No.171 - 日本人向けの英語教育 [文化]
前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を書いていて強く思ったことがあります。
と聞くと、なるほど日本人にとって英語の習得は難しいはずと再認識しました。その "象徴的な例" だと感じたのです。と同時に、だからこそ「日本人向けの英語の教育法」が大切だとも思いました。今回はその話です。
日本人は英語が苦手
学校で英語が必修になっているにもかかわらず、日本人で英語が苦手な人は多いわけです。中学から高校と、少なくとも6年間は英語を学んだはずなのに簡単な会話すらできない、これは英語教育に問題があると、昔からよく言われています。
これはその通りですが、英会話ができないのは当然の帰結でしょう。基礎的な会話ができることを目指すなら、会話が必要なシチュエーションをいろいろとあげ(たとえば自己紹介)、そこでの会話に必要な文型と単語を覚えていくべきですが、そういう教育や教科書、特にテストはあまりない感じがします。また、ホームルームの一部を英語でやるとか、ないしは一部の英語以外の授業を英語でやるといったことも必要だと思いますが、それもない。そもそも学校英語は(一部の私立を除いて)基礎的な会話ができるようになることを目指していないのだと思います。
では、学校英語に意味がないのかというと、そうでもない。No.142-143「日本語による科学」で書いたように、ノーベル賞を受賞した物理学者の益川教授は「英語は "読む" の一芸しかできない」と言っています。益川先生はノーベル賞の受賞記念講演も日本語でやった。それでも世界のトップレベルの科学者です。そういう例もあるわけです。その「英文を読む」ための基礎は学校教育だったはずで、学校英語にも意味はあります。
しかし英語による会話について言うと「学校英語は基礎的な会話ができることを目指していない」というより以前に、もっと根本的なところで英語教育の不備があると思うのです。その一つの象徴的な例が、この文章の最初に書いた「RとLの聞き取り」だと思います。なぜそう思うのかを順に書きます。
RとLの聞き取り
日本語における「ら・り・る・れ・ろ」は、使用頻度が少なく、特に単語の先頭は少ない。従って「尻取り遊び」をするときには、相手が「ら・り・る・れ・ろ」で始まるように誘導するわけです。それが「尻取り遊び」に勝つ一つの作戦です。しかし英語のRとLは違います。英語は、
という特性がある言語です。ちょっと考えてみても、
など、いろいろあります。rice(米)- lice(しらみ)という "古典的な" 例もありました。これらの中には日常語として多用される語があることが、例を見ても明らかです。
上に掲げた例の一つですが、日本人の中にはデッドロックを「暗礁」のことだと誤解している人がいるようです。デッドロックとは「にっちもさっちもいかない」状況を言いますが、日本語にも「暗礁に乗り上げる」という表現があって、その連想かもしれません。しかし誤解の一番の理由は、デッドロックを dead rock と誤解してしまうことでしょう。もちろん正しくは dead lock であり、錆び付いて開かない鍵のことです。rock と lock を耳で同一視してしまう、ここに誤解の理由があるのだと思います。flea market(蚤の市)を free market(自由市場?)と誤解している人も多数いるようです。
また、上にあげた例に関する有名な話ですが、日本人のキャビン・アテンダントが機内で、
とアナウンスした、というのがあります。これはもちろんflight(飛行、空の旅)の L の発音ができなかったわけですが、あまりに良くできた話なので、作られたジョークでしょう。ひょっとしたら、日本の航空会社がキャビン・アテンダントの英語教育用に作ったジョークかもしれません。もし新人キャビン・アテンダントがこのジョークを聞かされたとしたら強く印象に残るでしょうから。
もっと "古典的な" ジョークでは、日本人男性がアメリカ人女性に、
と告白したというのがありました。L に加えて V の発音もできなかったというわけですが、これこそ完全なジョークでしょうね。しかし我々日本人としては、こういった「英米人が(ないしは英語に達者な日本人が)作ったと思われる "日本人ジョーク"」を気にすることはありません。外国語の発音が難しいのはどこにでもあるわけで、英語基準で考えると、たとえば韓国人(および中国人)には P と B をごっちゃにする人がいるし(この区別は日本人にとっては簡単です)、ドイツ人にとっては W と V の区別が難しいわけです。
R と L の話に戻ります。前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を思い出すと、R と L を聞き分ける能力は、生後1年以内にできているわけです。つまりそれだけ脳に "染み付いて" いる。従って学校教育でその聞き分け能力をつけるには、それなりのハードルがあるはずです。いま、
があったとします。Aはたとえばヨーロッパの多くの国であり、Bはたとえば日本です。そうすると、このAとBで英語の教育法は(少なくとも R と L の聞き取り・発音については)違ってしかるべきです。つまり日本人に対する英語教育としては
の「3点セット」があるべきでしょう。これはAのタイプの国ではあまり必要がないはずです。しかしBのタイプの国では必須です。はたして日本の英語教育はそうなっているでしょうか。
音の違いが聞き取れないと、違った音として発音ができません。同じ音と認識しているものは、同じ音で発音してしまう。これは当然です。No.170 にあるように、人の言葉を覚える最初は「音の違いの認識」です。幼児を見ていると、言葉を発しない段階から親の言うことをかなり理解していることが分かります。言葉をしゃべりはじめた頃は、言いたいことがあるのに言えずにイラついたりする。言葉が出るようになっても、たとえば "か" と "さ" と "た" が全部 "た" になったりします。貝(かい)が鯛(たい)になったりする。その "たどたどしい" ところが可愛いわけですが、子どもは貝と鯛の違いを頭では完全に理解しています。発音が追いついていないけれど、脳は違う音だと認識していて、意味も分かっているのです。
言葉を覚えるのは、まず聞き取り(リスニング)が最初でしょう。その一つの象徴的な例が「R と Lの違い」なのです。
二重母音 ou
英語の発音の聞き取りの話のついでに付け加えると、日本人にとってハードルが高い英語の発音に、二重母音の ou があると思います。そもそも二重母音は日本語にはありません。"owe" という英単語は、"おう"(負う、追う)と同じではない。日本語の "おう" はあくまで "o" と "u" の「二つの母音」です。そこがまず難しいのですが、加えて、
とは書くものの、その発音の実態は、
であり、ウとは発音されないか、発音されたとしてもごく弱いわけです。つまり日本人としては無意識に、「オウとオーを同一視する」傾向にあります。この日本語感覚でたとえば、
わけです。さらに英語の日本語カタカナ表記では
のように、長母音で書かれるのが普通です(ボウリングのような例もありますが)。つまり、あれやこれやで、
わけです。しかし英語では二重母音 ou と長母音 o: で意味が違う単語が多々あります。
などです。この発音の言い分けも、日本人としては意識して勉強しないと難しいでしょう。
野球で「コールド・ゲーム」というのがありますね。悪天候や日没、逆転できないような大差で、審判が「試合終了」を宣告するものです。大差による宣告は高校野球の予選などにあります。日本人で、これを暗黙に cold game と誤解している人がいるようです。凍結した(cold)試合だからそう呼ぶのだと・・・・・・。これはもちろん called game であり「宣告試合」のことです。cold(冷たい)は "コウルド" であり、called(呼ばれた・宣告された) は「コールド」です(アバウトですが)。この違いが日本人の耳には分かりにくいことが誤解の原因だと思います。ちょうどデッドロックを dead rock と誤解するようなものです。この二重母音の件でもまた、
と明白に指摘した教育が大切だと思います。
英語の名詞の難しさ
発音を離れて英語の単語を考えてみると、英語の「名詞」の使い方は日本人にとって難しいと思います。ここでいう名詞は、英語にはあるが日本語にはない概念とか、またはその逆といった "高度な" 話ではありません。英語にも日本語にも(そしてどの言語にも)ある基本的は単語の話です。たとえば
という単語があったとき、「school=学校」と理解するのは全くかまわないと思います。細かいことを言うと使い方や意味内容の微細な違いがあると思うのですが、まず最初の学習としては全くかまわない。
しかし日本人にとって英語の名詞が難しいのは、その次の段階です。つまり、英語では一つの名詞が6種類に変化することで、このようなことは日本語にはありません。
まず、一つの単語に可算用法(Countable)と不可算用法(Uncountable)があります。Countableとしてしか使わない(またはUncountableとしてしか使わない)名詞は「可算名詞(不可算名詞)」というわけですが、基本的な単語にそういうのは少ないので、一つの単語の「可算用法・不可算用法」ということで統一します。
次に、可算用法には単数と複数の区別があり、一般には語形が変化します。
さらに、定冠詞(the)をつけない用法、つまり無冠詞か不定冠詞の a/an をつける「不定用法(Indefinite)」と、定冠詞をつける「限定用法(Definite)」があります。なお、可算・限定用法では the の代わりに所有格(my など)でもよいわけです。
chicken(鶏)という単語を例にとって「6つの変化」を図示すると次のようになるでしょう。
chicken という一つの単語をとってみたとき、実際に会話の中で使うとか文章に書くときには、これら6つの(形態としては5つの)どれかにしなければならないわけです。従って、たとえばレストランで「水を一杯ください」という時には、
なのですね。つまり water という単語を「可算・単数・不定」の用法で使うわけです。一つの例ですが。
もちろんすべての単語に6つの使い方があるわけではありません。可算用法でしか使わない名詞もあるし、その逆もあります。一方で chicken のような語もある。英語の名詞はこういう「枠組み」であることは確かです。
これを英文法に従って、名詞、冠詞(定冠詞・不定冠詞)、単数・複数、可算・不可算と順番に説明していくのは、英文法には沿っているかもしれなが、日本人向きではない。それは「枠組み」を既に理解している人向けの詳細説明です。日本語に慣れた親しんだ人には、「日本語では1つの単語を、英語では6つの形で使うという風に統一的に説明する」のが、英語の名詞を理解する道でしょう。
英文法書は「翻訳書」
そもそも、日本の学校における英語教育の大きな問題点は、英文法書が「翻訳書」だということです。英米人が書いた英語の英文法書が「ネタ」になっている。説明のしかたや、説明の組立て、構造がそうなっています。しかし、英米人の学者が書いた英文法は英語の研究のためのものであって、日本人に英語を教える目的ではないわけです。また日本の英文学者や英語学者が日本人向けの英文法教科書を書くのも変です。英文学者や英語学者は、英語や英文学の研究をする人であって、日本人に英語を教育する人ではないからです。
ある言語の文法は、その言語のネイティブ・スピーカーが言葉を使う上では不要です。我々は現代日本語の文法を知らなくてもしゃべれるし、読み書きができます。我々が学校で現代日本語の文法をどれだけ習ったかというと、あまりないわけです。五段活用とか一段活用とか、それぐらいしか印象にない。我々が学校で日本語の文法をしつこく勉強したとしたら、それは古典文法(古文)です。そこでは「係り結び」などの文法を知らないと文の意味が理解できないわけです。しかし現代日本語については、動詞の活用を知らなくても日本語はしゃべれるし読み書きができます。もちろん正しい言葉づかいを習得するのは大切だし、学校でも教えます。家庭でもしつけられる。しかし体系的な「文法」の知識は必要ではない。
一方、日本にやってきた英米人(ないしは英語を母語とする人)に日本語を教えるとすると、文法(言葉の構成規則)は必須です。そして英米人に日本語を教える時の「日本語文法」は、日本の学校で日本人が学ぶ「日本語文法」とは違ったものになるはずです。
たとえば、No.140-141「自動詞と他動詞」に書いたように日本語では「自動詞と他動詞のペア」が動詞の基本的は構造になっています。「変える」と「変わる」のように・・・・・・。英語ではこういうことは(一部の単語を除いては)ありません。英語では一つの言葉(たとえば change)が、日本語では二つの形(変える・変わる)をとる。これは、名詞のところで書いた「日本語では一つの言葉が英語では6つの形をとる」のと正反対の状況です。この「自動詞と他動詞のペア」を言い分けないと「変な日本語」なります。
というようにです。この例文では×の意味は通じますが・・・・・・。
英語が母語の人が日本語を学ぶとき、この「自動詞と他動詞のペア」は、意識して学習しないと難しいと思います。英語にはない言語システムだし、さらに自動詞と他動詞のペアは、一見したところ規則性が無いように見えるからです。No.140「自動詞と他動詞(1)」に、その規則性を図にしたものをあげました(下図)。
「自動詞と他動詞のペアの構成規則」(ローマ字は連用形の語尾)
この図はよく見るとちょっと複雑です。その "複雑さ" は、
の両方があり、五段動詞が自動詞になるのか他動詞になるのかが、動詞の形だけでは不明なことです。No.140「自動詞と他動詞(1)」で書いたその規則は、
ということでした。確かにその通りですが、「自然にそうなるのが普通の状態」なのか「人為的にそうなるのが普通の状態」なのか、それは文化によって相違するはずです。結局、この「自動詞と他動詞のペア」の使い分けは、そういう言語体系を持たない人にとっては、意識して念入りに習得する必要があるはずです。
日本語を母語とする人にとっては、こういったルールを全く知らなくても動詞の使い分けが自然とできます。もちろん No.146「お粥なら食べれる」で書いたように、現代日本語にも文法的に "揺れ動いている" 言葉があって「見れる」と「見られる」が混在しています。しかし「自動詞と他動詞のペア」については非常に安定していて、たとえば「そこの角を曲げると駅です」という人には会ったことがありません。
従って上図に掲げたような「文法」の知識は全く不要であり、「日本人向け」にこのような「文法」が語られることはまずないのです。しかし外国人が日本語を習得する時には必須になる。ここが重要なところです。
日本人が英語を習得しようとするときには、これと全く正反対の状況が出現します。その一つの例が、前に掲げた「日本語では一つである名詞が、英語では6つの形をとる」ということであり、また発音で言うと、RとLの聞き分け、言い分けなのです。英米人にとってはあたりまえだが、日本語には全くない状況なので、意識して習得しないと難しい。漫然と勉強していたのでは、いつまでたっても身に付かないのです。
日本人のための英語教育
No.143「日本語による科学(2)」に「日本語・英語の自動同時通訳が将来あたりまえになるだろう」と書きました。この「自動同時通訳」ついて補足すると、スペイン語と英語の自動同時通訳はすでに実現されているのですね。マイクロソフトが Skype でこのサービスを提供してます。2014年末に始まった「Skype Translator」です。使ったことがないので「使いものになる程度」は分からないのですが、とにかくそういうサービスを天下のマイクロソフトが提供している。これは「スペイン語と英語の関係は、現在の技術で自動同時通訳ができるほど近い関係にある」ことを示しています。
しかし「日本語と英語の自動同時通訳」は、現在の技術ではできません。言葉の構造が全く違うからです。これからも分かることは、スペイン語の話者が英語を習得するより、日本語の話者が英語を習得する方が格段に難しいということです。だからこそ、その障壁をできるだけ小さくする教育方法が大切です。
たとえ将来「日本語と英語の自動同時通訳」ができたとししても、外国の方と言葉で直接コミュニケーションをとることの重要性はなくなりません。日本人のための(=日本人に特化した)英語教育の大切さは続くでしょう。そのためには、まず中学・高校の英語教育から、
ことが必要だと思います。
赤ちゃんは誰でもRとLを聞き分ける能力があるが(6月齢~8月齢)、日本人の赤ちゃんは10月齢になるとその能力が低下する(もちろんアメリカ人の赤ちゃんは上昇する) |
と聞くと、なるほど日本人にとって英語の習得は難しいはずと再認識しました。その "象徴的な例" だと感じたのです。と同時に、だからこそ「日本人向けの英語の教育法」が大切だとも思いました。今回はその話です。
日本人は英語が苦手
学校で英語が必修になっているにもかかわらず、日本人で英語が苦手な人は多いわけです。中学から高校と、少なくとも6年間は英語を学んだはずなのに簡単な会話すらできない、これは英語教育に問題があると、昔からよく言われています。
これはその通りですが、英会話ができないのは当然の帰結でしょう。基礎的な会話ができることを目指すなら、会話が必要なシチュエーションをいろいろとあげ(たとえば自己紹介)、そこでの会話に必要な文型と単語を覚えていくべきですが、そういう教育や教科書、特にテストはあまりない感じがします。また、ホームルームの一部を英語でやるとか、ないしは一部の英語以外の授業を英語でやるといったことも必要だと思いますが、それもない。そもそも学校英語は(一部の私立を除いて)基礎的な会話ができるようになることを目指していないのだと思います。
では、学校英語に意味がないのかというと、そうでもない。No.142-143「日本語による科学」で書いたように、ノーベル賞を受賞した物理学者の益川教授は「英語は "読む" の一芸しかできない」と言っています。益川先生はノーベル賞の受賞記念講演も日本語でやった。それでも世界のトップレベルの科学者です。そういう例もあるわけです。その「英文を読む」ための基礎は学校教育だったはずで、学校英語にも意味はあります。
しかし英語による会話について言うと「学校英語は基礎的な会話ができることを目指していない」というより以前に、もっと根本的なところで英語教育の不備があると思うのです。その一つの象徴的な例が、この文章の最初に書いた「RとLの聞き取り」だと思います。なぜそう思うのかを順に書きます。
RとLの聞き取り
日本語における「ら・り・る・れ・ろ」は、使用頻度が少なく、特に単語の先頭は少ない。従って「尻取り遊び」をするときには、相手が「ら・り・る・れ・ろ」で始まるように誘導するわけです。それが「尻取り遊び」に勝つ一つの作戦です。しかし英語のRとLは違います。英語は、
◆ | RとLを使った単語が多い。 | ||
◆ | しかも、基礎的な単語にRとLがよく出てくる。 | ||
◆ | さらに、RとLの相違で意味がガラッと変わることがある。 |
という特性がある言語です。ちょっと考えてみても、
raw | - | law | |||
read | - | lead | |||
right | - | light | |||
river | - | liver(肝臓) | |||
road | - | load | |||
rock | - | lock | |||
crowd | - | cloud | |||
crown | - | clown(道化) | |||
fright | - | flight | |||
free | - | flea(蚤の市の"蚤") | |||
fry | - | fly | |||
pray | - | play | |||
wrist | - | list | |||
wrong | - | long |
など、いろいろあります。rice(米)- lice(しらみ)という "古典的な" 例もありました。これらの中には日常語として多用される語があることが、例を見ても明らかです。
上に掲げた例の一つですが、日本人の中にはデッドロックを「暗礁」のことだと誤解している人がいるようです。デッドロックとは「にっちもさっちもいかない」状況を言いますが、日本語にも「暗礁に乗り上げる」という表現があって、その連想かもしれません。しかし誤解の一番の理由は、デッドロックを dead rock と誤解してしまうことでしょう。もちろん正しくは dead lock であり、錆び付いて開かない鍵のことです。rock と lock を耳で同一視してしまう、ここに誤解の理由があるのだと思います。flea market(蚤の市)を free market(自由市場?)と誤解している人も多数いるようです。
また、上にあげた例に関する有名な話ですが、日本人のキャビン・アテンダントが機内で、
We hope you have a nice fright. (素敵な恐怖を味わってくださいますように) |
とアナウンスした、というのがあります。これはもちろんflight(飛行、空の旅)の L の発音ができなかったわけですが、あまりに良くできた話なので、作られたジョークでしょう。ひょっとしたら、日本の航空会社がキャビン・アテンダントの英語教育用に作ったジョークかもしれません。もし新人キャビン・アテンダントがこのジョークを聞かされたとしたら強く印象に残るでしょうから。
もっと "古典的な" ジョークでは、日本人男性がアメリカ人女性に、
I rub you. (君をこするよ) |
と告白したというのがありました。L に加えて V の発音もできなかったというわけですが、これこそ完全なジョークでしょうね。しかし我々日本人としては、こういった「英米人が(ないしは英語に達者な日本人が)作ったと思われる "日本人ジョーク"」を気にすることはありません。外国語の発音が難しいのはどこにでもあるわけで、英語基準で考えると、たとえば韓国人(および中国人)には P と B をごっちゃにする人がいるし(この区別は日本人にとっては簡単です)、ドイツ人にとっては W と V の区別が難しいわけです。
R と L の話に戻ります。前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を思い出すと、R と L を聞き分ける能力は、生後1年以内にできているわけです。つまりそれだけ脳に "染み付いて" いる。従って学校教育でその聞き分け能力をつけるには、それなりのハードルがあるはずです。いま、
英語の R と L は別の音素だと認識する非英語文化 | |||
英語の R と L は同じ音素だと認識する非英語文化 |
があったとします。Aはたとえばヨーロッパの多くの国であり、Bはたとえば日本です。そうすると、このAとBで英語の教育法は(少なくとも R と L の聞き取り・発音については)違ってしかるべきです。つまり日本人に対する英語教育としては
① | R と Lの発音の違いを示す。 | ||
② | R と Lの違いが英語では重要あること(基本語に多く、頻度が高いこと)を認識させる。 | ||
③ | 日本語の「ラ行」の発音との違いを示す。 |
の「3点セット」があるべきでしょう。これはAのタイプの国ではあまり必要がないはずです。しかしBのタイプの国では必須です。はたして日本の英語教育はそうなっているでしょうか。
音の違いが聞き取れないと、違った音として発音ができません。同じ音と認識しているものは、同じ音で発音してしまう。これは当然です。No.170 にあるように、人の言葉を覚える最初は「音の違いの認識」です。幼児を見ていると、言葉を発しない段階から親の言うことをかなり理解していることが分かります。言葉をしゃべりはじめた頃は、言いたいことがあるのに言えずにイラついたりする。言葉が出るようになっても、たとえば "か" と "さ" と "た" が全部 "た" になったりします。貝(かい)が鯛(たい)になったりする。その "たどたどしい" ところが可愛いわけですが、子どもは貝と鯛の違いを頭では完全に理解しています。発音が追いついていないけれど、脳は違う音だと認識していて、意味も分かっているのです。
言葉を覚えるのは、まず聞き取り(リスニング)が最初でしょう。その一つの象徴的な例が「R と Lの違い」なのです。
二重母音 ou
英語の発音の聞き取りの話のついでに付け加えると、日本人にとってハードルが高い英語の発音に、二重母音の ou があると思います。そもそも二重母音は日本語にはありません。"owe" という英単語は、"おう"(負う、追う)と同じではない。日本語の "おう" はあくまで "o" と "u" の「二つの母音」です。そこがまず難しいのですが、加えて、
学校 がっこう |
とは書くものの、その発音の実態は、
ガッコー、ないしは、ガッコゥー |
であり、ウとは発音されないか、発音されたとしてもごく弱いわけです。つまり日本人としては無意識に、「オウとオーを同一視する」傾向にあります。この日本語感覚でたとえば、
go という英単語の発音を "gou" というように覚えていると、実際の発音は "ゴー" になってしまう |
わけです。さらに英語の日本語カタカナ表記では
ゴール | (goal) | ×ゴウル | ||||
ゴー | (go) | ×ゴウ | ||||
オー | (oh) | ×オウ | ||||
オープン | (open) | ×オウプン |
のように、長母音で書かれるのが普通です(ボウリングのような例もありますが)。つまり、あれやこれやで、
二重母音 ou を、長母音 o: と同じように聞き取ってしまい、従って二重母音 ou を、長母音 o: と同じように発音する日本人が多い |
わけです。しかし英語では二重母音 ou と長母音 o: で意味が違う単語が多々あります。
bowl | - | ball | |||
boat | - | bought(buyの過去・過去分詞形) | |||
cold | - | called(callの過去・過去分詞形) | |||
coat | - | caught(catchの過去・過去分詞形) | |||
coal | - | call | |||
load | - | lord | |||
loan | - | lawn | |||
row | - | raw | |||
so | - | saw(seeの過去形。または鋸) |
などです。この発音の言い分けも、日本人としては意識して勉強しないと難しいでしょう。
野球で「コールド・ゲーム」というのがありますね。悪天候や日没、逆転できないような大差で、審判が「試合終了」を宣告するものです。大差による宣告は高校野球の予選などにあります。日本人で、これを暗黙に cold game と誤解している人がいるようです。凍結した(cold)試合だからそう呼ぶのだと・・・・・・。これはもちろん called game であり「宣告試合」のことです。cold(冷たい)は "コウルド" であり、called(呼ばれた・宣告された) は「コールド」です(アバウトですが)。この違いが日本人の耳には分かりにくいことが誤解の原因だと思います。ちょうどデッドロックを dead rock と誤解するようなものです。この二重母音の件でもまた、
・ | 日本人には二重母音が難しい | ||
・ | 日本語の発音はこうだが、英語はこうだ |
と明白に指摘した教育が大切だと思います。
英語の名詞の難しさ
発音を離れて英語の単語を考えてみると、英語の「名詞」の使い方は日本人にとって難しいと思います。ここでいう名詞は、英語にはあるが日本語にはない概念とか、またはその逆といった "高度な" 話ではありません。英語にも日本語にも(そしてどの言語にも)ある基本的は単語の話です。たとえば
school 学校 |
という単語があったとき、「school=学校」と理解するのは全くかまわないと思います。細かいことを言うと使い方や意味内容の微細な違いがあると思うのですが、まず最初の学習としては全くかまわない。
しかし日本人にとって英語の名詞が難しいのは、その次の段階です。つまり、英語では一つの名詞が6種類に変化することで、このようなことは日本語にはありません。
まず、一つの単語に可算用法(Countable)と不可算用法(Uncountable)があります。Countableとしてしか使わない(またはUncountableとしてしか使わない)名詞は「可算名詞(不可算名詞)」というわけですが、基本的な単語にそういうのは少ないので、一つの単語の「可算用法・不可算用法」ということで統一します。
次に、可算用法には単数と複数の区別があり、一般には語形が変化します。
さらに、定冠詞(the)をつけない用法、つまり無冠詞か不定冠詞の a/an をつける「不定用法(Indefinite)」と、定冠詞をつける「限定用法(Definite)」があります。なお、可算・限定用法では the の代わりに所有格(my など)でもよいわけです。
chicken(鶏)という単語を例にとって「6つの変化」を図示すると次のようになるでしょう。
可算:鶏 Countable
|
Uncountable
|
||||
不定 Indefinite 情報を認知 している |
a chicken | chickens | chicken | ||
限定 Definite され特定で きる |
the chicken (my) |
the chickens (my) |
the chicken |
||
単数 Single |
複数 Plural |
chicken という一つの単語をとってみたとき、実際に会話の中で使うとか文章に書くときには、これら6つの(形態としては5つの)どれかにしなければならないわけです。従って、たとえばレストランで「水を一杯ください」という時には、
Give me water, | |||
Give me a water. (= Give me a cup of water) |
なのですね。つまり water という単語を「可算・単数・不定」の用法で使うわけです。一つの例ですが。
もちろんすべての単語に6つの使い方があるわけではありません。可算用法でしか使わない名詞もあるし、その逆もあります。一方で chicken のような語もある。英語の名詞はこういう「枠組み」であることは確かです。
これを英文法に従って、名詞、冠詞(定冠詞・不定冠詞)、単数・複数、可算・不可算と順番に説明していくのは、英文法には沿っているかもしれなが、日本人向きではない。それは「枠組み」を既に理解している人向けの詳細説明です。日本語に慣れた親しんだ人には、「日本語では1つの単語を、英語では6つの形で使うという風に統一的に説明する」のが、英語の名詞を理解する道でしょう。
蛇足になりますが、英語の名詞のこういった変化は、ヨーロッパの言語の中では非常に簡単な方ですね。他の言語では、名詞に男性名詞・女性名詞(さらには中性名詞)の区別があったり、名詞が格によって変化したり、それとともに冠詞も変化したりと、(日本人からすると)やけに複雑なことになっています。英語の "簡単さ" が、実質的な国際標準語になりえた一つの理由なのだと思います(もちろん一番の理由は19世紀から20世紀にかけての英国・米国の世界覇権)。しかしこの "簡単な英語" も、こと名詞については日本人からすると難しいのです。 |
英文法書は「翻訳書」
そもそも、日本の学校における英語教育の大きな問題点は、英文法書が「翻訳書」だということです。英米人が書いた英語の英文法書が「ネタ」になっている。説明のしかたや、説明の組立て、構造がそうなっています。しかし、英米人の学者が書いた英文法は英語の研究のためのものであって、日本人に英語を教える目的ではないわけです。また日本の英文学者や英語学者が日本人向けの英文法教科書を書くのも変です。英文学者や英語学者は、英語や英文学の研究をする人であって、日本人に英語を教育する人ではないからです。
ある言語の文法は、その言語のネイティブ・スピーカーが言葉を使う上では不要です。我々は現代日本語の文法を知らなくてもしゃべれるし、読み書きができます。我々が学校で現代日本語の文法をどれだけ習ったかというと、あまりないわけです。五段活用とか一段活用とか、それぐらいしか印象にない。我々が学校で日本語の文法をしつこく勉強したとしたら、それは古典文法(古文)です。そこでは「係り結び」などの文法を知らないと文の意味が理解できないわけです。しかし現代日本語については、動詞の活用を知らなくても日本語はしゃべれるし読み書きができます。もちろん正しい言葉づかいを習得するのは大切だし、学校でも教えます。家庭でもしつけられる。しかし体系的な「文法」の知識は必要ではない。
一方、日本にやってきた英米人(ないしは英語を母語とする人)に日本語を教えるとすると、文法(言葉の構成規則)は必須です。そして英米人に日本語を教える時の「日本語文法」は、日本の学校で日本人が学ぶ「日本語文法」とは違ったものになるはずです。
たとえば、No.140-141「自動詞と他動詞」に書いたように日本語では「自動詞と他動詞のペア」が動詞の基本的は構造になっています。「変える」と「変わる」のように・・・・・・。英語ではこういうことは(一部の単語を除いては)ありません。英語では一つの言葉(たとえば change)が、日本語では二つの形(変える・変わる)をとる。これは、名詞のところで書いた「日本語では一つの言葉が英語では6つの形をとる」のと正反対の状況です。この「自動詞と他動詞のペア」を言い分けないと「変な日本語」なります。
あそこの角を左に曲がると駅です。 | |||
あそこの角を左に曲げると駅です。 |
というようにです。この例文では×の意味は通じますが・・・・・・。
英語が母語の人が日本語を学ぶとき、この「自動詞と他動詞のペア」は、意識して学習しないと難しいと思います。英語にはない言語システムだし、さらに自動詞と他動詞のペアは、一見したところ規則性が無いように見えるからです。No.140「自動詞と他動詞(1)」に、その規則性を図にしたものをあげました(下図)。
「自動詞と他動詞のペアの構成規則」(ローマ字は連用形の語尾)
この図はよく見るとちょっと複雑です。その "複雑さ" は、
◆ | 五段動詞=自動詞、一段動詞=他動詞、のペア | ||
◆ | 五段動詞=他動詞、一段動詞=自動詞、のペア |
の両方があり、五段動詞が自動詞になるのか他動詞になるのかが、動詞の形だけでは不明なことです。No.140「自動詞と他動詞(1)」で書いたその規則は、
|
日本語を母語とする人にとっては、こういったルールを全く知らなくても動詞の使い分けが自然とできます。もちろん No.146「お粥なら食べれる」で書いたように、現代日本語にも文法的に "揺れ動いている" 言葉があって「見れる」と「見られる」が混在しています。しかし「自動詞と他動詞のペア」については非常に安定していて、たとえば「そこの角を曲げると駅です」という人には会ったことがありません。
従って上図に掲げたような「文法」の知識は全く不要であり、「日本人向け」にこのような「文法」が語られることはまずないのです。しかし外国人が日本語を習得する時には必須になる。ここが重要なところです。
日本人が英語を習得しようとするときには、これと全く正反対の状況が出現します。その一つの例が、前に掲げた「日本語では一つである名詞が、英語では6つの形をとる」ということであり、また発音で言うと、RとLの聞き分け、言い分けなのです。英米人にとってはあたりまえだが、日本語には全くない状況なので、意識して習得しないと難しい。漫然と勉強していたのでは、いつまでたっても身に付かないのです。
日本人のための英語教育
No.143「日本語による科学(2)」に「日本語・英語の自動同時通訳が将来あたりまえになるだろう」と書きました。この「自動同時通訳」ついて補足すると、スペイン語と英語の自動同時通訳はすでに実現されているのですね。マイクロソフトが Skype でこのサービスを提供してます。2014年末に始まった「Skype Translator」です。使ったことがないので「使いものになる程度」は分からないのですが、とにかくそういうサービスを天下のマイクロソフトが提供している。これは「スペイン語と英語の関係は、現在の技術で自動同時通訳ができるほど近い関係にある」ことを示しています。
しかし「日本語と英語の自動同時通訳」は、現在の技術ではできません。言葉の構造が全く違うからです。これからも分かることは、スペイン語の話者が英語を習得するより、日本語の話者が英語を習得する方が格段に難しいということです。だからこそ、その障壁をできるだけ小さくする教育方法が大切です。
たとえ将来「日本語と英語の自動同時通訳」ができたとししても、外国の方と言葉で直接コミュニケーションをとることの重要性はなくなりません。日本人のための(=日本人に特化した)英語教育の大切さは続くでしょう。そのためには、まず中学・高校の英語教育から、
・ | 日本人にとって英語習得の難しさしさはどこにあるのかを検討し | ||
・ | その日本人の難しいところの(英語における)重要度を判断し | ||
・ | 重要なところから、日本人が克服するための最適な教え方を確立する |
ことが必要だと思います。
No.170 - 赤ちゃんはRとLを聞き分ける [科学]
前回の No.169「10代の脳」では、日経サイエンス 2016年3月号の解説に従って、10代の脳が持つ特別な性質や働きを紹介しましたが、同じ号に "赤ちゃんの脳" の話が載っていました。『赤ちゃんの超言語力』と題した、ワシントン大学のパトリシア・クール教授の解説記事です。題名のように赤ちゃんが言葉を習得する能力についての話ですが、前回と同じく、脳の発達の話として大変興味深かったので紹介したいと思います。
赤ちゃんの言語習得
「あー、うー」としか言わなかった幼児が言葉を習得し、「まんま」とか言い出す。そして文らしきものをしゃべり出す・・・・・・。この過程は、よくよく考えてみると驚くべきことです。誰かが系統的に言葉を教え込んだのではないにもかかわらず、大人とのコミュニケーションが次第に可能になっていく。2歳とか3歳の幼児がいる親は、今まさにその現場に立ち会っているわけです。子育てに忙殺されて驚くどころではないと思いますが、第三者の目で客観的に眺めてみると、言葉の習得というのは驚くべき脳の発達です。
では、その赤ちゃんの言語能力はどういう風に発達するのか。日経サイエンスの記事『赤ちゃんの超言語力』には、まず次のように書いてあります。
クール教授がここでまず言っているのは、赤ちゃんはどの言語でも習得できる潜在能力があるということです。記事によると世界には約7000の言語があるそうですが(数え方によるでしょうが)、赤ちゃんは生まれながらにしてどの言語でも習得できる。これは納得できます。
引用に出てくる「音素」という言葉ですが、これはおおざっぱには「子音」や「母音」のことです。ただし「音素」という場合、音声学的な(物理的な)音の分類ではありません。その言語の話者にとって「同じ音」だと認識されるものは同じ音素であり「違う音だ」と認識されるものは違う音素です。たとえば日本語の「シ」の発音の子音ですが、日本語話者からみて似たような英語の子音として、she, silk, think の最初の音があります。英語話者にとってこの3つの子音は違う音素です。これを日本語話者が日本語風に「シー」「シルク」「シンク」と発音したとしたら(また聞いたとしたら)、それは同じ音素と認識したことになります。音素は音声の問題ではなく、脳がどういう風に認識するかの問題です。その音素の違いが言葉の意味の違いにつながります。
この視点からみると、世界中の言語には、合計約800の音素がある。上の引用はそう言っています。
音素の数は言語によって違います。英語の音素は45程度で、日本語は25程度です。クール教授が「約40種類の音素」と書いているのは、英語を念頭に置いているか、もしくはどんな言語でも40程度の音素を識別できれば十分という意味かと思います。
音の微妙な違いの判別が必要、というのはまさにそうです。日本語の「あ・い・う・え・お」の母音は違う母音(=音素)です。しかし実際の会話では、これらは必ずしも明瞭に言い分けられているのではありません。「あ」「え」「お」などは、純粋な音としてはその区別がずいぶん曖昧に発音されることがある。それでも区別できるのは、大人からすると当然です。「えるく」「おるく」に近い音を発音しても、会話の中では「あるく・歩く」に聞こえる。日本語にはその単語しかないからです。また「あり・蟻」を「えり・襟」「おり・檻」に近く発音しても、全く違うものを指しているので文脈から判断できます。その他、アクセントとかイントネーションとか、区別の手段はいろいろあります。
しかし幼児はそもそも単語や文を知りません。どうやって音素を区別するのでしょうか。また単語はどうやって認識するのでしょうか。さらに、その能力はいつ頃から生まれてくるのでしょうか。
「敏感期」の脳は "統計的学習" をする
「言葉という魔法の最初の基礎レッスン」は、幼児の月齢6ヶ月から1歳程度の間に行われるというのポイントです。その "レッスン" において、幼児はどうやって言葉(音素や単語)を学ぶのか。それはまず「脳における統計的学習」です。
特定の音が聞こえる頻度が幼児の脳に影響を及ぼすのです。このことが、英語の r と l の音と、それに相当する日本語の R (ローマ字表記で r と書かれる ラ・リ・ル・レ・ロ の子音。英語と区別するために大文字にした)を例に説明してあります。英語の r と l はもちろん違う音素であり、right と light のように、その違いで意味がガラリと変わります。一方、日本語の R は、英語を基準に考えると r と l の中間的な音です。ラーメンなどはむしろ l のように聞こえるといいます。このような音の認識は、8ヶ月齢から10ヶ月齢で確立されるようです。
この引用における「日本人の赤ちゃん」とは、もちろん「日本語環境で育った日本人の赤ちゃん」ということです。
クール教授は、成長してから第2言語を学ぶ難しさがここにあるといいます。第2言語が学べないということではありません。しかし「脳の音素の認識回路」に限っていうと、それは幼児期に決まると言っているのです。
米国人、日本人、台湾人の幼児を調査した結果が載っています。米国人にとって ra と la の違いを識別するのは容易ですが、日本人にとっては難しい。一方、台湾人にとって qi と xi の違いを識別するのは容易だが、米国人にとっては難しい。このことを赤ちゃんで検証した研究です。一番のポイントは、6ヶ月~8ヶ月齢の赤ちゃんは、その赤ちゃんがどういう言語環境で育っているかにかかわらず、ra と la、qi と xi を聞き分ける能力が同じだということです。それが数ヶ月で大きく変化します。
脳の統計的学習で音素が認識できたとして、次には単語を認識する必要があります。書かれた言葉と違って、耳で聞く言葉は「単語の区切り」がありません。赤ちゃんはどうやって単語を認識するのでしょうか。
クール教授によると、これも「脳の統計的学習」だと言います。Aという "音節"(=言葉として発音される最小限の音素の集まり。音節の組み合わせで単語ができる)のあとにBという音節が聞こえる頻度が高ければ、A+Bを単語だと認識する。コンピュータによる音声合成で、ランダムに音節を組み合わせて作った無意味な単語を幼児に聞かせた実験が示されています。特定の組み合わせの頻度だけを高めて聞かせると(それも無意味な単語ですが)、その "単語" に幼児は反応するようになる。つまり "音節の組み合わせが聞こえる頻度" という統計的学習で単語の認識がされるのです。
幼児は「人との交流」で言葉を覚える
さらにクール教授が強調していることがあります。幼児の脳におけるは統計的学習は、人との交流で起動されるという事実です。
ある実験が示されています。シアトルに住む米国人の9ヶ月齢の赤ちゃんに、標準中国語を聞かせるという実験です。赤ちゃんは4つのグループに分けれられます。
このセッションは1ヶ月に12回に行われました。そして10ヶ月齢になったときに検査すると、中国語の音素が聞き取れたのは第1グループだけでした。これは赤ちゃんの言語の習得には人との交流が決定的に重要なことを示しています。
親語(ペアレンティーズ)の重要性
クール教授はさらに「親語 = ペアレンティーズ」の重要性を指摘しています。「親語」とは、親が子どもに話しかけるときにしか使わない特有の言葉や発声方法です。母親語(マザーリーズ)とか、幼児語というのも同じことです。
日本語でいうと、たとえば食事(ないしは "ごはん")のことを "まんま" というたぐいです。また特別な幼児語を使わないまでも、たとえば赤ちゃんが「彩」という名前だったとすると「あーやーちゃーん」と、かなりの抑揚をつけて呼びかけたりすることを言います。
実は親語は、それを聞く赤ちゃんが音素を認識しやすく、また単語を認識しやすい言葉使いなのです。高い音は幼児の注意を引きつけ、また音と音との違いが強調された言葉になっている。我々は暗黙に「赤ちゃんなのだから特有の言葉を使い、特有の発音方法をするのは当たり前」と思ってしまうのだけれど、親語には赤ちゃんの言語習得にとって重要な意味があるのです。クール教授の解説記事には、親語で話かけられた赤ちゃんは、親語で話しかけられなかった赤ちゃんの2倍の単語を覚えたという話がでてきます。
言葉の意味の習得には、親とのコミュニケーションがさらに重要です。たとえば、幼児は親の視線に敏感です。親が何気なくおもちゃに視線を向けて「おもちゃ」と発話する。すると幼児はそれを敏感に察知する・・・・・・。このような行為の繰り返しが、単語の意味の習得に役立っているのです。
赤ちゃんの "言語脳"
以上のクール教授の解説をまとめると
ということだと思います。ほとんどの親は ② を無意識にせよ、やっているでしょう。しかし、それがどういう効果をもつのか、自覚している親は少ないのではないでしょうか。しかし ① のようなことを知ると、育児における親の行為の重要性が理解できる、この記事を読んでそう思いました。
もう一つ思ったのは、AI(人工知能)との関係です。赤ちゃんが言葉の音(音素)を認識し、また単語を認識するのは、赤ちゃんの脳にインプットされた「音素」や「音の組み合わせ」を脳が自律的に "分類" し、頻度の高いものを認識していくのですね。これはAI技術でいう「教師なし機械学習」と同じです。一方、単語の意味については、親との交流における親の「意識的、ないしは無意識の教唆」で習得していく。これは「教師あり学習」と言えるでしょう。
現代におけるAIの飛躍的な発展は、人間の脳のメカニズムの研究成果を取り入れたことが大きいわけです。そのとき「人間がどうやって考えているのか」も大事だが、「人間はどうやって考えられるようになっていくのか」という研究はもっと大事でしょう。AI技術の発展にとって、赤ちゃんが言語を初めて習得するやりかたを含む「赤ちゃんの脳の研究」が重要だと感じました。
赤ちゃんの言語習得
「あー、うー」としか言わなかった幼児が言葉を習得し、「まんま」とか言い出す。そして文らしきものをしゃべり出す・・・・・・。この過程は、よくよく考えてみると驚くべきことです。誰かが系統的に言葉を教え込んだのではないにもかかわらず、大人とのコミュニケーションが次第に可能になっていく。2歳とか3歳の幼児がいる親は、今まさにその現場に立ち会っているわけです。子育てに忙殺されて驚くどころではないと思いますが、第三者の目で客観的に眺めてみると、言葉の習得というのは驚くべき脳の発達です。
では、その赤ちゃんの言語能力はどういう風に発達するのか。日経サイエンスの記事『赤ちゃんの超言語力』には、まず次のように書いてあります。
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日経サイエンス
2016年3月号 |
引用に出てくる「音素」という言葉ですが、これはおおざっぱには「子音」や「母音」のことです。ただし「音素」という場合、音声学的な(物理的な)音の分類ではありません。その言語の話者にとって「同じ音」だと認識されるものは同じ音素であり「違う音だ」と認識されるものは違う音素です。たとえば日本語の「シ」の発音の子音ですが、日本語話者からみて似たような英語の子音として、she, silk, think の最初の音があります。英語話者にとってこの3つの子音は違う音素です。これを日本語話者が日本語風に「シー」「シルク」「シンク」と発音したとしたら(また聞いたとしたら)、それは同じ音素と認識したことになります。音素は音声の問題ではなく、脳がどういう風に認識するかの問題です。その音素の違いが言葉の意味の違いにつながります。
この視点からみると、世界中の言語には、合計約800の音素がある。上の引用はそう言っています。
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音素の数は言語によって違います。英語の音素は45程度で、日本語は25程度です。クール教授が「約40種類の音素」と書いているのは、英語を念頭に置いているか、もしくはどんな言語でも40程度の音素を識別できれば十分という意味かと思います。
音の微妙な違いの判別が必要、というのはまさにそうです。日本語の「あ・い・う・え・お」の母音は違う母音(=音素)です。しかし実際の会話では、これらは必ずしも明瞭に言い分けられているのではありません。「あ」「え」「お」などは、純粋な音としてはその区別がずいぶん曖昧に発音されることがある。それでも区別できるのは、大人からすると当然です。「えるく」「おるく」に近い音を発音しても、会話の中では「あるく・歩く」に聞こえる。日本語にはその単語しかないからです。また「あり・蟻」を「えり・襟」「おり・檻」に近く発音しても、全く違うものを指しているので文脈から判断できます。その他、アクセントとかイントネーションとか、区別の手段はいろいろあります。
しかし幼児はそもそも単語や文を知りません。どうやって音素を区別するのでしょうか。また単語はどうやって認識するのでしょうか。さらに、その能力はいつ頃から生まれてくるのでしょうか。
「敏感期」の脳は "統計的学習" をする
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「言葉という魔法の最初の基礎レッスン」は、幼児の月齢6ヶ月から1歳程度の間に行われるというのポイントです。その "レッスン" において、幼児はどうやって言葉(音素や単語)を学ぶのか。それはまず「脳における統計的学習」です。
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特定の音が聞こえる頻度が幼児の脳に影響を及ぼすのです。このことが、英語の r と l の音と、それに相当する日本語の R (ローマ字表記で r と書かれる ラ・リ・ル・レ・ロ の子音。英語と区別するために大文字にした)を例に説明してあります。英語の r と l はもちろん違う音素であり、right と light のように、その違いで意味がガラリと変わります。一方、日本語の R は、英語を基準に考えると r と l の中間的な音です。ラーメンなどはむしろ l のように聞こえるといいます。このような音の認識は、8ヶ月齢から10ヶ月齢で確立されるようです。
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この引用における「日本人の赤ちゃん」とは、もちろん「日本語環境で育った日本人の赤ちゃん」ということです。
クール教授は、成長してから第2言語を学ぶ難しさがここにあるといいます。第2言語が学べないということではありません。しかし「脳の音素の認識回路」に限っていうと、それは幼児期に決まると言っているのです。
米国人、日本人、台湾人の幼児を調査した結果が載っています。米国人にとって ra と la の違いを識別するのは容易ですが、日本人にとっては難しい。一方、台湾人にとって qi と xi の違いを識別するのは容易だが、米国人にとっては難しい。このことを赤ちゃんで検証した研究です。一番のポイントは、6ヶ月~8ヶ月齢の赤ちゃんは、その赤ちゃんがどういう言語環境で育っているかにかかわらず、ra と la、qi と xi を聞き分ける能力が同じだということです。それが数ヶ月で大きく変化します。
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米国人、日本人、台湾人の赤ちゃんの音素識別能力を計測した研究。生後6ヶ月齢の赤ちゃんは似たような能力だが、10ヶ月齢になると育てられている環境で差が出てくる。たとえば「ra と la の違いを識別する」能力は、米国人の赤ちゃんと日本人の赤ちゃんでは明白な差が現れる。
(日経サイエンス 2016年3月号 より)
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脳の統計的学習で音素が認識できたとして、次には単語を認識する必要があります。書かれた言葉と違って、耳で聞く言葉は「単語の区切り」がありません。赤ちゃんはどうやって単語を認識するのでしょうか。
クール教授によると、これも「脳の統計的学習」だと言います。Aという "音節"(=言葉として発音される最小限の音素の集まり。音節の組み合わせで単語ができる)のあとにBという音節が聞こえる頻度が高ければ、A+Bを単語だと認識する。コンピュータによる音声合成で、ランダムに音節を組み合わせて作った無意味な単語を幼児に聞かせた実験が示されています。特定の組み合わせの頻度だけを高めて聞かせると(それも無意味な単語ですが)、その "単語" に幼児は反応するようになる。つまり "音節の組み合わせが聞こえる頻度" という統計的学習で単語の認識がされるのです。
幼児は「人との交流」で言葉を覚える
さらにクール教授が強調していることがあります。幼児の脳におけるは統計的学習は、人との交流で起動されるという事実です。
ある実験が示されています。シアトルに住む米国人の9ヶ月齢の赤ちゃんに、標準中国語を聞かせるという実験です。赤ちゃんは4つのグループに分けれられます。
◆ | 第1グループ 中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかけます。 | ||
◆ | 第2グループ 中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかけるビデオを見せます。 | ||
◆ | 第3グループ 中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかける録音テープを聞かせます。 | ||
◆ | 第4グループ 米国人が英語で話しかけます。これは比較対照のためです。 |
このセッションは1ヶ月に12回に行われました。そして10ヶ月齢になったときに検査すると、中国語の音素が聞き取れたのは第1グループだけでした。これは赤ちゃんの言語の習得には人との交流が決定的に重要なことを示しています。
親語(ペアレンティーズ)の重要性
クール教授はさらに「親語 = ペアレンティーズ」の重要性を指摘しています。「親語」とは、親が子どもに話しかけるときにしか使わない特有の言葉や発声方法です。母親語(マザーリーズ)とか、幼児語というのも同じことです。
日本語でいうと、たとえば食事(ないしは "ごはん")のことを "まんま" というたぐいです。また特別な幼児語を使わないまでも、たとえば赤ちゃんが「彩」という名前だったとすると「あーやーちゃーん」と、かなりの抑揚をつけて呼びかけたりすることを言います。
実は親語は、それを聞く赤ちゃんが音素を認識しやすく、また単語を認識しやすい言葉使いなのです。高い音は幼児の注意を引きつけ、また音と音との違いが強調された言葉になっている。我々は暗黙に「赤ちゃんなのだから特有の言葉を使い、特有の発音方法をするのは当たり前」と思ってしまうのだけれど、親語には赤ちゃんの言語習得にとって重要な意味があるのです。クール教授の解説記事には、親語で話かけられた赤ちゃんは、親語で話しかけられなかった赤ちゃんの2倍の単語を覚えたという話がでてきます。
言葉の意味の習得には、親とのコミュニケーションがさらに重要です。たとえば、幼児は親の視線に敏感です。親が何気なくおもちゃに視線を向けて「おもちゃ」と発話する。すると幼児はそれを敏感に察知する・・・・・・。このような行為の繰り返しが、単語の意味の習得に役立っているのです。
赤ちゃんの "言語脳"
以上のクール教授の解説をまとめると
① | 赤ちゃんは、親がそれとは全く気づかない時期から言葉の習得を始めている(生後6ヶ月~1年)。 | ||
② | 赤ちゃんが言葉を習得するには "親の語りかけ" が決定的に重要であり、中でも "親語" は大切な役割をはたしている。 |
ということだと思います。ほとんどの親は ② を無意識にせよ、やっているでしょう。しかし、それがどういう効果をもつのか、自覚している親は少ないのではないでしょうか。しかし ① のようなことを知ると、育児における親の行為の重要性が理解できる、この記事を読んでそう思いました。
もう一つ思ったのは、AI(人工知能)との関係です。赤ちゃんが言葉の音(音素)を認識し、また単語を認識するのは、赤ちゃんの脳にインプットされた「音素」や「音の組み合わせ」を脳が自律的に "分類" し、頻度の高いものを認識していくのですね。これはAI技術でいう「教師なし機械学習」と同じです。一方、単語の意味については、親との交流における親の「意識的、ないしは無意識の教唆」で習得していく。これは「教師あり学習」と言えるでしょう。
現代におけるAIの飛躍的な発展は、人間の脳のメカニズムの研究成果を取り入れたことが大きいわけです。そのとき「人間がどうやって考えているのか」も大事だが、「人間はどうやって考えられるようになっていくのか」という研究はもっと大事でしょう。AI技術の発展にとって、赤ちゃんが言語を初めて習得するやりかたを含む「赤ちゃんの脳の研究」が重要だと感じました。
No.169 - 10代の脳 [科学]
少年・少女の物語
前回の、中島みゆき作詞・作曲『春なのに』と『少年たちのように』は、10代の少女を主人公にした詩であり、10代の少女が歌った曲でした。そこからの連想ですが、今回は10代の少年・少女ついて思い出したことについて書きたいと思います。
今までの記事で、10代の少年・少女を主人公にした小説・アニメを5つ取りあげました。
◆ | クラバート(No.1, No.2) | ||
◆ | 千と千尋の神隠し(No.2) | ||
◆ | 小公女(No.40) | ||
◆ | ベラスケスの十字の謎(No.45) | ||
◆ | 赤毛のアン(No.77, No.78) |
の5つです。また、No.79「クラバート再考:大人の条件」では、これらの共通点を探りました。このブログの第1回目に『クラバート』と『千と千尋の神隠し』を書いたために(またブログの題名にクラバートを使ったために)そういう流れになったわけです。
No.2に書いたのですが、たとえば『クラバート』とはどういう物語か、それは一言でいうと "少年が大人になる物語" です。主人公が "大人になるための条件" を "労働の場" での経験によって獲得する過程が描かれています。これは『クラバート』だけでなく他の小説・アニメでも同様でした。
しかし最近、科学雑誌を読んでいて、それだけではなさそうだと気づきました。それは近年の脳科学の急速な進歩によって人間の脳の発達過程が解明されつつあり、10代の少年・少女の脳は大人とは違い、また子供とも違った特別なものであることが分かってきたことです。日経サイエンス 2016年3月号の特集「脳の発達」に従ってそのことを紹介したいと思います。今まで取り上げた少年・少女を主人公にした物語についての "別の見方" ができると感じました。
10代の脳の謎
日経サイエンス 2016年3月号に、カリフォルニア大学・サンディエゴ校の小児青年精神医学科長、N.ギード教授の『10代の脳の謎』と題する記事が掲載されていました。その内容を要約したいと思います。まずこの記事で強調されていることは、
・ | 10代の脳は、 | ||
・ | 子供の脳(10代以前)とは違い、 | ||
・ | 大人の脳(20代以後)とも違う、特別な働きをする脳 |
だということです。もう少し平たく言うと、
・ | 少年少女は | ||
・ | 成長した子供ではなく | ||
・ | 未熟な大人でもない |
ということです。もちろん「脳科学の視点から見ると」という限定がつくわけですが、脳は人間の行動や感情、知性のありようを決めている最重要臓器であり、人間そのものと言ってもよいでしょう。
日経サイエンス
2016年3月号 |
では、少年・少女の脳はどう「特別」なのか。それを理解するためには、その前提として、脳の「発達」や「成熟」とはいったいどういうことかを押さえておく必要があります。
脳の発達・成熟とは
脳の「発達・成熟」とは、すなわち「脳の神経細胞間のネットワークの発達・成熟」のことです。
まず前提となる用語ですが、脳の細胞は "ニューロン" と呼ばれています。ニューロンは、"神経細胞(神経細胞体)"、そこから出る "樹状突起"、樹状突起から出る長い "軸索" からできていて、軸索の先は "シナプス" という接合部を介して別のニューロンに繋がっています。
脳は解剖して肉眼で見ると灰色っぽい "灰白質" と、白っぽい "白質" からできています。大脳では外側が灰白質で内側に白質があるため、灰白質は "大脳皮質" とも呼ばれます。灰白質は神経細胞や樹状突起が主体の部分です。この部分は10歳ごろ(思春期)に最大になり、10代以降はむしろ減少します。
一方、白質は神経細胞の間を結ぶ軸索が主体の部分です。軸索には "ミエリン" と呼ばれる脂質が鞘を作るように付着し、軸索を覆って絶縁します。付着は年齢とともに進行し、これがミエリン化です。
ミエリン化すると、神経のシグナルが最高で100倍早く伝達するようになります。またシグナルを伝えた後に素早く回復できるようになり、ニューロンがシグナルを発生できる頻度が最高で30倍程度まで高まります。この伝達頻度と伝達速度の増加を掛け合わせると、最高で3000倍もの「情報処理能力の増加」になるわけです。
脳が発達すると、MRI画像では白質の増加となって現れます。つまりミエリン化による「接続の強化」です。その一方、使われない接続は強化されず、逆に刈り込まれ、喪失していきます(ニューロンの接合部であるシナプスの働きがが弱まる)。脳は、感覚や言語や感情ななどのさまざまな機能をもつ領域に細分されるのですが、接続の強化と喪失により、脳の各領域も専門化が進展することになります。
10代の脳の特徴(1)可塑性
10代の脳の特徴の第1は、脳のネットワークの大規模な変化が起こることです。ミエリン化は10代に急速に進みます。脳の各領域内だけでなく、異なる領域同士もより多く接続されます。この「ネットワークの発達=変化」が最も大きいのが10代です。この "変化できる性質" を「可塑性」と呼んでいます。
可塑性は成人になると低下します。しかし人間は他の動物と違って、ある程度の可塑性を維持し続けます。つまり動物よりも脳の適応能力が高いわけです。その適応能力は10代が最も高い。10代の脳は、環境に応じて最も柔軟に変化できる脳なのです。
これは一人の人間にとっては「飛躍のチャンス」だと言えます。10代の少年・少女は、自分の選択に従って脳を最適化していけるチャンス、自らのアイデンティティーを作り上げるチャンスを手にしています。一生の職業を決める契機となる出来事を経験するのも10代が多いのです。
10代の脳の特徴(2)発達のズレ
実は脳の発達は、すべての領域で同時に起こるのではありません。「大脳辺縁系」と「前頭前皮質」で発達の時期にズレがあります。
大脳辺縁系は感情をつかさどっている領域です。ここはホルモンの影響で思春期(10~12歳)に急激に発達し始めます。10代の少年・少女によく見られる性向として、危険を冒す、刺激を求める、親に背を向けて仲間に向かうなどがありますが、これらは大脳辺縁系の発達の自然な結果です。
一方、前頭前皮質(前頭葉の前部)は、計画、判断、意志決定、社会的認知、感情や衝動の抑制を担っていて、行動を実行する上で不可欠な部分です。ここが発達すると、ささやかな短期的報酬よりも、より大きく長期的な報酬を選択するようになります。この前頭前皮質は10代の半ば以降(青年期)に遅れて発達をはじめ、20歳代になってもまだ発達を続けます。つまり、大脳辺縁系がまず発達し、前頭前皮質の発達は遅れる。このズレがが10代の脳の2番目の特色です。
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要するに10代の脳は「冒険に乗り出す」というチャンスを開くわけです。それは、10代の少年・少女がしばしば危険な行動に走ることとも関係しています。
10代の脳における「発達のズレ」は、チャンスをもたらすとともに、脆弱性も含んでいます。つまり不安障害、鬱病、摂食障害、精神病などの症状を招くことがある。精神疾患の50%は14歳までに発病し、75%は24歳までに発病します。要するに「可動部は壊れやすい」のであり、脳も例外ではないのです。
大脳辺縁系は10-12歳頃から発達を始めて15歳頃に成熟する。しかし、前頭前皮質はそれより10年遅れて成熟する。この発達のズレが、10代独特の行動をもたらす。
(日経サイエンス 2016年3月号 より)
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可塑性の制限
10代の脳は可塑性をもち、脳の神経細胞の結合のネットワークは「強まって安定化するもの」と「弱まって刈り取られるもの」がダイナミックに変化します。この "可塑性" は20代以降に低下します。可塑性を阻害する物質が脳で分泌されるのです。
なぜ可塑性が低下するのかというと、可塑性は「危うさ」をも秘めているからです。その理由として、可塑性をもった脳の領域には活性酸素が多く発生し、それが脳の組織を傷つけるのではと疑われています。それは、アルツハイマー病の研究からも推測できます。特集「脳の発達」の別の記事には次のように書かれていました。
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脳の可塑性は20代以降に低下しますが、身体運動やゲームを使った訓練などで、ある程度取り戻せます。また、病気の治療などの目的で、薬を用いて脳の可塑性を取り戻す研究も行われています。
以上が「10代の脳」についての日経サイエンスの要約です。以降はこの記事を読んだ感想です。
10代への憧れ
最初に掲げた少年・少女を主人公とする小説・アニメを振り返ってみると、これら5つの物語には共通点があります。それは、
主人公の少年・少女が、物語が始まった時点とは全く異質な生活環境に "いやおうなしに" 放り込まれ、その新しい環境に主人公が適応しつつ、自己を確立していく物語 |
という共通点です。今まで紹介した最新の脳科学からみると、実はその "適応能力" は "10代の少年・少女であればこそ" なのです。さらに別の共通点もあります。それは、
主人公の少年・少女が、冒険をする、ないしはリスクを冒してチャレンジする様子が描かれている |
ことです。クラバート、千尋、ニコラス(『ベラスケスの十字の謎』の主人公)、アンはそういう行動をとります(『少公女』のセーラを除く)。
我々、大人が少年・少女を主人公にした物語を読むとき、それは「子供が、少年・少女期を経て大人になる過程を描いたもの」として読みます。外面的にはその通りですが、最新の脳科学を踏まえて改めて考えてみると、これらは、
子供(10歳以下)も、大人(20歳以上)も持っていない、10代の少年・少女だからこそ持っている冒険心と、適応し変化する能力を描いた物語 |
と考えられるのです。もちろん、小説として成り立たせるためにハラハラ・ドキドキする冒険話を書いた、という面はあるでしょう。しかしそれと同時に、大人は暗黙に「10代への憧れ」を持っているのだと思います。つまり「新しい環境に行く冒険ができる」「新しい環境に適合するように自らを変えていける」という、10代の少年・少女が持っている能力への憧れです。大人になるとそれらは弱まり、あるいは失われてしまう。その失われてしまったものが描かれている。
もちろん、変化の少ない安定的な環境で生活したいと望むのは悪いことではありません。特に家庭生活の面では、子供に手がかからなくなった以降は、安定的なライフスタイルを望む人が多いのではないでしょうか。しかしそういったプライベートにおいても、たとえば新しい趣味にチャレンジをするとか、新しい仲間を求めてコミュニティーに参加するとかした方が、より人生が楽しくなることは間違いありません。問題はそうする意欲が湧くかです。
さらに、仕事やビジネスの世界を考えてみると「チャレンジ」や「変化」が極めて重要です。つまり組織にとっても、組織に属する個人にとっても、
・ | リスクをとって新しいことにチャレンジする | ||
・ | 新しい環境に適合するように自らを変えていく |
ことを続けていかないと、競争には勝てないし、ジリ貧になるし、あるいは "その他大勢" の中に埋没していくのは必定です。個人の意欲だけで出来ることではありませんが、組織の「チャレンジ」も「変革」も、そのベースにあるのは人のマインドであることは確かでしょう。
脳科学の視点からすると、こういった冒険心や適応能力は大人になればなるほど弱まってしまう。大人が執筆した「10代の少年・少女の物語」は、大人が10代に対して抱いている暗黙の憧憬を投影したものと考えられます。
しかし、日経サイエンスの解説記事にも書いてあったように、人間は他の動物と違って大人になっても脳のネットワークの可塑性が完全に失われるわけではありません。また、訓練によって可塑性は増えます。「10代の少年・少女の物語」は、単なる "10代への憧れ" だけではなく「大人が書いた、大人に向けたメッセージ」とも考えられると、脳科学の成果を読んで改めて思いました。
No.168 - 中島みゆきの詩(8)春なのに [音楽]
今までに「中島みゆきの詩」について8回書きましたが(No.35, No.64, No.65, No.66, No.67, No.68, No.130, No.153)、その続編です。
2016年2月23日(火)にTBSで放映された「マツコの知らない世界」では "卒業ソング" が特集されていました。ここに柏原芳恵さんがサプライズ登場し、『春なのに』(1983)を歌いました。マツコさんは柏原さんに「変わらない」「相変わらず素敵な胸で」と言っていましたね。確かに50歳(1965年生まれ)にしてはお美しい姿で、マツコさんの発言も分かります。失礼ながら、歌は現役時代のほうがうまいと思いました。高音が少し出にくく微妙な音程だった気がします。しかしそれはやむを得ないというものでしょう。
この「柏原芳恵・サプライズ登場」を見て思ったのは、テレビ局の(テレビ業界の)"番組制作力" はあなどれないということでした。もちろん視聴者の中には、卒業ソング特集だったはずが、途中から柏原芳恵特集になってしまう、この「強引さ」に違和感や反発を覚えた人がいたでしょう。だけど話は全く逆では?と想像します。はじめから柏原芳恵特集として企画されたのでは、と思うのですね。そのポイントは、
という点です。Wikipedia情報によると皇太子殿下は、皇太子になる以前の浩宮の時代に柏原芳恵さんのリサイタルにお忍びで行かれ、花束まで贈呈されたそうです。ロンドンに留学されていたころには部屋に柏原さんのポスターが貼ってあった、というような話もあります。おそらく、この番組のディレクター(ないしは今回の番組の企画をした人。あるいは企画をTBSに売り込んだ人)は次のように考えたのではないでしょうか。
つまり、柏原芳恵さんの出演を大前提として考えたとき、番組制作サイドとしては、
の3つが揃えば、これで話題にならないはずがないと読んだのではないでしょうか。この3つの一致は偶然にしてはでき過ぎています。「卒業ソング特集」あくまで "前振り" に過ぎず、本番はサプライズ登場、そいういう風に思いました。番組の作り方としての善悪は別にして、テレビ業界の(TBSの)バイタリティーを感じたし、この記事の最初の方に "あなどれない" と書いたのも、その感想の一環です。
このサプライズ登場は、隠れた「殿下へのプレゼント」という意味があったのかもしれません。TBSの上層部は内々に宮内庁を通して皇太子殿下に伝えたとも考えられます。というのも、TBSは「皇室アルバム」を毎週放映している局だからです。毎日放送(MBS)制作の番組ですが、TBS系列で1959年からずっと放映されている番組であり、半世紀を越える民放の最長寿番組です。ひょっとしたら、とも思います。
憶測はさておき、あのような「強引な番組作り」に反発を覚えた人もいたでしょう。と同時に、もっといろんな卒業ソングを聞きたかったという人も多いと思います。卒業ソングには名曲が多いし、人それぞれの思い出が詰まっているのだから・・・・・・。
しかし私にとっては、柏原芳恵さんが『春なのに』を熱唱したシーンは大変に好ましいものでした。その理由はもちろん、『春なのに』が中島みゆき作詞・作曲の、屈指の名曲だからです。そして、そのことを改めて再認識できたからです。
中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』
本題は、中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』のことでした。その詩についてです。
中島さんは、他の歌手に提供した曲をセルフ・カバーしたアルバムを何枚か出していますが、この曲もアルバム『回帰熱』(1989)に収められています。『回帰熱』の最後を飾る曲が『春なのに』です。
「卒業」という言葉で始まるこの曲は、卒業ソングには違いありません。卒業ソングというと、普通、学園生活の思い出が語られ、クラスメートとの別れの悲しさがあり、今後始まる新しい人生への希望(や、ちょっぴりした不安)が語られるものです。
しかしこの詩は「別れ」が強調されていて、少女からみた少年との別れ = 失恋が語られています。卒業ソングというより「失恋ソング」と言った方が適切でしょう。その失恋も、少女からみて "結局自分の片思いだった" というあきらめ感が出ている。
というのは、"なじる" ような感じもあり、
というところは、「君の話はなんだったの」という少年の言葉に落胆し(ないしは愕然とし)、"大きな決意"をして言おうとしていたはずの言葉が言えなかった、その "少女のあきらめ感" が出ています。
シチュエーションとしては、少女の完全な片思いか、片思いではないにしろ、二人の思いのレベルには決定的な差があるという状況です。実は、No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」で書いたように、中島さんは「二人の "思い" のレベルに決定的な差がある状況での女性心理を描いた詩」を数々書いています。そういった一連の詩の一つと考えてよいでしょう。
この詩の場合、別れの契機は「卒業」です。季節は春で、すがすがしい青空が広がり、おそらく桜も咲きはじめているでしょう。少なくとも蕾は膨らんでいる。詩の中では、
と、たたみかけるように、しつこいぐらいに「春」が繰り返され、そのあいだに「涙」「ため息」「お別れ」「捨てる」といった言葉が散りばめられて、春とのキャップ感が強調されています。いい詩だと思います。
「マツコの知らない世界」の中で、マツコさんは「昔のアイドルはレベルが高い。アイドル=歌手だった」という意味の発言をしていましたが、確かにそうだと思います。付け加えると『春なのに』は、詩に加えて曲が素晴らしい。流れるような美しいメロディーが続きます。名曲とされるゆえんでしょう。昔のアイドルはこんな名曲を歌っていたと考えると(しかも作詞・作曲は中島みゆき!)、マツコさんの感想も納得が行くというものです。
ところで、『春なのに』から連想する、中島みゆきさんの別の作品があります。それは『春なのに』と同じく、
で、『春なのに』の続編と言ってもよい曲です。『少年たちのように』という曲で、No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも取り上げたのですが、そこでは簡単に触れただけだったので、『春なのに』つながりでもう一度書くことにします。
少年たちのように
三田寛子さんは、現在は歌舞伎役者の三代目 中村橋之助夫人ですが、元はというと柏原芳恵さんとおなじくアイドル歌手でした。その三田寛子さんが歌った中島みゆき作品に『少年たちのように』(1986)があります。
『少年たちのように』の詩の出だしは、
となっていて、これだけを聴くと「何のことか?」と思ってしまいますが、詩が進むにつれて次第に状況が明らかになってきます。ちなみに「女の胸」というは「女ごころ」と思えるし、もっと直接的に少女の体の胸という意味を含めてもいいと思います。
次第に明らかになってくる状況は「春」と「別れ」という2点で『春なのに』と共通しています。「春咲く柳」「春は咲き」「春は行き」「春は降り」と、春が続くところなどは『春なのに』とよく似ている。「恋人ですか サヨナラですか」とありますが、その後に「せかされて むごい別れになる」とあり、「嗚呼 でもそれは」と出てきて「別れ」の詩だと分かります。
しかしこの詩は3つの点で『春なのに』とは違っている。まず第1点は「別れ」の背景が卒業とは限らないことです。「季節(春)があなた(少年)を困らせている」とあるので、その困ってしまう契機は普通に考えると卒業でしょうが、あえて卒業とはしてありません。卒業よりもっと抽象化され一般化された「春の別れ」と受けとった方が、より詩の味わいが増すと思います。「春は降り」とあるので、"まるで空から降ってくるかように" あたり一面に春の雰囲気が充満しています。木々の新芽が膨らみ、花が開花し、自然が生き生きと復活している。それとは全くの対極にある「むごい別れ」がテーマになっています。「春の別れ」よりもっと強い表現の、「春が降る中での、むごい別れ」です。
2番目は、この詩のポイントとも言えるところですが、少女(主人公)が「少年のようになりたい」と願うことで、少女が抱く別れの悲しみが表現されていることです。そもそも題名が「少年たちのように」であり、これを含んで、
などは、少年たちのようになりたいということの具体的表現です。主人公が少年たちを妬み、そして少年たちのようになりたいと願うのは、少年に変身してしまえば「ともだちでいられる」し「裸足でじゃれあう」こともできるからです。つまり、女性であることからくる恋心のつらさ、そこから引き起こされた別離の悲しみを断ち切りたいのです。
「髪を短く切る」という表現がありますが、中島さんの詩においては(特に1980年代かそれ以前の詩では)「長い髪」が「恋をする存在としての女性」の象徴になっています。このことは別にめずらしくはありません。女性が失恋して心気一転のために髪を切る、というのもよく聞く話です。しかし中島さんの(そしてこの詩の)「髪を切る」は、「少年たちのようになるため」という理由が第一義なのですね。そこがこの詩のポイントであり、題名そのものです。中島さんの初期の作品に似たコンセプトの詩がありました。そのものズバリ『髪』という詩です。
『少年たちのように』が『春なのに』と違っている点の3番目は、単に「別れの悲しみ」を表しているだけではなく、人が抱く「深い孤独感」をダイレクトに表現していることです。No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも引用したのですが、次の部分です。
こういう言葉の使い方は、単に少女が少年と別れて孤独を味わっている、というようなものではありません。人が人生のさまざまな局面で味わう強い孤独感、自分と自分以外のものとの間の大きな距離感や断絶感が、「昨日の国」「日暮れ」「ボール」「コツリ」「返せる近さ」などの言葉の連鎖で的確にとらえられています。これしかないと思わせる適切な言葉を次々と繰り出していって、人の感情の奥深いところをピタリと表現する・・・・・・。中島さんの詩人としての才能が光っています。
『春なのに』は、"卒業と別れ" というテーマの詩でしたが、『少年たちのように』は突き詰められた別れの表現であり、人の心理の洞察であり、人が抱く孤独感を言語化した作品だという気がします。
10代後半の感情と経験
実質的な失恋ソングである『春なのに』はまだしも、『少年たちのように』は "アイドル歌手" が歌うにはふさわしくない曲のように感じられるかも知れません。
しかしそう思ってしまうのは、我々が現代のアイドルの感覚で昔の(30年前の)アイドルを見てしまうからなのですね。まさに「マツコの知らない世界」の番組でマツコさんが言っていたように「昔のアイドルは歌手だった」のです。「歌手」だと考えると『春なのに』も『少年たちのように』も違和感はありません。松任谷(荒井)由実さんの『ひこうき雲』は "死" をテーマしていますが、彼女が19才で発表した曲です。それから考えると、10代後半の女の子が感情をこめて失恋を歌うのは当然だし、失恋からくる深い孤独感を歌ってもよい。そういう経験をしても全くおかしくない年齢です。中島さんがそういう作品を "アイドル歌手" に提供しても、それはクリエーターとしては自然だと思います。
『春なのに』も『少年たちのように』も、10代後半の少女の感情をテーマに書かれた詩です。大人になる前の10代の少年・少女は、人生でその時にしかもてない感情に動かされ、その時にしかできない経験をし、それが人格を形づくります。10代が人生にとって貴重な時期であることは、少年・少女を主人公にした傑作小説が大人によって数多く書かれてきたことで実証されているでしょう。
中島さんが10代の少女を主人公にした詩を10代の少女歌手に提供するということも、それと同じことかと思います。2曲とも、中島さんが30代前半に書いた作品です。
2019年5月1日に平成から令和に改元された前後、TV番組では上皇・上皇后陛下、天皇・皇后陛下のこの数十年の "歩み" がいろいろと特集されました。その中で、ある情報番組を見ていたら、天皇陛下が浩宮親王の時代に柏原芳恵さんのコンサートに行かれた様子の動画が紹介されていました。
1986年10月19日の新宿厚生年金会館のロビーで柏原さん(当時21歳)が陛下(当時26歳)を迎え、写真集をプレゼントしています。陛下はそのお返しに、お住まいだった東宮御所の庭でとったピンクの薔薇を一輪、渡されていました。番組によると "一輪の薔薇" の花言葉は「一目ぼれ。あなたしかいない」とのことです。柏原さんはこの薔薇をドライフラワーにして今でも大切に持っているそうです。このブログの本文中に「花束を贈呈」と書いたのはちょっと不正確で、「束」ではなく「一輪の薔薇」が正解でした。それも "自宅の庭の薔薇" というのがポイントです。
この動画シーンで流れた曲が、やはりというか、中島みゆき作詞・作曲の「春なのに」です。この曲をテレビで聴いたのは、2016年2月23日(陛下の誕生日)に放映された「マツコの知らない世界」(TBS)以来、3年ぶりだったというわけでした。
2016年2月23日(火)にTBSで放映された「マツコの知らない世界」では "卒業ソング" が特集されていました。ここに柏原芳恵さんがサプライズ登場し、『春なのに』(1983)を歌いました。マツコさんは柏原さんに「変わらない」「相変わらず素敵な胸で」と言っていましたね。確かに50歳(1965年生まれ)にしてはお美しい姿で、マツコさんの発言も分かります。失礼ながら、歌は現役時代のほうがうまいと思いました。高音が少し出にくく微妙な音程だった気がします。しかしそれはやむを得ないというものでしょう。
この「柏原芳恵・サプライズ登場」を見て思ったのは、テレビ局の(テレビ業界の)"番組制作力" はあなどれないということでした。もちろん視聴者の中には、卒業ソング特集だったはずが、途中から柏原芳恵特集になってしまう、この「強引さ」に違和感や反発を覚えた人がいたでしょう。だけど話は全く逆では?と想像します。はじめから柏原芳恵特集として企画されたのでは、と思うのですね。そのポイントは、
・ | 放送日の2月23日は皇太子殿下の誕生日であり | ||
・ | 殿下が若い時には柏原芳恵ファンだった |
という点です。Wikipedia情報によると皇太子殿下は、皇太子になる以前の浩宮の時代に柏原芳恵さんのリサイタルにお忍びで行かれ、花束まで贈呈されたそうです。ロンドンに留学されていたころには部屋に柏原さんのポスターが貼ってあった、というような話もあります。おそらく、この番組のディレクター(ないしは今回の番組の企画をした人。あるいは企画をTBSに売り込んだ人)は次のように考えたのではないでしょうか。
◆ | 2月23日は皇太子殿下の誕生日だ。 | ||
◆ | この日にあわせて、かつて皇太子殿下がファンだった柏原芳恵を番組にサプライズ登場させよう。 | ||
◆ | 柏原芳恵の代表曲に『春なのに』がある。 | ||
◆ | 『春なのに』は卒業ソングだ。 | ||
◆ | だったら、この日の「マツコの知らない世界」を「卒業ソング」特集ということにしてしまおう。そして柏原芳恵を登場させよう。 |
つまり、柏原芳恵さんの出演を大前提として考えたとき、番組制作サイドとしては、
① | 柏原芳恵さんが2月23日にサプライズ登場 | ||
② | 2月23日は皇太子殿下の誕生日(恒例の記者会見がニュースで放映される) | ||
③ | 皇太子殿下は、かつて柏原芳恵さんのファン |
の3つが揃えば、これで話題にならないはずがないと読んだのではないでしょうか。この3つの一致は偶然にしてはでき過ぎています。「卒業ソング特集」あくまで "前振り" に過ぎず、本番はサプライズ登場、そいういう風に思いました。番組の作り方としての善悪は別にして、テレビ業界の(TBSの)バイタリティーを感じたし、この記事の最初の方に "あなどれない" と書いたのも、その感想の一環です。
このサプライズ登場は、隠れた「殿下へのプレゼント」という意味があったのかもしれません。TBSの上層部は内々に宮内庁を通して皇太子殿下に伝えたとも考えられます。というのも、TBSは「皇室アルバム」を毎週放映している局だからです。毎日放送(MBS)制作の番組ですが、TBS系列で1959年からずっと放映されている番組であり、半世紀を越える民放の最長寿番組です。ひょっとしたら、とも思います。
憶測はさておき、あのような「強引な番組作り」に反発を覚えた人もいたでしょう。と同時に、もっといろんな卒業ソングを聞きたかったという人も多いと思います。卒業ソングには名曲が多いし、人それぞれの思い出が詰まっているのだから・・・・・・。
しかし私にとっては、柏原芳恵さんが『春なのに』を熱唱したシーンは大変に好ましいものでした。その理由はもちろん、『春なのに』が中島みゆき作詞・作曲の、屈指の名曲だからです。そして、そのことを改めて再認識できたからです。
中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』
本題は、中島みゆき 作詞・作曲『春なのに』のことでした。その詩についてです。
中島さんは、他の歌手に提供した曲をセルフ・カバーしたアルバムを何枚か出していますが、この曲もアルバム『回帰熱』(1989)に収められています。『回帰熱』の最後を飾る曲が『春なのに』です。
①黄砂に吹かれて、②肩幅の未来、③あり、か、④群衆、⑤ロンリー カナリア、⑥くらやみ乙女、⑦儀式(セレモニー)、⑧未完成、⑨春なのに
|
|
「卒業」という言葉で始まるこの曲は、卒業ソングには違いありません。卒業ソングというと、普通、学園生活の思い出が語られ、クラスメートとの別れの悲しさがあり、今後始まる新しい人生への希望(や、ちょっぴりした不安)が語られるものです。
しかしこの詩は「別れ」が強調されていて、少女からみた少年との別れ = 失恋が語られています。卒業ソングというより「失恋ソング」と言った方が適切でしょう。その失恋も、少女からみて "結局自分の片思いだった" というあきらめ感が出ている。
会えなくなるねと 右手を出して さみしくなるよ それだけですか |
というのは、"なじる" ような感じもあり、
卒業しても 白い喫茶店 今までどおりに 会えますねと 君の話はなんだったのと きかれるまでは 言う気でした |
というところは、「君の話はなんだったの」という少年の言葉に落胆し(ないしは愕然とし)、"大きな決意"をして言おうとしていたはずの言葉が言えなかった、その "少女のあきらめ感" が出ています。
シチュエーションとしては、少女の完全な片思いか、片思いではないにしろ、二人の思いのレベルには決定的な差があるという状況です。実は、No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」で書いたように、中島さんは「二人の "思い" のレベルに決定的な差がある状況での女性心理を描いた詩」を数々書いています。そういった一連の詩の一つと考えてよいでしょう。
この詩の場合、別れの契機は「卒業」です。季節は春で、すがすがしい青空が広がり、おそらく桜も咲きはじめているでしょう。少なくとも蕾は膨らんでいる。詩の中では、
春なのに、春なのに、春・・・、春・・・ |
と、たたみかけるように、しつこいぐらいに「春」が繰り返され、そのあいだに「涙」「ため息」「お別れ」「捨てる」といった言葉が散りばめられて、春とのキャップ感が強調されています。いい詩だと思います。
「マツコの知らない世界」の中で、マツコさんは「昔のアイドルはレベルが高い。アイドル=歌手だった」という意味の発言をしていましたが、確かにそうだと思います。付け加えると『春なのに』は、詩に加えて曲が素晴らしい。流れるような美しいメロディーが続きます。名曲とされるゆえんでしょう。昔のアイドルはこんな名曲を歌っていたと考えると(しかも作詞・作曲は中島みゆき!)、マツコさんの感想も納得が行くというものです。
ところで、『春なのに』から連想する、中島みゆきさんの別の作品があります。それは『春なのに』と同じく、
◆ | 春の別れをテーマとし、 | ||
◆ | 中島さんがアイドル歌手に提供した曲 |
で、『春なのに』の続編と言ってもよい曲です。『少年たちのように』という曲で、No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも取り上げたのですが、そこでは簡単に触れただけだったので、『春なのに』つながりでもう一度書くことにします。
少年たちのように
三田寛子さんは、現在は歌舞伎役者の三代目 中村橋之助夫人ですが、元はというと柏原芳恵さんとおなじくアイドル歌手でした。その三田寛子さんが歌った中島みゆき作品に『少年たちのように』(1986)があります。
|
「中島みゆき ソング・ライブラリー」は、中島みゆきが他の歌手に提供した曲(ないしは他の歌手が中島みゆきをカバーした曲)のオリジナル音源を集めたコンピレーション・アルバムで、第5集まである。「少年たちのように」は第3集に収められている。
「ソング・ライブラリー」の曲は、中島みゆきがアルバムでセルフ・カバーした曲が多いが、中にはそうではない「少年たちのように」のような曲もあり、貴重なCDである。「窓ガラス」(研ナオコ)も同じである。 ちなみに第3集の収録曲は、①すずめ(増田けい子)、②FU-JI-TSU(工藤静香)、③煙草(古手川祐子)、④美貌の都(郷ひろみ)、⑤みにくいあひるの子(研ナオコ)、⑥海と宝石(松坂慶子)、⑦少年たちのように(三田寛子)、⑧命日(日吉ミミ)、⑨帰っておいで(ちあきなおみ)、⑩りばいばる(研ナオコ)、⑪最愛(柏原芳恵)、⑫しあわせ芝居(桜田順子) |
『少年たちのように』の詩の出だしは、
女の胸は春咲く柳 逆らいながら春咲く柳 私は髪を短く切って 少年たちを妬んでいます |
となっていて、これだけを聴くと「何のことか?」と思ってしまいますが、詩が進むにつれて次第に状況が明らかになってきます。ちなみに「女の胸」というは「女ごころ」と思えるし、もっと直接的に少女の体の胸という意味を含めてもいいと思います。
次第に明らかになってくる状況は「春」と「別れ」という2点で『春なのに』と共通しています。「春咲く柳」「春は咲き」「春は行き」「春は降り」と、春が続くところなどは『春なのに』とよく似ている。「恋人ですか サヨナラですか」とありますが、その後に「せかされて むごい別れになる」とあり、「嗚呼 でもそれは」と出てきて「別れ」の詩だと分かります。
しかしこの詩は3つの点で『春なのに』とは違っている。まず第1点は「別れ」の背景が卒業とは限らないことです。「季節(春)があなた(少年)を困らせている」とあるので、その困ってしまう契機は普通に考えると卒業でしょうが、あえて卒業とはしてありません。卒業よりもっと抽象化され一般化された「春の別れ」と受けとった方が、より詩の味わいが増すと思います。「春は降り」とあるので、"まるで空から降ってくるかように" あたり一面に春の雰囲気が充満しています。木々の新芽が膨らみ、花が開花し、自然が生き生きと復活している。それとは全くの対極にある「むごい別れ」がテーマになっています。「春の別れ」よりもっと強い表現の、「春が降る中での、むごい別れ」です。
2番目は、この詩のポイントとも言えるところですが、少女(主人公)が「少年のようになりたい」と願うことで、少女が抱く別れの悲しみが表現されていることです。そもそも題名が「少年たちのように」であり、これを含んで、
・ | 髪を短く切る | ||
・ | 荒げたことばをかじってみる | ||
・ | 兄のシャツを着る |
などは、少年たちのようになりたいということの具体的表現です。主人公が少年たちを妬み、そして少年たちのようになりたいと願うのは、少年に変身してしまえば「ともだちでいられる」し「裸足でじゃれあう」こともできるからです。つまり、女性であることからくる恋心のつらさ、そこから引き起こされた別離の悲しみを断ち切りたいのです。
「髪を短く切る」という表現がありますが、中島さんの詩においては(特に1980年代かそれ以前の詩では)「長い髪」が「恋をする存在としての女性」の象徴になっています。このことは別にめずらしくはありません。女性が失恋して心気一転のために髪を切る、というのもよく聞く話です。しかし中島さんの(そしてこの詩の)「髪を切る」は、「少年たちのようになるため」という理由が第一義なのですね。そこがこの詩のポイントであり、題名そのものです。中島さんの初期の作品に似たコンセプトの詩がありました。そのものズバリ『髪』という詩です。
|
『少年たちのように』が『春なのに』と違っている点の3番目は、単に「別れの悲しみ」を表しているだけではなく、人が抱く「深い孤独感」をダイレクトに表現していることです。No.66「中島みゆきの詩(3)別れと出会い」でも引用したのですが、次の部分です。
昨日の国から抜け出るように 日暮れをボールが転がってくる つま先コツリと受けとめるけど 返せる近さに誰も無い |
こういう言葉の使い方は、単に少女が少年と別れて孤独を味わっている、というようなものではありません。人が人生のさまざまな局面で味わう強い孤独感、自分と自分以外のものとの間の大きな距離感や断絶感が、「昨日の国」「日暮れ」「ボール」「コツリ」「返せる近さ」などの言葉の連鎖で的確にとらえられています。これしかないと思わせる適切な言葉を次々と繰り出していって、人の感情の奥深いところをピタリと表現する・・・・・・。中島さんの詩人としての才能が光っています。
『春なのに』は、"卒業と別れ" というテーマの詩でしたが、『少年たちのように』は突き詰められた別れの表現であり、人の心理の洞察であり、人が抱く孤独感を言語化した作品だという気がします。
10代後半の感情と経験
実質的な失恋ソングである『春なのに』はまだしも、『少年たちのように』は "アイドル歌手" が歌うにはふさわしくない曲のように感じられるかも知れません。
しかしそう思ってしまうのは、我々が現代のアイドルの感覚で昔の(30年前の)アイドルを見てしまうからなのですね。まさに「マツコの知らない世界」の番組でマツコさんが言っていたように「昔のアイドルは歌手だった」のです。「歌手」だと考えると『春なのに』も『少年たちのように』も違和感はありません。松任谷(荒井)由実さんの『ひこうき雲』は "死" をテーマしていますが、彼女が19才で発表した曲です。それから考えると、10代後半の女の子が感情をこめて失恋を歌うのは当然だし、失恋からくる深い孤独感を歌ってもよい。そういう経験をしても全くおかしくない年齢です。中島さんがそういう作品を "アイドル歌手" に提供しても、それはクリエーターとしては自然だと思います。
『春なのに』も『少年たちのように』も、10代後半の少女の感情をテーマに書かれた詩です。大人になる前の10代の少年・少女は、人生でその時にしかもてない感情に動かされ、その時にしかできない経験をし、それが人格を形づくります。10代が人生にとって貴重な時期であることは、少年・少女を主人公にした傑作小説が大人によって数多く書かれてきたことで実証されているでしょう。
中島さんが10代の少女を主人公にした詩を10代の少女歌手に提供するということも、それと同じことかと思います。2曲とも、中島さんが30代前半に書いた作品です。
(続く)
 補記  |
2019年5月1日に平成から令和に改元された前後、TV番組では上皇・上皇后陛下、天皇・皇后陛下のこの数十年の "歩み" がいろいろと特集されました。その中で、ある情報番組を見ていたら、天皇陛下が浩宮親王の時代に柏原芳恵さんのコンサートに行かれた様子の動画が紹介されていました。
1986年10月19日の新宿厚生年金会館のロビーで柏原さん(当時21歳)が陛下(当時26歳)を迎え、写真集をプレゼントしています。陛下はそのお返しに、お住まいだった東宮御所の庭でとったピンクの薔薇を一輪、渡されていました。番組によると "一輪の薔薇" の花言葉は「一目ぼれ。あなたしかいない」とのことです。柏原さんはこの薔薇をドライフラワーにして今でも大切に持っているそうです。このブログの本文中に「花束を贈呈」と書いたのはちょっと不正確で、「束」ではなく「一輪の薔薇」が正解でした。それも "自宅の庭の薔薇" というのがポイントです。
この動画シーンで流れた曲が、やはりというか、中島みゆき作詞・作曲の「春なのに」です。この曲をテレビで聴いたのは、2016年2月23日(陛下の誕生日)に放映された「マツコの知らない世界」(TBS)以来、3年ぶりだったというわけでした。
(2019.5.8)