じもする。
A1991『歌でしか言えない』 |
言葉の重視宣言4 : 読む言葉
中島さんの詩には、時として歌を聴いただけでは分からない言葉、日常的にはまず使わない言葉が出てきます。典型的な例を2つあげます。
|
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「とろばこ」は一般的な言葉ではないので、聴いても意味がとれません。歌詞を読んで瀞箱という字を見てもわからない。「とろばこ」を調べてみて「魚などを入れるために水産業者が使う箱」だとわかり、さらに瀞が当て字らしいともわかる。
文字として書かれた詩や詩集の本の詩なら、こういうプロセスで理解をするのは大いにあり得ることだと思います。つまりこの詩は「字として読まれることを前提としている」ことになります。少なくとも 《白鳥の歌が聴こえる》 のこの部分はそうです。
|
A1992『EAST |
しかし恥ずかしながら、この綿毛を「柳絮」と言うのを中島さんの詩で初めて知りました。中島ファンは多いと思いますが、《EAST ASIA》を最初に耳で聴いたときに "りゅうじょ" の意味が分かった方は少ないのではないでしょうか。この詩も「字として読まれることを前提としている」と思います。
中島さんの詩の言葉は、その言葉であることが必須というのが多い。「瀞箱」も「柳絮」も、彼女は是非その言葉を使いたかったのだと思います。であれば、楽曲の "詞" を "詩" として取り出して鑑賞する意義は十分にあると思います。
「象徴詩」「無曲歌 = 詩の朗読」「短篇小説」「読む言葉」と書いて来ましたが、これらはいずれも「言葉を非常に重視します、という宣言」だと思えます。「短篇小説」にしても、そもそも中島さんは小説を書いているので違和感はありません。2000年に出された29枚目のオリジナル・アルバムのタイトルは、ずばり『短篇集』です。
中島作品における詩について書こうとしたのですが、「言葉だけの詩として扱うことの妥当性」の話だけになってしまいました。これからが本論のはずですが、長くなったので、また次の機会にします。
No.62 - 音楽の不思議 [音楽]
今まで何回か音楽を取り上げました。
などです。No.1 の「クラバート」からの連想で書いているので少々ジャンルが偏っていますが、音楽好きとしては今後も各種の曲を取り上げたいと思います。
その音楽について、個人的に驚いた経験を最近したのでそれを書きます。
キャンディーズ・ミックス
2012年4月21日(土)にクルマを運転していたときのことです。FM放送(確かFM横浜)からキャンディーズの楽曲が流れてきました。「4月21日」「キャンディーズ」と聞いてピンとくる人がいると思いますが、この日は亡くなった田中好子さんの一周忌だったのす。
元キャンディーズで女優の田中好子さんは、2011年4月21日に55歳という若さで亡くなられました。メディアで彼女の最後のメッセージが流されましたね。覚えている人も多いと思いますが、その冒頭は東日本大震災の被災者の方を思いやる内容でした。自分の死を認識した上で残されたこの遺言に感動した人は多いと思ます。
2012年4月21日にFM放送で流れていたのは、その田中さんを追悼するための「キャンディーズ・ミックス」と称するコンピレーションでした。キャンディーズの主要な楽曲を1コーラスだけ集めて連続的に繋いだものです。私は聞きながら田中さんの最後のメッセージを思い出していました。
しかし今回は音楽の話です。「キャンディーズ・ミックス」のあと、田中さんのメッセージの記憶以外に強く感じたことがあります。なぜ私はキャンディーズの主要な楽曲のメロディーを、始めから最後まで忘れないで全部覚えているのだろう、それは何故なのか、という疑問です。
キャンディーズの不思議
キャンディーズ・ミックスに出てきた曲は、今から思い出すと、
・年下の男の子
・ハートのエースが出てこない
・春一番
・暑中お見舞い申し上げます
・微笑みがえし
などです。これ以外にもあったと思いますが、とにかくキャンディーズの代表曲・ヒット曲ばかりであることは確かです。なぜなら私が知っている曲ばかりだったからです。そして「キャンディーズ・ミックス」を聞いて認識したことは、
という点でした。
「キャンディーズの主要な楽曲のメロディーを、始めから最後まで全部覚えているのはあたりまえ」という人は大勢いると思います。その代表格は自民党の石破茂衆議院議員でしょう。しかし私にとっては決してあたりまえではありません。私は「キャンディーズ・ファン」だったことはないし、意識的にキャンディーズの曲を聞いたということはありません。TVの歌番組にチャネルを合わせたということもない。
キャンディーズのヒット曲を知っているのは、あくまでTVやラジオ、街角で流れてきた曲が「それとなく」頭の中にインプットされたからと推測できます。曲がヒットしたのは今からすると30年以上前の事です。キャンディーズ解散以降も折りにふれて放送されたとはいえ、昔のことです。つまりこれらの曲は「かなり以前に、知らず知らずのうちに覚えてしまった曲」です。それにもかかわらず「メロディーを終わりまで覚えていて、忘れていない」という事実に、非常に不思議な感じを抱いたし、軽い驚きを覚えたわけです。なぜ忘れないのだろうかと・・・・・・。
メロディー・旋律の記憶
キャンディーズ・ミックスから一般的に推測できることがあります。
ということです。私たちはそれを当然のことのように感じ、何の疑問もなく日々過ごしています。しかし、よくよく考えれば不思議だという感じがする。もちろん「覚えにくいメロディー」もあります。何回聞いても覚えられない曲がある。また、曲の一部だけが印象的で覚えやすいこともある。いわゆる「サビ」の部分ですね。
メロディーを忘れないのはキャンディーズのようなポップスだけではなく、クラシックの歌曲やオペラのアリアでも同じです。また歌だけでなく器楽曲の旋律もそうでしょう。以前にとりあげた例では、No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」の第1楽章の第1主題(譜例12)は、主題としては長いものですが(そしてかなり複雑な旋律ですが)、この曲が好きな人ははっきりと覚えているでしょう。一般にクラシックの交響曲の演奏時間は長いのですが「メロディー・ラインとして曲全体を記憶するのは十分可能」だと思います。ベートーベンの『運命』の演奏は30分以上かかりますが、全曲をハミングで歌えそうな気がする。シューベルトの『未完成』もそうです。もちろん「オーケストラ」で演奏される「和声音楽」であり、かつ「ポリフォニー」なので旋律として追いにくいところはありますが・・・・・・。プロの指揮者や演奏家なら楽譜の1音1音まで記憶していて当然でしょうが、アマチュアの音楽愛好家でも旋律・メロディーとしてなら、かなり長い曲でも記憶できると思うのです。
この「メロディーの記憶」はあくまで「メロディーという音符の連鎖の記憶」であって、題名とメロディーを関連づけて記憶することはまた別です。よく知っているはずの曲であっても、曲の題名からメロディーを思い出せないことがありますね。歌い出しが分かってしまうとメロディーがどんどん思い出される。逆に、TV放送やラジオや街角で器楽曲が流れてきても題名が思い出せないこともよくあります。人間にとって言葉の記憶とは別に「音符の連鎖」を記憶する独自のメカニズムがあると感じられます。
詞・文章は忘れやすい
メロディーに比べると歌詞は忘れやすい。「キャンディーズ・ミックス」の曲を例にとると、『微笑がえし』で覚えていたのは「♪ お引っ越しのお祝い返しも済まないうちに・・・・・・」などの断片的なフレーズだけでした。
3.11 以降、テレビCMで『見上げてごらん夜の星を』が流されました(サントリーのCM)。この曲を聞くのは何10年ぶりかのはずなのにメロディーは忘れてはいなかった。それに比べ、歌詞の全部は覚えてはいませんでした。
カラオケ機器は、メロディーと歌詞の覚え易さの差の上に成り立っています。メロディーも歌詞と同じ程度に覚えにくいのなら、画面に楽譜を出す必要があります。しかしそうはなっていない。カラオケ産業はメロディーと歌詞の記憶の差によりかかって成立しています。
歌手の中にはコンサートで「みんなで歌おう」というコーナーをやる人がいますね。そのとき歌手が歌詞をフレーズごとに先行してレクチャーしたりします。カラオケと同じ状況を人間系で実現しているわけです。
メロディーとは無関係に存在している詩・文章などの「言葉」は、歌詞よりももっと忘れやすいのではないでしょうか。我々がよく記憶していて、いつでも引っ張り出せる「言葉」は、有名なことわざ・俳句・短歌のたぐいであり、比較的短いものです。唱えるのに分単位の時間がかかる長い文章を記憶している例は、あまり思いつきません。中学・高校の頃は日本国憲法前文を暗唱できたはずなのに、今はとてもできない。忘れてしまっているのです。
メロディーと一緒に記憶している言葉(=歌詞)は、まだ覚えているものが多いが(特に好きなアーティストの楽曲)、メロディーと無関係に比較的長めの文を覚えているというのはあまりない。ひょっとしたら歌の起源は、長い、まとまった言葉を、歌詞として覚える手段なのかもしれません。
「名曲」の条件
覚えやすいメロディーは、一度頭の中にインプットされると容易には忘れない・・・・・・。このことから類推できることがあります。それは「ヒット曲」さらには「名曲」と言われる曲の条件です。「名曲」の条件は、
です。それは十分条件ではないが、必要条件です。これはクラシックでもポピュラー音楽でもロックでも変わらない。「ヒット曲」が誕生し、さらには「名曲」と呼ばれるまでには以下のようなプロセスがあるはずです。
といったプロセスです。このプロセスで最大のポイントとなるのが、記憶に残る「印象的な主題・旋律」です。catchy という英語がありますね。日本語にもなっています。「人の心を捕らえる」とう意味で、a catchy song と言うと「覚えやすい歌」です。この catchy の最重要ファクターは主題・旋律でしょう。
従って作曲家の最低限の条件は「印象的なメロディー・主題・旋律」を作る能力です。この能力を「主題力」と呼ぶことにします。ポップスの曲のヒットは「サビ」が印象的かどうかに大きく左右されます。つまり作曲家の「主題力」いかんです。現代のポップスの作曲家は「サビ」を作ることに日夜励んでいて「サビ」のストックをもっているはずです。作曲のときには、まずそのストックの中から新曲に適切なものがないか探すでしょう。
「主題力」はクラシックの曲のように長い曲の場合にも重要です。第1楽章だけで20分かかるような曲はザラにありますよね。この程度の長さになると曲の「構成」が重要です。たとえば第1主題から第3主題まで3つの主題があり、それが変形されて展開され、また3つの主題が順に舞い戻るとします。聴く人にとって重要なのは、どれが3つの主題なのか明瞭に分かることです。また変形されたのなら変形されたと理解できることです。そして主題が再現されたらそのことがすぐに分かる。つまり主題が印象的であることこそが、20分もの長い曲の構成を支える重要なポイントです。これがないとダラダラと続く(ように聞こえる)面白くも何ともない曲になってしまう。
ポップスの世界で「主題力」が最もある作曲家の一人は桑田佳祐さんです。『いとしのエリー』(1979)からはじまって現在まで、30年以上に渡って「主題力」を発揮している。2~3曲はいい曲を書いたがそれだけとか、3~5年間は素晴らしい曲を書いたが以降はダメで惰性で曲を作っているような作曲家、ないしはシンガー・ソングライターがいますよね。それに比べれば大したものだと思います。
クラシック音楽におけるベートーベンの人気も、結局のところ「主題力」だと思います。ベートーベンの曲は「緻密な構成力」や「盛り込まれた思想性」や「にじみ出る人生観」などばかりが強調されます。それはそれで正しいかもしれませんが、交響曲や弦楽四重奏曲やピアノソナタを聴いてまず感じるのは、魅力的で印象的な主題・旋律・パッセージ・動機・音型に溢れていることなのですね。とにかくその点の印象が強い。
音楽の不思議
「覚えやすいメロディー」は一度頭の中にインプットされると容易には忘れない・・・・・・。これはなぜそうなのかが非常に不思議だと思っています。音楽の不思議の最大のものでしょう。というのも、メロディーのベースとなっている「音階」や「和音」は極めて「人工的で数学的な創造物」だからです。
現在、音楽に使われるのは西洋で18世紀以降に発達した「12平均律」(単に平均律)ですが、これは15世紀以降の「純正律」の発展形です。ド(C)の周波数を1すると以下の表のようになります。
純正律の長音階(ドレミファソラシド)の「ド」に対するの周波数の比率は、素数である2・3・5を使った出来るだけ単純な組み合わせの分数(1より大きく2より小さい値)で成り立っています。また平均律は、オクターブを12の半音の列とし、半音と半音の間の周波数の比が2の12乗根であるように作られています。平均律のピッチの決め方は非常に数学的というか、数学そのものです。
音の周波数の比が単純な整数に近い2音は響きがよいことが昔から知られていました。これが純正律の原理ですが、そう単純に割り切れないこともある。ド(C)を基底音とする4つの三和音の周波数比が下表です。
和音の基本は長三和音(C)と短三和音(Cm)であり、減三和音(Cdim)と増三和音(Caug)は不協和音とされています(現代の音楽では不協和的な効果を狙って使われる)。確かに Caug の周波数比は大きな数字が並んでいて「単純な整数比」とは言えません。しかしその一方で Cdim の周波数比は Cm よりもシンプルです。なぜ短三和音(Cm)が「協和的に」聞こえ、よりシンプルな減三和音(Cdim)が「不協和的に」聞こえるのか・・・・・・。単純ではありません。
現在の音楽に使われている平均律にしても、表に掲げたように純正律からすると微妙にずれています。この程度の差は人間の耳には大して関係ないということなのか、それとも微妙にずれていることがかえって音楽の魅力を生むのか・・・・・・。どちらもありうると思います。ヴァイオリン奏者はヴィブラートをかけて音のピッチを「細かく揺らす」ことをしますね。周波数がピタッと整数倍に合っている和音は、響きは純粋だが「面白み」がないのかもしれません。微妙な「揺らぎ」や「ズレ」や「かすかな違和感」や「どこかちょっと違う感じ」があった方が、かえって美しさを増加させることが芸術の世界ではよくあります。
音階や和音は極めて人工的で数学的な創造物です。そもそもオクターヴ(周波数が2倍)の間に12の音がある理由は、古代ギリシャの数学者・ピタゴラスが決めた「ピタゴラス音律」からきているわけです。ピタゴラス音律の決め方は2と3という素数からなっています。つまりド(C)の音の周波数を3倍し2で割ると(1.5倍すると)ソ(G)の音になる。以下、順に周波数を1.5倍し、それが2を超えると2で割るという操作を繰り返していくと
という12の音列が得られます(英語音名で表記)。最後の F にもう一度この操作をすると、結果は C に対する周波数の比が
となって出発点と極めて近くなります。そこで上記操作の最後の F の音、
を、純正律の F の音である 1.3333 で置き換えてしまい、1.5倍するとちょうど2になるようにすると、
となって、12の音からなる「音の輪」が完成します。これが12音の起源です。この音律の作り方だと F を少し下げるため A# と F の間隔が狭くなりますが、それはやむをえません。3の累乗が2の累乗に等しくなることはないので、どこかに「しわ寄せ」がくるのは必然です。
ともかくオクターヴがなぜ12音かというと、3の12乗が最も2の累乗に近くなるからというのがその答えなのです。ちなみに「音の輪」の最後の F から始まって
と音をとり、これを音の高さで並べ替えると
となって長調の音階になります。また「輪」の最初の C から始まって
と5つの音をとり、音の高さで並べ替えると、ド・レ・ミ・ソ・ラ(・ド)という、いわゆる5音音階になります。これは日本を含む世界中に古来からありますね。『あかとんぼ』『蛍の光』『アメージング・グレース』『結婚しようよ(吉田拓郎)』というわけです。ドボルザークの『新世界』の第1楽章の主題や第2楽章の「家路」の前半部もそうです。
音階や和音は極めて人工的で数学的な創造物、ということを別の視点から見ると、
と言えます。
絵画の発祥は明らかに自然の模倣です。石器時代の洞窟画がそうだし、人物画も風景画も自然や現実を写し取るところから始まっています。宗教画で天国を描いたとしても、それは現実世界のある断面や部分の模倣としての想像世界であるわけです。彫刻、写真、映画も現実を写すところから始まっています。文学もノンフィクションとフィクションの違いはありますが、現実ないしは想像力で作った模擬現実の記述が原点です。もちろん抽象画や抽象彫刻はありますが、それらは暗黙に具象絵画や具象彫刻との対立項だから価値があるのだと思います。
これらと比較して、音楽はそれに相当する自然や非人工物がありません。鳥のさえずりが音楽に聞こえるといっても「音声」であることは確かですが、音階や和声に基づく「音楽」とはレベルが全く違います。滝の音、木の葉のざわめき、波しぶき、雨だれ、川のせせらぎ、風のうなり声・・・・・・。自然界は「音」に満ち溢れているけれど、それらは「音楽」と言うにはかなり異質なものです。「自然の奏でる音楽に包まれて・・・・・・」というような文章は比喩であって「自然の音に包まれて」が正しい。
音楽は、相当する自然物ないしは、類似する非人工物がない存在です。しかしそれにもかわらず、人間の感性と奇妙に共鳴し、シンクロしています。覚えやすいメロディーが人間の脳裏に刻み込まれ容易には忘れないことは、人間の感性と音楽の相性の良さを暗示しています。
長調と短調があります。ないしは長三和音と短三和音がある。長調が「喜びや外向的雰囲気」を表すのに対し、短調は「悲しみや内向的雰囲気」を表す。別にそういうルールがあるわけでも何でもないが、楽曲を聴く人は皆そう思うわけです。長調の曲を「暗い」と感じ、短調の曲を「明るい」と感じる人はまずいない。長調と短調に関する人間の感性も、音楽が人間が本質的に持つ「何か」と関係している現れだと思います。
また、天才肌の音楽家の幼少時のエピソードにありますよね。3歳の頃、彼(ないしは彼女)にトイピアノを与えたところ、何時間もそれを弾き続け、さらには曲を作ろうとしていたというような・・・・・・。もちろん全ての音楽家がそうではありませんが「3歳でトイピアノで作曲のまねごと」というのも、考えてみれば非常に不思議だと思います。幼少の子に与えられたのは、1オクターヴ、プラスアルファの数の白鍵・黒鍵の列であり、数学的に12種の周波数が決まっている楽器です。それが3歳児の感性とシンクロする・・・・・・。
音楽は人間の脳の働きの根幹にかかわる何かと深い関係があるのだと思います。
時間アートとしての音楽
「人間の脳の働きの根幹にかかわる何か」とはどういうものか。私はそれは人間が言葉をしゃべる脳の働きと関係しているのだと思っています。
単語をつないで一つのまとまった話を人間がしゃべるといことは、時間をまたがる連続的創造行為です。「今日の」という言葉を発すると、その次に続く言葉は何百種類かが考えられ、その中から例えば「予定は」というように言葉が選択されて、それが次々と続きます。「今日の」→「右足は」となることはまずない(しかし状況によっては、あり得ないことはない)。どういう言葉が次々と選択されるか、選択されないかはシチュエーションによります。聴く人も次に続く言葉を無意識下で予感し、話者が選択する言葉を聴き、その繰り返しで文脈を把握していく。
素晴らしい文章を書く作家やエッセイストの本を読むと、言葉と言葉のつながりが極めて自然でなめらかであると同時に、要所要所に軽い違和感を覚えるような「言葉のつながりの飛躍」が挟みこまれます。この軽いジャンプ感が文章を引き締め、生き生きと躍動させる。良い文章は「想定通り」と「想定通りではない」という二つの「はざま」にあります。
この「言葉をしゃべる」「言葉を聞く」プロセスと、「音楽を奏でる・歌う」「音楽を聴く」プロセスは酷似していると思うのです。言葉における言語・文法に相当するのは、音階・和声・リズムなどの約束ごとです。この約束ごとをベースに、次々と音符が奏でられ(歌われ)、時間をまたがって繋がっていく。我々が音楽を聞く時には、次にどういう展開があるかという暗黙の想定をしながら聴いています。そしてハッとする展開にぶつかったときに、印象が残る。
No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」において、
と書きました。言葉と音楽は「時間ともにある」ことが似ています。言葉も音楽も、その瞬間に発せられる「音」だけを聴いて理解することは絶対にできません。
これら三つを一体的に把握し、時間をまたがって理解が進むのが「言葉」と「音楽」です。
言葉を聞く行為と音楽を聴く行為は類似しています。であれば、音楽を聴く能力は人間の言語能力の獲得と関わっているという推定も成り立ちます。それは果たして正しいでしょうか。
ともかく、人工物である音楽が人間の感性と非常に親和的であること、それが音楽の不思議さです。その不思議さを人々は深層心理で感じているのだと思います。だからこそ、それを知りたいと思うし、熱狂するし、のめり込んだりもする。人間は不思議さを秘めたものに惹かれます。音楽がこれほど身近にあり、現代における一大産業を形成していて、確固とした芸術のジャンルにもなっている理由がそこにあると思います。
音楽が人間の精神活動に深く関わっているのでは、という意見を紹介します。理系の科学者の方の発言(コラム記事)です。
No. 5 - スメタナ「交響詩:モルダウ」 No. 8 - リスト「ノルマの回想」 No. 9 - コルンゴルト「ヴァイオリン協奏曲」 No.10 - バーバー「ヴァイオリン協奏曲」 No.11 - シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」 No.14 - ワーグナー「ニーベルングの指環」(No.14-17) No.35 - 中島みゆき「時代」 No.44 - リスト「ユグノー教徒の回想」 |
などです。No.1 の「クラバート」からの連想で書いているので少々ジャンルが偏っていますが、音楽好きとしては今後も各種の曲を取り上げたいと思います。
その音楽について、個人的に驚いた経験を最近したのでそれを書きます。
キャンディーズ・ミックス
2012年4月21日(土)にクルマを運転していたときのことです。FM放送(確かFM横浜)からキャンディーズの楽曲が流れてきました。「4月21日」「キャンディーズ」と聞いてピンとくる人がいると思いますが、この日は亡くなった田中好子さんの一周忌だったのす。
元キャンディーズで女優の田中好子さんは、2011年4月21日に55歳という若さで亡くなられました。メディアで彼女の最後のメッセージが流されましたね。覚えている人も多いと思いますが、その冒頭は東日本大震災の被災者の方を思いやる内容でした。自分の死を認識した上で残されたこの遺言に感動した人は多いと思ます。
2012年4月21日にFM放送で流れていたのは、その田中さんを追悼するための「キャンディーズ・ミックス」と称するコンピレーションでした。キャンディーズの主要な楽曲を1コーラスだけ集めて連続的に繋いだものです。私は聞きながら田中さんの最後のメッセージを思い出していました。
しかし今回は音楽の話です。「キャンディーズ・ミックス」のあと、田中さんのメッセージの記憶以外に強く感じたことがあります。なぜ私はキャンディーズの主要な楽曲のメロディーを、始めから最後まで忘れないで全部覚えているのだろう、それは何故なのか、という疑問です。
キャンディーズの不思議
キャンディーズ・ミックスに出てきた曲は、今から思い出すと、
・年下の男の子
・ハートのエースが出てこない
・春一番
・暑中お見舞い申し上げます
・微笑みがえし
などです。これ以外にもあったと思いますが、とにかくキャンディーズの代表曲・ヒット曲ばかりであることは確かです。なぜなら私が知っている曲ばかりだったからです。そして「キャンディーズ・ミックス」を聞いて認識したことは、
◆ | かなり昔の曲であるにもかかわらず(1775-78年。30年以上前の曲)覚えている | |
◆ | 出てきた全部の曲のメロディーを、始めから終わりまで忘れないでいる。 | |
◆ | 覚え間違いはなく、メロディーだけなら鼻歌で歌える。 |
という点でした。
「キャンディーズの主要な楽曲のメロディーを、始めから最後まで全部覚えているのはあたりまえ」という人は大勢いると思います。その代表格は自民党の石破茂衆議院議員でしょう。しかし私にとっては決してあたりまえではありません。私は「キャンディーズ・ファン」だったことはないし、意識的にキャンディーズの曲を聞いたということはありません。TVの歌番組にチャネルを合わせたということもない。
キャンディーズのヒット曲を知っているのは、あくまでTVやラジオ、街角で流れてきた曲が「それとなく」頭の中にインプットされたからと推測できます。曲がヒットしたのは今からすると30年以上前の事です。キャンディーズ解散以降も折りにふれて放送されたとはいえ、昔のことです。つまりこれらの曲は「かなり以前に、知らず知らずのうちに覚えてしまった曲」です。それにもかかわらず「メロディーを終わりまで覚えていて、忘れていない」という事実に、非常に不思議な感じを抱いたし、軽い驚きを覚えたわけです。なぜ忘れないのだろうかと・・・・・・。
メロディー・旋律の記憶
キャンディーズ・ミックスから一般的に推測できることがあります。
覚えやすいメロディーは、一度頭の中にインプットされると容易には忘れない。 |
ということです。私たちはそれを当然のことのように感じ、何の疑問もなく日々過ごしています。しかし、よくよく考えれば不思議だという感じがする。もちろん「覚えにくいメロディー」もあります。何回聞いても覚えられない曲がある。また、曲の一部だけが印象的で覚えやすいこともある。いわゆる「サビ」の部分ですね。
メロディーを忘れないのはキャンディーズのようなポップスだけではなく、クラシックの歌曲やオペラのアリアでも同じです。また歌だけでなく器楽曲の旋律もそうでしょう。以前にとりあげた例では、No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」の第1楽章の第1主題(譜例12)は、主題としては長いものですが(そしてかなり複雑な旋律ですが)、この曲が好きな人ははっきりと覚えているでしょう。一般にクラシックの交響曲の演奏時間は長いのですが「メロディー・ラインとして曲全体を記憶するのは十分可能」だと思います。ベートーベンの『運命』の演奏は30分以上かかりますが、全曲をハミングで歌えそうな気がする。シューベルトの『未完成』もそうです。もちろん「オーケストラ」で演奏される「和声音楽」であり、かつ「ポリフォニー」なので旋律として追いにくいところはありますが・・・・・・。プロの指揮者や演奏家なら楽譜の1音1音まで記憶していて当然でしょうが、アマチュアの音楽愛好家でも旋律・メロディーとしてなら、かなり長い曲でも記憶できると思うのです。
この「メロディーの記憶」はあくまで「メロディーという音符の連鎖の記憶」であって、題名とメロディーを関連づけて記憶することはまた別です。よく知っているはずの曲であっても、曲の題名からメロディーを思い出せないことがありますね。歌い出しが分かってしまうとメロディーがどんどん思い出される。逆に、TV放送やラジオや街角で器楽曲が流れてきても題名が思い出せないこともよくあります。人間にとって言葉の記憶とは別に「音符の連鎖」を記憶する独自のメカニズムがあると感じられます。
詞・文章は忘れやすい
メロディーに比べると歌詞は忘れやすい。「キャンディーズ・ミックス」の曲を例にとると、『微笑がえし』で覚えていたのは「♪ お引っ越しのお祝い返しも済まないうちに・・・・・・」などの断片的なフレーズだけでした。
3.11 以降、テレビCMで『見上げてごらん夜の星を』が流されました(サントリーのCM)。この曲を聞くのは何10年ぶりかのはずなのにメロディーは忘れてはいなかった。それに比べ、歌詞の全部は覚えてはいませんでした。
カラオケ機器は、メロディーと歌詞の覚え易さの差の上に成り立っています。メロディーも歌詞と同じ程度に覚えにくいのなら、画面に楽譜を出す必要があります。しかしそうはなっていない。カラオケ産業はメロディーと歌詞の記憶の差によりかかって成立しています。
歌手の中にはコンサートで「みんなで歌おう」というコーナーをやる人がいますね。そのとき歌手が歌詞をフレーズごとに先行してレクチャーしたりします。カラオケと同じ状況を人間系で実現しているわけです。
メロディーとは無関係に存在している詩・文章などの「言葉」は、歌詞よりももっと忘れやすいのではないでしょうか。我々がよく記憶していて、いつでも引っ張り出せる「言葉」は、有名なことわざ・俳句・短歌のたぐいであり、比較的短いものです。唱えるのに分単位の時間がかかる長い文章を記憶している例は、あまり思いつきません。中学・高校の頃は日本国憲法前文を暗唱できたはずなのに、今はとてもできない。忘れてしまっているのです。
メロディーと一緒に記憶している言葉(=歌詞)は、まだ覚えているものが多いが(特に好きなアーティストの楽曲)、メロディーと無関係に比較的長めの文を覚えているというのはあまりない。ひょっとしたら歌の起源は、長い、まとまった言葉を、歌詞として覚える手段なのかもしれません。
「名曲」の条件
覚えやすいメロディーは、一度頭の中にインプットされると容易には忘れない・・・・・・。このことから類推できることがあります。それは「ヒット曲」さらには「名曲」と言われる曲の条件です。「名曲」の条件は、
印象的なメロディー・主題・旋律をもっていること |
です。それは十分条件ではないが、必要条件です。これはクラシックでもポピュラー音楽でもロックでも変わらない。「ヒット曲」が誕生し、さらには「名曲」と呼ばれるまでには以下のようなプロセスがあるはずです。
◆ | その曲を1回聞いただけ、ないしはせいぜい2~3回聞いただけで、人の印象に強く残る。 | |
◆ | 人の印象に残った結果、噂やクチコミやメディアによって聴く人が雪だるま式に増大し、広く人々の記憶にインプットされていく。 | |
◆ | さらに一時のヒットだけでなく、時間を超えて多くのアーティストによって歌い継がれ、演奏される。 | |
◆ | 多くの人が曲の一部を聞いて、あの曲だとか、どこかで聞いた曲だと思える。 |
といったプロセスです。このプロセスで最大のポイントとなるのが、記憶に残る「印象的な主題・旋律」です。catchy という英語がありますね。日本語にもなっています。「人の心を捕らえる」とう意味で、a catchy song と言うと「覚えやすい歌」です。この catchy の最重要ファクターは主題・旋律でしょう。
従って作曲家の最低限の条件は「印象的なメロディー・主題・旋律」を作る能力です。この能力を「主題力」と呼ぶことにします。ポップスの曲のヒットは「サビ」が印象的かどうかに大きく左右されます。つまり作曲家の「主題力」いかんです。現代のポップスの作曲家は「サビ」を作ることに日夜励んでいて「サビ」のストックをもっているはずです。作曲のときには、まずそのストックの中から新曲に適切なものがないか探すでしょう。
「主題力」はクラシックの曲のように長い曲の場合にも重要です。第1楽章だけで20分かかるような曲はザラにありますよね。この程度の長さになると曲の「構成」が重要です。たとえば第1主題から第3主題まで3つの主題があり、それが変形されて展開され、また3つの主題が順に舞い戻るとします。聴く人にとって重要なのは、どれが3つの主題なのか明瞭に分かることです。また変形されたのなら変形されたと理解できることです。そして主題が再現されたらそのことがすぐに分かる。つまり主題が印象的であることこそが、20分もの長い曲の構成を支える重要なポイントです。これがないとダラダラと続く(ように聞こえる)面白くも何ともない曲になってしまう。
ポップスの世界で「主題力」が最もある作曲家の一人は桑田佳祐さんです。『いとしのエリー』(1979)からはじまって現在まで、30年以上に渡って「主題力」を発揮している。2~3曲はいい曲を書いたがそれだけとか、3~5年間は素晴らしい曲を書いたが以降はダメで惰性で曲を作っているような作曲家、ないしはシンガー・ソングライターがいますよね。それに比べれば大したものだと思います。
クラシック音楽におけるベートーベンの人気も、結局のところ「主題力」だと思います。ベートーベンの曲は「緻密な構成力」や「盛り込まれた思想性」や「にじみ出る人生観」などばかりが強調されます。それはそれで正しいかもしれませんが、交響曲や弦楽四重奏曲やピアノソナタを聴いてまず感じるのは、魅力的で印象的な主題・旋律・パッセージ・動機・音型に溢れていることなのですね。とにかくその点の印象が強い。
音楽の不思議
「覚えやすいメロディー」は一度頭の中にインプットされると容易には忘れない・・・・・・。これはなぜそうなのかが非常に不思議だと思っています。音楽の不思議の最大のものでしょう。というのも、メロディーのベースとなっている「音階」や「和音」は極めて「人工的で数学的な創造物」だからです。
 人工的・数学的創造物  |
現在、音楽に使われるのは西洋で18世紀以降に発達した「12平均律」(単に平均律)ですが、これは15世紀以降の「純正律」の発展形です。ド(C)の周波数を1すると以下の表のようになります。
 長音階における周波数比(ドを1)  (差異は純正律からみた平均律の差異の割合) |
音名 | 純正律 | 平均律 | 差異 | |
ド | 1 | 1.0000 | 1.0000 | 0.00% |
ド# | 16/15 | 1.0667 | 1.0595 | ▲0.68% |
レ | 9/8 | 1.1250 | 1.1225 | ▲0.23% |
レ# | 6/5 | 1.2000 | 1.1892 | ▲0.91% |
ミ | 5/4 | 1.2500 | 1.2599 | 0.79% |
ファ | 4/3 | 1.3333 | 1.3348 | 0.11% |
ファ# | 7/5 | 1.4000 | 1.4142 | 1.02% |
ソ | 3/2 | 1.5000 | 1.4983 | ▲0.11% |
ソ# | 8/5 | 1.6000 | 1.5874 | ▲0.79% |
ラ | 5/3 | 1.6667 | 1.6818 | 0.90% |
ラ# | 16/9 | 1.7778 | 1.7818 | 0.23% |
シ | 15/8 | 1.8750 | 1.8877 | 0.69% |
ド | 2 | 2.0000 | 2.0000 | 0.00% |
純正律の長音階(ドレミファソラシド)の「ド」に対するの周波数の比率は、素数である2・3・5を使った出来るだけ単純な組み合わせの分数(1より大きく2より小さい値)で成り立っています。また平均律は、オクターブを12の半音の列とし、半音と半音の間の周波数の比が2の12乗根であるように作られています。平均律のピッチの決め方は非常に数学的というか、数学そのものです。
音の周波数の比が単純な整数に近い2音は響きがよいことが昔から知られていました。これが純正律の原理ですが、そう単純に割り切れないこともある。ド(C)を基底音とする4つの三和音の周波数比が下表です。
|
和音の基本は長三和音(C)と短三和音(Cm)であり、減三和音(Cdim)と増三和音(Caug)は不協和音とされています(現代の音楽では不協和的な効果を狙って使われる)。確かに Caug の周波数比は大きな数字が並んでいて「単純な整数比」とは言えません。しかしその一方で Cdim の周波数比は Cm よりもシンプルです。なぜ短三和音(Cm)が「協和的に」聞こえ、よりシンプルな減三和音(Cdim)が「不協和的に」聞こえるのか・・・・・・。単純ではありません。
現在の音楽に使われている平均律にしても、表に掲げたように純正律からすると微妙にずれています。この程度の差は人間の耳には大して関係ないということなのか、それとも微妙にずれていることがかえって音楽の魅力を生むのか・・・・・・。どちらもありうると思います。ヴァイオリン奏者はヴィブラートをかけて音のピッチを「細かく揺らす」ことをしますね。周波数がピタッと整数倍に合っている和音は、響きは純粋だが「面白み」がないのかもしれません。微妙な「揺らぎ」や「ズレ」や「かすかな違和感」や「どこかちょっと違う感じ」があった方が、かえって美しさを増加させることが芸術の世界ではよくあります。
音階や和音は極めて人工的で数学的な創造物です。そもそもオクターヴ(周波数が2倍)の間に12の音がある理由は、古代ギリシャの数学者・ピタゴラスが決めた「ピタゴラス音律」からきているわけです。ピタゴラス音律の決め方は2と3という素数からなっています。つまりド(C)の音の周波数を3倍し2で割ると(1.5倍すると)ソ(G)の音になる。以下、順に周波数を1.5倍し、それが2を超えると2で割るという操作を繰り返していくと
C → G → D → A → E → B → F# → C# → G# → D# → A# → F
という12の音列が得られます(英語音名で表記)。最後の F にもう一度この操作をすると、結果は C に対する周波数の比が
となって出発点と極めて近くなります。そこで上記操作の最後の F の音、
F
を、純正律の F の音である 1.3333 で置き換えてしまい、1.5倍するとちょうど2になるようにすると、
F → C(元に戻る)
となって、12の音からなる「音の輪」が完成します。これが12音の起源です。この音律の作り方だと F を少し下げるため A# と F の間隔が狭くなりますが、それはやむをえません。3の累乗が2の累乗に等しくなることはないので、どこかに「しわ寄せ」がくるのは必然です。
ともかくオクターヴがなぜ12音かというと、3の12乗が最も2の累乗に近くなるからというのがその答えなのです。ちなみに「音の輪」の最後の F から始まって
F → C → G → D → A → E → B
と音をとり、これを音の高さで並べ替えると
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ(・ド)
となって長調の音階になります。また「輪」の最初の C から始まって
C → G → D → A → E
と5つの音をとり、音の高さで並べ替えると、ド・レ・ミ・ソ・ラ(・ド)という、いわゆる5音音階になります。これは日本を含む世界中に古来からありますね。『あかとんぼ』『蛍の光』『アメージング・グレース』『結婚しようよ(吉田拓郎)』というわけです。ドボルザークの『新世界』の第1楽章の主題や第2楽章の「家路」の前半部もそうです。
 音楽は相当する自然物がない芸術  |
音階や和音は極めて人工的で数学的な創造物、ということを別の視点から見ると、
音楽は、相当する自然物ないしは、類似する非人工物がない芸術(あるいは文化)である。 |
と言えます。
絵画の発祥は明らかに自然の模倣です。石器時代の洞窟画がそうだし、人物画も風景画も自然や現実を写し取るところから始まっています。宗教画で天国を描いたとしても、それは現実世界のある断面や部分の模倣としての想像世界であるわけです。彫刻、写真、映画も現実を写すところから始まっています。文学もノンフィクションとフィクションの違いはありますが、現実ないしは想像力で作った模擬現実の記述が原点です。もちろん抽象画や抽象彫刻はありますが、それらは暗黙に具象絵画や具象彫刻との対立項だから価値があるのだと思います。
これらと比較して、音楽はそれに相当する自然や非人工物がありません。鳥のさえずりが音楽に聞こえるといっても「音声」であることは確かですが、音階や和声に基づく「音楽」とはレベルが全く違います。滝の音、木の葉のざわめき、波しぶき、雨だれ、川のせせらぎ、風のうなり声・・・・・・。自然界は「音」に満ち溢れているけれど、それらは「音楽」と言うにはかなり異質なものです。「自然の奏でる音楽に包まれて・・・・・・」というような文章は比喩であって「自然の音に包まれて」が正しい。
 人間が本質的にもつ感性と共鳴する  |
音楽は、相当する自然物ないしは、類似する非人工物がない存在です。しかしそれにもかわらず、人間の感性と奇妙に共鳴し、シンクロしています。覚えやすいメロディーが人間の脳裏に刻み込まれ容易には忘れないことは、人間の感性と音楽の相性の良さを暗示しています。
長調と短調があります。ないしは長三和音と短三和音がある。長調が「喜びや外向的雰囲気」を表すのに対し、短調は「悲しみや内向的雰囲気」を表す。別にそういうルールがあるわけでも何でもないが、楽曲を聴く人は皆そう思うわけです。長調の曲を「暗い」と感じ、短調の曲を「明るい」と感じる人はまずいない。長調と短調に関する人間の感性も、音楽が人間が本質的に持つ「何か」と関係している現れだと思います。
また、天才肌の音楽家の幼少時のエピソードにありますよね。3歳の頃、彼(ないしは彼女)にトイピアノを与えたところ、何時間もそれを弾き続け、さらには曲を作ろうとしていたというような・・・・・・。もちろん全ての音楽家がそうではありませんが「3歳でトイピアノで作曲のまねごと」というのも、考えてみれば非常に不思議だと思います。幼少の子に与えられたのは、1オクターヴ、プラスアルファの数の白鍵・黒鍵の列であり、数学的に12種の周波数が決まっている楽器です。それが3歳児の感性とシンクロする・・・・・・。
音楽は人間の脳の働きの根幹にかかわる何かと深い関係があるのだと思います。
時間アートとしての音楽
「人間の脳の働きの根幹にかかわる何か」とはどういうものか。私はそれは人間が言葉をしゃべる脳の働きと関係しているのだと思っています。
単語をつないで一つのまとまった話を人間がしゃべるといことは、時間をまたがる連続的創造行為です。「今日の」という言葉を発すると、その次に続く言葉は何百種類かが考えられ、その中から例えば「予定は」というように言葉が選択されて、それが次々と続きます。「今日の」→「右足は」となることはまずない(しかし状況によっては、あり得ないことはない)。どういう言葉が次々と選択されるか、選択されないかはシチュエーションによります。聴く人も次に続く言葉を無意識下で予感し、話者が選択する言葉を聴き、その繰り返しで文脈を把握していく。
素晴らしい文章を書く作家やエッセイストの本を読むと、言葉と言葉のつながりが極めて自然でなめらかであると同時に、要所要所に軽い違和感を覚えるような「言葉のつながりの飛躍」が挟みこまれます。この軽いジャンプ感が文章を引き締め、生き生きと躍動させる。良い文章は「想定通り」と「想定通りではない」という二つの「はざま」にあります。
この「言葉をしゃべる」「言葉を聞く」プロセスと、「音楽を奏でる・歌う」「音楽を聴く」プロセスは酷似していると思うのです。言葉における言語・文法に相当するのは、音階・和声・リズムなどの約束ごとです。この約束ごとをベースに、次々と音符が奏でられ(歌われ)、時間をまたがって繋がっていく。我々が音楽を聞く時には、次にどういう展開があるかという暗黙の想定をしながら聴いています。そしてハッとする展開にぶつかったときに、印象が残る。
No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」において、
音楽は時間芸術です。音楽を聞くとき私たちは、これから来るであろう音をなんとなく予感し、また過ぎ去った音を回顧しつつ、その瞬間・瞬間に耳を傾けています。この連続型が「聴く」という行為です。 |
◆ | 過ぎ去った「音」の記憶 | |
◆ | 今の瞬間の「音」の受容 | |
◆ | これからの「音」の予感 |
これら三つを一体的に把握し、時間をまたがって理解が進むのが「言葉」と「音楽」です。
言葉を聞く行為と音楽を聴く行為は類似しています。であれば、音楽を聴く能力は人間の言語能力の獲得と関わっているという推定も成り立ちます。それは果たして正しいでしょうか。
ともかく、人工物である音楽が人間の感性と非常に親和的であること、それが音楽の不思議さです。その不思議さを人々は深層心理で感じているのだと思います。だからこそ、それを知りたいと思うし、熱狂するし、のめり込んだりもする。人間は不思議さを秘めたものに惹かれます。音楽がこれほど身近にあり、現代における一大産業を形成していて、確固とした芸術のジャンルにもなっている理由がそこにあると思います。
 補記:音楽と人間の知的活動  |
音楽が人間の精神活動に深く関わっているのでは、という意見を紹介します。理系の科学者の方の発言(コラム記事)です。
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No.44 - リスト:ユグノー教徒の回想 [音楽]
No.8「リスト:ノルマの回想」では、ベッリーニのオペラ「ノルマ」の旋律にもとづいて、フランツ・リスト(1811-1886)が作曲したピアノ曲『ノルマの回想』(1836)を紹介しました。今回は、それと同じ年に書かれた同一趣向の曲を取り上げます。
『ユグノー教 徒の回想』(1836)は、マイヤーベーア(1791-1864)のオペラ「ユグノー教徒」(1836年・パリのオペラ座で初演)の中の旋律にもとづいて、リストが自由に作曲・構成したピアノ曲です。1836年ということは、オペラ発表の年と同年に書かれたということになります。原題は「マイヤーベーアのオペラ・ユグノー教徒の主題による大幻想曲」ですが、『ユグノー教徒の回想』という通称(リストが自筆原稿にそう書いているそうです)が分かりやすいので、それで通します。掲載したCDジャケットの写真は、この曲が収録されているNAXOS版のリスト・ピアノ音楽全集の第1巻です。
このリストの曲も、そのもとになったオペラも、『ノルマの回想』に比べるとずっとマイナーな感じですが、リストの曲が好きな人は多いと思うので取り上げる意味はあるでしょう。まず、マイヤーベーアのオペラ『ユグノー教徒』についてです。
サン・バルテルミの虐殺
このオペラの背景となっているのは「サン・バルテルミの虐殺」と言われるフランス史の事件、いやヨーロッパの歴史上の大事件です。英語読みで「聖バーソロミューの虐殺」とも呼ばれます。バルテルミ(=バルトロマイ、バーソロミュー)はイエスの弟子の一人です。
マルチン・ルターの宗教改革は、ヨーロッパ各地にプロテスタントを生み出しました。フランスにおいてプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ、1560年ころからは、カトリックとプロテスタントの内乱があちこちで起こっていました。
1572年の8月24日、サン・バルテルミの祝日の日、国王・シャルル9世の命で宮廷のプロテスタントの貴族多数が殺害され、パリ市内でもプロテスタントの市民多数が殺される事態が発生しました。虐殺はパリを越えて地方にも広まり、犠牲者総数は数万と言われています。これが「サン・バルテルミの虐殺」です。その後も旧教徒と新教徒の争いは続き、ユグノー戦争と呼ばれています。この戦争に一応の収拾をつけたのは、新教徒に一定の権利を認めたナントの勅令(1594)です。
ユグノーとは、カルヴァン主義のプロテスタントをフランスで呼んだ呼称です。No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で触れたように「プロテスタント、とりわけカルヴァン派の教義が作り出した生活態度が、資本主義への決定的なドライブを生んだ」という説があります。この説の妥当性はともかく、西洋近代社会の資本主義を発達させたのがプロテスタントであることは、事実としてあるわけです。しかしそうなるまでには「サン・バルテルミの虐殺」のような事件があったわけで、西洋近代社会も「血みどろ」で作り上げられたということが分かります。
『ユグノー教徒』のあらすじ
このオペラは、サン・バルテルミの虐殺に至るカトリックとプロテスタントの確執を背景とし、虐殺が開始された夜で終わります。ストーリーを一言で言ってしまうと、
という内容です。その意味ではベッリーニの「ノルマ」と同じだし、この手の話は「ロミオとジュリエット」をはじめ、ヤマのようにあるわけです。オペラの王道の一つだと思います。「ユグノー教徒」の場合、敵対する陣営とは、もちろん新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)です。
主要な登場人物は6人です。この6人は新教徒と旧教徒に別れていて、旧教徒にも「新教徒に融和的な人物」と「新教徒に敵対的な人物」があります。以降の固有名詞はフランス語読みです。
◆新教徒(ユグノー教徒)
・ラウル(騎士)
・マルセル
(ラウルに長年付き添う老僕)
◆旧教徒(カトリック教徒)
●新教徒に融和的
・マルグリット
(国王・シャルル9世の妹)
・ヌヴェール伯爵
(国王の臣下の一人)
・ヴァランティーヌ
(サン=ブリ伯爵の娘)
●新教徒に敵対的
・サン=ブリ伯爵
(国王の臣下の一人)
他の登場人物もいろいろありますが、割愛します。
舞台は16世紀のフランスです。序曲が終わると、国王の臣下である旧教徒の貴族たちがヌヴェール伯爵に招かれて、伯爵の城の広間で宴を開催しています。新教徒との融和を目指すヌヴェールは、この場にユグノー教徒のラウルを招いていることを告げます。一同は驚きますが、ヌヴェールは余興と紹介をかねて、自分の恋を歌にして歌ってみるようにラウルに依頼します。ラウルは自分が通りがかりに暴漢から救った女性に、密かに恋心を募らせていることを歌います。
宴の途中、ヌヴェールに美しい女性の訪問客が来ていることが告げられました。ヌヴェールが一時退席したあと、一同はその女性を盗み見ますが、誰だか分かりません。ところがラウルは分かりました。今しがた歌ったばかりの思いを寄せる女性だったからです。一同は「ヌヴェールの愛人に恋をした」と、ラウルを笑い者にします。実はこの女性(ヴァランティーヌ)はヌヴェールとの婚約を解消したいとの申し出をしに来たのでした。これを知らないラウルは、絶望感にとらわれます。
ヌヴェールが広間に戻ったあと、ラウルにある人からの手紙がきます。夕刻、来て欲しいとの内容です。貴族たちはその手紙の紋章と署名から、国王の妹であるマルグリット本人からの手紙だと分かりました。貴族たちはラウルへの態度を改め、出ていくラウルを見送ります。
国王・シャルル9世の妹であるマルグリットは、旧教と新教の融和を図ろうとしていて、自身も、新教徒であるナヴァール王・アンリと結婚する予定です。ナヴァールは、スペインに近い、現在のフランス領バスク地方の小国で、当時は独立国でした。
マルグリットは、国王の臣下のサン=ブリ伯爵の娘・ヴァランティーヌが新教徒のラウルを慕っていることを知り、融和策の一環としてヴァランティーヌとラウルを結婚させようとしています。そのために、ヌヴェール伯爵との婚約解消の申し出をヴァランティーヌにさせたのでした。
マルグリットは手紙を出して城に招いたラウルに、サン=ブリ伯爵の娘との結婚を提案し、ラウルもそれを承諾します。そしてマルグリットはサン=ブリ、ヌヴェールを含む貴族たちを城に招き、新教徒との和解を誓わせます。
しかし、その場で初めて紹介されたヴァランティーヌを見たラウルは「ヌヴェールの愛人をあてがわれた」と勘違いし、結婚を断固拒否してしまいます。一同はこれに驚き、特にサン=ブリとヌヴェールは激しい侮辱だと激高して剣を抜きます。ラウルも剣を抜き、一発触発の状況になりますが、この場はマルグリットがおさめます。「決闘だ」「この屈辱は血を要求する」という声が充満するなか、両者は別れます。ヴァランティーヌはラウルの拒絶の理由が分からず、悲嘆にくれます。
ラウルとの結婚が破談になったヴァランティーヌは、再びヌヴェールと結婚することになり、その結婚式が終わったところです。ラウルの老僕のマルセルが、礼拝堂から出てきた父親のサン=ブリに近づき、手紙を渡します。ラウルからの決闘状です。しかしサン=ブリは、ラウルを闇討ちにする計画を立てます。この計画を知ったヴァランティーヌは、マルセルに陰謀の計画を伝えます。
その夜の決闘の時刻、ラウルとサン=ブリが現れます。陰謀を知っているマルセルが「裏切りだ」と叫ぶと、周りにいた両派の兵士たちの乱闘になりますが、そこを通りかかったマルグリットが、この戦いをやめさせます。
両派は互いに相手の陰謀だと主張しますが、マルセルは「証人はあの人だ」とヴァランティーヌを指します。ラウルは、ヌヴェール伯爵の愛人のはずのヴァランティーヌが自分を救おうとしたことが信じられません。そこでマルグリットは、ヴァランティーヌがヌヴェールの城館を訪れたのは、ヌヴェールとの婚約を解消するためだったことを明かします。
誤解は解けたのですが、時すでに遅く、ヌヴェールは婚礼のあとの披露宴にヴァランティーヌを連れていきました。ラウルは絶望感に打ちひしがれ、再びと戦う決意を固めます。
ヌヴェールの館です。結婚したヴァランティーヌはラウルへの思いが捨てきれず、嘆いています。そこにラウルが忍び込んできて、ヴァランティーヌに別れを告げます。そのとき、サン=ブリ、ヌヴェール、貴族たちが入ってきました。ラウルはタピストリーの後ろに隠れます。
サン=ブリは、国王が新教徒の虐殺を命じたことを話します。ヌヴェールは不意討ちに反対しますが、一同の心は変え難く、夜の一斉襲撃が決まります。マルグリットとナヴァール王の結婚を祝賀して新教徒が集まる宴に乱入するなど、種々の計画が話し合われ、散会します。
ラウルは計画を全部聞いてしまいました。すぐさま新教徒たちに伝えるべく、出て行こうとします。しかしラウルの身が心配なヴァランティーヌは、行かないでくれと懇願し、ラウルを愛していると告白します。ラウルはその言葉に一瞬たじろぎますが、時間が迫っていることを思い、ヴァランティーヌを振り切って去ります。
第1場
新教徒の貴族の館で、ナヴァール王とマルグリットの結婚を祝した宴が開かれていて、新教徒の主要人物が集まっています。ナヴァール王とマルグリットもいます。そこに飛び込んできたラウルは、旧教徒の虐殺が始まっていることを告げ、武器を取ろうと呼びかけます。
第2場
夜、虐殺が続いています。新教徒の教会の裏手の墓地で、傷ついたマルセルがラウルと落ち会います。そこにヴァランティーヌが現れます。ヴァランティーヌはラウルに、カトリックに改宗すれば命は助かる、この白いスカーフを腕に巻けばパリを脱出してルーブルまで行ける、と説得しますが、ラウルは断固拒否します。ヴァランティーヌの夫のヌヴェールは、ユグノー教徒不意打ち計画に反対したため、殺されてしまいました。意を決したヴァランティーヌは、マルセルを証人に、その場でユグノーに改宗し、ラウルと永遠の愛を近います。その時、旧教徒の兵士が乱入してきました。
第3場
兵士とともに、サン=ブリもいます。兵士は3人を追いつめ、サン=ブリは「誰だ」と詰問します。ラウルは「ユグノーだ」とだけ答え、そのため3人は撃たれてしまいました。サン=ブリは、その中に自分の娘を発見して愕然とします。ヴァランティーヌは「あなた方のために祈ります」と言い残して、こときれました。
何となく、救いようのない結末です。純粋に生きようとするものは意味もなく殺されてしまうし、敵対するもの同士を融和させようとする努力は、全てが無に帰してしまいます。何らかの「希望」が示されるわけでもない。「サン・バルテルミの虐殺」を題材にオペラを作る限り、このストーリーはやむをえないでしょう。考えてみると「救いようのないストーリー」のオペラは、ヴェルディも書いています(イル・トラバトーレ、など)。これだけではありません。
このオペラは基本的に、殺される側の新教徒(ユグノー)に「肩入れ」しているように見えます。舞台が始まる前の序曲からして、ルター派の讃美歌が主題になっているのです。しかし全面的に新教徒の「肩をもっている」わけではない。ラウルの描き方がそうです。純粋だが一本調子で、単純で深く考えず、猪突猛進する人間に描かれている。そもそも悲劇につながるトリガーを引いたのは、ラウルの誤解、ないしは早とちりだったわけです。ラウルの従僕であるマルセルも、いかなる妥協も頭から拒否する「原理主義者」に描かれる。
一方の旧教徒ですが、不意打ちで虐殺をするような「騎士道精神のかけらもない悪辣な人間」ばかりかというと、そうでもない。マルグリットのように、両派の融和に奔走する人もいれば、ヌヴェールのように「不意打ち」という汚いやり方に反対して仲間に殺されてしまう貴族もいる。
作曲したマイヤーベーアはドイツ出身のユダヤ人です。サン・バルテルミの虐殺という「プロテスタントの殉教」を題材にしてはいるが、両派を公平に見ている感じもある。考えてみると、プロテスタントもカトリックも、19世紀という時点で、この題材でオペラを作るのは「生々し過ぎて」とてもできないのではないか。特にフランス人には絶対にできないのではないか。マイヤーベーアだからできたと考えられます。
このオペラはフィクションですが、サン・バルテルミの虐殺以外にも、数々の歴史的事実を踏まえています。マルグリットは実在の国王の妹だし、舞台には登場しませんが、カトリーヌ・ド・メディシス(国王の母。虐殺の発端を作ったとされる)、ナヴァール王・アンリ(後のフランス国王、アンリ4世)、コリニー提督(新教派の指導者)などの実在の人物が台詞に出てきます。また、旧教と新教の融和を図ろうという動きがあったことも事実だし、マルグリットとナヴァール王の結婚式が行われたのは、虐殺の日の1週間前でした。
また、第1幕ではカトリックの貴族たちが宴会で「楽しく酔いしれていられるのは今のうち、今こそ人生を楽しむ時だ」と歌っているその時にラウルを紹介され、彼を見て「何という陰影な面持ち。これこそカルヴァンの教義の現れだ」と歌う場面があります。このあたりは旧教徒からみた新教徒像の一端が現れていると思いました。
リスト:ユグノー教徒の回想(1842年稿)
リスト作曲『ユグノー教徒の回想』です。NAXOS版リスト・ピアノ音楽全集・第1巻の解説によると、この曲は1836年に初稿が書かれ、1839年、1842年(最終稿)と改訂されています。当時、楽譜が出版されたのは初稿と最終稿だったので、最終稿は出版順から第2版と呼んだり、改訂順から第3版とも呼ぶようです。ややこしいので1842年稿とします。NAXOS版全集は1842年稿によっています。
曲を便宜的に第1部~第5部の5つの部分に分けます。以下に掲げる譜例は、リストのピアノ譜から旋律や動機の部分だけを抜き出したものです。
短い序奏のあと、譜例28「どこへ駆けていくのです?」が出てきます。これはオペラの第4幕で、サン=ブリ伯爵以下の貴族たちが新教徒虐殺計画を相談し、一団が散会したあと、ラウルとヴァランティーヌの2人だけになったシーンの最初に出てきます。虐殺計画を聞いてしまったラウルは新教徒たちに知らせるべく出て行こうとするのですが、ヴァランティーヌが「どこへ駆けていくのですか」と、それを止めようとするシーンです。
譜例28のあと、フォルテッシモでピアノが譜例29を演奏します。これはルター派の讃美歌「神は我が砦(とりで)」の旋律を変奏したものです。実は、マイヤーベーアのオペラ「ユグノー教徒」には「神は我が砦」の旋律がしばしば出てきます。そもそもこのオペラの序曲は「神は我が砦」が主題となって曲が構成されているし、その後もユグノー教徒を表す「ライトモティーフ」として随所に現れます。一つの代表的な例が、第1幕においてラウルの従僕のマルセルがヌヴェール伯爵の宴会で「ああ、気高いルター様」という歌うシーン(譜例30)です。
譜例29の後に出てくる譜例32「我が兄弟を救うのです」は、オペラの第4幕で譜例28の直後にオーケストラに出てくる旋律です。ヴァランティーヌ「どこへ行くのです?」(譜例28)→ラウル「我が兄弟を救うのです」(譜例32)というわけです。譜例32は譜例29の変形とも言えるでしょう。この主題は変奏が繰り返され、譜例28の音形とともに曲が進行してきます。
曲のムードが変わり、ゆっくりと譜例33「危険は迫り、時はどんどん流れていく」が演奏され、そのあとに譜例34「あなたは私の大切な人」が出てきます。この2つの旋律も「愛の告白シーン」の、譜例32のあとの部分です。オペラ「ユグノー教徒」では、譜例33、譜例34の後に、ヴァランティーヌがラウルに「愛している」と告白することになります。
『ユグノー教徒の回想』の第3部は、このピアノ曲の展開部にあたります。第1部で出てきた譜例32で始まり、さまざまな変奏が加えられます。「神は我が砦」の新たな変奏(譜例35)も出てきます。
再び曲はゆっくりになり、譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律になります。これは「愛の告白シーン」で、ヴァランティーヌがラウルへの愛を告白した直後にラウルが歌う場面の旋律です。美しいメロディーが大変に印象的で、6度を上昇する音の跳躍がポイントになっています(譜例36の、変ニ→変ロ)。オペラにおいてこの旋律はテノールとオーケストラの「かけ合い」で出てくるのですが、リストはそのかけ合いをピアノ1台で表現しています。この譜例36は『ユグノー教徒の回想』において、これ以降もたびたび現れることになります。
譜例36の後に出てくる副次的な旋律(譜例37「もっと話してほしい」)も、オペラで譜例36の後にラウルが歌う場面のものです。このあたりは、『ユグノー教徒の回想』の中でも大変に美しいところです。
『ユグノー教徒の回想』全体の終結部です。曲のムードはまた変わり、アレグロで譜例38が始まります。この旋律はオペラの第5幕の第2場・第3場で、旧教徒の男たちの合唱「改宗せよ、ユグノーども」として歌われるものです。第5幕はサン・バルテルミの虐殺の夜であって、第5幕の最終段階では、譜例38の旧教徒の合唱が舞台に充満し、そこに新教徒を表す「神は我が砦」が交錯することになります。
リストの『ユグノー教徒の回想』の終結部では、譜例38に「神は我が砦」の変奏が加わり、さらに譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律が絡まってきて、壮大なコーダを形成します。そしてこのピアノ曲の最後は、初めて現れる「神は我が砦」の完全な形(譜例39)で締めくくられます。
リストは何を「回想」をしたのか
今までの説明をまとめると、リストの『ユグノー教徒の回想』に出てくるオペラ「ユグノー教徒」の旋律は、次のように総括できます。
音楽からみた『ユグノー教徒の回想』の終わり方は、オペラ「ユグノー教徒」とは違います。オペラの最終場面では「神は我が砦」の旋律はかき消されてしまって「旧教徒の男たちの合唱」(譜例38)が大きく響き、そのまま終わります。これは歴史的事実がそのまま音楽に反映しています。しかしリストの『ユグノー教徒の回想』は、「神は我が砦」が最後に高らかに演奏されて(譜例39)終わるのです。まるで新教徒が勝利したような終わり方です。
ここからは全くの想像です。前にも書いたように、サン・バルテルミの虐殺を題材したオペラを作る限り、救いようのない終わり方になるのはやむをえません。そこでリストは、第4幕の「愛の告白シーン」の旋律を集中的に使って、
ということではないでしょうか。
オペラの旋律は、それが歌われる場面があり、歌詞が付帯しているので、ある種の「意味」を持ちます。オペラから旋律を選んで、それをモティーフにして曲を作るということは、どういう「意味」の旋律を選ぶかに作曲家の意図が現れると考えてもよいはずです。
マイヤーベーアのオペラ「ユグノー教徒」は、19世紀の当時のパリで大変人気のあった作品で、ロングランを続けたようです。リストはこのピアノ曲を何らかの演奏会で演奏したと思いますが、それを聞いた音楽愛好家の中には、オペラ「ユグノー教徒」を見た人も多かったはずです。リストの『ユグノー教徒の回想』が何をどのように回想しているのか、音楽愛好家ならすぐに分かったのではないでしょうか。
この曲が作られた経緯に関するエピソードです。リストは20歳代のとき、マリー・ダグー伯爵夫人(1805-1876)と恋に落ち、1833年-1839年(リストが22歳から28歳頃)は同棲生活を送ります。その間に3人の子供が生まれますが、次女のコジマは後のリヒャルト・ワーグナー夫人ですね。
『ユグノー教徒の回想』は、リストがダグー伯爵夫人と生活を共にしている、25歳の時の作品です。NAXOS版 リスト ピアノ曲全集・第1巻の解説によると、『ユグノー教徒の回想』は、リストがマリー・ダグー伯爵夫人に献呈した唯一の曲だそうです。20歳代のリストが、数年間情熱を傾けた6歳年上の伯爵夫人、その彼女に献呈した唯一の曲であることが、この曲の意味を端的に表しているのではと思います。
最後に蛇足ですが、『ユグノー教徒の回想』ではプロテスタントの創始者であるマルチン・ルター作の讃美歌(=神は我が砦)があちこちに登場し、最後にはそれが高らかに演奏されて「プロテスタント万歳」とでもいうような終わり方になっています。しかし、もちろんリストはカトリックです。カトリックのリストがこのような曲を作ったということは、憶えておくべきでしょう。
NAXOS版 リスト ピアノ曲全集 第1巻 「ユグノー教徒の回想」が収録されている ピアノ:アーナルド・コーエン |
このリストの曲も、そのもとになったオペラも、『ノルマの回想』に比べるとずっとマイナーな感じですが、リストの曲が好きな人は多いと思うので取り上げる意味はあるでしょう。まず、マイヤーベーアのオペラ『ユグノー教徒』についてです。
サン・バルテルミの虐殺
このオペラの背景となっているのは「サン・バルテルミの虐殺」と言われるフランス史の事件、いやヨーロッパの歴史上の大事件です。英語読みで「聖バーソロミューの虐殺」とも呼ばれます。バルテルミ(=バルトロマイ、バーソロミュー)はイエスの弟子の一人です。
マルチン・ルターの宗教改革は、ヨーロッパ各地にプロテスタントを生み出しました。フランスにおいてプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ、1560年ころからは、カトリックとプロテスタントの内乱があちこちで起こっていました。
1572年の8月24日、サン・バルテルミの祝日の日、国王・シャルル9世の命で宮廷のプロテスタントの貴族多数が殺害され、パリ市内でもプロテスタントの市民多数が殺される事態が発生しました。虐殺はパリを越えて地方にも広まり、犠牲者総数は数万と言われています。これが「サン・バルテルミの虐殺」です。その後も旧教徒と新教徒の争いは続き、ユグノー戦争と呼ばれています。この戦争に一応の収拾をつけたのは、新教徒に一定の権利を認めたナントの勅令(1594)です。
ユグノーとは、カルヴァン主義のプロテスタントをフランスで呼んだ呼称です。No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で触れたように「プロテスタント、とりわけカルヴァン派の教義が作り出した生活態度が、資本主義への決定的なドライブを生んだ」という説があります。この説の妥当性はともかく、西洋近代社会の資本主義を発達させたのがプロテスタントであることは、事実としてあるわけです。しかしそうなるまでには「サン・バルテルミの虐殺」のような事件があったわけで、西洋近代社会も「血みどろ」で作り上げられたということが分かります。
『ユグノー教徒』のあらすじ
このオペラは、サン・バルテルミの虐殺に至るカトリックとプロテスタントの確執を背景とし、虐殺が開始された夜で終わります。ストーリーを一言で言ってしまうと、
敵対する陣営に属する男(テノール)と女(ソプラノ)が、成就しにくい恋に落ち、最後は二人とも死ぬ |
という内容です。その意味ではベッリーニの「ノルマ」と同じだし、この手の話は「ロミオとジュリエット」をはじめ、ヤマのようにあるわけです。オペラの王道の一つだと思います。「ユグノー教徒」の場合、敵対する陣営とは、もちろん新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)です。
 登場人物  |
主要な登場人物は6人です。この6人は新教徒と旧教徒に別れていて、旧教徒にも「新教徒に融和的な人物」と「新教徒に敵対的な人物」があります。以降の固有名詞はフランス語読みです。
◆新教徒(ユグノー教徒)
・ラウル(騎士)
・マルセル
(ラウルに長年付き添う老僕)
◆旧教徒(カトリック教徒)
●新教徒に融和的
・マルグリット
(国王・シャルル9世の妹)
・ヌヴェール伯爵
(国王の臣下の一人)
・ヴァランティーヌ
(サン=ブリ伯爵の娘)
●新教徒に敵対的
・サン=ブリ伯爵
(国王の臣下の一人)
他の登場人物もいろいろありますが、割愛します。
 第1幕  |
舞台は16世紀のフランスです。序曲が終わると、国王の臣下である旧教徒の貴族たちがヌヴェール伯爵に招かれて、伯爵の城の広間で宴を開催しています。新教徒との融和を目指すヌヴェールは、この場にユグノー教徒のラウルを招いていることを告げます。一同は驚きますが、ヌヴェールは余興と紹介をかねて、自分の恋を歌にして歌ってみるようにラウルに依頼します。ラウルは自分が通りがかりに暴漢から救った女性に、密かに恋心を募らせていることを歌います。
宴の途中、ヌヴェールに美しい女性の訪問客が来ていることが告げられました。ヌヴェールが一時退席したあと、一同はその女性を盗み見ますが、誰だか分かりません。ところがラウルは分かりました。今しがた歌ったばかりの思いを寄せる女性だったからです。一同は「ヌヴェールの愛人に恋をした」と、ラウルを笑い者にします。実はこの女性(ヴァランティーヌ)はヌヴェールとの婚約を解消したいとの申し出をしに来たのでした。これを知らないラウルは、絶望感にとらわれます。
ヌヴェールが広間に戻ったあと、ラウルにある人からの手紙がきます。夕刻、来て欲しいとの内容です。貴族たちはその手紙の紋章と署名から、国王の妹であるマルグリット本人からの手紙だと分かりました。貴族たちはラウルへの態度を改め、出ていくラウルを見送ります。
 第2幕  |
国王・シャルル9世の妹であるマルグリットは、旧教と新教の融和を図ろうとしていて、自身も、新教徒であるナヴァール王・アンリと結婚する予定です。ナヴァールは、スペインに近い、現在のフランス領バスク地方の小国で、当時は独立国でした。
マルグリットは、国王の臣下のサン=ブリ伯爵の娘・ヴァランティーヌが新教徒のラウルを慕っていることを知り、融和策の一環としてヴァランティーヌとラウルを結婚させようとしています。そのために、ヌヴェール伯爵との婚約解消の申し出をヴァランティーヌにさせたのでした。
マルグリットは手紙を出して城に招いたラウルに、サン=ブリ伯爵の娘との結婚を提案し、ラウルもそれを承諾します。そしてマルグリットはサン=ブリ、ヌヴェールを含む貴族たちを城に招き、新教徒との和解を誓わせます。
しかし、その場で初めて紹介されたヴァランティーヌを見たラウルは「ヌヴェールの愛人をあてがわれた」と勘違いし、結婚を断固拒否してしまいます。一同はこれに驚き、特にサン=ブリとヌヴェールは激しい侮辱だと激高して剣を抜きます。ラウルも剣を抜き、一発触発の状況になりますが、この場はマルグリットがおさめます。「決闘だ」「この屈辱は血を要求する」という声が充満するなか、両者は別れます。ヴァランティーヌはラウルの拒絶の理由が分からず、悲嘆にくれます。
 第3幕  |
ラウルとの結婚が破談になったヴァランティーヌは、再びヌヴェールと結婚することになり、その結婚式が終わったところです。ラウルの老僕のマルセルが、礼拝堂から出てきた父親のサン=ブリに近づき、手紙を渡します。ラウルからの決闘状です。しかしサン=ブリは、ラウルを闇討ちにする計画を立てます。この計画を知ったヴァランティーヌは、マルセルに陰謀の計画を伝えます。
その夜の決闘の時刻、ラウルとサン=ブリが現れます。陰謀を知っているマルセルが「裏切りだ」と叫ぶと、周りにいた両派の兵士たちの乱闘になりますが、そこを通りかかったマルグリットが、この戦いをやめさせます。
両派は互いに相手の陰謀だと主張しますが、マルセルは「証人はあの人だ」とヴァランティーヌを指します。ラウルは、ヌヴェール伯爵の愛人のはずのヴァランティーヌが自分を救おうとしたことが信じられません。そこでマルグリットは、ヴァランティーヌがヌヴェールの城館を訪れたのは、ヌヴェールとの婚約を解消するためだったことを明かします。
誤解は解けたのですが、時すでに遅く、ヌヴェールは婚礼のあとの披露宴にヴァランティーヌを連れていきました。ラウルは絶望感に打ちひしがれ、再びと戦う決意を固めます。
 第4幕  |
ヌヴェールの館です。結婚したヴァランティーヌはラウルへの思いが捨てきれず、嘆いています。そこにラウルが忍び込んできて、ヴァランティーヌに別れを告げます。そのとき、サン=ブリ、ヌヴェール、貴族たちが入ってきました。ラウルはタピストリーの後ろに隠れます。
サン=ブリは、国王が新教徒の虐殺を命じたことを話します。ヌヴェールは不意討ちに反対しますが、一同の心は変え難く、夜の一斉襲撃が決まります。マルグリットとナヴァール王の結婚を祝賀して新教徒が集まる宴に乱入するなど、種々の計画が話し合われ、散会します。
ラウルは計画を全部聞いてしまいました。すぐさま新教徒たちに伝えるべく、出て行こうとします。しかしラウルの身が心配なヴァランティーヌは、行かないでくれと懇願し、ラウルを愛していると告白します。ラウルはその言葉に一瞬たじろぎますが、時間が迫っていることを思い、ヴァランティーヌを振り切って去ります。
 第5幕  |
ジョン・エヴァレット・ミレイ
「聖バーソロミューの祝日にローマン・カトリック教徒に装って身を守ることを拒絶するユグノー教徒」(1852, Makins Collection)(Sir John Everett Millais) (A Huguenot, on St. Bartholomew's Day Refusing to Shield Himself from Danger by Wearing the Roman Catholic Badge) イギリスの画家・ミレイ(1829-1896)の作品。長い題名を避けて、普通「聖バーソロミューの祝日のユグノー教徒」あるいは単に「ユグノー教徒」と呼ばれる。 この作品は、ミレイ自身がマイヤーベーアの「ユグノー教徒」を見て、そこからインスピレーションを得て描かれた(Wikipedia)。オペラの第5幕 第2場の墓地の場面を踏まえている。白いスカーフはカトリックのしるしである。女性は男性の腕にスカーフを巻き、男性はそれを取ろうとしている。画像はWikipediaから引用。 |
新教徒の貴族の館で、ナヴァール王とマルグリットの結婚を祝した宴が開かれていて、新教徒の主要人物が集まっています。ナヴァール王とマルグリットもいます。そこに飛び込んできたラウルは、旧教徒の虐殺が始まっていることを告げ、武器を取ろうと呼びかけます。
第2場
夜、虐殺が続いています。新教徒の教会の裏手の墓地で、傷ついたマルセルがラウルと落ち会います。そこにヴァランティーヌが現れます。ヴァランティーヌはラウルに、カトリックに改宗すれば命は助かる、この白いスカーフを腕に巻けばパリを脱出してルーブルまで行ける、と説得しますが、ラウルは断固拒否します。ヴァランティーヌの夫のヌヴェールは、ユグノー教徒不意打ち計画に反対したため、殺されてしまいました。意を決したヴァランティーヌは、マルセルを証人に、その場でユグノーに改宗し、ラウルと永遠の愛を近います。その時、旧教徒の兵士が乱入してきました。
第3場
兵士とともに、サン=ブリもいます。兵士は3人を追いつめ、サン=ブリは「誰だ」と詰問します。ラウルは「ユグノーだ」とだけ答え、そのため3人は撃たれてしまいました。サン=ブリは、その中に自分の娘を発見して愕然とします。ヴァランティーヌは「あなた方のために祈ります」と言い残して、こときれました。
何となく、救いようのない結末です。純粋に生きようとするものは意味もなく殺されてしまうし、敵対するもの同士を融和させようとする努力は、全てが無に帰してしまいます。何らかの「希望」が示されるわけでもない。「サン・バルテルミの虐殺」を題材にオペラを作る限り、このストーリーはやむをえないでしょう。考えてみると「救いようのないストーリー」のオペラは、ヴェルディも書いています(イル・トラバトーレ、など)。これだけではありません。
ジョン・エヴァレット・ミレイ
「お慈悲を! 聖バーソロミューの祝日、1572年」(1886,Tate gallery)(Mercy : St Bartholomew's Day, 1572) オペラ「ユグノー教徒」とは直接の関係はないが、ミレイはもう一つの作品を描いている。 登場人物は3人ともカトリック側である。男は剣を抜き、ユグノー派の殺戮に行こうとしている。腕に巻いた白い布と帽子の白い十字架はカトリックのしるしである。 修道女が「お慈悲を!」と訴えて止めようとしているが、男は修道女の十字架を踏みつけ、その腕を解こうとしている。男は明らかに目が据わっているのが分かる。一方、戸口の修道士は手招きをしていて、殺戮を促しているようである。 左下の花はトケイソウ(英語名:Passion Flower)である。この花はキリストの受難の象徴であるが、この絵ではプロテスタントの受難を表している。図版はテート・ギャラリーのホームページから引用した。 |
一方の旧教徒ですが、不意打ちで虐殺をするような「騎士道精神のかけらもない悪辣な人間」ばかりかというと、そうでもない。マルグリットのように、両派の融和に奔走する人もいれば、ヌヴェールのように「不意打ち」という汚いやり方に反対して仲間に殺されてしまう貴族もいる。
作曲したマイヤーベーアはドイツ出身のユダヤ人です。サン・バルテルミの虐殺という「プロテスタントの殉教」を題材にしてはいるが、両派を公平に見ている感じもある。考えてみると、プロテスタントもカトリックも、19世紀という時点で、この題材でオペラを作るのは「生々し過ぎて」とてもできないのではないか。特にフランス人には絶対にできないのではないか。マイヤーベーアだからできたと考えられます。
このオペラはフィクションですが、サン・バルテルミの虐殺以外にも、数々の歴史的事実を踏まえています。マルグリットは実在の国王の妹だし、舞台には登場しませんが、カトリーヌ・ド・メディシス(国王の母。虐殺の発端を作ったとされる)、ナヴァール王・アンリ(後のフランス国王、アンリ4世)、コリニー提督(新教派の指導者)などの実在の人物が台詞に出てきます。また、旧教と新教の融和を図ろうという動きがあったことも事実だし、マルグリットとナヴァール王の結婚式が行われたのは、虐殺の日の1週間前でした。
また、第1幕ではカトリックの貴族たちが宴会で「楽しく酔いしれていられるのは今のうち、今こそ人生を楽しむ時だ」と歌っているその時にラウルを紹介され、彼を見て「何という陰影な面持ち。これこそカルヴァンの教義の現れだ」と歌う場面があります。このあたりは旧教徒からみた新教徒像の一端が現れていると思いました。
リスト:ユグノー教徒の回想(1842年稿)
リスト作曲『ユグノー教徒の回想』です。NAXOS版リスト・ピアノ音楽全集・第1巻の解説によると、この曲は1836年に初稿が書かれ、1839年、1842年(最終稿)と改訂されています。当時、楽譜が出版されたのは初稿と最終稿だったので、最終稿は出版順から第2版と呼んだり、改訂順から第3版とも呼ぶようです。ややこしいので1842年稿とします。NAXOS版全集は1842年稿によっています。
曲を便宜的に第1部~第5部の5つの部分に分けます。以下に掲げる譜例は、リストのピアノ譜から旋律や動機の部分だけを抜き出したものです。
 第1部:Largo - Allegro molto  |
短い序奏のあと、譜例28「どこへ駆けていくのです?」が出てきます。これはオペラの第4幕で、サン=ブリ伯爵以下の貴族たちが新教徒虐殺計画を相談し、一団が散会したあと、ラウルとヴァランティーヌの2人だけになったシーンの最初に出てきます。虐殺計画を聞いてしまったラウルは新教徒たちに知らせるべく出て行こうとするのですが、ヴァランティーヌが「どこへ駆けていくのですか」と、それを止めようとするシーンです。
オペラ「ユグノー教徒」は、第4幕においてオーケストラが譜例28を演奏するところから、サン・ジェルマン教会の鐘(虐殺開始の合図)が鳴るまでの約10分間が最大の聞きどころであり、聞かせどころ(特にテノール)です。この部分を「愛の告白シーン」と呼んでおきます。とにかく、音楽として大変に素晴らしい部分で、このシーンだけもこのオペラを鑑賞する価値があります。 |
譜例28のあと、フォルテッシモでピアノが譜例29を演奏します。これはルター派の讃美歌「神は我が砦(とりで)」の旋律を変奏したものです。実は、マイヤーベーアのオペラ「ユグノー教徒」には「神は我が砦」の旋律がしばしば出てきます。そもそもこのオペラの序曲は「神は我が砦」が主題となって曲が構成されているし、その後もユグノー教徒を表す「ライトモティーフ」として随所に現れます。一つの代表的な例が、第1幕においてラウルの従僕のマルセルがヌヴェール伯爵の宴会で「ああ、気高いルター様」という歌うシーン(譜例30)です。
この讃美歌はマルチン・ルター本人の作と言われています。日本では「神は我が堅き砦」「神は我がやぐら」などとも訳されています。ちなみにメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」の第4楽章も、この讃美歌で始まります(譜例31)。 |
譜例29の後に出てくる譜例32「我が兄弟を救うのです」は、オペラの第4幕で譜例28の直後にオーケストラに出てくる旋律です。ヴァランティーヌ「どこへ行くのです?」(譜例28)→ラウル「我が兄弟を救うのです」(譜例32)というわけです。譜例32は譜例29の変形とも言えるでしょう。この主題は変奏が繰り返され、譜例28の音形とともに曲が進行してきます。
 第2部:Andantino con sentimento  |
曲のムードが変わり、ゆっくりと譜例33「危険は迫り、時はどんどん流れていく」が演奏され、そのあとに譜例34「あなたは私の大切な人」が出てきます。この2つの旋律も「愛の告白シーン」の、譜例32のあとの部分です。オペラ「ユグノー教徒」では、譜例33、譜例34の後に、ヴァランティーヌがラウルに「愛している」と告白することになります。
 第3部:Allegro quasi presto  |
『ユグノー教徒の回想』の第3部は、このピアノ曲の展開部にあたります。第1部で出てきた譜例32で始まり、さまざまな変奏が加えられます。「神は我が砦」の新たな変奏(譜例35)も出てきます。
 第4部:Adagio amoroso  |
再び曲はゆっくりになり、譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律になります。これは「愛の告白シーン」で、ヴァランティーヌがラウルへの愛を告白した直後にラウルが歌う場面の旋律です。美しいメロディーが大変に印象的で、6度を上昇する音の跳躍がポイントになっています(譜例36の、変ニ→変ロ)。オペラにおいてこの旋律はテノールとオーケストラの「かけ合い」で出てくるのですが、リストはそのかけ合いをピアノ1台で表現しています。この譜例36は『ユグノー教徒の回想』において、これ以降もたびたび現れることになります。
譜例36の後に出てくる副次的な旋律(譜例37「もっと話してほしい」)も、オペラで譜例36の後にラウルが歌う場面のものです。このあたりは、『ユグノー教徒の回想』の中でも大変に美しいところです。
 第5部:Finale - Allegro vivace  |
『ユグノー教徒の回想』全体の終結部です。曲のムードはまた変わり、アレグロで譜例38が始まります。この旋律はオペラの第5幕の第2場・第3場で、旧教徒の男たちの合唱「改宗せよ、ユグノーども」として歌われるものです。第5幕はサン・バルテルミの虐殺の夜であって、第5幕の最終段階では、譜例38の旧教徒の合唱が舞台に充満し、そこに新教徒を表す「神は我が砦」が交錯することになります。
リストの『ユグノー教徒の回想』の終結部では、譜例38に「神は我が砦」の変奏が加わり、さらに譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律が絡まってきて、壮大なコーダを形成します。そしてこのピアノ曲の最後は、初めて現れる「神は我が砦」の完全な形(譜例39)で締めくくられます。
リストは何を「回想」をしたのか
今までの説明をまとめると、リストの『ユグノー教徒の回想』に出てくるオペラ「ユグノー教徒」の旋律は、次のように総括できます。
① | 『ユグノー教徒の回想』に出てくる旋律は、ほとんどがオペラの第4幕の後半部である「愛の告白シーン」から採られている。上にも書いたように「愛の告白シ-ン」(約10分間)はこのオペラの最大の聴きどころであり、音楽としても素晴らしい部分である。リストもそう感じたに違いない。 | |
② | 例外が2つあって、一つは讃美歌「神は我が砦」であり、もう一つは第5幕の「旧教徒の男たちの合唱」である。 | |
③ | 「神は我が砦」は、オペラ「ユグノー教徒」でも、ピアノ曲『ユグノー教徒の回想』でもあちこちに現れ、この点は共通している。しかし、オペラ「ユグノー教徒」では初めから(序曲から)完全な形で現れるが、『ユグノー教徒の回想』では変奏が何回か出てきたあと、一番最後に完全な形で現れる。 |
音楽からみた『ユグノー教徒の回想』の終わり方は、オペラ「ユグノー教徒」とは違います。オペラの最終場面では「神は我が砦」の旋律はかき消されてしまって「旧教徒の男たちの合唱」(譜例38)が大きく響き、そのまま終わります。これは歴史的事実がそのまま音楽に反映しています。しかしリストの『ユグノー教徒の回想』は、「神は我が砦」が最後に高らかに演奏されて(譜例39)終わるのです。まるで新教徒が勝利したような終わり方です。
ここからは全くの想像です。前にも書いたように、サン・バルテルミの虐殺を題材したオペラを作る限り、救いようのない終わり方になるのはやむをえません。そこでリストは、第4幕の「愛の告白シーン」の旋律を集中的に使って、
死を予感した新教徒の男性と旧教徒の女性の葛藤と愛の確認を描き、最後の讃美歌によってその愛が天国で成就することを暗示した |
ということではないでしょうか。
オペラの旋律は、それが歌われる場面があり、歌詞が付帯しているので、ある種の「意味」を持ちます。オペラから旋律を選んで、それをモティーフにして曲を作るということは、どういう「意味」の旋律を選ぶかに作曲家の意図が現れると考えてもよいはずです。
マイヤーベーアのオペラ「ユグノー教徒」は、19世紀の当時のパリで大変人気のあった作品で、ロングランを続けたようです。リストはこのピアノ曲を何らかの演奏会で演奏したと思いますが、それを聞いた音楽愛好家の中には、オペラ「ユグノー教徒」を見た人も多かったはずです。リストの『ユグノー教徒の回想』が何をどのように回想しているのか、音楽愛好家ならすぐに分かったのではないでしょうか。
マリー・ダグー伯爵夫人 | |||
デザンティ「新しい女 - 19世紀パリ文化界の女王 マリー・ダグー伯爵夫人」(持田明子訳・藤原書店・1991)より引用。 マリー・ダグー伯爵夫人(1805-1876)は、ダニエル・ステルンという筆名の作家でもあり、論文・随筆・小説を執筆した。「1848年革命史」などの著書がある。 パリのラフィット通りにあった彼女のサロンには、著名な文化人や芸術家が集まった。リストと親しかったショパンがジョルジュ・サンドと出会った場所でもある。 |
『ユグノー教徒の回想』は、リストがダグー伯爵夫人と生活を共にしている、25歳の時の作品です。NAXOS版 リスト ピアノ曲全集・第1巻の解説によると、『ユグノー教徒の回想』は、リストがマリー・ダグー伯爵夫人に献呈した唯一の曲だそうです。20歳代のリストが、数年間情熱を傾けた6歳年上の伯爵夫人、その彼女に献呈した唯一の曲であることが、この曲の意味を端的に表しているのではと思います。
最後に蛇足ですが、『ユグノー教徒の回想』ではプロテスタントの創始者であるマルチン・ルター作の讃美歌(=神は我が砦)があちこちに登場し、最後にはそれが高らかに演奏されて「プロテスタント万歳」とでもいうような終わり方になっています。しかし、もちろんリストはカトリックです。カトリックのリストがこのような曲を作ったということは、憶えておくべきでしょう。
No.35 - 中島みゆき「時代」 [音楽]
No.15「ニーベルングの指環 (2) 」において
と書きました。その「時代」についてです。
中島みゆきさんがデビューしたのは35年以上も前ですが、もちろん現役のシンガー・ソングライターであり、「夜会」の活動や小説やエッセイの執筆にみられるように、シンガー・ソングライターの枠を越えたアーティストとして活躍しています。「夜会」において中島さんは、プロデューサ + 演出家 + 脚本家 + 作詞家 + 作曲家 + 俳優 + 歌手、という一人七役ぶりです。
彼女が広く知られるようになったのは、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)で「時代」を歌ってグランプリを受賞してからでした。同年11月の第6回世界歌謡祭でも「時代」はグランプリを受賞しています。彼女はその年の9月に最初のシングル「アザミ嬢のララバイ」を出しているので、こちらがデビュー曲ということになりますが、実質的なデビューはポプコン・世界歌謡祭での「時代」と考えてよいと思います。
「時代」の詩(詞)
中島さんの歌は詩(詞)だけを取り上げられて語られることが多いですね。そういうニーズや傾向からか、またファンの強い要望からか、天下の朝日新聞社は過去に「中島みゆき歌集」を3冊も出しています。朝日新聞社出版部にはコアな「みゆきファン」がいたようです。
歌は最低限「詩・詞 + 曲」で成り立つので、詩だけを取り出して議論したり鑑賞するのは本来の姿ではないとは思うのですが、中島さんの曲を聞くと、どうしても詩(詞)を取り上げたくなります。朝日新聞社の(おそらく)コアな「みゆきファン」の人が、周囲の(おそらく)冷ややかな目をものともせずに歌集(詩集)を出した気持ちも分かります。
「時代」の歌い出しは次のようです。
極度の悲しみに陥った人、ここでは恋人と別れた人を想像させますが、そういう人であっても時代が変われば「そんなこともあったね」と語れる時がくる・・・・・・という内容です。この部分の詩では「時代が回る」という表現や、別れた恋人が「生まれ変わって」めぐり逢う、というような言葉の使い方が耳に残ります。
それと、何よりも題名でもある「時代」です。「時」ではなく「時間」でもなく「時の経過」でもない「時代」という言葉です。「時代」は、物事がはじまって発展して区切りを迎える、その期間というイメージです。短期間ではない、比較的長期の時間帯を言っている。明治時代、少年時代、学生時代というようにです。この時代という言葉を持ち出して「回る」という表現と結び付けているのが印象的です。
一般的に中島さんの詩の言葉、特にキーワードは考え抜かれて選ばれています。「時代」や「回る」「生まれ変わる」には、彼女なりの思いが込められていることは確実です。
「時代」は次のように続きます。
歌い出しにおける「恋人たち」は、ここでは「旅人」になります。力つきて倒れた旅人も、生まれ変わって、再び歩き出すのです。時代が回れば・・・・・・。
もちろん「旅人」は比喩であり、それは人生の旅人、つまりほとんど「人」とイコールでしょう。その意味では「恋人」よりずっと一般化した感じです。・・・・・・というように考えてしまうのは「中島みゆきの詩」の把握の仕方としては正しくない。「旅人」は「旅人」としてダイレクトに受け止めるべきでしょう。そういう言葉がわざわざ選ばれているのだから・・・・・・。
デビュー曲「時代」
「時代」は実質的に「中島みゆきのデビュー曲」です。しかしデビュー曲にしては、少々変わっている。
まず「時代」は、ラブソングではありません。別にデビュー曲がラブソングである必要性は全くないのですが、男女の関係や、その周辺の人間模様を歌ったものが多いのも事実です。もちろん失恋を含めてです。
「時代」はそういった人間関係論とは無縁な曲です。それは、悲しみにくれている人(ないしは自分)を元気付けようとする歌です。詩の内容は極めて普遍的だと言えるし、人に対する応援歌のように見えます。しかし単なる応援歌でもないようなのです。
普通、打ちひしがれた人を励まし、応援する場合には
というようなスタンスが多いわけです。「風と共に去りぬ」で、すべてを失ったスカーレット・オハラは、小説の一番最後でこう言います。
と。「明日は、別の日」。自分自身を励ます文句ですが、くじけないぞ、明日はまた別の日なんだから、新しい展開が待っているかもしれない・・・・・・、そういう感じです。中島さんも後に「ファイト!」という「応援そのもの」みたいな曲を書いていますよね(1983年のアルバム『予感』に収録)。「ファイト!」とは普通、スポーツなどにおける「応援の掛け声」です。
しかし「時代」はちょっと雰囲気が違う。ここでは
というのがキー・コンセプトになっています。時代が回ることで
というようになるわけです。
「時代」は、時の経過を「回ること」「循環」としてとらえる基本的な考えにもとづいています。そこが普通の「応援歌」とちょっと違います。季節と植物の関係で言うと、春に芽吹き、夏に茂り、秋に紅葉し、冬に枯れる。これが繰り返される。死と再生の繰り返しです。一定の期間(=時代)が繰り返すことによって時が流れていくという感覚。直線的ではない回帰的な時間の見方が「時代」にはあります。視覚的には「No.5 - 交響詩:モルダウ」で紹介した横山大観の「生々流転」のイメージです。また、No.15 で「ニーベルングの指環」が「時代」を連想させる、と書いたのも、その共通項は「循環的世界観」の雰囲気です。あくまで連想に過ぎないのですが・・・・・・。
24時着 0時発
中島さんは「時代」の発表から30年後に「循環」をテーマの一つにした作品を創作・発表しました。2004年の「夜会」で演じられた『24時着 0時発』です。この作品は鮭の永劫回帰がベーシックなモチーフ(の一つ)になっています。従って中で歌われた曲には「循環し、生まれ変わり、継承する」というイメージがいろいろとあります。
この『24時着 0時発』の中の詞と、「時代」の
の類似性は明らかだと思います。2つの作品は30年の隔たりがあるのですが・・・・・・。
『24時着 0時発』で歌われた曲から11曲を選んで、2005年にアルバムが発売されました。そのタイトルはズバリ「転生」です。
そもそも『24時着 0時発』というタイトルは「1日の終わりと、次の日の始まり」ということですよね。到達点は、また出発点でもある。時間は一周し、そこから次の時間が始まる。日は巡り、また巡る。地球の自転は永遠に続く・・・・・・。この夜会のタイトルは「時間が回る」というイメージの表現形そのものです。
デビュー作にはアーティストの本質が現れると言います。「循環」や「回る」は、中島さんがデビュー当時からずっと持ち続けている思想の中心的なコア部分(の一つ)ではないでしょうか。
ところで「時代」を聞くたびに連想する曲があります。ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲した「サークル・ゲーム」です。
The Circle Game
ジョニ・ミッチェル( Joni Mitchell )はカナダのシンガー・ソングライターです(画家でもある)。彼女の初期の曲として "Both Sides Now"(日本題名:青春の光と影。1969)がよく知られていますが、それ以上に有名なのが「サークル・ゲーム」(The Circle Game 1967)です。その詩と詩の"大意"を掲げます。
20歳になった時点で、少年時代を回顧する詩です。純粋に夢を語っていた少年時代の思い出。夢は夢だったことからくる、ある種の「あせり」。そして大人の世界に入っていくことの期待と、漠然とした不安感。誰もが20歳前後に抱く、うまく言葉にできないような気持ちを汲み取っていると思います。
過去には戻れません。「我々は時の回転木馬につかまって」というところが印象的です。「つかまって」したところは詩では captive です。「とらわれて」という意味ですね。
こうしてみると、ジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」と中島さんの「時代」は、明らかに主題が違います。「時代」には傷ついた人や倒れた人に対する「励まし」という基本的態度があるのに比較して、「サークル・ゲーム」にあるのは過去の回顧と未来へのちょっぴりした期待であり、さらにはある種のペシミスティックな「諦め」さえ感じます。
しかし「サークル・ゲーム」が実際に歌われるのを聞いて最も印象的なのは、何度も繰り返される 'round / around や circle という言葉です。また wheel や carousel といった「回る」ことに関係した記号です。
「サークル・ゲーム」で特徴的なのは、季節が巡ることや、年が過ぎること、少年時代が終わることを「回る」「一周する」ととらえ、それが繰り返されるのが時の流れだという感覚です。この「時」と「回る」のコンビネーションが、中島さんの「時代」との類似性を感じさせるのです。
1975年の世界歌謡祭で「時代」(英語での題名:Time Goes Around)が歌われてから18年後の1993年、中島さんは「時代」をリメイクし、それを第1曲にした「リメイク集アルバム」を発表しました。このアルバムのタイトルは「時代 - Time goes around - 」です。ということは、
という英語表現が「時代」の題と言ってもいいと、中島さん自身が改めて認めたことになります。これと「サークル・ゲーム」の、
の二つは大変よく似ています。また、詩の題名("時代"と"circle game")が含まれる、
の二つの表現はほとんど同じことを言っているようにも聞こえます。英語の circle には「循環」という意味もあります。季節→循環→ circle game→ 時代、という連想はごく自然だと思います。
いちご白書 : The Strawberry Statement
ジョ二・ミッチェルの名曲「サークル・ゲーム」が世界的に有名になった契機は、映画「いちご白書」の公開(1970)でした。この映画の主題歌として「サークル・ゲーム」が使われたのです。歌ったのはバフィ・セント=マリーという、ジョ二・ミッチェルと同じカナダの歌手です。
映画「いちご白書」は1968年の米国・コロンビア大学が舞台です。当時のコロンビア大学では予備将校訓練隊のビル建設に抗議する学生と大学当局の紛争が盛り上がっていました。主人公の男子学生は政治には無関心な平凡な学生でしたが、学生運動のリーダ格の女子学生と知り合い、彼女にひかれていくうちに、運動に参加するようになります(青春映画のストーリーの「王道」の一つですね)。映画は、大学の講堂にたてこもった学生たちを、警官隊が突入して強制排除するシーンで終わります。
一言でいうと「青春の高揚と挫折」という感じです。この映画の主題歌が「サークル・ゲーム」で、最後の「警官隊の学生強制排除シーン」でこの歌が流れました。
そしてここからは全くの想像なのですが、ひょっとしたら中島さんは「いちご白書」を見て、そして「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」を書いた(ないしは完成させた)のではないでしょうか。映画が日本で公開されたのは1970年の秋です。当時、中島さんは大学の1年生。彼女が札幌でこの映画を見た可能性は十分にあると思うのです。学生たちが警官隊に強制排除される最終シーンで流れる「サークル・ゲーム」という曲、この曲の持つ何となくペシミスティックな雰囲気に対して、中島さんが「ポジティブな」回答をしたのが「時代」なのではないでしょうか。あるいは、学生運動の挫折で終わる『いちご白書』に対して、次の「時代」への希望を語ったのでは、とも思うのです。全くの想像ですが・・・・・・。もちろん、詩としてはそんなことを全く感じさせない普遍性を獲得していることは言うまでもありません。
『いちご白書』をもう一度
中島さんが「時代」でグランプリをとった年の1975年、正真正銘「いちご白書」の影響を受けて作られた曲が発表されました。作詞・作曲:荒井由実、歌:バンバンの「いちご白書をもう一度」です。松任谷由実さん自身も、2003年のセルフ・カバー・アルバム(Yuming Composition : FACES)でこの曲をカバーしています。
この曲は「いちご白書」に影響されて作られたことは題名から明らかだし、歌詞にある「学生集会」も「いちご白書」が描いた学生運動と重なります。
しかし実は、この曲は「いちご白書」の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響を受けているのではないでしょうか。ないしは「サークル・ゲーム」を念頭に詞が書かれたのではないでしょうか。街角のポスターを見て過ぎ去った昔を思い出す、というシチュエーションの設定が、少年時代を回想している「サークル・ゲーム」を連想させます。輪を一周し、もう一度出発点に戻りたい、「どこかでもう一度」と願っている、ないしは、そのことで逆説的に「過去には戻れない」と感じているわけです。
アートとインスピレーション
「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」と「いちご白書をもう一度」の詞が作られたと書いたのですが、それは全くの想像であって正しいかどうかは分かりません。アーティストは創作の過程を明かさないことが多いし、特に中島さんは自作の「解説」をしたりはしないでしょう。アーティストが解説をしているような場合でも、本当のことを言っているのか疑わしいことがあります。特に、インスピレーションとなると内容は千差万別であって、完全にアーティスト本人の「心の問題」です。
しかし、正しいか正しくないかは本質的な問題ではないと思います。アーティストの仕事は作品を創造して世に出すまでであって、いったん作品が世に出ると、それをどう受け取るかは作品の「受け手」にゆだねられる。作品は「作り手」とは独立した存在になる・・・・・・。中島さんは、何度かそういう意味の発言をしていたと思います。受け手の解釈の自由裁量があるところに、音楽や絵画をはじめとする「アート」全般のおもしろさがあるのだと思います。
中島みゆきさんの『時代』は数々の歌手によって歌われていて、最近では一青窈さんがカバーしていますね。この曲を中島みゆき以外では聞きたくないという「みゆきファン」は多いと思いますが、曲の持つ「普遍的な力」が多くの歌手に「歌いたい」という気持ちを起させるのだと思います。
2012年5月2日のNHKの朝の情報番組のインタビューで、一青窈さんは「この曲を東日本大震災の被災地で歌った。会場には老若男女いろいろの人がいたが、涙を流している人が多かった」という主旨の発言をしていました。私は関東在住なので被災者の方々の気持ちを理解しているとはとても言えないのですが、涙の理由はなんとなく分かりそうな気がします。「そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくる・・・・・・」。この曲が持つ「言葉の力」は非常に強いと思います。
中島みゆきさんの「詩」について、以下の記事があります。
No. 64 - 中島みゆきの詩( 1)自立する言葉
No. 65 - 中島みゆきの詩( 2)愛を語る言葉
No. 66 - 中島みゆきの詩( 3)別れと出会い
No. 67 - 中島みゆきの詩( 4)社会と人間
No. 68 - 中島みゆきの詩( 5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩( 6)メディアと黙示録
No.153 - 中島みゆきの詩( 7)樋口一葉
No.168 - 中島みゆきの詩( 8)春なのに
No.179 - 中島みゆきの詩( 9)春の出会い
No.185 - 中島みゆきの詩(10)ホームにて
No.208 - 中島みゆきの詩(11)ひまわり
No.212 - 中島みゆきの詩(12)India Goose
No.213 - 中島みゆきの詩(13)鶺鴒(せきれい)と倒木
No.227 - 中島みゆきの詩(14)世情
No.228 - 中島みゆきの詩(15)ピアニシモ
No.298 - 中島みゆきの詩(16)ここではないどこか
No.300 - 中島みゆきの詩(17)EAST ASIA
No.328 - 中島みゆきの詩(18)LADY JANE
No.334 - 中島みゆきの詩(19)店の名はライフ
No.340 - 中島みゆきの詩(20)キツネ狩りの歌
No.68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代 では、「時代」に呼応した "こだま" のような曲として「肩に降る雨」を取り上げています。
2013年4月6日のNHK総合で、SONGS「時代 ~中島みゆき~」が放映されました。この中の八神純子さんのインタビューが大変興味深かったので引用します。文章として読みやすくするために言葉を補った部分や、順序を入れ替えた部分があります。ちなみに、ナレーターの薬師丸ひろ子さんも、かつて『時代』をカバーしました。
八神さんが「時代」を歌うとき、彼女は思い出しているのですね。40年近く前の第6回世界歌謡祭で「時代」を最後にもう一回歌う中島みゆきを見て「嫉妬に狂った」ことを・・・・・・。ホテルに帰ってベッドに泣き崩れ、気がついたら明け方だったことを・・・・・・。そして、何も怖いものがない高校生シンガー・ソングライターだった自分が、初めて味わった強い挫折感のことを・・・・・・。
八神純子さんと『時代』とのかかわりは、『時代』の歌詞の内容そのものだということが良く理解できたインタビューでした。
番組の最後に、中島さんが自ら『時代』について語っていました。
この曲を東日本大震災の被災者の方々の前で歌う一青窈さんや八神純子さんは深い「祈り」の曲として歌っているし、もちろん聴衆の方々もそう聞いています。
しかし『時代』は「祈り」という意味(だけ)の曲ではない。この曲が各地のさまざまなコンサートで歌われるとき、聴衆はそれぞれの「思い」を込めて聞けばよいが、しかし「歌手」は「無」の境地で歌うべきであって、それがこの曲の本質。だけどそのことは、曲を作った本人でさえ(本人だからこそ)難しい。いつかそいういう境地で歌ってみたい・・・。中島さんはこう言っているのだと思います。
『時代』は、これだけ普遍性をもった強い詩なので、「無」の境地で歌うことなど中島さんぐらいの力量の歌手ならできそうです。自分は冷静、観客だけが感動するというような・・・・・・。しかし本人の弁だと「歌うと何かと思惑が入り込む」のですね。中島さんはこの曲を歌うとき、どうしても「ホットに」なってしまう。では、中島さんをそうさせる「思惑」とは何でしょうか。中島さんにはこの曲を作った経緯にまつわる特別な思いがあることが想像できます。その特別な思いとは何でしょうか。もちろん、それが今までに語られたことはありません。
「無」という言葉を持ち出すところなど、中島さんらしい発言だと思います。そしてこの発言は、『時代』を歌う八神純子さんの「感想もきてみたいような」という番組インタビューへの回答にもなっていると思いました。
この「補記4」は中島みゆきさんの『時代』とは直接の関係はありません。「補記3」に八神純子さんのインタビューを紹介したのですが、その八神さんに関係した話です。神奈川県平塚市に在住の背古菜々美さん(24)という方のことが新聞に出ていました。背古さんは東海大学 教養学部 芸術学科 音楽学課程の4年生です。その記事を引用します。
八神さんは東日本大震災の被災地だけでなく、熊本地震の被災地も訪問しています。また病院の慰問もしていて、その一つに背古さんが入院していた病院があったのでしょう。記事にある「ユーイング肉腫」とは骨の癌の一種で、若年層に発症する病気です。
背古さんが「八神さんの名前も曲も知らなかった」というのはその通りだろうと思います。八神さんは1958年生まれなので、背古さん(1996年頃の生まれ)より40歳近く年上です。八神さんの最も知られた曲は『みずいろの雨』(1979)だと思いますが、そういう曲を知らなったとしても当然です。しかし闘病中の彼女は、全く知らなかった八神さんの歌に激しく心を動かされ、再びバイオリンを手にとり、プロを目指すようになった。
病院で八神さんは数曲を歌ったと思いますが、何の曲かは分かりません。東日本大震災の被災地でのように『時代』は歌わなかったでしょう。被災地と病院では同じ励ますにしても状況が違うし、それに『時代』なら背古さんが知っていたと思われます。
しかし確実に言えることは、八神さんの「歌」が "病気で卑屈になっていた" 女性を "逃げない" という気持ちにさせ、音楽療養士を目指してチャレンジするきっかけになったということです。歌がもつ "ちから" を感じます。この背古さんの一例だけでも、八神さんは病院慰問をやってよかったと思うに違いありません。
「循環」をテーマにした音楽作品というと、すぐに中島みゆきさんの名曲「時代」を思い浮かべる |
と書きました。その「時代」についてです。
中島みゆきさんがデビューしたのは35年以上も前ですが、もちろん現役のシンガー・ソングライターであり、「夜会」の活動や小説やエッセイの執筆にみられるように、シンガー・ソングライターの枠を越えたアーティストとして活躍しています。「夜会」において中島さんは、プロデューサ + 演出家 + 脚本家 + 作詞家 + 作曲家 + 俳優 + 歌手、という一人七役ぶりです。
彼女が広く知られるようになったのは、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)で「時代」を歌ってグランプリを受賞してからでした。同年11月の第6回世界歌謡祭でも「時代」はグランプリを受賞しています。彼女はその年の9月に最初のシングル「アザミ嬢のララバイ」を出しているので、こちらがデビュー曲ということになりますが、実質的なデビューはポプコン・世界歌謡祭での「時代」と考えてよいと思います。
「時代」の詩(詞)
中島みゆき全歌集Ⅱ (朝日新聞社 1998) |
歌は最低限「詩・詞 + 曲」で成り立つので、詩だけを取り出して議論したり鑑賞するのは本来の姿ではないとは思うのですが、中島さんの曲を聞くと、どうしても詩(詞)を取り上げたくなります。朝日新聞社の(おそらく)コアな「みゆきファン」の人が、周囲の(おそらく)冷ややかな目をものともせずに歌集(詩集)を出した気持ちも分かります。
「時代」の歌い出しは次のようです。
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ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)。「時代」が最後に収められている。
|
それと、何よりも題名でもある「時代」です。「時」ではなく「時間」でもなく「時の経過」でもない「時代」という言葉です。「時代」は、物事がはじまって発展して区切りを迎える、その期間というイメージです。短期間ではない、比較的長期の時間帯を言っている。明治時代、少年時代、学生時代というようにです。この時代という言葉を持ち出して「回る」という表現と結び付けているのが印象的です。
一般的に中島さんの詩の言葉、特にキーワードは考え抜かれて選ばれています。「時代」や「回る」「生まれ変わる」には、彼女なりの思いが込められていることは確実です。
「時代」は次のように続きます。
|
歌い出しにおける「恋人たち」は、ここでは「旅人」になります。力つきて倒れた旅人も、生まれ変わって、再び歩き出すのです。時代が回れば・・・・・・。
もちろん「旅人」は比喩であり、それは人生の旅人、つまりほとんど「人」とイコールでしょう。その意味では「恋人」よりずっと一般化した感じです。・・・・・・というように考えてしまうのは「中島みゆきの詩」の把握の仕方としては正しくない。「旅人」は「旅人」としてダイレクトに受け止めるべきでしょう。そういう言葉がわざわざ選ばれているのだから・・・・・・。
デビュー曲「時代」
「時代」は1993年にリメイクされた。それを第1曲に収録したアルバム『時代』 |
まず「時代」は、ラブソングではありません。別にデビュー曲がラブソングである必要性は全くないのですが、男女の関係や、その周辺の人間模様を歌ったものが多いのも事実です。もちろん失恋を含めてです。
「時代」はそういった人間関係論とは無縁な曲です。それは、悲しみにくれている人(ないしは自分)を元気付けようとする歌です。詩の内容は極めて普遍的だと言えるし、人に対する応援歌のように見えます。しかし単なる応援歌でもないようなのです。
普通、打ちひしがれた人を励まし、応援する場合には
◆ | 夜は必ず明ける、明けない夜はない | |
◆ | 今は厳しいけど、常に希望もてば、道は開ける |
というようなスタンスが多いわけです。「風と共に去りぬ」で、すべてを失ったスカーレット・オハラは、小説の一番最後でこう言います。
After all, tomorrow is another day |
と。「明日は、別の日」。自分自身を励ます文句ですが、くじけないぞ、明日はまた別の日なんだから、新しい展開が待っているかもしれない・・・・・・、そういう感じです。中島さんも後に「ファイト!」という「応援そのもの」みたいな曲を書いていますよね(1983年のアルバム『予感』に収録)。「ファイト!」とは普通、スポーツなどにおける「応援の掛け声」です。
しかし「時代」はちょっと雰囲気が違う。ここでは
時代は回る |
というのがキー・コンセプトになっています。時代が回ることで
別れた恋人は「生まれ変わって」巡りあう 倒れた旅人は「生まれ変わって」歩き出す |
というようになるわけです。
「時代」は、時の経過を「回ること」「循環」としてとらえる基本的な考えにもとづいています。そこが普通の「応援歌」とちょっと違います。季節と植物の関係で言うと、春に芽吹き、夏に茂り、秋に紅葉し、冬に枯れる。これが繰り返される。死と再生の繰り返しです。一定の期間(=時代)が繰り返すことによって時が流れていくという感覚。直線的ではない回帰的な時間の見方が「時代」にはあります。視覚的には「No.5 - 交響詩:モルダウ」で紹介した横山大観の「生々流転」のイメージです。また、No.15 で「ニーベルングの指環」が「時代」を連想させる、と書いたのも、その共通項は「循環的世界観」の雰囲気です。あくまで連想に過ぎないのですが・・・・・・。
24時着 0時発
中島さんは「時代」の発表から30年後に「循環」をテーマの一つにした作品を創作・発表しました。2004年の「夜会」で演じられた『24時着 0時発』です。この作品は鮭の永劫回帰がベーシックなモチーフ(の一つ)になっています。従って中で歌われた曲には「循環し、生まれ変わり、継承する」というイメージがいろいろとあります。
生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ (サーモン・ダンス)
|
この一生だけでは辿り着けないとしても 命のバトン掴んで 願いを引き継いでいけ (命のリレー)
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この『24時着 0時発』の中の詞と、「時代」の
別れた恋人は「生まれ変わって」巡りあう 倒れた旅人は「生まれ変わって」歩き出す |
の類似性は明らかだと思います。2つの作品は30年の隔たりがあるのですが・・・・・・。
『転生』(2005)
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そもそも『24時着 0時発』というタイトルは「1日の終わりと、次の日の始まり」ということですよね。到達点は、また出発点でもある。時間は一周し、そこから次の時間が始まる。日は巡り、また巡る。地球の自転は永遠に続く・・・・・・。この夜会のタイトルは「時間が回る」というイメージの表現形そのものです。
デビュー作にはアーティストの本質が現れると言います。「循環」や「回る」は、中島さんがデビュー当時からずっと持ち続けている思想の中心的なコア部分(の一つ)ではないでしょうか。
ところで「時代」を聞くたびに連想する曲があります。ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲した「サークル・ゲーム」です。
The Circle Game
Joni Mitchell [site:amazon.com] |
この"大意"は、私が詩の意味を解釈したものです。詩は人によっていろんな受け取り方が可能なので、これはあくまで一例です。 |
|
「サークル・ゲーム」のセルフカバーが収録されているアルバム『Ladies of the Canyon』(1970) |
過去には戻れません。「我々は時の回転木馬につかまって」というところが印象的です。「つかまって」したところは詩では captive です。「とらわれて」という意味ですね。
こうしてみると、ジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」と中島さんの「時代」は、明らかに主題が違います。「時代」には傷ついた人や倒れた人に対する「励まし」という基本的態度があるのに比較して、「サークル・ゲーム」にあるのは過去の回顧と未来へのちょっぴりした期待であり、さらにはある種のペシミスティックな「諦め」さえ感じます。
しかし「サークル・ゲーム」が実際に歌われるのを聞いて最も印象的なのは、何度も繰り返される 'round / around や circle という言葉です。また wheel や carousel といった「回る」ことに関係した記号です。
「サークル・ゲーム」で特徴的なのは、季節が巡ることや、年が過ぎること、少年時代が終わることを「回る」「一周する」ととらえ、それが繰り返されるのが時の流れだという感覚です。この「時」と「回る」のコンビネーションが、中島さんの「時代」との類似性を感じさせるのです。
1975年の世界歌謡祭で「時代」(英語での題名:Time Goes Around)が歌われてから18年後の1993年、中島さんは「時代」をリメイクし、それを第1曲にした「リメイク集アルバム」を発表しました。このアルバムのタイトルは「時代 - Time goes around - 」です。ということは、
Time goes around |
という英語表現が「時代」の題と言ってもいいと、中島さん自身が改めて認めたことになります。これと「サークル・ゲーム」の、
The seasons they go 'round and 'round |
の二つは大変よく似ています。また、詩の題名("時代"と"circle game")が含まれる、
まわるまわるよ 時代は回る And go round and 'round and 'round in the circle game |
の二つの表現はほとんど同じことを言っているようにも聞こえます。英語の circle には「循環」という意味もあります。季節→循環→ circle game→ 時代、という連想はごく自然だと思います。
いちご白書 : The Strawberry Statement
ジョ二・ミッチェルの名曲「サークル・ゲーム」が世界的に有名になった契機は、映画「いちご白書」の公開(1970)でした。この映画の主題歌として「サークル・ゲーム」が使われたのです。歌ったのはバフィ・セント=マリーという、ジョ二・ミッチェルと同じカナダの歌手です。
The Strawberry Statement (ポスター。アメリカ) 主演:ブルース・デヴィソン キム・ダービー [site : MoviePosterDB.com] |
一言でいうと「青春の高揚と挫折」という感じです。この映画の主題歌が「サークル・ゲーム」で、最後の「警官隊の学生強制排除シーン」でこの歌が流れました。
そしてここからは全くの想像なのですが、ひょっとしたら中島さんは「いちご白書」を見て、そして「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」を書いた(ないしは完成させた)のではないでしょうか。映画が日本で公開されたのは1970年の秋です。当時、中島さんは大学の1年生。彼女が札幌でこの映画を見た可能性は十分にあると思うのです。学生たちが警官隊に強制排除される最終シーンで流れる「サークル・ゲーム」という曲、この曲の持つ何となくペシミスティックな雰囲気に対して、中島さんが「ポジティブな」回答をしたのが「時代」なのではないでしょうか。あるいは、学生運動の挫折で終わる『いちご白書』に対して、次の「時代」への希望を語ったのでは、とも思うのです。全くの想像ですが・・・・・・。もちろん、詩としてはそんなことを全く感じさせない普遍性を獲得していることは言うまでもありません。
『いちご白書』をもう一度
中島さんが「時代」でグランプリをとった年の1975年、正真正銘「いちご白書」の影響を受けて作られた曲が発表されました。作詞・作曲:荒井由実、歌:バンバンの「いちご白書をもう一度」です。松任谷由実さん自身も、2003年のセルフ・カバー・アルバム(Yuming Composition : FACES)でこの曲をカバーしています。
|
「いちご白書をもう一度」が収録されているセルフカバー集『Yuming Composition : FACES』(2003) |
しかし実は、この曲は「いちご白書」の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響を受けているのではないでしょうか。ないしは「サークル・ゲーム」を念頭に詞が書かれたのではないでしょうか。街角のポスターを見て過ぎ去った昔を思い出す、というシチュエーションの設定が、少年時代を回想している「サークル・ゲーム」を連想させます。輪を一周し、もう一度出発点に戻りたい、「どこかでもう一度」と願っている、ないしは、そのことで逆説的に「過去には戻れない」と感じているわけです。
アートとインスピレーション
「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」と「いちご白書をもう一度」の詞が作られたと書いたのですが、それは全くの想像であって正しいかどうかは分かりません。アーティストは創作の過程を明かさないことが多いし、特に中島さんは自作の「解説」をしたりはしないでしょう。アーティストが解説をしているような場合でも、本当のことを言っているのか疑わしいことがあります。特に、インスピレーションとなると内容は千差万別であって、完全にアーティスト本人の「心の問題」です。
しかし、正しいか正しくないかは本質的な問題ではないと思います。アーティストの仕事は作品を創造して世に出すまでであって、いったん作品が世に出ると、それをどう受け取るかは作品の「受け手」にゆだねられる。作品は「作り手」とは独立した存在になる・・・・・・。中島さんは、何度かそういう意味の発言をしていたと思います。受け手の解釈の自由裁量があるところに、音楽や絵画をはじめとする「アート」全般のおもしろさがあるのだと思います。
 補記1  |
中島みゆきさんの『時代』は数々の歌手によって歌われていて、最近では一青窈さんがカバーしていますね。この曲を中島みゆき以外では聞きたくないという「みゆきファン」は多いと思いますが、曲の持つ「普遍的な力」が多くの歌手に「歌いたい」という気持ちを起させるのだと思います。
2012年5月2日のNHKの朝の情報番組のインタビューで、一青窈さんは「この曲を東日本大震災の被災地で歌った。会場には老若男女いろいろの人がいたが、涙を流している人が多かった」という主旨の発言をしていました。私は関東在住なので被災者の方々の気持ちを理解しているとはとても言えないのですが、涙の理由はなんとなく分かりそうな気がします。「そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくる・・・・・・」。この曲が持つ「言葉の力」は非常に強いと思います。
 補記2  |
中島みゆきさんの「詩」について、以下の記事があります。
No. 64 - 中島みゆきの詩( 1)自立する言葉
No. 65 - 中島みゆきの詩( 2)愛を語る言葉
No. 66 - 中島みゆきの詩( 3)別れと出会い
No. 67 - 中島みゆきの詩( 4)社会と人間
No. 68 - 中島みゆきの詩( 5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩( 6)メディアと黙示録
No.153 - 中島みゆきの詩( 7)樋口一葉
No.168 - 中島みゆきの詩( 8)春なのに
No.179 - 中島みゆきの詩( 9)春の出会い
No.185 - 中島みゆきの詩(10)ホームにて
No.208 - 中島みゆきの詩(11)ひまわり
No.212 - 中島みゆきの詩(12)India Goose
No.213 - 中島みゆきの詩(13)鶺鴒(せきれい)と倒木
No.227 - 中島みゆきの詩(14)世情
No.228 - 中島みゆきの詩(15)ピアニシモ
No.298 - 中島みゆきの詩(16)ここではないどこか
No.300 - 中島みゆきの詩(17)EAST ASIA
No.328 - 中島みゆきの詩(18)LADY JANE
No.334 - 中島みゆきの詩(19)店の名はライフ
No.340 - 中島みゆきの詩(20)キツネ狩りの歌
No.68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代 では、「時代」に呼応した "こだま" のような曲として「肩に降る雨」を取り上げています。
 補記3  |
2013年4月6日のNHK総合で、SONGS「時代 ~中島みゆき~」が放映されました。この中の八神純子さんのインタビューが大変興味深かったので引用します。文章として読みやすくするために言葉を補った部分や、順序を入れ替えた部分があります。ちなみに、ナレーターの薬師丸ひろ子さんも、かつて『時代』をカバーしました。
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八神さんが「時代」を歌うとき、彼女は思い出しているのですね。40年近く前の第6回世界歌謡祭で「時代」を最後にもう一回歌う中島みゆきを見て「嫉妬に狂った」ことを・・・・・・。ホテルに帰ってベッドに泣き崩れ、気がついたら明け方だったことを・・・・・・。そして、何も怖いものがない高校生シンガー・ソングライターだった自分が、初めて味わった強い挫折感のことを・・・・・・。
そんな時代も あったねと いつか話せる 日が来るわ |
八神純子さんと『時代』とのかかわりは、『時代』の歌詞の内容そのものだということが良く理解できたインタビューでした。
番組の最後に、中島さんが自ら『時代』について語っていました。
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この曲を東日本大震災の被災者の方々の前で歌う一青窈さんや八神純子さんは深い「祈り」の曲として歌っているし、もちろん聴衆の方々もそう聞いています。
しかし『時代』は「祈り」という意味(だけ)の曲ではない。この曲が各地のさまざまなコンサートで歌われるとき、聴衆はそれぞれの「思い」を込めて聞けばよいが、しかし「歌手」は「無」の境地で歌うべきであって、それがこの曲の本質。だけどそのことは、曲を作った本人でさえ(本人だからこそ)難しい。いつかそいういう境地で歌ってみたい・・・。中島さんはこう言っているのだと思います。
『時代』は、これだけ普遍性をもった強い詩なので、「無」の境地で歌うことなど中島さんぐらいの力量の歌手ならできそうです。自分は冷静、観客だけが感動するというような・・・・・・。しかし本人の弁だと「歌うと何かと思惑が入り込む」のですね。中島さんはこの曲を歌うとき、どうしても「ホットに」なってしまう。では、中島さんをそうさせる「思惑」とは何でしょうか。中島さんにはこの曲を作った経緯にまつわる特別な思いがあることが想像できます。その特別な思いとは何でしょうか。もちろん、それが今までに語られたことはありません。
「無」という言葉を持ち出すところなど、中島さんらしい発言だと思います。そしてこの発言は、『時代』を歌う八神純子さんの「感想もきてみたいような」という番組インタビューへの回答にもなっていると思いました。
 補記4:バイオリニストへの挑戦  |
この「補記4」は中島みゆきさんの『時代』とは直接の関係はありません。「補記3」に八神純子さんのインタビューを紹介したのですが、その八神さんに関係した話です。神奈川県平塚市に在住の背古菜々美さん(24)という方のことが新聞に出ていました。背古さんは東海大学 教養学部 芸術学科 音楽学課程の4年生です。その記事を引用します。
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八神さんは東日本大震災の被災地だけでなく、熊本地震の被災地も訪問しています。また病院の慰問もしていて、その一つに背古さんが入院していた病院があったのでしょう。記事にある「ユーイング肉腫」とは骨の癌の一種で、若年層に発症する病気です。
背古さんが「八神さんの名前も曲も知らなかった」というのはその通りだろうと思います。八神さんは1958年生まれなので、背古さん(1996年頃の生まれ)より40歳近く年上です。八神さんの最も知られた曲は『みずいろの雨』(1979)だと思いますが、そういう曲を知らなったとしても当然です。しかし闘病中の彼女は、全く知らなかった八神さんの歌に激しく心を動かされ、再びバイオリンを手にとり、プロを目指すようになった。
病院で八神さんは数曲を歌ったと思いますが、何の曲かは分かりません。東日本大震災の被災地でのように『時代』は歌わなかったでしょう。被災地と病院では同じ励ますにしても状況が違うし、それに『時代』なら背古さんが知っていたと思われます。
しかし確実に言えることは、八神さんの「歌」が "病気で卑屈になっていた" 女性を "逃げない" という気持ちにさせ、音楽療養士を目指してチャレンジするきっかけになったということです。歌がもつ "ちから" を感じます。この背古さんの一例だけでも、八神さんは病院慰問をやってよかったと思うに違いありません。
(2018.1.30)
No.17 - ニーベルングの指環(見る音楽) [音楽]
No.14-16 に続いてリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指環」です(以下『指環』と略)。今回のタイトルは「見る音楽」ですが、ここでの「見る」とは劇場やDVDでオペラを見るという意味ではありません。オペラのスコア(総譜・楽譜)を見るという意味です。『指環』はスコアを見てこそ初めて納得できることがいろいろあると思うのです。以下にその「見て分かる」ことを書きます。
スコアでまず分かること
このオペラのスコアは Dover社のペーパーバックで比較的容易に入手できます。その表紙を掲げました。
スコアでまず分かること、それは「物量」です。4つのペーパーバック版スコアの厚みとページ数は
もあります。ちなみに合計の重さは 6.6kg です。合計2091ページもの紙面の全てが隅々まで音符で埋め尽くされているのはちょっと壮観です。15時間のオペラならこれぐらいになるのは当然といえば当然なのですが、一つの芸術作品でこれだけの量があるという、その「物量感」に圧倒されるのです。ワーグナーはこの作品を足かけ26年かけて作ったと言いますが、その執念というか、しつこさというか、めげない徹底ぶりというか、持続させる精神力はすごいと思います。『指環』の4部作はストーリーが破綻しているような箇所もあるのですが、12cm ものオペラなら破綻しているところがあったとしても何らおかしくない、いくら天才作曲家といっても人間なのだからというのが率直な感想です。なにしろ12cm、6.6kg のオペラなのです。
視覚表現としてのスコア : 騎行
譜例25は楽劇「ワルキューレ」の第3幕の非常に有名な「ワルキューレの騎行」です。No.14 でもとりあげた「騎行」のライトモティーフが出てくる、その出だしの3小節のスコアです。このワルキューレの騎行の部分は、耳で聴いていても「馬に乗って天空をかけめぐるワルキューレたち」というイメージが非常に鮮明です。そのイメージは、スコアを見ることによって一層クリアになる感じがします。
譜例25は以下のA~Dの4つの部分に分けられます。
スコアを見て、それぞれの部分の「視覚的印象」を具体物で表現すると、
という感じですね。もちろんイメージなので、人によってどうとってもよいと思います。D=空になびく馬のたてがみ、でもよいわけです。雲の流れでもよい。しかし受け取り方はどうであれ、ここで作曲家は楽譜の視覚的な美しさを追求しているのではないのでしょうか。楽曲のイメージがまず視覚として楽譜に表され、それ音楽になっている感じがします。
文字とは何かを考えてみると、それは本来、情報の記録や伝達のためのものです。しかし中国・韓国・日本では文字を書くことそのものがアートになっています。つまり書道ですが、この歴史はきわめて古いと同時に、現在でも書道教室に小学生が通っているわけです。また、西洋のカリグラフィーやアラブ文化圏の装飾文字など、書道とは意味合いは違いますが、文字を情報伝達・記録以上のものにしてきた歴史がいろいろあります。
そのアナロジーで言うと楽譜が音楽を記録し伝達すること以上のものであっても何らおかしくはないわけです。人間の考えることは多かれ少なかれ似通っています。楽譜の視覚的イメージを通じて、オペラのシーンの印象が伝わってもよいし、楽譜によって視覚的に、美しい・力強い・賑やか・寂しい、というような印象が伝わってもよいわけです。楽譜そのものがアートである・・・・・・2091ページの間にそういう部分があってもおかしくないと思います。
視覚表現としてのスコア : ドンナー
楽劇「ラインの黄金」の最後は、神々がワルハラ城へ入場するシーン(以下「入場」)で終わります。このシーンの前で物語はすべて終わっていて「入場」は付け足しのような部分です。ただ、霧が立ちこめて雲が現れ、雷鳴がとどろき、雨があがったあとに虹がかかり、その中をワルハラ城へと神々がゆく、というスペクタキュラーなシーンであり、またそれを盛り上げる音楽も素晴らしいので、この部分はオーケストラ曲としても単独でよく演奏されます。
譜例26は「入場」の最初の部分のスコアで、雷鳴の神・ドンナーが「おおい、おおい」と叫んで霧と雲を呼び寄せるところです。ドンナーは譜例26では最下段です。この部分を耳で聴くと、もちろんドンナーは分かりますが、それ以外のオーケストラはどうなっているのかが定かではありません。「弦楽器がなにやら激しく動き回っているな」という印象です。
しかしスコアを見ると、第1ヴァイオリン(Vn 1) と第2バイオリン(Vn 2) とヴィオラ(Vla) が、それぞれ6部に分かれている合計18部の合奏であり、そのうちの12部は速い6連音符の連続であることが分かります。なるほどこうなっていたのか、という感じです。耳で聞いても分からないはずです。
「ラインの黄金」の最終場面であるこの部分において、舞台には霧が立ちこめ、雲が沸き上がっています。この楽譜はその「立ちこめている」「沸き上がっている」さまを視覚的に表現しているのではないでしょうか。弦楽器の3つのパートを合計18部に分ける「音楽的な必然性」はあるのかどうか。耳から聴くという聴覚的効果だけを考えるならもっと簡素な形、たとえば3つの弦楽器パートをそれぞれ3部に分けた合計9部ぐらいの構成でも十分過ぎるのではと思います。私は作曲家ではないので本当のところは分かりません。音楽的必然性があるのかもしれない。しかしあったとしても、このスコアはまず「見る音楽」として発想されたのでははいか、そういう感じがします。
視覚表現としてのスコア : 虹の橋
譜例26のすぐあとに、譜例27の「虹の橋」というシーンが現れます。空には大きな虹がかかり、それを眺めつつ神々がワルハラ城へ入っていきます。
このスコアは4つの部分に分かれています。
の4つです。
スコアを一見して分かることはページが音符で埋め尽くされているということです。楽譜は音楽を表現するものであるのはもちろんなのですが、それ以前に譜面を音符で埋め尽くすこと自体が目的のような作曲家の意図を感じます。何となくマニアックで、執念のようなものを感じる。
舞台では風が吹き雷鳴が轟いて雨があがったあと、日光がさして大きな虹が現れています。虹の光は強くはないが、印象的にはあたりに充満し舞台を圧している、そういった場面です。作曲家はここで「スペースが何かで満ちている」という「充満感」をスコアでもイメージ的に表現したかったのではないでしょうか。
個別に見ていくと、スコアの特徴的な部分は2つです。一つは②の「虹の橋」のライトモティーフの部分(ホルン、バス・クラリネット、ファゴット、チェロ)で、耳で聴いていて一番目立つ部分です。このライトモチーフは変ト長調の主和音をシンプルに上昇していき、シンプルに下降するという音型です。スコアはフラットが5つの変ニ長調ですが、「ド」の音にも臨時記号のフラットがついているので実際は変ト長調です。この旋律が譜例20「自然の生成」( No.15 参照 )の変形であることは明らかでしょう。虹は自然の一部なのです。そしてこの「虹の橋」のライトモティーフは、虹の形であるアーチ型を視覚的にイメージして作られているのではないしょうか。スコアにおいて、ライトモティーフがまさにアーチ型をしています。
2つ目の特徴的な部分は③の6台のハープです。6人のハープ奏者が12の手で12種の分散和音を演奏する譜面になっています。耳だけで聴いるとハープの合奏は分かりますが、12種の合奏だとはさすがに分かりません。スコアを見て「そうなんだ」と発見するしかない。果たしてこの「聴いても分からない」6台のハープの分散和音に「作曲技法上の必然性」があるのでしょうか。あるのかも知れませんが、それよりも上で述べた「スコアを音符で埋め尽くす」ことに重点が置かれているのではと感じるのです。
ただし、この6台のハープは全く別の理由により必然性があるのかもしれません。それは6台のハープが虹の6色を表しているのでは、と思うからです。
虹は色の数はいくつか
虹の色は7色と考えるのは我々が(現代の)日本人だからです。鈴木孝夫氏の「日本語と外国語」(岩波新書 1990)には、次のような意味のことが書かれています。
著者が言いたいことは、虹の色数は国や文化によって(ないしは人によって)相違するということであり、虹=7色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)は特定文化圏の概念だということです。
鈴木氏の記述はあくまで現代の話です。リヒャルト・ワーグナーが生きた19世紀のドイツにおいて「民衆レベルで」虹が何色とされていたのか、それは知りません。調べた人もいないと思うし、記録も残っていないはずです。
従って想像するしかないのですが、ワーグナーが虹は6色と思っていた、ないしは思っていなくても虹を6色で表現しようとした、という可能性はあると思います。この推測が正しいとすると、作曲家は6台のハープで6色のそれぞれの色を表現し、それを同時に演奏することで虹が鮮やかに「輝き」「きらめく」様子を表そうとしたのではと思うのです。耳ではわからないがスコアで表現するということです。6台のハープの譜面は音域が順に少しずつずらしてあります。色によって光の周波数が少しずつ違うかように・・・・・・。そして、ハープの音型は光の波動のようにも見えます。
「ワルキューレ」の騎行から始まって「ラインの黄金」の最終場面まで、3つの「見る音楽」を書きましたが、いずれも事実というより『指環』のスコアから受ける「個人的印象」ないしは「感じ」です。しかし音楽は小説や絵画以上にパーソナルな受け取り方が可能なジャンルです。こういった個人的な「聴き方」を発見するのも、音楽の醍醐味の一つだと思います。
アメリカにおける「虹は6色」に関する新聞のコラムを紹介します。
2014年6月の朝日新聞(夕刊)に「虹をたどって」というコラム(朝日・江木記者)が連載されました。この中で、教育学者の板倉聖宣氏が「虹の7色」を調査した話が出てきます。板倉氏によると、江戸時代以前に虹を7色と書いた書物はほとんどない。日本の「7色」は江戸から明治にかけて欧米から流入した。「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」と覚えた人もいるだろうし、欧米にも7色を覚える文があるが、それは7色が見分けにくいからこそである、とのことです。
その後に続く文を引用します。ここには「7色」の発端がニュートンであったことと「アメリカの教育現場では、7色以外に6色という教え方がある」ことが書かれています。
板倉さんには「少年時代に虹は7色と教えられたが、自分にはどうしても7色には見えなかった」という経験が原点にあるようです。自分の目で見て確かめることの大切さを、教育学者として言いたかったのでしょう。
ひょっとしたら、リヒャルト・ワーグナーも「自分の目で見て」虹を6色だと思ったのかもしれません。「自然が作り出す芸術」に芸術家が惹かれるのは自然なことだと思います。
LGBT(Lesbian Gay Bisexual Transgender)のシンボルとして世界中に広まっている "レインボー・フラッグ" は6色(赤・橙・黄・緑・青・紫)で、アメリカなどにおける「虹は6色」と同じ色の構成です(日本で言う虹の7色からすると "藍" がない)。もっとも、レインボー・フラッグが最初にアメリカでデザインされたときには8色だったが、製造上の理由などで6色に落ち着いたそうです。
これから分かるのは「虹だから7色などという概念は全くない」ことです。また、偶数にすると暖色と寒色が同数になり、"男女平等" とか "人類は平等" などの含意も出てきて都合がいいのだと思います。
スコアでまず分かること
このオペラのスコアは Dover社のペーパーバックで比較的容易に入手できます。その表紙を掲げました。
スコアでまず分かること、それは「物量」です。4つのペーパーバック版スコアの厚みとページ数は
ラインの黄金  | 2.0 cm  |  327ページ |
ワルキューレ  | 4.0 cm  |  710ページ |
ジークフリート  | 2.5 cm  |  439ページ |
神々の黄昏  | 3.5 cm  |  615ページ |
合計 | 12.0 cm  |  2091ページ |
もあります。ちなみに合計の重さは 6.6kg です。合計2091ページもの紙面の全てが隅々まで音符で埋め尽くされているのはちょっと壮観です。15時間のオペラならこれぐらいになるのは当然といえば当然なのですが、一つの芸術作品でこれだけの量があるという、その「物量感」に圧倒されるのです。ワーグナーはこの作品を足かけ26年かけて作ったと言いますが、その執念というか、しつこさというか、めげない徹底ぶりというか、持続させる精神力はすごいと思います。『指環』の4部作はストーリーが破綻しているような箇所もあるのですが、12cm ものオペラなら破綻しているところがあったとしても何らおかしくない、いくら天才作曲家といっても人間なのだからというのが率直な感想です。なにしろ12cm、6.6kg のオペラなのです。
視覚表現としてのスコア : 騎行
譜例25は楽劇「ワルキューレ」の第3幕の非常に有名な「ワルキューレの騎行」です。No.14 でもとりあげた「騎行」のライトモティーフが出てくる、その出だしの3小節のスコアです。このワルキューレの騎行の部分は、耳で聴いていても「馬に乗って天空をかけめぐるワルキューレたち」というイメージが非常に鮮明です。そのイメージは、スコアを見ることによって一層クリアになる感じがします。
譜例25「騎行」 - 「ワルキューレ」第3幕 第1場 |
譜例25は以下のA~Dの4つの部分に分けられます。
A |
枠で囲んだ部分で、ホルン(Hn) とトランペット(Bass Tr) で演奏される騎行のライトモティーフです。ここが音楽の主役です。 | |
B |
Aの周辺の黄色の部分で、ファゴット(Fg)、ホルン(Hn)、チェロ(Vc) のパートです。騎行のリズムを補助的に演奏することで、Aと一体となっています。 | |
C |
第1ヴァイオリン(Vn 1)、第2ヴァイオリン(Vn 2)、ヴィオラ(Vla) のパートで、32分音符で素早く上昇と下降を繰り返す音型です。 | |
D | 譜面の上の方の木管のパート(Pic ~ Bass Cl) です。トリルのような動機を、複数のパートに分かれた各種木管楽器が「入れ替わり立ち替わり」演奏します。この動機は「天空」と呼ばれているライトモティーフです。 |
スコアを見て、それぞれの部分の「視覚的印象」を具体物で表現すると、
ワルキューレ | |
騎乗している馬 | |
馬の足、ギャロップの視覚的イメージ | |
空に吹きすさぶ風 |
という感じですね。もちろんイメージなので、人によってどうとってもよいと思います。D=空になびく馬のたてがみ、でもよいわけです。雲の流れでもよい。しかし受け取り方はどうであれ、ここで作曲家は楽譜の視覚的な美しさを追求しているのではないのでしょうか。楽曲のイメージがまず視覚として楽譜に表され、それ音楽になっている感じがします。
文字とは何かを考えてみると、それは本来、情報の記録や伝達のためのものです。しかし中国・韓国・日本では文字を書くことそのものがアートになっています。つまり書道ですが、この歴史はきわめて古いと同時に、現在でも書道教室に小学生が通っているわけです。また、西洋のカリグラフィーやアラブ文化圏の装飾文字など、書道とは意味合いは違いますが、文字を情報伝達・記録以上のものにしてきた歴史がいろいろあります。
そのアナロジーで言うと楽譜が音楽を記録し伝達すること以上のものであっても何らおかしくはないわけです。人間の考えることは多かれ少なかれ似通っています。楽譜の視覚的イメージを通じて、オペラのシーンの印象が伝わってもよいし、楽譜によって視覚的に、美しい・力強い・賑やか・寂しい、というような印象が伝わってもよいわけです。楽譜そのものがアートである・・・・・・2091ページの間にそういう部分があってもおかしくないと思います。
視覚表現としてのスコア : ドンナー
楽劇「ラインの黄金」の最後は、神々がワルハラ城へ入場するシーン(以下「入場」)で終わります。このシーンの前で物語はすべて終わっていて「入場」は付け足しのような部分です。ただ、霧が立ちこめて雲が現れ、雷鳴がとどろき、雨があがったあとに虹がかかり、その中をワルハラ城へと神々がゆく、というスペクタキュラーなシーンであり、またそれを盛り上げる音楽も素晴らしいので、この部分はオーケストラ曲としても単独でよく演奏されます。
譜例26は「入場」の最初の部分のスコアで、雷鳴の神・ドンナーが「おおい、おおい」と叫んで霧と雲を呼び寄せるところです。ドンナーは譜例26では最下段です。この部分を耳で聴くと、もちろんドンナーは分かりますが、それ以外のオーケストラはどうなっているのかが定かではありません。「弦楽器がなにやら激しく動き回っているな」という印象です。
譜例26「ドンナー」 - 「ラインの黄金」第4場 |
しかしスコアを見ると、第1ヴァイオリン(Vn 1) と第2バイオリン(Vn 2) とヴィオラ(Vla) が、それぞれ6部に分かれている合計18部の合奏であり、そのうちの12部は速い6連音符の連続であることが分かります。なるほどこうなっていたのか、という感じです。耳で聞いても分からないはずです。
「ラインの黄金」の最終場面であるこの部分において、舞台には霧が立ちこめ、雲が沸き上がっています。この楽譜はその「立ちこめている」「沸き上がっている」さまを視覚的に表現しているのではないでしょうか。弦楽器の3つのパートを合計18部に分ける「音楽的な必然性」はあるのかどうか。耳から聴くという聴覚的効果だけを考えるならもっと簡素な形、たとえば3つの弦楽器パートをそれぞれ3部に分けた合計9部ぐらいの構成でも十分過ぎるのではと思います。私は作曲家ではないので本当のところは分かりません。音楽的必然性があるのかもしれない。しかしあったとしても、このスコアはまず「見る音楽」として発想されたのでははいか、そういう感じがします。
視覚表現としてのスコア : 虹の橋
譜例26のすぐあとに、譜例27の「虹の橋」というシーンが現れます。空には大きな虹がかかり、それを眺めつつ神々がワルハラ城へ入っていきます。
譜例27「虹の橋」 - 「ラインの黄金」第4場 |
このスコアは4つの部分に分かれています。
① |
フルート(Fl)、オーボエ(Ob)、クラリネット(Cl) の3連符
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② |
ホルン(Hn)、バス・クラリネット(B.Cl)、ファゴット(Fg)、チェロ(Vc) が演奏する「虹の橋」のライトモティーフ
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③ |
6台のハープが演奏する分散和音
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④ |
第1ヴァイオリン(Vn 1) 4部、第2ヴァイオリン(Vn 2) 4部が演奏するトリルの音型
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の4つです。
スコアを一見して分かることはページが音符で埋め尽くされているということです。楽譜は音楽を表現するものであるのはもちろんなのですが、それ以前に譜面を音符で埋め尽くすこと自体が目的のような作曲家の意図を感じます。何となくマニアックで、執念のようなものを感じる。
舞台では風が吹き雷鳴が轟いて雨があがったあと、日光がさして大きな虹が現れています。虹の光は強くはないが、印象的にはあたりに充満し舞台を圧している、そういった場面です。作曲家はここで「スペースが何かで満ちている」という「充満感」をスコアでもイメージ的に表現したかったのではないでしょうか。
個別に見ていくと、スコアの特徴的な部分は2つです。一つは②の「虹の橋」のライトモティーフの部分(ホルン、バス・クラリネット、ファゴット、チェロ)で、耳で聴いていて一番目立つ部分です。このライトモチーフは変ト長調の主和音をシンプルに上昇していき、シンプルに下降するという音型です。スコアはフラットが5つの変ニ長調ですが、「ド」の音にも臨時記号のフラットがついているので実際は変ト長調です。この旋律が譜例20「自然の生成」( No.15 参照 )の変形であることは明らかでしょう。虹は自然の一部なのです。そしてこの「虹の橋」のライトモティーフは、虹の形であるアーチ型を視覚的にイメージして作られているのではないしょうか。スコアにおいて、ライトモティーフがまさにアーチ型をしています。
2つ目の特徴的な部分は③の6台のハープです。6人のハープ奏者が12の手で12種の分散和音を演奏する譜面になっています。耳だけで聴いるとハープの合奏は分かりますが、12種の合奏だとはさすがに分かりません。スコアを見て「そうなんだ」と発見するしかない。果たしてこの「聴いても分からない」6台のハープの分散和音に「作曲技法上の必然性」があるのでしょうか。あるのかも知れませんが、それよりも上で述べた「スコアを音符で埋め尽くす」ことに重点が置かれているのではと感じるのです。
ただし、この6台のハープは全く別の理由により必然性があるのかもしれません。それは6台のハープが虹の6色を表しているのでは、と思うからです。
虹は色の数はいくつか
虹の色は7色と考えるのは我々が(現代の)日本人だからです。鈴木孝夫氏の「日本語と外国語」(岩波新書 1990)には、次のような意味のことが書かれています。
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著者が言いたいことは、虹の色数は国や文化によって(ないしは人によって)相違するということであり、虹=7色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)は特定文化圏の概念だということです。
鈴木氏の記述はあくまで現代の話です。リヒャルト・ワーグナーが生きた19世紀のドイツにおいて「民衆レベルで」虹が何色とされていたのか、それは知りません。調べた人もいないと思うし、記録も残っていないはずです。
従って想像するしかないのですが、ワーグナーが虹は6色と思っていた、ないしは思っていなくても虹を6色で表現しようとした、という可能性はあると思います。この推測が正しいとすると、作曲家は6台のハープで6色のそれぞれの色を表現し、それを同時に演奏することで虹が鮮やかに「輝き」「きらめく」様子を表そうとしたのではと思うのです。耳ではわからないがスコアで表現するということです。6台のハープの譜面は音域が順に少しずつずらしてあります。色によって光の周波数が少しずつ違うかように・・・・・・。そして、ハープの音型は光の波動のようにも見えます。
「ワルキューレ」の騎行から始まって「ラインの黄金」の最終場面まで、3つの「見る音楽」を書きましたが、いずれも事実というより『指環』のスコアから受ける「個人的印象」ないしは「感じ」です。しかし音楽は小説や絵画以上にパーソナルな受け取り方が可能なジャンルです。こういった個人的な「聴き方」を発見するのも、音楽の醍醐味の一つだと思います。
 補記1  |
アメリカにおける「虹は6色」に関する新聞のコラムを紹介します。
2014年6月の朝日新聞(夕刊)に「虹をたどって」というコラム(朝日・江木記者)が連載されました。この中で、教育学者の板倉聖宣氏が「虹の7色」を調査した話が出てきます。板倉氏によると、江戸時代以前に虹を7色と書いた書物はほとんどない。日本の「7色」は江戸から明治にかけて欧米から流入した。「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」と覚えた人もいるだろうし、欧米にも7色を覚える文があるが、それは7色が見分けにくいからこそである、とのことです。
その後に続く文を引用します。ここには「7色」の発端がニュートンであったことと「アメリカの教育現場では、7色以外に6色という教え方がある」ことが書かれています。
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板倉さんには「少年時代に虹は7色と教えられたが、自分にはどうしても7色には見えなかった」という経験が原点にあるようです。自分の目で見て確かめることの大切さを、教育学者として言いたかったのでしょう。
ひょっとしたら、リヒャルト・ワーグナーも「自分の目で見て」虹を6色だと思ったのかもしれません。「自然が作り出す芸術」に芸術家が惹かれるのは自然なことだと思います。
 補記2:レインボー・フラッグは6色  |
LGBT(Lesbian Gay Bisexual Transgender)のシンボルとして世界中に広まっている "レインボー・フラッグ" は6色(赤・橙・黄・緑・青・紫)で、アメリカなどにおける「虹は6色」と同じ色の構成です(日本で言う虹の7色からすると "藍" がない)。もっとも、レインボー・フラッグが最初にアメリカでデザインされたときには8色だったが、製造上の理由などで6色に落ち着いたそうです。
これから分かるのは「虹だから7色などという概念は全くない」ことです。また、偶数にすると暖色と寒色が同数になり、"男女平等" とか "人類は平等" などの含意も出てきて都合がいいのだと思います。
No.16 - ニーベルングの指環(指環とは何か) [音楽]
No.14 とNo.15 に続いてリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指環」です。ここでは、このオペラにおける《指環》とは何かについて、自由に発想してみたいと思います。なお、以降で『指環』は「ニーベルングの指環」というオペラを意味し、《指環》は金属加工品としての指環を示します。
《指環》=金属製錬技術の象徴
端的に言うと《指環》とは「金属製錬技術」の象徴だと考えられます。ここで言う金属製錬技術とは広い意味です。つまり金属の元となる鉱石を採掘し、そこから金属だけを抽出し、純度を高め(=精錬)、金属製品に加工するまで全てを指します。この意味での金属製錬技術を象徴するのが《指環》であり、また金属製錬技術を持つ集団がニーベルング族です。
『指環』の物語の発端となるライン河の黄金ですが、古来より黄金は権力の象徴でした。古代エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクは有名ですし、ギリシャ文明のミケーネからは「アガメムノンの黄金のマスク」が出土しています。南米のインカ文明でも黄金文化が栄えました。日本においても奥州平泉の藤原氏の権力基盤は黄金です。豊臣秀吉が作らせた黄金の茶室などは権力の象徴の最たるものでしょう。黄金はその稀少性と光り輝く美しさ、変質しないことにより、権力者が競って求めるものとなり、その製錬技術を持った集団が重用されたことは想像にかたくありません。
人類史をひもとくと青銅も重要な金属です。青銅は農機具や宗教用の器具、日用品、武器などの「実用」に初めて広く使われた金属です。銅の歴史も青銅と同様に古いのですが、銅の融点は1083度です。そこに錫(すず)を混ぜて青銅にすると融点が800-900度に下がり、圧倒的に加工しやすくなります。しかも強度がある。人類の金属文化は、その初期段階から合金が使われていたわけで、驚きです。
金属が「実用」に使われると、その集団や国の経済力や軍事力は格段に向上します。たとえば木製の鍬や鋤しか持たない集団と、青銅の刃をつけた鍬や鋤を持つ集団を比較すると、畑を耕す効率が全く違うので農業生産性に大きな差がつくでしょう。古代では経済力=農業生産力なので、それは国力の差になります。また、青銅製の剣と鎧で武装した集団とそういうものを持たない集団が戦争をしたら、勝敗は明らかです。
青銅の次に歴史を大きく動かすことになった金属は鉄です。製鉄技術は紀元前15世紀ごろのアナトリア、現在のトルコにあった「ヒッタイト帝国」で実用化されたと言われていますね。製鉄技術を独占したヒッタイトは、当時の世界最強国だったラムセス2世率いるエジプト王国とも互角に戦いました。ヒッタイトの製鉄技術については、そのルーツや製鉄炉の場所などの謎も多く、トルコ政府はアナトリア考古学研究所を設立して国際協力も得ながらその解明に乗り出しています。日本もODAを含む協力をしています。
製鉄の難しいところの一つは、鉄の溶解温度が1535度と高いことです。この高熱を持続できる火力を得るには、それなりの技術が必要です。しかし青銅より優れているのはその硬さです。従って武器や防具、農機具などの硬度が必要なものは鉄で、日用品や宗教用器具は加工しやすい青銅でという使い分けが始まりました。
硬度に関してですが、青銅製の槍と鎧で武装した軍隊と、鋼鉄製の槍と鎧で武装した軍隊が激突したとすると、圧倒的に「鉄の軍隊」が有利です。それは騎馬隊をもつ軍隊とそうでない軍隊が平原で戦闘をするとどちらが有利かに似ています。あるいは現代の戦争で言うなら、暗視装置を全員が装着している軍隊とそれを持たない軍隊が砂漠で夜に対峙したとしたら、暗視装置を持つ軍隊の圧倒的勝利で終わる。これは数年前に世界中の人が目のあたりにしたわけです。軍隊の戦闘能力は、それだけではありませんが、装備に大きく影響されます。
さっき「騎馬隊を持つ軍隊」と書いたのですが、そもそも騎馬の軍隊ということ自体、鉄と切り離せません。つまり馬の蹄に蹄鉄を装着することによって「人を乗せ、また荷物を乗せて長距離を走行する馬」というものが初めて出現したわけです。歴史上、匈奴からフン族、モンゴルと、騎馬民族はユーラシア大陸を席巻したのですが、それは鉄を利用してこそ可能だったわけです。
製鉄技術を頂点とする金属製錬技術は、古代においては国の命運を左右するようなものであったと考えられます。だからこそ権力者はその技術を手に入れようと必死になる。『指環』においては、その技術者集団であるニーベルング族を囲い込むのが神々の族なのか、それともギビフンク一族か。その争いに勝ったものが世界を支配する・・・・・・。《指環》を手に入れる者が世界を支配するというこのオペラのストーリー展開の骨格はそういうことであって、それが物語の大きな構図だと思います。
ジークフリートの暗示:鉄を鍛える
『指環』の物語の大きな構図からすると、ジークフリートは神々の族が金属製錬技術を入手しようとニーベルング族に送り込んだ、とも考えられます。
楽劇「ジークフリート」の第1幕において、ジークフリートは母親から託された折れた剣を溶解し、再生し、鍛え直します。剣は『指環』において「武器としての金属」を象徴しています。それは世界支配の具体的なシンボルとしても使われています。
剣はまた製鉄 技術の象徴です。ジークフリートの行う「鉄を鍛える」ということは、鍛鉄を作るということだと考えられますね。鉄は酸化物として産出しますが(鉄鉱石)、それに炭素(炭やコークスなど)を混ぜて高温で熱することにより鉄になる。これが銑鉄(せんてつ)ですが、そのままではもろいわけです。ここから炭素分を少なくして鍛鉄にすると硬度が増す。これを極限まで進めたのが日本刀ですね。ジークフリートが剣を鍛えるのは、母と死に別れてニーベルング族のミーメに養育され、そこで製鉄技術を身につけたという暗示だと思います。
楽劇「ジークフリート」第1幕の最初で剣を鍛えているのは、ジークフリートを養育したミーメです。しかしジークフリートを満足させるには至らない。ミーメが鍛えた剣はことごとくジークフリートに折られてしまいます。業を煮やしたジークフリートは第1幕の最後で自分で剣を鍛えます。そして鍛えた剣は鉄床をまっぷたつに割ってしまうのです。ジークフリートはミーメから学び、ミーメ以上の技術を身につけたと考えられます。
ジークフリートの暗示:不死身
ジークフリートは鍛えた剣によって最強の戦士になり、剣で大蛇を殺し《指環》を奪います。そして大蛇を殺した時に返り血を浴びることで不死身になります。このあたりは似たような伝説を思い出します。英国のアーサー王伝説に「エクスカリバー」という剣が出てきますね。この剣を持っていると傷を受けないという伝説です。また、剣で大蛇を殺すというのは日本の神話にもありました。スサノオノミコトが十握(とつか)の剣で八岐大蛇(やまたのおろち)を殺す有名な話です。
ジークフリートは大蛇の返り血で不死身になるのですが、この不死身は、実は完全なものではありませんでした。一箇所だけ背中に弱点があるわけです。楽劇「神々の黄昏」でジークフリートはこの弱点をハーゲンに突かれて殺されてしまいます。
この「一箇所だけの弱点」という話で多くの人が思い出すのではないでしょうか。そうです、ギリシャ神話のアキレスの話です。ギリシャの英雄アキレスは屈強な戦士であり「不死身」です。トロイア戦争においてアキレスは大活躍しますが、彼には唯一の弱点があり、そこを矢で射抜かれて倒されてしまいます。いわゆる「アキレス腱」の伝説です。
この「不死身」を金属製錬技術と結びつけて考えると、アキレスやジークフリートの不死身は、鉄製の鎧(よろい)と兜(かぶと)で防御していることの象徴だと思います。鉄製の鎧と兜で防御している戦士は不死身になる。しかしそれは完全ではなくて、剣を突き刺す(ないしは槍で狙う)スキが必ずあり、そこを的確に狙えば倒すことができる。これが、ジークフリートの不死身と死が暗示していることだと思います。
ジークフリートの不死身に関連して、私が強く思い出すのは日本のある民話です。それは、司馬遼太郎さんが紹介している沖縄・竹富島の民話です。
沖縄県 竹富島
竹富島は石垣島と西表島の間にある「隆起珊瑚礁」から出来ている小さな島です。残念ながら私は訪れたことがないのですが、旅行したことのある妻の話ではガイドブックどおりの大変に美しい島のようです。人口は320人程度、周囲9kmで、島の中にはコンビニもネオンサインもありません。島民の方々の手入れが行き届いた白いサンゴの道が続いている、景観の素晴らしい島です。この島では1986年に「竹富島憲章」が制定され、伝統的な赤煉瓦の使用、看板の規制、車両制限、などが決められていて、景観の維持に最大の注意が払われています。
竹富島と鉄器の関係なのですが、まず前提として日本における鉄器の普及の歴史を知っておく必要があります。中国で鉄の利用が始まったのは紀元前10世紀の周の時代ですが、本格的に鉄器が普及したのは春秋戦国時代の末期・紀元前3世紀ごろで、日本への導入もほぼそのころだと言われています。その後、日本では砂鉄を利用した「たたら製鉄」が発達しました。宮崎駿さんの「もののけ姫」は室町時代の「たたら」集団がテーマになっていますね。
しかし、沖縄では砂鉄がとれないため製鉄の発達は遅れ、鎌倉・室町時代に中国・日本から鉄器を輸入したのが鉄製品の普及の始まりでした。以下の竹富島の民話は、司馬遼太郎さんが「街道をゆく」の取材で竹富島を訪れ、そこで聞いた話です。本からそのまま引用します。
鉄=権力 → 不死身 → 唯一の弱点 → 刺殺、という『指環』のジークフリートがたどる物語が、そのまま日本の民話となっているかのようです。ジークフリートと違って、この民話に登場する「男」は悪役ですが・・・・・・。おそらく世界の民話、伝承のたぐいを調べると、このての話がいっぱいあるのではないでしょうか。
《指環》=文明の象徴
さらにもっと進んで《指環》は金属製錬技術の象徴にとどまらず、もっと広く(金属製錬技術に代表される)文明を象徴していると考えることができます。
思い出すのは『指環』のストーリーの根幹になっている「アルベリヒの呪い」です。《指環》を手に入れたものは無限の力を得るわけですが、アルベリヒの呪いでは、《指環》手に入れた者は破滅します。これは文明を手に入れたものは支配者になれるが、その文明によって自らを滅ぼすという暗示だと思えてなりません。
文明の代表格である鉄器を考えてみると、鉄器は農機具としても使われますが武器としても使われ、戦争の道具となります。いきおい武器を手に入れようとする争いは熾烈になり、この繰り返しの中で人間集団が破滅していく。武器による抗争は人間の心をもむしばみ、民族の内部分裂を招き、集団は崩壊に至る。『指環』においてギビフング族のハーゲンは悪の権化のように描かれますが、文明がハーゲンのような「悪」を生み出したと解釈できます。文明が武器を通して人類を滅ぼしかねないということは、まさに8月6日がくるたびに広島市長が世界に向けて発しているメッセージです。
このような文明→抗争→破滅という展開以外に『指環』に直接的には描かれていませんが、文明が自然環境を破壊し、それによって文明は危機に陥るという重大な歴史上の事実があります。
文明が環境を破壊する
文明が自然環境を破壊する例は過去に数多くありました。《指環》が象徴する金属製錬技術もそうです。金属製錬には大量のエネルギーが必要ですが、近代以前においてエネルギーを得るためには木を切るしかありません。これが森林の破壊を招きます。日本を含む世界において、鉄の生産に長い歴史をもつ地域は森林破壊が起きました。
鉄の先駆者・ヒッタイト帝国はどうかというと、現在のトルコのヒッタイト遺跡付近の写真を見ても、製鉄ができるような土地にはとても見えません。荒野とは言わないまでも森がないのです。しかし遺跡を発掘している日本の中近東文化センターの研究員の方はつぎのように発言しています。
要するに、紀元前1500年頃のヒッタイト帝国の景観は現代とは全く違ったわけです。ヒッタイトに限らず、製鉄が発達した地方は森の退潮が顕著です。地中海地方、韓国、中国、日本の中国地方などです。日本の「たたら製鉄」は特に中国地方で発達しましたが、製鉄による森林の伐採が進み、荒れ地に成長しやすい松が増えたため、皮肉にも松茸の産地になったと言われています。
宮崎駿さんの「もののけ姫」には、まさに室町時代における製鉄技術集団と山の神の「自然をめぐる対峙」が描かれていました。「もののけ姫」を見るとわかるのですが、エボシが率いる「たたら」集団は鬱蒼とした森に近接した「たたら場」で製鉄をしています。そういう場所でないと鉄は作れないからです。紀元前1500年頃のヒッタイトの遺跡周辺はまさに「もののけ姫」のような感じだったのでしょう。
金属精錬による自然破壊:ローマ帝国
日本のように降雨量が多く森林の回復力が強いところはまだましです。しかしそうでない土地では森林の破壊は致命的な結果を招きます。ジョン・パーリン著「森と文明」(晶文社 1994)に、2000年前の文明先進国であったローマ帝国の話が書かれていました。これは金属製錬による環境破壊が国を滅ぼしかねないという具体例です。ちょっと引用します。
以上のような記述に続いて、その後にスペインにおける銀の生産がどういう経過をたどるかが書かれています。ローマ帝国は木材供給のコントロールに乗り出します。浴場経営者などの非採掘業に対し、経営上必要とする量のみの森の木を取得するように命令を出し、木材価格の高騰を防ぐため木の転売を禁止します。
しかし2世紀末に、ついに銀の生産量が減少し始めます。銀鉱石はまだ豊富にあったにもかかわらずです。そしてコンモドゥス帝(180-192)はついに銀貨における銀の含有量を30%も下げてしまったのです。すぐあとのセヴェルス帝(193-211)はさらに20%下げ、銀の含有量は50%を切りました。こうなると事態は急速に進展し、3世紀末には銀の含有量が2%にまで減り、貨幣価値が激減しました。4世紀初頭にはすでに、物々交換や物による支払いが制度化されたと言います。
ローマ帝国の基軸通貨は「デナリウス銀貨」です。塩野七生さんの「ローマ人の物語 第13巻:最後の努力」には、
と書かれています。また同じ本には、銀貨の銀含有量の変遷も表にしてあります。
銅と書いてあるところは「銅やその他の金属」の意味だと思いますが、全体として「森と文明」の記述と同じです。森林の限界が銀の生産の限界に直結するわけです。
ここで、スペインの森が少なくなったのなら森がまだ豊富に残っている地方(たとえばガリア)から木材を運んだらどうかとか、逆に銀の鉱石をガリアに運んで製錬したらと思うのは早計です。それは論理的には可能ですが、そいういう「重量物」を運ぶには多大なコストと労働力の投入が必要です。製錬した結果としての「純銀」を運ぶコストとは比較にならない。当時はトラックや輸送機械はないのです。銀貨の貨幣価値がそれを作るコストを上回わらないと経済は成り立ちません。
ここまで基軸通貨の素材価値が下落するとインフレを招くはずです。アルベルト・アンジェラ著「古代ローマ人の24時間」(関口英子訳。河出書房新社 2010)には次のように書かれています。
ちなみに4セステルティウス(青銅貨)で、1デナリウス(銀貨)です。紀元1世紀の時点で1セステルティウスは現代の2ユーロぐらい、とアルベルト・アンジェラは書いています。
もちろん、一般的に言って物価高騰やインフレの原因は貨幣価値の下落だけではありません。需給のアンバランスや財政政策の失敗(国の債務超過など)でも起こります。しかし最も基本的な生活必需品である小麦の価格が2世紀の間に80倍にもなったことが、この期間に同時に進行していた貨幣価値の下落と無関係だとはまず考えられないでしょう。
ローマ皇帝は、帝国の基軸通貨の銀含有量を数十分の一に低下させてしまいました。これは、この一事だけをとってみても、国を滅ぼすにも等しい行為です。貨幣の信用度はガタ落ちとなり、物資の流通は滞り、物々交換の時代に舞い戻り、経済は停滞するはずです。国の財政は悪化し、当然のことながら、軍事力も低下します。
「ローマ人の物語」で塩野さんは「経済人なら政治を理解しないでも成功できるが、政治家は絶対に経済がわかっていなければならない(第6巻:パクス・ロマーナ)」と書いていますが、全くその通りだと思います。「暴走」とでも言うべき経済政策の引き金を引いたもの、それは森林の破壊だったというわけです。
『指環』が問いかけるもの
もちろん、森林破壊は金属製錬だけが原因ではありません。近代以前においては、一般の人が炊事や暖房に使うエネルギー源は木材(薪、ないしは炭)です。特にローマ帝国では浴場の運営に多量の木材が必要だったことは想像に難くありません。それはスペインにおける浴場経営者に対する木材取得の制限令に具体的に現れています。歴史書には「ローマには大規模な公衆浴場がたくさんあり、常時お湯があふれ、皇帝も市民も奴隷も一緒に入浴を楽しみ・・・・・・」みたいな表現がよくありますが、その裏で進行していたことを見ようとはしないわけですね。
家屋や建物を作る素材である煉瓦も問題です。煉瓦を焼くにもエネルギーが必要だからです。その点、古代からある「日干し煉瓦」はエネルギーを必要としません。我々は何となく「焼き煉瓦」の方が強固で風雨や自然災害に強いから、より「進歩的で高度」であって、それに対して「日干し煉瓦」は「遅れた」人たちがやることのように思いますが、どちらが本当に進んでいるのかは一概には言えないと思います。
船の建造にも大量の木材が必要です。近代以前においては、大量の木材がないと船は絶対に造れません。船は輸送力や軍事力を通して文明の繁栄の基盤となったものです。いや繁栄どころか、軍船・軍艦として国が生きるか死ぬかを決める重要装備でもあったわけです。昔習った「世界史」で、古代ギリシャの都市国家がペルシャ戦争に勝利する契機となった「サラミスの海戦」を思い出します。スペイン帝国の凋落(=イギリスの隆盛)のトリガーを引いた「無敵艦隊の敗北」という世界史上の重大事項もありました。
大規模な森林破壊は、単にエネルギー源が枯渇するだけなく、山地から川や河口への土砂の流出を招きます。さらに、川から海に流れ込む栄養分が少なくなって近海のプランクトンを減少させ、沿海漁業の漁獲量が減少します。森が大規模に消失すると森林からの水分蒸発がなくなって、気象変動さえ引き起こしかねません。つまり生活環境が広範囲に変わってしまうのです。このあたりが怖いところです。
さらに、環境破壊は森林破壊だけではありません。文明の最たるものである「農業」は、過度の耕作や灌漑を通して土壌の破壊(塩分の集積や土壌の流出など)を招き、それが数々の古代文明の衰退の原因になりました。過度の遊牧も植生を破壊して土地の砂漠化を進めました。文明の発達→環境破壊→文明の衰退、というサイクルは人類史に多数あるのです。
はたして現代人はこのサイクルから抜け出したのでしょうか。《指環》の呪いからまぬがれ得たのでしょうか。エルダの警告(No.15 譜例 21 参照)は聞き入れられたのでしょうか。「文明が文明を危機におとしいれる」のは古代だけのことなのでしょうか。現代人である我々は、どの程度「賢く」なったのでしょうか。これが《指環》が提示している「重い問い」だと思います。
《指環》=金属製錬技術の象徴
端的に言うと《指環》とは「金属製錬技術」の象徴だと考えられます。ここで言う金属製錬技術とは広い意味です。つまり金属の元となる鉱石を採掘し、そこから金属だけを抽出し、純度を高め(=精錬)、金属製品に加工するまで全てを指します。この意味での金属製錬技術を象徴するのが《指環》であり、また金属製錬技術を持つ集団がニーベルング族です。
『指環』の物語の発端となるライン河の黄金ですが、古来より黄金は権力の象徴でした。古代エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクは有名ですし、ギリシャ文明のミケーネからは「アガメムノンの黄金のマスク」が出土しています。南米のインカ文明でも黄金文化が栄えました。日本においても奥州平泉の藤原氏の権力基盤は黄金です。豊臣秀吉が作らせた黄金の茶室などは権力の象徴の最たるものでしょう。黄金はその稀少性と光り輝く美しさ、変質しないことにより、権力者が競って求めるものとなり、その製錬技術を持った集団が重用されたことは想像にかたくありません。
人類史をひもとくと青銅も重要な金属です。青銅は農機具や宗教用の器具、日用品、武器などの「実用」に初めて広く使われた金属です。銅の歴史も青銅と同様に古いのですが、銅の融点は1083度です。そこに錫(すず)を混ぜて青銅にすると融点が800-900度に下がり、圧倒的に加工しやすくなります。しかも強度がある。人類の金属文化は、その初期段階から合金が使われていたわけで、驚きです。
金属が「実用」に使われると、その集団や国の経済力や軍事力は格段に向上します。たとえば木製の鍬や鋤しか持たない集団と、青銅の刃をつけた鍬や鋤を持つ集団を比較すると、畑を耕す効率が全く違うので農業生産性に大きな差がつくでしょう。古代では経済力=農業生産力なので、それは国力の差になります。また、青銅製の剣と鎧で武装した集団とそういうものを持たない集団が戦争をしたら、勝敗は明らかです。
青銅の次に歴史を大きく動かすことになった金属は鉄です。製鉄技術は紀元前15世紀ごろのアナトリア、現在のトルコにあった「ヒッタイト帝国」で実用化されたと言われていますね。製鉄技術を独占したヒッタイトは、当時の世界最強国だったラムセス2世率いるエジプト王国とも互角に戦いました。ヒッタイトの製鉄技術については、そのルーツや製鉄炉の場所などの謎も多く、トルコ政府はアナトリア考古学研究所を設立して国際協力も得ながらその解明に乗り出しています。日本もODAを含む協力をしています。
製鉄の難しいところの一つは、鉄の溶解温度が1535度と高いことです。この高熱を持続できる火力を得るには、それなりの技術が必要です。しかし青銅より優れているのはその硬さです。従って武器や防具、農機具などの硬度が必要なものは鉄で、日用品や宗教用器具は加工しやすい青銅でという使い分けが始まりました。
硬度に関してですが、青銅製の槍と鎧で武装した軍隊と、鋼鉄製の槍と鎧で武装した軍隊が激突したとすると、圧倒的に「鉄の軍隊」が有利です。それは騎馬隊をもつ軍隊とそうでない軍隊が平原で戦闘をするとどちらが有利かに似ています。あるいは現代の戦争で言うなら、暗視装置を全員が装着している軍隊とそれを持たない軍隊が砂漠で夜に対峙したとしたら、暗視装置を持つ軍隊の圧倒的勝利で終わる。これは数年前に世界中の人が目のあたりにしたわけです。軍隊の戦闘能力は、それだけではありませんが、装備に大きく影響されます。
さっき「騎馬隊を持つ軍隊」と書いたのですが、そもそも騎馬の軍隊ということ自体、鉄と切り離せません。つまり馬の蹄に蹄鉄を装着することによって「人を乗せ、また荷物を乗せて長距離を走行する馬」というものが初めて出現したわけです。歴史上、匈奴からフン族、モンゴルと、騎馬民族はユーラシア大陸を席巻したのですが、それは鉄を利用してこそ可能だったわけです。
製鉄技術を頂点とする金属製錬技術は、古代においては国の命運を左右するようなものであったと考えられます。だからこそ権力者はその技術を手に入れようと必死になる。『指環』においては、その技術者集団であるニーベルング族を囲い込むのが神々の族なのか、それともギビフンク一族か。その争いに勝ったものが世界を支配する・・・・・・。《指環》を手に入れる者が世界を支配するというこのオペラのストーリー展開の骨格はそういうことであって、それが物語の大きな構図だと思います。
ジークフリートの暗示:鉄を鍛える
『指環』の物語の大きな構図からすると、ジークフリートは神々の族が金属製錬技術を入手しようとニーベルング族に送り込んだ、とも考えられます。
楽劇「ジークフリート」の第1幕において、ジークフリートは母親から託された折れた剣を溶解し、再生し、鍛え直します。剣は『指環』において「武器としての金属」を象徴しています。それは世界支配の具体的なシンボルとしても使われています。
楽劇「ジークフリート」
ジークフリートは自ら剣を鍛え、その剣で鉄床をまっぷたつに割ってしまう。
第1幕より |
楽劇「ジークフリート」第1幕の最初で剣を鍛えているのは、ジークフリートを養育したミーメです。しかしジークフリートを満足させるには至らない。ミーメが鍛えた剣はことごとくジークフリートに折られてしまいます。業を煮やしたジークフリートは第1幕の最後で自分で剣を鍛えます。そして鍛えた剣は鉄床をまっぷたつに割ってしまうのです。ジークフリートはミーメから学び、ミーメ以上の技術を身につけたと考えられます。
ジークフリートの暗示:不死身
ジークフリートは鍛えた剣によって最強の戦士になり、剣で大蛇を殺し《指環》を奪います。そして大蛇を殺した時に返り血を浴びることで不死身になります。このあたりは似たような伝説を思い出します。英国のアーサー王伝説に「エクスカリバー」という剣が出てきますね。この剣を持っていると傷を受けないという伝説です。また、剣で大蛇を殺すというのは日本の神話にもありました。スサノオノミコトが十握(とつか)の剣で八岐大蛇(やまたのおろち)を殺す有名な話です。
ジークフリートは大蛇の返り血で不死身になるのですが、この不死身は、実は完全なものではありませんでした。一箇所だけ背中に弱点があるわけです。楽劇「神々の黄昏」でジークフリートはこの弱点をハーゲンに突かれて殺されてしまいます。
この「一箇所だけの弱点」という話で多くの人が思い出すのではないでしょうか。そうです、ギリシャ神話のアキレスの話です。ギリシャの英雄アキレスは屈強な戦士であり「不死身」です。トロイア戦争においてアキレスは大活躍しますが、彼には唯一の弱点があり、そこを矢で射抜かれて倒されてしまいます。いわゆる「アキレス腱」の伝説です。
この「不死身」を金属製錬技術と結びつけて考えると、アキレスやジークフリートの不死身は、鉄製の鎧(よろい)と兜(かぶと)で防御していることの象徴だと思います。鉄製の鎧と兜で防御している戦士は不死身になる。しかしそれは完全ではなくて、剣を突き刺す(ないしは槍で狙う)スキが必ずあり、そこを的確に狙えば倒すことができる。これが、ジークフリートの不死身と死が暗示していることだと思います。
ジークフリートの不死身に関連して、私が強く思い出すのは日本のある民話です。それは、司馬遼太郎さんが紹介している沖縄・竹富島の民話です。
沖縄県 竹富島
(表紙は竹富島の白砂の道) |
竹富島と鉄器の関係なのですが、まず前提として日本における鉄器の普及の歴史を知っておく必要があります。中国で鉄の利用が始まったのは紀元前10世紀の周の時代ですが、本格的に鉄器が普及したのは春秋戦国時代の末期・紀元前3世紀ごろで、日本への導入もほぼそのころだと言われています。その後、日本では砂鉄を利用した「たたら製鉄」が発達しました。宮崎駿さんの「もののけ姫」は室町時代の「たたら」集団がテーマになっていますね。
しかし、沖縄では砂鉄がとれないため製鉄の発達は遅れ、鎌倉・室町時代に中国・日本から鉄器を輸入したのが鉄製品の普及の始まりでした。以下の竹富島の民話は、司馬遼太郎さんが「街道をゆく」の取材で竹富島を訪れ、そこで聞いた話です。本からそのまま引用します。
おそらく室町期のいつのころか、本土から鍛冶が竹富島にやってきたというのである。むろんその男は道具を持ってきたろうし、鍛鉄のモトになるタマハガネも持ってきたであろう。 この民話では、この男は乱暴者で島民をこきつかったが、全身が黒鉄(くろがね)でできていたため(具足か鎖帷子・くさりかたびら・でも着込んでいたのだろうか)だれもかれをどうすることもできなかったという。 かれは鍬や鎌をつくって島民にあたえた。それによって増産された分を収奪したのであろう。ともかく鉄器を独占した者が権力を得るという仕組みがそのまま民話になっている。民話では、かれは島出身の妻に刺し殺される。この黒鉄男は、全身が鉄でできているのに、頸のほんの一部だけが肉でできていた。妻はそれを発見し、その部分を刺すことによって、島民の禍(わざわい)をのぞいたという。 |
鉄=権力 → 不死身 → 唯一の弱点 → 刺殺、という『指環』のジークフリートがたどる物語が、そのまま日本の民話となっているかのようです。ジークフリートと違って、この民話に登場する「男」は悪役ですが・・・・・・。おそらく世界の民話、伝承のたぐいを調べると、このての話がいっぱいあるのではないでしょうか。
《指環》=文明の象徴
さらにもっと進んで《指環》は金属製錬技術の象徴にとどまらず、もっと広く(金属製錬技術に代表される)文明を象徴していると考えることができます。
思い出すのは『指環』のストーリーの根幹になっている「アルベリヒの呪い」です。《指環》を手に入れたものは無限の力を得るわけですが、アルベリヒの呪いでは、《指環》手に入れた者は破滅します。これは文明を手に入れたものは支配者になれるが、その文明によって自らを滅ぼすという暗示だと思えてなりません。
文明の代表格である鉄器を考えてみると、鉄器は農機具としても使われますが武器としても使われ、戦争の道具となります。いきおい武器を手に入れようとする争いは熾烈になり、この繰り返しの中で人間集団が破滅していく。武器による抗争は人間の心をもむしばみ、民族の内部分裂を招き、集団は崩壊に至る。『指環』においてギビフング族のハーゲンは悪の権化のように描かれますが、文明がハーゲンのような「悪」を生み出したと解釈できます。文明が武器を通して人類を滅ぼしかねないということは、まさに8月6日がくるたびに広島市長が世界に向けて発しているメッセージです。
このような文明→抗争→破滅という展開以外に『指環』に直接的には描かれていませんが、文明が自然環境を破壊し、それによって文明は危機に陥るという重大な歴史上の事実があります。
文明が環境を破壊する
ビュクリュカレ遺跡 (中近東文化センターのホームページより) |
鉄の先駆者・ヒッタイト帝国はどうかというと、現在のトルコのヒッタイト遺跡付近の写真を見ても、製鉄ができるような土地にはとても見えません。荒野とは言わないまでも森がないのです。しかし遺跡を発掘している日本の中近東文化センターの研究員の方はつぎのように発言しています。
この遺跡(=ビュクリュカレ遺跡)にヒッタイトの製鉄炉があってもおかしくない。付近には鉄鉱石が転がっているし、鹿の骨もある。鹿がいたということは、燃料の木々も豊富だったということだ。 |
要するに、紀元前1500年頃のヒッタイト帝国の景観は現代とは全く違ったわけです。ヒッタイトに限らず、製鉄が発達した地方は森の退潮が顕著です。地中海地方、韓国、中国、日本の中国地方などです。日本の「たたら製鉄」は特に中国地方で発達しましたが、製鉄による森林の伐採が進み、荒れ地に成長しやすい松が増えたため、皮肉にも松茸の産地になったと言われています。
宮崎駿さんの「もののけ姫」には、まさに室町時代における製鉄技術集団と山の神の「自然をめぐる対峙」が描かれていました。「もののけ姫」を見るとわかるのですが、エボシが率いる「たたら」集団は鬱蒼とした森に近接した「たたら場」で製鉄をしています。そういう場所でないと鉄は作れないからです。紀元前1500年頃のヒッタイトの遺跡周辺はまさに「もののけ姫」のような感じだったのでしょう。
「もののけ姫」の"たたら場"とその周辺 |
金属精錬による自然破壊:ローマ帝国
日本のように降雨量が多く森林の回復力が強いところはまだましです。しかしそうでない土地では森林の破壊は致命的な結果を招きます。ジョン・パーリン著「森と文明」(晶文社 1994)に、2000年前の文明先進国であったローマ帝国の話が書かれていました。これは金属製錬による環境破壊が国を滅ぼしかねないという具体例です。ちょっと引用します。
ローマの成長の財政的基盤は、主としてスペインの原鉱石から抽出した銀であった。銀の生産がめだって増加したのは、共和政時代後半と帝政時代の初期である。しかし、このあおりをくったのがイベリアの森であった。というのも、銀を製錬する窯が製錬の工程で消費した木は、400年間で500万本以上にのぼったからである。窯の燃料を提供するために伐採された森林面積は、1万1200平方キロメートル以上にもなる。 |
以上のような記述に続いて、その後にスペインにおける銀の生産がどういう経過をたどるかが書かれています。ローマ帝国は木材供給のコントロールに乗り出します。浴場経営者などの非採掘業に対し、経営上必要とする量のみの森の木を取得するように命令を出し、木材価格の高騰を防ぐため木の転売を禁止します。
しかし2世紀末に、ついに銀の生産量が減少し始めます。銀鉱石はまだ豊富にあったにもかかわらずです。そしてコンモドゥス帝(180-192)はついに銀貨における銀の含有量を30%も下げてしまったのです。すぐあとのセヴェルス帝(193-211)はさらに20%下げ、銀の含有量は50%を切りました。こうなると事態は急速に進展し、3世紀末には銀の含有量が2%にまで減り、貨幣価値が激減しました。4世紀初頭にはすでに、物々交換や物による支払いが制度化されたと言います。
ローマ帝国の基軸通貨は「デナリウス銀貨」です。塩野七生さんの「ローマ人の物語 第13巻:最後の努力」には、
初代皇帝のアウグストゥスが制定して以来のローマ帝国の通貨は、実に300年以上にわたって銀本位制でつづいていたのである。デナリウス銀貨を基軸通貨にすえる制度であった |
と書かれています。また同じ本には、銀貨の銀含有量の変遷も表にしてあります。
時期 |   銀貨の重さ   | 銀の含有量 |
  BC.23   | 3.9 g |   純銀   |
  AD 64   | 3.4 g |   銀 93% 銅 7%   |
215   | 5.5 g |   銀 50% 銅 50%   |
265   | 3.0 g |   銀  5% 銅 95%   |
銅と書いてあるところは「銅やその他の金属」の意味だと思いますが、全体として「森と文明」の記述と同じです。森林の限界が銀の生産の限界に直結するわけです。
ここで、スペインの森が少なくなったのなら森がまだ豊富に残っている地方(たとえばガリア)から木材を運んだらどうかとか、逆に銀の鉱石をガリアに運んで製錬したらと思うのは早計です。それは論理的には可能ですが、そいういう「重量物」を運ぶには多大なコストと労働力の投入が必要です。製錬した結果としての「純銀」を運ぶコストとは比較にならない。当時はトラックや輸送機械はないのです。銀貨の貨幣価値がそれを作るコストを上回わらないと経済は成り立ちません。
ここまで基軸通貨の素材価値が下落するとインフレを招くはずです。アルベルト・アンジェラ著「古代ローマ人の24時間」(関口英子訳。河出書房新社 2010)には次のように書かれています。
なかでも驚くのは、小麦価格の高騰だ。紀元1世紀には、6.5キロ(1モディウス)の小麦が3セステルティウスで手に入ったが、2世紀後(3世紀末)には。240セステルティウスまで上昇していた。 |
ちなみに4セステルティウス(青銅貨)で、1デナリウス(銀貨)です。紀元1世紀の時点で1セステルティウスは現代の2ユーロぐらい、とアルベルト・アンジェラは書いています。
もちろん、一般的に言って物価高騰やインフレの原因は貨幣価値の下落だけではありません。需給のアンバランスや財政政策の失敗(国の債務超過など)でも起こります。しかし最も基本的な生活必需品である小麦の価格が2世紀の間に80倍にもなったことが、この期間に同時に進行していた貨幣価値の下落と無関係だとはまず考えられないでしょう。
ローマ皇帝は、帝国の基軸通貨の銀含有量を数十分の一に低下させてしまいました。これは、この一事だけをとってみても、国を滅ぼすにも等しい行為です。貨幣の信用度はガタ落ちとなり、物資の流通は滞り、物々交換の時代に舞い戻り、経済は停滞するはずです。国の財政は悪化し、当然のことながら、軍事力も低下します。
「ローマ人の物語」で塩野さんは「経済人なら政治を理解しないでも成功できるが、政治家は絶対に経済がわかっていなければならない(第6巻:パクス・ロマーナ)」と書いていますが、全くその通りだと思います。「暴走」とでも言うべき経済政策の引き金を引いたもの、それは森林の破壊だったというわけです。
『指環』が問いかけるもの
もちろん、森林破壊は金属製錬だけが原因ではありません。近代以前においては、一般の人が炊事や暖房に使うエネルギー源は木材(薪、ないしは炭)です。特にローマ帝国では浴場の運営に多量の木材が必要だったことは想像に難くありません。それはスペインにおける浴場経営者に対する木材取得の制限令に具体的に現れています。歴史書には「ローマには大規模な公衆浴場がたくさんあり、常時お湯があふれ、皇帝も市民も奴隷も一緒に入浴を楽しみ・・・・・・」みたいな表現がよくありますが、その裏で進行していたことを見ようとはしないわけですね。
家屋や建物を作る素材である煉瓦も問題です。煉瓦を焼くにもエネルギーが必要だからです。その点、古代からある「日干し煉瓦」はエネルギーを必要としません。我々は何となく「焼き煉瓦」の方が強固で風雨や自然災害に強いから、より「進歩的で高度」であって、それに対して「日干し煉瓦」は「遅れた」人たちがやることのように思いますが、どちらが本当に進んでいるのかは一概には言えないと思います。
船の建造にも大量の木材が必要です。近代以前においては、大量の木材がないと船は絶対に造れません。船は輸送力や軍事力を通して文明の繁栄の基盤となったものです。いや繁栄どころか、軍船・軍艦として国が生きるか死ぬかを決める重要装備でもあったわけです。昔習った「世界史」で、古代ギリシャの都市国家がペルシャ戦争に勝利する契機となった「サラミスの海戦」を思い出します。スペイン帝国の凋落(=イギリスの隆盛)のトリガーを引いた「無敵艦隊の敗北」という世界史上の重大事項もありました。
大規模な森林破壊は、単にエネルギー源が枯渇するだけなく、山地から川や河口への土砂の流出を招きます。さらに、川から海に流れ込む栄養分が少なくなって近海のプランクトンを減少させ、沿海漁業の漁獲量が減少します。森が大規模に消失すると森林からの水分蒸発がなくなって、気象変動さえ引き起こしかねません。つまり生活環境が広範囲に変わってしまうのです。このあたりが怖いところです。
さらに、環境破壊は森林破壊だけではありません。文明の最たるものである「農業」は、過度の耕作や灌漑を通して土壌の破壊(塩分の集積や土壌の流出など)を招き、それが数々の古代文明の衰退の原因になりました。過度の遊牧も植生を破壊して土地の砂漠化を進めました。文明の発達→環境破壊→文明の衰退、というサイクルは人類史に多数あるのです。
はたして現代人はこのサイクルから抜け出したのでしょうか。《指環》の呪いからまぬがれ得たのでしょうか。エルダの警告(No.15 譜例 21 参照)は聞き入れられたのでしょうか。「文明が文明を危機におとしいれる」のは古代だけのことなのでしょうか。現代人である我々は、どの程度「賢く」なったのでしょうか。これが《指環》が提示している「重い問い」だと思います。
(続く)
No.15 - ニーベルングの指環(2) [音楽]
(前回より続く)
ライトモティーフの物語性(2)
前回に類似したライトモティーフとして「指環」と「ワルハラ」、「呪い」と「ジークフリート」の例をあげましたが、さらに別の例をあげます。
『指環』の最初に出てくるライトモティーフは」「自然の生成」と呼ばれる旋律です(譜例20)。「ラインの黄金」の前奏曲の冒頭、ファゴットとコントラバスの低い連続音が続いた後にホルンで演奏される旋律で、変ホ長調の主和音を力強くシンプルに上昇する、まさに「生成していく」という感じのライトモティーフです。この旋律はその後さまざまに変奏され、「自然」や「ライン河」などの一連のライトモティーフ群を形成します。ここまでは直感的に非常によく理解できます。
しかし「ラインの黄金」の終わりも近くの第4場になって「自然の生成」のちょっと異質な変奏が出てきます。それが短調の「エルダ」のライトモティーフです(譜例21)。エルダは大地の女神であり、全てを見通している知恵の女神です。そして譜例21とともに登場した彼女は「指環を手に入れるとき破滅が待っている。指環の呪いを恐れよ」と、神々の長であるヴォータンに警告を発します。この場面では「自然の生成」(譜例20)も登場し、譜例21がその変奏であることがクリアに分かるようになっています。
そしてそのすぐあとに、短調の別の変奏(譜例22)がヴァイオリンに現れます。このライトモティーフは「神々の没落(黄昏)」という名前がついていて、これはその後の『指環』の進行の中でしばしば現れます。
つまり譜例20を元に、譜例21、譜例22と変奏が加えられることによって、ほぼ同一のリズムでありながら、
長調の上昇音階=生成(譜例20)
短調の下降音階=没落(譜例22)
を表現していて、この2つの混在形のような
全てを見通している女神・エルダ(譜例21) |
を表していることになります。これが意図的なら、どう解釈したらよいのでしょうか。
妥当な解釈は、生成・勃興は衰退・没落に変化するという暗示、あるいは生成・勃興と衰退・没落は表裏一対のものであって、すべてを見通している神はその両方を支配している、という暗示です。つまり、このオペラのテーマの一つを表現しているのだと思います(そうとしか考えられない)。
平家物語の世界を思い起こすなら「盛者必衰」でしょうか。
変奏という手法
要するにこれは「変奏」という音楽の手法を最大限に活用しているわけです。バッハのゴールドベルク変奏曲という曲がありますね。主題に続いて30曲の変奏があり最後に主題が回帰します。初めてこの曲を聞いたとき「えっ、これが全部変奏なの?」と思った記憶があります。しかしよく聞くと、旋律が類似していたり、加工されていたり、和声進行が同じであったりと、やはり変奏曲なのです。バッハに限らず、変奏はクラシック音楽の作曲技法上の最重要技術です。
この「変奏」がライトモティーフと合体するとどうなるか。ライトモティーフはある種の「意味」を持っています。意味を持っている旋律が変奏され「別の意味」で使われると、意味が重ねられて重層的な意味をもつようになるのは当然でしょう。
これは芸術上の手法としては、短歌における「本歌取り」と似ていますね。平安時代後期の歌によくあります。たとえば「私の想いは不変です」という恋歌の本歌をもとに「私の想いは非常に強い」という歌を詠めば「私の想いは以前と変わらず、非常に強い」という意味になる。ごくごく単純化するとそんな感じです。「本歌取り」は現代の歌人も使います。
秋すぎて冬きたるらしぽやぽやと
朝しろたえのため息をはく
(俵万智「かぜのてのひら」より)
歌人は、読者が百人一首にある持統天皇の歌を知っていることを前提にしています。1300年の時を隔てた2つの歌のイメージが重なって(この場合は対比が鮮明になって)意味が強まるわけです。
意味を持つ旋律が変奏され別の意味で使われると、意味が重ねられて重層的な意味をもち、そしてオペラの「構図」や「テーマ」をも暗示するようになる。このことは、私が独断で言っているのではなく、ワーグナー自身が「ラインの黄金」の第1場から第2場への移行の場面(No.14 「ニーベルングの指環(1)」譜例16, 17 のところ)で「音楽で」言っていることなのです。
ライトモティーフの物語性(3)
さらにもっと進んで、ライトモティーフが『指環』のテーマそのものを直接的に指し示していると考えられる例があります。
『指環』4部作の最後に出てくるライトモティーフは、「救済」ないしは「愛の救済」と呼ばれている旋律です(譜例23)。譜例23は「神々の黄昏」の最後の場面、つまりの『指環』全体の最終場面の第1ヴァイオリンのパートだけを抜き出したものです。この譜例23の最初の2小節が「救済」のライトモティーフです。この旋律は「神々の黄昏」の最後の7分間で支配的な旋律で、かつ「神々の黄昏」ではこの7分間にしか出てきません。
しかしそれ以前に『指環』という長大なオペラの中で、たった一度だけこのライトモティーフが出てくる箇所があります。それは楽劇「ワルキューレ」の第3幕・第1場で、譜例19(No.14 「ニーベルングの指環(1)」参照)の「ジークフリート」のライトモティーフが初めて出てきた直後です。譜例19の説明で書いたように、この場面でブリュンヒルデは身ごもっているジークリンデをヴォータンの命令にそむいて助けるのですが、それに応えてジークリンデは「おお、もっとも高貴な奇跡よ。最も気高い乙女よ。誠実なあなたに私は感謝します。」と歌います。その時の旋律が、譜例24の「愛の救済」なのです。
なぜ「愛の救済」という名前がこのライトモティーフにつけられているのか。それはブリュンヒルデの「愛」によってジークリンデが「救済」されるからでしょう。しかし、もう少しマクロ的にこの場面を見るとどうなるでしょうか。ジークリンデは身ごもっていて、その子はのちのジークフリートです。この場面は母から子へ、現世代から次世代へ、現在から未来へ、という「命の継承」ないしは「世代の継承」の場面だと考えられます。ライトモティーフは多義的です。譜例23と譜例24が「救済」であると同時に、もっと本質的には次世代への「継承」であっても全くおかしくはない。
「ワルキューレ」 第3幕・第1場より |
楽劇「神々の黄昏」の最終場面で、ブリュンヒルデは愛馬とともに火の中に飛び込み、ハーゲンはライン河に引きずり込まれ、指環は再びラインの乙女に戻り、ワルハラは炎上します。いささか唐突にすべてが初期状態に戻ってしまうようなニーベルングの指環の最終場面ですが、最後のセリフはハーゲンの「指環に近づくな」です。最後のセリフから「神々の黄昏」の終了までは4~5分もの時間があります。そこでは音楽=ライトモティーフをたよりに結末を読み解かないといけない。そして譜例23の音楽だけが最後まで残ります。その音楽が暗示していることは、この場面は決して終わりではなくて「継承」であり、次の新しい世代の始まりだということです。ここで「継承」の象徴となっているのは言うまでもなく、持ち主の変遷を重ねたあとに再びラインの乙女たちに返された「黄金の指環」です。
つまり『指環』のエンディングは、世界は再び「循環」し「回帰」するという暗示であり、これが『指環』も最も大きなテーマでしょう。ライトモティーフからシンプルに、論理的に考えるとそうなります。従って、譜例23・24は『指環』における最も重要なライトモティーフです。そして、このライトモティーフにつけるべき最適なタイトルは「継承」であり、サブタイトルとして「救済」と言うべきでしょう。
「循環」する世界観
変容し循環する世界観・・・・・・。考えてみると、これは我々日本人にとってもなじみが深いものです。私などは「循環」をテーマにした音楽作品というと、すぐに中島みゆきさんの名曲「時代」を思い浮かべるのですが、絵画に目を向けると No.5 交響詩「モルダウ」のところに書いた横山大観の「生々流転」がまさにそうで「変容」と「循環」をテーマにしています。また音楽・絵画作品だけでなく、文学や民話にも多々あります。さきほどちょっと触れた平家物語などもそうで「諸行無常」や「輪廻」などの思想をもつ仏教の影響を受けているわけですね。
今「仏教」と書いて思い出したことがあります。ちょっと唐突ですが、18世紀のイギリスにウィリアム・ジョーンズという人がいました。彼は裁判官でしたが各国の言語にも通じていました。ジョーンズは当時イギリスの植民地だったインドに判事として赴任し、そこで仕事のかたわら言語の研究を重ね、1786年に驚くべき説を発表しました。インドのサンスクリット語と古代ギリシャ語やラテン語は同一起源の言語だというのです。この説はヨーロッパの学界に大きな衝撃を与えましたが、その後の研究によりこの説は正しいのみならず、ユーラシア大陸の多数の言語を含むグループが同一起源であり、約1万年前にあった「祖語」から分岐・派生してきたということが分かってきたのです。いわゆるインド・ヨーロッパ語族(印欧語)の発見です。現在のヨーロッパの言語のほとんどは印欧語です(フィンランド語、ハンガリー語、エストニア語、バスク語を除く)。またロシア語、チェコ語などのスラブ語族や、イランを中心としたペルシャ語、そしてインドのヒンドゥー語やサンスクリット語までもが印欧語です。
印欧語を話す諸民族が同じ文化をもつとは限らないのですが、神話、歴史観、世界観には多くの類似性・共通性が認められています。その一つは、生と死が交代するという「循環・回帰する歴史観」です。「万物は流転する」と言った古代ギリシャの哲学者がいました(=ヘラクレイトス)。そのほか神性があらゆるものに宿ると考える「汎神論」や「多神教」、また「魂の輪廻」なども共通性があります。ワーグナーが『指環』の原型とした北欧神話、ドイツの伝説・叙事詩、ギリシャ神話は、もちろんこういった印欧語の文化的背景から生まれてきたものです。そしてウィリアム・ジョーンズが最初に指摘したサンスクリット語で教典が記述された宗教の代表格、それが仏教なのです。仏教はヒンドゥー教と同じく印欧語を話すインドのアーリア族の中から生まれ、中国、朝鮮半島をへて日本に伝わり、奈良時代に「国教」となり、日本に多大な影響を与えました。「ニーベルングの指環」と日本の文化がどこかで繋がっていてもおかしくはありません。
また仏教を持ち出すまでもなく、自然環境と共生してきた人々にとって「循環」はごくあたりまえの世界観です。それは横山大観が「生々流転」で描いた水→河→海→水蒸気→雨→水という循環だけではありません。森の木は老いて倒木となり、朽ちて大地に戻り、それが栄養分となって新たな木の土壌になります。秋から冬にかけて植物が枯れ、春に再生し、夏に茂り、それが繰り返されるのもそうです。「ニーベルングの指環」には「自然」や「動植物」がやたらに登場することが思い起こされますね。河、森、樹、トネリコ、洞窟、嵐、虹、日の出、小鳥、蛇、カラス、馬・・・・・・。小鳥のように、セリフをもつ動物さえあります。
「循環」の視点で世界をとらえることは「循環型社会への転換」が叫ばれているように、今後の私たちの社会のあり方にとっても極めて大切なことです。「ニーベルングの指環」というオペラを見て思うのは、ヨーロッパ文化から生まれてきた遠い国の遠い昔の話ではなく、むしろ意外に身近に感じる「親近感」なのです。
(続く)
 補記:デリック・クックのライトモティーフ解説  |
イギリスの音楽学者、デリック・クックが「ニーベルングの指環」のライトモティーフを解説した2枚組CD(英語版)があります。この日本語対訳とライトモティーフ譜例を以下の記事に掲載しました。
No.257-261 "ニーベルングの指環" 入門(1)~(5)
(2019.06.21)
No.14 - ニーベルングの指環(1) [音楽]
No.5 - 交響詩「モルダウ」のところで、
と書きました。
そのリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指環」(以下『指環』と記述します)について書いてみようと思います。
『指環』は、「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の全4部作のオペラ(楽劇)で、ぶっ通しで上演するとしても約15時間もかかる、音楽史上屈指の大作です。この大作の複雑で込み入ったストーリーやドラマ、登場人物に言及し出だすとキリがないので、ここでは『指環』の音楽の特徴である「ライトモティーフ(ライトモチーフ)」に話を絞ります。「ライトモティーフ」を通して『指環』のテーマを推測してみたいと思います。
ライトモティーフ
ライトモティーフは特定の人物・モノ・事象・自然現象・感情・理念などを表す比較的短い旋律、クラシック音楽でいう「動機」で、ドイツ語は Leitmotiv です。英訳すると leading motif、日本語では「示導動機」ないしは「指導動機」と訳されています。英語でもドイツ語そのままに leitmotif ともいうので、ここでは「ライトモティーフ」で統一したいと思います。
ライトモティーフはワーグナーのオペラでは『指環』だけでの特徴ではなく、もちろん他の作品にもあります。また「後輩」のプッチーニなども類似のことをやっています。しかし『指環』ほどライトモティーフを大々的かつ組織的に使った例はありません。
『指環』のライトモティーフは、数え方によって数十個から百数十個ほどあります。比較的分かりやすいのは「ラインの乙女」「ジークフリート」「小鳥」「黄金」「剣」「ライン河」「嵐」などの「ヒト・モノ」を表すライトモティーフですが、「アルベリヒの呪い」「ヴォータンの怒り」「契約」などの「コト」を表すものもあります。さらにライトモティーフは使われる箇所によって「槍」はまた「契約」であったりというように「関連はするが、違った意味を持つような多義性」があります。
問題はこれらの使われ方です。たとえばラインの乙女たちが登場する場面に「ライン河」や「ラインの乙女」のライトモティーフが使われたり、「ジークフリート」のライトモティーフが鳴り響いたすぐ後にジークフリートが舞台に登場したり、登場人物が怒っている時に「怒り」のライドモティーフが流れたり、というように、ドラマの演技や場面を強めたり、盛り上げたり、という使われ方があります。これらはいわば「分かりやすい」使われ方です。
ライトモティーフのドラマ性
しかしもっと進んで、舞台上の演技や歌では直接的には表現されない裏の意味や事情を表現したり、その後のドラマの進行や展開を予告・先導したり、といったケースが非常にたくさんあるのです。
一つだけ例をあげますと、楽劇「ラインの黄金」の4場で出現する「呪い」というライトモティーフがあります。これは「指環を手にするものは死ぬ」という呪いなのですが(譜例18。後で詳述)、このライトモティーフが楽劇「ワルキューレ」の第2幕・第1場の最後のところで「突如として」出てきます。この第2幕・第1場では、ヴォータンの妻のフリッカ(=結婚の神)がジークリンデとジークムントの近親相姦に怒り、ジークムントを倒すことをヴォータンに約束させます。そして舞台から去っていくのですが、そこでオーケストラが演奏するのが「呪い」です。これは、約束どおりジークムントが死ぬこと、つまり『指環』のドラマ展開の根幹になっている「呪い」と、ジークムントの運命が、「死」という共通項でつながっていることを暗示していると考えられます。
こういったたぐいの、裏の意味や事情を表現したり、その後のドラマの進行や展開を予告したり、というライトモティーフの使われ方が『指環』ではいっぱいあるわけです。
さて、ちょっと「ややこしい」ことになってきました。普通オペラを劇場で見たりDVDで鑑賞するといった場合、私たちは舞台の上で繰り広げられる歌手たちの歌と演技でドラマの進行を(字幕も参照しながら)理解するわけで、オーケストラはそのドラマの進行を音楽で「盛り上げ」たり「雰囲気づくり」をする、あくまでドラマの進行にとっては補助的役割だと何となく感じています。ところが『指環』においては、オーケストラはそれ以上のものなのです。つまり、歌手の演技の裏の意味やドラマの今後の展開をライトモティーフが暗示する、というようなことがあるわけです。「ライトモティーフのドラマ性」と書いたのは、ライトモティーフという音楽がドラマを進行させる重要な意味を担っている、という意味です。つまり『指環』というドラマは、
① 歌手の演技
② 歌唱
③ 舞台装置
④ ライトモティーフを含む音楽
の4つの要素によってストーリーが進行していきます。普通のオペラよりドラマ進行の構成要素が一つ多い感じで、つまりこれだけでも「ややこしく」なってきた感じなのです。
映画に引用された『指環』
ここで『指環』のライトモティーフが引用された映画作品を見てみたいと思います。つまり「クロスオーバー的な見方」で、ライトモティーフの役割を確認してみます。
一般にクラシック音楽を映画のサウンドトラックに使った例は山のようにありますが、『指環』のライトモティーフ(音楽)の引用についてまず思い浮かぶのは、フランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」(1979)でしょう。アメリカ軍の軍用ヘリコプターが解放戦線の拠点となっている村落を攻撃する場面に、「ワルキューレ」第3幕の「騎行」が使われています。この例では、馬に騎乗して駆けめぐるワルキューレの姿と軍用ヘリコプターが重ね合わされています。いわば非常に直接的かつ視覚的で、分かりやすい例です。戦争の道具をワルキューレと重ねるのはどうかという意見があると思いますが、それはさて置きます。
しかしこのような「直接的」かつ「視覚的」ではなく、ライトモティーフが持つ意味合いをドラマの進行に役立てた映画があります。その例がニコール・キッドマン主演の「記憶の棘」(2004米映画。原題:Birth)です。
この映画では、夫を突然死で亡くしたニューヨーク在住の若い未亡人(ニコール)が再婚しようとしています。まさにその時、死んだ夫の「生まれ変わり」だと言う少年が現れます。初めは無視していた彼女も、少年の話を聞くうちに「ひょっとしたら」という思いが芽生えます。そのような中で、主人公が婚約者にさそわれて劇場に行く場面があります。カメラはほとんどニコールだけを追うので、劇場が何か、どのような出し物かは初めは分かりません。座席に2人がついたあと、カメラはニコールの顔のクローズアップだけを画面いっぱいに写します。そして音楽が流れ出すのです。これで理解できます。音楽は「ワルキューレ」の冒頭です。ということは、メトロポリタン歌劇場にオペラを見に行った、というような想像がつくわけです。
問題はこの「ワルキューレ」の冒頭部分です。これは『指環』の中では「嵐」と名付けられているライトモティーフで(譜例15)、この動機をチェロとコントラバスが演奏するのが「ワルキューレ」の冒頭の前奏曲の出だしなのです。この場面は「嵐」というライトモティーフで、主人公の心の中の嵐を表現していると言えるのです。
主人公は再婚の婚約をしたものの、亡くなった夫への思いを断ち切れません。再婚相手に不満はないものの、本当に再婚していいのか、無意識での葛藤があります。そんな折りも折り、少年が現われる。生まれ変わりなどありえないと思うものの、ひょっとしたらという考えも出てくる。なによりも少年の出現が、もともとあった再婚にまつわる心の葛藤を増進させる。主人公の心の中ではまさに「嵐」が吹き荒れているのです。また「嵐」はこの後のこの映画の「激動する」ストーリー展開を暗示しているようです。
映画としての出来・不出来は別として、この映画のシナリオライターはワーグナーをよく知っていますね。どれかの有名オペラの「劇的な」旋律を映画に採用したのではなく、あえて「ワルキューレ」の冒頭をもってきている。「嵐」がこのシーンでは適当だということ、またそれ以上に、人間心理を指し示してドラマを進行させるというライトモティーフのワーグナー的役割を知っているわけです。ワーグナーのオペラの音楽の一部を映画に使うときの「極めて正しいやり方」がここにはあります。
ライトモティーフの物語性(1)
話を『指環』に戻します。ライトモティーフはさらに進んで単独で存在するのではなく、あるライトモティーフから別のライトモティーフが派生し、そのことによって意味が深まったり、さらには物語の構図やテーマを暗示するという例があります。
この「派生」をワーグナー自身が明確に示している箇所があります。つまり「ラインの黄金」の第1場の終りの部分で、ヘ短調の「指環のライトモティーフ」(譜例16)が次第に形を変え、変ニ長調の「ワルハラ」のライトモティーフ(譜例17)に変奏されて第2場に入る箇所です。これは、神々の居城(=ワルハラ)が世界を支配することを示唆しています。指環が暗示することは「世界の支配」だからです。もちろん解釈はいろいろと可能ですが、確実に言えるのは、この箇所が1つのライトモティーフから別のライトモティーフが派生し、そのこと自体が意味をもっていることを音楽として示していることでしょう。つまりこの部分は、作曲家自身が「ニーベルングの指環におけるライトモティーフはこういう使い方をするのだ」ということを宣言しているのです。
実はこれと極めてよく似た例があります。譜例18は前にも述べた「アルベリヒの呪い」というライトモティーフです。「ラインの黄金」の第4場で、ニーベルング族のアルベリヒは自らが黄金から作った指環を神々の長であるヴォータンに取り上げられてしまいます。そもそも指環とは、それを手にするものに無限の力が与えられるというものです。指環を取り上げられ怒ったアルベリヒは、指環に呪いをかけます。「この指環を手にするものは死ぬ」という呪いです。譜例18のはまさにその呪いをかけるところで、アルベリヒが「呪いによってわしのものになっていたその指環に呪いをかけるぞ。その黄金の指環はわしに限りない力を与えたが、今やその魔力はそれをもつやつに死を与えよ」(天野晶吉訳。以下同じ)と歌う場面の、その前半の旋律です。
この「アルベリヒの呪い」は、それ以降の『指環』においてストーリーの根幹のところを支配していて、『指環』の最終場面におけるワルハラ(神々の居城)の炎上・崩壊も、この呪いの実現であるわけです。
ところが、この「アルベリヒの呪い」と非常によく似たライトモティーフが次の楽劇「ワルキューレ」の第3幕・第1場に出できます。それは「ジークフリート」を表すライトモティーフ(譜例19)です。
『指環』の主人公(の一人)であるジークフリートが舞台で活躍するのは楽劇「ジークフリート」と「神々の黄昏」です。従ってこの2つの楽劇において譜例19はたくさん出できますが、最初に出てくるのはジークフリートがまだ生まれていない段階の楽劇「ワルキューレ」です。つまりジークリンデが身ごもっている(その子がのちのジークフリート)ことを知ったブリュンヒルデは、ヴォータンの命令に反してジークリンデを森に逃がすのですが、その時の歌唱の中にこのライトモティーフが初めて出てきます。その場面のブリュンヒルデの歌唱は「この世の最も高貴な英雄を、あなたは胎内に宿し、守っているのだということを」(譜例19の箇所)というものです。
譜例18と19の関係は、譜例16と17の関係にそっくりです。譜例18は短調、譜例19は長調です。しかしよく似ている。譜例18の「音の運び」が譜例19の最初から5小節にそっくりです。これは一種の「変奏」なのです。譜例19の「ジークフリート」の方が旋律としてはっきりしていて輝かしいので、譜例19の最初の5小節を短調にして変奏したのが譜例18と言ってよいと思います。
これが意図的にそうなっているとすると何を意味しているのでしょうか。自然な解釈は「ジークフリートは、呪いと関連して生まれてきた」、あるいは「ジークフリートのウラには呪いがある」という解釈です。事実、ジークフリートは楽劇「ジークフリート」で指環を手に入れ不死身になるのですが、「神々の黄昏」で唯一の弱点をハーゲンに突かれて殺されてしまいます。
つまり楽劇「ラインの黄金」の終了部分での「アルベリヒの呪い」と、楽劇「ワルキューレ」での母親の胎内にいる「ジークフリート」という2つのライトモティーフの類似性で、ドラマの大きな構図(の一つ)が暗示されているわけです(そうとしか思えない)。そして大事なことは「ジークフリートは呪いと関連して生まれてきた」というような登場人物の歌唱はないし、それを匂わすセリフもないし、演技もないことです。それは音楽だけで暗示されているに過ぎない。しかもこの暗示はジークフリートがまだ生まれてもいない段階からされるのです。
「ニーベルングの指環」というオペラの最大のトリックは「呪い = ジークフリート」という、物語のエンディングを見据えた重要な伏線が音楽だけで示されていることでしょう(下図)。しかもこのトリックは「ラインの黄金」と「ワルキューレ」という二つのオペラをまたがって仕掛けられているのです。
イギリスの音楽学者、デリック・クックが「ニーベルングの指環」のライトモティーフを解説した2枚組CD(英語版)があります。この日本語対訳とライトモティーフ譜例を以下の記事に掲載しました。
No.257-261 "ニーベルングの指環" 入門(1)~(5)
音楽の世界でも神話・伝説・伝承をもとに作品を作った例が数多くあって、スメタナの同世代ワーグナーも多くの作品を書いている、それを最も大々的にやったのがゲルマンの伝承や北欧神話を下敷きにした「ニーベルングの指環」4部作。そう言えばスメタナの「わが祖国」に出てくるシャールカ伝説の「女性だけの戦士団」は「指環」のワルキューレを連想させる。 |
と書きました。
そのリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指環」(以下『指環』と記述します)について書いてみようと思います。
『指環』は、「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の全4部作のオペラ(楽劇)で、ぶっ通しで上演するとしても約15時間もかかる、音楽史上屈指の大作です。この大作の複雑で込み入ったストーリーやドラマ、登場人物に言及し出だすとキリがないので、ここでは『指環』の音楽の特徴である「ライトモティーフ(ライトモチーフ)」に話を絞ります。「ライトモティーフ」を通して『指環』のテーマを推測してみたいと思います。
なお、以下に掲げる『指環』の画像は、ジェームス・レヴァイン指揮、メトロポリタン・オペラのものです。 |
ライトモティーフ
ライトモティーフは特定の人物・モノ・事象・自然現象・感情・理念などを表す比較的短い旋律、クラシック音楽でいう「動機」で、ドイツ語は Leitmotiv です。英訳すると leading motif、日本語では「示導動機」ないしは「指導動機」と訳されています。英語でもドイツ語そのままに leitmotif ともいうので、ここでは「ライトモティーフ」で統一したいと思います。
ライトモティーフはワーグナーのオペラでは『指環』だけでの特徴ではなく、もちろん他の作品にもあります。また「後輩」のプッチーニなども類似のことをやっています。しかし『指環』ほどライトモティーフを大々的かつ組織的に使った例はありません。
『指環』のライトモティーフは、数え方によって数十個から百数十個ほどあります。比較的分かりやすいのは「ラインの乙女」「ジークフリート」「小鳥」「黄金」「剣」「ライン河」「嵐」などの「ヒト・モノ」を表すライトモティーフですが、「アルベリヒの呪い」「ヴォータンの怒り」「契約」などの「コト」を表すものもあります。さらにライトモティーフは使われる箇所によって「槍」はまた「契約」であったりというように「関連はするが、違った意味を持つような多義性」があります。
問題はこれらの使われ方です。たとえばラインの乙女たちが登場する場面に「ライン河」や「ラインの乙女」のライトモティーフが使われたり、「ジークフリート」のライトモティーフが鳴り響いたすぐ後にジークフリートが舞台に登場したり、登場人物が怒っている時に「怒り」のライドモティーフが流れたり、というように、ドラマの演技や場面を強めたり、盛り上げたり、という使われ方があります。これらはいわば「分かりやすい」使われ方です。
ライトモティーフのドラマ性
しかしもっと進んで、舞台上の演技や歌では直接的には表現されない裏の意味や事情を表現したり、その後のドラマの進行や展開を予告・先導したり、といったケースが非常にたくさんあるのです。
一つだけ例をあげますと、楽劇「ラインの黄金」の4場で出現する「呪い」というライトモティーフがあります。これは「指環を手にするものは死ぬ」という呪いなのですが(譜例18。後で詳述)、このライトモティーフが楽劇「ワルキューレ」の第2幕・第1場の最後のところで「突如として」出てきます。この第2幕・第1場では、ヴォータンの妻のフリッカ(=結婚の神)がジークリンデとジークムントの近親相姦に怒り、ジークムントを倒すことをヴォータンに約束させます。そして舞台から去っていくのですが、そこでオーケストラが演奏するのが「呪い」です。これは、約束どおりジークムントが死ぬこと、つまり『指環』のドラマ展開の根幹になっている「呪い」と、ジークムントの運命が、「死」という共通項でつながっていることを暗示していると考えられます。
こういったたぐいの、裏の意味や事情を表現したり、その後のドラマの進行や展開を予告したり、というライトモティーフの使われ方が『指環』ではいっぱいあるわけです。
さて、ちょっと「ややこしい」ことになってきました。普通オペラを劇場で見たりDVDで鑑賞するといった場合、私たちは舞台の上で繰り広げられる歌手たちの歌と演技でドラマの進行を(字幕も参照しながら)理解するわけで、オーケストラはそのドラマの進行を音楽で「盛り上げ」たり「雰囲気づくり」をする、あくまでドラマの進行にとっては補助的役割だと何となく感じています。ところが『指環』においては、オーケストラはそれ以上のものなのです。つまり、歌手の演技の裏の意味やドラマの今後の展開をライトモティーフが暗示する、というようなことがあるわけです。「ライトモティーフのドラマ性」と書いたのは、ライトモティーフという音楽がドラマを進行させる重要な意味を担っている、という意味です。つまり『指環』というドラマは、
① 歌手の演技
② 歌唱
③ 舞台装置
④ ライトモティーフを含む音楽
の4つの要素によってストーリーが進行していきます。普通のオペラよりドラマ進行の構成要素が一つ多い感じで、つまりこれだけでも「ややこしく」なってきた感じなのです。
映画に引用された『指環』
ここで『指環』のライトモティーフが引用された映画作品を見てみたいと思います。つまり「クロスオーバー的な見方」で、ライトモティーフの役割を確認してみます。
一般にクラシック音楽を映画のサウンドトラックに使った例は山のようにありますが、『指環』のライトモティーフ(音楽)の引用についてまず思い浮かぶのは、フランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」(1979)でしょう。アメリカ軍の軍用ヘリコプターが解放戦線の拠点となっている村落を攻撃する場面に、「ワルキューレ」第3幕の「騎行」が使われています。この例では、馬に騎乗して駆けめぐるワルキューレの姿と軍用ヘリコプターが重ね合わされています。いわば非常に直接的かつ視覚的で、分かりやすい例です。戦争の道具をワルキューレと重ねるのはどうかという意見があると思いますが、それはさて置きます。
しかしこのような「直接的」かつ「視覚的」ではなく、ライトモティーフが持つ意味合いをドラマの進行に役立てた映画があります。その例がニコール・キッドマン主演の「記憶の棘」(2004米映画。原題:Birth)です。
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問題はこの「ワルキューレ」の冒頭部分です。これは『指環』の中では「嵐」と名付けられているライトモティーフで(譜例15)、この動機をチェロとコントラバスが演奏するのが「ワルキューレ」の冒頭の前奏曲の出だしなのです。この場面は「嵐」というライトモティーフで、主人公の心の中の嵐を表現していると言えるのです。
主人公は再婚の婚約をしたものの、亡くなった夫への思いを断ち切れません。再婚相手に不満はないものの、本当に再婚していいのか、無意識での葛藤があります。そんな折りも折り、少年が現われる。生まれ変わりなどありえないと思うものの、ひょっとしたらという考えも出てくる。なによりも少年の出現が、もともとあった再婚にまつわる心の葛藤を増進させる。主人公の心の中ではまさに「嵐」が吹き荒れているのです。また「嵐」はこの後のこの映画の「激動する」ストーリー展開を暗示しているようです。
映画としての出来・不出来は別として、この映画のシナリオライターはワーグナーをよく知っていますね。どれかの有名オペラの「劇的な」旋律を映画に採用したのではなく、あえて「ワルキューレ」の冒頭をもってきている。「嵐」がこのシーンでは適当だということ、またそれ以上に、人間心理を指し示してドラマを進行させるというライトモティーフのワーグナー的役割を知っているわけです。ワーグナーのオペラの音楽の一部を映画に使うときの「極めて正しいやり方」がここにはあります。
ライトモティーフの物語性(1)
話を『指環』に戻します。ライトモティーフはさらに進んで単独で存在するのではなく、あるライトモティーフから別のライトモティーフが派生し、そのことによって意味が深まったり、さらには物語の構図やテーマを暗示するという例があります。
この「派生」をワーグナー自身が明確に示している箇所があります。つまり「ラインの黄金」の第1場の終りの部分で、ヘ短調の「指環のライトモティーフ」(譜例16)が次第に形を変え、変ニ長調の「ワルハラ」のライトモティーフ(譜例17)に変奏されて第2場に入る箇所です。これは、神々の居城(=ワルハラ)が世界を支配することを示唆しています。指環が暗示することは「世界の支配」だからです。もちろん解釈はいろいろと可能ですが、確実に言えるのは、この箇所が1つのライトモティーフから別のライトモティーフが派生し、そのこと自体が意味をもっていることを音楽として示していることでしょう。つまりこの部分は、作曲家自身が「ニーベルングの指環におけるライトモティーフはこういう使い方をするのだ」ということを宣言しているのです。
実はこれと極めてよく似た例があります。譜例18は前にも述べた「アルベリヒの呪い」というライトモティーフです。「ラインの黄金」の第4場で、ニーベルング族のアルベリヒは自らが黄金から作った指環を神々の長であるヴォータンに取り上げられてしまいます。そもそも指環とは、それを手にするものに無限の力が与えられるというものです。指環を取り上げられ怒ったアルベリヒは、指環に呪いをかけます。「この指環を手にするものは死ぬ」という呪いです。譜例18のはまさにその呪いをかけるところで、アルベリヒが「呪いによってわしのものになっていたその指環に呪いをかけるぞ。その黄金の指環はわしに限りない力を与えたが、今やその魔力はそれをもつやつに死を与えよ」(天野晶吉訳。以下同じ)と歌う場面の、その前半の旋律です。
この「アルベリヒの呪い」は、それ以降の『指環』においてストーリーの根幹のところを支配していて、『指環』の最終場面におけるワルハラ(神々の居城)の炎上・崩壊も、この呪いの実現であるわけです。
ところが、この「アルベリヒの呪い」と非常によく似たライトモティーフが次の楽劇「ワルキューレ」の第3幕・第1場に出できます。それは「ジークフリート」を表すライトモティーフ(譜例19)です。
『指環』の主人公(の一人)であるジークフリートが舞台で活躍するのは楽劇「ジークフリート」と「神々の黄昏」です。従ってこの2つの楽劇において譜例19はたくさん出できますが、最初に出てくるのはジークフリートがまだ生まれていない段階の楽劇「ワルキューレ」です。つまりジークリンデが身ごもっている(その子がのちのジークフリート)ことを知ったブリュンヒルデは、ヴォータンの命令に反してジークリンデを森に逃がすのですが、その時の歌唱の中にこのライトモティーフが初めて出てきます。その場面のブリュンヒルデの歌唱は「この世の最も高貴な英雄を、あなたは胎内に宿し、守っているのだということを」(譜例19の箇所)というものです。
「ワルキューレ」第3幕・第1場より | |
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譜例18と19の関係は、譜例16と17の関係にそっくりです。譜例18は短調、譜例19は長調です。しかしよく似ている。譜例18の「音の運び」が譜例19の最初から5小節にそっくりです。これは一種の「変奏」なのです。譜例19の「ジークフリート」の方が旋律としてはっきりしていて輝かしいので、譜例19の最初の5小節を短調にして変奏したのが譜例18と言ってよいと思います。
これが意図的にそうなっているとすると何を意味しているのでしょうか。自然な解釈は「ジークフリートは、呪いと関連して生まれてきた」、あるいは「ジークフリートのウラには呪いがある」という解釈です。事実、ジークフリートは楽劇「ジークフリート」で指環を手に入れ不死身になるのですが、「神々の黄昏」で唯一の弱点をハーゲンに突かれて殺されてしまいます。
つまり楽劇「ラインの黄金」の終了部分での「アルベリヒの呪い」と、楽劇「ワルキューレ」での母親の胎内にいる「ジークフリート」という2つのライトモティーフの類似性で、ドラマの大きな構図(の一つ)が暗示されているわけです(そうとしか思えない)。そして大事なことは「ジークフリートは呪いと関連して生まれてきた」というような登場人物の歌唱はないし、それを匂わすセリフもないし、演技もないことです。それは音楽だけで暗示されているに過ぎない。しかもこの暗示はジークフリートがまだ生まれてもいない段階からされるのです。
「ニーベルングの指環」というオペラの最大のトリックは「呪い = ジークフリート」という、物語のエンディングを見据えた重要な伏線が音楽だけで示されていることでしょう(下図)。しかもこのトリックは「ラインの黄金」と「ワルキューレ」という二つのオペラをまたがって仕掛けられているのです。
(以降、続く)
 補記:デリック・クックのライトモティーフ解説  |
イギリスの音楽学者、デリック・クックが「ニーベルングの指環」のライトモティーフを解説した2枚組CD(英語版)があります。この日本語対訳とライトモティーフ譜例を以下の記事に掲載しました。
No.257-261 "ニーベルングの指環" 入門(1)~(5)
(2019.06.21)
No.11 - ヒラリー・ハーンのシベリウス [音楽]
セルフ・ライナーノート
No.10 に続いてヒラリー・ハーンさんの演奏を取り上げます。シベリウス(1865-1957)のヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47(1904)です。
彼女はこのコンチェルトのCDのセルフ・ライナーノートで次のように書いています。ちょっと長いのですが、この曲の本質と演奏の難しさを言い当てていると思うので、そのまま引用します。冒頭にシェーンベルクの名前が出てくるのは、このCDのもう一つの協奏曲だからです。引用はシベリウスに関係した部分だけです。
|
この文章のポイントは2つです。第1は子供の頃、ボルティモア・オリオールズの試合の最中にこの曲を聞いたところです。彼女はこう書いています。「・・・・・・私の未熟な耳には、音楽が奇妙な両極端の間をめちゃくちゃに揺れているように聞こえたのです。その構成にもとまどいました。1つの形が立ち上がりかけると、とたんにその流れがとぎれて無関係な動機が飛び出してくる。・・・・・・」。
私はほとんど確信して言えるのですが、ヒラリーの耳が未熟であったわけでは決してないと思います。未熟というのは彼女の謙遜です。それは全く逆であって、子供にしては特別に鋭い耳をもっていたからこそ「音楽が奇妙な両極端の間をめちゃくちゃに揺れているように聞こえた」のです。なぜそう確信できるのかというと、プロのヴァイオリニストでさえ、その演奏の多くが「両極端の間をめちゃくちゃに揺れている」ように感じる演奏、「無関係な動機が飛び出してくる」ように聞こえる演奏だからです。本当はこの曲は、決してそんなことはないと思うのですが・・・・・・。
カーティス音楽院 |
2人のヒラリー
このCDは2007年の、彼女が27歳の時の録音です。初めて弾いた16歳のときから10年間の「進歩」は分からないのですが、意外に16歳のときの演奏とあまり変わらないのかもしれません。とにかくこのCDのシベリウスは、セルフ・ライナーノートどおりの名演です。それはたとえば第3楽章の冒頭に如実に現れています。
譜例14a | |||
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 第3楽章の冒頭 |
譜例14b | ||
シベリウス「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調」
第3楽章の第5小節目から40小節間のヴァイオリン独奏
ヴァイオリン協奏曲の中でも最も有名な部分の一つだが、プロのヴァイオリニストでさえ弾きこなすのは難しい。4オクターブの高低差があり、リズムも途中で変化する。オーケストラの単調なリズム(譜例14a)にうまく乗って、この部分を大きな一つのフレーズとして一体感をもって演奏できる人は少ない。ヒラリー・ハーンはその少ない一人である。
|
彼女の演奏を聞いていると、
ヒラリーA
ヒラリーB
という、2人のヒラリーが一人の中に同居しているようです。
ヒラリーAは指揮者です。譜面を読み、作曲家の意図を想像し、曲の構成を考え、音楽の流れを作り、フレージングを決めて、演奏家に細かい指示を出します。
ヒラリーBは演奏家であり、ヒラリーAの厳しい要求を聞き、ヴァイオリンでどう表現するかを考え、楽器を駆使して音楽を実際に作り出します。
一つだけ例をあげると、彼女の重音は非常に美しいですね。美しいと言うよりバランスが素晴らしいと言った方が良いのでしょう。上の弦(上声部)と下の弦(下声部)の一音一音のバランスを、その時の曲の表情に合わせて微妙に変えています。それはヒラリーAが2つ声部をそれぞれどのように弾くべきか、その指示を詳細に出し、ヒラリーBがそれに完璧に答えている、というように感じます。
ということで、このシベリウスのCDは他にあまりないような名演で、衝撃の演奏と言ってもよいと思います。ただ、私にとっては「衝撃」の度合いはそう大きなものではありませんでした。というのは、彼女のようなシベリウスの演奏を以前に聞いたことがある、それもナマ演奏で、という記憶が強くあったからです。衝撃も2度目になるとインパクトが小さくなる、というわけです。
東京芸術劇場での衝撃
1990年代後半の、確か1998年だったと思います。当時私は東京交響楽団の「東京芸術劇場・年間定期会員」でした。年間定期会員は「おまかせ」の演奏会に行くわけですから、知らない曲やアーティストに出会えるという楽しみがあります。
その年のある定期演奏会です。池袋の東京芸術劇場にいくと、一人の少女がヴァイオリン・コンチェルトの独奏者として登場しました。背がそんなに高くなく、舞台に登場したときの服装も「ドレス」ではなくて「少女服」という感じでした。パンフレットの記憶では15歳ぐらいだったと思います。何でもドイツに音楽留学していて、帰国して東京交響楽団のコンサートに出演したとのことでした。そして彼女が演奏したのがシベリウスだったのです。
この演奏には驚いてしまいました。このコンチェルトはそれまでに何回となく聞いたはずだし、ナマ演奏も聞いたことがあります。だけど「こんな曲だとは初めて知った」という印象が強烈でした。昔の音の記憶を、今言葉で表現するのは簡単ではないのですが、とにかく音楽の流れが自然で、淀みが全くなく進行していき、全体としての一体感がものすごくある演奏だと思ったことを覚えています。「弾くのにこんなに簡単な曲だとは思わなかった」という印象も受けました。本当は非常に難しい曲なのですが、それだけ少女が弾きこなしていた、ということでしょう。
少女の名前は庄司紗矢香さんです。彼女はその後、イタリアのジェノヴァでのパガニーニ国際コンクールで優勝しました。驚きはなかったですね。優勝しても何の不思議もないと思ったのです。
音楽家が人に感銘を与える演奏をする、ということにおいて、音楽家の年齢はそれほど関係ない。これが庄司さんの演奏を初めて聞いたもう一つの感慨です。
ジャンルは違いますが、小説の世界においても高校生の少年・少女が「新人文学賞」をとったりしますね。しかも恋愛小説だったりする。もちろん15・6歳でも恋の経験はあるでしょうが、その経験はたかが知れています。人生における「男女の経験」の幅広さと感情の機微の多様さを考えると、ほとんど無いに等しい。しかしその少年なり少女には2つの大きな武器があります。一つの武器は、本を大量に読むことによって過去の人の経験をいくらでも追体験できることです。もう一つは本人の感受性という武器であって、膨大な追体験からエッセンスを抽出し、自分自身の少ない経験とも照らし合わせ、想像を膨らまし、新たな自分なりの小説世界を構築できることです。
ヴァイオリニストもそれと似ているのだと思います。演奏技術の面では、15・6歳でトップクラスに到達できることは数々の事例が証明しています。そして本人の感受性をたよりに、偉大な作曲家の数々の譜面を読み、作曲家の意図や思いを想像し、人に感銘を与える「演奏世界」を思い描いて、それを実際に作り出す・・・・・・。人前での演奏経験をそんなには積まなくてもそれができる人がいることを、庄司さんの演奏は証明していました。
前の文章でヒラリー・ハーンさんについて「16歳になった彼女はすでにシベリウスの譜面から音楽を読みとる力を身につけていて、かつこの技術的にも難しいコンチェルトを完璧に弾きこなせた」という「推測」を書きましたが、それは15歳の庄司紗矢香さんの演奏が頭にあったからです。庄司紗矢香さんがそうなら、ヒラリー・ハーンさんもそうだろうという、極めてまっとうに思える推測です。
野球場で聴くシベリウス
このシベリウスのヴァイオリン協奏曲のCDは、そんないろいろの思いを想起させたてくれた1枚です。さらに、もう一つの感想があります。それはソニーのウォークマンが作り出した「音楽を戸外に持ち出す」というライフスタイルの影響の大きさです。ヒラリー・ハーンさんが子供の頃にボルティモア・オリオールズの試合に持っていってシベリウスを聞いたのがウォークマンかどうかは分かりません。しかし、ウォークマンもしくはそれに影響されて作られた類似製品だと推測できます。野球の試合を見ながら聞くのですから。
ウォークマンでクラシック音楽を戸外で聞く・・・・・・これは特別なことだったのでしょうか。
そんなことはありません。ソニーの宣伝部での経験が長い黒木靖夫氏の本には、次のような記述があります。
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ウォークマンが最初に日本で発売された1979年は、ちょうどヒラリー・ハーンさんが生まれた年です。ウォークマンはその後すぐに世界で販売され、またたく間に普及しました。エレクトロニクスのエンジニアが心血を注いで画期的な製品を作り、それが世界に浸透していき、米国東海岸のメリーランド州でヴァイオリンの勉強をしながら演奏家を夢見ていた少女の行動にまで「影響」を与える・・・・・・。音楽とテクノロジーの深い関係を改めて認識したCDです。
No.10 - バーバー:ヴァイオリン協奏曲 [音楽]
No.9 で書いたコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一曲、アメリカ音楽としてのヴァイオリン協奏曲で絶対に忘れられない曲があります。サミュエル・バーバー(1910 - 1981)のヴァイオリン協奏曲 作品14(1939)です。
コルンゴルトはウィーンで育ち、ユダヤ人であったためにアメリカに移住したわけですが、サミュエル・バーバーはペンシルベニア州生まれの、いわば「生粋の」アメリカ人です。
第1楽章 Allegro から、第2楽章 Andante へ
この曲の第1楽章は、前奏なしで独奏ヴァイオリンがいきなり奏でる第1主題(譜例 12)で始まります。これは大変に優美で叙情的な旋律です。Allegroという速度指定ですが、モデラートという感じで、速いという感じはしません。むしろゆったりと流れる曲想です。譜例12には冒頭の10小節だけを掲げましたが、そのあとの17小節も主題の延長が続き、ようやく短い第2主題に入ります。譜例12は第1楽章を支配していて、この主題がさまざまに処理され展開されて楽章が進んでいきます。
第2楽章は弦楽器の短い序奏のあと、オーボエがゆっくりと譜例13の長い旋律を奏でます。それが弦楽器に引き継がれ、変奏され、管楽器も加わり、そのあとにようやく独奏ヴァイオリンが入ってきます。このあたりの展開は何となくラフマニノフを思い出しますね。ピアノ協奏曲第2番の第2楽章や、交響曲第2番の第3楽章の雰囲気です。また譜例13はバーバーの有名な「弦楽のためのアダージョ」(バーバー自身の弦楽4重奏曲の第2楽章の編曲)に感じが似ています。「弦楽のためのアダージョ」は短調ですが、こちらはその長調版というわけです。
第1楽章、第2楽章を通じて、大変に叙情的で、19世紀後半の音楽に通じるものを感じます。メンデルスゾーンを意識して書かれているのかもしれません。
ヒラリー・ハーン
ジャケット写真を掲げたのは、ヒラリー・ハーン(1979 - )が演奏するこのコンチェルトのCDです。彼女はサミュエル・バーバーの学校での後輩にあたります。つまりバーバーはフィラデルフィアのカーティス音楽院を1934年に卒業していますが、ヒラリー・ハーンは同音楽院に1990年から1999年まで在籍していました。彼女はこのCDのセルフ・ライナーノートにも書いているように、バーバーの後輩であることを強く意識しています。しかもこの曲が録音されたのは1999年で、彼女は19才、カーティス音楽院卒業の年です。この演奏はその彼女の意気込みというか、音楽院から離れるのを機にバーバーの後輩としてこの曲の決定版演奏をする、というような思いが伝わってきます。
まず曲づくりが非常に巧みです。曲全体の譜面を細部まで読み込み、曲の流れを解読し、そこに込められた作者の思いを想像し、細部のフレージングとヴァイオリンの歌わせ方を決めていく・・・。その神経が隅々まで行き届いています。
曲の表情の付けかたは決して起伏の激しいものではありません。むしろ抑制がきいています。大袈裟なフレージングはないし、ポルタメントもあまりない。ただ、流れが非常に自然です。その自然な流れの中から「歌」を取り出し、譜面から「音楽」を引き出している。自然さがもつ力強さがあります。
この曲の第2楽章は Andante の緩叙楽章です。演奏技術的に難しい所は何もありません。こういった楽章をうまく聞かせられるかどうかは、ヴァイオリニストの曲の解釈力、曲作りの力量の勝負です。最初のオーボエでの主題提示とオーケストラによるフォローが終わった後、独奏ヴァイオリンの演奏が始まります。それが変転を重ねた後、主題(譜例13)を独奏ヴァイオリンが再現し終わるまでに約3分間の時間がありますが、この3分間のヒラリーの演奏などは圧巻です。1音1音が勝負で、ゆるがせにできない。その張りつめた雰囲気が伝わってきます。
第1楽章・第2楽章を通して、譜面から「歌」を最大限に引き出していて、その聞こえてくる音楽が聴く者の共感を呼ぶのだと思います。それはヴァイオリン音楽がモーツァルトの時代からもっていた最良の特質の一つです。
ということで、この曲はヒラリーの演奏とあいまって、作曲された1939年の、その50年前の1889年に作られたとしても全くおかしくない曲です。第2楽章までは・・・。
第3楽章 Presto in moto, perpetuo
ところが第3楽章で曲のムードは全く一変します。第3楽章は無窮動曲(常動曲)です、独奏ヴァイオリンが3連符の連続をプレストで、ほとんど休みなく演奏します。譜例14はその最初の部分です。しかもこの楽章は調性が曖昧です。小節ごとにみると調性があるのですが、全体としての統一された調性は感じられません。
サミュエル・バーバーはこの第3楽章で、伝統的な音楽の重要な要素をほとんど取っ払ってしまいました。まずリズムを無くしました。無窮動曲なのでリズムと言えるほどのものはありません。旋律や歌も排除しました。調性も曖昧にしています。しかしこれだけ「排除」しても、なおかつまぎれもないヴァイオリン音楽、第1・第2楽章とは全く違った形でのヴァイオリン音楽なのです。
ヒラリーの演奏も作曲家の意図を察知したかように、無表情ともいえるぐらいに抑揚を排除し、正確なテンポでこの終楽章を弾き切ります。圧倒的なスピードで駆け抜けるそのテクニックは大したものだと思います。
バーバーはこの協奏曲で「対比」の効果を狙ったのだと思います。第1・第2楽章とは全く異質な感じの第3楽章を最後に配置することによって、特徴を際だたせるわけです。
この構成は、芸術としてのジャンルは違うけれど、日本画によくある手法と似ていますね。安土桃山時代以降の日本画によくあります。たとえば、6月の新緑の頃の日本庭園を描くとします。新緑に萌える木々や美しい花を中景に描いたあと、近景にあえて松の老木を描く。それもクローズアップの手法で幹だけを描く。近景との対比で中景を際だたせるわけです。そういえば19世紀後半の西洋絵画にこういった日本画の手法に影響された絵画やポスターがあるのが思い起こされます。
ちょっと脇道にそれますが、下の図はミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあるゴッホの「アルルの風景」と題された絵で、近景と中景・遠景の対比が鮮明です。近景の葉を落とした3本のポプラの幹は、それが無くても絵画として十分に成立します。そういった感じの風景画をゴッホはたくさん描いています。また右端の1本だけでも、構図としてはアリだと思います。しかしこの絵は3本のポプラの幹のクローズアップがある。しかも画面中央にドカンとある。こうなると「風景を遮られている」という印象が鮮明で、画家の何らかの「絶望」とか「諦め」を表現してるのでしょう。こういった「異質さの対比」は、どちらに重点を置くかによって印象がガラッと変わってきます。
そしてこの絵 からの連想ですが、もしこの「アルルの風景」と同じ実風景をテレビのビデオカメラで撮影するとしたらどうでしょうか。たとえばポプラの幹の間にカメラを設置し、最初にズームで遠景の家並みに寄った絵を撮る。そこから徐々に引いていって果樹園の様子を映す。さらにどんどん引いてくと、カメラのすぐそばにあるポプラの幹が見え出し、最後はゴッホの絵のようになる・・・・・・。
サミュエル・バーバーのヴァイオリン協奏曲は、ビデオ映像に例えるとそんな感じを受けるのですね。
絵画は「一瞥」して鑑賞するものですが、音楽は絵画と違って「時間芸術」です。音楽を聞くときに私たちは、これから来るであろう音をなんとなく予感し、また過ぎ去った音を回顧しつつ、その瞬間・瞬間に耳を傾けています。この連続型が「聴く」という行為です。バーバーのヴァイオリン協奏曲の第3楽章の3分30秒間を聞き終わった時に私たちが感じるのは、これもまたヴァイオリン音楽なのだという「音楽の幅広さ」に対する驚きと、それと同時に回顧的に思い起こされる第1・第2楽章という20分間の別世界、第3楽章とは全く違う、美しい旋律・朗々とした歌・調性感覚に満ち溢れた世界なのです。
コルンゴルトはウィーンで育ち、ユダヤ人であったためにアメリカに移住したわけですが、サミュエル・バーバーはペンシルベニア州生まれの、いわば「生粋の」アメリカ人です。
第1楽章 Allegro から、第2楽章 Andante へ
この曲の第1楽章は、前奏なしで独奏ヴァイオリンがいきなり奏でる第1主題(譜例 12)で始まります。これは大変に優美で叙情的な旋律です。Allegroという速度指定ですが、モデラートという感じで、速いという感じはしません。むしろゆったりと流れる曲想です。譜例12には冒頭の10小節だけを掲げましたが、そのあとの17小節も主題の延長が続き、ようやく短い第2主題に入ります。譜例12は第1楽章を支配していて、この主題がさまざまに処理され展開されて楽章が進んでいきます。
第2楽章は弦楽器の短い序奏のあと、オーボエがゆっくりと譜例13の長い旋律を奏でます。それが弦楽器に引き継がれ、変奏され、管楽器も加わり、そのあとにようやく独奏ヴァイオリンが入ってきます。このあたりの展開は何となくラフマニノフを思い出しますね。ピアノ協奏曲第2番の第2楽章や、交響曲第2番の第3楽章の雰囲気です。また譜例13はバーバーの有名な「弦楽のためのアダージョ」(バーバー自身の弦楽4重奏曲の第2楽章の編曲)に感じが似ています。「弦楽のためのアダージョ」は短調ですが、こちらはその長調版というわけです。
第1楽章、第2楽章を通じて、大変に叙情的で、19世紀後半の音楽に通じるものを感じます。メンデルスゾーンを意識して書かれているのかもしれません。
ヒラリー・ハーン
ジャケット写真を掲げたのは、ヒラリー・ハーン(1979 - )が演奏するこのコンチェルトのCDです。彼女はサミュエル・バーバーの学校での後輩にあたります。つまりバーバーはフィラデルフィアのカーティス音楽院を1934年に卒業していますが、ヒラリー・ハーンは同音楽院に1990年から1999年まで在籍していました。彼女はこのCDのセルフ・ライナーノートにも書いているように、バーバーの後輩であることを強く意識しています。しかもこの曲が録音されたのは1999年で、彼女は19才、カーティス音楽院卒業の年です。この演奏はその彼女の意気込みというか、音楽院から離れるのを機にバーバーの後輩としてこの曲の決定版演奏をする、というような思いが伝わってきます。
まず曲づくりが非常に巧みです。曲全体の譜面を細部まで読み込み、曲の流れを解読し、そこに込められた作者の思いを想像し、細部のフレージングとヴァイオリンの歌わせ方を決めていく・・・。その神経が隅々まで行き届いています。
曲の表情の付けかたは決して起伏の激しいものではありません。むしろ抑制がきいています。大袈裟なフレージングはないし、ポルタメントもあまりない。ただ、流れが非常に自然です。その自然な流れの中から「歌」を取り出し、譜面から「音楽」を引き出している。自然さがもつ力強さがあります。
この曲の第2楽章は Andante の緩叙楽章です。演奏技術的に難しい所は何もありません。こういった楽章をうまく聞かせられるかどうかは、ヴァイオリニストの曲の解釈力、曲作りの力量の勝負です。最初のオーボエでの主題提示とオーケストラによるフォローが終わった後、独奏ヴァイオリンの演奏が始まります。それが変転を重ねた後、主題(譜例13)を独奏ヴァイオリンが再現し終わるまでに約3分間の時間がありますが、この3分間のヒラリーの演奏などは圧巻です。1音1音が勝負で、ゆるがせにできない。その張りつめた雰囲気が伝わってきます。
第1楽章・第2楽章を通して、譜面から「歌」を最大限に引き出していて、その聞こえてくる音楽が聴く者の共感を呼ぶのだと思います。それはヴァイオリン音楽がモーツァルトの時代からもっていた最良の特質の一つです。
ということで、この曲はヒラリーの演奏とあいまって、作曲された1939年の、その50年前の1889年に作られたとしても全くおかしくない曲です。第2楽章までは・・・。
第3楽章 Presto in moto, perpetuo
ところが第3楽章で曲のムードは全く一変します。第3楽章は無窮動曲(常動曲)です、独奏ヴァイオリンが3連符の連続をプレストで、ほとんど休みなく演奏します。譜例14はその最初の部分です。しかもこの楽章は調性が曖昧です。小節ごとにみると調性があるのですが、全体としての統一された調性は感じられません。
サミュエル・バーバーはこの第3楽章で、伝統的な音楽の重要な要素をほとんど取っ払ってしまいました。まずリズムを無くしました。無窮動曲なのでリズムと言えるほどのものはありません。旋律や歌も排除しました。調性も曖昧にしています。しかしこれだけ「排除」しても、なおかつまぎれもないヴァイオリン音楽、第1・第2楽章とは全く違った形でのヴァイオリン音楽なのです。
ヒラリーの演奏も作曲家の意図を察知したかように、無表情ともいえるぐらいに抑揚を排除し、正確なテンポでこの終楽章を弾き切ります。圧倒的なスピードで駆け抜けるそのテクニックは大したものだと思います。
バーバーはこの協奏曲で「対比」の効果を狙ったのだと思います。第1・第2楽章とは全く異質な感じの第3楽章を最後に配置することによって、特徴を際だたせるわけです。
この構成は、芸術としてのジャンルは違うけれど、日本画によくある手法と似ていますね。安土桃山時代以降の日本画によくあります。たとえば、6月の新緑の頃の日本庭園を描くとします。新緑に萌える木々や美しい花を中景に描いたあと、近景にあえて松の老木を描く。それもクローズアップの手法で幹だけを描く。近景との対比で中景を際だたせるわけです。そういえば19世紀後半の西洋絵画にこういった日本画の手法に影響された絵画やポスターがあるのが思い起こされます。
ちょっと脇道にそれますが、下の図はミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあるゴッホの「アルルの風景」と題された絵で、近景と中景・遠景の対比が鮮明です。近景の葉を落とした3本のポプラの幹は、それが無くても絵画として十分に成立します。そういった感じの風景画をゴッホはたくさん描いています。また右端の1本だけでも、構図としてはアリだと思います。しかしこの絵は3本のポプラの幹のクローズアップがある。しかも画面中央にドカンとある。こうなると「風景を遮られている」という印象が鮮明で、画家の何らかの「絶望」とか「諦め」を表現してるのでしょう。こういった「異質さの対比」は、どちらに重点を置くかによって印象がガラッと変わってきます。
サミュエル・バーバーのヴァイオリン協奏曲は、ビデオ映像に例えるとそんな感じを受けるのですね。
絵画は「一瞥」して鑑賞するものですが、音楽は絵画と違って「時間芸術」です。音楽を聞くときに私たちは、これから来るであろう音をなんとなく予感し、また過ぎ去った音を回顧しつつ、その瞬間・瞬間に耳を傾けています。この連続型が「聴く」という行為です。バーバーのヴァイオリン協奏曲の第3楽章の3分30秒間を聞き終わった時に私たちが感じるのは、これもまたヴァイオリン音楽なのだという「音楽の幅広さ」に対する驚きと、それと同時に回顧的に思い起こされる第1・第2楽章という20分間の別世界、第3楽章とは全く違う、美しい旋律・朗々とした歌・調性感覚に満ち溢れた世界なのです。
No.9 - コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 [音楽]
チェコ生まれの作曲家
No.5 のスメタナに続いて、現在のチェコ共和国の域内で生まれた作曲家の作品を取り上げます。チェコの南東部・モラヴィア地方出身のコルンゴルト(エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト。 Erich Wolfgang Korngold。 1897-1957)が作曲した、ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35です。
チェコの作曲家といえば、ボヘミア出身のスメタナとドボルザーク、モラヴィア出身のヤナーチェクが有名です。彼らは程度の差はありますが、No.5 にも書いたように、チェコ文化、ボヘミアやモラヴィアの伝統音楽に親和性のある作品を残しました。
それとは別に「クラバート」の作者・プロイスラーのように、現在のチェコ域内でドイツ系の家系に生まれ、ウィーンやドイツで活躍した作曲家がいます。代表的なのがボヘミア生まれのグスタフ・マーラーですが、コルンゴルトもそうで、彼はモラヴィアの中心都市であるブルノの出身です。ブルノから南へ100kmがオーストリアのウィーンで、コルンゴルトのお父さんはウィーンで高名な音学評論家でした。また4歳の時から一家でウィーンに引っ越したといいますから、エーリヒは「ウィーン子」でしょう。ちなみに彼は次男ですが、長男はハンス・ロベルト・コルンゴルトといって、ミドルネームのロベルトは音楽評論家の父親が尊敬していたロベルト・シューマンにちなむそうです。もちろん、エーリヒのミドルネームはモーツァルトです。
最初の主題
「ヴァイオリン協奏曲」はコルンゴルトの最も有名な曲だと思いますが、この曲は冒頭に出てくる第1楽章の第1主題で聞く人を魅了します。ドボルザークの曲によくありますよね。曲の最初にポンと魅惑的な美しいメロディーが提示され、たちまち曲に引き込まれてしまうというタイプの曲が・・・。弦楽セレナーデや交響曲第3番、8番、チェロ協奏曲、弦楽4重奏曲(アメリカ)、ピアノ5重奏曲(第2番)・・・いろいろと思い浮かびます。ドボルザーク大好き、という人は多いと思いますが、このあたりの魅力が大きいのではないでしょうか。
コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲もそうです。譜例9にその第1楽章・第1主題を掲げました。ヴァイオリンのG線の「ラ」の音からE線の「ソ♯」や「シ」の音まで、2オクターヴを5つの音で一気に駆け上がってから下降する旋律は、いかにもヴァイオリンらしい。というか、ヴァイオリンでないと意味のないような旋律です。非常に優美で、印象的で、引き込まれる主題です。これを聞いた瞬間に曲の最後まで聞こうという気持ちになる・・・そういった感じがします。
第2楽章は「ロマンス」と題されたアダージョ楽章。譜例10の旋律で始まり、始めから終わりまでヴァオイリンが歌いっぱなしです。
第3楽章のフィナーレは快活な主題(譜例11)とその変奏が繰り返し現われるロンドです。主題は最初には現れません。何種類かの変奏が先にあり、そのあと初めて主題が現れ、また変奏が続くという形のロンドになっています。
この曲全体が大変ロマンティックな雰囲気で、ウィーンの後期ロマン派の音楽の香りがぷんぷんします。
アンネ・ゾフィー・ムターの演奏
ジャケットの写真を掲げたのは、アンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオリン独奏、アンドレ・プレヴィン指揮のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏(2003年録音)で、当時の夫婦競演CDです。チャイコフスキーのコンチェルトとのカップリングになっているものです。
アンネ・ゾフィー・ムターさんの演奏は、テンポの意図的な緩急づけ(アゴーギクというのでしょうか)が多い演奏で、指を弦の上ですべらせるポルタメントも目立ちます。そもそも、第1楽章の曲の冒頭、譜例9の5小節目の「シ」の音に「早々と」ポルタメントがかかっています。こういった一つの旋律の最高音、音が昇り詰める所はよく目立ちます。
日本の演歌の歌い方で「こぶし」というのがありますね。音を延ばすときに音の高さを上下に揺らせて歌う、一種の装飾音符のようなものです。これは演歌だけでなくポップス系の歌手もやるし、また欧米でもよくやります。クラシック音楽の世界では、演奏家が譜面にない明白な装飾音を挿入することは(一般的には)やらないのですが、音の緩急や強弱を意図的に「揺らせる」ことや、特にヴァイオリンでは音と音との間に譜面にはない「移行音」を入れることはよくあるわけです。
アンネ・ゾフィー・ムターさんのこの曲の演奏はいわば「こぶしのきいた演奏」で、彼女の「独自解釈」もいっぱいある感じです。こういった雰囲気の演奏に反発を覚える人は多いと思いますが、後期ロマン派の香りが強烈なこのコンチェルトには合っているように思えます。チャイコフスキーを聞いて「やりすぎ」と思った人も、コルンゴルトでは納得する面があるのではないでしょうか。
アメリカで発表された作品
コルンゴルトは「ウィーン子」ですが、この曲は実はアメリカで作曲(1945)され、初演(1947)された曲です。コルンゴルトはウィーンにおいて名声も地位もある作曲家でした。そして友人の演出家にさそわれてハリウッドで映画音楽を作るようになりました。彼はいわゆるユダヤ系(ユダヤ教徒の家系)です。1938年、ナチス・ドイツはオーストリアを併合し、ウィーンではユダヤ人の強制移住が始まります。ユダヤ系文化人の作品の展示・演奏は禁止され、コルンゴルトの作品も演奏禁止になりました。この結果、彼はアメリカに亡命する形となり、このヴァイオリン協奏曲の作曲当時はロサンジェルス(LA)に住んでいたわけです。
ドイツやオーストリア出身で「ユダヤ系」だったためアメリカに亡命した文化人・学者は多数いて、もちろん音楽家もいます。作曲家ではコルンゴルト以外に、
◆ | ツェムリンスキー(1871-1942。ウィーン生) | |
◆ | シェーンベルク(1874-1951。ウィーン生) | |
◆ | ヴァイグル(1881-1949。ウィーン生) |
◆ | ワルター(1876-1962。ベルリン生) | |
◆ | クレンペラー(1885-1973。ドイツ・ブレスラウ生) |
彼らのうち、シェーンベルク、ワルター、クランペラーはLA在住でした。このヴァイオリン協奏曲は同じくLAに住んでいたアルマ=マーラー・ヴェルフェルに献呈されています。かつてのグスタフ・マーラー夫人ですね。またヴァイオリン協奏曲と同時期に作曲された弦楽4重奏曲第3番はブルーノ・ワルターに献呈されています。当時のLAでは亡命したユダヤ系の人たちの音楽コミュニティができていたわけです。
映画音楽との接点
アメリカで作曲されたこと以上に重要なのは、この曲の主要主題が、コルンゴルト自身が書いたハリウッドの映画音楽からとられていることです。「コルンゴルトとその時代」(早崎隆志 みずず書房 1998)によると、次のような映画からの引用です。
第1楽章 第1主題
「砂漠の朝」(1937)の「愛のテーマ」(譜例9) |
「革命児フアレス」(1939)の「カルロッタの主題」 |
「風雲児アドヴァーズ」(1936)の「アンソニーとアンジェラの愛のテーマ」(譜例10) |
「放浪の王子」(1936)の「王子の主題」(譜例11) |
もちろんずいぶん昔の映画なので私には分からないのですが、「放浪の王子」の音楽については「組曲」という形でプレヴィン指揮のロンドン交響楽団のCDで聴いたことがあります。なるほど、王子の主題をもとにして第3楽章のロンド主題(譜例11)が構成されていることが分かります。
この「映画音楽からの引用」という事実をもってして「この協奏曲は、映画音楽みたいな曲だ」と考えるのは早計です。そもそもハリウッドの映画音楽は、コルンゴルトがウィーンやドイツで発達した後期ロマン派の音楽手法を持ち込んで完成させたものなのです。その伝統は現代まで続いています。映画音楽の巨匠であるジョン・ウィリアムスの「スター・ウォーズ」の音楽がリヒャルト・シュトラウスを想起させるところがあるのはその一例です。そう言えばスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」ではリヒャルト・シュトラウスの曲そのものが使われていました。
コルンゴルトを通じてドイツ後期ロマン派はアメリカに流れ込みハリウッド・サウンドを作り出した、というわけです。ちなみに彼は1938年にアカデミー賞の作曲賞を受賞しています。「この協奏曲は映画音楽のようだ」ではなくて「ハリウッドの映画音楽は、この協奏曲が雰囲気を濃厚に伝えている19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ音楽のようだ」なのです。
コルンゴルトは、あたためていた主題のスケッチから映画音楽をつくり、また一方ではヴァイオリン協奏曲を作ったと考えれば、作曲家としてはまったく普通の行為だと思います。
「50年前の」音楽
ということで、この曲は実際に作曲された1945年の、その50年前の1895年にウィーンで作曲されたとしても全くおかしくない曲です。前述の「コルンゴルトとその時代」で早崎さんも次のように書いています。
「彼の音楽的個性が固まったのは、世紀転換期の古き良きウィーンの音楽環境の中でのことだった。だからその音楽にむせ返るようなウィーンの香りが満ちているのは当然のことだ。彼がいかに鋭い不協和音や複雑な対位法を使おうと、人なつっこいメロディ、甘いポルタメント、夢見る情緒、情熱的なアッチェレランドと気まぐれなテンポ・ルバート・・・といったそのウィーン的特質は明らかである。」
このような事情から、発表当時の音楽批評家は「時代錯誤だ」という批判を浴びせたようです。ヤッシャ・ハイフェッツが独奏した全米各地の演奏会での聴衆の反応は非常に良かったものの、ニューヨーク・タイムス紙からは「これはハリウッド協奏曲である」と切り捨てられました。一方、ヨーロッパの音楽批評家からはコルンゴルトは「ハリウッドに魂を売った男」と見なされ、評価されなかったと聞きます。しかし時代錯誤であろうとなかろうと、映画音楽であろうとなかろうと、音楽の良し悪しとは関係がないのです。コルンゴルトは自分の音楽的感性に忠実に曲を作ったわけです。
このバイオリン協奏曲の作曲経緯と世の中や音楽批評家の反応をみるにつれ「同時代音楽」というものの変遷を思わずにはいられません。
同時代音楽の変遷
「同時代音楽」とは「作曲家がつくり、その同じ時代に広く受け入れられて浸透した音楽」と定義したいと思います。コルンゴルトが育ったウィーンの音楽を中心に考えると、モーツァルトからマーラー付近までは、現代で言うクラシック音楽の交響曲や室内楽、ピアノ曲などの「純音楽」は同時代音楽でした。ここで言う「純音楽」とは、劇やバレエのための付帯音楽ではなく、また自分が演奏する(歌う)ための専用の音楽でもない、純粋に音楽(=譜面)だけに価値を求めた演奏会用の器楽または歌曲という意味です。もちろんバレエ組曲のように、バレエやオペラのための音楽を「純音楽化」することはあったわけです。
しかしその後、純音楽の作曲家(芸術家)は無調音楽などの「前衛手法」に走り、結果として市民の支持を失いました。同時代音楽は、純音楽を中心とするいわゆるクラシック音楽の世界から、ジャズ、映画音楽、ミュージカル、ポップス、ロックなどへと移行していったわけです。
小説や音楽の楽しみ方の一つに、好きになった作者の作品を全部読む(聴く)ということがあると思います。現代の同時代小説を例にとると、たとえば村上春樹さんの作品を全部読んだという人はかなりいるのではないでしょうか。「村上ファン」なら、いかにもありそうです。
では、現代の同時代音楽で「作曲家」という視点で考えたとき、その作曲家が作った音楽作品を全部聞いたことがあると言える、その人は誰でしょうか。私の場合だと、中島みゆきさんの曲は自信をもって「全部聞いた」と言えます。他の歌手に提供した曲を含めて、少なくともCDで聞ける曲は全部知っているはずです。YOSHIKI (X JAPAN) や桑田佳祐、松任谷由実も「全部」に近いかも知れない。
これらの同時代アーティストに共通しているのは「シンガー・ソングライター」つまり自分が歌う(演奏する)ことを前提にした音楽であることと、専門の音楽教育を受けた人はいないことです。「ヤマハ音楽教室」に通ったとか、子供のころからピアノを習っていたという人はいるかもしれませんが、少なくとも芸大の作曲科出身とか、それに近い音楽教育を受けた人はいないと思います。
芸大の作曲科を出て作曲家として活躍している人は、もちろんいます。坂本龍一、三枝成彰、千住明(以上、東京芸大)、久石譲(国立音大)、服部克久(パリ国立音楽院)などです。しかし彼らの作品でよく耳にするのは、映画音楽であり、TVドラマの主題歌(曲)であり、自らのバンドとしての演奏です。純音楽を作っている人もいますが、それを聞く機会は非常に少ないわけです。
日本にはプロのオーケストラが30以上あり、年間3000以上の公演が開催されていると言います。このオーケストラのコンサート会場で演奏される「純音楽」は大半が100年以上前のヨーロッパを中心に作られた曲で、まさに「クラシック=古典」です。コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が今演奏されたとしても、それは既に作曲されてから65年たった曲なのです。時折、現代の作曲家に委嘱した純音楽作品が演奏されることがありますが、積極的に聞く意欲の沸く作品はあまりない。とにかく「わかりにくい」曲が多いのです。コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲ほどに聞く人を引きつける「わかりやすい」曲を作る能力のある人はいっぱいいると思うのですが、そういう曲は実際には作られない。
では、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が発表当時にそうであったような「同時代音楽の純音楽」が、なぜ現代では不毛になってしまったのでしょうか。
芸術の落とし穴
それは素人考えかもしれませんが「芸術」の落とし穴のような気がします。もともと作曲家という独立した職業はなく「演奏家自身が作曲家を兼ねる」状態、つまり現代で言うシンガー・ソングライター的存在が当たり前でした。その後「作曲」を中心に活動する人が出てきたわけですが、その人は「職人」でした。でないと、ハイドンが交響曲を104曲も作ったりはしません。職人は「マーケット」のニーズに応じて求められる作品を生産しました。マーケットとは、まず王侯貴族であり、富裕層を経て、市民階級へ拡大しました。その職人としての作品の中に作者の才能がキラリと光っていれば、それが賞賛を浴びたわけです。もちろん音楽だけでなく画家も職人です。
しかし職人が「芸術家」となって話が違ってきました。芸術家は何よりも独自性・唯一性を求めます。この作品はあの人が作った、と誰もが分かるような独自性・唯一性です。独自性によって後世に名を残す、これが芸術家の本性です。ブラームスのスタイルのような曲を書けば、それがいくら美しくて心を動かす曲であろうとも「ブラームスの亜流」というレッテルを評論家から貼られて芸術家とは認められないし、悪くすると音楽界から葬り去られるわけです。
独自性・唯一性が、芸術家を職人から区別するポイントであり、あるいは芸術を工芸から区別する要諦です。職人や工芸家は、先人と同等のクオリティーのものを作れること、そういった高度な技術を持ち、それを継承できることこと命なのですから。
音楽家が独自性を示すもっとも分かりやすい方法は、音楽の構成手法における新規性です。これが異常に「発達」し「新しく」なっていく。ついには曲全体にわたって調性を全く無くすような手法までが20世紀に出てくるわけです。その結果、純音楽は人間の感性からかけ離れたところに行き、袋小路に入り込み、一般市民とのコミュニケーションを失ってしまいました。音楽の原点は人間の「歌」であり「心の中で口ずさめる」ことであり、それがもたらす共感のはずなのですが・・・。芸術を求めるあまり聴衆から離れていく、それが落とし穴だと思います。
コルンゴルトはそういう「落とし穴」とは無縁だったということだと思います。彼はまずウィーンでオペラや管弦楽などをつくり、ハリウッドで映画音楽をつくり、そのあと再びヴァイオリン協奏曲などの純音楽(その他に、弦楽4重奏曲、弦楽のための交響的セレナーデ、などの名曲がある)を作りました。ジャンルにとらわれず自分の感性を信じ、聴衆にリーチしようとした作曲家だと思います。それはアーティストとしては極めて正しい態度です。
アメリカ音楽としてのヴァイオリン協奏曲
コルンゴルトは1943年にアメリカ国籍を得ました。このヴァイオリン協奏曲の作曲・発表当時は、彼も移民の国・アメリカ合衆国の一市民であったわけです。ジャズ、ロック、映画音楽、ミュージカル、ブルース、カントリー・ウェスタン、黒人霊歌など、アメリカの音楽文化は、移住してきた人がもたらした数々の音楽文化をも取り込み、大衆社会の拡大とともに発展しました。これらを「アメリカ音楽」と言うなら、ハリウッドと密接な関係があるこのヴァイオリン協奏曲は、まさに典型的なアメリカ音楽だと思います。
No.8 - リスト:ノルマの回想 [音楽]
フランツ・リスト
No.7「ローマのレストランでの驚き」 でベッリーニのオペラ「ノルマ」の中のアリア「清き女神よ」について触れましたが、この「ノルマ」に関連して、絶対にはずせない芸術作品があります。フランツ・リスト(1811-1886)のピアノ曲「ノルマの回想」(1836)です。
ショパンを称して「ピアノの詩人」ということがありますが、それならピアニスト・作曲家としてのリストはどうでしょうか。ショパンにならって言うと、リストはピアノの詩人であると同時に、小説家であり、脚本家、翻訳家、エッセイスト、書評家でもあると言えるでしょう。「翻訳家」としての仕事は、ベートーベンの9つの交響曲のピアノ編曲版のような一連の編曲作品(トランスクリプション)です。またリストには、オペラの旋律をもとに自由に構成した幻想曲風の作品、いわゆるパラフレーズと呼ばれる作品群があるのですが、これはらはさしずめ「書評」か「エッセイ」でしょう。ドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディ、モーツァルトなどのオペラに基づいたパラフレーズがあります。
トランスクリプションやパラフレーズはリストが自らの超絶技巧を披露するために作曲したと言われることがありますが、それだけではありません。トランスクリプションやパラフレーズが作曲家リストの音楽をきわめて豊かにし、普通のピアノ作品の作曲手法にも影響を与えています。なにしろオペラや交響曲を2手や4手のピアノで表現しようとする試みなのですから並大抵ではありません。この作業が、ピアノ音楽の可能性を格段に大きくしました。
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ところで、この「ノルマの回想」には、No.7 のローマのレストランで聞いた「清き女神よ」は出てきません。出てこないことで有名なのです。なぜこのオペラの(現代では)最もよく知られている旋律が出てこないのでしょうか。この疑問も含めて、リストが「ノルマ」の中のどの旋律を採用してピアノ曲を作ったのか、オペラのストーリーとともに追いかけてみたいと思います。
歌劇「ノルマ(1831初演)
「ノルマ」は2幕、4場構成のオペラです。長めの前奏曲のあと、劇は以下のように進行します。
第1幕 第1場
《ドルイド教の聖なる森》
物語の舞台はガリア(現代のフランス)のケルト人社会です。ケルトの固有宗教であるドルイド教の高僧であるオロヴェーゾ、その娘で巫女の長であるノルマ、当時のガリアのローマ総督のポリオーネ、ノルマの「部下」に相当する巫女のアダルジーザという、このオペラの4人の中心人物が登場し、物語の骨格が明らかにされます。ノルマは「敵将」であるはずのポリオーネを愛し2人の子供までもうけています。しかしポリオーネの心はすでにノルマを離れて、アダルジーザに向かっています。おりしもケルト人の間では、ローマに対する反発から好戦気分が盛り上がっています。
第1幕 第2場
《ノルマの家》
アダルジーザはノルマに、巫女には禁じられている恋をしたことを告白します。事情を知らないノルマはそれを許しますが、そこにポリオーネが偶然現れ、すべてが明らかになります。俗に言う「三角関係の修羅場」になり、それぞれの思いをぶつけ合う三重唱になります。
第2幕 第1場
《ノルマの家》
ノルマは2人の子供と心中しようとしますが果たせません。アダルジーザが現れ、ポリオーネとは別れる、子供たちの母親として生きてほしい、とノルマに言います。女同士の友情のようなものが芽生えます。
第2幕 第2場
《聖なる森の近くの寺院》
ポリオーネがアダルジーザを連れ去ろうとしたことを知ったノルマは怒り、戦闘を宣言します。ポリオーネは捕らえられてノルマの前に引き立てられます。ノルマはアダルジーザの名前は一切出さずに「(敵に通じた)裏切り者はこの私だ」と人々に宣言します。ポリオーネはノルマが自分の理想の人であることを改めて知ります。父親に2人の子供の助命を嘆願したノルマは、ポリオーネとともに自ら火刑台に向かいます。
掲げたCDのジャケット写真は以下のものです。
台本:フェリーチェ・ロマーニ
ノルマ:マリア・カラス
ポリオーネ:フランコ・コレルリ
アダルジーザ:クリスタ・ルードヴィヒ
オロヴェーゾ:ニコラ・ザッカリア
ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団
指揮:トゥリオ・セラフィン
録音:1960年9月(東芝EMI)
なお以下にオペラの台本の日本語訳が出てきますが、いずれもこのディスクのブックレットの解説(黒田恭一訳)をそのまま採用しました。
リストが採用した旋律
ピアノ曲「ノルマの回想」に出てくるオペラ「ノルマ」の旋律を、ピアノ曲での出現順にあげます。
◆譜例1 第1幕・第1場
「ノルマのお出ましだ」(合唱)
「ノルマの回想」の冒頭部分が譜例1です。これはオペラ「ノルマ」の第1幕・第1場の中程で、ノルマが登場する直前に合唱によって歌われる旋律です。ノルマのアリア「清き女神よ」は、譜例1のあとで歌われることになります。
◆譜例2・譜例3 第1幕・第1場
「あの丘に行って」(オロヴェーゾ、合唱)
オペラの前奏曲が終わったあとの第1幕の第1場は「ドルイド教徒たちよ、あの丘に行って、祈りをささげるのだ」で始まるオロヴェーゾの独唱と合唱で始まります。その中で出てくる旋律が譜例2と3です。ピアノ譜から旋律部分のみを抜き出しています。
◆譜例4 第1幕・第1場
「おそれ多き神様、お告げをノルマにくだして下さいますように」(オロヴェーゾ、合唱)
譜例2・3に続くオロヴェーゾと合唱のシーンです。人々の間にはローマとの開戦の気分が充満しています。「お告げ」とは「ローマ軍と戦え、というお告げ」の意味です。そういうお告げがほしいと、民衆は願っているのです。
ここまでの譜例1~4は、いずれも第1幕・第1場の前半に現れる旋律です。オペラに現れる順序では
譜例2→譜例3→譜例4→譜例1
となります。ノルマはまだ劇には登場しません。
◆譜例5 第2幕・第2場
「どうぞあの子たちを私の過ちの犠牲にしないでくだい」(ノルマ)
これは第2幕・第2場の最終場面、つまりオペラの最後において、ノルマが父のオロヴェーゾに2人の子供の助命を嘆願する場面です。
◆譜例6 第2幕・第2場
「この心をあなたは裏切った」(ノルマ)
同じく第2幕・第2場の最終場面、譜例5の前でノルマは「裏切り者の巫女は私だ」と人々に向かって衝撃の発言をするのですが、その直後にポリオーネに向かって言う言葉です。この発言でポリオーネは自らを恥入り、あらためてノルマへの愛情に目覚めます。
◆譜例7 第2幕・第2場
「父よ、おお父よ、私は愛情に負けたのです」(ノルマ)
譜例5の直後のシーンで、オペラはまさに最終段階に入っています。ノルマは子供たちの助命の約束を父のオロヴェーゾからとりつけるのですが、その直前にでてくる旋律です。
◆譜例8 第2幕・第2場
「戦いだ、戦いだ、ガリアの森で」(合唱)
これは第2幕・第2場の中程において、ノルマがローマ軍への戦闘を宣言したあとに人々が合唱する場面です。
譜例5~8はいずれも第2幕・第2場の後半です。オペラに現れる順序では
譜例8→譜例6→譜例5→譜例7
となります。
こうしてみると、リストが「ノルマの回想」に用いた旋律は、オペラの開始直後(譜例1~4)と終了直前(譜例5~8)に集中していることが分かります。「ノルマの回想」の演奏時間から見ると、ちょうど前半が譜例1~4、後半が譜例5~8を元に構成されています。どうも意図的にこのように構成されているようです。
「清き女神よ」
「ノルマの回想」には最も有名なアリア「清き女神よ」(第1幕・第1場)が出てこないことで有名、と最初に書きました。一つ確実に言えることは「清き女神よ」が出てこないと同時に、出てこない美しい旋律がほかにも沢山あるということです。つまり第1幕・第1場の後半(譜例1のあと)から、第2幕・第2場の前半(譜例8の前)までの間に出てくる旋律は「ノルマの回想」には全く出てきません。たとえば第2幕・第1場のノルマとアダルジーザの美しい2重唱は出てこないのです。リストの「選曲」は意図的で、オペラの最初と最後のモチーフだけをピアノ化しているのです。
もう一つあります。リストの「選曲」はピアノで表現しやすいものに限っているのでは、と思うのです。譜例1~8にノルマのアリアは3つありますが(譜例5、6、7)、いずれも自ら死を決意したノルマが、どちらかと言うと「淡々と」ないしは「切々と」オロヴェーゾやポリオーネに訴えるというシーンです。このシーンと「清き女神よ」は少々違うのではないでしょうか。
これを説明するために「清き女神よ」についての、マリア・カラスの言葉を引用したいと思います。2010年7月7日、NHK-BSハイビジョンで「カラス・アッソルータ」(Callas assoluta。究極のカラス)という、フランスで制作されたドキュメンタリー番組が放映されました。この中でマリア・カラスはこのように語っています。
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その通りなのです。ソプラノ歌手は「清き女神よ」で「強く激しいと同時に、寛大で気高い女性」を演じなければなりません。「とても重要で難しい歌」であり「力強いレシタティーヴォの後、澄み渡る声で静かに歌うことが大切」なのです。このアリアは人間の声と演技でこそ、もっと言うと最高のソプラノ歌手が技術と感情表現力の粋を尽くしてこそ意味のあるアリアです。リストもそれが分かっていて、あえて「選曲」からはずしピアノ曲にはしなかったのではないでしょうか。
もちろん全くの想像に過ぎません。本当の事情は全く違うかもしれない。しかしどうせ音楽を聞くのなら、こういった「夢想」をしながら聞く方が楽しいと思うのです。いずれにせよこの曲は、2人の天才芸術家がクロスオーバーした地点で生まれた稀な傑作です。
- なお、『ノルマの回想』と類似の作品に、マイアベーアのオペラをもとにしたパラフレーズがあります。これについては、No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」に書きました。