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No.283 - ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 [音楽]

前回の No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」の続きです。以下の "番組" とは、音楽サスペンス紀行「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)のことです(No.281 参照)。


プラウダ批判


1936年1月26日、スターリンはモスクワのボリショイ劇場でオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観ましたが、第3幕が終わったところで席を立ちました。翌々日の1月28日、共産党機関誌「プラウダ」は『マクベス夫人』を批判する記事を掲載しました。いわゆる「プラウダ批判」です。

Shostakovich04.jpg
画面の左下の記事がいわゆる「プラウダ批判」。「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)より。

私はロシア語を読めないので英訳にあたってみると、記事の見出しは "Muddle instead of Music" です。"Chaos insted of Music" との訳もあるようです。日本語に直訳すると「音楽ではなく混乱」ぐらいでしょう。番組にあったように "支離滅裂" というのもあると思います。

いったい『マクベス夫人』の何が批判されたのでしょうか。番組において、サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長のラリサ・ミレル氏は次のように語っていました(No.281 で引用)。


【ラリサ・ミレル】(サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長)

スターリンが聴いたこのオペラは、かなり革新的なものでした。「大衆が理解できない」とスターリンは批判したんです。彼にとって音楽とはシンプルで分かりやすく、大衆的なものでなくてはならなかったからです。政治と音楽は渾然一体でした。人々を一つの「型」に押し込めようとしたんです。

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
(NHK BS プレミアム。2020年1月16日)

この引用の下線のところが批判の要約ですが、もう少し詳しく言うとどういうことなのか。「プラウダ批判」の英訳版から、その前半を試訳してみると次の通りです。


「プラウダ批判」試訳



28 January 1936, Pravda
Muddle instead of Music

With the general cultural development of our country there grew also the necessity for good music. At no time and in no other place has the composer had a more appreciative audience. The people expect good songs, but also good instrumental works, and good operas.

1936年1月28日、プラウダ
音楽でなくて混乱

我が国の文化の一層の発展のため、良い音楽の必要性が高まっている。作曲家にとってこれほど鑑賞眼のある聴衆がいた時代や国は他にない。人々は良い歌を期待すると同時に、良い器楽曲やオペラを要望している。

Certain theatres are presenting to the new culturally mature Soviet public Shostakovich's opera Lady MacBeth as an innovation and achievement. Musical criticism, always ready to serve, has praised the opera to the skies, and given it resounding glory. The young composer, instead of hearing serious criticism, which could have helped him in his future work, hears only enthusiastic compliments.

現在、いくつかの劇場はショスタコーヴィチのオペラ『マクベス夫人』を革新的な業績として、新しい教養あふれるソヴィエトの聴衆に向けて公演している。用意周到な音楽批評家はこのオペラを高く賞賛し、彼らが与えた栄誉は鳴り響いている。オペラの若い作曲家は熱狂的なお世辞ばかりを聞き、将来の作品の助けになるかもしれない批判を聞こうとはしない。

From the first minute, the listener is shocked by deliberate dissonance, by a confused stream of sound. Snatches of melody, the beginnings of a musical phrase, are drowned, emerge again, and disappear in a grinding and squealing roar. To follow this "music" is most difficult; to remember it, impossible.

聴衆は最初の1分から、意図的な不協和音や、混迷した音の流れにショックを受ける。音楽フレーズの始まりの断片的なメロディーは、浮き沈みするうちに、きしんだ金切り音の唸りの中に消えてしまう。この "音楽" をたどるのは極めて難しく、記憶するのは不可能である。

Thus it goes, practically throughout the entire opera. The singing on the stage is replaced by shrieks. If the composer chances to come upon the path of a clear and simple melody, he throws himself back into a wilderness of musical chaos - in places becoming cacaphony. The expression which the listener expects is supplanted by wild rhythm. Passion is here supposed to be expressed by noise.

このようにしてオペラのほとんどすべてが進んでいく。舞台での歌唱は、金切り声に変わってしまう。作曲家は、明快で簡潔なメロディーの道に遭遇したとしても、すぐにきびすを返し、不協和音の地に似つかわしい音楽的カオスの荒野へと向かう。聴衆が期待する表現は、野蛮なリズムに取って替わられる。ここでは情熱を騒音で表現しようとしているようだ。

All this is not due to lack of talent, or lack of ability to depict strong and simple emotions in music. Here is music turned deliberately inside out in order that nothing will be reminiscent of classical opera, or have anything in common with symphonic music or with simple and popular musical language accessible to all.

これらすべては音楽の才能の欠如でもなければ、音楽で強くシンプルに感情を表現する能力の欠如でもない。ここでは音楽が意図的に裏返えしにされ、伝統的なオペラを連想するものが無いように、また、シンフォニックな音楽との共通性や、誰もが理解できる簡素でポピュラーな音楽の言葉との共通性が無いようにしてある。

This music is built on the basis of rejecting opera - the same basis on which "Leftist" Art rejects in the theatre simplicity, realism, clarity of image, and the unaffected spoken word - which carries into the theatre and into music the most negative features of "Meyerholdism" infinitely multiplied. Here we have "leftist" confusion instead of natural human music. The power of good music to infect the masses has been sacrificed to a petty-bourgeois, "formalist" attempt to create originality through cheap clowning. It is a game of clever ingenuity that may end very badly.

この音楽はオペラを拒否する前提で作られている。それは演劇における革新派の芸術が、簡潔さ、リアリズム、明晰なイメージ、素朴な発話を拒否するのと根が同じである。それはメイエルホリド主義の最も否定的な面を演劇と音楽に持ち込み、無限に増殖させた。ここに我々は自然で人間的な音楽ではなく、革新派の混乱を見る。大衆に感染する良い音楽の力が、小ブルジョア的で、独自性を安っぽい道化で作ろうとする形式主義者への捧げ物になった。これは如才ない巧妙なゲームであるが、最悪の結末になるかもしれない。

《メイエルホリド主義》:メイエルホリドは演劇革新運動を起こしたロシアの演出家で俳優。ショスタコーヴィチとも交流があった。スターリンの大粛清の犠牲になり、銃殺された。

《革新派》:英語はleftist。直訳すると左翼であるが、社会主義国家の中の文化的左翼のことなので、革新派とした。

《形式主義》:内容より形式を重視する文学や演劇、音楽を指す言葉だが、当時のソ連では大衆に奉仕しない音楽を糾弾する言葉として使われた。

The danger of this trend to Soviet music is clear. Leftist distortion in opera stems from the same source as Leftist distortion in painting, poetry, teaching, and science. Petty-bourgeois "innovations" lead to a break with real art, real science and real literature.

このような傾向がソヴィエトの音楽にもたらす危険性は明らかである。革新派によるオペラの歪曲は、絵画、詩、教育、科学における革新派の歪曲と同根である。小ブルジョア的な "革新" が、真の芸術、真の科学、真の文学を毀損するに至っている。

■■■ 以下、略 ■■■

【英語訳の出典】
 Muddle Insted of Music(28 January 1936,Pravda)
(リンクは 2020.4.18 現在)


『マクベス夫人』の何を批判したのか


試訳は、ロシア語 → 英語 → 日本語の重訳なので、原文からは意味にズレがあるかもしれません。また英訳自体に意味のとりにくい部分もあるので、訳として不自然なところがあります。しかし大筋では「プラウダ批判」が何を言っているのかが理解できます。

訳出したのは「プラウダ批判」の前半だけですが、この前半で「言いたいこと」は尽きています。読むとすごい文章です。『マクベス夫人』を徹底的にこき下ろしているし、それどころか「粛清するぞ」という脅しととれるような発言もある。

分かるのは、『マクベス夫人』を批判するといっても、それは『マクベス夫人』の音楽を批判していることです。実は、訳出しなかった後半には「カテリーナをブルジョア社会の犠牲者のように描いているが、レスコフの原作はそうではない」とか(これは正しい。No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」参照)、ダブルベットを舞台に置くような演出に対して「下品だ」というような批判があります。しかしこのような台本や演出に関することは全体からするとわずかであり、ほとんどがショスタコーヴィチの音楽に対する批判です。

その音楽について「プラウダ批判」が言いたいことを、私なりに少々の補足を加えてまとめると、ソ連におけるオペラ音楽のあるべき姿は、

・ 明快で簡潔なメロディーがあり、聴衆は音楽をたどれるし、記憶できる。
・ 人間の感情が朗々とした歌唱で表現されている。
・ シンフォニックな音楽や伝統的なオペラとの共通性もある。
・ ポピュラー音楽の愛好者も理解可能である。
・ 全般的に言うと「自然で人間的な音楽」である。

ということでしょう。要するに「分かりやすく平明な音楽」ということです。しかし『マクベス夫人』の音楽は、あるべき姿とは正反対で、つまり、

・ 不協和音や野蛮なリズムに満ちている。
・ 歌唱は金切り声で、軋んだオーケストラの唸りは騒音のようだ。
・ メロディーは断片的で、混迷した音の流れの中に埋没する。
・ 音楽をたどるのは困難であり、記憶するのは到底不可能だ。

ということだと思います。プラウダの記事の筆者は、ショスタコーヴィチに才能がないからそうなったと言っているのではありません。この音楽は才能のある作曲家が意図的に作ったものだと言っている。つまり『マクベス夫人』は1930年代の音楽としては前衛的であり、番組でのサンクトペテルブルク音楽院・学術研究課長の言葉を借りれば「かなり革新的な音楽」なのです。そこが批判のポイントです。



しかし「プラウダ批判」に反論(?)すると、まず "騒音" とか "金切り音" とかは、この音楽を否定するための罵声に近いものであって、ショスタコーヴィチの音楽を聴くとそんなことは全くありません。

それどころか、ショスタコーヴィチの音楽スタイルは『マクベス夫人』という "ドラマ" と良くマッチしています。このオペラは主人公のカテリーナがどこまでも転落していく物語であり、"救いのない物語" です。そこで描かれるのは、"愛の暗黒面" や "ゆがんだ愛" であり、暴力的な行為であり、連続犯罪とそれによる死です。この普通ではない、異常とも言えるドラマの進行とそこでの人間感情の表現には、ショスタコーヴィチの「かなり革新的な音楽」がピッタリなのです。

例をあげると、プラウダ批判は「最初の1分から、意図的な不協和音や、混迷した音の流れにショックを受ける」としています。最初の1分に現れるのはカテリーナの歌唱ですが、島田雅彦氏はこの部分を「冒頭のカテリーナのアリアは、ワーグナーの影響を強く受けたショスタコーヴィチによって『トリスタンとイゾルデ』風のやるせない和音で彩られる」と書いています(No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」参照)。さすがに作家は的確な日本語を繰り出すと思うのですが、「冒頭のトリスタン風の不協和音 = カテリーナやるせなさ」なのです。

「プラウダ批判」に "野蛮なリズム" とありますが、これは当たっています。だけど、このオペラにはレイプ・シーンを始めとして "野蛮な" シーンがいろいろあります。それは物理的な暴力だけでなく、たとえば第1幕で舅のボリスが「結婚して4年になるのにまだ子ができない」とカテリーナをネチネチと責めるような "精神的な野蛮さ" もある。そういった状況での音楽は "野蛮なリズム" がピッタリなのです。

絵画の比喩で言うと、このブログで引用した絵にピカソの『泣く女』と『ゲルニカ』がありました(いずれも No.46「ピカソは天才か」で画像を引用)。この両方の絵とも人間(や動物)の姿を要素に分解し、それをデフォルメし、再構成・再配置していて、具象とはかけ離れた絵画です。これは、激しく慟哭する人やそれを目の当たりにした人の感情、無差別爆撃にさらされた住民の恐怖やそれを知った人の怒りを表現するにはピッタリの手法です。この2作が傑作である大きな理由は、絵画のテーマと絵画手法がマッチしていることだと思います。

絵画とオペラは芸術のジャンルが違うので一概なことは言えませんが、『マクベス夫人』もこのピカソの絵の例と似ていると思います。ドラマの内容と使われた音楽手法が不可分に一体化しているのです。

しかし、そんなことはプラウダ紙(=ソ連の共産党独裁政権の機関誌)にとっては関係ないのですね。「プラウダ批判」は『マクベス夫人』の批判であると同時に、ショスタコーヴィチの初期作品にみられる "前衛的・実験的傾向" の批判であり、また、当時のソ連の芸術(音楽、演劇、文学)における革新派を攻撃したものだからです。それは一読すれば明瞭です。



ここで改めて「プラウダ批判」が主張する「音楽のあるべき姿」を考えてみたいと思います。前提として当時のソ連の政治状況は全く考慮しないものとします。つまり、共産党独裁政権、スターリン体制、音楽(芸術)は共産主義社会の建設に貢献すべきという指針などの、当時のソ連の芸術と政治の関係を一切抜きにし、純粋に音楽についての議論とします。とすると、プラウダが言っている「オペラの音楽のあるべき姿」つまり、

・ 明快で簡潔なメロディーがあり、聴衆は音楽をたどれるし、記憶できる。
・ 人間の感情が朗々とした歌唱で表現されている。
・ シンフォニックな音楽や伝統的なオペラとの共通性もある。
・ ポピュラー音楽の愛好者も理解可能である。
・ 全般的に言うと「自然で人間的な音楽」である。

などは、それはそれで的ハズレではないと思うのです。少なくとも一理も二理もある。これはオペラの音楽のみならず、いわゆる "芸術音楽" 全般に言えます。音楽は人間の感覚に直接訴えるものであり、自然で人間的なものであるべきだ。要はそういうことです。

ショスタコーヴィチはこの「プラウダ批判」に答える形で交響曲第5番(1937)を作曲し、それはソ連政府のみならず聴衆からも支持され、また現在も世界中で演奏されていて、幾多の交響曲の中でも屈指の名曲となっています。それはとりもなおさず「プラウダ批判」が的ハズレではないことを意味しています。その交響曲第5番はどういう音楽なのでしょうか。


交響曲第5番


ショスタコーヴィチは「プラウダ批判」に答える形で交響曲第5番(1937)を発表したのですが、番組では次のように解説されていました。


批判の嵐と粛清の波。親類や友人たちが次々と逮捕されていた。そしてショスタコーヴィチもついに尋問に呼び出される。生き延びるためにできることは限られていた。

尋問のあと、新たに発表した交響曲第5番は、持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品となった。この曲は政府からも評価され、粛清の危険を脱した彼は、息をひそめるように作曲活動を続けたという。

ショスタコーヴィチ:
死の街を照らしたレニングラード交響曲
(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)

確かに交響曲第5番は、分かりやすく平明な曲です。全体は4楽章で、ソナタ形式のオープニング(第1楽章)に始まり、スケルツォ(第2楽章)、緩徐楽章(第3楽章)、フィナーレ(第4楽章)と続く構成は、19世紀の交響曲の最盛期の構成そのものです。

記憶に残りやすい主題や旋律が全曲に散りばめられているのも特徴です。特に4つの楽章それぞれの冒頭の主題が印象的で、楽章の最初から聴衆を引き込むようにできている。全体に繰り返しが多く、聴衆としては音楽の構成をたどりやすい。

また印象的という以上に、音楽の歴史や先人を踏まえていると思われるところが多々あります。全体的にマーラーの交響曲との類似性を感じるし、ビゼーのオペラ『カルメン』からの引用らしきところもある。この第5番は「19世紀末に作曲されたといってもおかしくない曲」です。

さらに全曲の開始の部分、つまり第1楽章の冒頭のリズムは、ベートーベンの交響曲第9番の冒頭を踏まえているのではないでしょうか。ないしは、ブルックナーの交響曲第8番の冒頭のリズムです(譜例167)。そもそもブルックナーはベートーベンを意識したと考えられます。つまりショスタコーヴィチの交響曲第5番は、「第9」と似たリズムで交響曲を開始することで先人(ベートーベン)を踏まえたと同時に、ベートーベンの「第9」と似たリズムで交響曲を開始するということそれ自体が先人(ブルックナー)を踏まえているのだと思います。

譜例167: ベートーベン/ブルックナー/ショスタコーヴィチ
Beethoven-Bruckner-Shostakovich.jpg
ベートーベンの「交響曲第9番」、ブルックナーの「交響曲第8番」、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」の冒頭数小節。2つのパートだけを抜き出した。ブルックナーとショスタコーヴィチはベートーベンを踏まえていると同時に、ショスタコーヴィチはブルックナーも踏まえていると考えられる。またショスタコーヴィチはカノンで始めているが、カノンはベートーベンの時代よりも古い音楽形式である。

しかし、そういった中にも "ショスタコーヴィチらしさ" が全開です。特にショスタコーヴィチ独特の個性を感じる天性のリズム感です。比喩で言うと「体操やアイススケートで妙技を連続して見る感じ」、または「警句やウィットに満ちた小説家の文章を読む感じ」です。

まとめると、交響曲第5番はまさに「持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品」です。絵画の比喩で言うと、今までキュビズムの絵を描いていた画家が、急に印象派のような作品を制作した。もちろんこれは作品の良し悪しとは全く関係がありません。この交響曲第5番は音楽としては傑作です。そのポイントを一つだけあげるとすると、第3楽章の "壮絶な美しさ" です。この音楽は、交響曲という範疇で最も美しい楽章の一つでしょう。プラウダ批判が言う「音楽のあるべき姿 = 分かりやすく平明」という範囲で、これだけの傑作を書けるというショスタコーヴィチの才能はすごいと思います。


第5番は作曲家の本意ではない


しかし作曲の経緯をみると、交響曲第5番は「無理いされて作った音楽、やむを得ずに作った音楽、極端に言うと粛清で投獄されたり銃殺されないために作った音楽」です。それまでにショスタコーヴィチが作ってきた音楽(たとえば『マクベス夫人』)とは明らかに異質です。これは「作曲家が本来やりたかった音楽ではない」と考えるのが妥当でしょう。



全く唐突に話が飛びますが、司馬遼太郎の本に織田信長に仕えた坪内という姓の料理の名人の話が出てきます(名前は伝わっていません)。坪内は信長の御賄頭おんまかないがしら、つまりコック長でした。以下、本から引用します。


坪内は、織田家につかえる前には三好氏のコック長であった。三好氏は戦国末期に京を占領していた大名だから、坪内がそのコック長である以上、その腕の確かさはむろんのこと、室町風のうるさい儀典料理にも通じていておそらく当時日本一という定評ががったはずである。信長が三好氏を追ったとき、このコック長は捕虜になって岐阜に送られた。

岐阜で四、五年、「放し囚人めしゆうど」として暮らしたと「続武者物語」などにはあるから捕虜とはいえ、多少の自由はあったのであろう。ただ、包丁は持っていない。それを惜しいとおもったのは織田家の御賄頭の市原五右衛門で、坪内ほどの名人にものをつくらせぬということはありますまい、ぜひ上様の御膳はかれの包丁にてつかまつればいかがでございましょう、と献策した。

信長は、物の味にさほどの関心のあった男ではなさそうで、坪内をそれほど珍重する気はなかったらしい。

ひとまず、承知した。ただし、
── 膳はつくらせる。しかしまずければ殺す。
というのが、信長の条件であった。

坪内は夕餉ゆうがれい(引用注:夕食のこと。ゆうげと読むのが普通)をつくった。

試食し、信長は激怒した。このように薄味の水くさいものが食えるか、というのである。

坪内はおどろかず、いまひとたびの機会をあたえてもらいたい、翌朝の餉をつくらせてもらいたい、それにてもなお上様のお舌にあわぬとあれば自分は切腹なりともなんなりともする、といった。その言葉が信長にとどけられた。信長はゆるした。

その翌朝の朝餉で信長は満足した。「信長公 御感 ナナメナラズシテ 坪内ヲ御家人ニ召シ出サル旨 オホセ出サル」。

「あたりまえのことさ」
と、坪内はあとで料理人仲間にいったらしい。最初につくった膳は京風の味だから信長公のお舌にあわなかったのさ、二度目の味はあれは田舎味だ、塩梅を辛ごしらえでやったのだ、「故ニ御意ニ入リ候ト言フ。信長公ニ恥辱を与ヘ参ラセシト笑ヒケルト也」。


まさに "面従腹背" を地でいく話です。表面的にはうやうやしく従うように見せかけながら、裏では "アッカンベー" をしている。しかしこの話がすごいのは単なる面従腹背ではないところです。つまり、

◆ 料理人・坪内は、自らの命を賭けて夕食を京風味にし、朝食は田舎味にした。

◆ 彼はこの賭に勝ち、御家人の地位を得ると同時に、歴史書に残る "恥" を信長にかかせた。

というところです。自分の "生殺与奪権" を握っている信長が激怒することを承知の上で、あえて京風の味付けの料理を出すというところに、天下一の料理人の凄みがある。

歴史書にはないようですが、御家人に取り立てられた坪内はその後どうしたのでしょうか。もし信長が満足する味の料理を作り続けたのだとしたら、技量は確かに日本一かもしれないが、プライドが勝ちすぎていて料理人としては修行が足りないと思います。

もし坪内が真に "料理という芸術" を理解した料理人なら、信長の怒りを買わない範囲で、徐々に信長を「京風の味」に慣らしていくと思います。当時の優秀な戦国武将をみても、天下一の武人が文化人でもある例はいろいろあります。「田舎味に慣れた武将をもとりこにする京料理の奥の深さ」を発揮してこそ、料理という芸術がわかった料理人のはずです。



ショスタコーヴィチとは全く関係がありませんが、思い出したので司馬遼太郎の本から引用しました。この話がショスタコーヴィチの創作過程と似ていると思ったからです。

ショスタコーヴィチは『マクベス夫人』に至るまで、革新的な(前衛的で実験的な)音楽を作っていました。それを評価する評論家や音楽家仲間も多かったようですが、反対する人たちもいた。そしてショスタコーヴィチは、政府の意向が革新的とは正反対の「分かりやすく平明な音楽」であることは十分に承知していたはずです。芸術は政治と合致するものでなければならないというのが共産党独裁政権の考えです。しかしショスタコーヴィチは "確信犯的に" 前衛的な音楽を作った。

その状況下での「プラウダ批判」という "脅迫文" です。これによってショスタコーヴィチは音楽家生命を絶たれかねないと同時に、命さえ危うくなった。

そこでショスタコーヴィチは交響曲第5番を作り、これには共産党指導部も大満足し、またソ連の聴衆も喝采を浴びせたというのが経緯です。



しかし、ショスタコーヴィチの本領はこれ以降にあります。交響曲第5番(1937)以降、ショスタコーヴィチは "政府に迎合する作品" もいろいろ発表しましたが、そればかりではありません。第2次世界大戦のさなかに交響曲 第7番(1941)を発表したショスタコーヴィチは、続いて交響曲 第8番(1943)を発表します。これはスターリングラード攻防戦の犠牲者への追悼の曲で、暗く、悲劇的なものです。当時はソ連軍が大反攻に転じていたころであり、もっと明るい作品はできないのかとの非難を浴びました。

さらに第2次世界大戦がソ連の勝利で終わり、戦勝を記念して発表した交響曲 第9番(1945)は、第7番、第8番とは全く違う軽妙洒脱な作品であり、ベートーベンの第9のような壮大な作品を望んでいた政府関係者の意向とはかけ離れたものでした。これによってショスタコーヴィチは政府から、いわゆる「ジダーノフ批判」を受け、苦境に立たされることになります。

スターリンの死(1953)とスターリン批判(1956)の後も、政府にとっての "問題作" を作ります。その典型が、交響曲第13番「バービ・ヤール」(1962)です。この交響曲は、ユダヤ人虐殺にからむ反体制的な内容の詩による合唱をもっています。

さらに「プラウダ批判」(1936)でやり玉にあがった『マクベス夫人』です。ショスタコーヴィチは『マクベス夫人』の台本とオーケストレーションの一部を変更し、間奏曲を追加した改訂版のオペラ『カテリーナ・イズマイロヴァ』を作ります。そして1963年に上演許可をとってモスクワで上演します。なぜショスタコーヴィチは四半世紀もたって『マクベス夫人』の実質的な再演にこだわったのでしょうか。考えられる理由としては、

◆ ショスタコーヴィチとして思い入れのある作品であり、オペラとしての自信作だった。

◆ スターリン体制下で批判を受けて上演禁止になり、創作の方向を転換せざるを得なくなった "因縁の" 作品である。是非とも再演してけじめをつけたかった。

などでしょう。しかし、より大きな理由はソヴィエトの体制批判ではないでしょうか。前回の No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」に書いたように、このオペラは19世紀後半の帝政ロシア時代の作家、レスコフの同名の小説を原作としています。

◆ 原作は19世紀後半、帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を感じる小説であり、

◆ その閉塞感や悲劇的な雰囲気をソヴィエトの政治体制になぞらえた

と考えるのが妥当でしょう。No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番」で引用したように、ショスタコーヴィチの同時代人の回想録に、

第7番はファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、すべてを描いている」

という作曲家の発言がありました。純粋器楽でそうなのだから、台本があり、ストーリーがあり、ドラマが演じられるオペラに "体制批判" が隠されていることは十分に考えられると思います。時系列にみると『バービ・ヤール』(1962)の次が『カテリーナ・イズマイロヴァ』(1963)というのも暗示的です。


ショスタコーヴィチがアメリカ人なら


「歴史に if はない」という言葉がありますが、「歴史の if」を想定することは、現実に起こった出来事の意味を考えるときに有用です。それは音楽史でもそうです。

ショスタコーヴィチがもしアメリカに生まれていたら、という if を考えてみると、ショスタコーヴィチは自分の内心から湧き出てくる芸術的感性をもとに自由に作品を作れたはずです。また「他の何ものにも似ていない独自性」を追求するという、芸術家の本性を発揮したことでしょう。その結果、新しい音楽手法を次々と生み出し、音楽評論家からは賞賛され、20世紀の音楽史において、今以上に燦然と輝く存在になったと思います。

しかしそうであれば、交響曲第5番のような作品は生まれなかったのではないでしょうか。

ショスタコーヴィチは、彼にとっては不運な国の不運な時代に生まれたのですが、全く皮肉なことにソ連の共産党独裁政権からの圧力が、広く受け入れられるショスタコーヴィチの名曲を生み出したと思います。少なくとも交響曲第5番はそうです。

このことは交響曲第7番と似ています。第7番は「レニングラードを完全包囲するドイツ軍の圧力」の下で書かれた始めた音楽です。ないしは「ロシア民族の勝利の称える曲を作るようにとの政府の圧力」の下で完成した音楽です。この2つとも芸術家が普通に作品を作るという状況では全くありません。そこで要請されたのは「分かりやすく平明な音楽で、できるだけ多くの市民・大衆が理解できること」です。そうだからこそ、第7番ができた。ここが第5番と似通っています。

ショスタコーヴィチは、当時のソ連の政治体制という、芸術家にとっては最悪の社会環境で生きたロシア人だったからこそ名曲を生み出すことになった。そう思います。



前々回から今回までの3つの記事は、NHKのTV番組・音楽サスペンス紀行「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)の内容の紹介から始まったものでした。とりあげたショスタコーヴィチの作品は、


でした。この3作品の成立過程をみると、ショスタコーヴィチの苦悩や戦いがよく理解できます。それはとりも直さず、芸術家と社会の関係はどうあるべきかという問いであり、それが極端な形で現れたのだと思いました。




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