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No.335 - もう一つの「レニングラード」 [音楽]

No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 レニングラード」で、この交響曲が作曲された経緯とレニングラード初演に至るまでのプロセスを書きました。ショスタコーヴィチはレニングラード(現、サンクトペテルブルク)の人です。この曲は、独ソ戦(1941~)のさなか、レニングラードがドイツ軍に完全包囲される中で書き始められました。その後、政府の指示でショスタコーヴィチは安全な地に移され、そこで曲は完成し、レニングラードでの初演は1942年8月に行われました。

ところで最近、「レニングラード」と題した別の曲があることを思い出しました。ビリー・ジョエルの「レニングラード」です。なぜ思い出したのかというと、2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵略戦争です。この過程で種々の情報に接するうちに、思い出しました。そのことは最後に書きます。


ビリー・ジョエル「レニングラード」


ビリー・ジョエルは1987年にソ連(当時)で公演を行いました。その時に知り合ったロシア人のサーカスの道化、ヴィクトルとの交流を描いた楽曲が「レニングラード」です(1989年のアルバム「Storm Front」に収録)。ちなみにソ連の崩壊はその2年後の1991年でした。詩は次の通りです。試訳とともに掲げます。

なお人名の Victor は、英語圏ではヴィクターでビリー・ジョエルもそう歌っていますが、試訳ではロシア人名の一般的な日本語表記のヴィクトルとしました(ヴィクトールとすることもあります)。


Leningrad
Lyrics by Billy Joel

Victor was born in the spring of '44
And never saw his father anymore
A child of sacrifice, a child of war
Another son who never had a father
after Leningrad

Went off to school and learned to serve his state
Followed the rules and drank his vodka straight
The only way to live was drown the hate
A Russian life was very sad and such was life
in Leningrad

I was born in '49
A cold war kid in the McCarthy times
Stop 'em at the 38th parallel
Blast those yellow reds to hell
And cold war kids were hard to kill
Under their desks in an air raid drill
Haven't they heard we won the war
What do they keep on fighting for?

Victor was sent to some Red Army town
Served out his time, became a circus clown
The greatest happiness he'd ever found
Was making Russian children glad
And children lived in Leningrad.

But children lived in Levittown
hid in the shelters underground
'Til the Soviets turned their ships around
And tore the Cuban missiles down
And in that bright October sun
We knew our childhood days were done
I watched my friends go off to war
What do they keep on fighting for?

So my child and I came to this place
To meet him, eye to eye and face to face
He made my daughter laugh, then we embraced
We never knew what friends we had
Until we came to Leningrad



【試訳】

レニングラード
詩:ビリー・ジョエル

ヴィクトルは1944年の春に生まれ
父に会ったことがない
戦争中に生まれた、犠牲者の子
もう一人の息子も
レニングラード後は父親がいない

学校に行き、国に尽くすことを学んだ
規則に従い、ウォッカをストレートで飲んだ
唯一の生きる道は、嫌なことを紛らせること
ロシア人の一生はとても悲しい
レニングラードでの暮らしも

僕は1949年に生まれた
マッカーシー時代の冷戦の子
38度線でくい止めろ
黄色い共産主義者を打ちのめせ
だけど、冷戦時代の子供たちは殺しはしない
防空訓練で机の下に隠れるだけ
彼らは戦争に勝ったとは聞かなかったのか
何のため戦い続けるのだろう

ヴィクトルは赤軍の町に送られ
兵役を務め上げると、サーカスの道化になった
そこで見つけた最大の幸せは
ロシアの子供たちを喜ばせること
そしてレニングラードに住む子供たちも

レヴィットタウンに暮らす子どもたちは
地下のシェルターに身を隠した
ソヴィエトの船団が引き返して
キューバのミサイルが取り壊されるまで
そして晴れやかな10月の太陽の中
僕らは子供時代が終わったことを知った
僕は友人が戦争に出征するのを見届けた
彼らは何のため戦い続けるのだろう

そして僕と娘はこの地にやってきて
彼と会い、顔と顔、目と目を合わせた
彼は娘を笑わせ、僕らは抱擁を交わした
そこに友がいようとは思いもしなかった
レニングラードに来るまでは


STORM FRONT.jpg
ビリー・ジョエル
ストーム・フロント」(1989)
アルバムの7曲目に「レニングラード」が収録されている。画像は CD のジャケットより。


ヴィクトルとビリー


詩を読んで明らかにように、これはビリー・ジョエルの経験をもとに、米ソ冷戦時代のロシア人・ヴィクトルとビリーの半生を描いています。何点かポイントを書きます。

 1944年春 

ヴィクトルが生まれたのは1944年春とあります。

ヒットラーの率いるドイツ軍がポーランド侵略を始めたのは1939年9月でしたが、1941年6月にはソ連に侵攻しました。そして1941年9月にはレニングラードを包囲し、ここからレニングラード包囲戦が始まりました。ソ連軍が反撃に転じて最終的にレニングラードが解放されたのは 1944年1月です。

ということは、ヴィクトルの母が身ごもったのは包囲戦の最中で、レニングラード解放後すぐにヴィクトルが誕生したことになります。この間にヴィクトルの父親は亡くなった。だから父親を知らない。ヴィクトルは奇跡的に生まれた子といってよいでしょう。

また詩によると、ヴィクトルには兄弟がいます。この兄弟はおそらく兄で、その兄は父親を知っていると考えられます。レニングラード包囲戦より以前に生まれたのかもしれない。詩に「Another son who never had a father after Leningrad」とあります。"レニングラード後の" 父親を知らないというのは、そういう意味でしょう。

 冷戦 

アメリカとソ連の冷戦は、主としてビリーの眼を通して語られます。まず、ビリーは米国におけるマッカーシズム(いわゆる "赤狩り")の時代に生まれました。朝鮮戦争(1950-1953)があり、核戦争に最も近づいたといわれるキューバ危機(1962)があった。子供時代のあとは「友人が出征するのを見届けた」とあるので、これはベトナム戦争(1955-1975)でしょう。そういった中で、学校での防空訓練やシェルターに避難した経験が語られています。

ビリー・ジョエルはニューヨークのブロンクスの生まれですが、ニューヨークの東に位置するロングアイランドで育ちました。レヴィットタウンはそのロングアイランドの街の名前です。

  

ビリー・ジョエルにはアレクサという娘がいて、1987年のソ連公演には当時1歳だった彼女を連れていったそうです。それが詩の最後のパラグラフに反映されています。

1987年といえば、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカがすでに始まっています。とはいえ、アメリカとソ連の冷戦はまだ続いています。アメリカ人の歌手がソ連でコンサートをするのは異例だった。その中でビリーが家族を連れていったというのは、音楽を通して両国民の融和に寄与したいという思いからでしょう。

そして詩の最後にあるように、冷戦時代を生きてきたロシアの道化とアメリカのミュージシャンの人生は、レニングラードで交わった。ヴィクトルはアメリカからやって来た女の子を笑わせました。あたりまえと言えばあたりまえです。しかしその "あたりまえ" が障害なしにできる世界、ビリー・ジョエルの「レニングラード」はそれを願って作られた作品だと思います。


2022年 2月 24日


2022年2月24日、ロシアはウクライナ侵略を開始しました。この過程で我々は、従来あまり知らなかった情報にいろいろと接したわけですが、その中にこの侵略の張本人であるプーチン大統領のことがありました。この人は 1952年生まれといいますから、ビリ・ジョエルとほぼ同世代です。そしてレニングラード出身です。

彼は三男で、2人の兄はプーチンが生まれる前に亡くなっています。そして2人目の兄はレニングラード包囲戦の間に死亡しているのですね。両親はレニングラード包囲戦を生き延びたわけです。レニングラードでは100万人規模の市民の死者で出たと言われています(公式発表は70万人程度)。ほとんどが餓死だったそうです。

考えてみると、この世代の日本人は親から太平洋戦争中はどうだったかを繰り返し聞かされたはずです。それと同じで、レニングラード包囲戦を生き延びた夫婦は、戦後に生まれた息子に戦争はどうだったか、ドイツ軍にどうやって勝利したかを何度も聞かせたと想像します。

そのプーチン大統領は、レニングラード包囲戦(1941~1944)から80年後にウクライナ侵略戦争を開始しました。核兵器による脅しとともに ・・・・・・。これは世界の安全保障の枠組みを根本的に変えつつあり、1991年のソ連崩壊で終わったはずだった冷戦時代に再び世界を逆戻りさせそうな状況です。

それはビリー・ジョエルが「レニングラード」で願った世界とは真逆の方向でしょう。そしてビリーの友人となったレニングラード出身のサーカスの道化、ヴィクトルの思いとも正反対のはずです。

数々の情報に接すると、この現在進行形のウクライナ侵略は、プーチン大統領個人の資質もあるのだろうけれど、ロシア帝国以来、ソヴィエト連邦を経てずっと独裁国家であり続けているロシアの政治体制の病理を見た思いがします。




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