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No.266 - ローザ・ボヌール [アート]

No.93「生物が主題の絵」の続きです。ここで言う "生物" とは、生きている動物、鳥、樹木、植物、魚、昆虫などの総称です。日本画では定番の絵の主題ですが、No.93 で取り上げたのは西欧絵画における静物画ならぬ "生物画" でした。

その中でフランスの画家、ローザ・ボヌールが描いた「馬の市場の絵」と「牛による耕作の絵」を引用しました。この2作品はいずれも19世紀フランスの日常風景や風俗を描いていますが、実際に見ると画家の第一の目的は馬と牛を描くことだと直感できる絵です。

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ローザ・ボヌール(1822-1899)
馬市」(1853)
(244.5cm × 506.7cm)
メトロポリタン美術館

Rosa Bonheur - Labourage nivernais.jpg
ローザ・ボヌール
ニヴェルネー地方の耕作」(1849)
(133.0cm × 260.0cm)
オルセー美術館

日本人がニューヨークやパリに観光に行くとき、メトロポリタン美術館とオルセー美術館を訪れる方は多いのではないでしょうか。ローザ・ボヌールのこの2枚の絵は大きな絵なので、記憶に残っているかどうかは別にして、両美術館に行った多くの人が目にしていると思います(展示替えがないという前提ですが)。メトロポリタン美術館は巨大すぎて観光客が半日~1日程度で全部をまわるは不可能ですが、『馬市』は "人気コーナー" であるヨーロッパ近代絵画の展示室群の中にあり、しかも幅が5メートルという巨大な絵なので、多くの人が目にしているはずです。

多くの人が目にしているはずなのに話題になるのがほとんどないのがこの2作品だと思います。メトロポリタン美術館とオルセー美術館には有名アーティストの著名作品がキラ星のごとくあるので、それもやむを得ないのかもしれません。

しかしこの2作品は "生命力" をダイレクトに描いたと感じさせる点で非常に優れています。ちょうど伊藤若冲のにわとりの絵のようにです。対象となった "生物" は全く違いますが ・・・・・・。一般的に言って、日本画の動植物の傑作絵画を評価する人は多いのに(たとえば若冲)、西欧絵画の動物の絵を評価する人は少ないのではと思います。これは(現代の)西欧画壇の評価をそのまま日本に持ち込んでいるだけではないでしょうか。我々日本人としては、また別の見方があってもよいはずです。

今まで何回か文章を引用した中野京子さんは、2019年に出版された本でローザ・ボヌールの生涯とともに『馬市』の解説を書いていました。これを機会にその解説の一部を紹介したいと思います。以下の引用では漢数字を算用数字にしました。下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところがあります。


馬市


Rosa Bonheur - The Horse Fair.jpg


遠くにサルペトリエール病院付属礼拝堂の丸屋根が見える。ここはオピタル大通りのパリ定期馬市。時は19世紀半ば、まだ自動車普及前とあって、馬のり市場は活気にあふれている。

幅 5メートルの大画面を、白、黒、茶、ぶちと、さまざまな毛色の馬たちがダイナミックに駆け抜けてゆく。サラブレッドではなく、ノルマンディ産ペルシュロン種。大きくたくましい胴体と太く頑丈な脚を餅、荷馬や軍馬として使われる。右端に集まった馬喰ばくろうたち(仲買人や鑑定人)へのお披露目ひろめだ。


サルペトリエール病院もオピタル通りも、パリ13区にあります。セーヌ側の南側、ノートルダム寺院からみると南東方向で、そこで19世紀の当時に定期的に開かれていた馬の市を描いた絵です。

Percheron.jpg
現代のペルシュロン種。「馬市」とは150年の時代差があり、その間に品種改良が進んでいるはずである。
(Wikipedia)
この絵の一つのポイントは、描かれている馬がペルシュロンであることでしょう。脚が太く短く、胴も太い。大きな個体では1トン程度、サラブレッドの倍の重さになると言います。非常に力が強く、馬車馬、荷馬、軍馬などに使われます。北海道の "ばんえい競馬" でも活躍するのがペルシュロンです。ばんえい競馬の動画を見たことのある人は多いと思いますが、それを想像すればペルシュロンのイメージが浮かぶでしょう。

馬を描いた西洋絵画はたくさんありますが、多くはサラブレッドを中心とする競走馬で、いかにも脚が早そうなスラッとした体型です。No.93「生物が主題の絵」に引用したスタッブスの絵(ロンドン・ナショナルギャラリー)やポッテルの絵(ルーブル美術館)の馬がそうでした。エドガー・ドガは多数の馬の絵を描いていますが、競馬場か郊外の野原での競馬風景がほとんどです。サラブレッドの "形" や "ポーズ" や "動き" の美しさがドガを引きつけたのでしょう。

もちろん "動物画家" のボヌールもそういうサラブレッド的な馬を多く描いています。しかしこの絵は違って、"ずんぐりむっくり" のペシュロンという「労働馬」を描いています。まずここが注目点です。


数頭の白馬の尻尾がひもでくるくる巻かれ、めすとわかる。尾骨びこつ(尻尾の半ばまで骨がある)先端部から毛を折り返して結び、さらにまた折り返して中を通して結ぶので、なにやら中途半端な編み上げヘアに見えなくもないが、もちろんお洒落のためではない。妊娠の有無うむを調べる際、肛門こうもんから腕を入れなけらばならず、長い尻尾を振り回されては困るから一時的に縛ってあるのだ。

体型や毛並み、目の表情や一瞬の動き、全てが透徹とうてつした観察力によって捉えられ、それぞれ個性豊かに描き分けられている。眉間みけんに白い菱形ひしがた模様の馬、落ち武者のざんばら髪のごときたてがみを持つ馬、軽やかに、また隣と歩調を合わせて走る馬。中央左よりの黒馬は、いきなり後ろ脚で立ち上がり、前脚で空中をって荒々しい野生を噴出させる。からわらの白馬まで、つられたのか目をき、長い首を左右に激しく振る。

土煙、掛け声、いななき、ひづめの音、鼻息、汗、におい ・・・・・・ なんという臨場感、なんという躍動美。単なる写実を越えた真実がここにはある

中野京子「同上」

白馬の尻尾が紐で巻かれている(=牝馬)理由が書かれていますが、それを含めてこの絵には、馬市の様子が極めてリアルに描かれています。しかし単にリアルというのではなく、上の引用の最後にあるように、まさに現場に立ち会っているという "臨場感" と、馬たちのヴィヴィッドな "躍動感" を表現しえたことが、この絵の最大のポイントでしょう。

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「馬市」の中央右の部分図。2頭の牝の白馬が尻尾を紐で巻かれている。

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中央左の部分図。黒馬が後ろ脚で立ち上がり、右側の白馬もそれにつられたのか立ち上がって眼を剥き、首を左右に振っている。


発表後たちまち国際的評価を得、画家に確固たる名声をもたらしたのも当然だろう。画面の真ん中、混沌こんとんを束ねるかのごとき静かなたたずまいで馬をぎよし、控えめながら誇らしげにこちらを見つめている青いスモック姿こそ、画家その人だと言われている。黒い帽子のひさしで目元は影になっているが、ふっくらした女らしい唇は微笑みを浮かべているようだ。

画家は女性だった。

迫力あるこの絵を初めて目にする人の、いったい何人がそれに気づくだろう ?

中野京子「同上」

ローザ・ボヌールは目立たないように男装をし、馬市に何度も通ってスケッチを繰り返してこの絵を完成させたと言われています。もちろん、この絵の中の自画像のように乗馬姿で馬の中に入ったわけではないでしょうが、画家が作品の中に自画像をそっと忍ばせるのはよくあることです。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part3.jpg
眼を剥く白馬の右に描かれた人物が画家本人だとされている。顔は影になっていて表情がわかりにくいが、口元は確かに微笑んでいるようにも見える。

そのボヌールの自画像は上半身しか描かれていません。そういう構図にしてあります。それには理由があると中野さんは書いています。


ボヌールは乗馬の際、女性座り(両足を片側に寄せる)ではなく、男と同じようにまたががった。 【中略】 ただし『馬市』では、はしたないと酷評されるのを避け、上半身しか見えないように巧みな配置で描いている。

中野京子「同上」

馬に跨がって乗るためにはズボンを着用しているはずです。なぜローザ・ボヌールが "女性座り" をせず、ズボンをはいて跨がったのか。それは彼女の生涯と関係しています。中野さんはその生涯を解説していました。


画家:ローザ・ボヌール



ローザ・ボヌールは1822年、南仏ボルドーで生まれた。2年後、この地にはスペインから78歳のゴヤが亡命してくる。巨匠と幼女が短期間であれ同じ空気を吸っていたことに時代を感じる。ナポレオンはすでにぼつしていたが、彼が強化した男尊女卑のさまざま規定はまだ生きていたし、芸術創造において女性は劣っているとの考えも根強かった。

ボヌールの父は絵の教師で、4人の子を持つ貧しい一家はやがてパリに引っ越す。父は娘の画才に気づいて手ほどきしたが(当時、女性は美術学校へ入れなかった)、それは単に自分の画塾を手伝わせるのが目的だった。母は死去し、父は再婚。自作が父より売れるようになったボヌールは自立を目指すも、家父長的権威をふりかざす父との戦いは熾烈しれつで、19歳で何とか半自立にこぎつけた。昼だけ自分のアトリエで仕事をし、夜は帰宅、売った絵のお金の大部分を父に渡す、というものだ。それでも彼女の喜びは大きかった。アトリエ食事の世話など家事いっさいは、以前から近所づきあいのあった二歳下のナタリーとその母がやってくれた。

意志が強く、早くから自分の道を見定めていたボヌールだが、その彼女でさえ、父親とたもとを分かつことができたのは 27歳、しかもそれは父がコレラで急死したからだった。ようやくにして実家を離れた彼女は、ナタリーとその母との三人暮らしを始める。ナタリーとはおそらく恋人関係だったのだろう。彼女が亡くなるまで、40年も仲良く暮らした(知り合ってからは通算半世紀にわたる)。

中野京子「同上」

「ボヌールの父は絵の教師」とありますが、19世紀以前の著名な女性の職業画家のほとんどは、父親が画家か、絵の先生です。No.118「マグダラのマリア」に作品の画像を掲載した17世紀イタリアの画家、アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652)がそうだし、18~19世紀フランスの有名な画家、エリザベート・ヴィジェ = ルブラン(1755-1842)も父親は画家でした。父親に絵の手ほどきを受けなければ、女性が絵画を修得できる機会などほとんど無かったということでしょう。そういえば、葛飾応為(1800-1866。No.256「絵画の中の光と影」に作品の画像を掲載)の父親も画家なのでした。


新たな家族を得たボヌールは、心置きなく好きなテーマに邁進まいしんできるようになった。動物だ。子どものころから大の動物好きだった彼女は、リス、ウサギ、アヒルなどを飼い、大型の家畜は本や博物館、牧場などで観察を続けていた。しかしリアルさを追求するには、動物の体の内部構造を知らねばならない。解剖学的知識を得たい。学校で学べないなら、実地で身につけよう。食肉処理場へ通おう。

ここから彼女の男装がはじまる。



短髪、青いスモック、ビロードのズボンが、ボヌールのお気に入りのスタイルとなる。小柄だったので若い頃は少年のように見えたらしい。荒くれ者の多かった職場の労働者らは、最初こそ彼女をからかったり嫌がらせをしたというが、次第にスケッチの見事さに感銘かんめいを受ける者も出てきて、仕事ははかどってゆく。

中野京子「同上」

「青いスモックがお気に入りの姿」というところが、「馬市」に描かれた青いスモックの人物を自画像とするゆえんでしょう。当時のボヌールをよく知る人たちは「馬市」を見て、ボルールだと直感したのではないでしょうか。

中野さんは "食肉処理場" と書いていますが、これはもちろん屠殺場のことです。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体の解剖学的知識を得るために死体の解剖を行って数々のデッサンを残したわけですが、動物を描きたいボヌールは解剖学的知識を得るために屠殺場に通ったわけです。

ここで思うのは、ボヌールの代表作である『馬市』と『ニヴェルネー地方の耕作』(オルセー美術館。冒頭に引用)において、馬と牛がテーマになっていることです。その馬も牛も屠殺場で解剖学的知識を得られる動物です。牛肉を食べる文化はヒンドゥー教圏以外で世界的ですが、馬肉を食べない文化は多く、アメリカ、イギリス、ドイツなどはそうです。逆にヨーロッパで馬肉を食べる文化の中心がフランスです。フランスでは馬の解剖学的知識も屠殺場で得られると想像できます。

ひょっとしたら『馬市』の馬の描写の迫真性の理由の一つは、ボヌールが屠殺場で得た「馬の解剖学的知識」が絵の微妙なタッチに(それとは分からずに)生きているからではと想像しました。

このようなボヌールの画家としての活動には困難がありました。当時のフランス社会は男社会であり、女性が男装をするのさえ厳しい規制があったと、中野さんは以下のように書いています。


19世紀フランスの "男装規制"



当時のフランスでは、女性の男装(とりわけズボン)は禁じられていた。これは1800年に発布された警察令をもとに、1804年のナポレオン法典で明文化された法律で、違反者には罰金や禁固刑が科せられた。例外は健康上の理由などの特殊な場合のみで、警察に申請して「異性装許可証」を取得する必要があった。1850年代の取得女性はわずか12人というから、ハードルは高い。

現代人にとっては、何ゆえそこまでズボンにこだわるのかとあきれるが、フランス革命時に女性市民が政治に大きく関与したことを苦々にがにがしく思っていたのも一因をされる。ナポレオン法典には、妻は夫に絶対服従と明記されているばかりか、妻の収入は夫の財産であり、離婚も中絶も避妊も禁止なのだから、女がズボンを穿くことが男の権利簒奪さんだつ見做みなされて何の不思議があろう。

そうした逆風の中、ボヌールは比較的すんなり許可証をもらえた。サロン(官展)での入賞経験もある優れた画家が、職業上の必要にかられて男の職場たる危険な馬市などへ出入りする ─── やむなき理由と認められたのだ。ただし、劇場などの公共の場での男装は相変わらず不可、また許可証は半年という期限付きなので、死ぬまで幾度も幾度も更新し直さねばならなかった。

中野京子「同上」

ボヌールが生きたフランス社会はこのような状況だったわけです。あくまでフランスの事情であり、ドイツや英国では女性がズボンを着用するに許可証が必要などということはありません。そのフランス社会の中で彼女は、画家としての成功を勝ち取っていきます。ボヌール(1822年生)より1世代あとになると、女性画家が "輩出"してきます(数は少ないですが)。ベルト・モリゾ(1841年生)、メアリー・カサット(1844年生)、エヴァ・ゴンザレス(1849年生)などです。このあたりが転換期だったのでしょう。


『馬市』は完成までに1年半かかった。先述したように、この大作で彼女の名は国際的になった。特にイギリスとアメリカ(『馬市』は現在ニューヨークのメトロポリタン美術館蔵)で人気を博し、注文が殺到して富裕層の仲間入りもした。

38歳のとき、フォンテーヌブローの禁猟区域の一角にある城付きの土地を購入し、念願の動物王国を作っている。小さなものだと、犬、猫、イタチ、リス、ウミガメ、トカゲ、カワウソなど。大きなものだと、各種の馬、ヤク、サル、カモシカ、イノシシ、鹿、ヤギ、牛、羊など。野獣だとライオンまで。

次第にほとんどの時間を男装で過ごすようになり、酒を飲み、煙草を吸い、時に男の女装と間違えられ、ナタリーと同棲し続けたが、スキャンダルにはならなかった。動物画家であり、動物との特殊な暮らしも知れ渡っていたので、「男装は必要に迫られてのもの、奇矯ききょうな性癖(レズビアン)ではないい」と世間は納得していたようだ。それでも「フォンテーヌブローのディアナ」というあだ名は付けられた。ディアナは言わずと知れた月と狩猟の女神。処女神にして男嫌い。周りには女性しかはべらせなかったことで知られる。

中野京子「同上」

ローザ・ボヌールは43歳でレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを、72歳でレジオンドヌール勲章のオフィシエを授与されるという栄誉に輝きました。シュヴァリエのときは、ナポレオン3世妃のウジェニーがわざわざボヌールの城までやってきて手渡し、オフィシエでは時のカルノー大統領が城を訪れて叙勲したそうです。女性アーティストで最初にシュヴァリエを授与されたのがボヌールであり、女性で最初にレジオンドヌール勲章・オフィシエを授与されたのがボヌールでした。

ちなみに女性画家では、メアリー・カサットも1904年(60歳)でレジオンドヌール勲章・シュヴァリエを授与されています(No.86「ドガとメアリー・カサット」参照)。なお、レジオンドヌール勲章には等級があり、
・ 1等:グランクロワ(大十字)
・ 2等:グラントフィシエ(大将校)
・ 3等:コマンドール(司令官)
・ 4等:オフィシエ(将校)
・ 5等:シュヴァリエ(騎士)
です。フランス人だけでなく、政治、ビジネス、芸術などでフランスに関係の深い外国人にも授与されます。上の等級を得るためには下の等級を持っていることが必要ですが、外国人の場合はその限りではありません(たとえば板東玉三郎はコマンドール、北野武はオフィシエ)。

19世紀の当時のフランスは完全な男社会で、美術界もそうでした。画家の教師も購買者も批評家も、ほとんどが男性です。数少ない女性画家は常に過小評価される傾向にあり、そのような中で「ボヌールは例外中の例外」だったと中野さんは書いています。そして次のように結んでいます。


困難な時代にあって、生きたいように生き、十全に報われた77年の稀有けうな生涯だった。

中野京子「同上」


ニヴェルネー地方の耕作


No.93「生物が主題の絵」でも引用したローザ・ボヌールのもう一つの代表作、『ニヴェルネー地方の耕作』を見てみます。この絵はオルセー美術館にあり(確か1階)、『馬市』ほどではないが、それでも幅2.6メートルという大きな絵です。オルセーに行った人の多くが目にしている絵だと思います。

Rosa Bonheur - Labourage nivernais.jpg

この絵は一見「農村風景」を描いたように見えるかもしれません。19世紀フランス絵画には「都会の喧噪に疲れた近代人があこがれる、自然に囲まれた、のどかな農村の風景」的な絵がよくあります。しかしこの絵は違います。この絵の前に立つとすぐにわかるのは、これが "牛を描くことを目的にした絵" だということです。単に農村風景を描くのではなく、しかもミレー(1814-1875)のように農民に関心が行くのではなく、動物に焦点が当たっている。

この絵については、大阪府立大学の村田京子教授の研究報告「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」(2013)の中に評論があるので、それを引用したいと思います。この研究報告はネットに公開されています。


フランス政府から作品の注文を受けたローザ・ボヌールは、1848年9月にナタリー(引用注:ボヌールの身の回りの世話をしていたナタリー・ミカ)と一緒に、ニエーヴル地方の父の友人の彫刻家ジュスタン・マチューの屋敷に滞在し、絵画の制作にとりかかる。その完成作が翌年のサロンに出品した《ニヴェルネー地方の耕作》であった。

この作品は縦 1.34m、横 2.60m の大きなキャンヴァスに描かれた大作で、秋の青空の下、畑に初めて鍬を入れる作業の場面が描かれている。鎖でつながれたモルヴァン牛の群と、その後ろに続く牛の群が3人の牛飼いに導かれて、大地を力強く踏みしめている。この絵によって、優れた動物画家としてのボヌールの評価が確立する。

村田京子
「男装の動物画家ローザ・ボヌール:
その生涯と作品」
(大阪府立大学 学術情報リポジトリ 2013.3)

Charolais Bull.jpg
現代のシャロレー牛。主に肉牛である。ニエーヴル地方が原産地とされている。
(Wikipedia)
ローザ・ボヌールは26歳の時にフランス政府から絵の注文を受けたことになります。いかに若いときからフランス画壇に認められていたかのあかしです。しかも女性画家です。「ボヌールは例外中の例外」とした中野さんの言が思い出されます。

固有名詞について補足しますと、ニエーヴルはパリから見て南東方向、ブルゴーニュ地方の県で、ワイン産地で有名なコート・ドール県(ディジョンやボーヌがある県)の西側になります。ニヴェルネーはこのあたりの以前の地名です。ニエーヴルとコート・ドールの間にはモルヴァン山地(現在は自然公園になっている)が広がっています。

村田教授が書いている「モルヴァン牛」ですが、Googleで "モルヴァン牛" の完全一致検索をしても村田教授の論文が出てくるだけです。つまりネットに公開されている日本語ドキュメントでは村田教授しか使っていない。とすると、これは「モルヴァン地方の牛」という意味であり、品種としては「シャロレー牛」でしょう。シャロレー牛はブルゴーニュの名物料理、ブブ・ブルギニヨン(牛肉の赤ワイン煮込み)で有名なように現在は肉牛ですが、もともとは役牛・農耕牛でした(Wikipediaによる)。

描かれたのは6頭立てで引く鍬のようです。横並びの2頭の牛の角が2頭の間の棒と結ばれ、前後の棒が鎖で結ばれて最後尾の鍬を引っ張っています。後方にはさらに一団が続いている。牛は、喉の下に垂れた "肉垂にくすい" や "よだれ" までがリアルに描かれ、前へ前へと鍬を引っ張っていくエネルギーに満ちた姿です。


ローザ・ボヌールは、解剖学的な視点から動物の筋肉組織を詳細に描き、エネルギッシュな牛の動きを捉えたばかりか、畑の畝の光の反映など、一見、写真と見間違うほど正確に描き出している。実際、彼女は晩年にナダールの影響で写真に興味を持ち、自ら写真を撮っただけでなく、動物の写真を多く収集し、絵画制作の基礎資料とした。ただし彼女は、主観性を排し極度に写実的に描くハイパーリアリズムの先駆けというわけではない。動物には「魂」があると信じていたボヌールは、動物の眼を「魂の鏡」とみなして次のように述べている。

私が特別な関心をもって観察していたのは、彼ら(動物たち)の視線の表現であった。生きているあらゆる被造物にとって、眼は魂の鏡ではないだろうか。自らの考えを表現する他の手段を自然から与えられなかった存在の意思や感情が、まさにそこに明瞭に現れるのではないだろうか。

このようにローザ・ボヌールは、視線を通して動物の「魂」を絵筆の力で表そうとした。したがって、彼女の描く動物画のどれをとっても動物の眼が印象的である。《ニヴェルネー地方の耕作》においても、複数の牛の個性がそれぞれ、表情豊かな眼に凝縮されている。

村田京子「同上」

今までそういう視点で見たことはなかったのですが、「ローザ・ボヌールは視線を通して動物の魂を絵筆の力で表そうとした」と村田教授が書いているのは、なるほどと思います。『ニヴェルネー地方の耕作』で言うと、特に2列目の牛の眼です。

Rosa Bonheur - Ploughing in Nevers - Part 1.jpg
「ニヴェルネ地方の耕作」の部分図。2列目の2頭の牛。牛の間には前後を繋ぐ鎖が見える。

こちが側の牛の、大きくカッと見開いてこちらを見ているような眼が、ボヌールの言うように "動物の魂の表現" だとしたら、そこに込められたものは何でしょうか。労働の苦しみなのか、または解放への期待なのか。そういう風に擬人化するのは良くないのかもしれませんが、何か訴えているような眼です。その向こう側の牛はまた違う表情を見せています。



この "動物の眼" という視点で『馬市』を振り返ってみると、カンヴァスの中央付近、後ろ脚で高く立っている黒馬の右に白馬が描かれています。画家本人の左の「眼を剥いている」白馬です。この白馬の眼が注目ポイントで、これは一瞬の驚きの表情でしょう(上に引用した部分図を再掲)。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part3.jpg

絵を鑑賞する場合、どういう視点で見るかによって絵の印象が変わってくることがよくあります。ローザ・ボヌールが「私が特別な関心をもって観察していたのは、動物たちの視線の表現であった」と語ったということを知ると、「動物の眼の表現」という視点で絵を見るようになります。メトロポリタン美術館とオルセー美術館を再び訪問する機会があったら、その視点でボヌール作品を見たいと思います。

余談になりますが、動物の眼で思い出すのが、ベラスケスの『鹿の頭部』(プラド美術館所蔵。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で引用)です。"野獣としての鹿" を描いたと感じさせる絵ですが、見る人がそう思うのは、"野生の魂を映し出すように描かれた眼" なのでしょう。


「ローザ・ボヌールの生涯」より


『ニヴェルネー地方の耕作』の解説は、大阪府立大学の村田京子教授の「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」(大阪府立大学 学術情報リポジトリ 2013.3。ネットで公開されている)から引用したものでした。

この研究報告ではボヌールの生涯が詳細に記述され、作品との関係が解説されています。特に父親(絵の教師)との確執や女性画家としての自立の過程が詳しく述べられています。ローザ・ボヌールの生涯を知るには最適のドキュメントでしょう。全体は40ページに渡るものですが、その中から数個の文章を補足として引用します。まず、1834年~36年あたり(ローザが12歳~14歳頃)の様子を記した文章です。


父親のレーモンは娘の絵に対する情熱に早くから気づいていたが、女性の仕事としてお針子に娘を仕立て上げようとした。しかし、娘の頑固な抵抗にあい、伝統的な女子教育を施すことを断念した彼は、ロザリー(引用注:ローザのこと)に絵を教えることになる。

当時、女性は正規の美術学校に入ることが許されておらず(女性が入学を許可されるのは1897年)、彼女は父の元で絵の修行をする傍ら、ルーヴル美術館に通いつめ、絵や彫刻の模写をする。その模写が売れてお金になると、父も娘の画才を認め、「マリー・アントワネットの肖像画家」として有名なエリザベト・ヴィジェ = ルブランを越えるよう娘を激励する。

村田京子「同上」

ローザ・ボヌールは10代半ばで、模写とはいえ絵が売れはじめたようです。早くから絵の才能を発揮したということです。また(フランスでは)女性が正規の美術学校に入学が許可されるのは1897年、というのもポイントです。

上の引用にロザリーと書かれているように、ローザは本名ではありません。彼女の本名はロザリー = マリー・ボヌールです。事実、1841年のサロンに初めて出品したときには(19歳)「ロザリー・ボヌール」を使っています。ところがその後「ローザ・ボヌール」を使うようになります。その経緯は以下のようです。


1841年と43年のサロンのカタログには「ロザリー・ボヌール」の名前で、42年のカタログでは「ロザリー・R・ボヌール」の名前で出ていたが、父親のレーモンは今後、自分の名前「レーモン」のサインをすうように彼女に命じる。ロザリーはそれを拒否し母親のソフィの記憶を永遠に留めるために(引用注:母親はロザリーが11歳のときに死去)、母が幼い彼女につけてくれた愛称「ローザ(Rosa)」をそれ以降使うことにする。

しかし、レーモンが娘にとった行動は稀な例ではない。ジャーメイン・グリア(引用注:オーストラリアの作家・ジャーナリスト。1939~)が指摘しているように、19世紀末までは女性が絵を学ぶ正規の美術学校がなかったため、職業画家になった女性のうちほとんどが、父親や夫が画家という家系に属していた。

こうした画家の家系で息子が自分より優れた才能を見せた時には、ラファエロの父親のように自分よりレベルの高い師匠につくよう勧めることはあっても、娘の場合はそうではなかった。父親は娘に彼のスタイルが描くこと、すなわち彼の絵を模倣することを強制し、その絵に彼の名前でサインをさせた。

その顕著な例が、ティントレットの娘マリエッタである。彼女は父に認められるほど優れた才能を発揮したが、結局、ティントレットの共同制作者として彼の絵と区別できない絵しか描いていない。そのため、現在ティントレットの絵とされる作品の中に彼女の絵、そして彼女の存在自体が埋もれてしまった。

したがって、父の命令を拒否したローザ・ボヌールの方が、むしろ例外であった。また、先にみたように、彼女が父のアトリエから独立して自分のアトリエを持ち、ミカ夫人と娘のナタリーが家事を引き受けることで、絵の制作に集中できたのも「才能ある未婚の女性年鑑でほとんど類のない」環境に恵まれたと言える。

村田京子「同上」

1836年(ローザ、14歳)のころ、カバーやケースの製造業者、ルイ = フレデリック・ミカが娘の肖像をローザの父のレーモンに依頼したのが縁で、ボヌール家とミカ家は家族ぐるみの付き合いをすることになります。1841年(ローザ、19歳)ごろになると、ローザの絵は良く売れて、ボヌール一家の生活費のほとんどをローザが賄うまでになっていました。ローザは父の大反対を押し切って、自宅から離れた専用のアトリエを持ちます。絵で稼いだお金は父に渡すという条件です。この専用アトリエを手配したのがミカ夫妻で、ミカ夫人と娘のナタリーが家事を引き受けることになったわけです。

この1841年にローザは初めてサロンに自作を出品しますが、この頃について次のような記述があります。


当時を振り返って彼女は次のように言っている。「私は私の小さなアトリエで、筋肉解剖学、骨学、生理学という3つの観点からあらゆる種類の動物を次々に研究した。それは、後に芸術への愛に駆られて屠殺場をたびたび訪れるようになった時に行った、解剖の予行演習となった」。

村田京子「同上」

上の引用のローザの言葉は、ローザの最晩年を共にしたアメリカの肖像画家、アンナ・クランプクが書いた伝記からとられたものです。中野京子さんが『馬市』を紹介した文章の中に、ローザは解剖学的知識を得るため食肉処理場(=屠殺場)へ通ったとありましたが、単に見学するだけでなく屠殺場で解剖までしたことになります。

調べてみると、当時のパリには幾つかの屠殺場がありました。もともと無人地区にあった屠殺場も人口集中により街中になったわけです。ローザが通ったのはミロメニル通り(現在ではパリのど真ん中)の "ルール屠殺場" だそうです。男ばかりの職場である屠殺場に入り、見学・スケッチをするだけでなく、解剖までする。動物のありのままを描き尽くそうとするボヌールの執念を感じるエピソードです。



最後に、ローザ・ボヌールの肖像画を引用しておきます。これは、ボヌールの伝記を書いたアメリカの肖像画家、アンナ・クランプクの作品で、ボヌールの最晩年、76歳の時です。めずらしくスカート姿のボヌールが描かれていますが、胸にレジオンドヌール勲章・オフィシエの徽章をつけているので、これは "女性として正装をした姿" ということでしょう。

Anna Klumpke - Portrait of Rosa Bonheur.jpg
アンナ・クランプク(1856-1942)
ローザ・ボヌールの肖像」(1898)
(メトロポリタン美術館)

アメリカの肖像画家、アンナ・クランプクは、ボヌールに手紙を出して肖像画を描く了承をとりつける。そして1898年にボヌールの住居であるフォンテーヌブローの近くのビー城(Chateau de By)に滞在し、この肖像画を描いた。この制作の過程で2人は大変親密になった。ボヌールはクランプクに「死ぬまで一緒に暮らして欲しい」と頼み、クランプクはそれを了承して生活を共にする。ボヌールはクランプクに自らの生涯を語り、クランプクがメモをする日々が続いた。

1899年、ボヌールはパリの公証人役場でクランプクを遺産の包括受遺者に指定し、ビー城をクランプクに生前贈与する。ボヌールの意図はビー城と作品の保存であった。ボヌールは元気に制作を続けていたが、その年の5月に肺炎で急死する。最後はクランプクの腕に抱かれての死去であった(享年 77歳)。

ボヌールの死後、クランプクはボヌールの親族との争いも含めて、作品の保存や散逸防止に尽力した。また、1908年にはボヌールの伝記を完成させた。さらにボヌールの生誕100年にあたる1922年には回顧展を開催した。これらを含んで、クランプクがボヌールを記念するために行った数々の功績に対し、フランス政府は1924年にレジオンドヌール勲章・シュヴァリエを授与し、さらに1936年にはレジオンドヌール勲章・オフィシエに昇格させた。

クランプクは1942年に本国のアメリカで死去したが、その相続人はビー城とボヌールのアトリエを保存し、1982年からはローザ・ボヌール美術館として一般公開されている。

── 村田京子「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」より要約




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