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No.171 - 日本人向けの英語教育 [文化]

前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を書いていて強く思ったことがあります。

  赤ちゃんは誰でもRとLを聞き分ける能力があるが(6月齢~8月齢)、日本人の赤ちゃんは10月齢になるとその能力が低下する(もちろんアメリカ人の赤ちゃんは上昇する)

と聞くと、なるほど日本人にとって英語の習得は難しいはずと再認識しました。その "象徴的な例" だと感じたのです。と同時に、だからこそ「日本人向けの英語の教育法」が大切だとも思いました。今回はその話です。


日本人は英語が苦手


学校で英語が必修になっているにもかかわらず、日本人で英語が苦手な人は多いわけです。中学から高校と、少なくとも6年間は英語を学んだはずなのに簡単な会話すらできない、これは英語教育に問題があると、昔からよく言われています。

これはその通りですが、英会話ができないのは当然の帰結でしょう。基礎的な会話ができることを目指すなら、会話が必要なシチュエーションをいろいろとあげ(たとえば自己紹介)、そこでの会話に必要な文型と単語を覚えていくべきですが、そういう教育や教科書、特にテストはあまりない感じがします。また、ホームルームの一部を英語でやるとか、ないしは一部の英語以外の授業を英語でやるといったことも必要だと思いますが、それもない。そもそも学校英語は(一部の私立を除いて)基礎的な会話ができるようになることを目指していないのだと思います。

では、学校英語に意味がないのかというと、そうでもない。No.142-143「日本語による科学」で書いたように、ノーベル賞を受賞した物理学者の益川教授は「英語は "読む" の一芸しかできない」と言っています。益川先生はノーベル賞の受賞記念講演も日本語でやった。それでも世界のトップレベルの科学者です。そういう例もあるわけです。その「英文を読む」ための基礎は学校教育だったはずで、学校英語にも意味はあります。

しかし英語による会話について言うと「学校英語は基礎的な会話ができることを目指していない」というより以前に、もっと根本的なところで英語教育の不備があると思うのです。その一つの象徴的な例が、この文章の最初に書いた「RとLの聞き取り」だと思います。なぜそう思うのかを順に書きます。


RとLの聞き取り


日本語における「ら・り・る・れ・ろ」は、使用頻度が少なく、特に単語の先頭は少ない。従って「尻取り遊び」をするときには、相手が「ら・り・る・れ・ろ」で始まるように誘導するわけです。それが「尻取り遊び」に勝つ一つの作戦です。しかし英語のRとLは違います。英語は、

RとLを使った単語が多い。
しかも、基礎的な単語にRとLがよく出てくる。
さらに、RとLの相違で意味がガラッと変わることがある。

という特性がある言語です。ちょっと考えてみても、

raw - law
read - lead
right - light
river - liver(肝臓)
road - load
rock - lock
crowd - cloud
crown - clown(道化)
fright - flight
free - flea(蚤の市の"蚤")
fry - fly
pray - play
wrist - list
wrong - long

など、いろいろあります。rice(米)- lice(しらみ)という "古典的な" 例もありました。これらの中には日常語として多用される語があることが、例を見ても明らかです。

上に掲げた例の一つですが、日本人の中にはデッドロックを「暗礁」のことだと誤解している人がいるようです。デッドロックとは「にっちもさっちもいかない」状況を言いますが、日本語にも「暗礁に乗り上げる」という表現があって、その連想かもしれません。しかし誤解の一番の理由は、デッドロックを dead rock と誤解してしまうことでしょう。もちろん正しくは dead lock であり、錆び付いて開かない鍵のことです。rock と lock を耳で同一視してしまう、ここに誤解の理由があるのだと思います。flea market(蚤の市)を free market(自由市場?)と誤解している人も多数いるようです。

また、上にあげた例に関する有名な話ですが、日本人のキャビン・アテンダントが機内で、

We hope you have a nice fright.
(素敵な恐怖を味わってくださいますように)

とアナウンスした、というのがあります。これはもちろんflight(飛行、空の旅)の L の発音ができなかったわけですが、あまりに良くできた話なので、作られたジョークでしょう。ひょっとしたら、日本の航空会社がキャビン・アテンダントの英語教育用に作ったジョークかもしれません。もし新人キャビン・アテンダントがこのジョークを聞かされたとしたら強く印象に残るでしょうから。

もっと "古典的な" ジョークでは、日本人男性がアメリカ人女性に、

I rub you.
(君をこするよ)

と告白したというのがありました。L に加えて V の発音もできなかったというわけですが、これこそ完全なジョークでしょうね。しかし我々日本人としては、こういった「英米人が(ないしは英語に達者な日本人が)作ったと思われる "日本人ジョーク"」を気にすることはありません。外国語の発音が難しいのはどこにでもあるわけで、英語基準で考えると、たとえば韓国人(および中国人)には P と B をごっちゃにする人がいるし(この区別は日本人にとっては簡単です)、ドイツ人にとっては W と V の区別が難しいわけです。



R と L の話に戻ります。前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を思い出すと、R と L を聞き分ける能力は、生後1年以内にできているわけです。つまりそれだけ脳に "染み付いて" いる。従って学校教育でその聞き分け能力をつけるには、それなりのハードルがあるはずです。いま、

英語の R と L は別の音素だと認識する非英語文化
英語の R と L は同じ音素だと認識する非英語文化

があったとします。はたとえばヨーロッパの多くの国であり、はたとえば日本です。そうすると、こので英語の教育法は(少なくとも R と L の聞き取り・発音については)違ってしかるべきです。つまり日本人に対する英語教育としては

R と Lの発音の違いを示す。
R と Lの違いが英語では重要あること(基本語に多く、頻度が高いこと)を認識させる。
日本語の「ラ行」の発音との違いを示す。

の「3点セット」があるべきでしょう。これはのタイプの国ではあまり必要がないはずです。しかしのタイプの国では必須です。はたして日本の英語教育はそうなっているでしょうか。

音の違いが聞き取れないと、違った音として発音ができません。同じ音と認識しているものは、同じ音で発音してしまう。これは当然です。No.170 にあるように、人の言葉を覚える最初は「音の違いの認識」です。幼児を見ていると、言葉を発しない段階から親の言うことをかなり理解していることが分かります。言葉をしゃべりはじめた頃は、言いたいことがあるのに言えずにイラついたりする。言葉が出るようになっても、たとえば "か" と "さ" と "た" が全部 "た" になったりします。貝(かい)が鯛(たい)になったりする。その "たどたどしい" ところが可愛いわけですが、子どもは貝と鯛の違いを頭では完全に理解しています。発音が追いついていないけれど、脳は違う音だと認識していて、意味も分かっているのです。

言葉を覚えるのは、まず聞き取り(リスニング)が最初でしょう。その一つの象徴的な例が「R と Lの違い」なのです。


二重母音 ou


英語の発音の聞き取りの話のついでに付け加えると、日本人にとってハードルが高い英語の発音に、二重母音の ou があると思います。そもそも二重母音は日本語にはありません。"owe" という英単語は、"おう"(負う、追う)と同じではない。日本語の "おう" はあくまで "o" と "u" の「二つの母音」です。そこがまず難しいのですが、加えて、

  学校 がっこう

とは書くものの、その発音の実態は、

  ガッコー、ないしは、ガッコゥー

であり、ウとは発音されないか、発音されたとしてもごく弱いわけです。つまり日本人としては無意識に、「オウとオーを同一視する」傾向にあります。この日本語感覚でたとえば、

  go という英単語の発音を "gou" というように覚えていると、実際の発音は "ゴー" になってしまう

わけです。さらに英語の日本語カタカナ表記では

  ゴール(goal)×ゴウル
  ゴー(go)×ゴウ
  オー(oh)×オウ
  オープン(open)×オウプン

のように、長母音で書かれるのが普通です(ボウリングのような例もありますが)。つまり、あれやこれやで、

  二重母音 ou を、長母音 o: と同じように聞き取ってしまい、従って二重母音 ou を、長母音 o: と同じように発音する日本人が多い

わけです。しかし英語では二重母音 ou と長母音 o: で意味が違う単語が多々あります。

bowl - ball
boat - bought(buyの過去・過去分詞形)
cold - called(callの過去・過去分詞形)
coat - caught(catchの過去・過去分詞形)
coal - call
load - lord
loan - lawn
row - raw
so - saw(seeの過去形。または鋸)

などです。この発音の言い分けも、日本人としては意識して勉強しないと難しいでしょう。

野球で「コールド・ゲーム」というのがありますね。悪天候や日没、逆転できないような大差で、審判が「試合終了」を宣告するものです。大差による宣告は高校野球の予選などにあります。日本人で、これを暗黙に cold game と誤解している人がいるようです。凍結した(cold)試合だからそう呼ぶのだと・・・・・・。これはもちろん called game であり「宣告試合」のことです。cold(冷たい)は "コウルド" であり、called(呼ばれた・宣告された) は「コールド」です(アバウトですが)。この違いが日本人の耳には分かりにくいことが誤解の原因だと思います。ちょうどデッドロックを dead rock と誤解するようなものです。この二重母音の件でもまた、

日本人には二重母音が難しい
日本語の発音はこうだが、英語はこうだ

と明白に指摘した教育が大切だと思います。


英語の名詞の難しさ


発音を離れて英語の単語を考えてみると、英語の「名詞」の使い方は日本人にとって難しいと思います。ここでいう名詞は、英語にはあるが日本語にはない概念とか、またはその逆といった "高度な" 話ではありません。英語にも日本語にも(そしてどの言語にも)ある基本的は単語の話です。たとえば

  school   学校

という単語があったとき、「school=学校」と理解するのは全くかまわないと思います。細かいことを言うと使い方や意味内容の微細な違いがあると思うのですが、まず最初の学習としては全くかまわない。

しかし日本人にとって英語の名詞が難しいのは、その次の段階です。つまり、英語では一つの名詞が6種類に変化することで、このようなことは日本語にはありません。

まず、一つの単語に可算用法(Countable)と不可算用法(Uncountable)があります。Countableとしてしか使わない(またはUncountableとしてしか使わない)名詞は「可算名詞(不可算名詞)」というわけですが、基本的な単語にそういうのは少ないので、一つの単語の「可算用法・不可算用法」ということで統一します。

次に、可算用法には単数と複数の区別があり、一般には語形が変化します。

さらに、定冠詞(the)をつけない用法、つまり無冠詞か不定冠詞の a/an をつける「不定用法(Indefinite)」と、定冠詞をつける「限定用法(Definite)」があります。なお、可算・限定用法では the の代わりに所有格(my など)でもよいわけです。

chicken(鶏)という単語を例にとって「6つの変化」を図示すると次のようになるでしょう。

可算:鶏
Countable
形がある
数えられる
像を結べる
絵に描ける
非可算:鶏肉
Uncountable
不定形
数えられない
像を結べない
絵に描けない
不定
Indefinite
話者だけが
情報を認知
している
a chicken chickens chicken
限定
Definite
情報が共有
され特定で
きる
the chicken
 (my)
the chickens
 (my)
the chicken

単数
Single
複数
Plural

chicken という一つの単語をとってみたとき、実際に会話の中で使うとか文章に書くときには、これら6つの(形態としては5つの)どれかにしなければならないわけです。従って、たとえばレストランで「水を一杯ください」という時には、

× Give me water,
Give me a water.
(= Give me a cup of water)

なのですね。つまり water という単語を「可算・単数・不定」の用法で使うわけです。一つの例ですが。

もちろんすべての単語に6つの使い方があるわけではありません。可算用法でしか使わない名詞もあるし、その逆もあります。一方で chicken のような語もある。英語の名詞はこういう「枠組み」であることは確かです。

これを英文法に従って、名詞、冠詞(定冠詞・不定冠詞)、単数・複数、可算・不可算と順番に説明していくのは、英文法には沿っているかもしれなが、日本人向きではない。それは「枠組み」を既に理解している人向けの詳細説明です。日本語に慣れた親しんだ人には、「日本語では1つの単語を、英語では6つの形で使うという風に統一的に説明する」のが、英語の名詞を理解する道でしょう。

  蛇足になりますが、英語の名詞のこういった変化は、ヨーロッパの言語の中では非常に簡単な方ですね。他の言語では、名詞に男性名詞・女性名詞(さらには中性名詞)の区別があったり、名詞が格によって変化したり、それとともに冠詞も変化したりと、(日本人からすると)やけに複雑なことになっています。英語の "簡単さ" が、実質的な国際標準語になりえた一つの理由なのだと思います(もちろん一番の理由は19世紀から20世紀にかけての英国・米国の世界覇権)。しかしこの "簡単な英語" も、こと名詞については日本人からすると難しいのです。


英文法書は「翻訳書」


そもそも、日本の学校における英語教育の大きな問題点は、英文法書が「翻訳書」だということです。英米人が書いた英語の英文法書が「ネタ」になっている。説明のしかたや、説明の組立て、構造がそうなっています。しかし、英米人の学者が書いた英文法は英語の研究のためのものであって、日本人に英語を教える目的ではないわけです。また日本の英文学者や英語学者が日本人向けの英文法教科書を書くのも変です。英文学者や英語学者は、英語や英文学の研究をする人であって、日本人に英語を教育する人ではないからです。

ある言語の文法は、その言語のネイティブ・スピーカーが言葉を使う上では不要です。我々は現代日本語の文法を知らなくてもしゃべれるし、読み書きができます。我々が学校で現代日本語の文法をどれだけ習ったかというと、あまりないわけです。五段活用とか一段活用とか、それぐらいしか印象にない。我々が学校で日本語の文法をしつこく勉強したとしたら、それは古典文法(古文)です。そこでは「係り結び」などの文法を知らないと文の意味が理解できないわけです。しかし現代日本語については、動詞の活用を知らなくても日本語はしゃべれるし読み書きができます。もちろん正しい言葉づかいを習得するのは大切だし、学校でも教えます。家庭でもしつけられる。しかし体系的な「文法」の知識は必要ではない。

一方、日本にやってきた英米人(ないしは英語を母語とする人)に日本語を教えるとすると、文法(言葉の構成規則)は必須です。そして英米人に日本語を教える時の「日本語文法」は、日本の学校で日本人が学ぶ「日本語文法」とは違ったものになるはずです。

たとえば、No.140-141「自動詞と他動詞」に書いたように日本語では「自動詞と他動詞のペア」が動詞の基本的は構造になっています。「変える」と「変わる」のように・・・・・・。英語ではこういうことは(一部の単語を除いては)ありません。英語では一つの言葉(たとえば change)が、日本語では二つの形(変える・変わる)をとる。これは、名詞のところで書いた「日本語では一つの言葉が英語では6つの形をとる」のと正反対の状況です。この「自動詞と他動詞のペア」を言い分けないと「変な日本語」なります。

あそこの角を左に曲がると駅です。
× あそこの角を左に曲げると駅です。

というようにです。この例文では×の意味は通じますが・・・・・・。

英語が母語の人が日本語を学ぶとき、この「自動詞と他動詞のペア」は、意識して学習しないと難しいと思います。英語にはない言語システムだし、さらに自動詞と他動詞のペアは、一見したところ規則性が無いように見えるからです。No.140「自動詞と他動詞(1)」に、その規則性を図にしたものをあげました(下図)。

自動詞と他動詞.jpg
自動詞と他動詞のペアの構成規則」(ローマ字は連用形の語尾)

この図はよく見るとちょっと複雑です。その "複雑さ" は、

五段動詞=自動詞、一段動詞=他動詞、のペア
五段動詞=他動詞、一段動詞=自動詞、のペア

の両方があり、五段動詞が自動詞になるのか他動詞になるのかが、動詞の形だけでは不明なことです。No.140「自動詞と他動詞(1)」で書いたその規則は、

五段動詞が自動詞か他動詞かは、つぎの原則で決まる。

自動詞
内部からの成長や変化など、自然にそうなるのが普通の状態だと見なせる動詞

他動詞
外部に影響を与える動詞。または人為が普通の状態だとみなせる動詞。

ということでした。確かにその通りですが、「自然にそうなるのが普通の状態」なのか「人為的にそうなるのが普通の状態」なのか、それは文化によって相違するはずです。結局、この「自動詞と他動詞のペア」の使い分けは、そういう言語体系を持たない人にとっては、意識して念入りに習得する必要があるはずです。

日本語を母語とする人にとっては、こういったルールを全く知らなくても動詞の使い分けが自然とできます。もちろん No.146「お粥なら食べれる」で書いたように、現代日本語にも文法的に "揺れ動いている" 言葉があって「見れる」と「見られる」が混在しています。しかし「自動詞と他動詞のペア」については非常に安定していて、たとえば「そこの角を曲げると駅です」という人には会ったことがありません。

従って上図に掲げたような「文法」の知識は全く不要であり、「日本人向け」にこのような「文法」が語られることはまずないのです。しかし外国人が日本語を習得する時には必須になる。ここが重要なところです。



日本人が英語を習得しようとするときには、これと全く正反対の状況が出現します。その一つの例が、前に掲げた「日本語では一つである名詞が、英語では6つの形をとる」ということであり、また発音で言うと、RとLの聞き分け、言い分けなのです。英米人にとってはあたりまえだが、日本語には全くない状況なので、意識して習得しないと難しい。漫然と勉強していたのでは、いつまでたっても身に付かないのです。


日本人のための英語教育


No.143「日本語による科学(2)」に「日本語・英語の自動同時通訳が将来あたりまえになるだろう」と書きました。この「自動同時通訳」ついて補足すると、スペイン語と英語の自動同時通訳はすでに実現されているのですね。マイクロソフトが Skype でこのサービスを提供してます。2014年末に始まった「Skype Translator」です。使ったことがないので「使いものになる程度」は分からないのですが、とにかくそういうサービスを天下のマイクロソフトが提供している。これは「スペイン語と英語の関係は、現在の技術で自動同時通訳ができるほど近い関係にある」ことを示しています。

しかし「日本語と英語の自動同時通訳」は、現在の技術ではできません。言葉の構造が全く違うからです。これからも分かることは、スペイン語の話者が英語を習得するより、日本語の話者が英語を習得する方が格段に難しいということです。だからこそ、その障壁をできるだけ小さくする教育方法が大切です。

たとえ将来「日本語と英語の自動同時通訳」ができたとししても、外国の方と言葉で直接コミュニケーションをとることの重要性はなくなりません。日本人のための(=日本人に特化した)英語教育の大切さは続くでしょう。そのためには、まず中学・高校の英語教育から、

日本人にとって英語習得の難しさしさはどこにあるのかを検討し
その日本人の難しいところの(英語における)重要度を判断し
重要なところから、日本人が克服するための最適な教え方を確立する

ことが必要だと思います。




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