No.380 - 似鳥美術館 [アート]
過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知氏です。
今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。
小樽
似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げというからすごいものです。これらのニシンは小樽港から全国に運ばれました。当時のニシンの大部分は、乾燥させて粉にして農作物の肥料になったのです。
小樽は北海道開拓使が置かれた札幌と近い距離にあります。明治政府は小樽港を北海道開拓の玄関口として整備しました。北海道最初の鉄道が敷設されたのも札幌・小樽間で、小樽は北海道の物流の拠点として繁栄しました。その物流の重要品目は、北海道内陸部で採掘された石炭でしたが、小樽港から全国に積み出され、明治以降の日本の近代化に大いに寄与しました。
こういったことから、明治から大正、昭和(戦前)にかけての小樽は、北海道随一の産業都市として繁栄し、富が蓄積されました。もちろん、ニシン漁や石炭産業は戦後になって衰退していったのですが、小樽には当時の栄華を偲ばせる歴史的建造物が今でも残っています。小樽のシンボルは小樽運河とその周りの倉庫群ですが、これらはまさに歴史的建造物です。
小樽市は85件の「指定歴史的建造物」を指定し、保全費用の一部助成などを行っています。公開されているリストを見ると、建設時の用途は銀行、倉庫、邸宅、店舗、事務所、市庁舎(現在も市庁舎)、旅館、料亭、教会、寺院、神社などで、ほとんどは現在でも利用・再利用されています。これら、日本の近代化の歴史がフリーズして存在するような建造物群が、小樽の独特の都市景観を作っています。
小樽芸術村
2016年にニトリ・ホールディングスは、指定歴史的建造物をリノベーションして「小樽芸術村」を開設しました。現在は次の4つの施設で構成され、いずれも歩いてすぐの距離にあります。
ちなみに「美術館として建設されたのではない建物を美術館に転用」した例が、パリの著名美術館です。ルーブル美術館(宮殿)、オルセー美術館(駅舎)、オランジェリー美術館(温室)、ピカソ美術館(邸宅)、マルモッタン・モネ美術館(邸宅)など、多数あります。当初から美術館として建てられたのは、パリ市立近代美術館とポンピドー・センターぐらいしか思い当たりません。
またイタリアでは、フィレンツェのウフィツィ美術館(行政機関)、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(邸宅。No.217)などが "転用された美術館" です。
つまり、歴史的建造物を活用・再利用して美術館にするのは、ヨーロッパの "美術大国" ではよくある話なのです。また、これらの美術館の多くは、建物が本来の目的で建設・使用された時期と、そこに中心的に収集されている美術品の創作時期が重なっていることに注意すべきでしょう(ルーブル=古典、オルセー=印象派とその前後、など)。
似鳥美術館をはじめとする「小樽芸術村」も歴史的建造物のリノベーションであり、その中心的な収集品の創作時期は、小樽が栄華を誇った時期(19世紀末~20世紀前半)と重なります。美術館のあり方の "王道" と言えそうです。
なお小樽芸術村はその公益性が認められ、2020年からは公益財団法人・似鳥文化財団が運営しています。
似鳥美術館
似鳥美術館は、1923年(大正12年)に竣工した北海道拓殖銀行小樽支店の建物をリノベーションし、ニトリ・ホールディングスの代表取締役・会長、似鳥昭雄氏の個人コレクションをもとに、2017年秋に開館しました。ちなみに似鳥氏は小樽出身ではありませんが、北海道の出身であり、北海道で起業された方です。
似鳥美術館に収集されている主な美術品の作家と生没年を年代順にリストしてみると、まず油絵(洋画)では、
などです。明治に入ってから日本の洋画を牽引してきた画家がそろっていて、まさに小樽の発展と繁栄の歴史と重なります。また日本画では、
などの作品を所蔵しています。このリストを見ると、山下清より下を除き、いずれも小樽の産業都市としての繁栄期(19世紀末~20世紀前半)に活躍した画家です。なお日本画では、江戸期の画家である伊藤若冲(1716-1800)と谷文晁(1763-1841)の作品も所蔵しています。若冲の作品は「雪柳雄鶏図」で、これは北海道にある唯一の若冲作品だそうです。
似鳥美術館には、彫刻・立体作品も収集されています。
なとです。さらにヨーロッパの画家・彫刻家では、
などの作品があります。
以上にあげた作家の作品から、この美術館の "顔" とも言える2つの作品、
藤田嗣治「カフェにて」
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
を以下に紹介します。この2作品と似鳥美術館の建物に共通するキーワードは「1920年代」です。日本では大正末期から昭和初期、世界では第1次世界大戦が終了してから世界恐慌が始まるまでの時期です。
藤田嗣治「カフェにて」
藤田嗣治の「カフェにて」(ないしは「カフェ」)と題する作品は、油絵だけでも4作品あり、これらはすべて同じ画題と構図の "連作" です。そこでまず、藤田嗣治の生涯と、この連作が描かれた経緯を整理しておきます。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)に東京で生まれました。子供のころから絵を描き始め、東京美術学校(現、東京藝大)を卒業しましたが、画壇から認められることはありませんでした。
1913年(大正2年)、26歳のときに藤田はパリに渡ります。それ以降、1920年代にかけて、乳白色の下地を使った独自の画風を確立し、パリで著名な画家となりました。藤田の代表作と言われる作品の多くはこの時代に描かれています。
1931年から、藤田は中南米へ旅に出ます。各地の人々をモデルに絵を描き、個展を開催しました。ブラジル、アルゼンチンから、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコへと渡り、アメリカ西海岸を経て、2年後の1933年に日本に帰国しました。
帰国した日本でも創作を続けます。壁画の大作「秋田の行事」(1937)はこの時期の作品です。また、陸軍報道部の要請で戦争記録画を描きました(「アッツ島玉砕」1943、など)。
戦後の1949年(昭和24年)、美術家の戦争責任問題が起こったのを契機に藤田は日本を去る決意をし、10ヶ月間ニューヨークに滞在したあと、フランスに落ち着きます。そして、1955年にフランス国籍を取得して帰化ました。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなります。晩年はフランスのランスに礼拝堂を建設し、その完成から2年後に亡くなりました(1968年、81歳)。
「カフェにて」の第1作は、フランスに永住する直前、ニューヨークに滞在したときに描き、個展で発表したものです(1949年)。藤田はこの絵を自分で作った額縁に入れてフランスに持参し、パリ国立近代美術館(現、ポンピドー・センター)に寄贈しました。
藤田嗣治の研究者で、美術評論家の村上哲氏は、この絵について次のように書いています(原文に段落はありません)。
窓越しに見えるカフェの屋号は「ラ・プティト・マドレーヌ」(LA PETITE MADELEINE)ですが、村上氏によるとこれはプルーストの「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家の方へ」に出てくる文言です。つまり、紅茶に浸した「一片の小さなマドレーヌ」(La Petite Madeleine)から幼少期の記憶がよみがえるという有名なエピソードに由来します。この言葉とエピソードは1920年代のパリの文化界に流布し、藤田もその頃に描いたカフェが登場する作品に用いたそうです。それを4半世紀後の本作品に流用した。
ただ、ここで再び「ラ・プティト・マドレーヌ」を登場させたのは、1930年代に藤田と行動を共にしたマドレーヌ・ルクーの追憶の意味ではないかと、村上氏は推測しています。マドレーヌ・ルクーは藤田の4人目のパートナーで、1931年からの中南米旅行に同行し、日本にも一緒にやってきましたが、1936年に急死し、日本に葬られました。本作品に描かれた女性の容貌は、残されたマドレーヌの写真と酷似しているそうです。であれば、藤田はマドレーヌに対する呵責と追憶の念からニューヨークで本作品を描き、それをマドレーヌの故郷であるフランスに持って行って寄贈したとの推測が成り立ちます。
それ以降、藤田はパリで同一構図の「カフェにて」を、油絵だけでも3作描きました。第2作と第3作は、窓越しのカフェに屋号はなく単に CAFE ですが、第4作では屋号が復活します。それが次の作品です。
この作品では窓越しに見えるカフェの屋号が「LA PETITE CLAIRE:ラ・ペティト・クレール」となっています。この屋号は、藤田の5番目の妻でパリに一緒に移り住んだ君代の洗礼名「Marie-Ange Claire:マリー=アンジュ クレール」を暗示しています。つまり LA PETITE CLAIRE は "愛しい君代" とも読める。かつ、この作品だけは他の3作と違って L.Foujita と署名されています(L はレオナール)。つまり洗礼を受けた1959年以降の作品であり、これが最後の「カフェにて」ということになります。藤田は少なくとも10年以上に渡って同じが画題と構図の「カフェにて」を描いたわけです。
以上を踏まえて似鳥美術館の「カフェにて」を見ると、窓越しのカフェに屋号はなく、署名は Foujita です。ということは4連作のうちの第2作か第3作ということでしょう。
「カフェにて」を見て感じるのは、描かれた経緯やそこに込められた画家の思いとは別に、皮のソファや大理石のテーブル、インクの染みがついた手紙などの質感表現が素晴らしいことです。藤田嗣治の画家としての確かな技量を感じます。
「カフェにて」の4つの連作が描かれたのは、1949年~1960年頃ですが、描かれている情景は19世紀末の香りが残る1920年代のパリです。つまり小樽が繁栄を誇っていた時代のパリのカフェです。
似鳥美術館には、藤田嗣治の代名詞ともいえる「乳白色の下塗り」を使った1920年代の作品も所蔵されています(「婦人と犬」1927)。似鳥美術館で2つの作品を見比べながら、日本人の画家として初めてパリ画壇での名声(= 世界での名声)を獲得した藤田嗣治の生涯に思いを馳せるのもよいでしょう。
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
岸田劉生は1891年(明治24年)に東京で生まれ、1929年に38歳という若さで亡くなりました。藤田嗣治より5歳年下ですが、ほぼ同時代人です。
画題にある "リーチ" とは、イギリス人の陶芸家、バーナード・リーチ(1887-1979)のことで、彼も同時代人です。リーチはイギリス領・香港に生まれ、幼少期に日本に住んだこともありました。美術家をこころざし、イギリスの美術学校で版画(エッチング)を学んだ人です。
リーチはたびたび日本を訪れ、日本での居も構えました。この過程で陶芸に惹かれ、作陶を学んで、陶芸家として知られるようになります。岸田劉生は1911年、東京での版画の展覧会でリーチと出会い、以降、劉生とリーチは交友関係が続いたようです。劉生はリーチにエッチングの手ほどきを受け、自ら作品も作っています。
1917年、26歳の劉生は結核の転地療養のために神奈川県藤沢市鵠沼に移住し、以降、関東大震災(1923年、大正12年)により鵠沼を離れるまでの6年半を過ごしました。この時期に制作が始められたのが、娘の麗子を描いた一連の「麗子像」です。と同時に、鵠沼時代には静物画にも取り組みました。その最後期(1921年・大正10年)に描かれたのが本作品です。
リーチ作の陶器の茶碗と湯呑、10個の果物が描かれています。劉生の日記によると、1つは梨で(右端)、緑色と黄色で描かれているのが半分色づいたミカン(2個)、その他はリンゴです(7個)。
この時期の日本の洋画ではめずらしいような、写実に徹した作品です。その、写実の技法で表現された静物の質感と存在感が際立っています。そして、一つ一つの静物の個性が表現されている。
まず、バーナード・リーチ作の茶碗と湯呑ですが、これは陶芸家が形を決め、絵付けをし、窯で焼くので、一つ一つが個性をもつのは当然です。しかし本作品では果物もそれぞれが個性を主張しています。
右端の梨は一番大きく、表面もなめらかで、つるんとして、堂々とある感じです。それに対して2つのミカンは熟する前で、半分か半分以上が緑の状態です。リンゴは赤と黄が複雑に混じって描かれていますが、この色使いは見たままではなく、表面の微妙な感じを誇張して描いたのでしょう。ミカンやリンゴはすべて違っています。現代のお店で購入するミカンやリンゴは、形が整っていて、大きさも色も均一の果物ですが、それとは全く違う様相です。
果物の一つ一つに違いがあり、どっしりとした重量感でテーブルの上に存在している。個性的なモノの存在そのものが美である、と画家は主張しているようです。その主張が、手作りの陶器を取り囲むように果物を並べることで鮮やかに浮かび上がる。果物が、右端の梨を先頭に隊列を組んで2つの陶器を守っているようにも見えます。
さらにこの絵の上半分は、直線を境にした明度の違う2つの灰色で単純に塗り分けられています。この背景は、現実のどこかの部屋の光景とは思えず、画家が作り出した抽象表現でしょう。その抽象表現の中に、非常に具象的な茶碗と湯呑と果物がドサッと置かれている、そのことが静物の存在感を倍加させているのだと思います。
これは、岸田劉生の静物画の代表作であると同時に、似鳥美術館のコレクション全体を代表する作品です。それは芸術としての出来映えに加えて、展示されている空間(= 北海道拓殖銀行小樽支店)が完成した1923年とほぼ同時期である1921年に描かれたからです。当時の日本は欧米に追いつこうと近代化に邁進していました。岸田劉生も、西洋から "輸入された" 油絵で独自の表現を模索し、短い生涯の中で画風やテーマを次々と変えていった。その過程における静物画の傑作が本作品です。
似鳥美術館の建物の中で展示作品を鑑賞すると「時代の空気を呼吸する」ことになります。その意味で美術館に最もマッチするのが、この岸田劉生の静物画でしょう。
ステンドグラスのギャラリー
似鳥美術館の1階のエントランスを入ったところに、ルイス・ティファニーが製作したステンドグラスのギャラリーがあります。ルイスは、ティファニーの創設者、チャールズ・ティファニーの息子で、ガラス工芸で活躍しました。
似鳥美術館の絵画・彫刻は、旧北海道拓殖銀行小樽支店の2階から4階に展示してあるのですが、そこへはステンドグラスのギャラリーを通り抜けて行くようになっています。数々の美術品が並ぶ "非日常" の空間へといざなうのがステンドグラスの部屋という、この展示構成が良いと思います。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県・笠間市 | |||
No.303 | 松下美術館 | 鹿児島県・霧島市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知氏です。
今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。
小樽
似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げというからすごいものです。これらのニシンは小樽港から全国に運ばれました。当時のニシンの大部分は、乾燥させて粉にして農作物の肥料になったのです。
小樽は北海道開拓使が置かれた札幌と近い距離にあります。明治政府は小樽港を北海道開拓の玄関口として整備しました。北海道最初の鉄道が敷設されたのも札幌・小樽間で、小樽は北海道の物流の拠点として繁栄しました。その物流の重要品目は、北海道内陸部で採掘された石炭でしたが、小樽港から全国に積み出され、明治以降の日本の近代化に大いに寄与しました。
こういったことから、明治から大正、昭和(戦前)にかけての小樽は、北海道随一の産業都市として繁栄し、富が蓄積されました。もちろん、ニシン漁や石炭産業は戦後になって衰退していったのですが、小樽には当時の栄華を偲ばせる歴史的建造物が今でも残っています。小樽のシンボルは小樽運河とその周りの倉庫群ですが、これらはまさに歴史的建造物です。
小樽市は85件の「指定歴史的建造物」を指定し、保全費用の一部助成などを行っています。公開されているリストを見ると、建設時の用途は銀行、倉庫、邸宅、店舗、事務所、市庁舎(現在も市庁舎)、旅館、料亭、教会、寺院、神社などで、ほとんどは現在でも利用・再利用されています。これら、日本の近代化の歴史がフリーズして存在するような建造物群が、小樽の独特の都市景観を作っています。
小樽芸術村
2016年にニトリ・ホールディングスは、指定歴史的建造物をリノベーションして「小樽芸術村」を開設しました。現在は次の4つの施設で構成され、いずれも歩いてすぐの距離にあります。
似鳥美術館(旧・北海道拓殖銀行小樽支店) 日本の作家による洋画、日本画、彫刻、および西欧の絵画が展示されています。 | |
ステンドグラス美術館(旧・高橋倉庫) 主としてイギリスの教会を飾っていたステンドグラス約100点を、教会の解体を契機に移設したものです。近接してミュージアム・ショップ(旧・荒田商会)があります。 | |
西洋美術館(旧・浪華倉庫) 西洋のアールヌーボー、アールデコのガラス製品や、磁器、家具・調度品などが展示されています。 | |
旧・三井銀行小樽支店 2022年に国の重要文化財に指定された建物です。建築そのものを "芸術" として鑑賞できるようになっています。 |
|
|
|
|
ちなみに「美術館として建設されたのではない建物を美術館に転用」した例が、パリの著名美術館です。ルーブル美術館(宮殿)、オルセー美術館(駅舎)、オランジェリー美術館(温室)、ピカソ美術館(邸宅)、マルモッタン・モネ美術館(邸宅)など、多数あります。当初から美術館として建てられたのは、パリ市立近代美術館とポンピドー・センターぐらいしか思い当たりません。
またイタリアでは、フィレンツェのウフィツィ美術館(行政機関)、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(邸宅。No.217)などが "転用された美術館" です。
つまり、歴史的建造物を活用・再利用して美術館にするのは、ヨーロッパの "美術大国" ではよくある話なのです。また、これらの美術館の多くは、建物が本来の目的で建設・使用された時期と、そこに中心的に収集されている美術品の創作時期が重なっていることに注意すべきでしょう(ルーブル=古典、オルセー=印象派とその前後、など)。
似鳥美術館をはじめとする「小樽芸術村」も歴史的建造物のリノベーションであり、その中心的な収集品の創作時期は、小樽が栄華を誇った時期(19世紀末~20世紀前半)と重なります。美術館のあり方の "王道" と言えそうです。
なお小樽芸術村はその公益性が認められ、2020年からは公益財団法人・似鳥文化財団が運営しています。
似鳥美術館
似鳥美術館は、1923年(大正12年)に竣工した北海道拓殖銀行小樽支店の建物をリノベーションし、ニトリ・ホールディングスの代表取締役・会長、似鳥昭雄氏の個人コレクションをもとに、2017年秋に開館しました。ちなみに似鳥氏は小樽出身ではありませんが、北海道の出身であり、北海道で起業された方です。
似鳥美術館に収集されている主な美術品の作家と生没年を年代順にリストしてみると、まず油絵(洋画)では、
黒田清輝 | (1866-1924) |
岡田三郎助 | (1869-1939) |
藤田嗣治 | (1886-1968) |
小出楢重 | (1887-1931) |
梅原龍三郎 | (1888-1986) |
安井曾太郎 | (1888-1955) |
岸田劉生 | (1891-1929) |
中川一政 | (1893-1991) |
児島善三郎 | (1893-1962) |
林武 | (1896-1975) |
佐伯祐三 | (1898-1928) |
荻須高徳 | (1901-1986) |
小磯良平 | (1903-1988) |
などです。明治に入ってから日本の洋画を牽引してきた画家がそろっていて、まさに小樽の発展と繁栄の歴史と重なります。また日本画では、
富岡鉄斎 | (1836-1924) |
横山大観 | (1868-1958) |
下山観山 | (1873-1930) |
川合玉堂 | (1873-1957) |
上村松園 | (1875-1949) |
鏑木清方 | (1878-1972) |
小林古径 | (1883-1957) |
川端龍子 | (1885-1966) |
村上華岳 | (1888-1939) |
伊東深水 | (1898-1972) |
棟方志功 | (1903-1975) |
片岡球子 | (1905-2008) |
東山魁夷 | (1908-1999) |
杉山寧 | (1909-1993) |
山下清 | (1922-1971) |
加山又造 | (1927-2004) |
平山郁夫 | (1930-2009) |
千住博 | (1958-) |
などの作品を所蔵しています。このリストを見ると、山下清より下を除き、いずれも小樽の産業都市としての繁栄期(19世紀末~20世紀前半)に活躍した画家です。なお日本画では、江戸期の画家である伊藤若冲(1716-1800)と谷文晁(1763-1841)の作品も所蔵しています。若冲の作品は「雪柳雄鶏図」で、これは北海道にある唯一の若冲作品だそうです。
![]() |
伊藤若冲「雪柳雄鶏図」 |
似鳥美術館 |
伊藤若冲の初期作品。「雪が積もる木の枝を背景にした鳥」という構図は、後の『動植綵絵』の「雪中錦鶏図」を予見しているようである。No.371「自閉スペクトラムと伊藤若冲」の「補記2」を参照。 |
似鳥美術館には、彫刻・立体作品も収集されています。
高村光雲 | (1852-1934) |
高村光太郎 | (1883-1956) |
平櫛田中 | (1872-1979) |
岡本太郎 | (1911-1996) |
佐藤忠良 | (1912-2011) |
なとです。さらにヨーロッパの画家・彫刻家では、
ロダン | (1840-1917) |
ルノワール | (1841-1919) |
ヴラマンク | (1876-1958) |
ユトリロ | (1883-1955) |
シャガール | (1887-1985) |
ビュッフェ | (1928-1999) |
などの作品があります。
以上にあげた作家の作品から、この美術館の "顔" とも言える2つの作品、
藤田嗣治「カフェにて」
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
を以下に紹介します。この2作品と似鳥美術館の建物に共通するキーワードは「1920年代」です。日本では大正末期から昭和初期、世界では第1次世界大戦が終了してから世界恐慌が始まるまでの時期です。
藤田嗣治「カフェにて」
藤田嗣治の「カフェにて」(ないしは「カフェ」)と題する作品は、油絵だけでも4作品あり、これらはすべて同じ画題と構図の "連作" です。そこでまず、藤田嗣治の生涯と、この連作が描かれた経緯を整理しておきます。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)に東京で生まれました。子供のころから絵を描き始め、東京美術学校(現、東京藝大)を卒業しましたが、画壇から認められることはありませんでした。
1913年(大正2年)、26歳のときに藤田はパリに渡ります。それ以降、1920年代にかけて、乳白色の下地を使った独自の画風を確立し、パリで著名な画家となりました。藤田の代表作と言われる作品の多くはこの時代に描かれています。
1931年から、藤田は中南米へ旅に出ます。各地の人々をモデルに絵を描き、個展を開催しました。ブラジル、アルゼンチンから、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコへと渡り、アメリカ西海岸を経て、2年後の1933年に日本に帰国しました。
帰国した日本でも創作を続けます。壁画の大作「秋田の行事」(1937)はこの時期の作品です。また、陸軍報道部の要請で戦争記録画を描きました(「アッツ島玉砕」1943、など)。
戦後の1949年(昭和24年)、美術家の戦争責任問題が起こったのを契機に藤田は日本を去る決意をし、10ヶ月間ニューヨークに滞在したあと、フランスに落ち着きます。そして、1955年にフランス国籍を取得して帰化ました。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなります。晩年はフランスのランスに礼拝堂を建設し、その完成から2年後に亡くなりました(1968年、81歳)。
「カフェにて」の第1作は、フランスに永住する直前、ニューヨークに滞在したときに描き、個展で発表したものです(1949年)。藤田はこの絵を自分で作った額縁に入れてフランスに持参し、パリ国立近代美術館(現、ポンピドー・センター)に寄贈しました。
![]() |
藤田嗣治 「カフェにて」 |
ポンピドー・センター |
連作の第1作で、1949年に描かれ、パリ国立近代美術館に寄贈された。2018年に東京都美術館で開催された「没後50年 藤田嗣治展」ではメイン・ビジュアルとなった。署名は Foujita となっている。 |
藤田嗣治の研究者で、美術評論家の村上哲氏は、この絵について次のように書いています(原文に段落はありません)。
|
窓越しに見えるカフェの屋号は「ラ・プティト・マドレーヌ」(LA PETITE MADELEINE)ですが、村上氏によるとこれはプルーストの「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家の方へ」に出てくる文言です。つまり、紅茶に浸した「一片の小さなマドレーヌ」(La Petite Madeleine)から幼少期の記憶がよみがえるという有名なエピソードに由来します。この言葉とエピソードは1920年代のパリの文化界に流布し、藤田もその頃に描いたカフェが登場する作品に用いたそうです。それを4半世紀後の本作品に流用した。
ただ、ここで再び「ラ・プティト・マドレーヌ」を登場させたのは、1930年代に藤田と行動を共にしたマドレーヌ・ルクーの追憶の意味ではないかと、村上氏は推測しています。マドレーヌ・ルクーは藤田の4人目のパートナーで、1931年からの中南米旅行に同行し、日本にも一緒にやってきましたが、1936年に急死し、日本に葬られました。本作品に描かれた女性の容貌は、残されたマドレーヌの写真と酷似しているそうです。であれば、藤田はマドレーヌに対する呵責と追憶の念からニューヨークで本作品を描き、それをマドレーヌの故郷であるフランスに持って行って寄贈したとの推測が成り立ちます。
それ以降、藤田はパリで同一構図の「カフェにて」を、油絵だけでも3作描きました。第2作と第3作は、窓越しのカフェに屋号はなく単に CAFE ですが、第4作では屋号が復活します。それが次の作品です。
![]() |
藤田嗣治 「カフェにて」 |
(個人蔵) |
連作の最後の作品で、署名は L.Foujita となっている。洗礼後に描かれた最後の「カフェにて」と推測できる。 |
この作品では窓越しに見えるカフェの屋号が「LA PETITE CLAIRE:ラ・ペティト・クレール」となっています。この屋号は、藤田の5番目の妻でパリに一緒に移り住んだ君代の洗礼名「Marie-Ange Claire:マリー=アンジュ クレール」を暗示しています。つまり LA PETITE CLAIRE は "愛しい君代" とも読める。かつ、この作品だけは他の3作と違って L.Foujita と署名されています(L はレオナール)。つまり洗礼を受けた1959年以降の作品であり、これが最後の「カフェにて」ということになります。藤田は少なくとも10年以上に渡って同じが画題と構図の「カフェにて」を描いたわけです。
以上を踏まえて似鳥美術館の「カフェにて」を見ると、窓越しのカフェに屋号はなく、署名は Foujita です。ということは4連作のうちの第2作か第3作ということでしょう。
![]() |
藤田嗣治 「カフェにて」 |
似鳥美術館 |
この絵が描かれた時期は確定できず、似鳥美術館では1949年~1963年としている。 |
「カフェにて」を見て感じるのは、描かれた経緯やそこに込められた画家の思いとは別に、皮のソファや大理石のテーブル、インクの染みがついた手紙などの質感表現が素晴らしいことです。藤田嗣治の画家としての確かな技量を感じます。
「カフェにて」の4つの連作が描かれたのは、1949年~1960年頃ですが、描かれている情景は19世紀末の香りが残る1920年代のパリです。つまり小樽が繁栄を誇っていた時代のパリのカフェです。
似鳥美術館には、藤田嗣治の代名詞ともいえる「乳白色の下塗り」を使った1920年代の作品も所蔵されています(「婦人と犬」1927)。似鳥美術館で2つの作品を見比べながら、日本人の画家として初めてパリ画壇での名声(= 世界での名声)を獲得した藤田嗣治の生涯に思いを馳せるのもよいでしょう。
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
![]() |
岸田劉生 「静物 - リーチの茶碗と果物」(1921) |
似鳥美術館 |
右上から縦に文字が書かれていて、1921年3月14日と読める。この絵が完成した日付けである。 |
岸田劉生は1891年(明治24年)に東京で生まれ、1929年に38歳という若さで亡くなりました。藤田嗣治より5歳年下ですが、ほぼ同時代人です。
画題にある "リーチ" とは、イギリス人の陶芸家、バーナード・リーチ(1887-1979)のことで、彼も同時代人です。リーチはイギリス領・香港に生まれ、幼少期に日本に住んだこともありました。美術家をこころざし、イギリスの美術学校で版画(エッチング)を学んだ人です。
リーチはたびたび日本を訪れ、日本での居も構えました。この過程で陶芸に惹かれ、作陶を学んで、陶芸家として知られるようになります。岸田劉生は1911年、東京での版画の展覧会でリーチと出会い、以降、劉生とリーチは交友関係が続いたようです。劉生はリーチにエッチングの手ほどきを受け、自ら作品も作っています。
1917年、26歳の劉生は結核の転地療養のために神奈川県藤沢市鵠沼に移住し、以降、関東大震災(1923年、大正12年)により鵠沼を離れるまでの6年半を過ごしました。この時期に制作が始められたのが、娘の麗子を描いた一連の「麗子像」です。と同時に、鵠沼時代には静物画にも取り組みました。その最後期(1921年・大正10年)に描かれたのが本作品です。
リーチ作の陶器の茶碗と湯呑、10個の果物が描かれています。劉生の日記によると、1つは梨で(右端)、緑色と黄色で描かれているのが半分色づいたミカン(2個)、その他はリンゴです(7個)。
この時期の日本の洋画ではめずらしいような、写実に徹した作品です。その、写実の技法で表現された静物の質感と存在感が際立っています。そして、一つ一つの静物の個性が表現されている。
まず、バーナード・リーチ作の茶碗と湯呑ですが、これは陶芸家が形を決め、絵付けをし、窯で焼くので、一つ一つが個性をもつのは当然です。しかし本作品では果物もそれぞれが個性を主張しています。
右端の梨は一番大きく、表面もなめらかで、つるんとして、堂々とある感じです。それに対して2つのミカンは熟する前で、半分か半分以上が緑の状態です。リンゴは赤と黄が複雑に混じって描かれていますが、この色使いは見たままではなく、表面の微妙な感じを誇張して描いたのでしょう。ミカンやリンゴはすべて違っています。現代のお店で購入するミカンやリンゴは、形が整っていて、大きさも色も均一の果物ですが、それとは全く違う様相です。
果物の一つ一つに違いがあり、どっしりとした重量感でテーブルの上に存在している。個性的なモノの存在そのものが美である、と画家は主張しているようです。その主張が、手作りの陶器を取り囲むように果物を並べることで鮮やかに浮かび上がる。果物が、右端の梨を先頭に隊列を組んで2つの陶器を守っているようにも見えます。
さらにこの絵の上半分は、直線を境にした明度の違う2つの灰色で単純に塗り分けられています。この背景は、現実のどこかの部屋の光景とは思えず、画家が作り出した抽象表現でしょう。その抽象表現の中に、非常に具象的な茶碗と湯呑と果物がドサッと置かれている、そのことが静物の存在感を倍加させているのだと思います。
これは、岸田劉生の静物画の代表作であると同時に、似鳥美術館のコレクション全体を代表する作品です。それは芸術としての出来映えに加えて、展示されている空間(= 北海道拓殖銀行小樽支店)が完成した1923年とほぼ同時期である1921年に描かれたからです。当時の日本は欧米に追いつこうと近代化に邁進していました。岸田劉生も、西洋から "輸入された" 油絵で独自の表現を模索し、短い生涯の中で画風やテーマを次々と変えていった。その過程における静物画の傑作が本作品です。
似鳥美術館の建物の中で展示作品を鑑賞すると「時代の空気を呼吸する」ことになります。その意味で美術館に最もマッチするのが、この岸田劉生の静物画でしょう。
ステンドグラスのギャラリー
似鳥美術館の1階のエントランスを入ったところに、ルイス・ティファニーが製作したステンドグラスのギャラリーがあります。ルイスは、ティファニーの創設者、チャールズ・ティファニーの息子で、ガラス工芸で活躍しました。
似鳥美術館の絵画・彫刻は、旧北海道拓殖銀行小樽支店の2階から4階に展示してあるのですが、そこへはステンドグラスのギャラリーを通り抜けて行くようになっています。数々の美術品が並ぶ "非日常" の空間へといざなうのがステンドグラスの部屋という、この展示構成が良いと思います。
![]() |
ルイス・C・ティファニー ステンドグラス・ギャラリーは、2018年11月22日にオープンしたが、それを告知するチラシ。GRAND OPEN の文字より下が、似鳥美術館1階のエントランスから見たステンドグラス・ギャラリーの画像である。ここを通り抜けて絵画や彫刻の展示エリアに入っていく。 |
2024-11-25 14:24
nice!(0)