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No.219 - リスト:詩的で宗教的な調べ [音楽]

今までフランツ・リスト(1811-1886)の曲を3つとりあげました。

No.    8 - リスト:ノルマの回想
No.  44 - リスト:ユグノー教徒の回想
No.209 - リスト:ピアノソナタ ロ短調

の3作品です。No.8No.44 は、それぞれベッリーニとマイヤーベーアのオペラの旋律をもとに自由に構成した曲で、どちらかというとリストの作品ではマイナーな(?)ものです。一方、No.209 は "傑作" との評価が高い曲ですが、今回は別の傑作を取り上げます。『詩的で宗教的な調べ』です。他にも有名な作品はありますが、なぜこの曲かと言うと私が持っているこの曲の CD(イタリアのピアニスト、アンドレア・ボナッタ演奏)について書きたいからです。それは後にすることにして、まず『詩的で宗教的な調べ』について振り返ってみます。


詩的で宗教的な調べ


『詩的で宗教的な調べ』はリストが19世紀フランスの代表的詩人、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790-1869)の同名の詩集(1830)に触発されて作曲した、全10曲からなるピアノ曲集です。1845年(34歳。初稿)から1853年(42歳。最終稿)にかけて作曲されましたが、曲集の中の「死者の追憶」の原曲は1834年(23歳)の作品であり、足かけ20年近くの歳月で完成したものです。

この曲集は、ドイツ系ロシア貴族のカロリーヌ・ザイン = ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人に献呈されたものです。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」に書いたように、リストは20代にマリー・ダグー伯爵夫人と同棲し3人の子をもうけました。そのダグー夫人に献呈したのが『ユグノー教徒の回想』(1836)でした。夫人との関係を清算したあと、1948年(37歳)から13年間、同居生活を送ることになったのが、一人の子連れだったカロリーヌです。リストは2度も "人妻の伯爵夫人" と生活したことになります。

カロリーヌに献呈された『詩的で宗教的な調べ』の全10曲は、次のような構成になっています。以下の説明は、アンドレア・ボナッタのCDの解説を参考にした部分があります(★印)。この解説はボナッタ自身の執筆によるものです。

 第1曲 : 祈り 

オープニングにふさわしく堂々としていて、かつ厳粛で崇高な感じがする曲です。「祈り」というタイトルとあわせて感じるのは「内なる感情、魂の声の表明」ないしは「内心の思いが外に溢れ出す」といった雰囲気です。演奏時間は約8分。

 第2曲 : アヴェ・マリア 

演奏時間は約7分。穏やかで可愛いらしい感じのメロディー(譜例143 = アヴェ・マリアの旋律)が反復し、静かに思いを訴えるという風情の作品です。第1曲と同じ「祈り」の表現なのでしょうが、曲の作りかたが対称的です。なお譜例はピアノ譜の一部を抜き出したもので、以下の譜例も同様です。

 ◆譜例143
アヴェ・マリア.jpg

 第3曲 : 孤独の中の神の祝福 

『詩的で宗教的な調べ』の中でも、第7曲の『葬送』と並んで単独でよく演奏される曲で、演奏に20分近くかかります。リスト作品の中でも屈指の名曲だと言えるでしょう。この曲の詳細は次項に書きます。

 第4曲 : 死者の追憶 

1834年(23歳)に作曲された『詩的で宗教的な調べ』が原曲で、リストがラマルティーヌの詩集にインスパイアされて作った最初の曲です。瞑想するような、しばしば休符でとぎれる前半ですが、中間部で曲想が激しく動き出します。演奏時間約 15分。

 第5曲 : 主の祈り 

リスト初期の合唱曲のピアノ編曲で(★)、グレコリオ聖歌の感じがします。「第1曲 : 祈り」「第2曲 : アヴェ・マリア」とともに「祈り」がテーマになっていますが、それぞれ違う「祈り」の側面を表現しているようです。演奏時間 約3分。

 第6曲 : 目覚めた子への賛歌 

演奏時間 約6分。歌のような優しいメロディー(譜例144)が印象的です。曲の3分の2を過ぎたあたりから、符点音符の音型が続く快活な気分のところに入り、その雰囲気で終わります。

 ◆譜例144
目覚めた子への賛歌.jpg

 第7曲 : 葬送 

演奏時間 約13分。『第3曲:孤独の中の神の祝福』とならんで単独で演奏されることの多い曲です。葬送の弔いの鐘を模したと言われる序奏で始まります。譜例145は中間部の "悲しげな" 旋律です。半音だけ下げられたファ♭の音が悲しさを強調しています。この旋律をフォルテシモのオクターブの連続で演奏するところが出てきますが、このあたりは "強い哀悼" という感じがします。

 ◆譜例145
葬送.jpg

この曲は「1849年10月」の副題をもっています。リスト研究によると、これはリストの祖国・ハンガリーのために命を落とした人たちを追悼する曲です。1848年、ハンガリーではオーストリアからの独立を目指した「自由ハンガリー政府」が設立されました(= 1848年のハンガリー革命)。この政府の首相がバッチャーニ・ラヨシュという人です(日本と同じでバッチャーニが姓)。この革命は結局オーストリアによって鎮圧され、1849年10月バッチャーニは6名の政府高官とともにオーストリアによって処刑されました。この追悼が「1849年10月」の意味です(★)

 第8曲 : パレストリーナによるミゼレーレ 

パレストリーナ(1524-1594)はイタリア後期ルネサンス期の作曲家で、教会音楽の父と言われています。ミゼレーレは慈悲という意味で、旧約聖書の「ミゼレーレ メイ、デウス」(神よ、我を憐れみたまえ)に由来します。

この第8曲はリストがシスティーナ礼拝堂で聞いた旋律にもとづくということになっていますが、パレストリーナではなく同時代の作曲家の旋律です(★)。曲は3つの部分から成っています。まずゆっくりとしたテーマで始まり、次にトリルの伴奏が現れ、さらに波のようにうねるアルベジオへと進んでいきます。演奏時間 約4分。

 第9曲 : 無題(アンダンテ・ラクリモーソ) 

演奏時間 約8分。この曲にはタイトルがつけられていません。アンダンテ・ラクリモーソという発想標語なので、普通これで呼ばれています。ラクリモーソは「涙ぐんだ」という意味で、リストがよく使った標語です。「第7曲:葬送」の中間部にもラクリモーソの指示があります。傷ついた心を表すような悲しげな曲です。リタルダンドやフェルマータで途切れ途切れに進み、テンポは揺れ続けます。

 第10曲 : 愛の賛歌 

題名どおり、愛することの喜びや素晴らしさを表現しているのでしょう。アンドレア・ボナッタのCD解説によると、この曲は『詩的で宗教的な調べ』という曲集の結論だと言います(★)。つまりこの曲集には "詩的な感情" を表現した曲と "宗教的な感情" を表現した曲がある。代表曲をあげると、

 ◆詩的な感情
  『孤独の中の神の祝福』
  『アンダンテ・ラクリモーソ』

 ◆宗教的な感情
  『アヴェ・マリア』
  『主の祈り』
  『ミゼレーレ』

などである。そして最後に『愛の賛歌』をもってきたということは、

 詩的な感情+宗教的な感情=愛

というリストの考え(=曲集の結論)を表している・・・・・・。なるほど、そういう見方ができるのかと思いました。静かに始まりますが、次第に曲は華麗さを増していきます。演奏時間 約7分。


孤独の中の神の祝福


『詩的で宗教的な調べ』の中の名曲であり、リスト作品でも屈指の傑作でしょう。ピアニストのアンドレア・ボナッタは「あらゆるピアノ作品の中で最も美しいものの一つ」と言っていますが(★)、確かにそうかもしれません。

この曲の楽譜にはラマルティーヌの詩が題辞として引用されています。その詩の大意を試訳すると以下です。


孤独の中の神の祝福(大意・試訳)

私の心を満たす平和はどこから来たのだろう?
心にあふれる信仰はどこから来たのだろう?

私は今、すべてが定かでなく、動揺し、
風の中の、疑いの波の上にいる

賢人の夢に善と真実を求め、
轟く嵐の中に心の平和を求めている

私の前を過ぎたのは数日もないが、
1世紀と世界が過ぎ去ったように感じる

それらとは巨大な深淵で隔たれて、
私の中に新しい人間が再生し、再び動き出す

ラマルティーヌ

曲は Moderato の指示がある、4分の4拍子の譜例146で始まります。この譜例はピアノ譜から "旋律" だけを抜き出したものです(以下の譜例も同様)。シャープ6つの "嬰へ長調" で、ファ#の音が主音です。譜例では省略しましたが、旋律はトリル風の分散和音でいろどられていて、このような装飾的なピアノの動きが曲の進行に沿って次々と多彩に変化していきます。

 ◆譜例146:テーマA
孤独の中の神の祝福A.jpg

譜例146を仮に「テーマA」としておきますが、これが主題です。『孤独の中の神の祝福』は「テーマA」が3回繰り返され、それぞれあとに別の副次的なテーマ(以下のB~Fの5種)が続くという構成になっています。テーマAに続いて譜例147の「テーマB」の部分になります。

 ◆譜例147:テーマB
孤独の中の神の祝福B.jpg

テーマBの展開がしばらく続いた後、再びテーマAになりますが、今度は1オクターブ上の音域です。また譜例146の旋律の後半は変化し、テーマのあとに曲が高揚して強い音が連続する箇所となり、フォルテ3つのクライマックスを迎えます。そして、その高揚感をなだめるように続くのが譜例148(テーマC)です。ここまでが第1部と言ってよいでしょう。

 ◆譜例148:テーマC
孤独の中の神の祝福C.jpg



二長調、Andante、4分の3拍子になって曲の雰囲気が一変し、譜例149の「テーマD」の部分になります。優しくそっとささやくような音型です。このテーマDが変化しつつ何度化繰り返されたあと曲は一段落し、今度は変ロ長調、4分の4拍子の譜例150(テーマE)の部分に入ります。このテーマも、変ニ長調、嬰ヘ長調と転調をしつつ何度か繰り返されて第2部が終わります。

 ◆譜例149:テーマD
孤独の中の神の祝福D.jpg
 ◆譜例150:テーマE
孤独の中の神の祝福E.jpg



Allegro Moderatoの指示で、再び嬰ヘ長調のテーマAが回帰します。ここからが第3部です。曲は第1部の2回目のテーマAとほぼ同じ経緯をたどり、フォルテ3つの最強音にまで到達します。その後にテーマCが続くのも第1部と同じです。

そのあとは "第2部の回想" に入ります。テーマE → テーマD → テーマE(最後の7小節)となって曲が終わるのですが、少々意外なのは、テーマDの前に今までなかった「テーマF」(譜例151)が Andante で出てくることです。素朴で単純な旋律ですが、大変に印象的です。従って曲の終結部は、テーマE → テーマF → テーマD → テーマE ということになります。

 ◆譜例151:テーマF
孤独の中の神の祝福F.jpg

第3部は第1部と第2部の "回想" であり、再現して終結すると思って聴いているところに全く新しいテーマが出てくるので意外性があるのですが、これは何らかの意味があるのでしょうか。詩の最後に「私の中に新しい人間が再生し、再び動き出す」とありますが、この句に対応しているのではと思います。『詩的で宗教的な調べ』は題辞に掲げられているラマルティーヌの詩をそのまま "なぞった" ものでは決して無いのですが、この部分だけは詩の一節に対応しているのではないか。そう思います。


リスト・ピアノ


イタリア人ピアニスト、アンドレア・ボナッタが『詩的で宗教的な調べ』を録音したCDについて書きます。このCDの最大の特徴はリスト時代のピアノを使って録音されていることです。

詩的で宗教的な調べ - ボナッタ(1).jpg

詩的で宗教的な調べ - ボナッタ(2).jpg
フランツ・リスト
詩的で宗教的な調べ
コンソレーション
演奏:アンドレア・ボナッタ
ピアノ:Steingraeber 1873
レーベル:仏・ASTREE(1993)
録音:1986

ドイツのバイロイトにシュタイングレーバー社という、リストの時代から続くピアノ製造会社があります(1820年創業)。かつて、ここのオーナーとリストは懇意で、晩年のリストはシュタイングレーバー社のピアノを使っていました。バイロイトの本社の建物(シュタイングレーバー・ハウス)にロココ様式のホールがあり、そこには1873年製のピアノが今でも置いてあります。このホールでは各種のコンサートが開かれ、1873年製のピアノの演奏もやるようです。

Steingraeber-Haus.jpg
シュタイングレーバー・ハウス
バイロイトにあるシュタイングレーバーの本社。17世紀に建造された建物である。
(Wikimedia Commons)

Rokokosaal.jpg
1873年製 シュタイングレーバー
シュタイングレーバー・ハウスのロココルームに置かれている、通称「リスト・ピアノ」または「ロココ・ピアノ」。
(site : www.steingraeber.de)

リストはここをよく訪れてこのピアノを弾き、ワーグナーと妻のコジマ(リストの娘)を前にして弾いたこともあります(★)。そのため、この1873年製シュタイングレーバーは「リスト・ピアノ」と呼ばれています。また装飾から「ロココ・ピアノ」という別名もあります。ボナッタの『詩的で宗教的な調べ』はこの「1873年製シュタイングレーバー」で録音されました。



このピアノの音の感想ですが、現代のコンサート・ピアノと比較して次のような感じがします。まず、高音がキラキラときらめくような華麗な音ではありません。高い音域に広がる倍音が少ないのでしょうか。全般につややかで "張り" のある音色ではなく、少しくすんだ感じの渋さがある硬い音色です。柔らかくて "まるみ" を帯びた音も出しにくいと聞こえます。

打鍵したあとの音の減衰も早い感じで、長い音符が連続するような単音のメロディーでは音がコマ切れになりやすい。『孤独の中の神の祝福』の出だし(= テーマA。譜例146)は、全音符がいっぱい出てくる息の長いゆっくりした "旋律" ですが、多彩な装飾音で飾られているからこそ "間が持っている" 感じがします。

他のピアニストが録音した『詩的で宗教的な調べ』と聴き比べてみても、明らかに音の表情の多様さや音の響き具合は現代のコンサート・ピアノがまさっています。1873年製ということは今から150年近く前です。ヴァイオリンは300年前の楽器が今でも世界最高峰ということになっていますが、ピアノについては明らかに「表現力と音色が豊かな楽器を作る技術」が150年の間に進歩した感じです。

このCDを聞いて強く思うのは、リストは「1873年製シュタイングレーバー」のようなピアノの音を前提に作曲したのだろう、ということです。そういうピアノをいかに "鳴らせて" 自分の理想とする音楽を作るか。それがリスト作品(の一つの意味)ではないか。

現代のピアニストが現代のピアノで弾くリストを聴くと、時に "過剰さ" が目立つわけです。過剰な技巧、過剰な装飾音、過剰な強打音 ・・・・・・。しかしその "過剰さ" は、現代ピアノとは違う「1873年製シュタイングレーバー」のようなピアノを前提に、音の幅や音楽表現の豊かさを最大限に追求した結果だったのはないかと考えられます。150年前は現代と同じではありません。そこをよく考えないと作曲家の正当な評価もできないはずです。このCDを聴いてリスト作品への見方が少し変わったのでした。


ブックオフ


ここからは余談です。実は、アンドレア・ボナッタ演奏する『詩的で宗教的な調べ』のCD(『コンソレーション』も入っている2枚組)は、かなり前に自宅近くのブックオフで買ったものです。もちろん探していたわけではありません。そもそもクラシック音楽のCDはブックオフには少ないので、買うことはめったにありません。その時も確かポップスのCDを見に行ったと思います。たまたま偶然に見つけて『詩的で宗教的な調べ』という曲名と「Piano Liszt, Eduard Steingraeber, Bayreuth, 1873」というジャケットの文字を見て、即購入したわけです。800円ぐらいだったと覚えています。ボナッタというピアニストもその時に初めて知りました。

ブックオフをあなどってはいけない。それがよく分かりました。もちろん今では、ネットでのオークションやフリマも含めての話です。そこに人それぞれにとっての "一品" が眠っている。そういうことかと思います。




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No.218 - 農薬と遺伝子組み換え作物 [社会]

No.102-103「遺伝子組み換え作物のインパクト」で、農薬と遺伝子組み換え作物(=GM作物)の関係について書いたのですが、その続編です。前回は、新たな除草剤の使用がそれに耐性をもつ "スーパー雑草" を生み出す経緯でしたが、そのスーパー雑草に対抗する除草剤の話です。

  GMは Genetically Modified(=遺伝子組み替えされた)の略。


農薬とGM作物を使った農業


まず、No.102-103「遺伝子組み換え作物のインパクト」の復習です。アメリカで始まった「農薬と遺伝子組み換え作物(GM作物)をペアにした農業」は次のような経緯をたどってきました。

 第1段階:除草剤 "グリホサート" の開発 

1970年にアメリカの農薬会社・モンサントは除草に使う "グリホサート" という化学物質を開発し、これを「ランウンドアップ」という商品名で売り出した。

グリホサートは植物の葉に直接散布することによってすべての植物を枯らす効果を発揮する。除草剤というより、強力な "除植物剤" である。

すべての植物を枯らすため、グリホサートが使えるのは作物の芽が出る前である。作物の芽が出る前に生えてきた雑草に対してグリホサートをあたり一面に散布することで雑草を駆除できる。

作物が成長したあとでは「あたり一面に散布」はできない。畑に分け入って人手で雑草を取ったり、他の除草剤を使う必要がある。

この第1段階は、長年にわたって行われている農薬開発のひとコマです。農薬は除草剤だけでなく病害虫の駆除や植物の成長促進など、各種の目的のものが開発されてきました。しかし次の第2段階で話は大きく変わりました。

 第2段階:グリホサート耐性作物の開発 

1996年、モンサント社は遺伝子組み換え技術を使ってグリホサート耐性をもつ大豆(= グリホサートを散布しても枯れない大豆)を開発し、「ランウンドアップ・レディ」という商品名で発売した。その後、グリホサート耐性をもつ綿、ナタネ、トウモロコシも発売した。

グリホサート耐性大豆は農家の雑草管理のあり方を一変させた。農家としてはグリホサート耐性大豆を植え、その芽が出る前でも芽が出た後でもグリホサートを散布すればよい。グリホサート耐性大豆だけが生き残り、雑草を駆除できる。飛行機からグリホサートを散布するような手段も使えるため、雑草管理の手間は圧倒的に少なくなり、コストは削減された。

その反面、グリホサート耐性大豆(GM作物)とグリホサート(除草剤)の組み合わせは、農業を「単一農薬の広範囲使用」に誘導した。

遺伝子組み換え作物と除草剤の組み合わせは、農業のあり方を変える "革新" です。ゲームのルールを変えるに等しいわけで、農家としては新しいルールに従わないとゲームに参加できなくなります。しかしこの新ルールには弊害もあります。それは2000年代になって顕著になってきました。

 第3段階:スーパー雑草の出現 

2000年代に入って米国では "スーパー雑草" が蔓延しはじめた。スーパー雑草とはグリホサート耐性をもつ(=グリホサートを散布しても枯れない)雑草である。

スーパー雑草には極めて繁殖力の強いものがあり、大豆や綿、トウモロコシの畑にはびこり出した。農家の中には人海戦術で雑草を除去したり、畑を放棄するものも出ている。

スーパー雑草に対抗するため、モンサント社は他の除草剤に対する耐性をもったGM作物を売り出す計画である(『日経サイエンス』2011.8 の記事)


除草剤・ジカンバと、ジカンバ耐性作物


No.102「遺伝子組み換え作物のインパクト」で引用した日経サイエンスの記事(2011.8)に「モンサント社は他の除草剤に対する耐性をもったGM作物を売り出す計画」とありました。この "他の除草剤" としてモンサント社が目をつけたのが "ジカンバ" という化学物質です。日経産業新聞の2017年10月4日付に、このジカンバについての記事があったので以下に紹介します。


米国の大豆農家は、幅広く使われていた農薬「ラウンドアップ」(=商品名。成分はグリホサート:引用注)に耐性をつけた雑草に悩まされた。1種類の農薬を使い続けると耐性雑草が出現しやすく、効き目が強い安全な代替農薬が求められたいた。

・・・・・・・・・・

ジカンバは植物の成長をつかさどる機能のバランスを崩し、幅広い種類の植物を枯らす効果を持つ。そのまま畑にまくと農作物も枯れるが、遺伝子組み換え技術でジカンバに耐性をつけた種子と組み合わせれば効果的に雑草だけを除ける。

・・・・・・・・・・

モンサントや独BASF、米ダウ・デュポンなどが代替農薬として(ジカンバに)着目。モンサントは大豆と綿花でジカンバ耐性種子を開発し、今年から認可を受けた各州で農薬と合わせた販売を始めた。

日経産業新聞(2017.10.4)
(ニューヨーク=西邨紘子)

補足しますと、ジカンバは広葉植物を枯らす化学物質で、トウモロコシや麦類などのイネ科植物は枯れません。従ってそれらの畑では除草剤として使われています。日本の農水省もトウモロコシや麦類についての残留ジカンバの規制値を決めています。しかし大豆、綿、ナタネなどの広葉植物の畑では使えなかった。ところがモンサントが開発したジカンバ耐性種子を植え付けると、大豆畑や綿花畑でもジカンバを除草剤として使えます。グリホサート耐性をもつスーパー雑草も駆除できる。ここがポイントです。


ジカンバによる被害報告が相次ぐ


引用した日経産業新聞の記事は、実はジカンバによる農作物被害をレポートするのが主眼でした。その被害の状況を記事の見出しとともに引用します。


除草剤 被害報告相次ぐ
 米モンサント、風で拡散か

ジカンバは揮発性が高く、風にのって散布地域が広がる懸念が指摘されていた。試験段階でも散布地域の周りの畑からの被害報告があったが、一部農家の不正または不適切な使用が原因と(モンサント社は)説明。揮発性を低めた調合で米環境保護局(EPA)や各州からの認可を受けた。

実際に使用が始まると被害報告が各地で急増した。ミズーリ州では2015年(6月期)に3件だったジカンバ関連の苦情が17年には212件に拡大。被害を巡る農家間の対立が殺人事件に発展した例まで報告された。アーカンソー、ミズーリ、テネシーの各州は、夏の大豆育成期にジカンバ農薬の使用の一時的な禁止に踏み切った。

(同上)


モンサントのグローバル戦略事業担当のスコット・パートリッジ副社長は「開発段階で大規模な試験を繰り返し、安全性で想定外の要素はない。製品を適切に使用した場合は問題は起こらないとの報告がある」と説明。作物被害は農家による認可外の使用や「ノズルなどの器具の扱いや散布方法など間違った用法が原因とみている」と話す。

一方、EPAは「現状を非常に懸念している」(広報担当)。問題が多発する理由は、寄せられた報告を注意深く分析しており、詳しい情報を集め、追加の規制や調整の必要性を検討するという。アーカンソー州では18年も使用を禁止する検討に入った。

ジカンバの使用禁止が広まれば、除草効果を期待して同薬の耐性大豆を買った農家の投資は無駄になる。モンサントは「大学や農家の団体と協力し、適切な取り扱い方法を広める取り組みを進めている」(パートリッジ副社長)。

モンサントによると、適切な使用法などを訓練するトレーニングには、すでに顧客農家など5万人が参加した。ただ雑草対策に苦慮した違法購入・使用が一因だった場合は、メーカー側に打てる手立ては限られるのが実情だ。

同社は3~5月期決算発表でジカンバ関連製品の売れ行きが「目を見張るようなペース」で伸びていると説明。17年8月期通期の業績予想を引き上げるなどの効果を見込んでいた。顧客農家の不信が広がれば成長シナリオも見直しを迫られる。

(同上)


ジカンバとジカンバ耐性作物の広がり


上の引用でもわかるように「農薬と農薬耐性作物による農業」は次の段階に入ってきました。つまりジカンバによる農作物被害が広がるほどに、ジカンバが広く使われ出したわけです。

ジカンバは揮発性が高く、空気中を飛散して意図しない農作物を枯らす危険性があることは以前から分かっていました。いわゆる「ドリフト」による被害です。従ってEPAも各州当局もモンサント社も、ジカンバを耐性大豆や耐性綿花の畑に用いるための規制・指導を行ったようです。つまり畑のまわりに緩衝帯を設けるとか、風速15メートル以上では使用禁止とか、飛行機による空中散布禁止といったたぐいの規制です。推測するに、規制どおりにジカンバを使えば問題はほぼ起こらないのでしょう。モンサント社もそのことを確認する実験をやったと思われます。

しかしこういった規制のとおりにすると農家にとっては労力やコストがかさみます。自家農地の耐性大豆・耐性綿花がジカンバで枯れないと分かっている以上、できるだけ労力が少ない方法で散布したいと農家が思ったとしても不思議ではありません。そもそも「ジカンバとジカンバ耐性作物の組み合わせ」は農業のコスト削減のために開発されたものなのです。ジカンバによる作物被害の責任は、第1義的には「不適切使用をした農家」でしょうが、そこに暗黙に誘導したのはモンサント社と認可した規制当局だと思います。だからこそ、被害を前にしていくつかの州当局は一時的禁止、ないしはその継続を検討している。とにかく、除草剤と耐性作物による農業は、

 第4段階:ジカンバとジカンバ耐性作物の広範囲使用 

の段階になってきました。そして確実に予期できることは、その次の第5段階があるということです。つまり、

 第5段階:ジカンバに耐性を持つスーパー雑草の出現 

です。大豆農家・綿花農家が使う除草剤として、グリホサートもジカンバも意味がなくなる日がくるのは確実でしょう。


スーパー雑草の出現は "ビジネスチャンス"


そもそも、除草剤を使うとそれに耐性を持つ植物が(遅かれ早かれ)出現するのは農業関係者の常識です。これは抗生物質の使用と耐性菌の出現の関係と同じです。そういう風に自然はできている。モンサント社もそれを先刻承知のはずで、ジカンバ耐性雑草の出現を予測し、新たな除草剤とそれに耐性をもつ作物の開発に余念がないと想像します。数種の候補を同時並行的に研究しているかもしれない。

この状況は、いわゆる "イタチごっご" です。そしてこの "イタチごっご" はモンサントのようなバイオ化学企業にとってのビジネスチャンスになります。永続的に続くと考えられる "イタチごっご" だからこそ、ビジネスの機会も永続的に続く。もしスーパー雑草が出現しないとモンサント社は困ったことになります。グリホサートだけで雑草管理が永続的に可能なら、グリホサート耐性作物の特許はいずれ切れるので、モンサント社は独占的地位を保てなくなります。農家もモンサント社だけに種子を頼る必要がなくなる。現にグリホサートの特許はすでに切れていて、同一成分をもつ "ジェネリック除草剤" が出回っています。

しかしバイオ化学企業にとって、新たなスーパー雑草が出現しないという心配をする必要はないのです。自然のメカニズムは耐性植物・耐性菌が出現するようにできているのだから・・・・・・。バイオ化学企業は "自作自演" のイタチごっこを演出し、除草剤ビジネスのネタが尽きることが無いように農業を誘導しているというわけです。

もちろんバイオ化学企業にとってのリスクもあります。新たな農薬とそれに耐性がある作物を作り出せなかったら "アウト" だからです(少なくとも除草剤の分野では)。他社に負けると競争に生き残れません。従ってますます研究開発への投資が必要になります。この状況はバイオ化学企業の寡占化・巨大化を促進すると考えられます。巨大研究投資に耐えられる企業が生き残るわけです。

また「除草剤と耐性作物のペアによる農業」が進展していくと、農家は巨大バイオ化学企業への依存度をますます高めることになるでしょう。イタチごっこに巻き込まれた農家は、独占的地位にある企業の手足となって(= 隷属して)農地を耕作するだけの存在になっていくと考えられます。


食料に低コストだけを求める愚


グリホサートやジカンバに耐性をもつ作物は、遺伝子組み換え技術で作り出されたGM作物です。そのGM作物の中には人類にとってメリットが多い(デメリットはほとんどない)と考えられるものがあります。たとえば耐乾燥性のGM作物は干魃被害が深刻な地域の食料生産を増大させ、乳幼児の死亡率を低下させるかもしれない。そういったことが考えられます。

しかし「除草剤と除草剤耐性GM作物をペアにした農業」の主眼は農業コストの削減です。そして食料や食品に低コストだけを求めるのは愚の骨頂です。食品の安全、自然環境や生態系の保全、食料資源の持続可能性など、コスト以外の(コストよりもっと大切な)考慮点がいっぱいあるからです。

アメリカはTPP(環太平洋経済連携協定)から離脱し、今後は日本を始めとする各国とのFTA(自由貿易協定)を目指すそうです。FTAの農業分野でGM作物が交渉項目になるかどうか分かりませんが、日本としては上に引用したようなアメリカ農業の実態を詳細に把握してから交渉に望むべきでしょう。



ジカンバの新聞記事を読んでふと思ったことがあります。日本での農業の一つの例ですが、島根県の奥出雲地方、仁多郡で作られる「仁多にた米」は「東の魚沼・西の仁多」と言われるほどコシヒカリの有名ブランドです。この地方では無農薬・有機栽培が進んでいます。地元の畜産農家と協力して有機肥料も確保をしている(いわゆる循環型農業)。そのため、この地域には絶滅危惧種(メダカ、タガメなど)や準絶滅危惧種(トノサマガエルなど)が多く生息しています。

このような例は仁多だけではないし、また日本だけでもありません。世界には「アメリカ発の、除草剤と除草剤耐性GM作物をペアにした農業」とは全くの対極にある農業が厳然としてあり、それが高い評価を受けていることを忘れてはいけないと思います。

奥出雲の水田風景1.jpg
奥出雲の水田風景2.jpg

仁多郡の米作り風景(奥出雲観光文化協会のサイト)

下の写真の棚田については、奥出雲観光文化協会のサイトに説明がある。かつて奥出雲町では砂鉄を原料とする「たたら製鉄」が盛んに行われていた。砂鉄は、山を切り崩し土砂を水路に流す「鉄穴流し(かんなながし)」で採取されたが、この棚田は「鉄穴流し」の跡を水田に転用したものである。平成24 年に「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として国重要文化的景観に選定された。
(site : www.okuizumogokochi.jp)




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