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No.331 - カーネーション、リリー、リリー、ローズ [アート]

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、画家・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館所蔵)のことを書きました。ベラスケスの『ラス・メニーナス』への "オマージュ" として描かれたこの作品は、2010年にプラド美術館に貸し出され、『ラス・メニーナス』と並べて展示されました。

Daughters_of_Edward_Darley_Boit - 2.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
(1856 - 1925)
「エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち」(1882)
(222.5m × 222.5m)
ボストン美術館

この絵の鑑賞のポイントの一つは、画面に2つ描かれた大きな有田焼の染め付けの花瓶です。これはボイト家に実際にあったもので、その後、ボストン美術館に寄贈されました。この有田焼は当時の欧米における日本趣味(広くは東洋趣味)を物語っています。

そして、同じサージェントの作品で直感的に思い出す "日本趣味" の絵が、画面に提灯と百合の花をちりばめた『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。テート・ブリテン所蔵)です。No.35 では補足として画像だけを載せましたが、今回はこの絵のことを詳しく紹介します。というのも、最近この絵の評論を2つ読んだからで、その評論を中心に紹介します。


カーネーション、リリー、リリー、ローズ


Sargent - Carnation, Lily, Lily, Rose.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
(1856 - 1925)
カーネーション、リリー、リリー、ローズ」(1885-6)
(174cm × 154cm)
テート・ブリテン

まず、このブログで今まで多数とりあげた中野京子さんの評論から紹介します。この絵の第1のポイントは、夕暮れの時の一瞬を描いたというところです(以降の引用で下線は原文にはありません。また段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に直したところがあります)。


「夕暮れ」を表現する言葉は多彩だ。英語とドイツ語では「二つの光」と言い、昼と夜の明暗が交差することを示す。フランス語では「犬と狼の間」と呼ぶことがある。薄闇の中を近づいてくる相手が安全か危険か見定めがたい、という不安の心情だ。日本語の「黄昏たそがれ」も語源は「そ、彼(= あれは誰か)」からきている。果たして見えているのは、味方か敵か。そういえば、「逢魔おうまが時」という呼び方もあり、となれば、人か魔か、近づくまではわからない。わかった時にはもう遅い。

── 異界と重なりあうこの入相いりあいの時は、しかし誰もが知るとおり、怖いが美しい。いや、怖いまでに美しい。多くの画家同様サージェントもまた、黄昏時のつかの間の幻想をキャンバスにとどめたいと意欲を燃やし、本作を完成させた。


夕暮れを表現する言葉は多彩です。薄暮、宵、という言い方もあります。いずれも日没前後の時間ですが、特に日没後の短い時間を指すことが多い。日没の後には西の空に夕焼けの赤みが残り、次にはその赤みが無くなって空は群青になり、次にはその青みも消えて黒くなる。サージェントのこの絵は、その空が黒くなる手前の時間、西の空が橙色か、それを過ぎた深い青の時間を描いていると感じさせます。


花々の乱れ咲く庭園で、白いドレスの少女二人が無心に提灯ちょうちんるす。自然光と人工光という異質な明かりが混じりあいながら顔を、金髪を、指先を、ドレスを、そして花や葉を照らし、この世ならぬ雰囲気を醸し出すとともに、どこか懐かしい甘い記憶に訴えかけてくる。

「同上」

この絵は「花々の乱れ咲く庭園の中に少女が2人」というのが基本的なテーマですが、本当にこれがリアルな光景なのか、実は幻影ではないかという感じが、ふとします。「この世ならぬ雰囲気を醸し出す」と中野さんが書いている通りです。その大きな理由は薄暮の時の「自然光と人工光の混じりあい」なのでしょう。さらにもう一つは、画面を埋め尽くす庭園の花々と草が、まるで壁紙に描かれたように見えることでしょう。これはリアルな光景なのか、と暗黙に思ってしまうわけです。

サージェントはアメリカ人ですが、この絵を仕上げた当時は英国に住んでいました。そしてカンヴァスを野外に持ち出し、薄暮の僅かな時間を狙って少しづつ仕上げていったと言います。そのため花々は枯れてしまい、そうすると制作を中断し、新しい花が育つまで待った。完成までに長い時間がかかったようです。


タイトルの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』は、当時のポピュラーソングの歌詞から取られたという。花の女神フローラの花冠はカーネーションと百合ゆり薔薇ばらで編まれている、とリフレインする印象的なフレーズだったらしい。

「同上」

この絵のもとになったのは当時の英国の "はやり唄" であり、花の女神フローラを唄ったものというのは象徴的です。ルネサンス期以降の西洋絵画に、ギリシャ神話の女神・フローラがいて、その周辺に花がちりばめられている絵がいろいろあります。ボッティチェリの『春』(ウフィツィ美術館)に描かれたフローラはその典型でしょう。サージェントのこの絵に現実感が希薄なのは、そいういうことと関係しているのかもしれません。

そして目に付くのが提灯です。なぜ英国の庭園に提灯があるのか。それは当時のヨーロッパの、ある種のブームに関係しています。


さて、画面には日本の提灯が、丸いもの、筒形のもの、いくつも登場している。サージェントは本作に取り組む少し前、テムズ川下りをしていた時に、岸辺の木々の枝に吊られた不思議な紙製の明かりを見て、魅了みりょうされたのだった。そこから愛らしいこの絵画が生まれたと思えば日本人として感慨深いし、19世紀にもう提灯がヨーロッパへ輸出されていたことにも驚く。

本作からさかのぼること、およそ20年、ロンドン万博が開催されており(1862年)、このとき日本は国家としての正式出展はしなかったのだが、初代駐日総領事だったイギリス人ラザフォード・オールコックが、個人コレクションを展示した。象牙ぞうげ、漆器、七宝、刀剣、甲冑かっちゅう、浮世絵、錦絵にしきえはむろんのこと、オールコック自身が珍奇と感じた日用品もそこに混じっていた。蓑笠みのがさ藁草履わらぞうり、提灯など。

同時期に派遣された江戸幕府の遣欧使節団(福沢諭吉も参加)は、庶民の使う雑具まで万博に並べられるのは国辱こくじょくと思ったようだが、ヨーロッパ人にとってはどれもエキゾティックと好意的に受け取られた。

「同上」

その提灯ですが、もともと中国由来で、室町時代に日本に伝わりました。中国の提灯は、今でもそうですが、構造材が縦に通っています。一方、日本の提灯は "蛇腹" になっていて、ぺたんと折り畳める。この構造は日本の発明です。サージェントの絵に描かれているのはこの日本方式の提灯です。


とりわけ提灯だ。

内部にロウソクをともして和紙や絹で風防し、手に提げて持つ懐中電灯の昔版である。中国伝来だが、中国の提灯は折りたたむことができない。和製提灯の折りたたみ機能の斬新ざんしんさは、日本人の創意工夫から生まれたもの。

その形態にロマンティックでやわらかな光の効果が相俟あいまって、欧米では一時大流行したのだった。サージェントが見たように岸辺を彩ったり、レストランの戸外テーブルの周りに灯された。その下で、女性たちはさぞかし妖艶ようえんさを増したであろう。彼女らが魔女に変わるかどうかは知らないが、黄昏時に提灯を持つ少女が妖精に変わったのは間違いない。

「同上」

文章の最後で中野さんは "妖精" という言葉を出しています。No.318「フェアリー・フェラーの神技」に書いたように、英国は "妖精大国" です。妖精の民話が大量にあるし、著名文学にも登場します(シェイクスピア、ピーターパン ・・・・・・)。そして "妖精画" が絵画の大ジャンルであり、妖精画を専門に描く "妖精画家" がいた。英国在住の画家・サージェントはそういった事情を良く知っていたはずです。

画家は、白いドレスを着て提灯を灯す2人の少女を妖精に見立てているのではないでしょうか。「この世ならぬ雰囲気」はそういうところからも来ていると感じます。



ところで、この絵には提灯以外に日本関連のアイテムが描かれています。それがヤマユリです。最近の日本経済新聞の日曜版(The STYLE。2022年1月30日)に、窪田直子記者(東京編集局文化部)がそのことを書いていました。それを次に紹介します。


花の東西交流


窪田記者の記事は、

19世紀 園芸の東西交流(1)
植物ハンター、世界をめぐる

と題するものです。19世紀当時、ヨーロッパの "植物ハンター(プラントハンター)" と呼ばれる人たちが、世界の植物を自国に持ち帰った。もちろん日本の植物もその中にあった。そういった交流のあかしとしてサージェントの絵を取り上げているのです。記事はまず『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』の解説から始まります。


「サージェントのあのユリの絵、どこにありますか」。来館者によくそう尋ねられると言ってテート・ブリテンの学芸員は笑った。10年ほど前に取材でロンドンを訪れたときのことだ。「カーネーション、ユリ、バラ」がとらえる日没まぎわの幻想的な光景は、それほど見る者を魅了してやまない。

まず、構図が変わっている。中央の白いサマードレスの少女は、画家の友人の娘のドリー、11歳。彼女が中心人物のようにも思われるが、視線はすぐにその横に立つ 7歳の妹、ポリーへと移る。きまざまな花や紙の提灯ちょうちんが壁紙の模様のように散らされて、どこに焦点をあててよいのか、分からない。

窪田直子
日本経済新聞・Nikkei The STYLE
(2022年1月30日)

この絵の発想のきっかけになったのは、画家がテムズ河畔でたまたま目にした提灯です。サージェントはロンドン近郊の友人宅に滞在しながら、この絵を描きました。


制作にあてたのは日没前のわずか10分ほどだ。友人らと芝生でテニスをしながらイメージ通りの光を待ち、辺りが薄紫に染まるやカンバスの前に立って、小鳥のように動き回りながらタッチを重ねたという。秋になって植物が枯れると、未完成の絵を残していったんロンドンに帰京。翌年までに50個ほどのユリの球根を友人宅に送り、植木鉢で育てるように依頼している。

「再現不能に思える花々やランプの色、草むらの輝く緑。絵の具ではとても彩度が足らない。しかも光の効果が続くのは10分間だ」この絵を仕上げる難しさを手紙につづっている。

絵の細部をあらためて見てみよう。2本の長いユリの茎に糸をわたし、つるした提灯に、少女たちが光をともす。息をつめた真剣な面持ちのポリーの指先がほんのり赤くらされている。姉妹の純白のドレスは、オレンジ色の提灯とトワイライトの光を映し出すカンバスだ。ユリの白、バラのピンク、カーネーションの赤と黄色も、実に丁寧に色調を描き分けている。画面の中央左のユリは提灯に照らされピンクがかっている。右下方のバラの群れには、陰りゆく日の光が感じられるだろう。ドリーのドレスの前後に咲くカーネーションは、光をあびているものは明るく、陰の花は赤黒い。そう、この絵は刻々と移りゆく光のパージェント、光と色彩の交響詩なのである

「同上」

そしてサージェントのこの絵には、親交が深かったモネと同様、ジェポニズムの時代の空気が色濃く出ています。その典型が提灯ですが、もう一つの重要なアイテムがヤマユリです。


カンバスを国外に持ちだしての制作、自然光による時間の表現といえば、印象派の画家モネを思い起こすかもしれない。サージェントはモネと親交が深く、印象派の動向にも詳しかった。モネは浮世絵を所有、着物や扇を絵のモチーフにするなどジャポニスムに影響を受けたことでも知られる。サージェントの絵にも、そんな時代が映り込む。東洋風の提灯だけではない。少女たちの背後で華麗に咲き匂う大きなヤマユリ。19世紀後半、日本からもたらされたこの花は、センセーションを巻き起こしていた

「同上」


プラントハンター


江戸時代後期、日本の植物をヨーロッパに持ち帰ったのがシーボルトでした。ドイツ出身のシーボルトは医者で、長崎の出島ではオランダ商館医のポジションにつきますが、同時に彼は植物学者でもあり、多数の日本の植物をヨーロッパに送りました。これをきっかけに日本のユリがヨーロッパで大人気を博します。


ユリは聖母のシンボルとしてキリスト教の宗教にたびたび登場する。中世までの古い絵に接かれるのは古来ヨーロッパにあるニワシロユリ。花びらの長さが5センチにも満たない小型の花だ。ユリは宗教的な意味を含む特別な花である。一方、葬儀にも用いられることから観賞用には好まれなかったという。

その状況を一変させるのが、シーボルトが欧州にもたらした日本の花。二ワシロユリの1.5倍ほどの大きさになるテッポウユリや、紅色の花弁が華麗に広がるカノコユリである。これらは "マドンナ・リリー" がかすむほどの人気を集め、その球根は同じ重さの銀と取引されるほどだった。

江戸時代後期に長崎の出島に滞在したドイツの医師・植物学者のシーボルトは2度にわたり600種類以上の植物を欧州に向けて送った。ところがそのリストにヤマユリの名がない。当時の技術でその球根を運ぶのは至産の業だったのだという。シーボルトが137種の植物を積み込んだハウトマン号は1829年、オランダのライデン植物園に到着。しかし、熱帯を2度通過する過酷な船旅で57種が枯れていた。同年、今度は485種の植物とともにジャワ号で日本を出帆。目的地までたどり着いたのは260種にすぎない。生きたままの植物を届けることがどれほど困難だったかがわかる。

「同上」

Madonna Lily.jpg
マドンナ・リリー
(庭白百合、ニワシロユリ)
この引用にあるように、当時のヨーロッパで一般的なユリは "マドンナ・リリー" で、古来から聖母マリアのシンボルでした。受胎告知の場面で大天使・ガブリエルが持っている花もこれです。マドンナ・リリーの別名が "Garden White Lily" で、和名のニワシロユリはこの直訳です(庭白百合)。日本のテッポウユリに似ていますが、テッポウユリよりも小型です。

しかし『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』で、少女の後ろの目立つ位置に描かれているのはヤマユリです。そしてヤマユリが本格的にヨーロッパに輸出されるのは明治以降です。それは引用にあるように、輸送が難しかったからです。

ヤマユリ.jpg
ヤマユリ

ヤマユリ(c).jpg
サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」に描かれているヤマユリ。絵の中央上方の拡大図。


日本の植物、なかでも花の球根の買易が盛んになるのは明治の開国後、プラントハンターと呼ばれる人々の活躍によるところが大きい。ヤマユリにいち早く目をつけ、「日本から導入すべき最も注目に値する美しい植物」としたのも、英国の園芸者「ヴィーチ商会」の一族出身のジョン・グールド・ヴィーチだ。中国産植物の採集で知られるスコットランド出身のロバート・フォーチュンも、ヤマユリの球根をヴィーチ商会のライバル社に送っている。

お雇い外国人のルイス・ボーマーが横浜に設立した「ボーマー商会」もユリ根の輸出で大成功を収めた。ヤマユリは中部地方から関東地方に多く自生。神奈川県を中心に山採りされた球根が出荷された。「ユリ根の出荷作業」は、同商会の商品カタログに掲載された挿絵である(引用注:下に引用した図)。作業中の女性の前に並ぶ、おはぎのようなものは、細かく砕いて水で練った赤土の泥団子。ユリ根をこれで包んで船に乗せた。「腐敗を防いで運ぶカギは混度の管理。球根を水ゴケで巻くなど、さまざまな工夫を凝らしたようです。菌などの少ない土を使うことも極めて重要でした」。総合園芸企業「横浜植木」の伊藤智司社長が教えてくれた。

「同上」

ユリ根の出荷作業.jpg
ユリ根の出荷作業
横浜のボーマー商会の商品カタログの挿絵。女性のそばにユリ根と赤土の泥団子が描かれている。日本経済新聞(2022.1.30)より。

ちなみに、上の引用に「ヤマユリは神奈川県を中心に山採りされた球根が出荷された」との主旨があるが、現在の神奈川県の "県の花" はヤマユリである。


同社の前身、横浜植木商会はボーマー協会で主任番頭を務めた鈴木卯兵衛が90年に設立。JR横浜駅から車で15分はどの住宅街にある創業の地でいまも営業を続ける。大正時代の鳥瞰図を見せてもらって驚いた。一面の畑。敷地内には種子部、発送部、荷造場、検疫室、燻蒸室、20もの温室、球根室などが並んでいた。ユリを含む作物の輸出はすでに一つの産業だったのだ

「カーネーション、ユリ、ユリ、バラ」の舞台である英国にヤマユリが届いたのは62年のことらしい。王立園芸協会のフラワーショーに出品されて「非常な大きさ、花数の多さ、力強い香り、優雅で品位のある外観」が人々を魅了。やがて米国、インド、シベリアなどからもさまざまな品種が導入されてユリ栽培がブームになった(春山行夫著「花の文化史」)。世界を駆けめぐる植物愛好家の夢と情熱を、サージェントも感じ取っていたにちがいない。

「同上」

横浜植木.jpg
横浜植木商会
横浜植木商会の大正時代の鳥瞰図。ユリ根を含む作物の輸出が一つの産業だった。ユリ根は、当初は山採りされていたが、大規模栽培して輸出されるようになり、日本の外貨獲得に貢献した。日本経済新聞(2022.1.30)より。

我々は学校の日本史の教科書で、明治時代に日本の貿易をささえていた(= 外貨獲得のかなめだった)のが生糸だと習うわけです。それは全くその通りですが、実はユリ根も大切な輸出品だったのです。生糸と同じく、そのほとんどが横浜港から輸出されました。その結果(ヨーロッパにはない)日本の大型のユリが大人気を博し、サージェントの絵につながった。

補足しますと、現代では園芸用のユリ球根の8割はオランダからの輸入です。なぜかというと、オランダはチューリップなどで培った球根の品種改良技術が優れているからだそうです(日本経済新聞。2013.5.14 による)。

以上の背景を踏まえた上で、サージェントの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』を再度見てみます。

Sargent - Carnation, Lily, Lily, Rose.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
カーネーション、リリー、リリー、ローズ
テート・ブリテン

この絵の主題は「夕暮れ時の一瞬に見られる光と色彩の交響詩」です。これをカンヴァスに定着させることに画家は心血を注いだ。モデルは白いドレスの妖精のような2人の姉妹で、背景はイングリッシュ・ガーデンです。

そしてこの絵を当時の英国人の目から見ると、英国ではあまり見かけないアイテムが2種類描かれています。一つは提灯で、もう一つはヤマユリです。それがエキゾチックな雰囲気をかもし出す。この2つを配置することで、昼と夜の境界領域である薄暮の時間の幻想的な雰囲気が倍加される。

これら全てが見る人を魅了してしまう傑作、それが『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』なのでした。




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