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No.246 - 中世ヨーロッパの奴隷貿易 [歴史]

今回は、No.22-23「クラバートと奴隷」でとりあげた中世ヨーロッパの奴隷貿易の補足です。そもそも "奴隷" というテーマは、No.18「ブルーの世界」で青色染料である "藍(インディゴ)" が、18世紀のアメリカ東海岸の奴隷制プランテーションで生産されたことを書いたのが最初でした。

このブログは初回の No.1-2「千と千尋の神隠しとクラバート」以来、樹木の枝が伸びるように、連想・関連・追加・補足で次々と話を繋げているので、"奴隷" をテーマにした記事もかなりの数になりました。世界史の年代順に並べると以下の通りです。

紀元1~4世紀:ローマ帝国
 No.162 - 奴隷のしつけ方
 No.203 - ローマ人の "究極の娯楽"
 No.239 - ヨークの首なしグラディエーター
  No.162はローマ帝国の奴隷の実態を記述した本の紹介。No.203,239 はローマ帝国における剣闘士の話。

8世紀~14世紀:ヨーロッパ
 No.22 - クラバートと奴隷(1)スラヴ民族
 No.23 - クラバートと奴隷(2)ヴェネチア
  英語で奴隷を意味する "slave" が、民族名のスラヴと同じ語源であることと、その背景となった中世ヨーロッパの奴隷貿易。

16世紀~17世紀:日本
 No.33 - 日本史と奴隷狩り
 No.34 - 大坂夏の陣図屏風
  戦国期~安土桃山~江戸初期における戦場での奴隷狩り。

17世紀:スペイン
 No.19 - ベラスケスの「怖い絵」
  17世紀のスペイン宮廷における奴隷の存在と、宮廷にいた小人症の人たち(慰み者)。

18世紀~19世紀:アメリカ
 No.18 - ブルーの世界
 No.104 - リンカーンと奴隷解放宣言
 No.109 - アンダーソンヴィル捕虜収容所
  アメリカの独立前、18世紀のサウス・カロライナ州の奴隷制プランテーションで、青色染料の藍(インディゴ)が生産されたこと。及び、南北戦争の途中で出されたリンカーン大統領の「奴隷解放宣言」の背景と歴史的意義。



以降は、No.22-23「クラバートと奴隷」でとりあげた、中世ヨーロッパの奴隷貿易の補足です。No.23の「補記2」でイタリア人商人による奴隷貿易の実態を、Wikipedia の "Slavery in medieval Europe" という項目から訳出しました(日本語版はありせん)。この項目は中世ヨーロッパの奴隷や奴隷制度全般の記述ですが、その第2章が「2.奴隷貿易」で、次のような節の構成になっています。

2. 奴隷貿易
 2.1 イタリア商人
 2.2 ユダヤ商人
 2.3 イベリア半島
 2.4 ヴァイキング
 2.5 モンゴル人
 2.6 イギリス諸島
 2.7 キリスト教徒が保有したイスラム奴隷
 2.8 中世終焉期の奴隷貿易


No.23の「補記2」は「2.1 イタリア商人」だけの訳でしたが、今回は2章全体を訳出してみることにします。「2.1 イタリア商人」も再掲します。なお、Wikipedia にある出典への参照や参考文献は省略しました。以下の Wikipedia の引用や参照はすべて2018年11月2日現在のものです。


「中世ヨーロッパの奴隷 : 第2章 奴隷貿易」(Wikipedia) 試訳

中世ヨーロッパの奴隷貿易(地図).jpg
「中世ヨーロッパの奴隷貿易」関連地図
Wikipediaから訳出した部分に出てくる地名(その他、川、峠、島の名など)の位置を示した。訳文には出てこないが、ターナとコンスタンチノープルはヴェネチアの交易の拠点となった都市である(No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」参照)


2. 奴隷貿易


中世ヨーロッパの奴隷貿易を支配したのはイスラム世界からの要求であった。しかし多くの時期、キリスト教徒の奴隷を非キリスト教徒に売るのは禁止されていた。840年にヴェネチアとカロリング朝フランク帝国で結ばれたロタール協定で、ヴェネチアは帝国内でキリスト教徒の奴隷を買わないこと、キリスト教徒の奴隷をイスラムに売らないこと約束した。教会もまたキリスト教徒の奴隷を非キリスト教徒の国へ売ることを禁止した。たとえば、922年のコブレンツ(注)教会会議(the Council)、1102年のロンドン教会会議、1171年のアーマー(注)教会会議などである。

この結果、多くのキリスト教徒の奴隷商人は、非キリスト教地域の奴隷をイスラム圏のスペイン・北アフリカ・中東へと売ることに注力した。そして、教会の規則に縛られていなかった非キリスト教徒の奴隷商人もイスラムの奴隷マーケットに注力した。東ヨーロッパや南部スウェーデンで大量に見つかるアラブのディルハム銀貨は奴隷貿易に使われたものと推測できる。つまり、スラヴ圏からイスラム圏への交易があったことを示している。

【訳注】
 コブレンツ(Koblenz)(地図)
  ドイツ西部、ライン河とモーゼル河の合流地点にある町。No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」の「補記2」参照。
 アーマー(Armagh)
  北アイルランドの町。アイルランドにキリスト教徒を布教した聖パトリックが布教拠点の教会を設立した。


2.1 イタリア商人


ローマ教皇・ザカリアス(在位:741-752)の治世の頃までに、ヴェネチア(地図)は奴隷交易での繁栄を確立した。彼らはイタリアやその他の地域から奴隷を買い、アフリカのムーア人に売った。もっともザカリアス自身はローマ外での奴隷交易を禁止したと伝えられている。

ロタール協定によってキリスト教徒の奴隷をイスラムに売ることが禁止されると、ヴェネチア商人はスラブ人やその他、東ヨーロッパの非キリスト教徒の奴隷の大々的な交易に乗り出した。東ヨーロッパから奴隷のキャラバンが、オーストリア・アルプスの山道を超えてヴェネチアに到着した。

ドナウ河畔のザンクト・フローリアンの近くのラッフェルステッテン(注)の通行税の記録(903-906)には、そんな商人たちの記述がある。商人の中にはボヘミアやキエフ公国のスラヴ人自身もいた。彼らはキエフ公国からプシェムシルやクラコフ(注)、プラハ、ボヘミアを経由して来ていた。

記録によると、女の奴隷は1トレミシス金貨(約1.5グラムの金。ディナール金貨の1/3)であり、女よりも圧倒的に数が多い男の奴隷は1サイガ銀貨(トレミシスより価値がかなり落ちる)であった。

宦官(eunch)(注)は非常に貴重であり、この需要に対応するため、他の奴隷市場と同じように "去勢所"(castration house)がヴェネチアに作られた。

ヴェネチアだけが奴隷貿易の拠点だったのではない。南部イタリアの都市も遠隔地からの奴隷獲得を競っていた。ギリシャやブルガリア、アルメニア、そしてスラヴ圏である。9~10世紀にはアマルフィ(地図)が北アフリカへの奴隷輸出の多くを担った。

ジェノヴァ(地図)は12世紀ごろからヴェネチアとともに東地中海での交易を押さえ、また13世紀からは黒海での交易を支配した。彼らはバルト海沿岸の民族やスラヴ人、アルメニア人、チェルケス人、ジョージア(グルジア)人、トルコ人、その他、黒海沿岸やコーカサス地方の民族を中東のイスラム国に売った。ジェノヴァはクリミアからマムルーク朝エジプトへの奴隷貿易を13世紀まで支配したが、東地中海でのヴェネチアの勢力が強大になると、ヴェネチアがとって代わった。

1414年から1423年の間だけで、少なくとも10,000人の奴隷がヴェネチアで取引された。

【訳注】
 ラッフェルステッテン(地図)
  現オーストリアのアステン。リンツより少しドナウ下流の位置にある。中世には税関があった。
 プシェムシル、クラコフ(地図)
  いずれも、現ポーランドの都市。
 eunach("ユーナック")
  去勢された男性のこと。宦官は東アジア(日本以外)、中東諸国、東ローマ帝国、オスマントルコ帝国などの官吏である。去勢された奴隷=官吏というわけではないが、以下 eunach を "宦官" とした。なお castration は去勢という意味で、イタリアで発達した去勢男性歌手、カストラート(イタリア語: castrato)と同源の言葉である。

Genoese Fortress.jpg
ジェノヴァの要塞
黒海に突き出たクリミア半島の都市・スダク(ウクライナ)には、ジェノヴァが14世紀~15世紀にかけて建設した要塞が残っている。当時のイタリアの都市国家が海洋貿易で繁栄したことがうかがわれる。
(site : ukrainetrek.com)


2.2 ユダヤ商人


長距離を交易するユダヤ人の奴隷商人の記録は、少なくとも西暦492年の昔に遡ることができる。この年、ローマ教皇・ゲラシウス(注)は、テレシナ(注)のユダヤ人の友人の求めに応じて、非キリスト教徒の奴隷をイタリアへ輸入する許可を与えた。ユダヤ人は、6世紀の終わりから7世紀になるとイタリアにおける主要な奴隷商人となり、また、ガリア地方でも活躍した。ローマ教皇・大グレゴリウス(注)はユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を保有するのを禁じたが、それはユダヤ教に改宗するのを避けるためであった。ユダヤ商人は9世紀から10世紀までにヨーロッパ大陸全体の奴隷貿易の主要な勢力となった。彼らは "ラダニテ"(注)と呼ばれることがあった。

【訳注】
 ゲラシウス
  ローマ教皇、ゲラシウス1世。在位 492-496。
 テレシナ(Telesina)
  イタリア南部、ベネヴェント(カンパニア州)の近郊の古代都市。
 大グレゴリウス
  ローマ教皇、グレゴリウス1世。在位 590-604。このブログでは、マグダラのマリアの解釈(=悔い改めた罪のある女)を確立させた教皇として書いたことがあります(No.118「マグダラのマリア」参照)。
 ラダニテ
  英語で "Radhanites"。ユダヤ人の巡回商人を指す。

ユダヤ人はキリスト教国とイスラム世界を行き来して交易できる数少ない集団の一つだった。イブン・フルダーズベ(注)は『諸道と諸国の書』において、南フランスからスペインに至るユダヤ人の交易ルートを記録している。このルートでは、女奴隷、宦官、少年奴隷が、他の商品とともに運ばれた。彼はまた、ユダヤ商人がプラハでスラヴ人奴隷を買ったことも書いている。

リヨン大司教・アゴバール(在位 816-840)の手紙、ルイ敬虔王(注)の布告、845年のモー教会会議(注)での教会法第75番によって、ユダヤ商人のスラヴ人奴隷交易ルートの存在が確認できる。それはアルプスを越えてリヨン(地図)、南フランス、スペインへと至るルートであった。

ヴァレンシュタット(注)の税関の記録(842-843)から、スイスを通る別の交易ルートの存在がわかる。それはセッティモ峠(セプティマー峠)とスプルガ峠(スプリューゲン峠)(地図)を越えてヴェネチアに至り、そこから北アフリカにへと続くルートであった。

【訳注】
 イブン・フルダーズベ
  820頃 - 912。アッバース朝イスラム帝国の官僚で地理学者。アラビア語で書かれた最古の地誌と言われる『諸道と諸国の書』を著した。
 ルイ敬虔王
  カール大帝の息子で、フランク国王・ルイ1世のこと。ドイツ語ではルードヴィッヒ1世。在位 814-840。
 モー(Meaux)
  パリの東北東 45kmにある町。
 ヴァレンシュタット(地図)
  現在のスイス東部、ヴァレン湖の湖畔の町。ちなみに、リストのピアノ曲集「巡礼の年 第1年 スイス」の第2曲は「ヴァレンシュタットの湖で」である。

10世紀になってドイツのサクソン族の王国の支配者がスラヴ族の奴隷化と奴隷交易に乗り出すようになると、ユダヤ人商人はエルベ河(地図)付近で奴隷を購入し、キャラバンを組んでライン河渓谷に送った。多くの奴隷は、スペインと密接な関係があったヴェルダン(地図)に連れていかれ、去勢され、宦官として売られた。

クリミア(地図)在住のユダヤ人商人は、16世紀から18世紀にかけてのクリミア・ハン国(タタール人国家)の奴隷や捕虜の貿易にとって大変に重要であった。

ユダヤ人はヨーロッパの奴隷貿易において、16世紀から19世紀を頂点として大きな影響力があった。


2.3 イベリア半島


ウマイア朝スペインでは、マムルーク(奴隷の兵士)の供給源として兵役年齢の男の需要が常にあった。

(ロジャー・コリンズ著「中世初期のスペイン」からの引用)
  アル・ハカム(注)は、彼の一族の中でも、華麗で豪華な王位を極めた君主であった。彼はマムルーク(奴隷の兵士)の数を増やし、それは1000人と兵馬5000頭の規模になった。また、奴隷、宦官、召使いを増やした。騎兵の親衛隊をもち、宮殿の門を守らせ、さらにマムルークの警備兵を周りに配置した。彼らマムルークはアル(Al-l)と呼ばれた。これら警備兵は、キリスト教徒か外国人であるがゆえの存在だった。彼らは2つの大きな兵舎を占め、また兵馬のための厩舎が併設されていた。

ロジャー・コリンズによると、イベリア半島の奴隷交易におけるヴァイキングの役割は仮説の域を出ない。しかし彼らの略奪行為は明確に記録されている。ヴァイキングによるアンダルシア地方への襲撃は、844年、859年、966年、971年に報告されていて、これらは8世紀半ばから10世紀末に集中したヨーロッパ各地での襲撃の時期と一致する。

イスラム圏スペインは膨大な数の奴隷を輸入し、またイスラム商人やユダヤ商人が他のイスラム世界へ奴隷を輸出する中継地の役割を担った。

アブド・アッラフマーン3世(在位 912-961)の治世下のコルドバ(地図)(ウマイヤ朝イスラム帝国の首都)では、その初期に3,750人の "サカーリバ"、つまりスラヴ人奴隷がいたが、この数は6,087人に増え、最終的には13,750人になった。イブン・ハウカル(注)、イブラヒム・アル = カラウィー、クレモナのリウトプランド司教(注)の記述によると、ヴェルダンのユダヤ商人は去勢の専門技術があり、イスラム圏スペインで大変人気のあった "去勢サカーリバ" として奴隷を売った。

【訳注】
 アル・ハカム
  ウマイヤ朝のカリフ、アル・ハカム1世。在位 796-822。
 イブン・ハウカル
  10世紀のイスラムの地理学者、歴史学者。
 クレモナのリウトプランド司教
  神聖ローマ帝国の外交官・政治家・歴史家・宗教家。920- 972。


2.4 ヴァイキング


ヴァイキングの時代(793年~約1100年)に北欧からの襲撃者は、遭遇した武力の劣る人々を捕らえて、しばしば奴隷化した。北欧諸国では彼らを "スレール"(古北欧語ではトレール)と呼んだ。スレールはほとんどが西ヨーロッパ人で、フランク人、アングロサクソン人、ケルト人などであった。多くのアイルランドの奴隷は、アイスランドを(ヴァイキングの)植民地にするための探検にかり出された。ヴァイキングは修道院を襲撃し、若くて教育を受けた奴隷を手に入れたが、それはヴェネチアやビザンチン帝国で高値で売れた。8世紀末までにスカンジナビア商人の奴隷取引地は、デンマークのへーゼビュー(地図)やスウェーデンのビルカ(地図)から、東は北方ロシアのスタラヤ・ラドガ(地図)まで広がっていた。

このような交易は9世紀にも続き、スカンジナビア人はさらに奴隷取引地を増やしていった。南西ノルウェーのカウパング(地図)や、スタラヤ・ラドガより南にあるノヴゴロド(地図)、ビザンチン帝国にさらに近いキエフ(地図)である。ダブリンやその他の北西ヨーロッパのヴァイキングの居住地は、捕虜を北へと送る基地として作られた。たとえば、"ラックス谷の人々のサガ" には、スウェーデンのブレン島(地図)の市場で西ヨーロッパからの女奴隷が売られていて、そこにロシア商人が来る様子が描かれている。

ヴァイキングたちはドイツ人、バルチック人、スラヴ人、ラテン人も捕虜にした。10世紀のペルシャの旅行家、イブン・ルスタは、スウェーデンのヴァイキング(ロシアでは "ヴァリャーグ" と呼んだ)がヴォルガ河(地図)流域のスラヴ人を襲撃し、威嚇して奴隷にしたことを記述している。奴隷はしばしばヴォルガ河の交易路を経由して、南方のビザンチンやイスラム商人に売られた。バグダッドのアフマド・イブン・ファドラーン(注)は、この交易路の出発地でヴォルガのヴァイキングがスラヴ人奴隷を中東の商人に売る様子を記述をしている。

フィンランドもヴァイキングの奴隷狩りの標的になった。フィンランドやバルト海沿岸地域の奴隷は中央アジアまで売られていった。

【訳注】
 アフマド・イブン・ファドラーン
  10世紀アラブの旅行家。アッバース朝のカリフの使節団として、ヴォルガ河中流の国、ヴォルガ・ブルガール(地図)を訪問した。彼が書いた見聞録はヴァリャーグの貴重な資料となっている。

S_V_Ivanov Trade_negotiations_in_the_country_of_Eastern_Slavs.jpg
セルゲイ・イヴァノフ(1864-1910)
東スラヴでの奴隷取引」(1909)
(M. Kroshitsky Art Museum, Sevastopol)

左側に奴隷を買い付けるイスラム商人がいるが、奴隷を売る右側の一団は服装からしてスラヴ民族のようである。もちろん想像で描かれたものだが、ファドラーンの見聞記はこのような取引がスラヴ地方やヴォルガ河沿岸で行われたことを示している。この絵は Wikipedia の "Slavery in medieval Europe" の項に掲載されている(フランス語、スペイン語などのページ)。


2.5 モンゴル


13世紀におけるモンゴルの進入と征服は、奴隷交易の新たな隆盛をもたらした。モンゴル人は職人や女、子供を奴隷にしてカラコルムやサライ(地図)に連れていき、そこでユーラシア大陸全体へと売った。多くの奴隷がロシアのノヴゴロドの奴隷市場に送られた。

クリミアにいたジェノヴァとベネチアの商人は、キプチャク・ハン国(注)との奴隷取引に携わった。ハージー1世ギレイはキプチャク・ハン国から独立してクリミア・ハン国を建国したが、そのクリミア・ハン国は18世紀に至るまでの長い間、オスマン帝国や中東との大々的な奴隷貿易を続けた。「ステップ草原の刈り取り」と呼ばれた "行事" で、彼らは多数のスラヴ人の農民を奴隷にした。

【訳注】
 キプチャク・ハン国
  ジンギス・カンの息子のジョチとその後裔の遊牧政権(=ウルス)。ジョチ・ウルスとも言う。首都はサライ。金で装飾された張幕を宮殿としたため、英語で Golden Horde(金の遊牧民)と呼ばれる。


2.6 イギリス諸島


イギリス諸島(注)では、奴隷は家畜と同じように、国内・国外を問わずに取り引きされる日用品であり、通貨のようなものであった。ウィリアム征服王はイギリスからの奴隷の輸出を禁止し、奴隷交易への国の関与を制限した。

【訳注】
 イギリス諸島(British Isles)
  ブリテン諸島とも言う。大ブリテン島、アイルランド島、およびその周辺の島を指す。


2.7 キリスト教徒が保有したイスラム奴隷


奴隷取引の主要な流れはイスラム諸国へと向かうものだったが、キリスト教徒もムスリムの奴隷を保有していた。13世紀の南フランスでは、ムスリムの捕虜を奴隷にするのはきわめて一般的だった。

たとえば1248年にムスリムの少女の奴隷がマルセイユ(地図)で売られた記録があるが、これはキリスト教徒の十字軍がセビリア(地図)とその周辺地域を攻略した時期と一致する(注)。この戦勝で地域の多数のムスリムの女性が戦利品として奴隷になり、それはアラブ側の叙事詩、たとえばセビリア攻略の同時代人であった詩人、アル・ルンディの詩にうたわれている。。

【訳注】
 セビリア攻防戦
  カスティーリャ王国(キリスト教国)のセビリア攻略は1246年にはじまり、2年間の攻防戦の末、1248年11月にカスティーリャが制圧した。いわゆる "レコンキスタ"(=キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動)の重要ポイントである。この結果、イベリア半島に残ったイスラム勢力はグラダナのナスル朝のみとなったが、ナスル朝はキリスト教国と融和的であり、カスティーリャ王国の指揮下でセビリア攻撃に加わっている。レコンキスタの完成は1492年のグラダナ陥落であるが、実質的にはセビリアが制圧された時点でレコンキスタはほぼ終わったと言える。

またキリスト教徒は戦争で捕虜にしたムスリム奴隷を売った。マルタ騎士団は海賊やムスリムの商船を襲撃し、騎士団の拠点は捕らえた北アフリカ人やトルコ人を売る交易の中心になった。マルタ(地図)は18世紀末までも奴隷市場として残った。騎士団が所有するガレー船団のためには1000人の奴隷の乗組員が必要だった。


2.8 中世終焉期の奴隷貿易


ヨーロッパのキリスト教化が進むと、大がかりな奴隷貿易はさらに遠隔地からのものになった。またそれにはキリスト教徒とイスラム教徒の敵対関係が強まったこともあった。たとえばエジプトに奴隷を送るのはローマ教皇によって禁止され、この命令は1317年、1327年、1329年、1338年、最終的には1425年に出されている。というのも、エジプトに送られた奴隷は往々にして兵士となり、元のキリスト教徒の主人と戦う結果になったからである。禁止令が繰り返されたことは、そのような交易が続いていたことと、交易がより好ましくないものになったことを示している。16世紀になるとアフリカ人の奴隷が、ヨーロッパの各民族・各宗派の奴隷にとって代わった。
(Wikipediaの訳・終)

「文明の中心」と「グローバル経済」


「中世ヨーロッパの奴隷貿易」という Wikipedia の記事を読んで改めて思うのは、中世の文明の中心はイスラム国家だということと、西ユーラシア大陸の全域をカバーするグローバルな交易、の2点です。

中世ヨーロッパの奴隷貿易(地図).jpg
「中世ヨーロッパの奴隷貿易」関連地図

この地図には、奴隷という高額商品の買い手がほとんど描かれていませんが、イベリア半島南部の後ウマイヤ朝は買い手でした。首都のコルドバの人口は100万人を越え、当時のヨーロッパ最大の都市です。それよりも大きな奴隷の需要地は、現在のイランから北アフリカを版図とするアッバース朝です。中世ではこの2つのイスラム帝国が文明の中心であり、強大な経済力と軍事力を誇った。Wikipediaの記述でよく分かるのは、その結果として中世ヨーロッパの奴隷貿易があったということです。

文明の中心に関して言うと、訳文に出てくるアブド・アッラフマーン3世の息子のアル・ハカム2世(在位 961-976)は文化人で、コルドバに巨大図書館を建て、東方から50万冊に及ぶ書物を収集しました。文化の中心もまたイスラム帝国の巨大都市(コルドバ、バグダッドなど)にあったわけです。それが後のヨーロッパに引き継がれた。

このようなイスラム帝国へと続く奴隷交易ルートは、それに携わった商人が属する地域の経済発展に大きく寄与したと考えられます。ヴェネチアをはじめとするイタリア半島の海洋都市国家の繁栄や、北欧諸国の勃興は、こういった交易抜きには考えられないでしょう。ヴェネチアの勃興から衰退までの期間は、ちょうどイスラム帝国の勃興から衰退までの期間と重なっているのですが、偶然とは思えません。

ユーラシア大陸の西部で繰り広げられたグローバルな交易も印象的です。高額商品の需要がある限り、商人はその仕入れに "地の果てまで" 行く。ロシア・東欧を出発し、アルプスの標高2000メートル級の山道(セッティモ峠、スプルガ峠)を越え、ヴェネチアに至る交易路(その後、北アフリカや中東へ)があったのです。

もちろん中世ヨーロッパだけではなく、中国の絹がローマ帝国に運ばれたように、利潤があげられる貴重な商材の交易は昔から驚くほどの遠距離を越えました。そして中世ヨーロッパの奴隷貿易の場合は、商材の供給地と需要地の間に圧倒的な経済格差があり、それが交易をドライブしていた。経済のグローバル化は、程度問題こそあれ昔からそうだったことが改めて理解できました。



 Wikipediaの原文 

念のために、上の試訳のもとになった Wikipedia の原文(2018年11月2日現在)を掲げておきます。[数字] は出典・参考文献への参照ですが、文献名は省略しました。

Slavery in medieval Europe
 2. Slave trade
  2.1 Italian merchants
  2.2 Jewish merchants
  2.3 Iberia
  2.4 Vikings
  2.5 Mongols
  2.6 British Isles
  2.7 Christians holding Muslim slaves
  2.8 Slave trade at the close of the Middle Ages

2. Slave trade

Demand from the Islamic world dominated the slave trade in medieval Europe.[13][14][15][16] For most of that time, however, sale of Christian slaves to non-Christians was banned.[citation needed] In the pactum Lotharii of 840 between Venice and the Carolingian Empire, Venice promised not to buy Christian slaves in the Empire, and not to sell Christian slaves to Muslims.[13][17][18] The Church prohibited the export of Christian slaves to non-Christian lands, for example in the Council of Koblenz in 922, the Council of London in 1102, and the Council of Armagh in 1171.[19]

As a result, most Christian slave merchants focused on moving slaves from non-Christian areas to Muslim Spain, North Africa, and the Middle East, and most non-Christian merchants, although not bound by the Church's rules, focused on Muslim markets as well.[13][14][15][16] Arabic silver dirhams, presumably exchanged for slaves, are plentiful in eastern Europe and Southern Sweden, indicating trade routes from Slavic to Muslim territory.[20]

2.1 Italian merchants

By the reign of Pope Zachary (741-752), Venice had established a thriving slave trade, buying in Italy, amongst other places, and selling to the Moors in Northern Africa (Zacharias himself reportedly forbade such traffic out of Rome).[21][22][23] When the sale of Christians to Muslims was banned (pactum Lotharii[17]), the Venetians began to sell Slavs and other Eastern European non-Christian slaves in greater numbers. Caravans of slaves traveled from Eastern Europe, through Alpine passes in Austria, to reach Venice. A record of tolls paid in Raffelstetten (903-906), near St. Florian on the Danube, describes such merchants. Some are Slavic themselves, from Bohemia and the Kievan Rus'. They had come from Kiev through Przemysl, Krakow, Prague, and Bohemia. The same record values female slaves at a tremissa (about 1.5 grams of gold or roughly 1/3 of a dinar) and male slaves, who were more numerous, at a saiga (which is much less).[13][24] Eunuchs were especially valuable, and "castration houses" arose in Venice, as well as other prominent slave markets, to meet this demand.[20][25]

Venice was far from the only slave trading hub in Italy. Southern Italy boasted slaves from distant regions, including Greece, Bulgaria, Armenia, and Slavic regions. During the 9th and 10th centuries, Amalfi was a major exporter of slaves to North Africa.[13] Genoa, along with Venice, dominated the trade in the Eastern Mediterranean beginning in the 12th century, and in the Black Sea beginning in the 13th century. They sold both Baltic and Slavic slaves, as well as Armenians, Circassians, Georgians, Turks and other ethnic groups of the Black Sea and Caucasus, to the Muslim nations of the Middle East.[26] Genoa primarily managed the slave trade from Crimea to Mamluk Egypt, until the 13th century, when increasing Venetian control over the Eastern Mediterranean allowed Venice to dominate that market.[27] Between 1414 and 1423 alone, at least 10,000 slaves were sold in Venice.[28]

2.2 Jewish merchants

Records of long-distance Jewish slave merchants date at least as far back as 492, when Pope Gelasius permitted Jews to import non-Christian slaves into Italy, at the request of a Jewish friend from Telesina.[29][30][31] By the turn of the 6th to the 7th century, Jews had become the chief slave traders in Italy, and were active in Gaelic territories. Pope Gregory the Great issued a ban on Jews possessing Christian slaves, lest the slaves convert to Judaism.[31][32] By the 9th and 10th centuries, Jewish merchants, sometimes called Radhanites, were a major force in the slave trade continent-wide.[13][33][34]

Jews were one of the few groups who could move and trade between the Christian and Islamic worlds.[34] Ibn Khordadbeh observed and recorded routes of Jewish merchants in his Book of Roads and Kingdoms from the South of France to Spain, carrying (amongst other things) female slaves, eunuch slaves, and young slave boys. He also notes Jews purchasing Slavic slaves in Prague.[13][31][35] Letters of Agobard, archbishop of Lyons (816-840),[36][37][38][39] acts of the emperor Louis the Pious,[40][41] and the seventy-fifth canon of the Council of Meaux of 845 confirms the existence of a route used by Jewish traders with Slavic slaves through the Alps to Lyon, to Southern France, to Spain.[13] Toll records from Walenstadt in 842-843 indicate another trade route, through Switzerland, the Septimer and Splugen passes, to Venice, and from there to North Africa.[13]

As German rulers of Saxon dynasties took over the enslavement (and slave trade) of Slavs in the 10th century, Jewish merchants bought slaves at the Elbe, sending caravans into the valley of the Rhine. Many of these slaves were taken to Verdun, which had close trade relations with Spain. Many would be castrated and sold as eunuchs as well.[13][25]

The Jewish population of Crimea was a very important factor in the trade in slaves and captives of the Crimean Khanate (Tatars) in the sixteenth to eighteenth centuries.[42]

Jews would later become highly influential in the European slave trade, reaching their apex from the 16th to 19th centuries.[13]

2.3 Iberia

A ready market, especially for men of fighting age, could be found in Umayyad Spain, with its need for supplies of new mamelukes.

'Al-Hakam was the first monarch of this family who surrounded his throne with a certain splendour and magnificence. He increased the number of mamelukes (slave soldiers) until they amounted to 5,000 horse and 1,000 foot. ... he increased the number of his slaves, eunuchs and servants; had a bodyguard of cavalry always stationed at the gate of his palace and surrounded his person with a guard of mamelukes .... these mamelukes were called Al-l;Iaras (the Guard) owing to their all being Christians or foreigners. They occupied two large barracks, with stables for their horses.'[43]

According to Roger Collins although the role of the Vikings in the slave trade in Iberia remains largely hypothetical, their depredations are clearly recorded. Raids on AlAndalus by Vikings are reported in the years 844, 859, 966 and 971, conforming to the general pattern of such activity concentrating in the mid ninth and late tenth centuries.[44] Muslim Spain imported an enormous number[clarification needed] of slaves, as well as serving as a staging point for Muslim and Jewish merchants to market slaves to the rest of the Islamic world.[34]

During the reign of Abd-ar-Rahman III (912-961), there were at first 3,750, then 6,087, and finally 13,750 Saqaliba, or Slavic slaves, at Cordoba, capital of the Umayyad Caliphate. Ibn Hawqal, Ibrahim al-Qarawi, and Bishop Liutprand of Cremona note that the Jewish merchants of Verdun specialized in castrating slaves, to be sold as eunuch saqaliba, which were enormously popular[clarification needed] in Muslim Spain.[13] [25] [45]

2.4 Vikings

During the Viking age (793 - approximately 1100), the Norse raiders often captured and enslaved militarily weaker peoples they encountered. The Nordic countries called their slaves thralls (Old Norse: Trall).[46] The thralls were mostly from Western Europe, among them many Franks, Anglo-Saxons, and Celts. Many Irish slaves travelled in expeditions for the colonization of Iceland.[47] Raids on monasteries provided a source of young, educated slaves who could be sold in Venice or Byzantium for high prices. Scandinavian trade centers stretched eastwards from Hedeby in Denmark and Birka in Sweden to Staraya Ladoga in northern Russia before the end of the 8th century.[25]

This traffic continued into the 9th century as Scandinavians founded more trade centers at Kaupang in southwestern Norway and Novgorod, farther south than Staraya Ladoga, and Kiev, farther south still and closer to Byzantium. Dublin and other northwestern European Viking settlements were established as gateways through which captives were traded northwards. In the Laxdala saga, for example, a Rus merchant attends a fair in the Brenn Isles in Sweden selling female slaves from northwestern Europe.[25]

The Norse also took German, Baltic, Slavic and Latin slaves. The 10th-century Persian traveller Ibn Rustah described how Swedish Vikings, the Varangians or Rus, terrorized and enslaved the Slavs taken in their raids along the Volga River.[48] Slaves were often sold south, to Byzantine or Muslim buyers, via paths such as the Volga trade route. Ahmad ibn Fadlan of Baghdad provides an account of the other end of this trade route, namely of Volga Vikings selling Slavic Slaves to middle-eastern merchants.[49] Finland proved another source for Viking slave raids.[50] Slaves from Finland or Baltic states were traded as far as central Asia.[51][52]

2.5 Mongols

The Mongol invasions and conquests in the 13th century added a new force in the slave trade. The Mongols enslaved skilled individuals, women and children and marched them to Karakorum or Sarai, whence they were sold throughout Eurasia. Many of these slaves were shipped to the slave market in Novgorod.[53][54][55]

Genoese and Venetians merchants in Crimea were involved in the slave trade with the Golden Horde.[13][27] In 1441, Haci I Giray declared independence from the Golden Horde and established the Crimean Khanate. For a long time, until the early 18th century, the khanate maintained a massive[clarification needed] slave trade with the Ottoman Empire and the Middle East. In a process called the "harvesting of the steppe", they enslaved many Slavic peasants.[56]

2.6 British Isles

As a commonly traded commodity in the British Isles, like cattle, slaves could become a form of internal or trans-border currency.[57][58] William the Conqueror banned the exporting of slaves from England, limiting the nation's participation in the slave trade.[59]

2.7 Christians holding Muslim slaves

Although the primary flow of slaves was toward Muslim countries,[further explanation needed] Christians did acquire Muslim slaves; in Southern France, in the 13th century, "the enslavement of Muslim captives was still fairly common".[60] There are records, for example, of Saracen slave girls sold in Marseilles in 1248,[61] a date which coincided with the fall of Seville and its surrounding area, to raiding Christian crusaders, an event during which a large number of Muslim women from this area, were enslaved as war booty, as it has been recorded in some Arabic poetry, notably by the poet al-Rundi, who was contemporary to the events.

Christians also sold Muslim slaves captured in war. The Order of the Knights of Malta attacked pirates and Muslim shipping, and their base became a center for slave trading, selling captured North Africans and Turks. Malta remained a slave market until well into the late 18th century. One thousand slaves were required to man the galleys (ships) of the Order.[62][63]

2.8 Slave trade at the close of the Middle Ages

As more and more of Europe Christianized, and open hostilities between Christian and Muslim nations intensified, large-scale slave trade moved to more distant sources. Sending slaves to Egypt, for example, was forbidden by the papacy in 1317, 1323, 1329, 1338, and, finally, 1425, as slaves sent to Egypt would often become soldiers, and end up fighting their former Christian owners. Although the repeated bans indicate that such trade still occurred, they also indicate that it became less desirable.[13] In the 16th century, African slaves replaced almost all other ethnicities and religious enslaved groups in Europe.[64]




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