No.380 - 似鳥美術館 [アート]
過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知氏です。
今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。
小樽
似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げというからすごいものです。これらのニシンは小樽港から全国に運ばれました。当時のニシンの大部分は、乾燥させて粉にして農作物の肥料になったのです。
小樽は北海道開拓使が置かれた札幌と近い距離にあります。明治政府は小樽港を北海道開拓の玄関口として整備しました。北海道最初の鉄道が敷設されたのも札幌・小樽間で、小樽は北海道の物流の拠点として繁栄しました。その物流の重要品目は、北海道内陸部で採掘された石炭でしたが、小樽港から全国に積み出され、明治以降の日本の近代化に大いに寄与しました。
こういったことから、明治から大正、昭和(戦前)にかけての小樽は、北海道随一の産業都市として繁栄し、富が蓄積されました。もちろん、ニシン漁や石炭産業は戦後になって衰退していったのですが、小樽には当時の栄華を偲ばせる歴史的建造物が今でも残っています。小樽のシンボルは小樽運河とその周りの倉庫群ですが、これらはまさに歴史的建造物です。
小樽市は85件の「指定歴史的建造物」を指定し、保全費用の一部助成などを行っています。公開されているリストを見ると、建設時の用途は銀行、倉庫、邸宅、店舗、事務所、市庁舎(現在も市庁舎)、旅館、料亭、教会、寺院、神社などで、ほとんどは現在でも利用・再利用されています。これら、日本の近代化の歴史がフリーズして存在するような建造物群が、小樽市街の独特の都市景観を作っています。
小樽芸術村
2016年に、ニトリ・ホールディングスは、指定歴史的建造物をリノベーションして「小樽芸術村」を開設しました。現在は次の4つの施設で構成され、いずれも歩いてすぐの距離にあります。
ちなみに「美術館として建設されたのではない建物を美術館に転用」した例が、パリの著名美術館です。ルーブル美術館(宮殿)、オルセー美術館(駅舎)、オランジェリー美術館(温室)、ピカソ美術館(邸宅)、マルモッタン・モネ美術館(邸宅)など、多数あります。逆に、当初から美術館として建てられたのは、パリ市立近代美術館とポンピドー・センターぐらいしか思い当たりません。
またイタリアでは、フィレンツェのウフィツィ美術館(行政機関)、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(邸宅。No.217)などが "転用された美術館" です。
つまり、歴史的建造物を活用・再利用して美術館にするのは、ヨーロッパの "美術大国" ではよくある話なのです。また、これらの美術館の多くは、建物が本来の目的で建設・使用された時期と、そこに中心的に収集されている美術品の創作時期が重なっていることに注意すべきでしょう(ルーブル=古典、オルセー=印象派とその前後、など)。
似鳥美術館をはじめとする「小樽芸術村」も歴史的建造物のリノベーションであり、その中心的な収集品の創作時期は、小樽が栄華を誇った時期(19世紀末~20世紀前半)と重なります。美術館のあり方の "王道" と言えそうです。
なお、小樽芸術村はその公益性が認められ、2020年からは公益財団法人・似鳥文化財団が運営しています。
似鳥美術館
似鳥美術館は、1923年(大正12年)に竣工した北海道拓殖銀行小樽支店の建物をリノベーションし、ニトリ・ホールディングスの代表取締役会長、似鳥昭雄氏の個人コレクションをもとに、2017年秋に開館しました。収集されている主な美術品の作家と生没年を年代順にリストしてみると、まず油絵(洋画)では、
などです。明治に入ってから日本の洋画を牽引してきた画家がそろっていて、まさに小樽の発展と繁栄の歴史と重なります。また日本画では、
などの作品を所蔵しています。このリストを見ると、山下清より下を除き、いずれも小樽の産業都市としての繁栄期(19世紀末~20世紀前半)に活躍した画家です。なお日本画では、江戸期の画家である伊藤若冲(1716-1800)と谷文晁(1763-1841)の作品も所蔵しています。若冲の作品は「雪柳雄鶏図」で、これは北海道にある唯一の若冲作品だそうです。
似鳥美術館には、彫刻・立体作品も収集されています。
なとです。さらにヨーロッパの画家・彫刻家では、
などの作品があります。
以上にあげた作家の作品から、この美術館の "顔" とも言える2つの作品、
藤田嗣治「カフェにて」
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
を以下に紹介します。この2作品と似鳥美術館の建物に共通するキーワードは「1920年代」です。日本では大正末期から昭和初期にあたり、世界では第1次世界大戦が終了してから世界恐慌が始まるまでの時期です。
藤田嗣治「カフェにて」
藤田嗣治の「カフェにて」(ないしは「カフェ」)と題する作品は、油絵だけでも4作品あり、これらはすべて同じ構図の "連作" です。そこでまず、藤田嗣治の生涯と、この連作が描かれた経緯を整理しておきます。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)に東京で生まれました。子供のころから絵を描き始め、東京美術学校(現、東京藝大)を卒業しましたが、画壇から認められることはありませんでした。
1913年(大正2年)、26歳のときに藤田はパリに渡ります。それ以降、1920年代にかけて、乳白色の下地を使った独自の画風を確立し、パリで著名な画家となりました。藤田の代表作と言われる作品の多くはこの時代に描かれています。
1931年から、藤田は中南米へ旅に出ます。各地の人々をモデルに絵を描き、個展を開催しました。ブラジル、アルゼンチンから、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコへと渡り、アメリカ西海岸を経て、2年後の1933年に日本に帰国しました。
帰国した日本でも創作を続けます。壁画の大作「秋田の行事」(1937)はこの時期の作品です。また、陸軍報道部の要請で戦争記録画を描きました(「アッツ島玉砕」1943、など)。
戦後の1949年(昭和24年)、美術家の戦争責任問題が起こったのを契機に藤田は日本を去る決意をし、10ヶ月間ニューヨークに滞在したあと、フランスに落ち着きます。そして、1955年にフランス国籍を取得し帰化ました。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなります。晩年はフランスのランスに礼拝堂を建設し、その完成から2年後に亡くなりました(1968年、81歳)。
「カフェにて」の第1作は、フランスに永住する直前、ニューヨークに滞在したときに描き、個展で発表したものです(1949年)。藤田はこの絵を自分で作った額縁に入れてフランスに持参し、パリ国立近代美術館(現、ポンピドー・センター)に寄贈しました。
藤田嗣治の研究者で、美術評論家の村上哲氏は、この絵について次のように書いています(原文に段落はありません)。
窓越しに見えるカフェの屋号は「ラ・プティト・マドレーヌ」(LA PETITE MADELEINE)ですが、村上氏によるとこれはプルーストの「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家の方へ」に出てくる文言です。つまり、紅茶に浸した「一片の小さなマドレーヌ」(La Petite Madeleine)から幼少期の記憶がよみがえるという有名なエピソードに由来します。この言葉とエピソードは1920年代のパリの文化界に流布し、藤田もその頃に描いたカフェが登場する作品に用いたそうです。それを4半世紀後の本作品に流用した。
ただ、ここで再び「ラ・プティト・マドレーヌ」を登場させたのは、1930年代に藤田と行動を共にしたマドレーヌ・ルクーの追憶の意味ではないかと、村上氏は推測しています。マドレーヌ・ルクーは藤田の4人目のパートナーで、1931年からの中南米旅行に同行し、日本にも一緒にやってきましたが、1936年に急死し、日本に葬られました。本作品に描かれた女性の容貌は、残されたマドレーヌの写真と酷似しているそうです。であれば、藤田はマドレーヌに対する呵責と追憶の念からニューヨークで本作品を描き、それをマドレーヌの故郷であるフランスに持って行って寄贈したとの推測が成り立ちます。
それ以降、藤田はパリで同一構図の「カフェにて」を、油絵だけでも3作描きました。第2作と第3作は、窓越しのカフェに屋号はなく単に CAFE ですが、第4作では屋号が復活します。それが次の作品です。
この作品では窓越しに見えるカフェの屋号が「LA PETITE CLAIRE:ラ・ペティト・クレール」となっています。この屋号は、藤田の5番目の妻でパリに一緒に移り住んだ君代の洗礼名「Marie-Ange Claire:マリー=アンジュ クレール」を暗示しています。つまり LA PETITE CLAIRE は "愛しい君代" とも読める。かつ、この作品だけは他の3作と違って L.Foujita と署名されています(L はレオナール)。つまり洗礼を受けた1959年以降の作品であり、これが最後の「カフェにて」ということになります。藤田は少なくとも10年以上に渡って同じ構図の「カフェにて」を描いたわけです。
以上を踏まえて似鳥美術館の「カフェにて」を見ると、窓越しのカフェに屋号はなく、署名は Foujita です。ということは4連作のうちの第2作か第3作ということでしょう。
「カフェにて」を見て感じるのは、描かれた経緯やそこに込められた画家の思いとは別に、皮のソファや大理石のテーブル、インクの染みがついた手紙などの質感表現が素晴らしいことです。藤田嗣治の画家としての確かな技量を感じます。
「カフェにて」の4つの連作が描かれたのは、1949年~1960年頃ですが、描かれている情景は19世紀末の香りが残る1920年代のパリです。つまり小樽が繁栄を誇っていた時代のパリのカフェです。
似鳥美術館には、藤田嗣治の代名詞ともいえる「乳白色の下塗り」を使った1920年代の作品も所蔵されています(「婦人と犬」1927)。似鳥美術館で2つの作品を見比べながら、日本人の画家として初めてパリ画壇での名声(= 世界での名声)を獲得した藤田嗣治の生涯に思いを馳せるのもよいでしょう。
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
岸田劉生は1891年(明治24年)に東京で生まれ、1929年に38歳という若さで亡くなりました。藤田嗣治より5歳年下ですが、ほぼ同時代人です。
画題にある "リーチ" とは、イギリス人の陶芸家、バーナード・リーチ(1887-1979)のことで、彼も同時代人です。リーチはイギリス領・香港に生まれ、幼少期に日本に住んだこともありました。美術家をこころざし、イギリスの美術学校で版画(エッチング)を学んだ人です。
リーチはたびたび日本を訪れ、日本での居も構えました。この過程で陶芸に惹かれ、作陶を学んで、陶芸家として知られるようになります。岸田劉生は1911年、東京での版画の展覧会でリーチと出会い、以降、劉生とリーチは交友関係が続いたようです。劉生はリーチにエッチングの手ほどきをうけ、自ら作品も作っています。
1917年、26歳の劉生は結核の転地療養のために神奈川県藤沢市鵠沼に移住し、以降、関東大震災(1923年、大正12年)により鵠沼を離れるまでの6年半を過ごしました。この時期に制作が始められたのが、娘の麗子を描いた一連の「麗子像」です。と同時に、鵠沼時代には静物画にも取り組みました。その最後期(1921年・大正10年)に描かれたのが本作品です。
リーチ作の陶器の茶碗と湯呑、10個の果物が描かれています。劉生の日記によると、1つは梨で(右端)、緑色と黄色で描かれているのが半分色づいたミカン(2個)、その他はリンゴです(7個)。
この時期の日本の洋画ではめずらしいような、写実に徹した作品です。その、写実の技法で表現された静物の質感と存在感が際立っています。そして、一つ一つの静物の個性が表現されている。
まず、バーナード・リーチ作の茶碗と湯呑ですが、これは陶芸家が形を決め、絵付けをし、窯で焼くので、一つ一つが個性をもつのは当然です。しかし本作品では、果物もそれぞれが個性を主張している。
右端の梨は一番大きく、表面もなめらかで、つるんとして、堂々とある感じです。それに対して2つのミカンは熟する前で、半分か半分以上が緑の状態です。リンゴは赤と黄が複雑に混じって描かれていますが、この色使いは見たままではなく、表面の微妙な感じを誇張して描いたのでしょう。ミカンやリンゴはすべて違っています。現代のお店で購入するミカンやリンゴは、形が整っていて、大きさも色も均一の果物ですが、それとは全く違う様相です。
果物の一つ一つに違いがあり、どっしりとした重量感でテーブルの上に存在している。個性的なモノの存在そのものが美である、と画家は主張しているようです。その主張が、手作りの陶器を取り囲むように果物を並べることで鮮やかに浮かび上がる。果物が、右端の梨を先頭に隊列を組んで2つの陶器を守っているようにも見えます。
さらにこの絵の上半分は、直線を境にした明度の違う2つの灰色で単純に塗り分けられています。この背景は、現実のどこかの部屋の光景とはとても思えず、画家が作り出した抽象表現でしょう。その抽象表現の中に、非常に具象的な茶碗と湯呑と果物がドサッと置かれている、そのことが、静物の存在感を倍加させているのだと思います。
これは、岸田劉生の静物画の代表作であると同時に、似鳥美術館のコレクション全体を代表する作品です。それは芸術としての出来映えに加えて、展示されている空間(= 北海道拓殖銀行小樽支店)が完成した1923年とほぼ同時期である1921年に描かれたからです。当時の日本は欧米に追いつこうと近代化に邁進していました。岸田劉生も、西洋から "輸入された" 油絵で独自の表現を模索し、短い生涯の中で画風やテーマを次々と変えていった。その過程における静物画の傑作が本作品です。
似鳥美術館の建物の中で展示作品を鑑賞すると「時代の空気を呼吸する」ことになります。その意味で美術館に最もマッチするのが、この岸田劉生の静物画でしょう。
ステンドグラスのギャラリー
似鳥美術館の1階のエントランスを入ったところに、ルイス・ティファニーが製作したステンドグラスのギャラリーがあります。ルイスは、ティファニーの創設者、チャールズ・ティファニーの息子で、ガラス工芸で活躍しました。
似鳥美術館の絵画・彫刻は、旧北海道拓殖銀行小樽支店の2階から4階に展示してあるのですが、そこへはステンドグラスのギャラリーを通り抜けて行くようになっています。数々の美術品が並ぶ "非日常" の空間へといざなうのがステンドグラスの部屋という、この展示構成が良いと思います。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県・笠間市 | |||
No.303 | 松下美術館 | 鹿児島県・霧島市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知氏です。
今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。
小樽
似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げというからすごいものです。これらのニシンは小樽港から全国に運ばれました。当時のニシンの大部分は、乾燥させて粉にして農作物の肥料になったのです。
小樽は北海道開拓使が置かれた札幌と近い距離にあります。明治政府は小樽港を北海道開拓の玄関口として整備しました。北海道最初の鉄道が敷設されたのも札幌・小樽間で、小樽は北海道の物流の拠点として繁栄しました。その物流の重要品目は、北海道内陸部で採掘された石炭でしたが、小樽港から全国に積み出され、明治以降の日本の近代化に大いに寄与しました。
こういったことから、明治から大正、昭和(戦前)にかけての小樽は、北海道随一の産業都市として繁栄し、富が蓄積されました。もちろん、ニシン漁や石炭産業は戦後になって衰退していったのですが、小樽には当時の栄華を偲ばせる歴史的建造物が今でも残っています。小樽のシンボルは小樽運河とその周りの倉庫群ですが、これらはまさに歴史的建造物です。
小樽市は85件の「指定歴史的建造物」を指定し、保全費用の一部助成などを行っています。公開されているリストを見ると、建設時の用途は銀行、倉庫、邸宅、店舗、事務所、市庁舎(現在も市庁舎)、旅館、料亭、教会、寺院、神社などで、ほとんどは現在でも利用・再利用されています。これら、日本の近代化の歴史がフリーズして存在するような建造物群が、小樽市街の独特の都市景観を作っています。
小樽芸術村
2016年に、ニトリ・ホールディングスは、指定歴史的建造物をリノベーションして「小樽芸術村」を開設しました。現在は次の4つの施設で構成され、いずれも歩いてすぐの距離にあります。
似鳥美術館(旧・北海道拓殖銀行小樽支店) 日本の作家による洋画、日本画、彫刻、および西欧の絵画が展示されています。 | |
ステンドグラス美術館(旧・高橋倉庫) 主としてイギリスの教会を飾っていたステンドグラス、約100点を、教会の解体を契機に移設したものです。近接してミュージアム・ショップ(旧・荒田商会)があります。 | |
西洋美術館(旧・浪華倉庫) 西洋のアールヌーボー、アールデコのガラス製品や、磁器、家具・調度品などが展示されています。 | |
旧・三井銀行小樽支店 2022年に国の重要文化財に指定された建物です。建築そのものを "芸術" として鑑賞できるようになっています。 |
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ちなみに「美術館として建設されたのではない建物を美術館に転用」した例が、パリの著名美術館です。ルーブル美術館(宮殿)、オルセー美術館(駅舎)、オランジェリー美術館(温室)、ピカソ美術館(邸宅)、マルモッタン・モネ美術館(邸宅)など、多数あります。逆に、当初から美術館として建てられたのは、パリ市立近代美術館とポンピドー・センターぐらいしか思い当たりません。
またイタリアでは、フィレンツェのウフィツィ美術館(行政機関)、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(邸宅。No.217)などが "転用された美術館" です。
つまり、歴史的建造物を活用・再利用して美術館にするのは、ヨーロッパの "美術大国" ではよくある話なのです。また、これらの美術館の多くは、建物が本来の目的で建設・使用された時期と、そこに中心的に収集されている美術品の創作時期が重なっていることに注意すべきでしょう(ルーブル=古典、オルセー=印象派とその前後、など)。
似鳥美術館をはじめとする「小樽芸術村」も歴史的建造物のリノベーションであり、その中心的な収集品の創作時期は、小樽が栄華を誇った時期(19世紀末~20世紀前半)と重なります。美術館のあり方の "王道" と言えそうです。
なお、小樽芸術村はその公益性が認められ、2020年からは公益財団法人・似鳥文化財団が運営しています。
似鳥美術館
似鳥美術館は、1923年(大正12年)に竣工した北海道拓殖銀行小樽支店の建物をリノベーションし、ニトリ・ホールディングスの代表取締役会長、似鳥昭雄氏の個人コレクションをもとに、2017年秋に開館しました。収集されている主な美術品の作家と生没年を年代順にリストしてみると、まず油絵(洋画)では、
黒田清輝 | (1866-1924) |
岡田三郎助 | (1869-1939) |
藤田嗣治 | (1886-1968) |
小出楢重 | (1887-1931) |
梅原龍三郎 | (1888-1986) |
安井曾太郎 | (1888-1955) |
岸田劉生 | (1891-1929) |
中川一政 | (1893-1991) |
児島善三郎 | (1893-1962) |
林武 | (1896-1975) |
佐伯祐三 | (1898-1928) |
荻須高徳 | (1901-1986) |
小磯良平 | (1903-1988) |
などです。明治に入ってから日本の洋画を牽引してきた画家がそろっていて、まさに小樽の発展と繁栄の歴史と重なります。また日本画では、
富岡鉄斎 | (1836-1924) |
横山大観 | (1868-1958) |
下山観山 | (1873-1930) |
川合玉堂 | (1873-1957) |
上村松園 | (1875-1949) |
鏑木清方 | (1878-1972) |
小林古径 | (1883-1957) |
川端龍子 | (1885-1966) |
村上華岳 | (1888-1939) |
伊東深水 | (1898-1972) |
棟方志功 | (1903-1975) |
片岡球子 | (1905-2008) |
東山魁夷 | (1908-1999) |
杉山寧 | (1909-1993) |
山下清 | (1922-1971) |
加山又造 | (1927-2004) |
平山郁夫 | (1930-2009) |
千住博 | (1958-) |
などの作品を所蔵しています。このリストを見ると、山下清より下を除き、いずれも小樽の産業都市としての繁栄期(19世紀末~20世紀前半)に活躍した画家です。なお日本画では、江戸期の画家である伊藤若冲(1716-1800)と谷文晁(1763-1841)の作品も所蔵しています。若冲の作品は「雪柳雄鶏図」で、これは北海道にある唯一の若冲作品だそうです。
伊藤若冲「雪柳雄鶏図」 |
似鳥美術館 |
伊藤若冲の初期作品。「雪が積もる木の枝を背景にした鳥」という構図は、後の『動植綵絵』の「雪中錦鶏図」を予見しているようである。No.371「自閉スペクトラムと伊藤若冲」の「補記2」を参照。 |
似鳥美術館には、彫刻・立体作品も収集されています。
高村光雲 | (1852-1934) |
高村光太郎 | (1883-1956) |
平櫛田中 | (1872-1979) |
岡本太郎 | (1911-1996) |
佐藤忠良 | (1912-2011) |
なとです。さらにヨーロッパの画家・彫刻家では、
ロダン | (1840-1917) |
ルノワール | (1841-1919) |
ヴラマンク | (1876-1958) |
ユトリロ | (1883-1955) |
シャガール | (1887-1985) |
ビュッフェ | (1928-1999) |
などの作品があります。
以上にあげた作家の作品から、この美術館の "顔" とも言える2つの作品、
藤田嗣治「カフェにて」
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
を以下に紹介します。この2作品と似鳥美術館の建物に共通するキーワードは「1920年代」です。日本では大正末期から昭和初期にあたり、世界では第1次世界大戦が終了してから世界恐慌が始まるまでの時期です。
藤田嗣治「カフェにて」
藤田嗣治の「カフェにて」(ないしは「カフェ」)と題する作品は、油絵だけでも4作品あり、これらはすべて同じ構図の "連作" です。そこでまず、藤田嗣治の生涯と、この連作が描かれた経緯を整理しておきます。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)に東京で生まれました。子供のころから絵を描き始め、東京美術学校(現、東京藝大)を卒業しましたが、画壇から認められることはありませんでした。
1913年(大正2年)、26歳のときに藤田はパリに渡ります。それ以降、1920年代にかけて、乳白色の下地を使った独自の画風を確立し、パリで著名な画家となりました。藤田の代表作と言われる作品の多くはこの時代に描かれています。
1931年から、藤田は中南米へ旅に出ます。各地の人々をモデルに絵を描き、個展を開催しました。ブラジル、アルゼンチンから、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコへと渡り、アメリカ西海岸を経て、2年後の1933年に日本に帰国しました。
帰国した日本でも創作を続けます。壁画の大作「秋田の行事」(1937)はこの時期の作品です。また、陸軍報道部の要請で戦争記録画を描きました(「アッツ島玉砕」1943、など)。
戦後の1949年(昭和24年)、美術家の戦争責任問題が起こったのを契機に藤田は日本を去る決意をし、10ヶ月間ニューヨークに滞在したあと、フランスに落ち着きます。そして、1955年にフランス国籍を取得し帰化ました。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなります。晩年はフランスのランスに礼拝堂を建設し、その完成から2年後に亡くなりました(1968年、81歳)。
「カフェにて」の第1作は、フランスに永住する直前、ニューヨークに滞在したときに描き、個展で発表したものです(1949年)。藤田はこの絵を自分で作った額縁に入れてフランスに持参し、パリ国立近代美術館(現、ポンピドー・センター)に寄贈しました。
藤田嗣治 「カフェにて」 |
ポンピドー・センター |
連作の第1作で、1949年に描かれ、パリ国立近代美術館に寄贈された。2018年に東京都美術館で開催された「没後50年 藤田嗣治展」ではメイン・ビジュアルとなった。署名は Foujita となっている。 |
藤田嗣治の研究者で、美術評論家の村上哲氏は、この絵について次のように書いています(原文に段落はありません)。
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窓越しに見えるカフェの屋号は「ラ・プティト・マドレーヌ」(LA PETITE MADELEINE)ですが、村上氏によるとこれはプルーストの「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家の方へ」に出てくる文言です。つまり、紅茶に浸した「一片の小さなマドレーヌ」(La Petite Madeleine)から幼少期の記憶がよみがえるという有名なエピソードに由来します。この言葉とエピソードは1920年代のパリの文化界に流布し、藤田もその頃に描いたカフェが登場する作品に用いたそうです。それを4半世紀後の本作品に流用した。
ただ、ここで再び「ラ・プティト・マドレーヌ」を登場させたのは、1930年代に藤田と行動を共にしたマドレーヌ・ルクーの追憶の意味ではないかと、村上氏は推測しています。マドレーヌ・ルクーは藤田の4人目のパートナーで、1931年からの中南米旅行に同行し、日本にも一緒にやってきましたが、1936年に急死し、日本に葬られました。本作品に描かれた女性の容貌は、残されたマドレーヌの写真と酷似しているそうです。であれば、藤田はマドレーヌに対する呵責と追憶の念からニューヨークで本作品を描き、それをマドレーヌの故郷であるフランスに持って行って寄贈したとの推測が成り立ちます。
それ以降、藤田はパリで同一構図の「カフェにて」を、油絵だけでも3作描きました。第2作と第3作は、窓越しのカフェに屋号はなく単に CAFE ですが、第4作では屋号が復活します。それが次の作品です。
藤田嗣治 「カフェにて」 |
(個人蔵) |
連作の最後の作品で、署名は L.Foujita となっている。洗礼後に描かれた最後の「カフェにて」と推測できる。 |
この作品では窓越しに見えるカフェの屋号が「LA PETITE CLAIRE:ラ・ペティト・クレール」となっています。この屋号は、藤田の5番目の妻でパリに一緒に移り住んだ君代の洗礼名「Marie-Ange Claire:マリー=アンジュ クレール」を暗示しています。つまり LA PETITE CLAIRE は "愛しい君代" とも読める。かつ、この作品だけは他の3作と違って L.Foujita と署名されています(L はレオナール)。つまり洗礼を受けた1959年以降の作品であり、これが最後の「カフェにて」ということになります。藤田は少なくとも10年以上に渡って同じ構図の「カフェにて」を描いたわけです。
以上を踏まえて似鳥美術館の「カフェにて」を見ると、窓越しのカフェに屋号はなく、署名は Foujita です。ということは4連作のうちの第2作か第3作ということでしょう。
藤田嗣治 「カフェにて」 |
似鳥美術館 |
この絵が描かれた時期は確定できず、似鳥美術館では1949年~1963年としている。 |
「カフェにて」を見て感じるのは、描かれた経緯やそこに込められた画家の思いとは別に、皮のソファや大理石のテーブル、インクの染みがついた手紙などの質感表現が素晴らしいことです。藤田嗣治の画家としての確かな技量を感じます。
「カフェにて」の4つの連作が描かれたのは、1949年~1960年頃ですが、描かれている情景は19世紀末の香りが残る1920年代のパリです。つまり小樽が繁栄を誇っていた時代のパリのカフェです。
似鳥美術館には、藤田嗣治の代名詞ともいえる「乳白色の下塗り」を使った1920年代の作品も所蔵されています(「婦人と犬」1927)。似鳥美術館で2つの作品を見比べながら、日本人の画家として初めてパリ画壇での名声(= 世界での名声)を獲得した藤田嗣治の生涯に思いを馳せるのもよいでしょう。
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
岸田劉生 「静物 - リーチの茶碗と果物」(1921) |
似鳥美術館 |
右上から文字が書かれていて、1921年3月14日と読める。この絵が完成した日付けである。 |
岸田劉生は1891年(明治24年)に東京で生まれ、1929年に38歳という若さで亡くなりました。藤田嗣治より5歳年下ですが、ほぼ同時代人です。
画題にある "リーチ" とは、イギリス人の陶芸家、バーナード・リーチ(1887-1979)のことで、彼も同時代人です。リーチはイギリス領・香港に生まれ、幼少期に日本に住んだこともありました。美術家をこころざし、イギリスの美術学校で版画(エッチング)を学んだ人です。
リーチはたびたび日本を訪れ、日本での居も構えました。この過程で陶芸に惹かれ、作陶を学んで、陶芸家として知られるようになります。岸田劉生は1911年、東京での版画の展覧会でリーチと出会い、以降、劉生とリーチは交友関係が続いたようです。劉生はリーチにエッチングの手ほどきをうけ、自ら作品も作っています。
1917年、26歳の劉生は結核の転地療養のために神奈川県藤沢市鵠沼に移住し、以降、関東大震災(1923年、大正12年)により鵠沼を離れるまでの6年半を過ごしました。この時期に制作が始められたのが、娘の麗子を描いた一連の「麗子像」です。と同時に、鵠沼時代には静物画にも取り組みました。その最後期(1921年・大正10年)に描かれたのが本作品です。
リーチ作の陶器の茶碗と湯呑、10個の果物が描かれています。劉生の日記によると、1つは梨で(右端)、緑色と黄色で描かれているのが半分色づいたミカン(2個)、その他はリンゴです(7個)。
この時期の日本の洋画ではめずらしいような、写実に徹した作品です。その、写実の技法で表現された静物の質感と存在感が際立っています。そして、一つ一つの静物の個性が表現されている。
まず、バーナード・リーチ作の茶碗と湯呑ですが、これは陶芸家が形を決め、絵付けをし、窯で焼くので、一つ一つが個性をもつのは当然です。しかし本作品では、果物もそれぞれが個性を主張している。
右端の梨は一番大きく、表面もなめらかで、つるんとして、堂々とある感じです。それに対して2つのミカンは熟する前で、半分か半分以上が緑の状態です。リンゴは赤と黄が複雑に混じって描かれていますが、この色使いは見たままではなく、表面の微妙な感じを誇張して描いたのでしょう。ミカンやリンゴはすべて違っています。現代のお店で購入するミカンやリンゴは、形が整っていて、大きさも色も均一の果物ですが、それとは全く違う様相です。
果物の一つ一つに違いがあり、どっしりとした重量感でテーブルの上に存在している。個性的なモノの存在そのものが美である、と画家は主張しているようです。その主張が、手作りの陶器を取り囲むように果物を並べることで鮮やかに浮かび上がる。果物が、右端の梨を先頭に隊列を組んで2つの陶器を守っているようにも見えます。
さらにこの絵の上半分は、直線を境にした明度の違う2つの灰色で単純に塗り分けられています。この背景は、現実のどこかの部屋の光景とはとても思えず、画家が作り出した抽象表現でしょう。その抽象表現の中に、非常に具象的な茶碗と湯呑と果物がドサッと置かれている、そのことが、静物の存在感を倍加させているのだと思います。
これは、岸田劉生の静物画の代表作であると同時に、似鳥美術館のコレクション全体を代表する作品です。それは芸術としての出来映えに加えて、展示されている空間(= 北海道拓殖銀行小樽支店)が完成した1923年とほぼ同時期である1921年に描かれたからです。当時の日本は欧米に追いつこうと近代化に邁進していました。岸田劉生も、西洋から "輸入された" 油絵で独自の表現を模索し、短い生涯の中で画風やテーマを次々と変えていった。その過程における静物画の傑作が本作品です。
似鳥美術館の建物の中で展示作品を鑑賞すると「時代の空気を呼吸する」ことになります。その意味で美術館に最もマッチするのが、この岸田劉生の静物画でしょう。
ステンドグラスのギャラリー
似鳥美術館の1階のエントランスを入ったところに、ルイス・ティファニーが製作したステンドグラスのギャラリーがあります。ルイスは、ティファニーの創設者、チャールズ・ティファニーの息子で、ガラス工芸で活躍しました。
似鳥美術館の絵画・彫刻は、旧北海道拓殖銀行小樽支店の2階から4階に展示してあるのですが、そこへはステンドグラスのギャラリーを通り抜けて行くようになっています。数々の美術品が並ぶ "非日常" の空間へといざなうのがステンドグラスの部屋という、この展示構成が良いと思います。
ルイス・ティファニー ステンドグラス・ギャラリーは、2018年11月22日にオープンしたが、それを告知するチラシ。GRAND OPEN の文字より下が、似鳥美術館1階のエントランスから見たステンドグラス・ギャラリーの画像である。ここを通り抜けて絵画や彫刻の展示エリアに入っていく。 |
2024-11-25 14:24
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No.379 - 高校数学で理解する秘書問題 [科学]
\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)
No.376「高校数学で理解するマッチング問題」に関連する話題を取り上げます。関連といっても "答が同じ数値になる" という意味の関連で、問題の性質は違います。
No.376 では、一般的にマッチング問題(出会いの問題)と言われるものを「席替えの成功確率」という形で提示しました。次のような問題です。
No.376 ではこの確率がおよそ 0.368 であること、また人数が増えると \(\dfrac{1}{e}=0.3678794411\cd\) に収束していくことを見ました(\(e\) は自然対数の底=ネイピア数)。席替えが成功する確率はクラスの人数が少なければ低く、クラスの人数が多ければ高いと考えるのが普通でしょう。しかし実際にはクラスの人数にかかわらず(6人以上のクラスであれば)ほぼ 0.368 であり、それより成功確率が大きくなることはない。これが少々意外な結論でした。
この \(\dfrac{1}{e}\) という値が答になる別の確率の問題があります。「秘書問題(secretary problem)」です。これも少々意外な確率が答になります。
秘書問題
一般的に「秘書問題」と言われているものは次のようなものです。
もし、全員と面接してからそのうちの一人に採用を通知するなら話は簡単です。全員の相対的な優先順位をつけられるので、1位の人に通知すればよい。しかしこの問題では「面接した直後に採用するか採用しないかを通知する」必要があります。このとき「もし仮に全員と面接したとしたら優先順位が1位になるはずの人を採用できる確率」を最も大きくするのが問題です。面接の順序はランダムであることにも注意します。この問題を数学的に解析します。
最大値のカードを選択する戦略
説明の都合上、カードを選択する問題にします。秘書問題と等価です。
まず、\(\bs{n=5}\) の場合で、とりうる戦略と確率を分析します。裏返しのカードは順に \(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\)、\(C_5\) です。それぞれのカードの表に書かれている実数値を \(V(C_n)\) とします(\(V\::\) value)。戦略立案の条件は、
です。\(T\) を選択する確率を最大化する問題なので、この条件は必須です。この条件に合致する戦略は、以降で検討するように5種類あるので、それを \(S_n\:\:(n=0,\:1,\:2,\:3,\:4)\) で表します(\(S\::\) strategy)。また、戦略 \(S_n\) のときに 最大カード・\(T\) を選択できる確率を \(P(S_n)\) とします(\(P\::\) probability)。
戦略:\(S_0\)
最初のカード \(C_1\) は「無条件に選択するか、無条件に選択しないかのどちらか」です。利用できる情報は \(V(C_1)\) だけですが、\(V(C_1)\) を見ても全体の中での順位は全く判断できないからです。たとえ \(V(C_1)=0.00001\) などであっても、実数値はいくらでも小さくできるので、それが最大カードの可能性があります。
そこで、最初のカード \(\bs{C_1}\) を必ず選択する戦略を \(S_0\) とします。\(T\) の位置はランダムなので、
戦略:\(S_1\)
戦略:\(S_1\) では、\(\bs{C_1}\) は必ず選択せずに "様子見" とし、その後の \(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) の状況で選択するカードを決めます。もし \(V(C_1) < V(C_2)\) なら \(C_2\) を選択します。もちろん、\(C_2\) が最大カード・\(T\) かどうかは分かりません。しかし、\(\bs{C_1}\) は \(\bs{T}\) ではない確証を得たので、\(\bs{C_1}\) を選択せずに済んだ(= \(T\) を選択する確率を高めた)という効果が出ました。なお「\(V(C_1) < V(C_2)\) であっても \(C_2\) を選択しない戦略」もありますが、その場合、\(C_1\) と \(C_2\) は必ず選択しないので、それは次項の "戦略:\(S_2\)" です。
もし \(\bs{V(C_1) > V(C_2)}\) なら、\(\bs{C_2}\) は \(\bs{T}\) でありません。従って \(C_2\) を選択せずに \(C_3\) を表にします。そして \(V(C_1) < V(C_3)\) であれば \(C_3\) を選択します。もちろん \(C_3\) が \(T\) かどうかは分かりませんが、\(\bs{C_2}\) に加えて \(\bs{C_1}\) も \(\bs{T}\) ではない確証を得たという効果が生じました。
もし \(V(C_1) > V(C_3)\) なら \(C_3\) は \(T\) ではないことが分かったので、\(C_4\) を表にします。なお「\(V(C_1) < V(C_3)\) であっても \(C_3\) を選択しない」という戦略も考えられますが、その場合、\(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\) は必ず選択しないので、それは後で述べる "戦略:\(S_3\)" です。
以下、同様の考え方で \(C_4\) を選択するかどうかを決めます。つまり、\(\bs{V(C_1)}\) より大きな実数値が出たとき、そのカードを選択します。この方針で \(C_4\) も選択しなければ、最終的にどれか1枚を選択する必要があるので \(C_5\) を選択します。
ここで、戦略:\(S_1\) で \(T\) を選択できる確率、\(P(S_1)\) を計算します。
\(\bs{C_1=T}\) のとき、\(C_1\) は選択しないので、
\(P(S_1)=0\)
\(\bs{C_2=T}\) のとき、必ず \(C_2\) を選択することになります。\(C_2=T\) となる確率は \(\dfrac{1}{5}\) なので、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\)
\(\bs{C_3=T}\) のとき、\(C_3\) を選択するのは \(V(C_1) > V(C_2)\) のとき(= \(C_2\) を選択しないとき)です。カードの並べ方はランダムなので、\(V(C_1) > V(C_2)\) となるか \(V(C_1) < V(C_2)\) かは半々です。従って、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\times\dfrac{1}{2}\)
\(\bs{C_4=T}\) のとき、\(C_4\) を選択するのは \(C_2\)、\(C_3\) を選択しない場合です。\(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\) のうちの最大値がどれかは3つの場合がありますが、\(C_2\) か \(C_3\) が選択されないのは、最大値が \(V(C_1)\) のときだけです。つまり割合として \(\dfrac{1}{3}\) の場合です。従って、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\times\dfrac{1}{3}\)
\(\bs{C_5=T}\) のとき、\(C_5\) を選択するのは \(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) を選択しない場合だけです。\(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\)、\(V(C_4)\) のうちの最大値がどれかは4つの場合がありますが、\(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) のどれもが選択されないのは、最大値が \(V(C_1)\) のときだけです。つまり割合として \(\dfrac{1}{4}\) の場合です。従って、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\times\dfrac{1}{4}\)
以上の5つケースは排他的なので、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_1)&=\dfrac{1}{5}\left(1+\dfrac{1}{2}+\dfrac{1}{3}+\dfrac{1}{4}\right)\\
&&&=\dfrac{1}{5}\cdot\dfrac{25}{12}\\
&&&=0.4167\\
\end{eqnarray}\)
が \(T\) を選択できる確率です。\(S_0\) よりは \(2\)倍以上の確率になりました。
戦略:\(S_2\)
この戦略では、\(C_1\)、\(C_2\) は様子見として選択せず(=たとえ \(V(C_1) < V(C_2)\) であっても \(C_2\) を選択しない)、\(C_3\)、\(C_4\) の状況で判断します。選択の判断は \(S_1\) と同様です。つまり、様子見のカード、\(\bs{V(C_1)}\)、\(\bs{V(C_2)}\) より大きな実数値のカードを選択します。
\(C_1=T\) または \(C_2=T\) のとき、\(T\) は選択されません。
\(C_3=T\) のときは必ず \(T\) が選択されます。
\(C_4=T\) のとき、\(C_4\) が選択されるのは \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\) のうちの最大値が \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\) のどちらかの場合です。\(V(C_3)\) が最大値だと \(C_3\) を選択してしまうからです。つまり \(\dfrac{2}{3}\) の割合です。
\(C_5=T\) のとき、\(C_5\) が選択されるのは \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\)、\(V(C_4)\)のうちの最大値が \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\) のどちらかの場合です。そうでなければ \(C_3\) か \(C_4\) を選択してしまうからです。つまり \(\dfrac{2}{4}=\dfrac{1}{2}\) の割合です。まとめると、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_2)&=\dfrac{1}{5}\left(1+\dfrac{2}{3}+\dfrac{1}{2}\right)\\
&&&=\dfrac{1}{5}\cdot\dfrac{13}{6}\\
&&&=0.4333\\
\end{eqnarray}\)
となります。\(P(S_1)\) より大きい値です。
戦略:\(S_3\)
この戦略では、\(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\) は様子見として選択せず、\(C_4\) の状況で判断します。\(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\) より \(V(C_4)\) が大きな実数値のときに、\(C_4\) を選択します。
\(C_1=T\) または \(C_2=T\) または \(C_3=T\) のとき、\(T\) は選択されません。
\(C_4=T\) のときは必ず \(T\) が選択されます。
\(C_5=T\) のとき、\(C_5\) が選択されるのは \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\)、\(V(C_4)\) のうちの最大値が\(V(C_4)\) ではない場合です。\(V(C_4)\) が最大値だと \(C_4\) を選択してしまうからです。つまり \(C_5\) が選択されるのは \(\dfrac{3}{4}\) の場合です。まとめると、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_3)&=\dfrac{1}{5}\left(1+\dfrac{3}{4}\right)\\
&&&=\dfrac{1}{5}\cdot\dfrac{7}{4}\\
&&&=0.3500\\
\end{eqnarray}\)
となり、\(P(S_2)\) より小さくなりました。
戦略:\(S_4\)
この戦略では \(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) を選択せず、必ず \(C_5\) を選択します。\(C_5=T\) である確率は \(\dfrac{1}{5}\) であり、
\(P(S_4)=0.2\)
となって、\(P(S_0)\) と同じ確率です。
\(n=5\) の場合のまとめ
以上の検討結果により \(n=5\) の場合で可能な戦略は、「最大カード・\(T\) ではないとの確証を得たカードは選択しない」という条件のもとで \(S_0\) ~ \(S_4\) の5種であり、これ以外にはありません。各戦略ごとの確率をまとめると、
\(P(S_0)=0.2\)
\(P(S_1)=0.4167\)
\(P(S_2)=0.4333\)
\(P(S_3)=0.35\)
\(P(S_4)=0.2\)
で、\(n=5\) では「戦略:\(S_2\)」が最大カード・\(T\) を選択する確率を最大化します。この "確率最大化" の検討過程から、次のようなことが分かります。
一般化
\(n=5\) のときの考察を一般化し、\(n\) を \(n\geq2\) の任意の数とします。一般化された戦略は、
です。また、
とします。もし \(1\leq t\leq k\) なら \(T\) を選択することはないので、確率は \(0\) です。
\(\bs{k < t\leq n}\) のとき、\(\bs{T}\) を選択するのは、\(\bs{V(C_1)}\)、\(\bs{V(C_2)}\)、\(\bs{\cd}\)、\(\bs{V(C_{t-1})}\) の中での最大が、\(\bs{V(C_1)}\)、\(\bs{V(C_2)}\)、\(\bs{\cd\:V(C_k)}\) の中にある場合だけです。そうでなければ \(\bs{T}\) にたどりつく前に \(\bs{C_{k+1}}\)、\(\bs{\cd\:C_{t-1}}\) のどれかを選択してしまうからです。つまり \(T\) を選択するのは、割合としては \(\dfrac{k}{t-1}\) の場合です。
\(t\) 番目に \(T\) がある確率は \(\dfrac{1}{n}\) なので、\(T\) を選択する確率は、
\(\dfrac{1}{n}\cdot\dfrac{k}{t-1}\)
です。全体の確率は、この式を \(t\) の範囲 \((k < t\leq n)\) で合計し、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_k)&=\displaystyle\sum_{t=k+1}^{n}\dfrac{1}{n}\cdot\dfrac{k}{t-1}\\
&&&=\dfrac{k}{n}\displaystyle\sum_{t=k+1}^{n}\cdot\dfrac{1}{t-1}\\
&&&=\dfrac{k}{n}\displaystyle\sum_{t=k}^{n-1}\cdot\dfrac{1}{t}\\
&&&=\dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\dfrac{1}{k+1}+\:\cd\:+\dfrac{1}{n-1}\right)\\
\end{eqnarray}\)
となります。
\(n=5\) のときには、上で計算したように戦略:\(S_2\) が最大確率になりました。では、一般の場合に最大確率になる戦略 \(S_k\) は何か。\(n=5,\:10,\:15,\:\cd\:,\:100\) の場合をパソコンで計算してみると、次の表の通りです。
\(n\) が大きくなれば、\(T\) を選択する確率が最大になるのは、様子見をしたカードが全体の \(36\%\)~\(37\%\) 程度のときであり、そのときの確率は \(0.37\) 程度であることが分かります。
\(n\) が十分に大きいとき
\(n\) が十分に大きい前提で、最大確率となる \(S_k\) を数学的に求めます。そのために \(P(S_k)\) の式を簡便な形に変換します。上で計算したように、
\(P(S_k)=\dfrac{k}{n}\displaystyle\sum_{t=k}^{n-1}\dfrac{1}{t}\)
であり、図2でグレーで示した部分の面積に \(\dfrac{k}{n}\) を掛けたものが \(P(S_k)\) です。
従って、積分で計算可能な "図2の赤色の部分" に \(\dfrac{k}{n}\) を掛けると \(P(S_k)\) の下限値になり、
\(P(S_k) > \dfrac{k}{n}\displaystyle\int_{k}^{n}\dfrac{1}{t}\,dt\)
です。置換積分を使うために、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:t&=ns\\
&&\:\:s&=\dfrac{t}{n}\\
&&\:\:dt&=n\,ds\\
\end{eqnarray}\)
と置くと、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_k)& > \phantom{-}\dfrac{k}{n}\displaystyle\int_{1}^{\tfrac{k}{n}}\dfrac{1}{ns}\cdot n\,ds\\
&&&=\phantom{-}\dfrac{k}{n}\displaystyle\int_{1}^{\tfrac{k}{n}}\dfrac{1}{s}\,ds\\
&&&=-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right) \br{①}\\
\end{eqnarray}\)
となります。
図2のグレーの部分を \(1\) だけ左にずらしたのが下の図3です。左へずらすことで \(k\) ~ \(n\) の範囲からはみ出た部分の面積は \(\dfrac{1}{k}\) です。
従って、積分を使って \(P(S_k)\) の上限値を求めると、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_k)& < \dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\displaystyle\int_{k}^{n-1}\dfrac{1}{t}\,dt\right)\\
&&&=\dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\displaystyle\int_{\tfrac{k}{n}}^{1-\tfrac{1}{n}}\dfrac{1}{s}\,ds\right)\\
&&&=\dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)-\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\right)\\
&&&=\dfrac{1}{n}+\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\\
\end{eqnarray}\)
と計算できます。ここで、
\(\al=\dfrac{1}{n}+\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)\)
と置くと、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:\dfrac{1}{n}\rightarrow0 &(n\rightarrow\infty)\\
&&\:\:\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)\rightarrow0 &(n\rightarrow\infty)\\
\end{eqnarray}\)
\(0 < \dfrac{k}{n} < 1\)
なので、
\(P(S_k) < \al-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\) \(\br{②}\)
\(\al\rightarrow0\:\:(n\rightarrow\infty)\)
となります。下限値の \(\br{①}\) 式と、上限値の \(\br{②}\) 式 を合わせると、
\(-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right) < P(S_k) < \al-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\)
\(\al\rightarrow0\:\:(n\rightarrow\infty)\)
となって、\(n\) が十分大きいときには、
\(P(S_k)=-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\) \(\br{③}\)
とみなしてよいことが分かりました。ここで \(x=\dfrac{k}{n}\) とすると、
\(P(S_k)=-x\mr{log}(x)\)
となります。\(P(S_k)\) が最大値となる \(x\) を求めるために、右辺を微分して \(0\) とおくと、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:-&\mr{log}(x)-1&=\phantom{-}0\\
&&&\mr{log}(x)&=-1\\
\end{eqnarray}\)
\(\longrightarrow\:x=\dfrac{1}{e}\)
です。つまり、\(\dfrac{k}{n}=\dfrac{1}{e}\) のときに \(P(S_k)\) は最大値をとります。このときの \(P(S_k)\) を \(\br{③}\) 式で求めると、
\(P(S_k)\) の最大値\(=\dfrac{1}{e}\)
と計算できます。この \(\dfrac{1}{e}\) はマッチング問題と全く同じで、\(\fallingdotseq0.368\) です。かつ、この問題では答に現れる2つの数値が共に \(\dfrac{1}{e}\) です。
\(n\) が十分に大きいときは、\(P(S_k)\) の最大値は \(\dfrac{1}{e}\) ですが、上のパソコンでの計算例を見ると、\(n\) を増やしたときに \(\dfrac{1}{e}=0.3678794411\cd\) に収束する様子は、マッチング問題と違って非常に緩慢なことが分かります。
秘書問題の結論
最大値のカードを選択する戦略の結論は次のようになります。
当初の「秘書問題」の文脈でこの結論を書くと、
となります。この結論は \(n\) が十分に大きくても成り立ちます。\(\bs{n}\) がどんなに大きくても、4割程度の高確率で最良の選択ができるというのが、少々意外な結果なのでした。
No.376「高校数学で理解するマッチング問題」に関連する話題を取り上げます。関連といっても "答が同じ数値になる" という意味の関連で、問題の性質は違います。
No.376 では、一般的にマッチング問題(出会いの問題)と言われるものを「席替えの成功確率」という形で提示しました。次のような問題です。
小学校の 40人のクラスで、席替えを "くじ引き" でやるとします。まず、現在の席に 1 ~ 40 の席番号を割り振ります。担任の先生は、1~40 の数字を書いた紙を40枚用意し、その紙を数字が見えないように折って、箱の中に入れてかき混ぜます。生徒は順に箱から紙を1枚ずつ引き、そこに書かれている数字がその子の新しい席となります。 もちろんこのやり方だと、今の自分の席番号の紙を引く子が現れる可能性があります。そして「すべての子が現在の席番号と違う番号を引いたとき、席替えは成功」と定義します。40人のクラスで、席替えが(1回のくじ引きで)成功する確率はどれほどでしょうか。 |
No.376 ではこの確率がおよそ 0.368 であること、また人数が増えると \(\dfrac{1}{e}=0.3678794411\cd\) に収束していくことを見ました(\(e\) は自然対数の底=ネイピア数)。席替えが成功する確率はクラスの人数が少なければ低く、クラスの人数が多ければ高いと考えるのが普通でしょう。しかし実際にはクラスの人数にかかわらず(6人以上のクラスであれば)ほぼ 0.368 であり、それより成功確率が大きくなることはない。これが少々意外な結論でした。
この \(\dfrac{1}{e}\) という値が答になる別の確率の問題があります。「秘書問題(secretary problem)」です。これも少々意外な確率が答になります。
秘書問題
一般的に「秘書問題」と言われているものは次のようなものです。
秘書を一人採用する。 | |
応募者は n 人あった。この n 人とランダムな順で面接する。すべての人と面接するとは限らない。 | |
面接した直後に、採用するか採用しないかを通知する。採用の通知をしたら、以降の面接はしない。採用しない場合は次の面接を行う。 | |
採用しないと通知した人に対して、その通知を覆して採用することはない。 | |
面接を行った人すべてに相対的な優先順位をつけることができる。その相対順位に基づいて、直近に面接した人を採用するかしないを判断できる。 | |
この前提で、n 人の中で最も優先順位の高い人を採用する確率を最大にするには、どういう戦略をとるべきか。またその戦略をとったとき、n 人の中で最も優先順位の高い人を採用できる確率はいくらか。 |
もし、全員と面接してからそのうちの一人に採用を通知するなら話は簡単です。全員の相対的な優先順位をつけられるので、1位の人に通知すればよい。しかしこの問題では「面接した直後に採用するか採用しないかを通知する」必要があります。このとき「もし仮に全員と面接したとしたら優先順位が1位になるはずの人を採用できる確率」を最も大きくするのが問題です。面接の順序はランダムであることにも注意します。この問題を数学的に解析します。
最大値のカードを選択する戦略
説明の都合上、カードを選択する問題にします。秘書問題と等価です。
\(n\) 枚のカードがあります。それぞれのカードの表には、相異なる正の実数値が一つずつ書いてあります。 | |
実数値の範囲は全く不明です。\(n\) 個の実数値には最大と最小があるはずですが、実数値はどんなに大きくも、また小さくもできるので、1枚のカードを見ただけでは最大や最小の判断はできません。\(100,000\) のような数値でも、それが最小値かも知れない。もちろん、複数のカードを見ればその大小関係を判断することができます。 | |
最大の実数値が書かれたカードを「最大カード」とよび、\(T\) で表します(\(T\::\) target)。 | |
この \(n\) 枚のカードをよくシャッフルし、裏返しにして、一列に並べます。順に \(C_1\)、\(C_2\)、\(\cd\)、\(C_n\) とします(\(C\::\) card)。このうちのどれかが \(T\) です。\(T\) を選択するのが問題です。 | |
\(C_1\)、\(C_2\)、\(\cd\) と順にカードを表にしていき、表にしたカードの最新のものを選択するかどうかを判断します。このとき、表にしてある全部のカードの実数値を比較検討できますが、選択できるのは最新に表にしたカードだけです。また、最終的にはどれかのカードを必ず選択しなければなりません。 | |
「最大カード」\(T\) を選択できる確率を最も大きくする戦略と、そのときの確率を求めるのが問題です。 |
まず、\(\bs{n=5}\) の場合で、とりうる戦略と確率を分析します。裏返しのカードは順に \(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\)、\(C_5\) です。それぞれのカードの表に書かれている実数値を \(V(C_n)\) とします(\(V\::\) value)。戦略立案の条件は、
最大カード・\(\bs{T}\) ではないとの確証を得たカードは選択しない
です。\(T\) を選択する確率を最大化する問題なので、この条件は必須です。この条件に合致する戦略は、以降で検討するように5種類あるので、それを \(S_n\:\:(n=0,\:1,\:2,\:3,\:4)\) で表します(\(S\::\) strategy)。また、戦略 \(S_n\) のときに 最大カード・\(T\) を選択できる確率を \(P(S_n)\) とします(\(P\::\) probability)。
戦略:\(S_0\)
最初のカード \(C_1\) は「無条件に選択するか、無条件に選択しないかのどちらか」です。利用できる情報は \(V(C_1)\) だけですが、\(V(C_1)\) を見ても全体の中での順位は全く判断できないからです。たとえ \(V(C_1)=0.00001\) などであっても、実数値はいくらでも小さくできるので、それが最大カードの可能性があります。
そこで、最初のカード \(\bs{C_1}\) を必ず選択する戦略を \(S_0\) とします。\(T\) の位置はランダムなので、
\(P(S_0)=\dfrac{1}{5}=0.2\)
です。戦略:\(S_1\)
戦略:\(S_1\) では、\(\bs{C_1}\) は必ず選択せずに "様子見" とし、その後の \(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) の状況で選択するカードを決めます。もし \(V(C_1) < V(C_2)\) なら \(C_2\) を選択します。もちろん、\(C_2\) が最大カード・\(T\) かどうかは分かりません。しかし、\(\bs{C_1}\) は \(\bs{T}\) ではない確証を得たので、\(\bs{C_1}\) を選択せずに済んだ(= \(T\) を選択する確率を高めた)という効果が出ました。なお「\(V(C_1) < V(C_2)\) であっても \(C_2\) を選択しない戦略」もありますが、その場合、\(C_1\) と \(C_2\) は必ず選択しないので、それは次項の "戦略:\(S_2\)" です。
もし \(\bs{V(C_1) > V(C_2)}\) なら、\(\bs{C_2}\) は \(\bs{T}\) でありません。従って \(C_2\) を選択せずに \(C_3\) を表にします。そして \(V(C_1) < V(C_3)\) であれば \(C_3\) を選択します。もちろん \(C_3\) が \(T\) かどうかは分かりませんが、\(\bs{C_2}\) に加えて \(\bs{C_1}\) も \(\bs{T}\) ではない確証を得たという効果が生じました。
もし \(V(C_1) > V(C_3)\) なら \(C_3\) は \(T\) ではないことが分かったので、\(C_4\) を表にします。なお「\(V(C_1) < V(C_3)\) であっても \(C_3\) を選択しない」という戦略も考えられますが、その場合、\(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\) は必ず選択しないので、それは後で述べる "戦略:\(S_3\)" です。
以下、同様の考え方で \(C_4\) を選択するかどうかを決めます。つまり、\(\bs{V(C_1)}\) より大きな実数値が出たとき、そのカードを選択します。この方針で \(C_4\) も選択しなければ、最終的にどれか1枚を選択する必要があるので \(C_5\) を選択します。
ここで、戦略:\(S_1\) で \(T\) を選択できる確率、\(P(S_1)\) を計算します。
\(\bs{C_1=T}\) のとき、\(C_1\) は選択しないので、
\(P(S_1)=0\)
\(\bs{C_2=T}\) のとき、必ず \(C_2\) を選択することになります。\(C_2=T\) となる確率は \(\dfrac{1}{5}\) なので、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\)
\(\bs{C_3=T}\) のとき、\(C_3\) を選択するのは \(V(C_1) > V(C_2)\) のとき(= \(C_2\) を選択しないとき)です。カードの並べ方はランダムなので、\(V(C_1) > V(C_2)\) となるか \(V(C_1) < V(C_2)\) かは半々です。従って、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\times\dfrac{1}{2}\)
\(\bs{C_4=T}\) のとき、\(C_4\) を選択するのは \(C_2\)、\(C_3\) を選択しない場合です。\(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\) のうちの最大値がどれかは3つの場合がありますが、\(C_2\) か \(C_3\) が選択されないのは、最大値が \(V(C_1)\) のときだけです。つまり割合として \(\dfrac{1}{3}\) の場合です。従って、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\times\dfrac{1}{3}\)
\(\bs{C_5=T}\) のとき、\(C_5\) を選択するのは \(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) を選択しない場合だけです。\(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\)、\(V(C_4)\) のうちの最大値がどれかは4つの場合がありますが、\(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) のどれもが選択されないのは、最大値が \(V(C_1)\) のときだけです。つまり割合として \(\dfrac{1}{4}\) の場合です。従って、
\(P(S_1)=\dfrac{1}{5}\times\dfrac{1}{4}\)
以上の5つケースは排他的なので、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_1)&=\dfrac{1}{5}\left(1+\dfrac{1}{2}+\dfrac{1}{3}+\dfrac{1}{4}\right)\\
&&&=\dfrac{1}{5}\cdot\dfrac{25}{12}\\
&&&=0.4167\\
\end{eqnarray}\)
が \(T\) を選択できる確率です。\(S_0\) よりは \(2\)倍以上の確率になりました。
戦略:\(S_2\)
この戦略では、\(C_1\)、\(C_2\) は様子見として選択せず(=たとえ \(V(C_1) < V(C_2)\) であっても \(C_2\) を選択しない)、\(C_3\)、\(C_4\) の状況で判断します。選択の判断は \(S_1\) と同様です。つまり、様子見のカード、\(\bs{V(C_1)}\)、\(\bs{V(C_2)}\) より大きな実数値のカードを選択します。
\(C_1=T\) または \(C_2=T\) のとき、\(T\) は選択されません。
\(C_3=T\) のときは必ず \(T\) が選択されます。
\(C_4=T\) のとき、\(C_4\) が選択されるのは \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\) のうちの最大値が \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\) のどちらかの場合です。\(V(C_3)\) が最大値だと \(C_3\) を選択してしまうからです。つまり \(\dfrac{2}{3}\) の割合です。
\(C_5=T\) のとき、\(C_5\) が選択されるのは \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\)、\(V(C_4)\)のうちの最大値が \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\) のどちらかの場合です。そうでなければ \(C_3\) か \(C_4\) を選択してしまうからです。つまり \(\dfrac{2}{4}=\dfrac{1}{2}\) の割合です。まとめると、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_2)&=\dfrac{1}{5}\left(1+\dfrac{2}{3}+\dfrac{1}{2}\right)\\
&&&=\dfrac{1}{5}\cdot\dfrac{13}{6}\\
&&&=0.4333\\
\end{eqnarray}\)
となります。\(P(S_1)\) より大きい値です。
戦略:\(S_3\)
この戦略では、\(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\) は様子見として選択せず、\(C_4\) の状況で判断します。\(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\) より \(V(C_4)\) が大きな実数値のときに、\(C_4\) を選択します。
\(C_1=T\) または \(C_2=T\) または \(C_3=T\) のとき、\(T\) は選択されません。
\(C_4=T\) のときは必ず \(T\) が選択されます。
\(C_5=T\) のとき、\(C_5\) が選択されるのは \(V(C_1)\)、\(V(C_2)\)、\(V(C_3)\)、\(V(C_4)\) のうちの最大値が\(V(C_4)\) ではない場合です。\(V(C_4)\) が最大値だと \(C_4\) を選択してしまうからです。つまり \(C_5\) が選択されるのは \(\dfrac{3}{4}\) の場合です。まとめると、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_3)&=\dfrac{1}{5}\left(1+\dfrac{3}{4}\right)\\
&&&=\dfrac{1}{5}\cdot\dfrac{7}{4}\\
&&&=0.3500\\
\end{eqnarray}\)
となり、\(P(S_2)\) より小さくなりました。
戦略:\(S_4\)
この戦略では \(C_1\)、\(C_2\)、\(C_3\)、\(C_4\) を選択せず、必ず \(C_5\) を選択します。\(C_5=T\) である確率は \(\dfrac{1}{5}\) であり、
\(P(S_4)=0.2\)
となって、\(P(S_0)\) と同じ確率です。
\(n=5\) の場合のまとめ
以上の検討結果により \(n=5\) の場合で可能な戦略は、「最大カード・\(T\) ではないとの確証を得たカードは選択しない」という条件のもとで \(S_0\) ~ \(S_4\) の5種であり、これ以外にはありません。各戦略ごとの確率をまとめると、
\(P(S_0)=0.2\)
\(P(S_1)=0.4167\)
\(P(S_2)=0.4333\)
\(P(S_3)=0.35\)
\(P(S_4)=0.2\)
で、\(n=5\) では「戦略:\(S_2\)」が最大カード・\(T\) を選択する確率を最大化します。この "確率最大化" の検討過程から、次のようなことが分かります。
性急にカードを選択するのは損である。いくつかは "様子見" をして、そのあとに全体的な判断をすべきである。 | |
しかし、様子見をし過ぎるのも損である。様子見の中に最大カード・\(T\) が含まれる可能性が高まるからである。 | |
この2つのトレードオフで、確率を最大化する戦略が決まる。 |
一般化
\(n=5\) のときの考察を一般化し、\(n\) を \(n\geq2\) の任意の数とします。一般化された戦略は、
戦略 \(S_0\)
戦略 \(S_k\:\:(1\leq k\leq n-1)\)
最初のカードを選択する。
戦略 \(S_k\:\:(1\leq k\leq n-1)\)
\(k\) 番目までのカードは選択せず、\(k+1\) 番目以降で、\(V(C_1)\)~\(V(C_k)\) の最大値より大きな数値のカードを選択する。大きな数値が出ない場合は最後のカードを選択する。
です。また、
最大カード \(T\) の位置:\(t\) 番目
とします。もし \(1\leq t\leq k\) なら \(T\) を選択することはないので、確率は \(0\) です。
\(\bs{k < t\leq n}\) のとき、\(\bs{T}\) を選択するのは、\(\bs{V(C_1)}\)、\(\bs{V(C_2)}\)、\(\bs{\cd}\)、\(\bs{V(C_{t-1})}\) の中での最大が、\(\bs{V(C_1)}\)、\(\bs{V(C_2)}\)、\(\bs{\cd\:V(C_k)}\) の中にある場合だけです。そうでなければ \(\bs{T}\) にたどりつく前に \(\bs{C_{k+1}}\)、\(\bs{\cd\:C_{t-1}}\) のどれかを選択してしまうからです。つまり \(T\) を選択するのは、割合としては \(\dfrac{k}{t-1}\) の場合です。
図1:最大カード・\(T\) を選択できる場合 |
\(C_1\)、 \(\cd\) 、\(C_{t-1}\) のうちの最大値のカードが \(C_{k+1}\)、 \(\cd\) 、\(C_{t-1}\) の中にあれば、そのカードを選択してしまって、\(T\) にはたどり着かない。最大値のカードが \(C_1\)、\(\cd\) 、\(C_k\) の範囲にあれば、\(T\) が選択される。もちろん、\(k < t\) であることが大前提である。 |
\(t\) 番目に \(T\) がある確率は \(\dfrac{1}{n}\) なので、\(T\) を選択する確率は、
\(\dfrac{1}{n}\cdot\dfrac{k}{t-1}\)
です。全体の確率は、この式を \(t\) の範囲 \((k < t\leq n)\) で合計し、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_k)&=\displaystyle\sum_{t=k+1}^{n}\dfrac{1}{n}\cdot\dfrac{k}{t-1}\\
&&&=\dfrac{k}{n}\displaystyle\sum_{t=k+1}^{n}\cdot\dfrac{1}{t-1}\\
&&&=\dfrac{k}{n}\displaystyle\sum_{t=k}^{n-1}\cdot\dfrac{1}{t}\\
&&&=\dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\dfrac{1}{k+1}+\:\cd\:+\dfrac{1}{n-1}\right)\\
\end{eqnarray}\)
となります。
\(n=5\) のときには、上で計算したように戦略:\(S_2\) が最大確率になりました。では、一般の場合に最大確率になる戦略 \(S_k\) は何か。\(n=5,\:10,\:15,\:\cd\:,\:100\) の場合をパソコンで計算してみると、次の表の通りです。
\(5\) | \(S_{2}\) | \(0.43333\) | \(0.40\) |
\(10\) | \(S_{3}\) | \(0.39869\) | \(0.30\) |
\(15\) | \(S_{5}\) | \(0.38941\) | \(0.33\) |
\(20\) | \(S_{7}\) | \(0.38421\) | \(0.35\) |
\(25\) | \(S_{9}\) | \(0.38092\) | \(0.36\) |
\(30\) | \(S_{11}\) | \(0.37865\) | \(0.37\) |
\(35\) | \(S_{13}\) | \(0.37700\) | \(0.37\) |
\(40\) | \(S_{15}\) | \(0.37574\) | \(0.38\) |
\(45\) | \(S_{16}\) | \(0.37493\) | \(0.36\) |
\(50\) | \(S_{18}\) | \(0.37428\) | \(0.36\) |
\(55\) | \(S_{20}\) | \(0.37371\) | \(0.36\) |
\(60\) | \(S_{22}\) | \(0.37321\) | \(0.37\) |
\(65\) | \(S_{24}\) | \(0.37278\) | \(0.37\) |
\(70\) | \(S_{26}\) | \(0.37239\) | \(0.37\) |
\(75\) | \(S_{27}\) | \(0.37210\) | \(0.36\) |
\(80\) | \(S_{29}\) | \(0.37186\) | \(0.36\) |
\(85\) | \(S_{31}\) | \(0.37163\) | \(0.36\) |
\(90\) | \(S_{33}\) | \(0.37142\) | \(0.37\) |
\(95\) | \(S_{35}\) | \(0.37122\) | \(0.37\) |
\(100\) | \(S_{37}\) | \(0.37104\) | \(0.37\) |
\(n\) が大きくなれば、\(T\) を選択する確率が最大になるのは、様子見をしたカードが全体の \(36\%\)~\(37\%\) 程度のときであり、そのときの確率は \(0.37\) 程度であることが分かります。
\(n\) が十分に大きいとき
\(n\) が十分に大きい前提で、最大確率となる \(S_k\) を数学的に求めます。そのために \(P(S_k)\) の式を簡便な形に変換します。上で計算したように、
\(P(S_k)=\dfrac{k}{n}\displaystyle\sum_{t=k}^{n-1}\dfrac{1}{t}\)
であり、図2でグレーで示した部分の面積に \(\dfrac{k}{n}\) を掛けたものが \(P(S_k)\) です。
図2:\(P(S_k)\) の下限値の計算 |
従って、積分で計算可能な "図2の赤色の部分" に \(\dfrac{k}{n}\) を掛けると \(P(S_k)\) の下限値になり、
\(P(S_k) > \dfrac{k}{n}\displaystyle\int_{k}^{n}\dfrac{1}{t}\,dt\)
です。置換積分を使うために、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:t&=ns\\
&&\:\:s&=\dfrac{t}{n}\\
&&\:\:dt&=n\,ds\\
\end{eqnarray}\)
と置くと、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_k)& > \phantom{-}\dfrac{k}{n}\displaystyle\int_{1}^{\tfrac{k}{n}}\dfrac{1}{ns}\cdot n\,ds\\
&&&=\phantom{-}\dfrac{k}{n}\displaystyle\int_{1}^{\tfrac{k}{n}}\dfrac{1}{s}\,ds\\
&&&=-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right) \br{①}\\
\end{eqnarray}\)
となります。
図2のグレーの部分を \(1\) だけ左にずらしたのが下の図3です。左へずらすことで \(k\) ~ \(n\) の範囲からはみ出た部分の面積は \(\dfrac{1}{k}\) です。
図3:\(P(S_k)\) の上限値の計算 |
従って、積分を使って \(P(S_k)\) の上限値を求めると、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:P(S_k)& < \dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\displaystyle\int_{k}^{n-1}\dfrac{1}{t}\,dt\right)\\
&&&=\dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\displaystyle\int_{\tfrac{k}{n}}^{1-\tfrac{1}{n}}\dfrac{1}{s}\,ds\right)\\
&&&=\dfrac{k}{n}\left(\dfrac{1}{k}+\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)-\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\right)\\
&&&=\dfrac{1}{n}+\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\\
\end{eqnarray}\)
と計算できます。ここで、
\(\al=\dfrac{1}{n}+\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)\)
と置くと、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:\dfrac{1}{n}\rightarrow0 &(n\rightarrow\infty)\\
&&\:\:\mr{log}\left(1-\dfrac{1}{n}\right)\rightarrow0 &(n\rightarrow\infty)\\
\end{eqnarray}\)
\(0 < \dfrac{k}{n} < 1\)
なので、
\(P(S_k) < \al-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\) \(\br{②}\)
\(\al\rightarrow0\:\:(n\rightarrow\infty)\)
となります。下限値の \(\br{①}\) 式と、上限値の \(\br{②}\) 式 を合わせると、
\(-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right) < P(S_k) < \al-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\)
\(\al\rightarrow0\:\:(n\rightarrow\infty)\)
となって、\(n\) が十分大きいときには、
\(P(S_k)=-\dfrac{k}{n}\mr{log}\left(\dfrac{k}{n}\right)\) \(\br{③}\)
とみなしてよいことが分かりました。ここで \(x=\dfrac{k}{n}\) とすると、
\(P(S_k)=-x\mr{log}(x)\)
となります。\(P(S_k)\) が最大値となる \(x\) を求めるために、右辺を微分して \(0\) とおくと、
\(\begin{eqnarray}
&&\:\:-&\mr{log}(x)-1&=\phantom{-}0\\
&&&\mr{log}(x)&=-1\\
\end{eqnarray}\)
\(\longrightarrow\:x=\dfrac{1}{e}\)
です。つまり、\(\dfrac{k}{n}=\dfrac{1}{e}\) のときに \(P(S_k)\) は最大値をとります。このときの \(P(S_k)\) を \(\br{③}\) 式で求めると、
\(P(S_k)\) の最大値\(=\dfrac{1}{e}\)
と計算できます。この \(\dfrac{1}{e}\) はマッチング問題と全く同じで、\(\fallingdotseq0.368\) です。かつ、この問題では答に現れる2つの数値が共に \(\dfrac{1}{e}\) です。
\(n\) が十分に大きいときは、\(P(S_k)\) の最大値は \(\dfrac{1}{e}\) ですが、上のパソコンでの計算例を見ると、\(n\) を増やしたときに \(\dfrac{1}{e}=0.3678794411\cd\) に収束する様子は、マッチング問題と違って非常に緩慢なことが分かります。
秘書問題の結論
最大値のカードを選択する戦略の結論は次のようになります。
最初からの \(36.8\%\) のカードは選択せずに "様子見" とし、それ以降のカードで、様子見のカードの最大値よりも大きな値が出たら選択するのがベストの戦略である。この戦略により \(36.8\%\) の確率で \(n\) 枚の中の最大カードを選択できる。 |
当初の「秘書問題」の文脈でこの結論を書くと、
\(n\) 人の応募者とランダムに面接するとき、「最初から \(0.368n\) 人までの応募者」は不採用とし、それ以降の応募者で「最初から \(0.368n\) 人までのすべての応募者よりも秘書にふさわしいと判断した人」を採用する。これにより \(36.8\%\) の確率で全応募者の中のベストの人(=全員を面接したとしたらベストと判断できるはずの人)を採用できる。 |
となります。この結論は \(n\) が十分に大きくても成り立ちます。\(\bs{n}\) がどんなに大きくても、4割程度の高確率で最良の選択ができるというのが、少々意外な結果なのでした。
2024-11-03 10:51
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