No.228 - 中島みゆきの詩(15)ピアニシモ [音楽]
前回の No.227「中島みゆきの詩(14)世情」を書いていて思い出した詩があるので、引き続き中島作品について書きます。《世情》という詩の重要なキーワードは "シュプレヒコール" でした。実はこの "シュプレヒコール" という言葉を使った中島さんの詩がもう一つだけあります。《世情》の34年後に発表されたアルバム『常夜灯』(2012)の第2曲である《ピアニシモ》です。
《世情》のほかに "シュプレヒコール" を使ったのは《ピアニシモ》だけというのは絶対の確信があるわけではありません。ただ CD として発売された曲は全部聴いているつもりなので、これしかないと思います。中島さんは詩に使う言葉を "厳選する" のが普通です。あまり歌詩には使わないような言葉ならなおさらです。34年後に "シュプレヒコール" を再び使ったのは、そこに何らかの意味があると考えられます。その意味も含めて詩の感想を書きます。
ピアニシモ
アルバム『常夜灯』の第2曲である《ピアニシモ》は、次のような詩です。
この詩は《世情》に比べると平易な言葉使いで、そのまま読んでも表現されていることがスッと分かる詩です。ただし、その中に何らかの意味が込められているようです。もちろんキーワードは "ピアニシモ" であり、その反対の言葉である "フォルテシモ" です。これは何を意味しているのか、そこがポイントです。
ピアニシモ(pp)とフォルテシモ(ff)
「ピアニシモで歌う」「フォルテシモで歌う」とはどういうことでしょうか。これは音楽用語なので「非常に弱く歌う」と「非常に強く歌う」というのが第1義です。もちろんそれだけでは意味がとれません。クラシック音楽ならともかく、ポップ・ミュージックで「ピアニシモで歌う」のは、コンサートホールでも街角でも CD でも滅多にないからです。従って「ピアニシモで歌う」について、言葉通りではない何らかの解釈が必要です。「フォルテシモで歌う」の方が考えやすいので、まずその意味を考えてみると次のようになるでしょう。あくまで個人の見解です。
作者の思いや訴えがフォルテシモのように強く聞こえる歌、ないしは歌い方ということです。このように考えると「ピアニシモで歌う」はその逆になります。
のように解釈できます。つまり「ピアニシモ・フォルテシモ」は、歌で何かを表現するときの表現のしかたの違いだという見方です。「強い」が一本調子と、「弱い」が人の心に染み入る、の違いと言ったらいいのでしょうか。また、ピアニシモでもフォルテシモでも "強さ" を持った表現ができると考えると、フォルテシモは「引っ張っていくことの強さ」であり、ピアニシモは「そっと寄り添うことの強さ」と言えるかも知れません。もちろん他にも意味の取り方があると思います。
"気弱な挨拶" を求めて
この詩は「あの人」に言われて「ピアニシモで歌う」ようになったというストーリーです。「あの人」とは誰でしょうか。普通に考えれば歌の先生筋にあたる人か、あるいは歌い手が尊敬する人でしょう。歌手としての人生に大きな影響を与えた人です。今は近くにはいないようですが、具体的にどういう人かの手がかりが詩にはありません。それは受け取る人の想像に任せられています。
そして、この詩のハイライトは次の部分です。「ピアニシモで歌う」ことで初めて、歌い手が得たものがあるわけです。
この部分が詩として光っています。「今すれ違った 気弱な挨拶」という一行です。もっと限定すると「気弱な挨拶」という表現です。「気弱」と「挨拶」という二つの言葉の、ちょっと意外な組み合わせに詩人・中島みゆきの感性が現れている。非常に "雰囲気のある" 表現です。ちなみにGoogleで「気弱な挨拶」を「語順も含め完全一致」で検索すると20件しかヒットしませんが(2018.3.30 現在)、そのうち17件は《ピアニシモ》の歌詞を掲載したサイトであり、1件は《ピアニシモ》の歌詞から引用したものです。普通はまず使わない言葉ということでしょう。
すれ違いに聞こえてくる「気弱な挨拶」こそが、ピアニシモで歌う(ただし大きな声と同じ力で歌う)歌手が求めてきたものなのでした。
シュプレヒコールとアジテーション
この詩のハイライトの2つめは
としているところです。そして「フォルテシモでも歌う」ことの比喩としてあげられているのが、"シュプレヒコール" と "アジテーション" です。冒頭に書いたように、前回(No.227)取り上げた《世情》には "シュプレヒコール" が出てきます。中島さんは《世情》を思い出しながら《ピアニシモ》の詩を書いたに違いないのですが、ここではさらに "アジテーション" が付け加えられています。
アジテーションも政治的ニュアンスの言葉で、「人々をある行動に駆り立てようとする、強い調子の演説や文章」という意味です。ネガティブな意味では「煽動」ですが、ニュートラルな意味でも使える。前回(No.227)の《世情》で連想した学生運動で言いますと、アジテーションは「アジ」と略され、「アジ演説」「アジビラ」のように使われました。
この、シュプレヒコールとアジテーションを「歌」に置き換えて考えてみると、「強いメッセージ性をもった詩と、それを全面的に押し出した歌い方」というようになるでしょう。「たまにはフォルテシモでも歌います」という宣言はそのことを言っていると解釈できます。
歌うことについての詩
さらにこの詩の重要なポイントは、歌手ないしは歌い手が主人公というか、「歌うこと」について書かれた詩だということです。中島作品の中で、こういう詩は極めて珍しいと思います。No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」でも取り上げたのですが、「歌い手」ないしは「歌手」をテーマにした作品は、覚えている限りでは次の3つです。なお、「ミュージシャン」という詩(A1988「中島みゆき」の第5曲)がありますが、このミュージシャンは歌手とは限らないし、歌うことについての詩でもないので除外します。
このうち《歌をあなたに》(1976)は単に "歌うことがの好きな人" かも知れないのですが、《夜曲》(1981)と《歌姫》(1982)は明らかにプロの歌手、ないしはプロに準ずる歌い手がテーマになっています。また《歌をあなたに》と《夜曲》は一種のラブソング、ないしはラブソングを装った曲で("あなた" が恋人とは限らないから)、"わたし" と "あなた" の関係性を歌うことに託して語っています。一方、《歌姫》は純粋に「歌うことについての詩」になっています。
この3つの詩は1976年から1982年にかけて、中島さんが24歳から30歳のときの作品です。そして《歌姫》(1982)から30年後に作られた「歌うことについての詩」が《ピアニシモ》(2012)なのです。
No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」にも書きましたが、一般的に言って、中島さんの作品に「自分のことを表現している詩」はないと思います。しかし《歌をあなたに》《夜曲》《歌姫》そして《ピアニシモ》については、歌手としての自分を語っているのではと思うのですね。特に《歌姫》と《ピアニシモ》です。この2つは純粋に「歌うことについての詩」であり「歌うことについての歌」になっている。シンガー・ソングライターが「歌うことについての詩」を作るとき、それは自己表現、あるいは、ありたい姿の表現と考えるのが自然だと思います。
フォルテシモでも歌う
その視点で《ピアニシモ》を振り返ってみると、この詩で表現されている歌い手の基本的なスタンスは「ピアニシモで歌う」ことです。すぐに連想するのはアルバムのタイトルであり、アルバムの第1曲でもある "常夜灯" という言葉です。夜道を照らし、時折りそこを行く人の道しるべになり、人に大きな安心感を与える。ただし光そのものは闇の中にひっそりと存在する。第1曲『常夜灯』は、そのようなイメージから発想を膨らませた詩になっています。またアルバムのタイトルにするということは "常夜灯" がアルバムの基調テーマということでしょう。《ピアニシモ》にある「フォルテシモと同じ力でピアニシモで歌う」という表現は、"常夜灯" に我々が抱くイメージと強く重なります。
問題は、詩の中で「たまにはフォルテシモでも歌います」と宣言しているところです。ここで思い浮かぶのが、アルバム『常夜灯』の第5曲である《倒木の敗者復活戦》です。この詩は No.213「中島みゆきの詩(13)鶺鴒と倒木」で取り上げましたが、「東北の復活戦」では詩にならないので「倒木の敗者復活戦」としたのではないでしょうか。これは中島さんがフォルテシモで歌った曲、中島さんなりの "歌によるシュプレヒコール" であり "歌による(悪い意味ではない)アジテーション" だと思います。アジテーションとは上にも書いたように「人々をある行動に駆り立てようとする、強い調子の演説や文章」であり、人々の感情に訴えようとするものです。
そういう詩を書き、そういう歌い方をする。それは歌い手としてのあるべき姿から外れるかもしれないが、そいうことがたまにはあってもよい。詩や歌は大変幅広く、多様なのだから ・・・・・・。《ピアニシモ》という詩は(そして歌は)そう言っているように思いました。
最近の朝日新聞の「天声人語」を読んで中島みゆきさんの《ピアニシモ》を思い出したので、それを紹介したいと思います。文章がいきなり天声人語子の祖父の話から始まるので少々面くらいますが、主旨は明快です。例によって6段落の文章で、段落は▼で示されていますが、普通の表記に変えて引用します。
まるで中島みゆき《ピアニシモ》の解説のような天声人語ですが、最後の方で詩人・茨木のり子(1926・大正15~2006・平成18)の詩の一節が引用してあります。コラムの主旨に合う部分だけの引用ですが、全体の詩はスケールが大きいものです。
中島みゆきさんの《ピアニシモ》は "歌についての詩"、"歌うことについての詩" と本文で書きましたが、それはまだ浅い見方かもしれません。もっと広く、「言葉によって何かを伝えることについての洞察」かもしれない。天声人語と茨木のり子の詩を読んで、そう思いました。
《世情》のほかに "シュプレヒコール" を使ったのは《ピアニシモ》だけというのは絶対の確信があるわけではありません。ただ CD として発売された曲は全部聴いているつもりなので、これしかないと思います。中島さんは詩に使う言葉を "厳選する" のが普通です。あまり歌詩には使わないような言葉ならなおさらです。34年後に "シュプレヒコール" を再び使ったのは、そこに何らかの意味があると考えられます。その意味も含めて詩の感想を書きます。
なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。 |
ピアニシモ
アルバム『常夜灯』の第2曲である《ピアニシモ》は、次のような詩です。
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①常夜灯 ②ピアニシモ ③恩知らず ④リラの花咲く頃 ⑤倒木の敗者復活戦 ⑥あなた恋していないでしょ ⑦ベッドルーム ⑧スクランブル交差点の渡り方 ⑨オリエンタル・ヴォイス ⑩ランナーズ・ハイ ⑪風の笛 ⑫月はそこにいる
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この詩は《世情》に比べると平易な言葉使いで、そのまま読んでも表現されていることがスッと分かる詩です。ただし、その中に何らかの意味が込められているようです。もちろんキーワードは "ピアニシモ" であり、その反対の言葉である "フォルテシモ" です。これは何を意味しているのか、そこがポイントです。
ピアニシモ(pp)とフォルテシモ(ff)
「ピアニシモで歌う」「フォルテシモで歌う」とはどういうことでしょうか。これは音楽用語なので「非常に弱く歌う」と「非常に強く歌う」というのが第1義です。もちろんそれだけでは意味がとれません。クラシック音楽ならともかく、ポップ・ミュージックで「ピアニシモで歌う」のは、コンサートホールでも街角でも CD でも滅多にないからです。従って「ピアニシモで歌う」について、言葉通りではない何らかの解釈が必要です。「フォルテシモで歌う」の方が考えやすいので、まずその意味を考えてみると次のようになるでしょう。あくまで個人の見解です。
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作者の思いや訴えがフォルテシモのように強く聞こえる歌、ないしは歌い方ということです。このように考えると「ピアニシモで歌う」はその逆になります。
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のように解釈できます。つまり「ピアニシモ・フォルテシモ」は、歌で何かを表現するときの表現のしかたの違いだという見方です。「強い」が一本調子と、「弱い」が人の心に染み入る、の違いと言ったらいいのでしょうか。また、ピアニシモでもフォルテシモでも "強さ" を持った表現ができると考えると、フォルテシモは「引っ張っていくことの強さ」であり、ピアニシモは「そっと寄り添うことの強さ」と言えるかも知れません。もちろん他にも意味の取り方があると思います。
"気弱な挨拶" を求めて
この詩は「あの人」に言われて「ピアニシモで歌う」ようになったというストーリーです。「あの人」とは誰でしょうか。普通に考えれば歌の先生筋にあたる人か、あるいは歌い手が尊敬する人でしょう。歌手としての人生に大きな影響を与えた人です。今は近くにはいないようですが、具体的にどういう人かの手がかりが詩にはありません。それは受け取る人の想像に任せられています。
そして、この詩のハイライトは次の部分です。「ピアニシモで歌う」ことで初めて、歌い手が得たものがあるわけです。
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この部分が詩として光っています。「今すれ違った 気弱な挨拶」という一行です。もっと限定すると「気弱な挨拶」という表現です。「気弱」と「挨拶」という二つの言葉の、ちょっと意外な組み合わせに詩人・中島みゆきの感性が現れている。非常に "雰囲気のある" 表現です。ちなみにGoogleで「気弱な挨拶」を「語順も含め完全一致」で検索すると20件しかヒットしませんが(2018.3.30 現在)、そのうち17件は《ピアニシモ》の歌詞を掲載したサイトであり、1件は《ピアニシモ》の歌詞から引用したものです。普通はまず使わない言葉ということでしょう。
すれ違いに聞こえてくる「気弱な挨拶」こそが、ピアニシモで歌う(ただし大きな声と同じ力で歌う)歌手が求めてきたものなのでした。
シュプレヒコールとアジテーション
この詩のハイライトの2つめは
大きな声と同じ力でピアニシモで歌うが たまにはフォルテシモでも歌う |
としているところです。そして「フォルテシモでも歌う」ことの比喩としてあげられているのが、"シュプレヒコール" と "アジテーション" です。冒頭に書いたように、前回(No.227)取り上げた《世情》には "シュプレヒコール" が出てきます。中島さんは《世情》を思い出しながら《ピアニシモ》の詩を書いたに違いないのですが、ここではさらに "アジテーション" が付け加えられています。
アジテーションも政治的ニュアンスの言葉で、「人々をある行動に駆り立てようとする、強い調子の演説や文章」という意味です。ネガティブな意味では「煽動」ですが、ニュートラルな意味でも使える。前回(No.227)の《世情》で連想した学生運動で言いますと、アジテーションは「アジ」と略され、「アジ演説」「アジビラ」のように使われました。
この、シュプレヒコールとアジテーションを「歌」に置き換えて考えてみると、「強いメッセージ性をもった詩と、それを全面的に押し出した歌い方」というようになるでしょう。「たまにはフォルテシモでも歌います」という宣言はそのことを言っていると解釈できます。
歌うことについての詩
さらにこの詩の重要なポイントは、歌手ないしは歌い手が主人公というか、「歌うこと」について書かれた詩だということです。中島作品の中で、こういう詩は極めて珍しいと思います。No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」でも取り上げたのですが、「歌い手」ないしは「歌手」をテーマにした作品は、覚えている限りでは次の3つです。なお、「ミュージシャン」という詩(A1988「中島みゆき」の第5曲)がありますが、このミュージシャンは歌手とは限らないし、歌うことについての詩でもないので除外します。
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A1982『寒水魚』 |
この3つの詩は1976年から1982年にかけて、中島さんが24歳から30歳のときの作品です。そして《歌姫》(1982)から30年後に作られた「歌うことについての詩」が《ピアニシモ》(2012)なのです。
No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」にも書きましたが、一般的に言って、中島さんの作品に「自分のことを表現している詩」はないと思います。しかし《歌をあなたに》《夜曲》《歌姫》そして《ピアニシモ》については、歌手としての自分を語っているのではと思うのですね。特に《歌姫》と《ピアニシモ》です。この2つは純粋に「歌うことについての詩」であり「歌うことについての歌」になっている。シンガー・ソングライターが「歌うことについての詩」を作るとき、それは自己表現、あるいは、ありたい姿の表現と考えるのが自然だと思います。
フォルテシモでも歌う
その視点で《ピアニシモ》を振り返ってみると、この詩で表現されている歌い手の基本的なスタンスは「ピアニシモで歌う」ことです。すぐに連想するのはアルバムのタイトルであり、アルバムの第1曲でもある "常夜灯" という言葉です。夜道を照らし、時折りそこを行く人の道しるべになり、人に大きな安心感を与える。ただし光そのものは闇の中にひっそりと存在する。第1曲『常夜灯』は、そのようなイメージから発想を膨らませた詩になっています。またアルバムのタイトルにするということは "常夜灯" がアルバムの基調テーマということでしょう。《ピアニシモ》にある「フォルテシモと同じ力でピアニシモで歌う」という表現は、"常夜灯" に我々が抱くイメージと強く重なります。
問題は、詩の中で「たまにはフォルテシモでも歌います」と宣言しているところです。ここで思い浮かぶのが、アルバム『常夜灯』の第5曲である《倒木の敗者復活戦》です。この詩は No.213「中島みゆきの詩(13)鶺鴒と倒木」で取り上げましたが、「東北の復活戦」では詩にならないので「倒木の敗者復活戦」としたのではないでしょうか。これは中島さんがフォルテシモで歌った曲、中島さんなりの "歌によるシュプレヒコール" であり "歌による(悪い意味ではない)アジテーション" だと思います。アジテーションとは上にも書いたように「人々をある行動に駆り立てようとする、強い調子の演説や文章」であり、人々の感情に訴えようとするものです。
そういう詩を書き、そういう歌い方をする。それは歌い手としてのあるべき姿から外れるかもしれないが、そいうことがたまにはあってもよい。詩や歌は大変幅広く、多様なのだから ・・・・・・。《ピアニシモ》という詩は(そして歌は)そう言っているように思いました。
(続く)
 補記:茨木のり子  |
最近の朝日新聞の「天声人語」を読んで中島みゆきさんの《ピアニシモ》を思い出したので、それを紹介したいと思います。文章がいきなり天声人語子の祖父の話から始まるので少々面くらいますが、主旨は明快です。例によって6段落の文章で、段落は▼で示されていますが、普通の表記に変えて引用します。
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まるで中島みゆき《ピアニシモ》の解説のような天声人語ですが、最後の方で詩人・茨木のり子(1926・大正15~2006・平成18)の詩の一節が引用してあります。コラムの主旨に合う部分だけの引用ですが、全体の詩はスケールが大きいものです。
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中島みゆきさんの《ピアニシモ》は "歌についての詩"、"歌うことについての詩" と本文で書きましたが、それはまだ浅い見方かもしれません。もっと広く、「言葉によって何かを伝えることについての洞察」かもしれない。天声人語と茨木のり子の詩を読んで、そう思いました。
(2019.9.19)
2018-03-30 19:13
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No.227 - 中島みゆきの詩(14)世情 [音楽]
今年の正月のテレビ番組を思い出したので書きます。No.32 でも書いたテレビ朝日系列の「芸能人格付けチェック」(2018年1月1日 放映)のことで、今年久しぶりに見ました。No.32 で書いたのは、この番組の本質です。それは、
としました。もちろんここで言う回答者とは「番組の本質が分かっている回答者」であり、そういう回答者ばかりでないのは見ていて良く分かります。そして、久しぶりに見て改めて感じたのは、番組の "フォーマット" の良さです。つまり、
のです。このフォーマットがなければ全くつまらない番組になるでしょう。これを発明した人はすごいと思います。日本のテレビ番組のフォーマットは海外に輸出した実績がありますが(料理の鉄人など)、この番組も売れるのではないでしょうか。
今年の「芸能人格付けチェック」はGACKTチームとしてYOSHIKIさんが出演していました。GACKTさんは例によって全問正解で連勝記録を伸ばしていましたが、YOSHIKIさんも全問正解でした。問題の一つのワインのテイスティングでは、YOSHIKIさんが自分の名前の入ったワインを作っていることを初めて知りました。相当なワイン通のようです。GACKTさんが5年越しで説得して番組に出演してもらったそうですが、かなりの "目利き" だと分かっていたからでしょう。単に親しいミュージシャンだからという理由でこの番組への出演を説得するはずがありません。
番組の最後には「ミニ格付けチェック」というコーナーがあって、司会の浜田雅功さんと伊東四朗さんと女性アシスタントが問題に挑戦します。ここで浜田さんが2年連続の「写す価値なし」となってしまいました。そしてこのとき流れた BGM が、中島みゆき《世情》でした。《世情》の "時の流れを止めて" というフレーズが聞こえてきたので、「これ以上 "写す価値なし" にならないで」という意味を重ねたのでしょう。
中島ファンとしては、こんなところで《世情》という名曲を使わないで欲しいと思うのですが(そして単に "言葉尻" をとらえた使い方をして欲しくないと思うのですが)、この曲はかつてTBSのドラマ「3年B組金八先生」で用いられたことがあるので(1981年)、テレビとは縁があるのでしょう。また「芸能人格付けチェック」の制作スタッフの中に中島みゆきの楽曲を熟知している人がいる感じもして、それはそれで良しとしましょう。
今回はその、中島みゆき《世情》についてです。この詩は No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でも取り上げたのですが、詩の一部だけだったので、改めてこの詩だけにフォーカスして書くことにします。
中島みゆき 《世情》
《世情》は1978年(中島みゆき 26歳)に発売されたアルバム『愛していると云ってくれ』の最後の収録された曲で、次のような詩です。
曲はギターだけで始まり、小さく合唱が出てきて、それがだんだん大きくなったところで中島さんが歌い出します。上の詩が終わったあとのエンディングでは再び合唱が出てきて、「シュプレヒコール ~ 戦うため」の部分がさらに4回繰り返されるうちにフェイドアウトして楽曲が(=アルバムが)終わります。
この詩のキーワードは、4回出てくる "シュプレヒコール" です。誰が聴いてもそう思うはずです。最初と最後に出てくる合唱は、シュプレヒコールをあげながら行進するデモ隊が近づいてきて、通り過ぎていく情景が浮かびます。そして、このキーワードが学生運動を連想させます。詩の中の "学者" という言葉が大学を暗示している。シュプレヒコールは一般にデモ隊が発するものなので限定して考える必要はないのですが、ここでは学生運動を想定することにします。
このアルバムが発売されたのは1978年です。今では「学生運動」は死語に近くなっていますが、1978年当時はその10年前ほどから全国に広がった学生運動のリアルな記憶ある頃でした。そこで、アルバム発売のちょうど10年まえ、1968年に戻ってみます。
1968年からの数年間
1968年の1月です。従来から医者のインターン制度(無給の研修医制度)の改革を要求していた東京大学医学部の学生は、新制度に反対してストライキに突入しました。この中で、医学部教授が長時間拘束されるという事態になりました。3月、医学部は学生17人を退学や停学の処分にします(この中には拘束の現場にいなかった学生もいた)。これが学生たちの怒りに火をつけ、闘争が始まりました。6月、学生たちは東大のシンボルである安田講堂を占拠し立てこもります。そして東大闘争全学共闘会議(全共闘)が組織され、医学部のみならず全学の自治会がストに突入しました。
その後の経緯は紆余曲折があるのですが、結局大学側は翌年の1969年1月に機動隊の出動を要請し、安田講堂の封鎖は解除され、多数の逮捕者を出しました。その安田講堂の "攻防戦" はテレビで全国に大々的に生中継されました。この一連の紛争の結果、東京大学の入学試験が中止されるという前代未聞の事態になりました。1969年4月に東大に入学した人はゼロです。そして1969年から1970年にかけて、大学の改革を要求する学生たちの運動は全国的に波及しました。また1970年は1960年に締結された日米安全保障条約の改定の年であり、いわゆる「70年安保闘争」にもつながっていきました。
1968年というと、日本大学の不正会計に端を発した日大闘争が起きた年です。また、この年には欧米でも学生運動が多発しました。フランスでベトナム戦争反対、大学運営の民主化を要求して大規模なデモとストライキが起こったのも1968年です(5月革命、ないしは5月危機)。またアメリカの学生運動で有名なコロンビア大学闘争も1968年です。ちなみに1968年にはチェコスロバキア(当時)で自由化・民主化を求める「プラハの春」が起きました(ソ連が武力介入して弾圧)。またアメリカの公民権運動の指導者だったキング牧師が暗殺されたのもこの年でした。
そもそも1960年代後半は、アメリカがベトナムに介入したベトナム戦争に反対する市民運動やデモが、アメリカのみならず日本やヨーロッパでも多発していました。もちろん学生たち(あるいは高校生たち)もそこに参加していました。
以上のような1960年代後半の学生運動を描いた映画も作られました。有名なのが、No.35「中島みゆき:時代」で書いた『いちご白書』です。この映画はまさに1968年のコロンビア大学闘争が題材となっていました。『いちご白書』の日本公開は1970年の秋です。
以上の経緯に中島みゆきさんの経歴を重ねるとどうなるでしょうか。中島さんは1952年2月23日生まれです。高校・大学の経歴を各年の4月の時点でみると、
ということになります。つまり高校1年の3学期に東大闘争がはじまり、高校2年のときに闘争がピークを迎えて安田講堂攻防戦のテレビ生中継があり、高校3年では学生運動が全国に波及し、東大入試がなかった1969年4月の1年後に大学に進学したことになります。『いちご白書』の日本公開は大学1年の秋です(中島さんの『時代』は『いちご白書』の主題歌に影響されたところがあるのでは、という推測を No.35「中島みゆき:時代」に書きました)。
高校生というと、社会への関心が芽生える頃です。中島さんの作品から判断すると、彼女は社会への関心が極めて強いと考えられます(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」)。極端には "この国は危うい" という詩も書いている(「4.2.3.」という詩。1998年のアルバム「わたしの子供になりなさい」に収録)。そういう社会への関心、社会との関係性で人間を考えるというスタンスは、普通、高校生時代に芽生えるものです。彼女も帯広の高校で学生運動の報道を見聞きしながら、そういった思いを膨らませていったと推測します。
『世情』という詩は、歌手デビュー(1975年)してから3年後(1978年)に、1968年~1970年ごろを振り返って作った作品だと考えられます。
シュプレヒコールの波
しかし作品はあくまで独立したものなので、それを作者の個人史をもとに解釈するのは本来の姿ではありません。そういう解釈は中島さんが嫌う態度でしょう。学生運動のイメージに頼りすぎずに『世情』を詩として解釈するとどうなるかです。解釈のポイントは4回繰り返される、
という部分でしょう。これは詩であって、論理的な文章ではありません。省略されている言葉があるし、また中島さんの詩には二重の意味にとれる言葉が多々あります(言葉の多義性を利用した詩)。上の引用の「変わらない夢」も二重の意味にとれると思います。まず、
という理解があります。これが普通の受け止め方だと想います。ただ、この詩の場合は、
ともとれるでしょう。つまり夢の内容が「変わらないこと」であるという解釈です。こういうニュアンスもあって、シュプレヒコールからの4行をどのように解釈するかは人によって差異が生じて当然です。その差異があるという前提で解釈を書くとすると、
ということでしょう。政治的なニュアンスで表現したとしたら「改革派」と「現状維持派」ということになるのでしょうが、こういう対立は何も政治に限りません。人間社会におけるさまざまな組織やグループにみられるものです。一人の個人の中にもこの二つの思いがあったりする。これはどちらが良いとか悪いとかではなく、普遍的な二項対立です。
これと関連して「変わらない」ということばが出てくる次の部分も重要だと思います。
これをさきほどの「改革派」と「現状維持派」という言葉をあえて使って解釈すると、
という感じでしょうか。ただしこの様に "固定的に" 考えるのはあまりよくないのかも知れません。中島さんの作品には、聴く人のその時の心情によって違うイメージを重ねてもいいような言葉使いがいろいろとあるからです。
ただ、この詩は「シュプレヒコール」に加えて「変わらない」という言葉がキーワードになっていることは確かでしょう。冒頭の1行から「変わっている」という「変わらない」の反対語が出てきます。その直後の「頑固者」は「変わらないもの」と類似の意味の言葉です。さらに、変わることの象徴である「時の流れ」、あるいは省略して「流れ」もこの詩のキーワードになっています。
そして4回繰り返される「シュプレヒコール ~ 戦うため」は、やはり「時の流れを止めようとするもの」との "戦い" へのシンパシーを表現したものだと思います。アルバムを聴くと、中島さんは一番最後の「戦うため」という言葉だけを強く、長く伸ばして歌っているのですが、その歌い方に詩を書いた意図が表されていると思います。
"世情" というタイトル
さらにこの詩には、世の中に関する次のような認識が盛り込まれています。
「シュプレヒコール」「変わらない夢」「変わらないもの」「時の流れ」に加えて、これらすべてが "世情" という言葉でくくられています。この "世情" というタイトルに注目すべきだと思います。"世情" とは「世の中のありさま」とか「世の中の状況」とか「世間一般の人の考えや人情」といった意味です。"世情" は、何らかの価値判断をしている言葉ではなく、いわば無色透明な言葉です。26歳の新進気鋭のシンガー・ソングライターなら、ふつう曲の題名にはしないような、もっと言うとポップ・ミュージックの題名にはそぐわないような言葉です。ちょうど『時代』というタイトルの付け方に似ています。
このタイトルが示しているのは、世の中はこういうもの、という認識でしょう。これはいつの世にもありうる状況を切り取った詩だと思います。はじめに学生運動を想起させると書きましたが、そういう固定的な解釈はそぐわない。「時の流れの中に夢をみるもの」と「時の流れを止める夢を見るもの」の対立は普遍的にあるものだからです。学生運動の記憶がこの詩のきっかけだったかもしれないが(それとて本当かどうか不明です)、この詩が見据えている本質ではありません。
《世情》を他の歌手の方が歌っているのをテレビで視聴したことがあります。その方は強い感情を込め、思い入れたっぷりに、まるで「戦いに破れて挫折した人たちに対する哀悼やエール」のような歌い方をしていました。何だか違和感がありましたね。そういう歌い方をすべき詩なのだろうかと思ったわけです。もちろん "思い入れ" があってもいいのですが、全体としては "世情" についての詩、"世の中の状況" についての詩です。感情をあからさまにせず、どちらかいうと淡々と歌った方がいい。その中から "思い入れ" が滲み出てくるような歌い方 ・・・・・・。アルバムでの中島さんがまさにそうです。
『世情』のような内容の曲を他の歌手がカバーするのは危険だと思います。歌手としてのよほどの力量がないと、本来の姿からねじ曲がってしまう。
やはりポイントは、いつの時代にもいえる普遍性を表現した詩だということです。それが "世情" だと思います。
作曲家:中島みゆき
詩の内容ではないのですが、作曲の面から付け加えたいと思います。4回繰り返される(最後の合唱まで含めると8回繰り返される)、
の部分ですが、ここのメロディーが詩の内容に良くマッチしています。上昇し下降する旋律が、同じリズム(似たリズム)で8回繰り返されるのですが、これが「シュプレヒコールの波」という詩の「波」という言葉と良く合っている。波が幾度となく押し寄せるように、シュプレヒコールが何度も近づき、遠ざかっていく様子が、メロディー・ラインでうまく表現されています。また、モノローグのように始まる最初の部分との対比もよく利いています。
前にも書きましたが、中島作品の評価やコメントにおいて「作曲家・中島みゆき」が語られることは、「歌手」や「詩人」と比較すると少ないと思います。だけど彼女は、歌手、詩人と同程度に、作曲家として優れていると思います。その3つが非常に高いレベルにあり、かつ融合している。この文章を書くために久しぶりに《世情》を聴いてみて、改めてそう思いました。
問題出題者は、高級品・高級食材に人々が抱いている暗黙の思いこみを利用して回答者を "引っかけ" ようとする。回答者は思いこみを排し、問題にどんな "罠" が仕掛けられているのかを推測して正解にたどり着こうとする。 |
としました。もちろんここで言う回答者とは「番組の本質が分かっている回答者」であり、そういう回答者ばかりでないのは見ていて良く分かります。そして、久しぶりに見て改めて感じたのは、番組の "フォーマット" の良さです。つまり、
回答者を順に Aの部屋とBの部屋に入れ、互いをモニターできるようにし、かつ視聴者は2つの部屋をモニターでき、最後は司会者が正解の部屋の扉を開けることによって正解者が驚喜するという、このテレビ番組のフォーマットが素晴らしい |
のです。このフォーマットがなければ全くつまらない番組になるでしょう。これを発明した人はすごいと思います。日本のテレビ番組のフォーマットは海外に輸出した実績がありますが(料理の鉄人など)、この番組も売れるのではないでしょうか。
今年の「芸能人格付けチェック」はGACKTチームとしてYOSHIKIさんが出演していました。GACKTさんは例によって全問正解で連勝記録を伸ばしていましたが、YOSHIKIさんも全問正解でした。問題の一つのワインのテイスティングでは、YOSHIKIさんが自分の名前の入ったワインを作っていることを初めて知りました。相当なワイン通のようです。GACKTさんが5年越しで説得して番組に出演してもらったそうですが、かなりの "目利き" だと分かっていたからでしょう。単に親しいミュージシャンだからという理由でこの番組への出演を説得するはずがありません。
番組の最後には「ミニ格付けチェック」というコーナーがあって、司会の浜田雅功さんと伊東四朗さんと女性アシスタントが問題に挑戦します。ここで浜田さんが2年連続の「写す価値なし」となってしまいました。そしてこのとき流れた BGM が、中島みゆき《世情》でした。《世情》の "時の流れを止めて" というフレーズが聞こえてきたので、「これ以上 "写す価値なし" にならないで」という意味を重ねたのでしょう。
中島ファンとしては、こんなところで《世情》という名曲を使わないで欲しいと思うのですが(そして単に "言葉尻" をとらえた使い方をして欲しくないと思うのですが)、この曲はかつてTBSのドラマ「3年B組金八先生」で用いられたことがあるので(1981年)、テレビとは縁があるのでしょう。また「芸能人格付けチェック」の制作スタッフの中に中島みゆきの楽曲を熟知している人がいる感じもして、それはそれで良しとしましょう。
今回はその、中島みゆき《世情》についてです。この詩は No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でも取り上げたのですが、詩の一部だけだったので、改めてこの詩だけにフォーカスして書くことにします。
なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。 |
中島みゆき 《世情》
《世情》は1978年(中島みゆき 26歳)に発売されたアルバム『愛していると云ってくれ』の最後の収録された曲で、次のような詩です。
|
①「元気ですか」 ②怜子 ③わかれうた ④海鳴り ⑤化粧 ⑥ミルク32 ⑦あほう鳥 ⑧おまえの家 ⑨世情
|
曲はギターだけで始まり、小さく合唱が出てきて、それがだんだん大きくなったところで中島さんが歌い出します。上の詩が終わったあとのエンディングでは再び合唱が出てきて、「シュプレヒコール ~ 戦うため」の部分がさらに4回繰り返されるうちにフェイドアウトして楽曲が(=アルバムが)終わります。
この詩のキーワードは、4回出てくる "シュプレヒコール" です。誰が聴いてもそう思うはずです。最初と最後に出てくる合唱は、シュプレヒコールをあげながら行進するデモ隊が近づいてきて、通り過ぎていく情景が浮かびます。そして、このキーワードが学生運動を連想させます。詩の中の "学者" という言葉が大学を暗示している。シュプレヒコールは一般にデモ隊が発するものなので限定して考える必要はないのですが、ここでは学生運動を想定することにします。
このアルバムが発売されたのは1978年です。今では「学生運動」は死語に近くなっていますが、1978年当時はその10年前ほどから全国に広がった学生運動のリアルな記憶ある頃でした。そこで、アルバム発売のちょうど10年まえ、1968年に戻ってみます。
1968年からの数年間
1968年の1月です。従来から医者のインターン制度(無給の研修医制度)の改革を要求していた東京大学医学部の学生は、新制度に反対してストライキに突入しました。この中で、医学部教授が長時間拘束されるという事態になりました。3月、医学部は学生17人を退学や停学の処分にします(この中には拘束の現場にいなかった学生もいた)。これが学生たちの怒りに火をつけ、闘争が始まりました。6月、学生たちは東大のシンボルである安田講堂を占拠し立てこもります。そして東大闘争全学共闘会議(全共闘)が組織され、医学部のみならず全学の自治会がストに突入しました。
その後の経緯は紆余曲折があるのですが、結局大学側は翌年の1969年1月に機動隊の出動を要請し、安田講堂の封鎖は解除され、多数の逮捕者を出しました。その安田講堂の "攻防戦" はテレビで全国に大々的に生中継されました。この一連の紛争の結果、東京大学の入学試験が中止されるという前代未聞の事態になりました。1969年4月に東大に入学した人はゼロです。そして1969年から1970年にかけて、大学の改革を要求する学生たちの運動は全国的に波及しました。また1970年は1960年に締結された日米安全保障条約の改定の年であり、いわゆる「70年安保闘争」にもつながっていきました。
余談ですが、No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」に書いたように、評論家・思想家の内田 樹氏は1950年9月生まれなので、順当なら大学入学は1969年4月です。しかし内田さんは1970年4月に東大に入学しています。おそらく東大入試が中止されたので、あえて一浪したのでしょう。入試中止というのは現役で東大を目指していた人にはショックだったでしょうが、一浪して目指していた人にとってはもっとショックだったはずです。 |
1968年というと、日本大学の不正会計に端を発した日大闘争が起きた年です。また、この年には欧米でも学生運動が多発しました。フランスでベトナム戦争反対、大学運営の民主化を要求して大規模なデモとストライキが起こったのも1968年です(5月革命、ないしは5月危機)。またアメリカの学生運動で有名なコロンビア大学闘争も1968年です。ちなみに1968年にはチェコスロバキア(当時)で自由化・民主化を求める「プラハの春」が起きました(ソ連が武力介入して弾圧)。またアメリカの公民権運動の指導者だったキング牧師が暗殺されたのもこの年でした。
そもそも1960年代後半は、アメリカがベトナムに介入したベトナム戦争に反対する市民運動やデモが、アメリカのみならず日本やヨーロッパでも多発していました。もちろん学生たち(あるいは高校生たち)もそこに参加していました。
以上のような1960年代後半の学生運動を描いた映画も作られました。有名なのが、No.35「中島みゆき:時代」で書いた『いちご白書』です。この映画はまさに1968年のコロンビア大学闘争が題材となっていました。『いちご白書』の日本公開は1970年の秋です。
以上の経緯に中島みゆきさんの経歴を重ねるとどうなるでしょうか。中島さんは1952年2月23日生まれです。高校・大学の経歴を各年の4月の時点でみると、
◆ | 1968年4月・16歳 高校2年(帯広柏葉高校) | ||
◆ | 1969年4月・17歳 高校3年 | ||
◆ | 1970年4月・18歳 大学1年(藤女子大学・札幌) |
ということになります。つまり高校1年の3学期に東大闘争がはじまり、高校2年のときに闘争がピークを迎えて安田講堂攻防戦のテレビ生中継があり、高校3年では学生運動が全国に波及し、東大入試がなかった1969年4月の1年後に大学に進学したことになります。『いちご白書』の日本公開は大学1年の秋です(中島さんの『時代』は『いちご白書』の主題歌に影響されたところがあるのでは、という推測を No.35「中島みゆき:時代」に書きました)。
高校生というと、社会への関心が芽生える頃です。中島さんの作品から判断すると、彼女は社会への関心が極めて強いと考えられます(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」)。極端には "この国は危うい" という詩も書いている(「4.2.3.」という詩。1998年のアルバム「わたしの子供になりなさい」に収録)。そういう社会への関心、社会との関係性で人間を考えるというスタンスは、普通、高校生時代に芽生えるものです。彼女も帯広の高校で学生運動の報道を見聞きしながら、そういった思いを膨らませていったと推測します。
『世情』という詩は、歌手デビュー(1975年)してから3年後(1978年)に、1968年~1970年ごろを振り返って作った作品だと考えられます。
シュプレヒコールの波
しかし作品はあくまで独立したものなので、それを作者の個人史をもとに解釈するのは本来の姿ではありません。そういう解釈は中島さんが嫌う態度でしょう。学生運動のイメージに頼りすぎずに『世情』を詩として解釈するとどうなるかです。解釈のポイントは4回繰り返される、
|
という部分でしょう。これは詩であって、論理的な文章ではありません。省略されている言葉があるし、また中島さんの詩には二重の意味にとれる言葉が多々あります(言葉の多義性を利用した詩)。上の引用の「変わらない夢」も二重の意味にとれると思います。まず、
◆ | 以前からずっと抱いていて、今後も抱くであろう "夢"(=こういう風になりたい、ありたい、との願い) |
という理解があります。これが普通の受け止め方だと想います。ただ、この詩の場合は、
◆ | 今の状況のままでありたい、変わらないで欲しいという夢や願い |
ともとれるでしょう。つまり夢の内容が「変わらないこと」であるという解釈です。こういうニュアンスもあって、シュプレヒコールからの4行をどのように解釈するかは人によって差異が生じて当然です。その差異があるという前提で解釈を書くとすると、
◆ | 「シュプレヒコールをあげる人たち」が、「別の誰か」と戦っている。 | ||
◆ | その「別の誰か」とは、時の流れが止まってほしい、このままであって欲しいという「変わらぬ夢」を見ている人たちである。 | ||
◆ | その反対に、シュプレヒコールをあげる人たちの「変わらぬ夢」とは、時の流れを進め、流れに乗って、現状とは違う新しい世界を願う人たちである。 |
ということでしょう。政治的なニュアンスで表現したとしたら「改革派」と「現状維持派」ということになるのでしょうが、こういう対立は何も政治に限りません。人間社会におけるさまざまな組織やグループにみられるものです。一人の個人の中にもこの二つの思いがあったりする。これはどちらが良いとか悪いとかではなく、普遍的な二項対立です。
これと関連して「変わらない」ということばが出てくる次の部分も重要だと思います。
|
これをさきほどの「改革派」と「現状維持派」という言葉をあえて使って解釈すると、
改革派は現状維持派を何かにたとえて自らの主張の正当性を言い、その主張が崩れると現状維持派のせいにする |
という感じでしょうか。ただしこの様に "固定的に" 考えるのはあまりよくないのかも知れません。中島さんの作品には、聴く人のその時の心情によって違うイメージを重ねてもいいような言葉使いがいろいろとあるからです。
ただ、この詩は「シュプレヒコール」に加えて「変わらない」という言葉がキーワードになっていることは確かでしょう。冒頭の1行から「変わっている」という「変わらない」の反対語が出てきます。その直後の「頑固者」は「変わらないもの」と類似の意味の言葉です。さらに、変わることの象徴である「時の流れ」、あるいは省略して「流れ」もこの詩のキーワードになっています。
そして4回繰り返される「シュプレヒコール ~ 戦うため」は、やはり「時の流れを止めようとするもの」との "戦い" へのシンパシーを表現したものだと思います。アルバムを聴くと、中島さんは一番最後の「戦うため」という言葉だけを強く、長く伸ばして歌っているのですが、その歌い方に詩を書いた意図が表されていると思います。
"世情" というタイトル
さらにこの詩には、世の中に関する次のような認識が盛り込まれています。
・ | 世の中はいつも変化している | ||
・ | 頑固者が悲しい思いをする | ||
・ | 世の中はとても臆病 | ||
・ | 世の中には他愛のない嘘があふれている | ||
・ | 他愛のない嘘を指摘して思い上がる人たちがいる(= "学者" と表現されている) |
「シュプレヒコール」「変わらない夢」「変わらないもの」「時の流れ」に加えて、これらすべてが "世情" という言葉でくくられています。この "世情" というタイトルに注目すべきだと思います。"世情" とは「世の中のありさま」とか「世の中の状況」とか「世間一般の人の考えや人情」といった意味です。"世情" は、何らかの価値判断をしている言葉ではなく、いわば無色透明な言葉です。26歳の新進気鋭のシンガー・ソングライターなら、ふつう曲の題名にはしないような、もっと言うとポップ・ミュージックの題名にはそぐわないような言葉です。ちょうど『時代』というタイトルの付け方に似ています。
このタイトルが示しているのは、世の中はこういうもの、という認識でしょう。これはいつの世にもありうる状況を切り取った詩だと思います。はじめに学生運動を想起させると書きましたが、そういう固定的な解釈はそぐわない。「時の流れの中に夢をみるもの」と「時の流れを止める夢を見るもの」の対立は普遍的にあるものだからです。学生運動の記憶がこの詩のきっかけだったかもしれないが(それとて本当かどうか不明です)、この詩が見据えている本質ではありません。
《世情》を他の歌手の方が歌っているのをテレビで視聴したことがあります。その方は強い感情を込め、思い入れたっぷりに、まるで「戦いに破れて挫折した人たちに対する哀悼やエール」のような歌い方をしていました。何だか違和感がありましたね。そういう歌い方をすべき詩なのだろうかと思ったわけです。もちろん "思い入れ" があってもいいのですが、全体としては "世情" についての詩、"世の中の状況" についての詩です。感情をあからさまにせず、どちらかいうと淡々と歌った方がいい。その中から "思い入れ" が滲み出てくるような歌い方 ・・・・・・。アルバムでの中島さんがまさにそうです。
『世情』のような内容の曲を他の歌手がカバーするのは危険だと思います。歌手としてのよほどの力量がないと、本来の姿からねじ曲がってしまう。
やはりポイントは、いつの時代にもいえる普遍性を表現した詩だということです。それが "世情" だと思います。
作曲家:中島みゆき
詩の内容ではないのですが、作曲の面から付け加えたいと思います。4回繰り返される(最後の合唱まで含めると8回繰り返される)、
|
の部分ですが、ここのメロディーが詩の内容に良くマッチしています。上昇し下降する旋律が、同じリズム(似たリズム)で8回繰り返されるのですが、これが「シュプレヒコールの波」という詩の「波」という言葉と良く合っている。波が幾度となく押し寄せるように、シュプレヒコールが何度も近づき、遠ざかっていく様子が、メロディー・ラインでうまく表現されています。また、モノローグのように始まる最初の部分との対比もよく利いています。
前にも書きましたが、中島作品の評価やコメントにおいて「作曲家・中島みゆき」が語られることは、「歌手」や「詩人」と比較すると少ないと思います。だけど彼女は、歌手、詩人と同程度に、作曲家として優れていると思います。その3つが非常に高いレベルにあり、かつ融合している。この文章を書くために久しぶりに《世情》を聴いてみて、改めてそう思いました。
(続く)
2018-03-16 20:22
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No.226 - 血糖と糖質制限 [科学]
No.221「なぜ痩せられないのか」の続きです。No.221 で米国・タフツ大学の研究を紹介しました。食物のグリセミック指数(Glycemic Index。GI値)と肥満の関係です。GI値とは、その食物を摂取したときにどの程度血糖値(血液中のブドウ糖の濃度)が上昇するかという値で、直接ブドウ糖を摂取したときを 100 として指数化したものです。タフツ大学の研究結果は、
というものでした。この研究は、肥満(ないしはダイエット)と脳の働きの関係に注目しているのがポイントです。空腹感は人を生き延びさせる大切な脳の働きであり、ダイエットをするために空腹感と戦ってはダメです。そもそも空腹感が起きにくい(かつ健康的な)食事をすべきだということでした。
No.221 にも書いたのですが、「低GI値の食物 = 血糖値の上昇が少ない食物を食べてダイエットをする」というのは、いわゆる糖質制限と基本的には同じです。そこで今回は、血糖値と肥満の関係、糖質制限がなぜダイエットになるのかという基本的なところを振り返ってみたいと思います。こういった人間の体の微妙なメカニズムを理解することが、健康に生きるために大切なことだと思うからです。
理解のためのキーワードは「糖」であり、「糖質」と「血糖」です。人体のメカニズムに入るまえにまず、糖質とはなにか、血糖とは何かを整理しておきます。
糖質と血糖
"糖" はアミノ酸や脂肪酸と並んで人体の構成要素やエネルギー源になっている最も基本的な物質です。「単糖類」が基本であり、「二糖類」「オリゴ糖」「多糖類」があります。
単糖類は、消化酵素でそれ以上は分解できない糖で、
が代表的なものです。いずれも甘味があります。単糖類がそれだけで食品になっているのがハチミツで、成分はブドウ糖と果糖です。果糖は果物に多く含まれていて、天然に存在する物質としては最も甘いものです(砂糖より甘い)。ガラクトースは乳汁に含まれています。
二糖類は単糖類2つからなる糖で
が代表的です。いずれも人の消化酵素によって単糖類に分解され、またそれ自身が甘味を持っています。最も甘いのは蔗糖(=砂糖の成分)です。麦芽糖は発芽した麦類に多く含まれ、乳糖は乳汁に多く含まれます。
オリゴ糖は 3~10個の単糖類が結合した糖類です。人間にはオリゴ糖を消化できる酵素がなく、腸内細菌であるビフィズス菌や乳酸菌で分解されます。ちなみに母乳には乳糖のほかにオリゴ糖が含まれていて、人は生まれた時から腸内細菌の存在を前提としていることが分かります。オリゴ糖を少糖類と言うことがあり、また二糖類まで含めて少糖類とすることもあります。
多糖類は10を越える単糖類が結合したもので、デンプンとグリコーゲンが代表的なものです。デンプンはブドウ糖が多数結合したもので、穀物や根菜類(イモなど)に多く含まれます。アミラーゼという酵素で麦芽糖に分解され、さらにブドウ糖へと分解されます。もちろん穀物や根菜類だけでなく、多くの豆類もデンプンを含んでいます。
グリコーゲンも多数のブドウ糖の結合体です。人体ではブドウ糖からグリコーゲンが合成され、再びブドウ糖に分解されることでエネルギー源になります。つまり、ブドウ糖の貯蔵物質としての役割をもっています。
多糖類は人間が消化できないものが多いのですが、その代表がセルロースです。セルロースは植物の細胞壁を構成する物質で、地球上にある糖類は量からするとセルロースが最も多くなります。人の腸内細菌はこれを脂肪酸などに変換し、これがエネルギー源となります。草食動物(たとえば牛)は胃にセルロースを分解できる細菌がいて、そこで栄養素が生み出されます。
栄養素としてよく話題になる食物繊維は、難消化性の多糖類の総称で、セルロースがその代表的なものです。食物繊維が多い代表的な食品は、前回の No.225「手を洗いすぎてはいけない」にあげました。
炭水化物は糖類とほぼ同義です。分子式で書くと C(炭素)と H と O(水分子の構成原子)になるので "[炭][水]化物" ですが、化学的な見方だといえます。難消化性の炭水化物が食物繊維で、それ以外の消化性のものが糖質です。つまり、
炭水化物 = 糖質 + 食物繊維
が普通の言葉の使い方です。
血糖とは血液中のブドウ糖のことで、脳の主要なエネルギー源になります。厳密にはケトン体も脳のエネルギー源ですが、話をシンプルにするために、以降は「脳のエネルギー源 = ブドウ糖」とします。血糖値とは血液中に含まれるブドウ糖の濃度で、人間では 100mg/dl 程度が平均的な値です。dl(デシリットル)とは小学校で習う単位ですが、デシは 1/10 の意味で、1dl = 0.1リットルです。100mg/dl は 1g/L ということになります。
血糖値は食事によって変化します。健康診断の結果表を見ると、血糖値の基準値が「食後1時間の値」「食後2時間の値」「空腹時の値」にわけて書いてあります。全体では70~160程度の値(あるいは80~140程度)になっていて、これをざっくり平均すると 100mg/dl 程度になるということです。
血糖値を上げる唯一の物質は糖質で、消化酵素によってブドウ糖が生成されることにより血糖値が上昇します。なかでも特にデンプンと砂糖です。食物繊維は腸内細菌によって分解されますが、生成されるのは主に脂肪酸であり、血糖値が上昇することはありません。もちろん脂質やタンパク質そのものは血糖値を上げません。
食物には「純粋な糖質」とか「純粋な食物繊維」はなく、タンパク質が豊富な大豆にもデンプン(糖質)や食物繊維が含まれています。No.221「なぜ痩せられないのか」に、食品のグリセミック指数(GI値)書きました。GI値の低い食物は血糖値の上昇が少なく、GI値の高い食物(70以上)は血糖値を上げやすい。再掲すると以下です。
GI値の高い食物の共通項は、穀物か根菜か砂糖であり、穀物と根菜の共通項はデンプンです。
糖質食で太る理由、糖質制限で痩せる理由
以上をふまえて、糖質が多い食物を摂取し過ぎるとなぜ太るのか、また糖質制限でなぜ痩せるのかをまとめます。実は、私が一番納得のいった(そして分かりやすい)説明は、夏井 睦氏の著書である『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書 2013)にあった説明でした。それを以下に引用します。夏井氏は医者(形成外科医)です。題名の「人類を滅ぼす」とは随分 "過激な" タイトルですが、本の全体の内容は後で書くことにします。
「大きめの角砂糖1個分」との記述がありますが、これは「4.2グラムは、大きめの角砂糖1個分の重さ」ということです。角砂糖の成分はほぼ100%の蔗糖(砂糖)で、二糖類の説明に書いたように蔗糖はブドウ糖と果糖の結合体です。ということは、あくまで概算ですが「体重60キロの男性の血液中のブドウ糖は、大きめの角砂糖2個に含まれるブドウ糖と同程度」ということになります。たとえば紅茶に角砂糖を1個入れて2杯飲むと、そのブドウ糖は全身の血糖量に "相当する"、ということは覚えておいた方がいいと思います。
血液によってブドウ糖が供給されないと脳は正常に働きません。血糖値が 50mg/dl 以下になると精神症状が出始め、もっと低くなると意識障害を引き起こします。もちろん普通の人はそうなる前に血糖値を正常に戻す機能が働きます。実は、ブドウ糖を主なエネルギー源として使っている脳のような組織は、人体では例外的です。
少々本筋からはずれますが、夏井氏の本にはエネルギーを取り出す効率は脂肪酸の方がブドウ糖より断然高いと書かれています。では、脳はなぜ脂肪酸を使わないのか。夏井氏は2つの仮説を紹介しています。
話を本筋に戻します。脳へのブドウ糖供給はどうやって維持されるのかという点です。
この引用の最後に「糖質をいっさい食べない肉食動物」のことが出てきますが、「糖質をいっさい食べない草食動物」でも同じことです。たとえば反芻動物の牛です。現代の家畜としての牛は糖質たっぷりの飼料を "食べさせられて" いますが、牧場で放し飼いの牛の食料は草です。草の炭水化物はほとんどが食物繊維で、セルロースが大量に含まれています。牛は胃に共生しているセルロース分解菌の助けで、セルロースを栄養にしてい生きています。しかしセルロース分解菌がつくり出すのはアミノ酸と脂肪酸であり、糖質ではありません。肉食動物だけでなく、牛の血糖も食物由来でないことが明白です。
話を人間に戻しますと、人間の血糖値の維持はどうやって行われるのか、それが "糖新生" という人体の機能です。これは動物にも共通しています。
この説明で糖新生はタンパク質からと単純化されていますが、夏井氏の本の別のところには、現在判明している糖新生の5つのルートが書かれています。
糖源性アミノ酸とは「糖新生の原料になるアミノ酸」のことで、タンパク質からの糖新生とはこのルートを言っています。タンパク質を分解してアミノ酸にし、そこからブドウ糖を作る。この糖新生において血糖値の低下を感知して糖新生のトリガーを引くホルモンは、グルカゴン、アドレナリン、コチゾール、成長ホルモンなど、複数種類あることが書かれています。
ちなみに ATP とは、高校の生物に出てきたと思いますが、アデノシン三リン酸(Adenosine TriPhosphate)の略です。ATP は細菌から人間まで、エネルギーの貯蔵・放出の役割を担っている物質で、生体のエネルギー通貨と呼ばれています。
上の引用の下線のところが、糖質制限で痩せる理由になっています。つまり糖質を制限すると、血糖値の低下を補うためタンパク質と脂肪が分解されるというわけです。
上の文章に何点か補足しますと、血糖値が高い状態が続くと血管や神経が損傷します。我々は糖尿病がひどくなるとどうなるを知っています。網膜の血管がやられて失明に至り、足が壊疽して切断に至り、あるいは糖尿病性の腎不全になったりする。腎不全になると脳にダメージがくるので生命にかかわります。
また、余ったブドウ糖は中性脂肪に変えられるだけでなく、グリコーゲンに変えられて肝臓などにストックされます。こういった余剰なブドウ糖をストックするトリガーを引いているのが、膵臓で作られるホルモン、インスリンです。血糖値を低下させるホルモンはインスリンしかなく、血糖値を上昇させるホルモンが数種類あるのとは対照的です。夏井氏は「血糖値低下にはセーフティーネットがない」と書いていますが、その通りです。もしインスリンの分泌が悪いとか、インスリンが分泌されても体がそれに反応しにくいとかだと、まずいことになるわけです。なぜ血糖値低下のためのセーフティーネットがないのか、人体の不思議なところです。
さらに糖質と肥満の関係ですが、単糖類の果糖(フルクトース)は中性脂肪に変えられて脂肪細胞にストックされます。果糖は果物に多く含まれているので、肥満を避けるためには要注意でしょう。もちろん程度問題です。
以上の説明を「糖質食で太る理由、糖質制限で痩せる理由」という観点でまとめると次のようになります。
糖質制限
糖質制限で痩せる理由を振り返ると、ブドウ糖以外のものからブドウ糖を作り出す "糖新生" という体のメカニズムが鍵となっています。夏井氏の本には「必須アミノ酸と必須脂肪酸はあるが、必須炭水化物はない」と書かれていました。なるほど ・・・・・・。生存に必須だが人体が作り出せず、食べ物から摂取するしかないアミノ酸(トリプトファン、ロイシンなど)と脂肪酸(リノール酸、EPA、DHAなど)があります。しかし必須炭水化物や必須糖質はないのですね。
糖質制限は特に近年広まってきました。糖質ゼロや低糖質をうたった食品や飲料が売られているし、外食産業でも低糖質のメニューを用意するようになっています。RIZAPなどのビジネスとしての成功も影響しているでしょう。
しかし考えてみると、糖質制限はかなり昔からありました。「糖質制限によるダイエットを最初に提唱したのは、19世紀イギリスのウィリアム・バンティング(1796-1878)だと言いますから、150年ほどの歴史がある由緒あるダイエットであるわけです。また、以前からよく言われる「太らないために甘いものを食べ過ぎないようにしましょう」と基本的に同じです。砂糖は消化されてブドウ糖になる典型的な糖質です。そのため、甘さ控えめのケーキや菓子が作られてきたし、コーヒーや紅茶に砂糖を入れない人も多い。甘いものに拒否反応を示す人も大勢います。また商品としての飲料に甘みをつけるときには人工甘味料を使うわけです。
その砂糖とおなじく糖質のカテゴリーなのが、穀類やイモ類に多く含まれるデンプンです。しかしデンプンは甘くないのが落とし穴なのですね。食品のグリセミック指数(GI値)を並べたリストを書きましたが(前出)、詳しく言うと精白米のGI値は80程度、食パンのGI値は90程度です。この値はブドウ糖を直接摂取するのと比較したものなので、血糖値をあげるという観点からみると、精白米も食パンも砂糖(蔗糖)と同じようなものということになります。人体においてはグリコーゲンが "ブドウ糖備蓄物質" でしたが、植物においてはデンプンが "ブドウ糖備蓄物質" であり、我々はそれを食べているという認識が必要です。
もちろん糖質制限には注意も必要です。糖質制限で痩せる原理から分かるように、糖質制限をするなら栄養を補給するために脂質やタンパク質を十分にとる必要があるでしょう。しかし、だからと言って脂質・タンパク質の過食に陥ると、糖質だけを制限していても肥満になるのは当然です。また、糖質がたっぷりある食品で食物繊維も多いものがあります(玄米など)。糖質制限の結果として食物繊維も制限してしまうと話がおかしくなります。
要はバランスと程度問題です。我々としては体のメカニズムを知り、肥満に陥らずに(もちろん糖尿病にならずに)健康に過ごすべきだというこです。
「炭水化物が人類を滅ぼす」
夏井 睦氏の『炭水化物が人類を滅ぼす - 糖質制限からみた生命の科学 - 』(光文社新書 2013)という本のことを書きます。この題名は誰がつけたのか知りませんが、随分と "過激な" 題名です。前回の No.225 で紹介した藤田紘一郎氏の『手を洗いすぎてはいけない』(光文社新書 2017)の副題は「超清潔志向が人類を滅ぼす」でしたが、"人類を滅ぼすシリーズ" としては夏井氏の本が先輩です。どうも光文社の編集部はこの題名が好きなようで、次はどんなものが人類を滅ぼすのか楽しみにしていましょう。
それはともかく、題名を一見すると "キワモノ本" か "トンデモ本" かと思ってしまいますが、内容はそうでもありません。つまり「炭水化物が」というのが言い過ぎであって「穀物食が」か「デンプン食が」が適切です。また「人類を滅ぼす」というのも大げさで「行き過ぎたデンプン食が人類を不幸にする」ぐらいが正しい。ただし、こんなインパクトのない題名では本は売れないのでしょう。
夏井氏は外科医(形成外科医)ですが、自身の肥満と高血圧と高脂質症(医者の不養生!)を改善するために糖質制限を始めました。きっかけは2011年に、糖質制限の提唱者である江部康二先生(京都・高雄病院)のネット記事を読んだからです。その結果、半年で11kg痩せたそうです。高血圧症や高脂質症(中性脂肪過多とLDLコレステロール=悪玉コレステロール過多)もすっかり改善しました。
夏井氏の "師" にあたる江部先生の糖質制限は、もともと糖尿病患者の治療のためのものです。その糖質制限でまず思うのは、
という疑問です。実は数年前に印象的な出来事がありました。私の間接的な知人である Aさんのことです。Aさんは糖尿病になったのですが、病院で治療せず、医者とも相談せず、自分で本と文献を読みあさり、食事制限だけで糖尿病を完治させました。何でも、主食は "おから" にしたそうです。その Aさんの言は「今の糖尿病治療は医者と製薬会社の陰謀だ」というものでした。この Aさんの言と全く同じ主旨が夏井氏の本に書かれています。Aさんのことがあったので、夏井氏の本も(その過激なタイトルにもかかわらず)意義があると思ったのです。
江部先生は糖質制限を次の3つに分けています。
夏井氏によると、プチ糖質制限はこれから糖質制限を始めようという初心者向け、スタンダード糖質制限が標準、スーパー糖質制限は医者にかからずに糖尿病を直したい人、ないしはスタンダード糖質制限では物足りないストイックな人向けだそうです。おそらく先ほどの Aさんは「スーパー糖質制限」だったのでしょう。ごはんの代わりに "おから"(=極めて低糖質)は良い選択だと思います。ちなみに私は随分前から夕食にごはんは食べませんが、妻の手作りピザを食べることもあるので「プチ糖質制限-」ぐらいでしょう。夏井氏は「スタンダード以上、スーパー未満」だそうです。
人類史と糖質
夏井氏の本は「糖質制限からみた生命の科学」という副題がつけられているように、糖質制限のことだけを書いているのではありません。生物の仕組みや生命の誕生と進化、人類の歴史などを糖質と結びつけて論じているところに特色があります。「動物の血糖値」「生命の起源とブドウ糖」「哺乳類の起源と糖質」「定住の起源」「農耕の起源と小麦栽培」「食事を楽しみにしたのは糖質=穀物と砂糖」「1日が3食になった理由」などのテーマです。ちなみに「定住の起源」については、西田正規氏(筑波大学名誉教授)の「定住が先で農業がその後。定住こそが革命的な出来事」という論を紹介したものです
「動物の血糖値」のところですが、さまざまな動物の血糖値は 50 ~ 150mg/dl 程度で、人間の 100mg/dl 前後と良く似ています(ほとんど動かないナマケモノは 20 程度)。しかし鳥類だけは200台後半~300台後半と極めて高いのですね。300mg/dl というのは人間の3倍です。これだけ高血糖でも鳥類の血管は哺乳類と構造が違うので損傷しないようです。飛翔という運動は脳の高度な働きが必要なことを想像させます。また鳥は恐竜から進化したものですが(No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」参照)、夏井氏は恐竜の血糖値も高かったのではと想像しています。恐竜の中には運動能力に優れたものがあって、それは高血糖に支えられていたのではという推測です。
人類の最初の農業になった小麦栽培の話が念入りに書かれているのですが、米作の起源についての記述もありました。
以上のほとんどが夏井氏の、ないしは夏井氏が本で勉強した先人の仮説ですが、仮説を展開することは別に悪いことではありません。それらの中でも、本の題名に関係する「人類史と糖質の関係」を俯瞰した部分が最も重要です。夏井氏の主旨をまとめると以下のようになります。
少々マイルドに(というか、かなりマイルドに)まとめると以上のようになるでしょう。
しかし、穀物に頼らないのは簡単ではありません。穀物には、当然のことながら飼料用穀物があります。日本の上質の和牛はたっぷりと脂身(サシ)が入っていますが、それは主としてアメリカの穀物生産(トウモロコシと飼料用の麦)に依存しています。肉食も穀物があるからこそなのです。このあたり、夏井氏も明確な解決策を書いているわけではないのですが、一つの警鐘として受け止めればいいと思います。
糖質とのつきあい方
本書を読んで思ったのですが、そもそも人間は糖質を好むようにできていると考えられます。それは「甘みを好ましいと思う感覚」が人間に備わっていて、かつ、甘いと感じる天然由来のものは、ほとんどが糖質だからです。アミノ酸にも甘いと感じるものがありますが(グリシン、アラニンなど)、甘いものの大多数は糖質です。
No.177「自己と非自己の科学:苦味受容体」で書いたように、苦みは(本来は)危険のサインです。舌や鼻にある苦味受容体は苦み物質を排除するように働きます。苦みは「食べてはいけないサイン」であり、その反対に、甘みは「食べるべきだというサイン」だと思います。それは人類の誕生(数100万年前)から人類を生き延びさせてきた大切なセンサーでしょう。
甘みに関して、夏井氏自身がおもしろいことを書いています。小麦栽培の始まりについての仮説です。農耕=小麦栽培がはじまった中東の「肥沃な三日月地帯」において野生の小麦の原種が自生している姿を初めてみた人類は、小麦が食用になると認識したはずがないというのが夏井氏の考えです。木の実であれば数十~数百粒集めれば食べられます。しかし小麦はそうはいかない。小麦は粒が小さいうえ、そのままでは食べられません。硬い外皮(今でいう小麦ブラン)と実を分離する必要があります。
作物の栽培は、半年後の収穫のために水やりとか雑草取りの努力することであり、栽培している時点では何の利益もありません。狩猟採集とは大違いです。半年後の利益が保証されているわけでもない。夏井氏は、小麦には食用になるということ以外の、栽培をはじめる強力なインセンティブがあったはずだと書いています。
補足しますと、アミラーゼ(ジアスターゼとも云う)と総称される一連の酵素群は、デンプンを二糖類の麦芽糖に分解したり、さらにそれからブドウ糖を生成したりします。これは小麦、大麦、米などで共通です。唾液にはアミラーゼが含まれているので、ごはんをよく噛んでいると甘く感じます。
人間は発芽した小麦の「甘さ」驚き、それをもっと味わいたくて栽培を始めた、という夏井氏の推測、ないしは仮説が正しいかどうかは分かりません。実証することは(ないしは反証することは)出来ないでしょう。ただし興味深い推測です。
しかし、このストーリーで大切なことは、人間は甘さに対する(強い)欲求があり、それは穀物栽培を始める以前から人体にビルト・インされていたものだということです。そして自然界において甘いものが、すなわち糖質です。人間は糖質を好むように進化してきた。
No.221「なぜ痩せられないのか」に、タンザニアの北部で今でも完全な狩猟採集生活を送っている(=農業をしない)ハッザ族の話を書きました。彼らの主食は、女たちが地中から掘り出したイモです。男たちはヒヒやキリンなどの野生動物を毒矢で狩ります(ただし狩りの成果は不安定)。またノドグロミツオシエという鳥の誘導で蜂の巣をとり、蜂蜜を食べたりもする。ここで出てきたイモ(デンプンたっぷり)と蜂蜜(ほぼ純粋なブドウ糖と果糖)は、現代の糖尿病患者が最も食べてはいけないものです。しかし狩猟採集で生きてきた人類にとって、こういった糖質への欲求と志向こそが生存の鍵だったのではと思います。
先日、NHKスペシャル「人体」で脳の話がありましたが、糖質や脂肪を体内に蓄えて血糖値を下げる働きをするインスリンは、脳の血管脳関門を突破できる数少ない物質の一つであり、記憶をつかさどる脳の海馬に働きかけてその細胞の新生を促すそうです。これを進化人類学的にみると、狩猟採集生活をしていたヒトは食料にありつけた場所を記憶しやすいということでしょう。生き延びるためには糖質の摂取による血糖値の上昇は大切なことだったのです。そのヒトの末裔である我々にとっても、糖質食は記憶の増進と結びついた大切な行為のはずです。
我々は糖質とうまくつき合えばいいのだと思います。無理に糖質食を否定することは何もなく、体重過多の時には糖質制限をし、普段から甘いものやデンプン食を食べすぎないようにする。食事や間食は「バランス」と「適度」が大切である。そういうことだと思いました。
◆ | 高GI値の食物を摂取すると、その後に脳が空腹感を感じやすく、このことが原因となって過食になりやすい。 | ||
◆ | 被験者を集めて実験した結果、低GI値の食事メニューを半年間食べ続けると体重が平均8kg減り、脳が低GI値の食物により強く反応する(= 脳が欲する)ようになった |
というものでした。この研究は、肥満(ないしはダイエット)と脳の働きの関係に注目しているのがポイントです。空腹感は人を生き延びさせる大切な脳の働きであり、ダイエットをするために空腹感と戦ってはダメです。そもそも空腹感が起きにくい(かつ健康的な)食事をすべきだということでした。
No.221 にも書いたのですが、「低GI値の食物 = 血糖値の上昇が少ない食物を食べてダイエットをする」というのは、いわゆる糖質制限と基本的には同じです。そこで今回は、血糖値と肥満の関係、糖質制限がなぜダイエットになるのかという基本的なところを振り返ってみたいと思います。こういった人間の体の微妙なメカニズムを理解することが、健康に生きるために大切なことだと思うからです。
理解のためのキーワードは「糖」であり、「糖質」と「血糖」です。人体のメカニズムに入るまえにまず、糖質とはなにか、血糖とは何かを整理しておきます。
糖質と血糖
 糖・糖類  |
"糖" はアミノ酸や脂肪酸と並んで人体の構成要素やエネルギー源になっている最も基本的な物質です。「単糖類」が基本であり、「二糖類」「オリゴ糖」「多糖類」があります。
単糖類は、消化酵素でそれ以上は分解できない糖で、
・ | ブドウ糖(グルコース) | ||
・ | 果糖(フルコース) | ||
・ | ガラクトース |
が代表的なものです。いずれも甘味があります。単糖類がそれだけで食品になっているのがハチミツで、成分はブドウ糖と果糖です。果糖は果物に多く含まれていて、天然に存在する物質としては最も甘いものです(砂糖より甘い)。ガラクトースは乳汁に含まれています。
二糖類は単糖類2つからなる糖で
・ | 蔗糖(スクロース) ブドウ糖+果糖 | ||
・ | 麦芽糖(マルトース) ブドウ糖+ブドウ糖 | ||
・ | 乳糖(ラクトース) ブドウ糖+ガラクトース |
が代表的です。いずれも人の消化酵素によって単糖類に分解され、またそれ自身が甘味を持っています。最も甘いのは蔗糖(=砂糖の成分)です。麦芽糖は発芽した麦類に多く含まれ、乳糖は乳汁に多く含まれます。
オリゴ糖は 3~10個の単糖類が結合した糖類です。人間にはオリゴ糖を消化できる酵素がなく、腸内細菌であるビフィズス菌や乳酸菌で分解されます。ちなみに母乳には乳糖のほかにオリゴ糖が含まれていて、人は生まれた時から腸内細菌の存在を前提としていることが分かります。オリゴ糖を少糖類と言うことがあり、また二糖類まで含めて少糖類とすることもあります。
多糖類は10を越える単糖類が結合したもので、デンプンとグリコーゲンが代表的なものです。デンプンはブドウ糖が多数結合したもので、穀物や根菜類(イモなど)に多く含まれます。アミラーゼという酵素で麦芽糖に分解され、さらにブドウ糖へと分解されます。もちろん穀物や根菜類だけでなく、多くの豆類もデンプンを含んでいます。
グリコーゲンも多数のブドウ糖の結合体です。人体ではブドウ糖からグリコーゲンが合成され、再びブドウ糖に分解されることでエネルギー源になります。つまり、ブドウ糖の貯蔵物質としての役割をもっています。
多糖類は人間が消化できないものが多いのですが、その代表がセルロースです。セルロースは植物の細胞壁を構成する物質で、地球上にある糖類は量からするとセルロースが最も多くなります。人の腸内細菌はこれを脂肪酸などに変換し、これがエネルギー源となります。草食動物(たとえば牛)は胃にセルロースを分解できる細菌がいて、そこで栄養素が生み出されます。
栄養素としてよく話題になる食物繊維は、難消化性の多糖類の総称で、セルロースがその代表的なものです。食物繊維が多い代表的な食品は、前回の No.225「手を洗いすぎてはいけない」にあげました。
 炭水化物・糖質  |
炭水化物は糖類とほぼ同義です。分子式で書くと C(炭素)と H と O(水分子の構成原子)になるので "[炭][水]化物" ですが、化学的な見方だといえます。難消化性の炭水化物が食物繊維で、それ以外の消化性のものが糖質です。つまり、
炭水化物 = 糖質 + 食物繊維
が普通の言葉の使い方です。
 血糖・血糖値  |
血糖とは血液中のブドウ糖のことで、脳の主要なエネルギー源になります。厳密にはケトン体も脳のエネルギー源ですが、話をシンプルにするために、以降は「脳のエネルギー源 = ブドウ糖」とします。血糖値とは血液中に含まれるブドウ糖の濃度で、人間では 100mg/dl 程度が平均的な値です。dl(デシリットル)とは小学校で習う単位ですが、デシは 1/10 の意味で、1dl = 0.1リットルです。100mg/dl は 1g/L ということになります。
血糖値は食事によって変化します。健康診断の結果表を見ると、血糖値の基準値が「食後1時間の値」「食後2時間の値」「空腹時の値」にわけて書いてあります。全体では70~160程度の値(あるいは80~140程度)になっていて、これをざっくり平均すると 100mg/dl 程度になるということです。
血糖値を上げる唯一の物質は糖質で、消化酵素によってブドウ糖が生成されることにより血糖値が上昇します。なかでも特にデンプンと砂糖です。食物繊維は腸内細菌によって分解されますが、生成されるのは主に脂肪酸であり、血糖値が上昇することはありません。もちろん脂質やタンパク質そのものは血糖値を上げません。
食物には「純粋な糖質」とか「純粋な食物繊維」はなく、タンパク質が豊富な大豆にもデンプン(糖質)や食物繊維が含まれています。No.221「なぜ痩せられないのか」に、食品のグリセミック指数(GI値)書きました。GI値の低い食物は血糖値の上昇が少なく、GI値の高い食物(70以上)は血糖値を上げやすい。再掲すると以下です。
◆ | GI値の低い食物(55以下)
| |||||
◆ | GI値が中程度の食物(55-70)
| |||||
◆ | GI値の高い食物(70以上)
|
GI値の高い食物の共通項は、穀物か根菜か砂糖であり、穀物と根菜の共通項はデンプンです。
糖質食で太る理由、糖質制限で痩せる理由
以上をふまえて、糖質が多い食物を摂取し過ぎるとなぜ太るのか、また糖質制限でなぜ痩せるのかをまとめます。実は、私が一番納得のいった(そして分かりやすい)説明は、夏井 睦氏の著書である『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書 2013)にあった説明でした。それを以下に引用します。夏井氏は医者(形成外科医)です。題名の「人類を滅ぼす」とは随分 "過激な" タイトルですが、本の全体の内容は後で書くことにします。
|
「大きめの角砂糖1個分」との記述がありますが、これは「4.2グラムは、大きめの角砂糖1個分の重さ」ということです。角砂糖の成分はほぼ100%の蔗糖(砂糖)で、二糖類の説明に書いたように蔗糖はブドウ糖と果糖の結合体です。ということは、あくまで概算ですが「体重60キロの男性の血液中のブドウ糖は、大きめの角砂糖2個に含まれるブドウ糖と同程度」ということになります。たとえば紅茶に角砂糖を1個入れて2杯飲むと、そのブドウ糖は全身の血糖量に "相当する"、ということは覚えておいた方がいいと思います。
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血液によってブドウ糖が供給されないと脳は正常に働きません。血糖値が 50mg/dl 以下になると精神症状が出始め、もっと低くなると意識障害を引き起こします。もちろん普通の人はそうなる前に血糖値を正常に戻す機能が働きます。実は、ブドウ糖を主なエネルギー源として使っている脳のような組織は、人体では例外的です。
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少々本筋からはずれますが、夏井氏の本にはエネルギーを取り出す効率は脂肪酸の方がブドウ糖より断然高いと書かれています。では、脳はなぜ脂肪酸を使わないのか。夏井氏は2つの仮説を紹介しています。
① | 神経細胞網による情報伝達が目的の脳にとって、脂溶性である脂肪酸は細胞膜を通過してしまい、都合が悪い。ブドウ糖は水溶性であり、細胞膜を自由には通過できないので制御しやすい。 | ||
② | 生命の発生と進化の歴史においては、ブドウ糖からのエネルギー生成が古く、中枢神経系(脳など)が進化したときにすでにあった。一方、脂肪酸からのエネルギー生成は新しく、比較的新しく進化した筋肉組織はブドウ糖と脂肪酸の両方を利用するハイブリッド型になった。 |
話を本筋に戻します。脳へのブドウ糖供給はどうやって維持されるのかという点です。
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この引用の最後に「糖質をいっさい食べない肉食動物」のことが出てきますが、「糖質をいっさい食べない草食動物」でも同じことです。たとえば反芻動物の牛です。現代の家畜としての牛は糖質たっぷりの飼料を "食べさせられて" いますが、牧場で放し飼いの牛の食料は草です。草の炭水化物はほとんどが食物繊維で、セルロースが大量に含まれています。牛は胃に共生しているセルロース分解菌の助けで、セルロースを栄養にしてい生きています。しかしセルロース分解菌がつくり出すのはアミノ酸と脂肪酸であり、糖質ではありません。肉食動物だけでなく、牛の血糖も食物由来でないことが明白です。
話を人間に戻しますと、人間の血糖値の維持はどうやって行われるのか、それが "糖新生" という人体の機能です。これは動物にも共通しています。
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この説明で糖新生はタンパク質からと単純化されていますが、夏井氏の本の別のところには、現在判明している糖新生の5つのルートが書かれています。
糖源性アミノ酸 | → | ブドウ糖 | ||||
ピルビン酸 | → | ブドウ糖 | ||||
プロピオン酸 | → | ブドウ糖 | ||||
グリセロール酸 | → | ブドウ糖 | ||||
乳酸 | → | ブドウ糖 |
糖源性アミノ酸とは「糖新生の原料になるアミノ酸」のことで、タンパク質からの糖新生とはこのルートを言っています。タンパク質を分解してアミノ酸にし、そこからブドウ糖を作る。この糖新生において血糖値の低下を感知して糖新生のトリガーを引くホルモンは、グルカゴン、アドレナリン、コチゾール、成長ホルモンなど、複数種類あることが書かれています。
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ちなみに ATP とは、高校の生物に出てきたと思いますが、アデノシン三リン酸(Adenosine TriPhosphate)の略です。ATP は細菌から人間まで、エネルギーの貯蔵・放出の役割を担っている物質で、生体のエネルギー通貨と呼ばれています。
上の引用の下線のところが、糖質制限で痩せる理由になっています。つまり糖質を制限すると、血糖値の低下を補うためタンパク質と脂肪が分解されるというわけです。
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上の文章に何点か補足しますと、血糖値が高い状態が続くと血管や神経が損傷します。我々は糖尿病がひどくなるとどうなるを知っています。網膜の血管がやられて失明に至り、足が壊疽して切断に至り、あるいは糖尿病性の腎不全になったりする。腎不全になると脳にダメージがくるので生命にかかわります。
また、余ったブドウ糖は中性脂肪に変えられるだけでなく、グリコーゲンに変えられて肝臓などにストックされます。こういった余剰なブドウ糖をストックするトリガーを引いているのが、膵臓で作られるホルモン、インスリンです。血糖値を低下させるホルモンはインスリンしかなく、血糖値を上昇させるホルモンが数種類あるのとは対照的です。夏井氏は「血糖値低下にはセーフティーネットがない」と書いていますが、その通りです。もしインスリンの分泌が悪いとか、インスリンが分泌されても体がそれに反応しにくいとかだと、まずいことになるわけです。なぜ血糖値低下のためのセーフティーネットがないのか、人体の不思議なところです。
さらに糖質と肥満の関係ですが、単糖類の果糖(フルクトース)は中性脂肪に変えられて脂肪細胞にストックされます。果糖は果物に多く含まれているので、肥満を避けるためには要注意でしょう。もちろん程度問題です。
以上の説明を「糖質食で太る理由、糖質制限で痩せる理由」という観点でまとめると次のようになります。
◆ | 脳は24時間働いていて、ブドウ糖を主要なエネルギー源としている。 | ||
◆ | 脳にブドウ糖を補給するために、血液中のブドウ糖(血糖)は一定の濃度(血糖値)を保つ必要がある。血糖値は 100mg/dl 前後である。血糖値は高すぎても低すぎても体に危害を及ぼす。 | ||
◆ | 血糖には、食事(=糖質が含まれる食事。糖質食)由来の血糖と、体のタンパク質などから作り出された血糖の2種類がある。血糖を作り出す体の仕組みが "糖新生" で、これが基本の血糖値維持システムである。 | ||
◆ | 糖質食によって血糖値が高くなりすぎると、血糖は中性脂肪に変換されて脂肪細胞にストックされる。糖質食の過食で太る原因がこれである。 | ||
◆ | 糖質制限で血糖値が低くなりすぎると、糖新生の機能が働いて血糖値を正常に戻す。このとき、体のタンパク質と脂肪が消費される。糖質制限で痩せる理由がこれである。 |
糖質制限
糖質制限で痩せる理由を振り返ると、ブドウ糖以外のものからブドウ糖を作り出す "糖新生" という体のメカニズムが鍵となっています。夏井氏の本には「必須アミノ酸と必須脂肪酸はあるが、必須炭水化物はない」と書かれていました。なるほど ・・・・・・。生存に必須だが人体が作り出せず、食べ物から摂取するしかないアミノ酸(トリプトファン、ロイシンなど)と脂肪酸(リノール酸、EPA、DHAなど)があります。しかし必須炭水化物や必須糖質はないのですね。
糖質制限は特に近年広まってきました。糖質ゼロや低糖質をうたった食品や飲料が売られているし、外食産業でも低糖質のメニューを用意するようになっています。RIZAPなどのビジネスとしての成功も影響しているでしょう。
しかし考えてみると、糖質制限はかなり昔からありました。「糖質制限によるダイエットを最初に提唱したのは、19世紀イギリスのウィリアム・バンティング(1796-1878)だと言いますから、150年ほどの歴史がある由緒あるダイエットであるわけです。また、以前からよく言われる「太らないために甘いものを食べ過ぎないようにしましょう」と基本的に同じです。砂糖は消化されてブドウ糖になる典型的な糖質です。そのため、甘さ控えめのケーキや菓子が作られてきたし、コーヒーや紅茶に砂糖を入れない人も多い。甘いものに拒否反応を示す人も大勢います。また商品としての飲料に甘みをつけるときには人工甘味料を使うわけです。
その砂糖とおなじく糖質のカテゴリーなのが、穀類やイモ類に多く含まれるデンプンです。しかしデンプンは甘くないのが落とし穴なのですね。食品のグリセミック指数(GI値)を並べたリストを書きましたが(前出)、詳しく言うと精白米のGI値は80程度、食パンのGI値は90程度です。この値はブドウ糖を直接摂取するのと比較したものなので、血糖値をあげるという観点からみると、精白米も食パンも砂糖(蔗糖)と同じようなものということになります。人体においてはグリコーゲンが "ブドウ糖備蓄物質" でしたが、植物においてはデンプンが "ブドウ糖備蓄物質" であり、我々はそれを食べているという認識が必要です。
もちろん糖質制限には注意も必要です。糖質制限で痩せる原理から分かるように、糖質制限をするなら栄養を補給するために脂質やタンパク質を十分にとる必要があるでしょう。しかし、だからと言って脂質・タンパク質の過食に陥ると、糖質だけを制限していても肥満になるのは当然です。また、糖質がたっぷりある食品で食物繊維も多いものがあります(玄米など)。糖質制限の結果として食物繊維も制限してしまうと話がおかしくなります。
要はバランスと程度問題です。我々としては体のメカニズムを知り、肥満に陥らずに(もちろん糖尿病にならずに)健康に過ごすべきだというこです。
「炭水化物が人類を滅ぼす」
それはともかく、題名を一見すると "キワモノ本" か "トンデモ本" かと思ってしまいますが、内容はそうでもありません。つまり「炭水化物が」というのが言い過ぎであって「穀物食が」か「デンプン食が」が適切です。また「人類を滅ぼす」というのも大げさで「行き過ぎたデンプン食が人類を不幸にする」ぐらいが正しい。ただし、こんなインパクトのない題名では本は売れないのでしょう。
夏井氏は外科医(形成外科医)ですが、自身の肥満と高血圧と高脂質症(医者の不養生!)を改善するために糖質制限を始めました。きっかけは2011年に、糖質制限の提唱者である江部康二先生(京都・高雄病院)のネット記事を読んだからです。その結果、半年で11kg痩せたそうです。高血圧症や高脂質症(中性脂肪過多とLDLコレステロール=悪玉コレステロール過多)もすっかり改善しました。
夏井氏の "師" にあたる江部先生の糖質制限は、もともと糖尿病患者の治療のためのものです。その糖質制限でまず思うのは、
血糖値をあげる唯一の食物は糖質であり、糖尿病患者が糖質制限をするのはあたりまえのはずなのに、その糖質制限を京都の病院の医師である江部先生がわざわざ提唱しないといけないのはなぜだろう |
という疑問です。実は数年前に印象的な出来事がありました。私の間接的な知人である Aさんのことです。Aさんは糖尿病になったのですが、病院で治療せず、医者とも相談せず、自分で本と文献を読みあさり、食事制限だけで糖尿病を完治させました。何でも、主食は "おから" にしたそうです。その Aさんの言は「今の糖尿病治療は医者と製薬会社の陰謀だ」というものでした。この Aさんの言と全く同じ主旨が夏井氏の本に書かれています。Aさんのことがあったので、夏井氏の本も(その過激なタイトルにもかかわらず)意義があると思ったのです。
江部先生は糖質制限を次の3つに分けています。
◆ | プチ糖質制限 夕食のみ主食抜き | ||
◆ | スタンダード糖質制限 朝食と夕食のみ主食抜き | ||
◆ | スーパー糖質制限 三食とも主食抜き |
夏井氏によると、プチ糖質制限はこれから糖質制限を始めようという初心者向け、スタンダード糖質制限が標準、スーパー糖質制限は医者にかからずに糖尿病を直したい人、ないしはスタンダード糖質制限では物足りないストイックな人向けだそうです。おそらく先ほどの Aさんは「スーパー糖質制限」だったのでしょう。ごはんの代わりに "おから"(=極めて低糖質)は良い選択だと思います。ちなみに私は随分前から夕食にごはんは食べませんが、妻の手作りピザを食べることもあるので「プチ糖質制限-」ぐらいでしょう。夏井氏は「スタンダード以上、スーパー未満」だそうです。
人類史と糖質
夏井氏の本は「糖質制限からみた生命の科学」という副題がつけられているように、糖質制限のことだけを書いているのではありません。生物の仕組みや生命の誕生と進化、人類の歴史などを糖質と結びつけて論じているところに特色があります。「動物の血糖値」「生命の起源とブドウ糖」「哺乳類の起源と糖質」「定住の起源」「農耕の起源と小麦栽培」「食事を楽しみにしたのは糖質=穀物と砂糖」「1日が3食になった理由」などのテーマです。ちなみに「定住の起源」については、西田正規氏(筑波大学名誉教授)の「定住が先で農業がその後。定住こそが革命的な出来事」という論を紹介したものです
「動物の血糖値」のところですが、さまざまな動物の血糖値は 50 ~ 150mg/dl 程度で、人間の 100mg/dl 前後と良く似ています(ほとんど動かないナマケモノは 20 程度)。しかし鳥類だけは200台後半~300台後半と極めて高いのですね。300mg/dl というのは人間の3倍です。これだけ高血糖でも鳥類の血管は哺乳類と構造が違うので損傷しないようです。飛翔という運動は脳の高度な働きが必要なことを想像させます。また鳥は恐竜から進化したものですが(No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」参照)、夏井氏は恐竜の血糖値も高かったのではと想像しています。恐竜の中には運動能力に優れたものがあって、それは高血糖に支えられていたのではという推測です。
人類の最初の農業になった小麦栽培の話が念入りに書かれているのですが、米作の起源についての記述もありました。
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以上のほとんどが夏井氏の、ないしは夏井氏が本で勉強した先人の仮説ですが、仮説を展開することは別に悪いことではありません。それらの中でも、本の題名に関係する「人類史と糖質の関係」を俯瞰した部分が最も重要です。夏井氏の主旨をまとめると以下のようになります。
◆ | 人類の歴史は数100万年であり、食性としては雑食(ないしは肉食+雑食)であった。 | ||
◆ | この期間、人類は血糖値過多・糖質過多にはなり得ない状況だった。その証拠に、血糖値を上げるホルモンは数種類あるのに、血糖値を下げるホルモンは1種(インスリン)しかない。人体は高血糖の状況を想定していない。 | ||
◆ | この状況の中で(わずか)1万2千年前の中東で小麦の栽培が始まった。そして河の周辺の乾燥地帯で小麦を栽培する灌漑農業へと発展した。小麦の栽培(とその類似技術。たとえば米の栽培)は短期間で世界の各地に広まった。 | ||
◆ | 小麦の灌漑農業は驚異的に生産性が高く、蒔いた種の200~300倍を収穫できる。また小麦は貯蔵可能である。これが社会を生み、文明を生んだ。小麦と類似の性質をもつイネ科穀物(米やトウモロコシ)も同様の役割を果たした。 | ||
◆ | しかしデンプンが主体である穀物食は、肥満や高血圧症、高脂質症、糖尿病のリスクを人類にもたらした。穀物は「神」であると同時に「偽りの神」でもあった。 | ||
◆ | 農業が始まって以来、農業生産量の拡大は基本的に農地面積の拡大で行われた。しかし1960年代からの「緑の革命」は状況を一変させた。化学肥料(窒素肥料)と農薬の大量使用、品種改良、灌漑技術の進歩により、耕地面積が増えないにもかかわらず、穀物生産を飛躍的に増大させた。 | ||
◆ | しかしその反面、地下水の枯渇(淡水の枯渇)、土地への塩分集積などの環境破壊が起こった。それは大穀倉地帯であるアメリカ中西部で顕著である。 | ||
◆ | 環境破壊型の穀物増産には限界がある。穀物の過食による病気のリスクを考えると、我々は今こそ穀物に頼らない食料システムを真剣に考えるべきである。 |
少々マイルドに(というか、かなりマイルドに)まとめると以上のようになるでしょう。
しかし、穀物に頼らないのは簡単ではありません。穀物には、当然のことながら飼料用穀物があります。日本の上質の和牛はたっぷりと脂身(サシ)が入っていますが、それは主としてアメリカの穀物生産(トウモロコシと飼料用の麦)に依存しています。肉食も穀物があるからこそなのです。このあたり、夏井氏も明確な解決策を書いているわけではないのですが、一つの警鐘として受け止めればいいと思います。
糖質とのつきあい方
本書を読んで思ったのですが、そもそも人間は糖質を好むようにできていると考えられます。それは「甘みを好ましいと思う感覚」が人間に備わっていて、かつ、甘いと感じる天然由来のものは、ほとんどが糖質だからです。アミノ酸にも甘いと感じるものがありますが(グリシン、アラニンなど)、甘いものの大多数は糖質です。
No.177「自己と非自己の科学:苦味受容体」で書いたように、苦みは(本来は)危険のサインです。舌や鼻にある苦味受容体は苦み物質を排除するように働きます。苦みは「食べてはいけないサイン」であり、その反対に、甘みは「食べるべきだというサイン」だと思います。それは人類の誕生(数100万年前)から人類を生き延びさせてきた大切なセンサーでしょう。
甘みに関して、夏井氏自身がおもしろいことを書いています。小麦栽培の始まりについての仮説です。農耕=小麦栽培がはじまった中東の「肥沃な三日月地帯」において野生の小麦の原種が自生している姿を初めてみた人類は、小麦が食用になると認識したはずがないというのが夏井氏の考えです。木の実であれば数十~数百粒集めれば食べられます。しかし小麦はそうはいかない。小麦は粒が小さいうえ、そのままでは食べられません。硬い外皮(今でいう小麦ブラン)と実を分離する必要があります。
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作物の栽培は、半年後の収穫のために水やりとか雑草取りの努力することであり、栽培している時点では何の利益もありません。狩猟採集とは大違いです。半年後の利益が保証されているわけでもない。夏井氏は、小麦には食用になるということ以外の、栽培をはじめる強力なインセンティブがあったはずだと書いています。
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補足しますと、アミラーゼ(ジアスターゼとも云う)と総称される一連の酵素群は、デンプンを二糖類の麦芽糖に分解したり、さらにそれからブドウ糖を生成したりします。これは小麦、大麦、米などで共通です。唾液にはアミラーゼが含まれているので、ごはんをよく噛んでいると甘く感じます。
人間は発芽した小麦の「甘さ」驚き、それをもっと味わいたくて栽培を始めた、という夏井氏の推測、ないしは仮説が正しいかどうかは分かりません。実証することは(ないしは反証することは)出来ないでしょう。ただし興味深い推測です。
しかし、このストーリーで大切なことは、人間は甘さに対する(強い)欲求があり、それは穀物栽培を始める以前から人体にビルト・インされていたものだということです。そして自然界において甘いものが、すなわち糖質です。人間は糖質を好むように進化してきた。
No.221「なぜ痩せられないのか」に、タンザニアの北部で今でも完全な狩猟採集生活を送っている(=農業をしない)ハッザ族の話を書きました。彼らの主食は、女たちが地中から掘り出したイモです。男たちはヒヒやキリンなどの野生動物を毒矢で狩ります(ただし狩りの成果は不安定)。またノドグロミツオシエという鳥の誘導で蜂の巣をとり、蜂蜜を食べたりもする。ここで出てきたイモ(デンプンたっぷり)と蜂蜜(ほぼ純粋なブドウ糖と果糖)は、現代の糖尿病患者が最も食べてはいけないものです。しかし狩猟採集で生きてきた人類にとって、こういった糖質への欲求と志向こそが生存の鍵だったのではと思います。
先日、NHKスペシャル「人体」で脳の話がありましたが、糖質や脂肪を体内に蓄えて血糖値を下げる働きをするインスリンは、脳の血管脳関門を突破できる数少ない物質の一つであり、記憶をつかさどる脳の海馬に働きかけてその細胞の新生を促すそうです。これを進化人類学的にみると、狩猟採集生活をしていたヒトは食料にありつけた場所を記憶しやすいということでしょう。生き延びるためには糖質の摂取による血糖値の上昇は大切なことだったのです。そのヒトの末裔である我々にとっても、糖質食は記憶の増進と結びついた大切な行為のはずです。
我々は糖質とうまくつき合えばいいのだと思います。無理に糖質食を否定することは何もなく、体重過多の時には糖質制限をし、普段から甘いものやデンプン食を食べすぎないようにする。食事や間食は「バランス」と「適度」が大切である。そういうことだと思いました。
2018-03-02 19:23
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