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No.190 - 画家が10代で描いた絵 [アート]

No.46「ピカソは天才か」で、バルセロナのピカソ美術館が所蔵するピカソの10代の絵をとりあげ、それを評した作家の堀田善衛氏の言葉を紹介しました。

実は、ピカソの10代の絵は日本にもあって、美術館が所蔵しています。愛知県岡崎市に「おかざき世界こども美術博物館」があり、ここでは子どもたちがアートに親しめる数々のイベントが開催されているとともに、日本を含む世界の有名画家が10代で描いた絵が収集されています。この中にピカソの10代の絵もあるのです。

私は以前からこの美術館に一度行ってみたいと思っていましたが、そのためだけに岡崎市まで行くのも気が進まないし、何か愛知県(東部)を訪問する機会があればその時にと思っていました。

ところがです。今年(2016年)のお盆前後の夏期休暇に京都へ行く機会があったのですが、たまたま京都で「おかざき世界こども美術博物館」の作品展が開催されていることを知りました。会場はJR京都駅の伊勢丹の7階にある「えき」というギャラリーで、展示会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」(2016.8.11 ~ 9.11)です。これは絶好の機会だと思って行ってきました。

世界の巨匠たちが子どもだったころ.jpg


ピカソのデッサン


今回の展覧会の "目玉作品" がピカソの14歳ごろの2つの絵で、いずれも鉛筆・木炭で描かれた石膏像のデッサンです。展覧会の図録によると、ピカソの石膏像のデッサンは30点ほどしか残されていないそうで、つまり大変貴重なものです。振り返ると、No.46「ピカソは天才か」ではバルセロナにある別のデッサンと堀田善衛氏の評言を紹介しました。

この2点は、2000年に「おかざき世界こども美術博物館」がスペインの個人収集家から買い取りました。つまり岡崎で世界初公開された絵であり、それを京都で鑑賞できたというわけです。

ピカソ:女性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
女性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆
(1894-95 頃。13-14歳)

ピカソ:男性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ
男性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆と木炭
(1895。14歳)

この2つのデッサンは、比べて見るところに価値がありそうです。石膏の女性像と男性像ですが、「静」と「動」の対比というのでしょうか。女性像の顔や髪は大変なめらかで、静かな雰囲気が出ています。特に、目尻から頬をつたって口元に至る造形と陰影の美しさは格別です。伏し目で静かにたたずんでいる女性。そういった感じが出ています。

比較して男性像の方は、顔が少しゴツゴツした感じです。髪もボリューム感がずいぶんあって "波打っている" ようです。荒々しいというと言い過ぎでしょうが、それに近い感じを全体から受けます。大きく描かれた影が強烈な光を想像させ、石膏像はその光に "立ち向かっている" というイメージです。

この2枚は、単に石膏像をリアルにデッサンしたという以上に、対象の本質に迫ろうとするピカソ少年の意図を感じます。13-14歳でこのような描き方ができたピカソは、やはり希有な画家だと思いました。



展示されていたピカソ以外の絵は、ヨーロッパの画家でいうと、モネ、ムンク、ロートレック、デュフィ、クレー、ビュッフェ、カシニョール、シーレなどでした。

また、日本人画家の10代の絵も多数展示されていました。日本画と洋画の両方です。以下はその中から何点か紹介します。


水彩画・2点


日本人画家の絵は多数あったので迷うのですが、まず水彩画を2点、岸田劉生と佐分 真さぶり まことの絵を取り上げます。

岸田劉生:秋.jpg
岸田劉生(1891-1929)

紙、水彩
(1907。16歳)

この岸田劉生の水彩の一番のポイントは、まず画面下半分の「道、土手、川」を大きく右に湾曲させた構図でしょう。「道、土手、川」の曲がり具合いが少しずつ違っていて、絵にリズムを生んでいます。画面の上半分に描かれた樹と家屋はどっしりと落ち着いていて、この上半分と下半分の対比が構図のもう一つのポイントです。全体の描き方は細やかで写実的です。

風景画はこういう風に描くのだという、お手本のような絵です。16歳のときの絵ですが、すでに "できあがっている" という感じがします。劉生は38歳という若さで亡くなったのですが、もっと長生きすれば「麗子像」のように強烈なインパクトを与える作品をいろいろと生み出したはずと思いました。16歳にしてこれなのだから。

佐分真:裏庭.jpg
佐分 真(1898-1936)
風景(裏庭)
紙、水彩
(1912。14歳)

佐分真は、岸田劉生と同じく38歳で亡くなった画家です。この絵も劉生と同じく構図がいいと思いました。庭の縁と屋根の線が画面の中心に向かっていて、それによって遠近感を出しています。画面の上に描かれた木の枝と、下の方の木の陰もうまく配置されている。

全体は淡い中間色ですが、各種の色がちりばめられています。のどかな昼下がりの裏庭の感じが、その空気感とともに伝わってきます。画家になってからの佐分真の絵は、明暗を利かせた、重厚で厚塗りの油絵が多いのですが、それとはうって変わった "爽やかな" 絵です。14歳で描いたのだから、あたりまえかも知れません。



その他、日本の洋画家では、坂本繁二郎、青木繁、安井曾太郎、小出楢重、古賀春江、村山隗多、東郷青児、関根正二、山下清などが展示されていました。


日本画


日本画もいろいろありました。鏑木清方、奥村土牛、山口華陽、平山郁夫、田渕俊夫などです。この中からひとつを取り上げると、伊東深水の「髪」と題した作品が次です。

伊東深水:髪.jpg
伊東深水(1898-1972)

絹本着彩
(1913。15歳)

伊東深水:髪(部分).jpg

伊東深水は佐分真と同年の生まれで、この「髪」は佐分の水彩画と同時期に描かれました。伊東深水は美人画で有名ですが、15歳で描いたこの絵をみると、すでに画家として成り立っている感じです。絹本けんぽんを横長に使い、女性の横顔をとらえて髪を表現するという描き方が斬新です。一目みて忘れられない印象を受けました。


高村咲子の日本画


高村咲子さくこは、高村光太郎の6歳上の姉です。この展覧会では、高村咲子が9歳から14歳で描いた5点が展示されていました。今回はじめて、光太郎に "画家" の姉がいたことを知りました。

高村咲子が "画家" として知られていないのは、わずか15歳で亡くなったからです。光太郎が10歳の時です。せめて関根正二のように20歳頃まで生きたとしたら「夭折の画家」と言われたのかもしれませんが、咲子は「夭折の画家」にもなれなかった。

しかし咲子の技量は、子どもにしては卓越しています。下に掲げた「鶴」と「猿」は、今でいうと小学生の高学年の絵ですが、とてもその年頃の子どもが描いたとは思えません。

今回の展覧会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」でした。多くの画家の10代の絵が展示されていたのですが、高村咲子だけは「画家が子どもだった頃の絵」ではなく「子どもで人生を終えた "画家" の絵」というのが印象に残りました。

高村咲子:鶴.jpg
高村咲子(1877-1892)

絹本墨彩
(1888。11歳)

高村咲子:猿.jpg
高村咲子
絹本墨彩
(1889。12歳)


絵画の原点


展覧会全体の感想です。有名画家の絵がいろいろあったので、画家として名をなした以降の作品を思い浮かべながらの鑑賞もできました。

芸術家としての画家は個性を追求します。自分にしかない画風というのでしょうか、描くモチーフや描き方について、その人にしかないという独自性を追求するわけです。絵をみて「あの画家の作品だ」とか「見たことのある画風の絵だ」と思わせる "何か" です。

しかしこの展覧会の絵は、そういった画風を確立する以前に描かれたものです。そこに感じるのは、描く対象を見きわめようとする少年・少女の真剣な姿勢です。そこは多くの絵で共通している。絵画の原点がよく分かった展覧会だったと思いました。



 補記1:デューラーの自画像 

本文で紹介した「おかざき世界こども美術博物館」の所蔵作品を離れて "画家が10代に描いた絵" を思い出すと、有名作品があります。ドイツの画家、アルプレヒト・デューラーが13歳のときに描いた自画像です。紙に銀のメタルポイント(銀筆)で描かれています。

Albrecht Durer - Self Portrait at 13.jpg
アルプレヒト・デューラー(1471-1528)
自画像」(1484。13歳)

残されているデューラーの最も古い絵である。描き直しは一切ない。右上には「これは1484年に鏡を使って描いた子供のときの私の肖像である」と書かれている。
(アルベルティーナ美術館:ウィーン)

デューラーは油彩で3枚の自画像を描いていますが、そもそも世界で最初に自画像を描いた画家はデューラーだとされています。そうすると、この素描は "世界初の自画像" ということになります。その絵画史上 "画期的" な作品が 13歳の少年の絵というのは驚きです。



 補記2:ラファエロの自画像 

デューラーの10代の自画像を掲げたので、その10数年後に描かれたラファエロ(1483-1520)の10代の自画像を引用します。この素描はオックスフォード大学・アシュモレアン博物館(Ashmolean Museum of Art and Archeology)が所蔵していますが、博物館のサイトをみると、描かれたのは1498-1499年となっています。ということは、デューラーの自画像より14・5年後で、ラファエロが15歳か16歳のときということになります。

アシュモレアン博物館のサイトは題名として「Portrait of an unknown youth, possibly a self-portrait」としています。断定できるエビデンスはないが「おそらく自画像」ということだと思います。それをちゃんと題名にしているわけですが、一般的には「自画像」で通っています。ラファエロは美男子で有名で、この素描の美少年はいかにも自画像という感じがします。

ラファエロ「自画像」.jpg
ラファエロ・サンティ(1483-1520)
自画像」(1498/99。15-16歳)
(アシュモレアン博物館:オックスフォード)



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No.189 - 孫正義氏に潰された日本発のパソコン [技術]

No.175「半沢直樹は機械化できる」の補記(2016.9.18)に書いたのですが、みずほ銀行とソフトバンクは 2016年9月15日、AI(人工知能)技術を使った個人向け融資の新会社設立を発表しました。そのソフトバンクとAIについては、AI技術を使ったロボット「ペッパー」のことも No.159「AIBOは最後のモルモットか」で書きました。

二つの記事でソフトバンク・グループの孫正義社長の発言や人物評価に簡単にふれたのですが、今回は、その孫正義氏に関することを書きます。最近、ソフトバンク・グループが英国・ARM(アーム)社を買収した件です。以前に強く思ったことがあって、この買収でそれを思い出したからです。


ソフトバンクが英国・ARM(アーム)社を買収


ソフトバンク・グループの孫正義社長は、2016年7月18日にロンドンで記者会見をし、英国・ケンブリッジにあるARM社を240億ポンド(約3兆3000億円)で買収すると発表しました。ソフトバンクがボーダフォン日本法人を買収した金額は1兆7820億円、米国の電話会社・スプリントの買収は1兆8000億円ですから、それらを大きく上回り、もちろん日本企業の買収案件では史上最大です。

ARM(アーム)は、コンピュータ、パソコン、スマートフォンなどの心臓部である「マイクロ・プロセッサー」を設計する会社です。

  コンピュータで演算や情報処理を行う半導体チップがマイクロ・プロセッサー(Micro Processor)であり、MPU(Micro Processing Unit)とか、CPU(Central Processing Unit)とも呼ばれます。以下「マイクロ・プロセッサー」ないしは単に「プロセッサー」と書きます。

現代のマイクロ・プロセッサーの有名メーカーはインテルで、Windowsが搭載されているパソコンにはインテル製、ないしはそれと互換性のある(=代替可能な)マイクロ・プロセッサーが組み込まれています( "インテル、はいってる" )。

ARMがインテルほど一般に有名でないのは、ARMはマイクロ・プロセッサー(= 半導体チップ)そのものを製造する会社ではなく、マイクロ・プロセッサーの "設計仕様" と、その仕様に基づいて作られた "設計データ" を開発している会社だからです(専門用語で "アーキテクチャ" と "IPコア")。マイクロ・プロセッサーの開発会社はARMから "設計データ" を購入し、それに自社の設計データも付加して、そのデータをもとにマイクロ・プロセッサーを製造します。製造は自社の工場で行うか、ないしは台湾などの製造専門会社に委託するわけです。

ARMの "設計データ" の大きな特長は、それをもとに作られたマイクロ・プロセッサーの電力消費量が少ないことです。そこがARMのノウハウであり、技術力です。この特質があるため、現在の世界のスマートフォンの90%以上は、ARM仕様の(=ARMの "設計仕様" か "設計データ" を使った)半導体チップになっています。Androidのスマートフォンのみならず、アップルもARMから設計仕様を購入しています。

ちなみに、日本最速のスーパー・コンピュータ "けい" の後継機種である "ポスト京" を計画している富士通は、そのプロセッサーとして「スパコン拡張版のARM仕様」の採用を発表しました(2016.6.20)。富士通が出した拡張要求に ARM社が同意したことがポイントのようです。ARMはスパコンにも乗り出すということです。そしてスパコンで磨いた技術をもとに、現在はインテルなどが席巻している「業務用サーバ機」という巨大なコンピュータ市場を狙うのでしょう。

ARM-HP-Printer.jpg
ヒューレット・パッカード(HP)のプリンタに搭載された、ARM仕様のマイクロ・プロセッサー。半導体チップの製造メーカ・STマイクロエレクトロニクスのロゴとARMのロゴが見える(画像はWikipediaより)。

ところで、ARMという会社の名前は元々、

  Acorn RISC Machine

の略称でした。今は Advanced RISC Machine の略とされているようですが、元々は Acorn RISC Machine だった。この英単語の意味は以下の通りです。

  Acorn
  ドングリ
RISC
  Reduced Instruction Set Computer の略。処理可能な命令の種類が少ないマイクロ・プロセッサー。処理可能な命令の種類が少ないとプログラムの量が増えて非効率にみえますが、マイクロ・プロセッサーの回路がシンプルになり、個々の命令の実行速度は上がります。その兼ね合いの最適なところを狙って設計するのがRISCです。

ここでなぜ "Acorn(=ドングリ)" なのかというと、ARM社の前身が「エイコーン・コンピュータAcorn Computers)」という、英国のケンブリッジに設立された会社だったからです。


エイコーン・コンピュータ


エイコーン・コンピュータは、1978年に設立されたコンピュータ会社です。Acornと命名したのは、そこから芽が出て大きな木に成長するという意味だとか、また電話帳で Apple より前に記載されるようにだとか言われています。余談ですが、そのAppleという名前はスティーヴ・ジョブズが働いたこともあるゲーム会社・Atariより電話帳で前に来るようにしたという説があります。

エイコーン・コンピュータが大きく伸びたのは、1980年代から1990年代前半にかけて、イギリスの教育用コンピュータ(当時のマイコン。今のパソコン)の市場を独占したからです。

BBC_Micro.jpg
BBC Micro(1982~1986)。画像はWikipediaより
イギリスの公共放送のBBCは、これからの時代におけるコンピュータの重要性に気づき、コンピュータ教育を推進するため、BBC Computer Literacy Project を1980年に開始しました。この一環で "BBC Micro" というマイコンを開発することになりました。このときイギリス政府は、開発企業を英国企業にするようにという強い指導を行ったのです。いろいろと経緯があって、最終的に選ばれたのはエイコーン・コンピュータでした。その "BBC Micro" は1982年に発売されました。ちなみに、公共放送が教育に関与するのは日本と似ています。

1980年代、イギリス政府は全国の学校にコンピュータを導入する補助金をばらまき、また教師の訓練やコンピュータ関連プロジェクトにも補助金を出しました。このとき最も売れたのが "国策コンピュータ" の "BBC Micro" とその後継機種だったわけです。当然、エイコーン・コンピュータの売り上げは伸び、会社は発展を遂げます。そして1980年代の半ばにエイコーン・コンピュータ社内で始まったのが、全く新しい設計思想(=RISC)のマイクロ・プロセッサーを開発する "ARMプロジェクト" だった。だから "Acorn RISC Machine" なのです。そのARMプロセッサーを搭載した BBC Micro の後継機種は英国の学校にも導入されました。

AcornArchimedes.jpg
BBC Microの後継機種である, Acorn Archemedes(1987)。ARM仕様のマイクロプロセッサーが搭載されている。下位機種はBBC Archemedesのブランドで学校に導入された(画像はWikipediaより)
エイコーン・コンピュータはその後、いくつかの会社に分割されましたが、マイクロ・プロセッサー部門は ARM社として生き残り、現代のスマートフォンで世界を席巻するまでになりました。

以上の経緯を振り返ってみると、ソフトバンク・グループが買収した ARM は、英国政府と公共放送の施策に従って開発された「英国発の学校用コンピュータ」にルーツがあると言っていいわけです。もちろん現代のARMは、当時のマイクロ・プロセッサーからすると技術的に比べられないほど進化を遂げています。あくまでルーツをだどるとそこに行き着くという意味です。

1990年代半ばより、マイクロソフトのWindowsがメジャーになり、それに従って、マイクロ・プロセッサーとしてはインテル製品が普及しました。インテル(とアップル)のプロセッサーが、パソコン用として世界を制覇したわけです。

しかしARMは "英国発" の技術として生き残り、生き残っただけではなく特定分野(スマートフォン)では世界を席巻するまでになりました。その源流はと言うと、政府肝入りの教育用コンピュータだったのです。



ここで話は日本に飛ぶのですが、実は日本においても、日本発のコンピュータの基本ソフト(OS)とパソコンが、日本の教育現場に大量導入されてもおかしくない時期があったのです。そのコンピュータ基本ソフトが、坂村健・東大教授の TRON(トロン)です。


TRONプロジェクト


TRONはコンピュータの基本ソフト(OS:Operating System)です。コンピュータの作りを簡略化して言うと、まずハードウェアがあり、その中核がマイクロ・プロセッサーです。そのマイクロ・プロセッサーで動作するのが基本ソフト(OS)であり、基本ソフトの上で動作するのが各種のアプリ(アプリケーション・プログラム)です。現代のパソコンの基本ソフト(OS)の代表的なものは、マイクロソフト社の Windows や、アップル社の iOS です。

その意味で、TRON(= OS)は ARM とは位置づけが違います。ARMはマイクロ・プロセッサー(=ハードウェア)の設計仕様だからです。しかし TRON も ARM も、コンピュータの動作を基礎で支える基本的な技術であることには変わりません。むしろパソコンやスマートフォンを考えると、一般利用者から見た使い勝手はマイクロ・プロセッサーよりも基本ソフト(OS)に強く影響されます。そのためパソコンメーカーは、基本ソフト(OS)の仕様に合うようにパソコンのハードウェア全体を設計し、販売しています。

  なお、TRONプロジェクトでは各種の技術が開発されていて、中には "TRONチップ" のようなマイクロ・プロセッサーそのものもありますが、以下の記述での TRON は基本ソフト(OS)としての TRON に話を絞ります。

TRONプロジェクトではまず、機械に組み込まれたマイクロ・プロセッサーでの使用を前提とした ITRON( I は Industry )が開発されました。TRONは The Real-time Operating system Nucleus であり、Real-timeというところに「機器組み込み用」という本来の狙いが現れています。さらにTRONプロジェクトでは、一般の個人が家庭や学校、職場で使うパソコン用に BTRON( B は Business )が開発されました。以下はその BTRON の話です。


BTRON


BTRON プロジェクトを主導したのは、坂村教授と松下電器産業(現、パナソニック)であり、1985年に開発がスタートしました。BTRONを開発し、その仕様に合ったパソコンを開発しようとしたのです。BTRONは次第に知名度を高め、賛同するパソコン・メーカーも増えてきました。そしてこの開発と平行して、全国の学校にパソコンを設置する話が持ち上がったのです。イギリスから数年遅れということになります。

以下、日経産業新聞に連載された坂村教授の「仕事人秘録」から引用します。下線は原文にはありません。


当時の文部省と通産省が作ったコンピュータ教育開発センター(CEC、現日本教育情報化振興会)という団体があった。86年にCECはパソコン教育の必要性から、全国の学校にハソコンを配備しようとしていた。そのパソコンの標準OSとしてBTRONを検討したのだ。

その理由は私がロイヤルティー ── つまり使用料をとらなかったのと、世界中のメーカーが開発に参加できるようにしたことへの評価だった。全国の学校にトロン仕様のパソコンを配備するとなればその影響は大きい。我々は勇みたったが、そのことが大きな反動を生むとは、このときは思いもしなかった。

坂村 健「仕事人秘録⑧」
日経産業新聞(2014.7.31)

コンピュータ教育開発センター(CEC)がBTRONを教育用パソコンの標準OSとして検討するというニュースは大きく報道され、パソコンに関心があるメーカーが次々に参入した。

そのなかで乗り気でなかったのがNEC。すでにマイクロソフトのOS「MS-DOS」を使った「PC98」シリーズで成功を収めていた。BTRON仕様のパソコンとは食い合わせが悪かったのだろう。教育用パソコンの標準化自体にも反対していたが、最終的にはMS-DOSでもBTRONでも動くパソコンを作ることで合意した。

坂村 健「仕事人秘録⑨」
日経産業新聞(2014.8.1)

教育用パソコンの標準OSにBTRON、という動きに対して、当時はマイクロソフトのOS、MS-DOSをかつぐ勢力があり、それで成功していた会社もあったというのがポイントです。このことが、その後の "異様な" 展開を引き起こすのです。


潰された BTRON



そんな時、いきなり飛び込んできたのが、米通商代表部(USTR)がトロンを米通商法スーパー301条の候補に入れたというニュース。

今でもはっきり覚えている。1989年のゴールデンウィークで、私は長野県内の山小屋で休暇を過ごしていた。衛星放送でテレビを眺めていたら、突然トロンの名前が持ち上がったのだ。

これには驚いた。なにしろトロンは米国へ輸出などしていないし、誰でも無料で使える。米IBMも使っていたほどで、IBMの三井信雄副社長(当時)からは「ウチもトロンパソコンを作ろうとしていたのに、こういう間違いがどうして起こったのか」という心配の電話をもらった。

しかし、米国の不動産を買いあさるなどした日本の経済力への警戒が米国内で高まっており、冗談事ではないとすぐにわかった。ただ、マスコミは面白がって煽り、TRONがやり玉にあがった

坂村 健・日経産業新聞(2014.8.1)

1980年代後半というと、日本の経済力が飛躍的に伸びた絶頂期であり、バブル景気とも言われた時期です。アメリカとの貿易摩擦もいろいろと起った。そういう時代背景での出来事です。


米国のUSTRに文句を言ったら、すぐに会いたいとのこと。面会すると「どこからの申請とは言えないが、米国の企業に不利との訴えがあれば、まず制裁候補に挙げる。だから何か反論があれば言ってほしい」と言う。私は米国のメーカーだって使っているOSで、米国の不利益にはならないと主張したら、「調査する」と約束してくれた。

1年ほどして結局、トロンは制裁対象から外れるが、面倒事に関わりたくないメーカー100社近くがBTRONから手を引いた。政府内でも米国の機嫌を取りたい人たちは「パソコンのOSなんか米国から買えばいい」と言う。

まだ大した市場になっていないパソコンの、それもOSの規格などどうでもいいと思ったのだろう。今振り返れば、この先見性の無さが現在の情報通信分野における日本の苦境につながったと思う


マスコミは日の丸パソコンが日米の貿易障壁のように書き立てた。この件は米マイクロソフトが仕組んだに違いないとか様々な噂が流れたが、後に思いがけない事実が明らかになる

坂村 健・日経産業新聞(2014.8.1)

無料の(今で言う "オープン・ソース" の)基本ソフト(OS)を "国を越えて" 使っても、それは貿易ではないので貿易摩擦を生むはずがありません。唯一、BTRONが広まると困るのは「既存の有料のパソコン用OSやそのアプリでビジネスを展開している日米の人たち」であることは明白なわけです。そして実際その通りだったことは、坂村教授が「後に思いがけない事実が明らかになる」と書いているように、後で判明します。


1999年に出版された「孫正義 起業の若き獅子」(大下英治著、講談社)。孫氏の自伝的なノンフィクションだ。この本によると、当時の孫氏はパソコン用ソフトを米国から輸入していた。国がトロンを優遇し、ほかのソフトを閉め出そうとしているとして、トロン潰しに動いたという

後にある人の仲介で孫氏に会った。彼は「若気の至りで ・・・・・・。不愉快に思われたら、遺憾です」と言った

制裁対象から外れた後、米国政府から食事をしながら話がしたいという誘いがあった。港区にあるホテルに出向くと「調査の結果、トロンにまったく問題ないことがわかったが、先生に迷惑がかかったなら残念だ」と言われた。

米国の大学の先生も一緒にいて、技術論で盛り上がった。私の研究を高く評価し「米国の大学に来ませんか」と誘ってきた。そのときに「今回の件は日本側の事情のようですね」とやんわり言われた。当時は何の話かわからなかったが、後から考えると孫氏のことだったのだろう

この事件が与えた影響は大きく、BTRONから次々に日本の企業が脱退した。文部省などによる教育用パソコンの事業もなくなった。

坂村 健「仕事人秘録⑩」
日経産業新聞(2014.8.4)

現在のソフトバンク・グループは「情報通信業」であり、数々の事業を手がけていますが、元はというとソフトウェアの卸(=流通業)や出版をする会社でした。上の引用にあるような米国のソフトを輸入販売する立場から言うと、そのソフトはマイクロソフトやアップルのOSで動くように作られたものです。従って、日本で BTRON ベースのパソコンが広まるのは、孫氏のビジネスにとってはまずいわけです。だから "トロン潰し" に動いた。

この事件が坂村教授に「不愉快な思い」をさせただけならどうということはないのですが、それよりも坂村教授が一つ前の引用で語っているように、日本の情報通信産業に与えたダメージが大きかったわけです。

しかし、トロンが無くなったわけではありません。坂村教授の述懐を続けます。


トロンプロジェクトの本命である組み込み機器用ITRONは着実に広がっていた。デジタルカメラの普及のきっかけとなるカシオの「QV-10」や、90年代に立ち上がってきた携帯電話などに使われた。

ただ、貿易摩擦時に政府やマスコミがトロンを悪役扱いした影響か、トロンを自社製品に使っていることを公にしたいメーカーはほとんどなかった。

ただ、90年代後半になると、このようなトロンの現状に同情してくれたのか、トロンを正当に評価すべきだと言ってくれる人々が現れた。特に当時の三菱電機の常務で、トロン協会の専務理事にもなった中野隆生氏にはお世話になった。中野氏はあらゆる機会でトロンの独自技術や自由な開発環境を整える重要性を主張してくれた。

中野氏は多くのメーカーに「トロンを使っているならば公表してほしい」とまで言ってくれた。こうした手助けのおかげで99年にトヨタ自動車が SUV「プラド」にトロンを使ったことを発表。2003年にはNHKの番組「プロジェクト X」でトロンが取り上げられるなど、徐々に再認識されるようになった。

坂村 健・日経産業新聞(2014.8.4)


孫正義氏の "TRON 潰し"


孫正義.jpg
「孫正義 起業の若き獅子」
大下英治著
(講談社。1999)
坂村教授が言っているように、孫正義氏の "TRON 潰し" は「孫正義 起業の若き獅子」(大下英治著。講談社。1999)に書かれています。

当時、孫正義氏は情報産業や学界に"TRON反対" を説いて回るのですが、コンピュータ教育開発センター(CEC)は1988年1月にBTRONを教育用パソコンの標準OSとすることを決めます。一発逆転を狙った孫正義氏は1989年に入ってまもなく、ソニー会長の盛田昭夫氏に依頼し、通産省の高官とじかに話をしようとします。そのあたりの記述です。

(以下の引用では、漢数字を数字にしました。また段落を再構成しました。下線は原文にはありません)。


翌日、さっそく盛田から電話が入った。「機械情報産業局長の棚橋祐治君に電話を入れた。彼も、ぜひ君に会いたいと言っている」

孫はその日の夕方、棚橋局長と会った。棚橋局長は、あらためて孫から話を聞き眉をひそめた。「こいつは、ちょっとやっかいですね。どうしたらいいでしょう」

孫は言った。「僕に転換させるいいアイデアがあります。方法論については後日お話しますから、ちょっと待っていてください」「わかりました。では事務方については林という課長がいますので、そのものと話を詰めてください」

孫は林良造情報処理振興課長と話を詰めた。いよいよ通産省の幹部を巻きこみ、TRON壊滅へのレールが敷かれはじめた

そんな矢先の1989年4月28日、アメリカ通商代表部が各国ごとの貿易障壁を調査した「貿易障壁報告」を発表した。日本に対しては、たばこ、アルミニウム、農産物、医薬品・医療機器、電気通信・無線・通信機器、自動車部品、流通制度など34項目がヤリ玉にあげられた。その中の一つにTRONも含まれていた。

孫が危ぶんでいたように "TRONを小・中学校に導入しようとしているのは、政府による市場介入" だとする懸念を指摘していた。「貿易障壁報告」はスーパー301条の参考になる。つまり、TRON はスーパー301条の対象となっていた。孫は日本の報道機関が発表する前に、その情報を手に入れていた

(それみたことか!)

孫が林課長に電話を入れようとしてたときに、林の方から電話が入った。林の声は上ずっていた。「えらいことになりました」

孫はにやりとした。

「いえ、そうでもないですよ。このときこそ千載一遇のチャンスです。この機を逃したら、予算もなにもつけて動いている国家プロジェクトを潰すチャンスは二度とないでしょう。スーパー301条をたてにすれば相手もほこをおさめやすい。これを口実に一気にTRONを潰したほうがいいです」

「そうだ。きみのいうとおりだ」

通産省は小・中・高校における TRON仕様機を中止した。教育機関に TRON が蔓延するのをまさに波打ち際で止めることができたのであった。

大下英治
「孫正義 起業の若き獅子」
(講談社。1999.8.2)

坂村教授がアメリカ通商代表部に面会したとき、通商代表部側は「どこからの申請とは言えないが、米国の企業に不利との訴えがあれば、まず制裁候補に挙げる」と答えました。誰が TRON をアメリカ企業に不利だと申請したのか、大下英治氏の本には書いていません。しかしその申請者は、ソフトの流通業をやっていたソフトバンク=孫氏だと推測させるような書き方がされています。つまり、

「僕にいいアイデアがあります」と、孫氏が語ったこと
貿易障壁報告の内容を、報道される前に知っていたこと

の2点です。孫氏の「いいアイデア」とは何か、本には書かれていませんが、その後の経緯から推測できます。また坂村教授は、長野県の山小屋での休暇中に衛星放送テレビの報道で貿易障壁報告を知りました。つまり坂村教授にとってUSTRの貿易障壁に TRON があげられることは、全くの "寝耳に水" だったわけです。事前に何らかの噂でもあったのなら、TRONプロジェクトのリーダーの耳に入らないはずがない。

しかし孫氏は明らかに報告が出るのを注視していました。注視していたからこそ、報道以前に知り得たのです。わざわざ注視していた理由は一つしかないと思われます。


英国と日本の落差


孫氏の "TRON潰し" の行動は、別に悪いことではないと思います。孫氏のような「政治的な動き」も駆使して自社ビジネスに有利な状況を作ろうとすることは、大企業なら多かれ少なかれやっているし、米国企業だとロビイストを使った "正式の" 手段になっています。

そもそもソフトバンクの過去からの企業行動を見ていると、独自技術をゼロから育てるつもりはなく、技術は買ってくればよいという考えのようです。ましてや、日本発の技術を育てようとは思わないし、そこに価値を見い出したりはしない。

そのような企業のトップとして孫氏は「TRON潰しは、我ながらよくやった」と、今でも思っているはずです。孫氏が坂村教授に語った「若気の至り」は、あくまで社交辞令であって、そんなことは心の中では全く思っていないでしょう。TRONプロジェクトのリーダに会った以上、そうとでも言うしかなかったのだと思います。



それよりも、日本の "BTRON事件" で思うのは、このブログの最初に書いた英国と比較です。つまり、日英の官庁とマスメディアの、あまりにも大きい落差です。英国政府とマスメディア(BBC)は、断固として英国発の技術を使ったコンピュータを全国の学校にばらまく。それは(今から思うと)最終的には Windowsパソコンに置き変わることになったとしても、その中からARMのような世界を席巻する技術が生まれる。

片や日本の官僚は、ソフト流通業のトップといっしょになって日本発のコンピュータを潰しにかかる。通産省(当時)の機械情報産業局というと、日本の情報産業を育成する立場の組織です。その官僚が日本発の技術をつぶしていたのでは "日本国の官僚組織" とは言えないでしょう。まるでアメリカ商務省の出先機関です。それに輪をかけて、日本のマスメディアは貿易摩擦をおもしろおかしく書き立て、火に油を注ぐ。結果として起こった火災は、日本発のパソコンを壊滅に導いた・・・・・・。



最初に「ソフトバンク・グループの ARM 社買収で、以前に強く思ったことを思い出した」と書いたは、ARM(英国)とTRON(日本)の対比であり、日英の官庁の落差でした。

この対比において、日英の官庁の落差に加えてもう一つ重要なことがあります。官僚がTRON潰しに邁進したにもかかわらず、TRONは機器組み込み用のITRONとして生き残ったという事実です。ARMほどではないにしても・・・・・・。それは坂村教授というより、TRONを支えた日本の多数の技術者の功績のはずです。

新しいものを生みだそうという努力には敬意を払いたい、それが英国の ARM であっても日本の TRON であっても・・・・・・。そういう風に思いました。



 補記:ソフトバンクの ARM 買収 

記事の最初に書いたソフトバンクグループの ARMアーム社買収について、朝日新聞の大鹿記者が内情を書いていました。興味ある内容だったので、その前半3分の2ほどを紹介します。記事全体の見出しは「3.3兆円で買収した千里眼」です。「千里眼」の意味は以下の引用の最後に出てきます。まず、孫正義社長が買収を切り出した場面です。


エーゲ海に臨むトルコの景勝地マルマリス。ソフトバンクグループの孫正義社長は今年7月4日、ここのヨットハーバーに面するレストランを借り切った。

ランチに招いたのは、英半導体設計会社ARMアームホールディングスのスチュアート・チェンバース会長(当時)とサイモン・シガースCEO(最高経営責任者)。地中海で休暇中のチェンバース氏に、孫氏が急な面談をもちかけたところ、指定されたのが彼のヨットが寄港するこの港町だった。

ふだんは米シリコンバレーにいるシガース氏は、トルコへ呼び出されたことをいぶかしんだ。その1週間前、夕食をともにした孫氏から「IoT(モノのインターネット化)に関して何か一緒にできないか」と意味深長な提案を受けていたからだ。「買収だろうか。いやいや提携の申し入れぐらいだろう・・・・・・」

打ち解けた雰囲気のなか料理を楽しんでいると、孫氏が切り出した。「我が社なら御社の事業を加速できる。だから買収したい」

日本企業として過去最高の3.3兆円の巨額買収という大勝負に出た瞬間だった。それは、彼が10年越しで温めていた案だった。

朝日新聞(2016.10.24)
(大鹿靖明)

記事では続いて、この10年間の孫社長の動きが紹介されています。ボーダフォン日本法人を買収した直後から、アーム社買収の構想を練り始めたようです。


孫氏がアームに魅力を感じたのは、2006年に英ボーダフォンの日本法人(現ソフトバンク)を買収して間もないころ。シガース氏は、すでに「アームに淡い気持ちを抱いていた」という孫氏と東京で携帯電話の将来について語り合っている。孫氏側近の後藤芳光財務部長は当時をこう語る。「孫さんは『通信事業も大事だが携帯に入るチップ(半導体)はより重要だ。アームという面白い会社があるんだ』と言い出した。僕らへの刷り込みが始まっていた」

米通信大手スプリント買収を計画した12年、孫氏の念頭にアーム買収もよぎったが、「より直接的な相乗効果がある」と同業のスプリント買収を先行させた。だが、「毎年のようにアーム買収の研究をしてきた」(後藤氏)という。

パソコンのCPU(中央演算装置)は米インテルが制したが、携帯電話やスマートフォンの9割以上にアームが設計した中核回路(コア)が搭載。アームは低消費電力で小型化できる利点から携帯むけ回路設計で頭角を現し、今やアームのコアが組み込まれた半導体の年間出荷数は148億個以上にもなる。

孫氏は、保有する中国ネット通販大手アリババ株を一部売却するなど2兆円余りの軍資金を用意すると、一気に動きだしたのだった。

朝日新聞(2016.10.24)

2006年にソフトバンクがボーダフォンの日本法人を買収して間もないころ、アームのシガース氏は孫氏と東京で携帯電話について語り合った、とあります。このころ、スマートフォンはありません。iPhoneの米国発売は2007年、日本発売は2008年です。アームとソフトバンクを引きあわせたもの、それは日本の携帯電話だったわけです。日本の高度に発達した携帯電話のチップとして、省電力性能に優れたアーム仕様のチップが広まった。アームと日本のかかわり合いを示すエピソードです。

続く記事では、ソフトバンクがアームを買収した理由が出てきます。


IoT「次」は何?

英ケンブリッジ大に近いアーム本社の展示室には、一見ハイテク機器とは無縁な帽子やフォークが並んでいる。「中にチップが入っています」と社員。「この靴の中敷き。寒くなると自然と発熱します。スキー場や冬山で使えますね」。IoTで意外なものへのチップ搭載が進み、アームのコアへの需要は激増しそうなのだ。

アームは1990年、英コンピュータ会社から独立した12人のエンジニアが創業した。半導体業界でその成り立ちは特異だ。インテルや東芝などの半導体メーカーは開発から製造、販売まで自社で担う垂直統合型が一般的。だがアームは設計に特化した。回路の設計図をメーカーに売り、製品に搭載されたコアの知的財産権の使用料も収入源となる。量産工場はもたない。

創業メンバーの一人、マイク・ミュラーCTO(最高技術責任者)は「アイデアはあったが資金がなかったからね」と笑う。垂直統合型の半導体メーカーは毎年巨額投資が必要だし、過剰生産は値崩れを呼ぶ。量産工場をもたないアームはそうしたリスクを避けられる。売上高営業利益率は40%という高業績ぶり。企図せずに進化したビジネスモデルとなった。

最終製品の性能を決定する回路設計の担うだけに、注文は早い段階で舞い込む。シガース氏は「開発中のものは2、3年後に完成し、その後、出荷に1、2年かかる。消費者が製品として手にするまでにさらに数年」と言う。5~10年先の製品の回路設計に、いま取り組んでいるのだ。

シガース氏はソフトバンクとの相乗効果について「まったくない」と即答。むしろ孫氏に買収された背景をこう受け止める。「孫社長は『次に何がくるのか』と非常に気にしている。アームを買収したことで、次は何が重要なのか、どんな分野に投資すればいいのか、そいういうことが分かるのではないか

設計図の納入先との契約は新オーナーの孫氏にも秘密だが、今後の潮流ぐらいは占うことができる。孫氏の側近の後藤氏は「アームに集まる情報で未来を予測できる。ライフスタイルがどう変わるのか予見できるようになる」とみる。アームは孫氏にとって未来を見通す「千里眼」になりそうだ。

朝日新聞(2016.10.24)

「アームは1990年、英コンピュータ会社から独立した12人のエンジニアが創業した」という表現には注意が必要です。アーム仕様を最初に開発したのは、このブログ記事に書いたように "エイコーン・コンピュータ" です。アーム(ARM)の "A" は、もともとエイコーン(Acorn = ドングリ)の "A" だった。そのエイコーンの半導体回路設計部門が独立してアーム社になった。アーム仕様はベンチャー企業が独自に開発したのではありません。そのアームのルーツをたどると英国の学校用コンピュータに行き着くことは、このブログ記事に書いた通りです。

シガース氏がアームとソフトバンクの相乗効果は全くないと即答したのは、全くその通りだと思います。相乗効果が無いからこそ、独占禁止法に触れることなく買収できたのでしょう。インテルがアームを買収するのは無理というものです。

しかし記事にあるように、孫氏が「千里眼」を獲得するためにアームを買収したというのはどうでしょうか。確かにそういう面もあるでしょうが、「千里眼」のために3.3兆円というのはいかにも高すぎる。3.3兆円の裏には冷徹な計算があるはずです。

アームのビジネスモデルは、チップの設計仕様(アーキテクチャ)や回路設計データ(コア)を半導体メーカーに供与し、半導体が売れるたびに製品価格の何%かを収入として得るというものです。これは特許ビジネスと同じです。しかもアームのコアは、情報産業で言う "プラットフォーム" の一種です。いったんプラットフォームを握ると、そのビジネスは長期に続く可能性が高い。パソコン・スマホのOS(マイクロソフト、アップル、グーグル)、パソコンのCPU(インテル)がそうです。プラットフォームを乗り換えるには "コスト" がかかるのです。

プラットフォームを握り、日銭ひぜにを稼ぐ。それがアームのビジネスモデルです。つまり安定的な売り上げが見込める。この点は、ソフトバンクが過去に買収したボーダフォン日本(その前身はJ-Phone)、スプリントという携帯電話のビジネスと似ています。激しい競争はあるものの安定している。1年後に売り上げが30%ダウンなどどいう状況は、まず考えられません。しかもアームは設計に特化しているため、営業利益率が40%という高収益企業です。孫社長は今後のソフトバンクグループの成長戦略を描くために、そこに魅力を感じたのだろうと思いました。

(2016.11.7)



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