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No.281 - ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」 [音楽]

今回は「音楽家、ないしは芸術家と社会」というテーマです。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたことを振り返えると、次のようなことでした。

◆ ウィーンで活躍した作曲家のコルンゴルト(チェコ出身。1897-1957)は、ユダヤ人迫害を逃れるためアメリカに亡命し、ロサンジェルスに住んだ。

◆ コルンゴルトはハリウッドの映画音楽を多数作曲し、アカデミー賞の作曲賞まで受けた(1938年)。

◆ 彼はその映画音楽から主要な主題をとって「ヴァイオリン協奏曲」を書いた(1945年)。この曲はコルンゴルトの音楽のルーツであるウィーンの後期ロマン派の雰囲気を濃厚に伝えている。この曲は50年前の1895年に書かれたとしても全くおかしくない曲であった。

◆ 「ヴァイオリン協奏曲」はハイフェッツの独奏で全米各地で演奏され、聴衆からの反応は非常に良かった。

◆ しかしアメリカの音楽批評家からは「時代錯誤」、「ハリウッド協奏曲である」と酷評された。またヨーロッパからは「ハリウッドに魂を売った男」と見なされ評価されなかった。

アメリカの聴衆からは好評だったにもかかわらず、なぜ批評家から酷評されたかというと、「20世紀音楽でなく、旧態依然」と見なされたからです。

20世紀前半の音楽というと、オーストリア出身のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンが無調性音楽や12音音楽を作り出しました。またヨーロッパの各国では、ヒンデミット(独)、バルトーク(ハンガリー)、ミヨー(仏)、ストラヴィンスキー(露→仏・米)などが独自の新しい音楽を作っていました。もちろんそこには無調性音楽の影響もあった。それらに比べるとコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」は "芸術音楽" とは見なされなかったということでしょう。しかし、次の2つのこと、

◆ 芸術が「革新性」や「独自性」、「何者にも似ていない個性」をもつこと

◆ 芸術が社会に受け入れられること

は同じではありません。20世紀の作曲家は多かれ少なかれこの2つの折り合いをどうつけるか、その葛藤があったはずです。

旧ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチ(1906-1975)においては、この「葛藤」が鮮明でした。というのも、普通、作曲家にとっての "社会" とは、音楽の聴衆である一般市民とメディア(批評家や音楽産業)ですが、旧ソ連の場合のメディアとは、すなわち共産党独裁政権だったからです。そこでは芸術が政治と不可分の関係にあった。ショスタコーヴィチにとっては、その状況下で自らが信じる芸術をどう実現するかという戦いがあったわけです。



2020年1月16日に、ショスタコーヴィチの交響曲第7番についてのドキュメンタリー番組がTV放映されました。この番組は、芸術と社会の関係について深く考えさせられるものでした。そこで番組内容を以下に紹介し、最後に所感を書きたいと思います。


レニングラード交響曲


ショスタコーヴィチの交響曲第7番に関するドキュメンタリー番組の名前は、

音楽サスペンス紀行

ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲

NHK BS プレミアム
2020年1月16日

です。交響曲第7番は "レニングラード" という副題で呼ばれるので、この番組タイトルがあります。実はこの番組は、2019年1月2日に放映されたものの再放送だったのですが、2019年の時は全く知りませんでした。今回は録画をしたので、その内容を以下に紹介します。ショスタコーヴィチの交響曲第7番の作曲の経緯と、その世界への広がりを扱ったドキュメンタリーです。以下の(注)は番組にはなかった補足です。

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画像は「音楽サスペンス紀行 ショスタコーヴィチ 死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム 2020年1月16日)から。以下同じ。


早熟の天才、ショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチは1906年、レニングラード(現、サンクトペテルブルク)に生まれました。1919年、13歳で地元の名門音楽校、ペテルブルク音楽院に進学します。音楽院の学長が「過去最高」と絶賛した早熟の天才でした。

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ペテルブルク音楽院に入学した当時のショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチはピアノを学ぶ一方、作曲にズバ抜けた能力を発揮します。彼が音楽院の卒業制作として18歳で作曲した交響曲第1番は高く評価されました。ベルリン・フィルも演奏したほどです。

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そのあとも、交響曲第2、第3番、第4番と、西ヨーロッパの影響を受けたモダンで斬新な作風がソ連の音楽会に新風を吹き込みました。

注: 第4番の交響曲(1936)は、あとで出てくる "プラウダ批判" のためにショスタコーヴィチ自身が初演を取り下げました。初演は4半世紀後の1961年です。


サッカーを愛したショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチがレニングラードで最も愛した場所は、サッカースタジアムであるペトロフスキー・スタジアムでした。彼はここに通いつめます。

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【ナレーション】(玉木 宏)

ふるさとのプロチームを応援し、試合のスコアブックや選手のデータなど、独自に記録していたほどだった。異常なまでの細かさに、どれほどのめり込んでいたかが伝わってくる。なぜそこまで、と理由を問われると、こう答えたという。

スタジアムでしか、自分を自由に表現できる場所はない。強制ではなく、みな、本当のうれしさから喜びの声をあげることができる」

それは、この国の政治に翻弄された芸術家の葛藤だった。

音楽サスペンス紀行
NHK BS プレミアム
(2020.1.16)


大粛清とショスタコーヴィチ


最高権力者として君臨してたスターリン(ソ連共産党書記長)が大粛清を進めたのは1930年代半ばでした。国家に刃向かったとして、政府関係者、軍人、芸術家、文化人のおよそ140万人が逮捕され、70万人近くが処刑されました。そのやいばはショスタコーヴィチにも向けられたのです。


【ナレーション】

発端は、当時大ヒットしてた彼のオペラ、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』だった。客席で観ていたスターリンが作品を気に入らす、途中で退席したのだ。共産党機関誌、プラウダはすぐさま批判を展開した。「・・・・・ 支離滅裂 ・・・・」。

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1936年1月26日、スターリンはモスクワのボリショイ劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観たが、途中で席を立った。翌々日の1月28日、共産党機関誌「プラウダ」は批判記事を掲載した。いわゆる「プラウダ批判」である(上図の左下の記事)。この記事の見出しの英訳は「Muddle Instead of Music」ないしは「Chaos Insted of Music」とされるので、直訳すると「音楽ではなく、混乱」。

オペラの何がスターリンの神経を逆なでしたのか。ショスタコーヴィチの研究者はこう説明してくれた。

【ラリサ・ミレル】(サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長)

スターリンが聴いたこのオペラは、かなり革新的なものでした。「大衆が理解できない」とスターリンは批判したんです。彼にとって音楽とはシンプルで分かりやすく、大衆的なものでなくてはならなかったからです。政治と音楽は渾然一体でした。人々を一つの「型」に押し込めようとしたんです。

【ナレーション】

批判の嵐と粛清の波。親類や友人たちが次々と逮捕されていた。そしてショスタコーヴィチもついに尋問に呼び出される。生き延びるためにできることは限られていた。

尋問のあと、新たに発表した交響曲第5番は、持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品となった。この曲は政府からも評価され、粛清の危険を脱した彼は、息をひそめるように作曲活動を続けたという。

「同上」

レニングラードにドイツ軍が迫ったは、交響曲第5番を発表した数年後でした(注:第5番の初演は1937年。独ソ戦の開始はその4年後)。


レニングラード包囲戦


1941年6月22日、ソ連と不可侵条約を結んでいたドイツが奇襲攻撃をかけ、独ソ戦が始まりました。ドイツ軍はほどなくレニングラードに迫り、レニングラード包囲戦になります。開戦2ヶ月でレニングラード市内への砲撃も始まりました。

レニングラードピスカリョフ墓地の資料館には、ヒトラーの命令書の現物が展示されています。そこには「レニングラードの街を地球上から消滅させる」とあります。この宣言はドイツのラジオで全ヨーロッパに向けて放送されました。

レニングラードがドイツ軍に包囲されたのは、その特異な地形によります。北はナチスの影響下にあるフィンランド軍の支配地域です。西はバルト海、東はラトガ湖です。南から来たドイツ軍が街を包囲したのです。

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赤がレニングラード市を示す。北はナチスの影響下にあるフィンランド軍の支配地域、西はバルト海、東はラトガ湖で、南から来たドイツ軍が街を包囲した。なお真冬にはラトガ湖が氷結するので、湖の上に輸送路を作ることは可能である。この輸送路をめぐるソ連とドイツの攻防が番組に出てきた。

疎開する市民が多いなか、ショスタコーヴィチは妻と子供2人とともにレニングラードにとどまりました。

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ショスタコーヴィチ一家。妻(ニーナ)と2人の子供(長女:ガリーナ、長男:マキシム)。長男のマキシムは後に音楽家(指揮者・ピアニスト)になった。

そしてショスタコーヴィチはレニングラードのラジオ局(ドム・ラジオ)に行き、ラジオでスピーチをしました。その音源は今でも残っています。


【ショスタコーヴィチのメッセージ】

親愛なる市民の皆さん。すぐ近くで敵との壮絶な戦いが行われているレニングラードで話しています。

私は昨日の朝、新作の第2楽章を書き終えました。完成したあかつきには、交響曲第7番になるでしょう。私たちの生活はいつもどおり続いています。我々芸術家も皆さんと共に戦っています。それがよい芸術であればあるほど、誰も破壊などできないと私は信じています。あと少しで第7番を書き上げます。親愛なる皆さん、それでは ・・・・・・。

「同上」

交響曲第7番を書き上げて市民に届ける。その目的でショスタコーヴィチは街にとどまっていました。そのかたわらショスタコーヴィチは街の消防隊に参加しています。彼は自ら街を守ろうとするほどにふるさとを愛していました。

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その、まだ書き上がってもいない交響曲第7番に目をつけたのがスターリンでした。ショスタコーヴィチがラジオでスピーチをした直後、ショスタコーヴィチは政府によってレニングラードから連れ出されてしまいます。安全な場所で第7番を完成させるようにとの指示です。場所は、モスクワの東方、レニングラードからは1300kmも離れたクイビシェフ(注:現在のサマーラ。独ソ戦当時はソ連の臨時首都の候補)という街でした。第7番をめぐって国家が動きだしたのです。


死の街、レニングラード


1941年9月8日、ドイツの爆撃機が初めてレニングラードに飛来し、食料備蓄倉庫を爆撃しました。ヒトラーはレニングラードを飢え死にさせようとしていました。

1941年10月、例年になく早い初雪が降りました。そして、その冬のレニングラードは地獄絵図となります。犬猫を食べるのはもちろん、壁紙をはがして小麦粉から作られている糊を食べる人もいました。道路には行き倒れの死体が放置され、人肉を食べて逮捕された件数は300を越えたと言います。

独ソ戦でドイツ軍は奇襲攻撃のあとに進撃を続け、1942年4月の時点では、一時、モスクワの10数キロに迫るという勢いでした、ソ連政府としてもレニングラードに援軍を送る余裕はありませんでした。


交響曲第7番の完成


1941年末、ショスタコーヴィチはクイビシェフで第7番を完成させます。彼はスコアの表紙に「レニングラードの街にささげる」と書き添えました。

1942年3月、クイビシェフで交響曲第7番の初演が行われます。プラウダは「ファシズムに対するロシア民族の戦いと勝利を描いている」と高く評価し、世界に向けて宣伝しました。ショスタコーヴィチは政府の宣伝映画に出演しましたが、そこで彼は、


【ショスタコーヴィチ】(政府のビデオ)

・・・・・・ ファシズムと戦い、その勝利を信じて、この作品をささげます。今から交響曲第7番第1楽章の一部を弾きます。


と語り、第1楽章をピアノで演奏しました。第7番の利用価値を熟知していたスターリンには、たくらみがありました。スターリンはショスタコーヴィチに対し「スターリン章 第1席」(国家最高章)を与えましたが(注:1942年1月)、それは第7番の価値を高めるためでした。


アメリカ


そのころアメリカでは、ルーズベルト大統領が戦時下を理由に史上初の3選目に入っていました(1941年1月~)。またアメリカは真珠湾攻撃(1941年12月)を契機として第2次世界大戦に参戦しました。

交響曲第7番がソ連で初演された当時、ルーズベルトには悩みがありました。アメリカはソ連に対して無償の武器援助をしていましたが、「ソ連に利用されるだけだ、サンタクロースはやめよう、見返りを求めよう」という意見が政府内部にも高まり、また世論でも高まっていたのです。


【タミー・ビドル教授】(アメリカ陸軍戦争大学)

1941年3月、ルーズベルトはレンドリース法(LEND-LEASE)を成立させました。アメリカの防衛にとって重要な国、あるいは大統領が重要だと判断した国に対し、武器など軍需物資を援助できるという法律です。ルーズベルトはヒトラーとの戦いが世界規模で、無関係でいることはできないと考えていました。そして1941年、ドイツがソ連に侵攻すると、ルーズベルトはその法律をソ連にも適用し、軍需物資の支援を行うと決断します。

「同上」

ルーズベルトの決断以来、戦闘機、戦車、トラックなど、膨大な量の武器や軍需物資がソ連に送られました。費用はすべてアメリカの負担です。スターリンにとっては願ってもないプレゼントであり、それがドイツ軍と戦うための生命線でした。

しかしアメリカ国民にとって共産主義は脅威であり、以前からソ連を敵視していました。世論調査では、ソ連への援助に賛成は35%であり、反対は54%にもなったのです。

大局的見地からソ連への援助が必要と考えていたルーズベルトは、これまで以上に慎重にことを進める必要がありました。また次の選挙に向けて世論を味方につけたいとの思いもありました。

クイビシェフで初演されたショスタコーヴィチの交響曲第7番のことはアメリカにも伝わっていました。その第7番のアメリカ初演で世論を味方につける、それがルーズベルトの考えたことでした。スターリンのもくろみは「第7番でアメリカの世論を変え、ソ連への共感を広げる」ことです。水面下でアメリカとソ連は手を結んだのです。

ソ連政府は第7番のスコアをマイクロフィルムに収め、アメリカに送ることにします。アメリカとソ連の両政府は共同で、ドイツ軍を避けならが密かにフィルムの輸送する作戦を行います。

時を同じくして、モスクワでは交響曲第7番の2回目の演奏会が開催されました。

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トスカニーニによる第7番のアメリカ初演


交響曲第7番の252ページのスコアはマイクロフィルムに収められ、ドイツ軍を避けつつ、アメリカに輸送されました。ソ連を出発したフィルムは、テヘラン → カイロ → アフリカ大陸横断 → 大西洋横断 → ブラジル → マイアミ、というルートでアメリカに輸送されました。そして1942年5月30日、アメリカ国務省に到着しました。

初演コンサートの開催を任されたのは、音楽プロモータのユージーン・ワイントロウブでした。彼はカーネギーホールのすぐそばのアム・ラス・ミュージック社でロシア音楽に関する著作権を一手に扱っていました。彼は、まるでスパイ映画のような輸送ルートを宣伝に使います。

そして第7番のアメリカ初演には3人の大指揮者が名乗りをあげ、これもメディアで格好の話題になりました。
 ・セルゲイ・クーセヴィツキー
 ・レオポルド・ストコフスキー
 ・アルトゥール・ロジンスキー
の3人です。しかし、ワイントロウブの考えは違いました。第7番で一儲けするための最高の指揮者として彼が選んだのは、アルトゥーロ・トスカニーニです。トスカニーニは、ナチスと手を組んだ祖国イタリアを嫌い、アメリカに亡命した指揮者です。反ファシズムの曲として第7番を売り出すには、これ以上ない人選でした。

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アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)。20世紀の指揮法の大きな流れを作った偉大な指揮者である。

ワイントロウブのもくろみ通り、第7番はアメリカで大ブームを巻き起こします。アメリカの「タイム」誌は、レニングラードの消防団の写真をもとにショスタコーヴィチの肖像画を描き、表紙に使いました。ナチスと戦う英雄としてショスタコーヴィチを紹介したのです。

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1942年7月20日付の Time 誌の表紙。絵の下には「消防士ショスタコーヴィチ。レニングラードに砲弾が炸裂する中で、彼は勝利の響きを聴いた」と書かれている。

1942年7月19日、マンハッタンのNBCスタジオで、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演が、トスカニーニ指揮・NBC交響楽団の演奏で行われました。これはラジオで全米生中継され、メディアの反応は爆発的でした。

ロシア人の戦争交響曲に喝采の嵐」(NYタイムズ)
今世紀最高の交響曲の一つ」(NYデイリー・ニュース)
普遍的な戦争の音楽 人種や国境を越えた戦士の言葉」(LAタイムズ)

などの見出しが紙面に踊ったのです。第7番は、その後数ヶ月の間にアメリカ全土で62回のコンサートが行われ、演奏を流したラジオ局は2000に上りました。熱狂のすざましさを、ある雑誌は、

今やショスタコーヴィチが嫌いだというものはアメリカ人にはあらず」

とまで書いています。ショスタコーヴィチと第7番は社会現象になったのです。ショスタコーヴィチの伝記を書いたアメリカ人作家のM.T.アンダーソンは次のように分析します。


【M.T.アンダーソン】

第7番は今で言うなら大ヒット映画のようなものでした。ストリップ劇場のような場末でも第7番の音楽が使われたほどです。アメリカの大衆にとっても分かりやすく、ファシズムの侵略を感じられる音楽だったと思います。ですから、勝利のイメージで終わるこの曲は、まさにアメリカ人が求めていたものでもあったんです。人々は勝利の物語を渇望していましたからね。

「同上」

そして第7番は、何と、ヨーロッパの戦地に赴くアメリカ人兵の慰問コンサートでも演奏されました。その冒頭でスピーチに立ったのはソ連大使夫人です。「ともに戦いましょう」というロシア人の言葉にアメリカ兵たちは熱狂しました。

ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演は国家がしかけた物語でした。世論を味方につけたルーズベルトは、その後の4度目の大統領選挙(1944年11月)にも勝利します。そしてアメリカからソ連へのの武器・軍事物資の支援は続き、スターリンは独ソ戦に勝利します。これこそ、スターリンが利用した「音楽の力」でした。


レニングラード・ラジオ・シンフォニー


レニングラードには、地元のラジオ局である「ドム・ラジオ」所属のオーケストラ、レニングラード・ラジオ・シンフォニーがありました。このオーケストラは1931年に設立され、指揮者のカール・エリアスベルクに率いられて多くの演奏会を開いていました。レニングラード攻防戦の当時、街に残った(=疎開できずに取り残された)唯一のオーケストラでした。

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レニングラード・ラジオ・シンフォニーの指揮者、カール・エリアスベルクと、レニングラード戦争博物館に展示されている彼の愛用品。指揮棒が見える。

しかし楽団員の多くは徴兵され、また徴兵されなかった者も軍需工場での労働や塹壕堀りに駆り出されました。さらに、レニングラードの共産党指導部は音楽を中止すると決定し、オーケストラは活動休止になってしまいます。ドム・ラジオも放送休止になり、ラジオからはメトロノームの音だけが流れていました。

そのメトロノームの音が小さな奇跡を生み出します。レニングラードの総司令部のトップ、アンドレイ・ジダーノフは、ドイツ軍に完全包囲されて追い込まれていました。そしてラジオのメトロノームの音を聴いていらだった彼は「音楽でも放送しろ」と命令したのです。

注: アンドレイ・ジダーノフは戦後に共産党中央委員になり、ショスタコーヴィチを含む "前衛的な" 音楽を攻撃する「ジダーノフ批判」を展開した人物です。

エリアスベルクたちは、共産党の芸術局に呼び出されました。そしてオーケストラの再開要請を受けました。楽団員不足で再開は無理というエリアスベルクに対し、芸術局は「すぐでなくてもよいから、再開を」とのことです。

エリアスベルクたちは、レニングラード在住の音楽家を新たに集め、残った楽団員とともに大変な苦労をしてオーケストラの練習を再開しました。食料不足とエネルギー不足の中での練習は大変でしたが、1942年4月5日、久しぶりのコンサートにこぎつけます。ラジオでの音楽放送も再開しました。


交響曲第7番のレニングラード初演


モスクワでショスタコーヴィチの交響曲第7番の演奏会があったことは、ラジオ・シンフォニーの楽団員にも届いていました。ラジオ・シンフォニーの音楽監督、バープシキンはエリアスベルクに「第7番をやりたい」と相談を持ちかけます。エリアスベルクは即答をためらいました。ショスタコーヴィチの曲はどれも複雑で高度な技術が必要だったからです。

バープシキンは「スコアは何とか手に入れる」と言い、「レニングラードに捧げるとショスタコーヴィチがラジオで言ったことを皆が覚えている」と、エリアスベルクを説得します。



交響曲第7番のスコアは、1942年7月2日にソ連空軍の飛行機で運ばれてラジオ局に届きました。エリアスベルクは届いたスコアを見て、演奏は無理だと思いました。100~120人の演奏家が必要なスコアだったからです。それでもエリアスベルクは80人でやろうとしました。しかし80人には、まだ20人以上足りません。

そこでエリアスベルクたちは、徴兵された元楽団員から届いた手紙を調べました。手紙には軍事郵便番号が書かれているので、元楽団員がどの部隊にいるのか特定できるのです。そして、レニングラードの軍指令部にかけあい、元楽団員の帰還を説得しました。初めは難色を示していた軍指令部も、トップのジダーノフも賛成するはずとエリアスベルクが言うと認めてくれました。



第7番のレニングラード初演は、1942年8月9日に決まりました。これはラジオで繰り返し宣伝されました。これがラジオを傍聴していたドイツ軍に伝わります。ドイツ軍はレニングラード軍司令部のジダーノフに、初演と合わせるかのように「8月9日にレニングラードの占領攻撃を開始する」と通告してきました。

1942年8月9日、エリアスベルクたちの演奏会の日です。会場は、レニングラードで最も格式のあるコンサートホール、レニングラード・フィルハーモニアです。1500人収容の客席は、市民たちで埋め尽くされました。夜7時に幕が上がりました。

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交響曲第7番のレニングラード初演。唯一現存する写真。

第7番の演奏はラジオで生中継されただけでなく、街角のスピーカを通してレニングラード市内に流されました。またスピーカーは前線にも設置され、それは戦場のドイツ軍にも流れていきました。その音を聴いたあるドイツ兵は、戦後に次のように語ったといいます。「あの曲を聴いた時、私たちには絶対、レニングラードを倒せないと思いました」。

結局、ドイツ軍の砲弾が演奏会場に届くことはありませんでした。当日、レニングラードを防衛する兵士たちは、ありったけの砲弾を集めてドイツ軍に先制攻撃をしかけていたのです。



演奏会の終了後、エリアスベルクは一人の少女から花束を贈られました。家族で育てた花だと言います。添えられたカードには「レニングラードの音楽をお守りくださり、ありがとうございます」とあります。エリアスベルクは、食べ物も満足に得られないなかで花を育てる人がいることを知りました。少女の母親は少女に次のように言ったそうです。「たとえ何が起きても普通の生活を忘れないように」。

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レニングラード戦争博物館に展示されている少女の写真と、エリアスベルクが受け取ったカード(写真の右上)。カードの左下に 42年8月9日の文字が見える。


市民の証言


実際に演奏を聴いたタマラ・コーロレケーヴィチさん(98歳)は、番組のインタビューに次のように答えています。


【タマラ・コーロレケーヴィチ】(初演時の聴衆)

演奏された第7番は、レニングラード出身のショスタコーヴィチが私たちの街のために書いてくれた曲でした。その音楽は、包囲の恐怖で傷ついた心を癒してくれる薬のように感じました。まるで平和な日常に戻ったようでした。コンサートが終わっても、戦争中なのを忘れてしまったほどです。あの夜から私たちは強い心を持てるようになった気がします。他人にパンを分け与えるような強い心を ・・・・・・。

「同上」

レニングラード戦争博物館のオリガ・プロートゥ館長は、生前の楽団員から聴いた話を人々に伝えています。彼女は次のように語ります。


【オリガ・プロートゥ】(レニングラード戦争博物館・館長)

ある楽団員が教えてくれたのですが、活動を再開したときは皆シラミだらけ。鏡なんか見ないので顔も真っ黒。つまり、人は簡単に堕落してしまうんだって ・・・・・・。身体を洗うことだってかなりの労力が必要ですし、ましてや花を摘みにいってわざわざ花束にするなんて、そんなこと考えられないほど悲惨な状況だったんです。

しかしその楽団員は言っていました。音楽が自分たちを正気に戻してくれたんだと。演奏することは彼ら自身にとっても救いだったんです。

「同上」


レニングラード解放


交響曲第7番のレニングラード初演から1年半後の1944年1月、ソ連軍はドイツ軍に攻勢をかけ、レニングラードを完全に解放しました。この間、320万人のレニングラードの人口のうち67万人が死ぬという膨大な被害が出ましたが、残った市民は900日の包囲戦を生き抜いたのです。



演奏会から20年の時を経て、レニングラード・ラジオ・シンフォニーの面々が再び集まった写真があります。そこにはショスタコーヴィチの姿もありました。

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ショスタコーヴィチの向かって左横がエリアスベルク。


ショスタコーヴィチ:交響曲第7番の意味


以下は番組を見た感想です。この番組は音楽についてのいろんな思いを想起させるものでした。それを何点かに分けて書きます。

 レニングラード市民に音楽を届ける 

ショスタコーヴィチが交響曲第7番を書いた第1義の目的は「レニングラード市民に、市民の為に新たに書いた音楽を届ける」ことでした。それは彼がラジオのメッセージで言っていた通りであり、その目的はエリアスベルクの演奏会とその市内実況中継で十分に達成されたようです。

番組のなかで、この演奏会を直接・間接に聴いた人たちの発言にあったように、演奏会の "効果" は一言で言うと「普通の生活」ということでしょう。ドイツ軍に完全包囲されて餓死者が続出する中での「普通の生活」は、まずできません。しかし演奏会は人々に "普通" を思い起こさせた。時には演奏会に行き、場合によっては自宅の花壇から花束を造って演奏者に届ける。それが普通です。また、飢えている人を見かけたらパンをあげる、それが普通ですが、全員が飢えている中で自分よりも "ひもじい" と見える人にパンをあげるのは容易ではない。よほど強い心がないとそれはできない。しかし、その強い心は平時では普通なのです。

その「普通の心」を音楽が呼び覚ました。音楽が人々の心に与える影響は時としてものすごく強いのです。しかもその音楽は、レニングラード市始まって以来の音楽の天才がレニングラード市民の為に書いたものだった。このことは聴衆に強烈なインパクトを与えたに違いありません。

 ファシズムとの戦い 

交響曲第7番が「過酷な状況にあるレニングラード市民への贈り物」だったことは間違いないのですが、さらにこの曲は「ファシズムと戦って勝利するレニングラード」という意図で書かれたとされています。第7番が完成したときの政府の宣伝映画でショスタコーヴィチは「ファシズムと戦い、その勝利を信じて、この作品を捧げる」と言いました。もちろんそう言うしかない状況ですが、本当はどうなのか。「ファシズムと戦って勝利する」意図だと思って聴けば、それらしく聞こえることは確かですが、ショスタコーヴィチの意図は何でしょうか。

NHK交響楽団の首席指揮者で、世界的指揮者のパーヴォ・ヤルヴィは番組で次のように語っていました。


【パーヴォ・ヤルヴィ】

あらゆる面でスケールが大きく、他の作品とは全く別の存在です。一聴して受ける印象は、ある種の「重さ」です。それが徐々に勢いを増していき、耐え難いほどの音の大きさまで膨らんでいったあげく、自分の頭の上に、まるで戦車のような重たい何かが乗っかってくるように感じます。

この交響曲は、私たちの社会に「巨大な悪」が存在するという現実、そしてその悪が、人々の人間性を破壊しようとしていく様を描いているんです。

「同上」

その「巨大な悪」に人々が勝利するイメージに向かって曲は進んで行くとヤルヴィは言います。


【パーヴォ・ヤルヴィ】

表面的にはショスタコーヴィチ特有の洗練さとはかけ離れた音楽に聞こえますが、作品を深く見つめていけばいくほど、まるで魔法のようにとりこになってしまう曲です。第7番は謎に満ちていますね

「同上」

要約すると、

巨大な悪」が人々の人間性を破壊しようとしていく様と、その「巨大な悪」に向かって人々が勝利するイメージを描いた

ということでしょう。ヤルヴィは「ファシズム」とは言わずに「巨大な悪」と言っています。ヤルヴィは旧ソ連のエストニア出身です。彼の言う「巨大な悪」にはスターリン体制を含んでいるのは間違いありません。。

このことに関連して、番組では次のような話が紹介されました。第7番が完成したとき、クイビシェフでショスタコーヴィチと同じマンションに住んでいた知人の女性、フローラ・リトヴィノヴァは回想録を書いたのですが、そこには第7番の完成を祝う席で、宴が終わったあとのショスタコーヴィチとフローラの会話が記されています。


会話は自然と7番の話になりました。ショスタコーヴィチは考え込むように静かに言いました。「この音楽は、恐怖、奴隷制度、魂の束縛、それらすべてについての曲なんだ。」

やがて私を信用してくれたのか、こんな風にも言いました。「第7番はファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、すべてを描いている

フローラ・リトヴィノヴァ
「ショスタコーヴィチ:ア・ライフ・リメンバード」
(番組より)

こういう回想録には注意が必要です。どうしても著者の主観が入り込むし、記憶違いがあるかもしれない。ショスタコーヴィチの言葉そのものではなく、著者が(善意で)解釈した結果かもしれない。もし「第7番はファシズムやソ連を含むすべての全体主義を描いた」のなら「ファシズムとの戦うための第7番」であると同時に「スターリン体制(ないしは共産主義体制)と戦うための第7番」にもなってしまいます。こんなことが外に漏れたらソ連政府の面目は丸潰れであり、ショスタコーヴィチの命は危うくなるでしょう。いくらショスタコーヴィチがフローラを信用したとしても、こんなことを他人に言うものでしょうか。

詮索しても無駄なので、とりあえず第7番は「全体主義(狭義にはファシズム、広くはスターリン体制を含む)に立ち向かう姿を描いた」ものとしましょう。しかし、作曲者の意図がどうであれ、一つの音楽をこのように受け取ることは非常に "あやうい" と思います。

事実、第7番は番組で詳述していたように、スターリンとルーズベルトによって(=ソ連政府と米国政府によって)政治的に利用され、その経緯が番組の大きな軸でした。ここで、ナチス・ドイツという「巨大な悪」との戦いに勝利するためだからいいのでは、と思うのは甘いのです。番組の中でパーヴォ・ヤルヴィは次のような的確なコメントを述べていました


【パーヴォ・ヤルヴィ】

音楽と芸術を自身の目的のために利用する方法を知っていたのが、20世紀最大の大量殺戮を行った巨大な悪、スターリンとヒトラーでした。実際、彼らは2人とも音楽をよく知っていました。賢い政治家は芸術を政治に利用することに長けています。どんな時代にあっても。

「同上」

その、もう一人の "賢い政治家" だったヒトラーは誰の音楽をどういう風に利用したのか。それは、よく知られているようにワーグナーの音楽です。

ヒトラーがワーグナー好きということもあって、ナチスはワーグナーの音楽を政治集会や宣伝映画で徹底的に使いました。それはドイツ民族(ナチスの言うゲルマン民族)の優秀性とも関連づけられ、ユダヤ人排斥にも利用された。『ローエングリン』の第3幕にドイツ国王、ハインリヒの言葉として次があります。


ドイツの剣をとってドイツの国土を守れ!
帝国の力はこうして保たれよ!

リヒャルト・ワグナー
『ローエングリン』第3幕
(高辻友義訳。新書館 1985)

『ローエングリン』はドイツの西のはずれ、ブラバント公爵領の話であり、ハンガリー軍を迎え撃つ軍団の組織化を訴えるために国王が公爵領に来るのが背景となっているオペラです。従って上に引用したような発言になるのですが、ナチスはそいういうところも巧みに利用しました。

確かにワーグナーは "ユダヤ人嫌い" だったようですが、反ユダヤの考えはキリスト教が西洋に定着した頃から根強くありました。ナチスによる "ユダヤ人狩り" も、ドイツおよびドイツ占領下の国々(オーストリア、フランス、オランダなど)の一般市民の自発的な協力のもとに行われました。ヨーロッパ人としてワーグナーが特別だったわけではありません。しかもワーグナーの作品の中に反ユダヤのメッセージがあるわけではないのです。

しかし、ナチスの政治利用によってワーグナーの音楽はイスラエルでは長年にわたってタブーとなりました。ワーグナーの音楽を「ドイツ民族の優秀性を示す音楽だから、そう聞きなさい」と命令されて聴けば、そう思えるわけです。音楽は人間の感情に直接的に働きかけるので、そうなってしまう。音楽の怖いところです。

結局のところ、スターリンとルーズベルトにとっての第7番と、ヒトラーにとってのワーグナーは、同じことの表と裏です。

番組で紹介されたように、第7番は第二次世界大戦中に、ヨーロッパ戦線に出征するアメリカ兵の慰問コンサートでも演奏されました。しかし戦後、冷戦の時代になると、第7番は「ソ連のプロパガンダである愚作」という評価にもなった。同じ曲が「ファシズムと戦う曲」から「プロパガンダの愚作」になってしまう。これが、音楽を政治利用すること、もっと広く一般化すると「音楽の力」を信じることの "あやうさ" だと思います。

 ショスタコーヴィチとしては異質 

もう一度、第7番を別の視点から振り返ってみます。確実に言えることは、これは異常な状況下で作られた音楽だと言うことです。自分のふるさとであり現に居住している街が敵の軍隊に完全包囲され、明日どうなるかもわからないとう状況は、人間が一生に一度あるかないか、ほとんどの人はそういう経験をしない状況です。その異常な状況下で "やむにやまれず(ないしは、いてもたってもいられず)作った音楽"、レニングラード市民に届けるという明確な目的のもとに作った音楽が第7番だった。

このことが第7番を、ショスタコーヴィチにしては異質な音楽にしていると思います。番組では、第7番の演奏はヤルヴィ指揮のNHK交響楽団で、ほんの "さわり" しかありませんでしたが、私自身はこの音楽を高校生の時から聞いています。第7番の音楽の特色を一言で言うと、

誰にでも分かりやすい音楽手法で書かれている

ということです。まず、明確で親しみやすく、耳に残りやすい主題がいろいろあります。第1楽章の冒頭の主題(レニングラードを表すものでしょう)や、第1楽章の途中から執拗に繰り返され、次第に轟音となっていく行進曲風の主題(敵の軍隊を表すものでしょう)がその典型です。他にもいろいろある。

和声は19世紀末音楽という感じであり、20世紀音楽という感じはしません。ショスタコーヴィチ特有の斬新さや革新性はあまりない。上に引用したように、パーヴォ・ヤルヴィは「ショスタコーヴィチ特有の洗練さとはかけ離れた音楽」と言っていますが、その通りです。

その理由は、この音楽が「レニングラード市民に届ける」という目的だからと推察します。レニングラード市民といってもいろいろのはずです。音楽の好みから言っても、ショスタコーヴィチが好きな人もいればべートーベンが好きな人もいるだろうし、そういったたぐいの音楽は聞かず、いわゆるポピュラー・ミュージックしか聞かない人もいるはずです。「市民に届ける」ためにはできるだけ分かりやすい音楽にする必要がある、そういうことだと思います。

加えてこの曲は、ショスタコーヴィチにしては "冗長" という感じがします。第1楽章と第4楽章だけを聞いていると、レニングラードの街とそこに迫り来る敵軍隊、市民の苦しみ・悲しみ・祈りと、それを突き抜けて勝利へという感じがしなくもないが、では第2楽章・第3楽章はどうなのか。演奏には1時間10分程度もかかりますが、果たしてそこまで必要なのか。

"冗長" が悪いと言っているのではありません。このブログで書いた例で言うと、村上春樹さんは、シューベルトのピアノソナタの中では「第17番二長調」が最も好きだと語っていました(No.236「村上春樹のシューベルト論」)。この曲はシューマンが「天国的に冗長」と評した曲です。また交響曲で言うと、マーラーには "冗長な" 交響曲がいろいろあります。しかし私が最も好きなマーラーの交響曲は、一般には冗長と言われている曲です。

しかし、普通のショスタコーヴィチの音楽は、もっときびきびしていて、筋肉質で、構造的にもコンパクトなものです。それと比べると冗長である、そういうことです。

全体をまとめると、第7番はショスタコーヴィチにしては異質な音楽です。作曲家の持っている個性が希薄です。もっと言うと第7番は、あえて作曲家本来の芸術性を殺して作った音楽でしょう。

第7番はショスタコーヴィチが(レニングラードが置かれた状況下で)是非ともやりたかった音楽だったけれど、ショスタコーヴィチがやりたかった芸術ではないと思います。だからこそスターリンが気に入ったし、プラウダは絶賛したし、ヨーロッパに出征するアメリカ兵まで熱狂した。


"音楽の力" という落とし穴


以下の「音楽」とは、言葉がない器楽だけの曲で、別の芸術の付随曲(映画、バレエ、劇などのための音楽)でないものとします。

本来、音楽をどう受け取るか、聴いて何を思うかは聴く人に任されているはずです。もちろん音楽を聴いて多くの人が同様の感情を持つことがあります。つまり、

癒される、悲しみ、楽しい、うきうき、快活、悲哀、静かだ、激しい、高揚感、美しい、洗練された

などの感情、ないしは音楽を聴いて受ける感じです。作曲家はそういう感情を喚起する意図で曲を作る場合も多いでしょう。しかし、こういった感情を超えたレベルの "物語" をどう描くかは、音楽を聴いた人それぞれの個別の問題のはずです。第7番を、

押し寄せるファシズム・全体主義の圧力に屈することなく、勝利へと向かう音楽

と考えるのは、まずいわけではありませんが、それはあくまで一つの物語です。これをもっと一般化して、

・ 継続的で次第に高まっていく圧力があり
・ そのもとで味わう不安や悲しみ、苦しみがあり
・ それを突破して解決に至る、ないしは解決への希望を得る

という風にとらえると、それは「病気を克服する物語」でもいいし「困難な仕事に立ち向かう物語」でもよいはずです。しかしそれもまた一つの物語に過ぎません。



私はショスタコーヴィチの第7番を高校生の頃から聴いていますが、その頃からどうしてもドイツ軍(またはファシズム)と戦う曲だとは思えなかった。それは今でも続いています。

上に引用した指揮者のヤルヴィの言葉に「巨大な悪」を描いたとありましたが、同時に「第7番は謎」ともありました。なぜ「謎」なのかを推察すると「ファシズムと戦う曲」という先入感があるから謎めいて感じるのだと思います。ヤルヴィは旧ソ連のエストニア出身なので、どうしてもバイアスがかかってしまうのでしょう。

思うのですが、第7番はショスタコーヴィチが、自分のふるさとであり愛する街であるレニングラードの全体像を描いたのではないでしょうか。もちろんその全体像の中では「ドイツ軍に完全包囲されたレニングラードと、敵との戦い」が大きな比重を占めています。しかしそれだけではない。レニングラードの町並みや自然、人々の普通の生活、そこでの市民同士の交歓など、ショスタコーヴィチが愛している多くのものが表現されていると感じます。



番組では「音楽の力」が何回か使われていました。「音楽の力で ・・・・・・ する」という表現です。しかし「音楽の力」によって一定の物語を作り出せると信じることはすべきでないと思います。第7番についての、

◆ すべての全体主義を告発する傑作
◆ ソ連のプロパガンダであり、壮大な愚作

という2つの極端に違う評価は、「音楽の力」を信じることによる必然の帰結です。

ちょっと唐突ですが、ミュージシャンの坂本龍一さんは、東日本大震災の被災3県の子供たちで作る「東北ユースオーケストラ」を組織し(2014年)、その音楽監督を努めています。先日の新聞に、新聞記者が坂本さんにインタビューした記事があり、そこに「音楽の力」が出てきました。引用してみます。


復興を祈る公演などを通じて、「音楽の力」で社会に影響を与えてきたのでは、と質問しようと話を向けると、強い拒否反応が返ってきた。「音楽の力」は「僕、一番嫌いな言葉なんですよ」と言う。

「もちろん、僕も、ニューヨークが同時多発テロで緊張状態にあった時、音楽に癒されたことはあります。だけど『この音楽には、絶対的に癒しの力がある』みたいな物理的なものではない。音楽を使ってとか、音楽にメッセージを込めてとか、音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです」



日本社会ではとりわけ近年、メディアなどが「音楽の力」という言葉を万能薬のように使う傾向がある。「災害後にそういう言葉、よく聞かれますよね。テレビで目にすると大変不愉快。音楽に限らずスポーツもそう。プレーする側、例えば、子どもたちが『勇気を与えたい』とか言うじゃない? そんな恥ずべきことを、少年たちが言っている。大人が言うからまねをしているわけで。僕は悲しい」

音楽の感動というのは「基本的に個人個人の誤解」だとも語る。「感動するかしないかは、勝手なこと。あるときにある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲を別の時に聞いて気持ちが動かないことはある。音楽に何か力があるのではない。音楽を作る側がそういう力を及ぼしてやろうと思って作るのは、言語道断でおこがましい」

坂本龍一氏へのインタビュー
朝日新聞(河村能宏記者)
(2020.2.2)

坂本さんは「音楽は好きだからやる、それを聞いてくれる人や一緒にやってくれる人がいると楽しい、それに尽きる」という意味の発言もしていました。

坂本さんのこの考えは、極めてまっとうだと思います。ショスタコーヴィチの交響曲第7番を描いたNHK BSの番組は、よい意味でも(=レニングラード市民を鼓舞する)、また悪い意味でも(=ソ連とアメリカによる政治利用)「音楽の力」をテーマにしようとしたのでしょうが、そもそもそういうレベルの議論がおかしい。番組の中で交響曲第7番のレニングラード初演を実際に聞いた人が「普通の生活、普通の心を取り戻せた」という主旨の発言をしていましたが、まさにそれこそ交響曲第7番の演奏会の効果だったし、音楽が果たす役割だったと思いました。


『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『交響曲第5番』


ところで話は変わるのですが、「芸術と社会の関係」について第7番と同じように(いや、それ以上に)気になったショスタコーヴィチの作品があります。番組に出てきたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『交響曲第5番』です。

番組の最初の方のショスタコーヴィチの経歴の紹介の中で「スターリンはマクベス夫人を気に入らす、すぐさまプラウダ紙は批判を展開した。ショスタコーヴィチはそれに答える形で交響曲第5番を書いた」とありました。そのことですが、長くなるので次回に書きます。



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No.280 - 円山応挙:国宝・雪松図屏風 [アート]

No.275「円山応挙:保津川図屏風」の続きで、応挙の唯一の国宝である『雪松図屏風』(三井記念美術館・所蔵)について書きます。私は今までこの作品を見たことがありませんでした。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』(2016年11月3日~12月18日。No.199「円山応挙の朝顔」参照)でも前期に展示されましたが、私が行ったのは後期だったので見逃してしまいました。

国宝雪松図と明治天皇への献茶.jpg
『雪松図屏風』は、三井記念美術館の年末年始の展覧会で公開されるのが恒例です。今度こそはと思って、2020年の1月に日本橋へ行ってきました。「国宝 雪松図と明治天皇への献茶」(2019.12.14 - 2020.1.30。三井記念美術館)という展覧会です。雪松図と茶道具がセットになった展覧会ですが、その理由は、明治20年(1887年)に三井家が京都御所で明治天皇に献茶を行ったときに『雪松図屏風』が使われたからです。

この屏風は今までTVやデジタル画像で何回も見ましたが、そういったデジタル画像ではわからない点、実際に見て初めてわかる点があることがよく理解できました。ないしは、実際に見ると "なるほど" と強く感じる点です。それを4つの切り口から以下に書きます。

雪松図屏風.jpg
円山応挙(1733-1796)
「雪松図屏風」

雪松図屏風(右隻).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」右隻

雪松図屏風(左隻).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」左隻


松の葉が描き分けられている


『雪松図屏風』は右隻に1本、左隻に2本の、合計3本の松が描かれています。詳細に見ると、これらの松の "葉" の描き方が右隻と左隻で違います。右隻の松葉は墨の黒が濃く、長さは長い。一方、左隻の松葉は右隻と比較すると墨が薄く、長さは短く描かれています。

各種の解説にありますが、この松はクロマツ(黒松。=雄松。右隻)とアカマツ(赤松。=雌松。左隻)です。このような一対の雄松・雌松は長寿の象徴で、縁起がよいとされています。正月の門松がまさにそうで、左(向かって右)にクロマツ、右(向かって左)にアカマツを配するのが正式です。

戸外で見るクロマツ・アカマツは、幹の木肌を見るとその区別が一目瞭然です。クロマツは黒灰色、アカマツは赤褐色の木肌をしています。しかし墨で描かれたこの応挙の屏風では、色の違いが分かりません。あとは葉の違いですが、我々は普通、2種類の松の葉を見比べることなどないので、『雪松図屏風』がクロマツ・アカマツだとは、ざっと眺めているだけでは気づかないのです。

そのクロマツ・アカマツの違いですが、植物図鑑によるとアカマツの方が葉が短いとあります。そして『雪松図屏風』を子細に見ると、違いが描き分けられています。そこは納得できました。

しかし『雪松図屏風』を実際に見た感じでは、松の葉の濃淡の方が印象的でした。ここから受ける感じは、右隻のクロマツは老木で、左隻のアカマツは若木だということです。若木の方が鮮やかな緑色にふさわしく、墨で描くとしたらより薄い色になるでしょう。

以上のような松の葉の描き方の微妙な違いは、実際の屏風を見てわかるのでした。


塗り残し


これは有名なことですが、『雪松図屏風』の雪は "塗り残し" で描かれています。つまり紙の表面をそのまま見せることで、六曲一双の雪の全部を表現している。ここまでくると超絶技巧と言っていと思いますが、これは単に技巧を誇示したものではないと感じます。この雪の描き方(=描かない "描き方")から受ける印象は、水分が少ない、降ったばかりの雪で、ふわっとした柔らかい感じの雪、という感じです。

No.199「円山応挙の朝顔」に、同じように塗り残しで雪を表現した『雪中水禽図』を引用しました。柔らかい綿のような感じの雪です。同じ No.199 には雪ではありませんが、白い狐(=神獣)を描いた『白狐図』も引用しました。薄暗がりの中にボーッと浮かび上がるような、独特の感じを出しています。狐の白い毛に『雪中水禽図』の雪と似たものを感じました。

『雪松図屏風』の「柔らかい、綿のような雪」の感じは、塗り残しでしか表現できないのではないでしょうか。というのが言い過ぎなら、塗り残しで最もうまく表現できる雪です。応挙はそれを狙った。そう思いました。

ちなみに『雪松図屏風』に使われている紙は、紙継ぎのない超特大の1枚紙だそうです。この屏風のために(おそらく三井家が)特注したものでしょう。雪松図は "塗り残し" が六曲一双のほとんどに渡って使われています。従って1枚紙でないと、紙の表面がそのまま見えている雪のどこかに継ぎ目があからさまになってしまう。それを避けたのだと思いました。

雪松図屏風(右隻・第5扇).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」
右隻・第5扇(部分)

雪松図屏風(左隻・第3扇).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」
左隻・第3扇(部分)


3次元表現


『雪松図屏風』は松の幹や枝と3本の木の配置で、応挙の3次元的な写実表現を味わうことができます。

まず、松の幹と枝が丸みを帯びて見えます。雪で覆われていない木肌の部分は墨で描かれていますが、その墨の黒がまるで影のように見える。影を描いた日本画は江戸後期の絵にありますが、普通は影を描くことはありません。応挙もその伝統に従ってはいますが、影のように見えることを意図して描いたと感じました。これによって松の幹や太い枝のボリューム感が表現されています。狩野派の松とは全く違う写実性があります。

また3本の松の配置は、左隻の2本の松が右隻の松より遠くにある感じがします。特に左隻の左側の松は明らかに奥にある。全体の3本の松は右から左へ行くに従って、だんだんと "小ぶりに" なっています。遠くのものは小さく見えるという原理によって、空間的な奥行きを感じるのだと思います。

さらに、描かれた松の枝は横に延びたり、前にせり出したり、後ろに後退したりと、いろいろだと感じます。特に実際に立てて展示されている屏風を見ると、屏風の折り目の前に出た部分に描かれている松の枝が、後ろから前に延びてきているように見えます(下図)。あくまで相対的な前後関係ですが、こういう効果も狙って構図が決められているのだと思いました。

雪松図屏風(3次元).jpg
屏風は立てて置かれるので、折り目のところで前に出た部分と、奥に後退した部分ができる。この図の丸で囲んだところの枝は、前に出ているように感じられる。


金泥と金砂子の効果


この屏風には全体的に金泥が塗られ、六曲一双の中央に近い部分には薄い金泥が塗られています。この薄い部分が日の光のようです。明け方に朝日が差し込んだか、ないしは霧が立ちこめる中、その霧が晴れてきて陽光が差し込む。そんな感じです。

そして全体の下の部分、地面に積もった雪を表す薄い金泥には、その上に金砂子(金箔を粉状にしたもの)が散らされています。陽光が差し込んで地上の雪がきらめく感じがよく出ています。

この金砂子の効果は解説書によく書かれていますが、実際に屏風を見て、なるほどと実感できました。

雪松図屏風(右隻・第3・4扇)部分.jpg
「雪松図屏風」右隻の第3・第4扇の部分図。下の方に砂子が散らしてある。金箔と同様、この視覚効果は実際に見て初めてわかる。




全体のまとめですが、『雪松図屏風』の前に立つと "その場にいるよう臨場感" を感じます。その臨場感の中で、"厳粛な雰囲気" と "すがすがしく、晴れやかな感じ" を受けます。それはまさに、我々が実際に「雪が降ったあとの庭に陽光が差し込む光景」を見たときの感覚を思い起こさせるものでした。




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