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No.249 - 同位体比分析の威力 [技術]

No.239「ヨークの首なしグラディエーター」で書いた話の続きです。No.239 では、イギリスのヨークで発掘された古代ローマ時代の剣闘士の遺体について、

  歯のエナメル質を分析することで、剣闘士の出身地や食物が推定できる

ことを書きました。ある遺体の出身地はヨークから5000キロも離れた中近東地域らしいと ・・・・・・。この分析には "安定同位体分析" という技術が使われました(No.239の「補記」参照)。最近、これと類似の話が新聞に載っていました。まずその記事を引用したいと思いますが、分析の対象は剣闘士の歯ではなく "ヤギの毛" です。


カシミヤの産地 レーザーで推定

NTTは高級毛素材であるカシミヤの産地を通信用レーザーで培った技術を使って推定する実証実験を12月に始めると発表した。すでに野菜の産地評価として実用化している技術を毛素材にも応用した。2019年夏以降のサービス化を目指す。

毛素材を品質試験するケケン試験認証センター(東京・文京)と共同で取り組む。NTT研究所が開発したレーザー光線を、気体に含まれる水蒸気や二酸化炭素などの分子を測定できる技術「レーザーガスセンシング」に応用。従来は光学顕微鏡で毛の太さなどを目視してカシミヤの産地を推定していた。レーザーガスセンシングを用いることで、簡単な作業で産地を推定できるようになるという。

レーザーガスセンシングは気体に含まれる分子に特定の波長のレーザ光を照射し、分子が光のエネルギーを吸収してレーザー光の強度が落ちる性質を利用する。

分子を構成する元素には質量数の異なる同位体が存在する。水分子を構成する水素原子の質量数は通常は1だが、自然界には一定の割合で質量数2の重水素がある。通常の水分子よりも雨として地表に落ちやすい。

緯度が低い地域から高い地域に向かって雨雲が動くため、緯度の低い地方ほど、重水素を含む水の比率は高く、緯度が高いほど低くなる。今回、カシミヤ毛をレーザーガスセンシングで分析することで得られた水や炭素の同位体の含有量と、カシミヤ毛の原料となるカシミヤヤギが育った地域との関係性が見いだせたと言う。カシミヤヤギが食べる食物や飲む水に含まれる同位体の含有量が、カシミヤ毛にも引き継がれていた。

NTTとケケン試験認証センターは今後さらにデータを蓄積し、原産地から加工に至る流通経路でも産地推定が可能か検証を進めサービス化を目指す。

日経産業新聞(2018.11.21)

Cashmere Goat.jpg
カシミヤヤギ
(livestockpedia.com)

NTTグループは情報通信のインフラ企業集団であり、NTTはそのトップに位置する持ち株会社です。そして日本でも有数の研究所をもっています。そのNTT研究所が高級毛素材であるカシミアの原産地推定をするのは少々奇妙に聞こえますが、"レーザー技術" という1点で関わりがあるということでしょう。レーザーは、NTTグループの命とも言える光通信を実現するための重要技術です。この新聞記事に書かれていることをまとめると、

  カシミヤヤギの毛の同位体分析で、ヤギが生息していた地域が推定できる

となりますが、これと No.239

  剣闘士の歯の同位体分析で、剣闘士が生まれ育った地域が推定できる

という話を比べると、分析対象となったカシミヤヤギと古代ローマ時代の剣闘士には2000年の年月の隔たりがあるものの、やっていることは同じと言えるでしょう。

そこで、今回はこの記事を機会に "安定同位体分析" について再度、調べてみたいと思います。No.239 の「補記」の詳細化です。


安定同位体


自然界に存在する原子には、同じ原子でも「質量数」が違うものが存在し、これらを「同位体」と呼びます(=アイソトープ)。質量数とは「陽子の数」と「中性子の数」の合計ですが、原子の種類は陽子の数(=原子番号)で決まるので、同位体は中性子の数が違うということになります(このあたりは高校化学の基礎)。

同位体には「放射性同位体」と「安定同位体」があります。たとえば原子番号6、質量数14の炭素14(146C)は放射性同位体で、放射線の1種である "ベータ線" を放出して窒素14(147N)に変化します(=ベータ崩壊)。

この炭素14のベータ崩壊の半減期(半数の原子が変化するまでの時間)は5730年です。地球上では宇宙線の影響で常に新しい炭素14が供給されているので、生物の炭素14の存在比率は炭素1兆個につき1個程度と、ほぼ一定です。しかし生物が死ぬと炭素14の取り込みが止まり、体内の炭素14はベータ崩壊で次第に減っていきます。このことを利用して動植物の遺骸の年代測定が行われることはよく知られています。

一方、「安定同位体」は他の原子に変化することはなく、自然界で安定して存在します。炭素で言うと、炭素12(12C)と炭素13(13C)が安定同位体で、地球上での存在比率は約 99:1 です。

安定同位体の化学的性質は同じですが、質量数が違うため重さが微妙に違います。このため安定同位体の存在比は、その存在箇所によって違ってくる。これが各種の分析を可能にする要因です。



安定同位体は質量が違うことを利用して、試料中の同位体の比率が計測できます。典型的な方法は、試料を燃焼ないしは熱分解してガスにし、イオン化して(=電荷を持たせて)磁場の中に通します。すると質量の違いによってイオンの軌跡の "曲がりかた" が違ってきて、同位体が分別できます。

記事にあるNTTの方法は、それとは違ってレーザ光を利用するものです。安定同位体は特定の波長の光を吸収しますが、質量数の違いによって吸収する波長が微妙に違います。また同位体の量によって光の吸収量が変わる。つまり波長が違うレーザ光を照射することにより、安定同位体の存在比が測定できます。NTTとしてはこの技術をアッピールしたいというのが、カシミヤヤギの新聞記事の背景にあるのでしょう。

レーザーガスセンシング装置.jpg
NTTのレーザーを使う同位体分析装置。机上に設置できる小型の装置である。YouTubeより。


炭素同位体:12C と 13C


炭素(原子番号6)の安定同位体、12C と 13C の地球上の平均の存在比は、98.9%:1.1%であり、それが二酸化炭素になった 12CO213CO2の存在比も同じです。二酸化炭素は植物の生育に必須の分子であり、これを利用して安定同位体分析を行います。

植物の特徴は光合成を行うことですが、光合成は「光化学反応(=明反応)」と「カルビン回路(=暗反応)」で行われます。まず光化学反応で水(H2O)と光から、酸素(O2)と化学エネルギー物質が作り出されます。次にカルビン回路で化学エネルギー物質と二酸化炭素(CO2)から炭素数3の化合物(グリセルアルデヒド3-リン酸)が合成されます。この化合物は葉緑体の中でデンプンに変換され蓄積されます。このタイプの光合成は「C3型光合成」と呼ばれていて、多くの植物がこのタイプです。C3の名前は、光合成の過程で作られる炭素化合物が炭素数3のものであることによります。C3型光合成を行う植物が「C3植物」です。

一方、これとは違う「C4型光合成」があります。これは光化学反応とカルビン回路に加えて "CO2取り込み・蓄積回路" を持つ光合成です。このタイプの光合成では、CO2が炭素数4の化合物(オキサロ酢酸)として取り込まれ、蓄積されます。この炭素数4の化合物からCO2が再生成されてカルビン回路に送り込まれ、最終的にデンプンとして蓄えられます。つまり植物内には "CO2 のストック" がたくさんあることになります。このタイプの植物を「C4植物」と呼んでいます。

一般に植物は、高温や乾燥の環境下では気孔を閉じがちにならざるを得ず、そのため CO2 を集めにくくなりますが、C4植物は CO2 の蓄積・濃縮が可能なため、光合成の効率が高い。C4植物は高温・乾燥・低 CO2 といった、植物としては過酷な環境に適応したものと考えられています。

人間と直接関係が深い代表的なC4植物は、イネ科のトウモロコシ、サトウキビ、アワ、ヒエ、キビ、モロコシなどです。ちなみに、同じイネ科のコメと小麦はC3植物です。一般に、同じ科でもC3植物とC4植物が混じっています。

なお、C3/C4以外に「CAM型光合成」を行う植物があります。CAMとはベンケイソウ型有機酸代謝(Crassulacean Acid Metabolism)の略で、砂漠などの水分が慢性的に少なく昼夜の温度差が大きい環境に適応しています。CO2の蓄積・濃縮をすることはC4植物と同じですが、CAM植物は夜に気孔をあけて CO2 を取り込み、昼間は完全に気孔を閉じて水分の損失を防ぎます。サボテン科やベンケイソウ科にCAM型植物があります。人間に関係の深いCAM型植物はパイナップル(パイナップル科)です。



安定同位体分析で普通使われるのは、C3植物とC4植物の炭素同位体の相違です。12CO213CO2 を比較すると、12CO2の方が軽いため、光合成の過程で植物が取り込みやすい。そのため、CO2 取り込み能力が高いC4植物の方がより多くの 13CO2 を取り込むことになり、13C の同位体比が高くなります。

このことを利用して、たとえば純粋なハチミツかどうかの判定が可能です。ハチミツの主成分はブドウ糖と果糖ですが、これは樹木や草の花の蔗糖(砂糖の主成分)を蜂がブドウ糖と果糖に分解したものです。蜂が蜜を集める花はC3植物なので、ハチミツのブドウ糖と果糖は「C3植物由来」ということになります。

一方、転化糖と呼ばれるものがあって、これはサトウキビから作られる蔗糖を人工的にブドウ糖と果糖に分解したものです。サトウキビはC4植物なので、転化糖のブドウ糖と果糖は「C4植物由来」です。つまりハチミツに転化糖を混ぜると 12C と 13C の同位体比が違ってくる。これを利用してハチミツに混ぜものが無いかどうかを鑑定できます。株式会社地球科学研究所のホームページによると「C4由来の糖類が7%以上混入すると検出可能」だそうです。高い精度で判定が可能なことがわかります。



昆虫や鳥、魚、草食動物は、摂取する植物によって体内の炭素同位体比が違ってきます。さらに肉食動物も、餌となる草食動物の炭素同位体比に影響されます。つまり、炭素同位体比は食性の判断の一助になります。ただし食性の推定については炭素同位体比に加えて、次の窒素同位体比も使われます。


窒素同位体:14N と 15N


窒素(原子番号7)の安定同位体は、窒素14(147N)と窒素15(157N)があり、その地球上での存在比は 99.636%:0.364% です。この存在比は大気中でも土壌中でも同じです。

窒素は植物や動物をはじめ生物にとっては必須の元素ですが、食物連鎖に従って生物中の窒素15(15N)が "濃縮される" ことが知られています。たとえば、土壌 → 植物 → 草食動物 → 肉食動物という食物連鎖の過程において 15N の割合が高まっていく。つまり、窒素同位体の存在比を調べることにより、前項の炭素同位体の存在比とを合わせて生物の食性が推定できることになります。

さらに窒素同位体を使って有機栽培かどうかの判断もできます。つまり化学肥料に含まれる窒素原子(N)の "原料" は大気中の窒素分子なので、その窒素同位体の組成は土壌と同じです。しかし有機栽培で使われる肥料は 15N が多い枯れた植物や動物の糞から作られるので、有機栽培の畑の 15N は化学肥料を使った土壌よりも多くなります。このため、有機栽培の野菜や穀物も 15N の割合が高くなり、判定ができます。


水素同位体:1H と 2H
酸素同位体:16O と 18O



水素(原子番号1)と酸素(原子番号8)の安定同位体は、地球上の水(H2O)の同位体分析で使われます。水素の安定同位体は1H と 2H(= 重水素。Dとも表記される)であり重水素の存在比は0.015%程度です。また、酸素の安定同位体は 166O と 18 6O で、18O の存在比は0.2%程度です。17O も安定同位体ですが、存在比が少なく同位体分析に使われないので割愛します。

自然界に存在する水のほとんどは 1H216O で、これを便宜上 "軽い水" と呼びます。しかし自然界には 2H1H16O や 1H218O も存在し、これらを "重い水" と呼びます。軽い水と重い水の化学的性質は同じですが、重さが違うので物理的性質が違ってきます。つまり、軽い水ほど早く気化し、重い水ほど早く凝固します。

地球が太陽から受ける熱は赤道付近が最大で、北極・南極付近が最小です。一方、宇宙空間に逃げる熱は赤道付近も北極・南極付近もあまり変わりません。このままでは赤道付近がどんどん熱くなるように思えますが、そうはなりません。それは赤道付近から高緯度に熱を輸送する地球規模の大気の循環があるからです。赤道付近で水が蒸発すると気化熱を奪いますが、その蒸発する水は軽い水が多くなります。その水蒸気が雲となって大気の循環で高緯度に移動し、液化して雨を降らせる。その時に凝固熱が放出されます。この大気の循環で熱が輸送されますが、結果として赤道付近には重い水が多く残ることになります。つまり、地球規模で言うと緯度が高いほど軽い水が増えることになります。

同様のことが、海からの水蒸気が雲となって陸地に移動し、平地や山に雨を降らせるときにも起こります(下図)。つまり雨が降るときには、より重い水から早く液化します。従って内陸に行くほど(海岸から離れるほど)軽い水が増えることになり、また高度が上がるほど軽い水が増えることになります。

降水の安定同位体比.jpg
降水による安定同位体比の変化

海からの水蒸気が陸地で降水をもたらすとき、まず重い水から液化する。また雲が山にぶつかって高度が上がるにつれて軽い水が降る。このため海岸から離れるほど、また高度が上がるほど軽い水が増え、重い水が減る。
(日本醸造協会誌 第110巻 第2号 2015 より)

次の図は日本列島の河川水、地下水(浅層)の酸素安定同位体(18O)の比率を調べた図です。数字は「軽い水に対する重い水の比率が世界標準からどれだけズレているか」を示した数値です。単位はパーミル(千分率)で、たとえば -10 は、-10/1000 = - 1% を示します。つまり「-10」の意味は、

標準比率からのズレ =
 マイナス(標準比率 × 0.01)

ということです。これを見ると日本列島も緯度が高くなるほど重い水が減り、また内陸に行くほど重い水が減ることが分かります。

河川水・地下水の酸素同位体比.jpg
全国の河川水・浅部地下水の酸素同位体比

酸素18の比率を示した図である。緯度が高くなるにつれて酸素18の比率が低下する(マイナスが大きくなる)。また内陸に行くにつれても低下し、軽い水が多くなる。
(日本醸造協会誌 第110巻 第2号 2015 より)

上に引用した2つの図は日本醸造協会誌に掲載された論文からのものですが、なぜ醸造協会誌にこのような論文が載るかというと、安定同位体分析で日本酒の産地が推定できるからです。

日本酒は水が命と言われますが、この水は普通、蔵元の地元の地下水です。分析によると「地元の河川水・地下水の酸素安定同位体比と、醸造された日本酒の酸素安定同位体比」の間には、かなりクリアな相関関係がみられるとのことです。もちろん同じ酸素安定同位体比をもつ地域は複数あるので産地の完全な特定はできませんが、少なくともその産地で作られたもではないということは分析できるわけです。



このような河川の水や地下水は、その土地で育った植物や動物の水素・酸素安定同位体比に影響を与えます。つまりコメなどの産地判定にも活用できることになります。

ここまでくると、最初に引用したNTTのカシミヤの産地推定の記事につながります。カシミヤヤギの産地は中国の北西部の各地方、ネパール、モンゴル、イランなどに限られます。これらの地方は特有の水素・酸素安定同位体比があるはずで、それがカシミヤヤギの毛に影響します。また記事によるとNTTは炭素同位体も分析したようで、それはカシミヤヤギの食性に関係しています。窒素同位体の話が記事にありませんが、それはカシミヤヤギの産地推定には有効ではなかったということでしょう。

具体的にどうやって分析したかですが、NTTのホームページによると、まずカシミヤ毛の産地分析の専門家がいて、その人は顕微鏡でカシミヤ毛を見て産地を推定するそうです。それで推定したカシミヤ毛の産地ごとに安定同位体分析をすると、明白な差異が見られた。つまり安定同位体分析によって産地が推定できることが分かった ・・・・・・ というのがNTTの説明です。どこまでの詳細分析が可能なのか、たとえば中国の内モンゴル自治区のカシミヤとモンゴルのカシミヤの区別はつくのか、などは不明ですが、とにかく人の経験とノウハウではなく、サイエンスの力で産地推定ができるということは進歩でしょう。

なぜ、ここまでの分析するのでしょうか。我々が知っているのは、カシミヤは高級品であり、まがいものが多いということです(カシミヤに羊毛を混ぜるなど)。カシミヤと称して流通している量は生産量の4倍、という話もあるくらいです。これは常識的ですが、さらに記事から想像できるのは「カシミヤといっても産地によって品質に違いがある」ということです。従って原料の価格にも違いがあるのではと思います。また、たとえ品質・価格に差がなくても、原産地が証明できることは流通経路も明確になり、大きな意味での品質保証と安定供給に寄与するということでしょう。


ストロンチウムの安定同位体


今までの水素(H)、酸素(O)、炭素(C)、窒素(N)は生命体の維持に不可欠な元素であり、安定同位体分析では「4大元素」と呼ばれていますが、それ以外にも分析に使われる元素があります。その例がストロンチウム(Sr:原子番号38)です。

ストロンチウム(38Sr)は土壌中に含まれますが、安定同位体として 84Sr(平均存在比:0.56%) 86Sr(9.86%) 87Sr(7.0%) 88Sr(82.58%) の4種があります。この4種の比率は地球上における地質のできかたによって相違することが知られています。特に「87Sr/86Sr 比」は鉱物や岩石によって0.7~4.0までの値をとります。

土壌中のストロンチウム比はその土地の地質によって違い、これがその土地で育った生物のストロンチウム比に影響します。このことから、生物がどの地域で育ったかを推定できます。

以上のような地質の分析については、硫黄(16S)の同位体分析も活用されているようです。


同位体分析の威力


安定同位体の存在比は、地理的な存在場所や植物の種類によって違ってきます。そのため、食品や動植物の原産地の分析だけでなく、考古学や地球科学、環境科学でも安定同位体分析が使われています。特に4大元素(H, O, C, N)はどこにでも大量にあるだけに応用範囲が広い。

その応用の一つを No.221「なぜ痩せられないのか」に書いたのですが、水素と酸素の安定同位体分析を使って日常生活をしているヒトのエネルギー消費量の精密測定ができます。これは人工的に作った "2重標識水(2H218O)" を被験者に飲ませ、活動後の唾液(ないしは尿)の同位体分析をするものです。2Hは水分(呼吸中の水蒸気や尿、汗など)として体から排出されますが、18Oは水分として排出されると同時に、呼吸中の二酸化炭素(C18O2)としても排出されます。そのため 2H よりも 18O の方が "減りかた" が早い。この差の同位体分析で二酸化炭素の排出量が計算でき、そこから酸素消費量が求まる。それでエネルギー消費量が算出できるというわけです。非常に巧妙な方法です。

我々素人はふつう安定同位体分析に関係することはないのですが、この技術は今や世界で一般的に使われているようです。だからこそ、古代ローマの剣闘士の遺体の分析にも、カシミヤヤギの分析にも使われる。これはひとえに精密な測定が低コストで可能になったという、分析技術の発達によるのでしょう。

こういった分析技術に関連して思い出すことがあります。冒頭に引用した NTT の記事はレーザー光の吸収を利用した同位体分析でしたが、別の方法は同位体の質量の差を利用するものでした。これは「質量分析」の一つの技術ですが、質量分析でノーベル賞を受賞した日本人がいます。島津製作所の田中耕一氏です(2002年のノーベル化学賞を受賞)。田中氏はタンパク質の質量分析の第一人者です。これはタンパク質の同定や構造の解明に必須の技術で、医学や製薬、生命科学の発展の大きな支えになっています。

我々は田中氏がノーベル賞を受賞したとき、一企業のサラリーマン(博士でもない)であることに驚いたのですが、もっと注目すべきはノーベル賞委員会が、一見 "地味な" タンパク質の質量分析技術の開発者に賞を与えたことです。この技術が生命科学の発展に与えるインパクトの大きさからの判断でしょう。

超精密な分子・原子の測定技術が科学や学問の発展に大きく寄与する。それは同位体分析も同じだと思いました。



 補記 : 魚の回遊ルート分析 

日本経済新聞に、同位体比分析によってサケの回遊ルートを分析する話が載っていたので、その記事を引用します。サケは身近な魚ですが、海のどこを泳いで日本の河川に戻ってくるのかが今まで分かっていなかったそうです。


サケ、骨に「旅の記録」

3月、海洋研究開発機構などの研究チームは、サケの詳しい回遊ルートが初めて明らかになったと発表した(引用注:日本経済新聞が報じたのは2020年3月25日)。長旅の末にベーリング海の大陸棚にたどり着き、たっぷりとエサを食べて日本に戻ってくるという。

サケが日本近海からベーリング海へ渡ることは捕獲調査で知られていた。太平洋最北部にあるベーリング海の大陸棚まで到達しているのかは不明だった。なじみがある魚なのに、実は日本の川を下ったあとの行動はよくわかっていなかった。

日本のサケにとってはるか遠くの海が大切だとすれば「日本のサケ資源を保全するには、ベーリング海の大陸棚の環境を守ることも重要だ」と研究を率いた中央大学の松林順助教は話す。

サケの回遊ルートを探っていた研究チームが手掛かりをつかんだのは、海を泳ぐ姿の観察でも全地球測位システム(GPS)の活用でもなかった。意外にも、旅の記録を秘めていたのはサケ自身の背骨だった。

魚の骨の一部は年輪を刻むように成長する。骨を輪切りにすると、中心に近づくほど若いころに育った環境の影響が残っている。

研究チームは名探偵がわずかな痕跡から答えを探し出すように、サケの脊椎骨をつくるコラーゲンの中の元素を分析した。すると、稚魚や若魚、成魚の各時期に成長した部分で窒素分の比率が異なっていた。

元素は、同じ種類でも質量(重さ)がわずかに異なる「同位体」という兄弟分がいる。窒素分の同位体の比率は、海中のプランクトンの働きによって海域ごとに変わる。生物の活動が盛んな海は、排せつ物や死骸が海底にたまっていく。堆積物の窒素分のうち、軽い窒素は大気に出て行きやすく、重い窒素は海底に残る。浅い海では、海底の重い窒素がプランクトンに取り込まれやすい。

プランクトンを食べるサケの脊椎骨にも比率の違いが現れる。背骨の年代別の比率と海域の比率を照らし合わせると、過去にどこの海を泳いでいたのかを絞り込めた。そこで特定できたのが、日本からベーリング海の大陸棚に至る回遊ルートだ。

日本経済新聞
(2020.5.17 朝刊)

窒素は質量数14(14N)が大部分(99.6%)ですが、安定同位体として質量数15の窒素(15N)が存在します(0.4%)。この比率、15N / 14N が窒素の同位体比です。

海中のプランクトンの同位体比は、記事にあるように生物の活動が活発かどうか、海が浅いか深いかによって変わってきます。研究チームはまず、北太平洋の広範囲で動物性プランクトンを採取し、プランクトンのタンパク質の中のフェニルアラニン(アミノ酸の一種)の同位体比を測定し、北太平洋の「窒素同位体比地図」を作成しました。これとサケの脊椎骨のフェニルアラニンの分析を付き合わせて回遊ルートを調べたわけです。

北太平洋の窒素同位体比地図.jpg
北太平洋の窒素同位体比地図。ベーリング海の東部大陸棚で窒素15の比率が最も高くなる。海洋研究開発機構(JAMSTEC)のサイトより。

さらに記事にはサケ以外の魚の話もありました。脊椎動物の内耳には耳石じせきと呼ばれる炭酸カルシウムでできた組織があります。魚類の耳石は年輪のような同心円状になっていて、1日に1本が形成されます。

記事では、マイワシの耳石を分析することで、回遊ルートを分析する話がありました。耳石の酸素同位体を分析すると、泳いでいた海域の水温と塩分濃度がわかるそうです。「魚の生きた環境を1日単位で読みとることも可能だ」(京都大学 石村豊穂准教授)とありました。日本経済新聞の記事にあった図を以下に引用します。

同位体比分析による魚の回遊ルート.jpg
日本経済新聞(2020.5.17)より

さらに記事にウナギの話もありました。No.267「ウナギの商用・完全養殖」に書いたように、ニホンウナギの産卵場は赤道に近いマリアナ海溝の付近にあり、そこで生まれた稚魚が成長しながら日本の河川に遡上してくるまでのルートは解明されています。しかし日本の河川で育ったウナギの成魚がどういうルートで産卵場までいくのかは謎です。また、養殖場でシラスウナギから成魚にしたウナギを放流したとき、それがマリアナ海溝の産卵場までたどりついているのかも不明です。

記事では東京大学の白井厚太朗准教授の研究の成果として、ウナギの耳石の酸素同位体比と泳ぐ場所の水温の関係を見い出したとありました。

ウナギはサケやマイワシと同じく日本人にはなじみの魚ですが、資源量(シラスウナギの漁獲量)が減少し、完全養殖はコスト面で商用化がまだ困難な状況です(No.267)。ウナギの生育環境の水温データは完全養殖の技術開発にも役立ちそうです。

(2020.5.30)



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