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No.373 - 伊藤若冲「動植綵絵」の相似形 [アート]

No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」の続きです。No.371 は、精神科医の華園はなぞのつとむ氏の論文を紹介したものでした。華園先生は各種資料から、伊藤若冲を AS者(AS は Autism Spectrum = 自閉スペクトラム)であると "診断" し、臨床医としての経験も踏まえて、AS者によく見られる視覚表現の特徴が若冲の絵にも現れていると指摘されたのでした。その特徴とは、

◆ 細部への焦点化
◆ 多重視点
◆ 表情認知の難しさ
◆ 反復繰り返し表現

の4つで、詳細は No.371 で紹介した通りです。その No.371 には書かなかったのですが、華園先生の論文「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」(日本視覚学会誌 VISION Vol.30-4, 2018)には気になる記述があります。それは、必ずしもAS者が備えているわけではないが、AS者に随伴することが多い能力があるとの指摘です。その能力とは、

◆ 共感覚
◆ カメラアイ
◆ 法則性の直感的洞察力

です。「共感覚」というのは、文字や数字、音、形に色を感じたりする例で、ある刺激を感覚で受け取ったときに、同時にジャンルの異なる感覚が生じる現象を言います。

「カメラアイ」は、見たものをまるでカメラで写したように記憶できる「視覚映像記憶」のことです。たとえばある都市の写真を見て、その後、記憶だけを頼りに都市風景を詳細に描き起こした線画を完成させる、といった例です。

「法則性の直感的洞察力」とは、自然界に存在する規則性、法則性、パターンを直感的に見出す能力です。華園先生は例として、ゴッホの『星月夜』(ニューヨーク近代美術館)という有名な絵をあげています。この絵に見られる空の渦の表現は、自然界に発生する乱流のパターンを正確に捉えていることが数理物理学的解析で判明しているそうです。ちなみにゴッホは、各種の研究によりAS特性の強い人であったと考えられています。

ゴッホ「星月夜」.jpg

以降、話題にしようと思うのは、AS者に随伴することが多い3つの能力の中の「法則性の直感的洞察力」です。最近、テレビのあるドキュメンタリー番組を見ていたら、このことが出てきました。


フロンティア:あなたの中に眠る天才脳


2024年6月18日に NHK BS で「フロンティア:あなたの中に眠る天才脳」というドキュメンタリー番組が放送されました。番組のテーマは "サヴァン症候群" です。サヴァン(Savant)とは "博学" という意味で、サヴァン症候群とは「生まれながらにして天才的な能力を発揮する人」を指します。その才能とは、美術・音楽などの芸術、記憶、数学、空間認知などです。番組では実際にサヴァン症候群の人に取材した映像を流していました。

◆ カメラ・アイの少年
◆ 円周率 22514桁を暗唱できた青年
◆ 生まれながらに盲目だが、ショパンの幻想即興曲を40分で覚えて弾ける青年

などです。カメラ・アイの少年はイギリス人でしたが、番組スタッフに見せられた新宿西口の高層ビル群の写真(遠方に富士山が見える)を見ただけで、1時間かけてそれを鉛筆の線画で詳しく再現していました。

サヴァン症候群の人を MRI で検査した研究によるとと、脳の左半球(言語、論理的思考の領域)よりも右半球(芸術、視覚・聴覚の記憶の領域)が大きいことが分かりました。また、約半数の人が自閉スペクトラム症(ASD : Autism Spectrum Disorder)だとのことです。

ここで「自閉スペクトラム症(ASD)」は、この記事の冒頭に書いた「自閉スペクトラム(AS)」とは必ずしも同じではないことに注意すべきでしょう。自閉スペクトラム症は医学的診断名であり、治療の対象です。一方、自閉スペクトラムは、病気にまでは至らない、自閉スペクトラム的な認知特性の人までを含む概念です。詳細は No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」にあります。

番組ではさらに "後天性サヴァン症候群" の人を紹介していました(後天性=獲得性)。後天性サヴァン症候群とは、生まれて以降はごく普通の人だったが、ある日突然、特別な才能が芽生えた人です。その「突然」には共通の要因があり、脳の左半球(特に左半球の前の方)だけに損傷を受けたという要因です。損傷とは、何らかの外力によるか、ないしは脳梗塞によるものです。

デレク・アマートというアメリカ人の男性は、プールに飛び込んだ時の頭部損傷の事故を契機に、突如、作曲とピアノの才能が目覚めました。今では著名なアーティストと共演し、グラミー賞にも出席しています。

そして、別のアメリカ人の後天性サヴァン症候群が華園先生の論文とつながりがあります。その人はジェイソン・パジェットという人で、彼はカラオケ・バーの帰り道で強盗に棍棒で襲われ、頭に打撃を受け、意識を失って倒れました。その後どうなったかを番組から引用します。


翌朝、目が覚めるとすべてが変わっていることに気づきました。蛇口をひねったら水が出てきましたが、その流れが違って見えたのです。なめらかに見えるのではなく、まるでギザギザのナイフが渦を巻いて落ちていくように見えてとても混乱しました

ジェイソン・パジェット  
「あなたの中に眠る天才脳」
(NHK BS 2024年6月18日)

自然界には、一見不規則に見えるが、実はある規則性が隠れているものがあります。その規則性は「フラクタル構造」になっていることが多い。パジェットはそれを見抜く能力を得たのです(フラクタルについては、No.244「ポロック作品に潜むフラクタル」参照)。

彼は自分に見える規則性を人に伝えるために、絵(=規則性を表した線画)を描き始めました。そして、ある人のアドバイスによって大学に入り直し、数学を勉強しました。その結果、見ているものを数式で表せるようになったとのことです。

巻き貝.jpg
ジェイソン・パジェットが巻貝に潜む規則性を線画で表したもの。彼は見ただけでこのような線が頭に浮かぶようである。
(NHK BS の番組より)

パジェットの能力とは「自然界に存在する規則性、法則性、パターンを直感的に見出す能力」といえます。これはまさに華園先生が「AS者に随伴することが多い能力」としてあげているものの1つなのです。

パジェットは後天性サヴァン症候群です。そしてなぜ特別な才能が芽生えたかというと、脳の左半球の損傷によって右半球の活動が活発になったからというのが、番組での研究者の解説でした。だとすると、生まれながらに脳の右半球が優位な(先天性の)サヴァン症候群の人にも「自然界に存在する規則性を直感的に見出す能力」を持つ人がいると推測できます。そしてサヴァン症候群の約半数の人は自閉スペクトラム症なのです。



ここで、話は伊藤若冲に飛びます。実は、伊藤若冲の「動植綵絵」には数々の規則性=相似形があるという研究を発表されている方がいます。


「梅花小禽図」(動植綵絵)


若冲百図.jpg
小林忠 監修
別冊太陽「若冲百図」
(平凡社 2015)
別冊太陽:日本のこころ 227「若冲百図」(小林忠 監修。平凡社 2015)という本があります。これは、辻惟雄のぶお氏と並んで若冲研究の第一人者である小林忠氏(岡田美術館館長)が若冲の100作品を選んで解説をつけ、11名の執筆者が文章を寄せた本です。

この本に、医師の赤須孝之氏(宮内庁病院)が「若冲は日本のレオナルドである」という文を寄せています。赤須孝之氏は23年間、国立がんセンターで多数の大腸がん患者の執刀をされた大腸がんの専門家です。華園先生に続いて赤須先生も医者ですが、医者には若冲が好きな美術愛好家が多いのでしょうか。

それはともかく、赤須先生は「動植綵絵」を詳しく調べた結果、「夥しい数の相似形が描き込まれていることがわかった」とし、それを「梅花小禽図」(下図)を例にとって説明されています。

動植綵絵「梅花小禽図」.jpg
伊藤若冲「梅花小禽図」
(「動植綵絵」より)
(皇居 三の丸尚蔵館)

 相似形1:小鳥 

「梅花小禽図」について、赤須先生はまず次のように書かれています。以下の引用では段落を増やしたところがあります。


それらの形態は類似性というレベルを超え、相似形といえるものであり、多くは隠し絵として描かれている。「主題」となるのは多くの場合鳥で、その「相似形兼隠し絵」が植物で描かれている。

たとえば「梅花小禽図」では、変わった格好をしている鳥が主題で、梅の枝と花を繋いで形成される形態がその相似形兼隠し絵となっている。驚くのは、鳥のみでなく、とまっている枝や周囲の相似形までもが描かれていることである。

このような相似形兼隠し絵が 80 以上発見されたのである。

赤須孝之  
「若冲は日本のレオナルドである」
別冊太陽「若冲百図」
(小林忠 監修。平凡社 2015)

以下、上の文章に出てくる「変わった格好をしている鳥」に関する3つの図を以下に掲げます。

◆ 「変わった格好をしている鳥」の位置
◆ 「変わった格好をしている鳥」の拡大図
◆ 「変わった格好をしている鳥」の相似形となっている、梅の枝と花を繋いで形成される形態

動植綵絵「梅花小禽図」鳥.jpg
「変わった格好をしている鳥」の位置

動植綵絵「梅花小禽図」鳥1.jpg
「変わった格好をしている鳥」の拡大図
(別冊太陽「若冲百図」より)

動植綵絵「梅花小禽図」鳥2.jpg
梅の枝と花を繋いで形成される形態

この梅の枝と花を繋いだ形は「変わった格好をしている鳥」の相似形となっている。数字は相似形の対応関係を表している。
(別冊太陽「若冲百図」より)

小鳥同士が相似形なのはあたりまえですが、「小鳥」と「梅の枝と花を繋いだ形」が相似形と見なせるのがポイントです。このような相似形が「梅花小禽図」だけなら偶然とも考えられます。しかし赤須氏は「相似形兼隠し絵が 80 以上発見された」としていて、このことを詳しく解説した本も出版されているようです。ということは、偶然ではなく意図して描かれたものでしょう。

若冲がこのような "相似形隠し絵" を仕掛けた理由は何でしょうか。おそらく若冲は梅の木々を観察するうちに、複雑にからまった梅の枝に小鳥の外形と類似したものがあることに気づき、その気づきをもとにこの絵を描いたと考えられます。

 相似形2:岸 

「梅花小禽図」の下の方を拡大したのが次の図です。

動植綵絵「梅花小禽図」岸の部分.jpg
「梅花小禽図」(部分)

ここには水が描かれているので、川か湖の情景です。そうすると、円弧状に黒く描かれているのは岸ということになります。抽象的な表現なので、岩なのか土なのかは判然としませんが、とにかく "岸" であることに間違いないでしょう。この岸について、赤須氏は次のように書いています。


相似形の中には、1975年に B.マンデルブロによって提唱された、複雑な自然の形態を表現するための幾何学的概念「フラクタル構造」を表すものも認められた。フラクタル構造とは、全体を部分に分解し、拡大して見た場合に、部分が全体と相似になっているもので、どんどん拡大してみると、どんどんより小さな相似部分が現れるものである。

樹木や川などの枝分かれはフラクタル構造のよい例である。「梅花小禽図」には、部分を拡大すると全体と相似になる岸が描かれている。この絵も含めて、若冲がフラクタル構造を理解して描いていることを示す画が多数発見された。

(同上)

フラクタルとは、部分が全体と相似になっている「自己相似形」を言います。「梅花小禽図」の "岸" は自己相似形になっていて、それについての赤須氏の解説は次の通りです。

動植綵絵「梅花小禽図」岸.jpg
「梅花小禽図」(部分)

岸は、大・中・小の相似形から構成されている。大① は、その縮小相似形である中② ③ ④ から成っている。中② は、その縮小相似形である小⑤ ⑥ からなり、同様に中③ は小⑦ ⑧ から、中④ は小⑨ ⑩ から成っている。

中⑪ は大① の縮小相似形であり、さらに、縮小相似形である小⑫ ⑬ ⑭ から成っている。

また、中② と小⑬ ⑭ を合わせた形は、大① と中⑪ を合わせた形の縮小形になっている。以上は、別冊太陽「若冲百図」の説明による。

表されているのが川の岸辺の岩だとすると、岩の形は自己相似形のよい例です。若冲は自然を観察するうちに自己相似形に気づき、その気づきからこの絵を描いたと考えられます。以上のような「動植綵絵」の検討を踏まえて、赤須氏は次のように結論づけています。


相似形ではないが、動植物の種の起源に関する考察を顕す描写や朝顔の花の入り模様の原理を洞察する描写も発見された。したがって、「動植綵絵」は単なる絵画ではなく、若冲が真摯な自然観察の中から独自に発見した自然界の形態形成の原理が表現されたものであることが解ったのである。

(同上)


「南天雄鶏図」(動植綵絵)


実は「動植綵絵」に相似形が隠されていることを指摘したのは、赤須氏が最初ではありません。美術家の森村泰昌氏が 2008年に出版された「異能の画家 伊藤若冲」(狩野博幸、森村泰昌ほか、新潮社)で、「南天雄鶏図」を引き合いに出してそのことを示しています。

動植綵絵「南天雄鶏図」1.jpg
伊藤若冲「南天雄鶏図」
(「動植綵絵」より)
(皇居 三の丸尚蔵館)

動植綵絵「南天雄鶏図」2・相似.jpg
「南天雄鶏図」
森村泰昌氏が指摘する相似形を示した図

異能の画家.jpg
「異能の画家 伊藤若冲」
(新潮社 2008)
森村氏は、上図の①から⑤の形の対応関係があることを指摘しています。それぞれ、

① 鶏の目・小鳥
② 鶏のとさか・南天
③ 鶏の耳・菊
④ 鶏に羽・南天の葉
⑤ 鶏の脚・南天の枝・地面の亀裂

という対応です(③の鶏の耳は、鶏の "頬" のあたりの白い小さな円形)。これらは形だけでなく、色も似ています。

これらの対応は「鶏」と、それをとりまく「南天・小鳥・地面」の間の対応関係であることが注目点です。このことを踏まえて森村氏は、次のように言っています。


この絵からわかるのは、若冲さんのなかでは、動物と植物の間のヒエラルキーはないんじゃないか、ということ。全体を観ると鶏の絵ではあるけれども、抽象画と考えることもできる。主役は存在しないんです。ディテールを見ていくと、みんな一緒。それが若冲さんの宇宙観なんですよ。汎神論に近いんじゃないかな。

森村泰昌  
「異能の画家 伊藤若冲」
(新潮社 2008)


伊藤若冲の独自の観察眼


No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」と、No.373「伊藤若冲「動植綵絵」の相似形」を通してまとめると、次のようになるでしょう。

◆ 自閉スペクトラムは人の認知特性の一つである(=自閉スペクトラム特性。AS特性)。それは必ずしもネガティブなものではない。AS特性をもった人がアートの最前線でイノベーティブな活躍をするケースがある。

◆ AS特性をもった人が作る視覚表現には特徴がある。それは、
・ 細部への焦点化
・ 多重視点
・ 表情認知の難しさ
・ 反復繰り返し表現
である。伊藤若冲の作品には、この「AS特性をもった人が作る視覚表現の特徴」が現れている。

◆ AS特性をもった人に多い能力として「自然界に存在する規則性を直感的に見出す能力」がある(ここまでが、精神科医、華園力氏の解説)。

◆ 伊藤若冲の「動植綵絵」を分析すると、相似形を使った表現が多々含まれる。それは異質なもの同士の相似であったり、全体と部分の相似(自己相似形、フラクタル構造)のこともある(赤須孝之氏、森村泰昌氏)。

◆ AS特性をもつ伊藤若冲は自然界に存在する規則性を直感的に把握できた。この観察眼を活用して「動植綵絵」を描いたのだろう(仮説)。

最後の点はあくまで仮説ですが、No.371 と No.373(本記事)を通して得られる推論です。若冲作品を一言でまとめると「すべてが平等である絵」(No.371)としましたが、次の森村氏の発言も当たっていると感じました。

主役は存在しない。ディテールを見ていくと、みんな一緒。それが伊藤若冲の宇宙観(森村泰昌)



 補記:スケールの小ささ 

本文中に森村泰昌氏が「異能の画家 伊藤若冲」に寄せた文を引用しましたが、この文で森村氏は『動植綵絵』の「池辺群虫図」を引き合いに出して次のように述べています。


『池辺群虫図』は若冲さんの特徴が非常によく表れている絵です。一言でいうと「スケールが小さい」。あ、これ、悪い意味じゃないですよ。

タイトルどおり池の様子を描いているんですが、池は池でも、それほど大きくはなさそう。京都の箱庭みたいなところにある小さな池の片隅を、うつむいて描いている。しかも隅っこのほうに集まっている小さい虫やら、蛇やら、葉っぱやらを細かく描いています。この人、基本的に、いつも視線は下向き。足元の草や虫や土くればっかり見ているみたい。大空を描いた絵なんて、ないんちゃうかな。

雪舟の「四季山水図(冬)」と比べてみてください。大空に切り立つ山々、雄大な湖(大河?)。どうです、このスケール感! 若冲さんのスケールの小ささがわかるでしょう(笑)。

森村泰昌  
「異能の画家 伊藤若冲」
(新潮社 2008)

動植綵絵「池辺群虫図」.jpg
伊藤若冲
「池辺群虫図」
(皇居三の丸尚蔵館)
雪舟「四季山水図(冬)」.jpg
雪舟
「四季山水図(冬)」
(東京国立博物館)

雪舟の作品は、3年間の中国滞在中に描いたもので、森村泰昌氏は「渾身の作」としている。一方、若冲は一生のほとんどを京都で過ごし、旅をしてもせいぜい大阪までだった。


洗練された京都人の感覚で、普通の人なら気持ち悪いと思うような池の端っこのゴミゴミした虫けらやら、腐った葉っぱが好きというところがまた面白い。雪を描くんでも、真っ白な新雪でなくて、とろ~っと溶けかけてる瞬間とかね。都会にいるけれども、ぴかぴかのまっさらのものではなくて、そのなかの微妙な生命の営みに目線を集中させている。いわゆる世の中の価値観からは背を向けていて、だからこそ、若冲さんだけに見えるものがあった。

小っさいスケールで描く片隅の世界にこそ、無限の宇宙を見いだすのが若冲さんなんです。

(同上)

精神科医の華園氏は若冲の絵の特徴の一つを「細部への焦点化」としました。それは自閉スペクトラムの特性を持った人の視覚表現にしばしば見られる特徴だと ・・・・・・。ここに引用した森村氏の「小さなスケール」は、まさに「細部への焦点化」と同じことを言っていると思います。表現の相違は、精神科医と美術家の違いなのでしょう。




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No.372 - ヒトの進化と "うま味" [科学]

No.360「ヒトの進化と苦味」の続きです。味覚の "基本5味" は、甘味・塩味えんみ・酸味・苦味・うま味で、このそれぞれに対応した味覚受容体(= 舌の味蕾みらい細胞の表面にある味覚センサー)が存在します。

味覚受容体のうち、苦味受容体だけは多種類あり、それは霊長類(サルの仲間)の進化と密接な関係があります。つまり小型の霊長類では、マーモセットが20種、リスザルが22種、メガネザルが16種などですが、大型霊長類ではそれよりも種類が多く、ゴリラは25種、チンパンジーは28種、ヒトは26種です。


多くの苦味受容体を持つに至ったのは、進化の過程に深く関係がある。苦味受容体は、ヒトの祖先である霊長類が「主食を昆虫から植物の葉へと変えていく過程で増えていった」と北海道大学大学院 地球環境科学研究院 助教の早川卓志さん(博士)は解説する。早川さんはゲノム解析を通じて野生動物の行動や進化を研究する。

霊長類の祖先にあたる哺乳類は昆虫を主食としていたが、体が大きくなるにつれて虫だけでは栄養が不足し、葉に含まれるたんぱく質を摂取するようになる。植物はもともと毘虫に食べられないよう多様な毒を蓄えており、ヒ卜の祖先は「それを避けるように『苦味感覚』というセンサーを発達させ、受容体の数も増やした」(早川さん)。従って、植物を食べない哺乳類では苦味感覚の出番はあまりなく、受容体の数も少ない傾向にある。肉食のネコは霊長類の約3分の1、イルカ・クジラに至ってはゼロだ。

No.360「ヒトの進化と苦味」
日本経済新聞(日経 STYLE)
2023年4月30日 

要点をまとめると、

霊長類は進化の過程で、昆虫に加えて植物の葉をタンパク源とするようになった。

植物の葉は昆虫と違って身近に豊富にあり、簡単に手に入る。これが霊長類の大型化につながった。

しかし、植物は生き残りのために多様な毒素を発達させており、それらの毒を苦味として検知するために苦味受容体の種類が増えた。

となるでしょう。これは「霊長類の食性の変化が進化につながり、その裏には味覚の変化がある」という、極めて納得性の高い説明です。

しかし、これだけでは疑問が残ります。苦味受容体が発達したのは「食べてはいけない植物の葉を忌避するため」だったとして、では、そもそも「植物の葉を好んで食べるように嗜好が変化した」のはなぜか、という疑問です。



2024年6月23日の NHK Eテレの「サイエンス ZERO:生命をつなぐ神秘のパワー 味覚」を見ていたら、明治大学の特任講師・戸田安香やすか氏がこの疑問に答えていました。それはうま味受容体の進化です。この内容が興味深かったので、以下に紹介します。


うま味とは


まず、そもそも "うま味" とは何かですが、うま味受容体(細胞表面のうま味センサー)を活性化する物質は、アミノ酸(タンパク質の構成物質)とヌクレオチド(核酸系物質)の2つのカテゴリーがあります。

アミノ酸のうま味物質の代表はグルタミン酸です。和食では昆布のうま味成分がグルタミン酸ですが、昆布以外の海草にも含まれ、また、緑茶、トマトをはじめとする野菜類、魚介類、肉、乳製品、発酵食品などに幅広く含まれます。グルタミン酸以外にも、アスパラギン酸、アラニン、セリンなどのアミノ酸がうま味物質として働きます。

ヌクレオチドとは、糖にリン酸基と塩基が結合している物質の総称です。核酸(DNA, RNA)はヌクレオチドが連鎖している集合体で、1つのヌクレオチドに結合している塩基は DNA の場合、シトシン(C)、グアニン(G)、アデニン(A)、チミン(T)のどれかです。この CGAT の相補的な結合でDNAの2重螺旋構造ができています。生体におけるヌクレオチドは多数あり、例えば「エネルギー通貨」とも言われるアデノシン3リン酸(ATP)もヌクレオチドです。

ヌクレオチドのうま味物質の代表的なものがイノシン酸です。和食の鰹節の "だし" のうま味がイノシン酸ですが、鰹節だけでなく、牛肉、豚肉、魚介類に含まれています。広く "肉類" と言えるでしょう。また、干し椎茸のうま味成分であるグアニル酸もヌクレオチドです。

さらに、グルタミン酸とヌクレオチド(例えばイノシン酸)が同時に作用するとうま味が飛躍的に強く感じられるという、うま味の相乗効果があります。和食の「合わせだし」はこの原理を活用したものです。


霊長類 17種のうま味感覚


ここからが明治大学の戸田安香氏(のグループ)の研究です。霊長類 17種のうま味受容体を調べると、

体重が 1kg 以下の小型の霊長類は昆虫をタンパク源としていて、そのうま味受容体はヌクレオチドで活性化される。

体重が 1kg 以上の中・大型の霊長類は主に植物の葉からタンパク質を摂取しており、そのうま味受容体は主にグルタミン酸でで活性化される。

ことが分かりました。うま味受容体は1種類ですが、霊長類によって微妙に構造が違っていて、受容体が活性化される原理が違うのです。そこで、食物に含まれるうま味物質を調べると、

昆虫にはグルタミン酸とヌクレオチドの両方が含まれている。

植物の葉はグルタミン酸を含むが、ヌクレオチドをほとんど含まない。

ことが分かりました。「植物の葉はグルタミン酸を含む」というのは意外な感じもしますが、緑茶(特に玉露)を考えると納得できます。以上をまとめると、霊長類とうま味受容体の進化は次のようになります。

霊長類はもともと昆虫食であったが、植物の葉にも食性を広げ、それによって大型化し、類人猿の出現に至った。この裏には、うま味受容体の進化がある。つまり、うま味受容体が "ヌクレオチド・センセー" から "グルタミン酸センサー" へと変化し、これによって植物食が可能になった。

旨味受容体・リスザル.jpg
小型霊長類のうま味受容体
リスザルのうま味受容体の測定結果。横軸はヌクレオチドの濃度(2種測定)で、縦軸は反応の強さ。
「サイエンス ZERO」(2024.6.23)より

旨味受容体・チンパンジー.jpg
大型霊長類のうま味受容体
チンパンジーのうま味受容体は、ヌクレオチドよりもグルタミン酸に強く反応する。左側の「別のうま味物質への反応」となっているグラフがグルタミン酸の測定結果。
「サイエンス ZERO」(2024.6.23)より


動物の味覚をどうやって調べるのか


「サイエンス ZERO:生命をつなぐ神秘のパワー 味覚」では、17種の霊長類の味覚をどうやって調べたのかの説明がありました。

まず培養細胞を用意します。培養細胞とは、もともとはヒトの細胞ですが、実験室で維持・増殖が可能なように改変してあり、継続的に増殖させて世界で流通しているものです。短時間で増殖する、遺伝子導入がしやすい、などの実験に適した特徴があります。

この培養細胞に霊長類から採取したうま味受容体の遺伝子を "遺伝子導入" します。そうすることで、培養細胞の表面に霊長類のうま味受容体が発現します。また同時に、発光タンパク質の遺伝子を導入すると、細胞内に発光タンパク質が生成されます。この発光タンパク質はカルシウム・イオンに反応して光るタイプのものです。

うま味を感じるメカニズムは、受容体が活性化すると細胞内のカルシウム・イオン濃度が増大し、それが起点となって信号が脳に伝わるというものです。これを実験室で模擬するわけです。

こうして作った培養細胞を多数増殖させ、そこにうま味物質を添加して発光の様子を顕微鏡で記録します。発光が観察されればうま味受容体が活性化している、つまり遺伝子導入した霊長類がその物質にうま味を感じると推定できます。

戸田氏はこの実験系を完成させるために、培養液の種類を変えたり、発光タンパク質のタイプを変更するなど、数々の試行錯誤を行いました。1年半かけて発光が検知できるようになったと、番組で紹介されていました。

素人考えだと、動物の(霊長類の)味覚を調べるには、動物に該当物質を食べさせて反応を観察するしか無いように思いますが、それとは全く違った「バイオテクノロジーを駆使した実験方法」であることが理解できました。

この研究の意義ですが、番組で戸田氏は次のように語っていました。


うま味というのは、それまで基本5味の中で世界的にもあまり認められていない味覚で、英語でも bitter(苦味)とか sour(酸味)とか sweet(甘味)とか salty(塩味)と言うんですけど、うま味は umami って言います。

それぐらい、うま味だけは日本の特別な味なんじゃないかとか、そういう風に思われてしまって、「うま味って何なの?」という質問を国際学会に行くと味覚の研究者からも質問をされるぐらいでした。

今回私たちがうま味の重要性をこの実験系を使って明らかにしていくことで、うま味も重要な味覚として世界の味覚研究者の中で認めてもらえるようになったと思います。

戸田 安香(明治大学)
NHK Eテレ「サイエンス ZERO」
(2024年6月23日)

戸田氏のグループの研究によって「うま味が重要な味覚」であることが一目瞭然になりました。なぜなら、霊長類が大型化しヒトへと進化する過程でうま味が重要な役割を果たしたことが実験で明らかになったからです。

No.108「UMAMIのちから」でも書いたように、1908年、東京帝国大学の池田菊苗きくなえ博士は、昆布だしの成分がグルタミン酸ナトリウムであることを突き止め、この味を「うま味」と名付けました。そして1909年、世界初のうま味調味料「味の素」が発売された、というのは日本人に広く知られたストーリーです。イノシン酸(1913。小玉新太郎が発見)、グアニル酸(1957。国仲明)も日本人の発見です。

2000年代になってうま味受容体が特定され、第5の味覚であることが科学的に証明されました。しかし、戸田氏によると世界の味覚研究者の間で umami は必ずしもポピュラーになっているわけではない。おそらくumami が日本語だからでしょう。その意味で、うま味をヒトの進化と結びつけた戸田氏(のグループ)の研究は、味覚研究の歴史からして意義深いものです。池田博士から100年以上たってようやくここにたどり着いたと言えるでしょう。


何を食べるかで決まる


今回の研究で、霊長類の "味覚の進化" の一端が解明されました。普通、霊長類の進化というと、頭蓋骨の形とか、顎や歯の形状、脳の容積、運動能力(木登り、直立、歩行など)に関するものがほとんどですが、今回は味覚という "感覚" の進化の研究です。考えてみると、視覚や聴覚、味覚、嗅覚などの感覚は、動物が生き延びて子孫を残す上で超重要なものなのですね。その "感覚" が直接的な研究対象になっていることが有意義だと感じました。

苦味受容体の進化(No.360「ヒトの進化と苦味」)とうま味受容体の進化は、ともに霊長類がタンパク源を植物へと広げ、大型化していった過程と結びついています。その進化の結果としてヒトが出現した。もちろん苦味・うま味だけでなく、甘味(糖)や塩味(ナトリウムイオン)も含めて、動物の食性は味覚と密接にからんでいます。

番組の中で、動物の食性と味覚の関係について興味深い話がありました。鳥の祖先は恐竜で(No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」)、それも、草食ではなく肉食恐竜です。一般に肉食動物は植物から糖を摂取しないので、甘味受容体が欠如しています(生存に必須のブドウ糖は体内で生成する。No.226「血糖と糖質制限」)。現代でも猫科の動物がそうであり、肉食恐竜の子孫である鳥も甘味受容体が欠如しているのです。

ところが、鳥類の分類上「スズメ亜目」に属する鳥は、うま味受容体で "糖" を検知できることが戸田氏の研究で判明しました。スズメ亜目には、スズメ、メジロ、シジュウカラ、モズ、ウグイス、ヒヨドリ、ヒバリ、ムクドリ、セキレイ、ツバメ、カラスなどの、なじみ深い鳥が含まれます。考えてみると、我々が日常生活でよく見かける野生の鳥はほとんどがスズメ亜目です(それ以外はハト、カモぐらいか)。それもそのはずで、世界に生息する鳥の種の約半数はスズメ亜目であり、鳥類の中では大繁栄しているグループなのです。

この繁栄の理由は、スズメ亜目が肉食(昆虫食)に加えて、花の蜜や穀物を食べるように進化したことが大きく、この裏には「うま味受容体による "糖" の検知」があるというのが戸田氏の見解でした。

"You are what you eat" という英語のことわざがあります。少々意訳すると「何を食べるかで、何者であるかが決まる」ということでしょう。これは人についての言葉ですが、動物でも同じはずです。「何を食べるか・何を食べないか」で、体の構造や生理的機能が決まり、食環境に合致するように進化していく。その「食べる・食べない」は味覚に左右されている。そういうことだと理解しました。


ノーベル賞の理由


これ以降は余談です。戸田氏が作った実験系で思い出した話があります。この実験系では「発光タンパク質」が使われていますが、番組によると、当初は「蛍光タンパク質」を使っていたがうまくいかず、発光タンパク質に変えて試行錯誤して実験系を完成させた、とのことでした。

蛍光タンパク質は、ある波長の光(たとえば青色)を当てると、別の波長の光(たとえば赤色)を発するタンパク質です。それに対して発光タンパク質は、細胞からのエネルギーと何らかのトリガー(実験系ではカルシウム・イオン)を受け取って発光するタンパク質です。

2008年のノーベル賞(化学賞)は、緑色蛍光タンパク質を発見したボストン大学名誉教授の下村脩氏ら3人が受賞しました。この緑色蛍光タンパク質の発見以降、数々の蛍光・発光タンパク質が作られるようになりました。これらは細胞内の生命現象を可視化する道具として、生命科学で無くてはならないものになっています。

実は、下村氏のノーベル賞受賞の報道に接したとき、素人としては「そんなにすごいことなのか」と疑問に思ったのを覚えています。しかし今になってよくよく考えてみると、テレビの生命科学・医学番組で放映される「細胞内を可視化した動画」は、その多くに「光るタンパク質」を使っているのですね。我々はそういう動画を見て「光るタンパク質が使われている」などとは考えもしないのだけれど・・・。

戸田氏の実験系の話を知って「ノーベル賞には、それに値する理由がある」ことを、改めて実感しました。




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