No.243 - 視覚心理学が明かす名画の秘密 [アート]
No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で、ルネサンス期の女性の横顔肖像画(= プロフィール・ポートレート。以下、プロフィール)で傑作だと思う4作品をあげました。
の4作品ですが、これらはすべて左向きの顔でした。そして、「プロフィールには右向きのものもあるが(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)、数としては圧倒的に左向きが多いようだ、これに何か理由があるのだろうか、多くの画家は右利きなので左向きが描きやすいからなのか、その理由を知りたいものだ」という意味のことを書きました。
最近、ある本を読んでいたらプロフィールの左向き・右向きについての話がありました。三浦佳世『視覚心理学が明かす名画の秘密』(岩波書店 2018。以下、本書)です。そこで今回は、プロフィールの左向き・右向きも含め、本書からいくつかのトピックスを紹介したいと思います。
著者の三浦氏は九州大学名誉教授の心理学者で視覚心理学が専門ですが、父親は洋画家の安田謙(1911-1996)です。視覚心理学の知見をもとに名画を語る(ないしは、名画を素材に視覚心理学を語る)にはうってつけの方でしょう。まず、西洋画における光の方向の話からです。
フェルメールの光
前回の No.242「ホキ美術館」で、生島 浩氏の『5:55』という作品について「明らかにフェルメールを思わせる光の使い方と空間構成」と書きました。この作品はパッと見て "フェルメールを踏まえた絵" と感じるのですが、その一番の理由は、室内に差し込む左上の方からの柔らかな光です。本書にはまず、次のフェルメール作品が引用されています。
確かにフェルメールの作品には「主人公が女性で、その女性だけ、または女性を含む複数の人物が室内に配置され、左側に窓があって、左上から柔らかな光が差し込んでいる」という絵が多いわけです。中には主人公が男性というのもあるし(天文学者、地理学者)、右からの光の作品もあります(例えば、ルーブルにある刺繍をする女性の絵)。しかし圧倒的に多いのは、女性が主人公で、特に "左からの光" なのです。
しかし本書によると、この "左上からの光" は何もフェルメールに限ったこことではないようです(以下の本書からの引用で下線は原文にありません。また段落を増やしたところがあります)。
ではなぜ、左上からの光が多いのでしょうか。本書に書かれている一つの推測は、画家はアトリエにおいて窓を左にしてイーゼルをたてることが多いからです。なぜなら多くの画家は右利きであり、窓を左にする方が筆の先に光が当たって描きやすい。三浦氏は似た話として学校の教室を持ち出しています。記憶にある学校の教室は左側が窓で、右側に廊下があり、これは多くの子が右利きなのでノートに影が落ちないような工夫なのだろうと ・・・・・・。これは、いかにも納得性の高い説明です。
しかし視覚心理学からすると、もっと本質的な理由がありそうです。それがわかるのが "陰影にもとづく凹凸判断" です。右の図にある18個の凹凸には1つだけ "仲間外れ" があります。それはどれでしょうか。
瞬時にわかると思います。そしてここが大切なのですが「凹んでいるものが1つだけあると瞬時に判断」できるはずです。ところが、この絵を上下逆さにすると「膨らんでいるものが1つだけあると瞬時に判断」することになります。なぜそのような判断になるかと言うと、人は暗黙に上方向からの光を仮定しているからです。
「生後6~7ヶ月で凹凸の無意識推論ができる」ことをどうやって調べたのか、本書には書いてありませんが、かなり工夫した実験をしないとわからないはずで、是非知りたいものです。それはともかく、この「凹凸の無意識推論」には続きがあります。
人の視覚判断は左上からの光に最も鋭敏であり、従って、左上からの光が最も自然ということになります。これが絵画に左上からの光が多い理由の推定です。
右上からの光
人にとって左上からの光が最も自然だとすると、その逆の右上からの光は「自然ではない」ということになります。そして画家はその「自然ではない」状況をうまく利用したのでないか、というのが三浦氏の推測です。その一つの例が、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるカラバッジョの『マタイの召命』です。
右上からの光は "非日常の光" を暗示し、カラバッジョはそれを利用して右上からの "神の光" を描いた。そう推測できるのです。
本書にはない余談ですが、「右上からの神の光」と「改心」で思い出すのが、No.118「マグダラのマリア」で引用した2つの絵画作品、フィレンツェ・ピッティ宮が所蔵する、ティツィアーノとアルテミジア・ジェンティレスキの『悔悛するマグダラのマリア』です。
ティツィアーノの作品は有名で、「マグダラのマリア」と言えばこの絵を思い浮かべる人も多いと思います。アルテミジア・ジェンティレスキは明らかにティツィアーノを踏まえていますが、女性画家らしく裸体表現は最小限に押さえ、"決意" や "自立" といった雰囲気が伝わってくる作品に仕上がっています。またティツィアーノと違って一番強い光は胸に当たっていて、この直後に顔も強い光に照らされて改心が成就する。そのようにも見えます。これはひょっとしたらカラバッジョからインスピレーションを得たのかも知れません。
この2作品に共通するのが "右上からの神の光" です。これが "改心" というテーマを効果的にしていると考えられます。
本書に戻ります。三浦氏はさらに、ジョルジュ・デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』をとりあげています。この作品は第1次世界大戦が勃発した年に描かれました。それもあってか、無邪気に遊ぶ少女の先に "影" が待ち受けているという、不安感をかもしだす絵です。
さらにこの絵から受ける印象としては、どうも通常の風景ではなさそうだという「違和感」であり、「どこか変だな」という印象です。
しかし、本当にそれが違和感や不思議な印象の理由なのだろうか、と三浦氏は疑問を呈しています。というのも、一点に収斂しない透視図法に対して人は寛容だからです。
では、キリコの絵の「どこか変」という印象はどこからくるのか。三浦氏は「この絵は影の方向が見慣れない」と指摘しています。
左向きのプロフィール
以上を踏まえて、最初に書いた左向きの横顔肖像画(=プロフィール)が多い理由は次のようになります。三浦氏は "左からの光" を含めて3つの理由をあげています。
そして左向きプロフィールの代表例として、No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で引用したピエロ・デル・ポッライオーロの「若い貴婦人の肖像」が紹介されています。
ここまでは、左向きプロフィールに関しての予想どおりの話の展開です。しかし、ちょっと意表をつかれたのはポッライオーロの絵とともに、右向きプロフィールの代表例として、No.121「結核はなぜ大流行したのか」で引用したムンクの「病める子ども」が紹介してあることでした。
No.121で書いたように「病める子」は、15歳で結核で死んだ姉(そのときムンクは13歳)を思い出して描いた絵です。ムンクは20歳代以降、40年間にわたって何枚も「病める子」を描いていて、油絵だけでも6枚もあります。No.121で引用したのは油絵の最初の作品でしたが(1885/6。オスロ国立美術館蔵)、本書で引用してあるのはニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵するリトグラフ作品です。そしてこの絵について三浦氏は次のように書いています。
なるほど ・・・・・・。カラヴァッジョの「マタイの召命」からの類推で言うと、ムンクは「神に召されようとしている姉が、神の光を受けて目に光が宿ったところ」を描いたのでしょう。ムンクにそういう意図がなかったとしても、右からの光が暗黙に「自然ではない光」を表すのが西洋絵画の伝統なので、結果としてそれに符合するように描かれた。このリトグラフに関してはそういう感じがします。何枚もある「病める子」の中には左向きの絵もあるのですが、右向きの絵が特に印象が強いように思うのはそのせいでしょう。そう言えば、最初に描かれた油絵の「病める子」(オスロ国立美術館蔵。No.121で引用)も右向きなのでした。
ポッライオーロの描く左向きの貴婦人は明るい自然な光に照らされて、いかにも健康的で、はつらつとしています。一方のムンクの描く右向きの15歳の姉は、残り少ない命の最後の輝きのような "尋常ではない神々しさ" を感じる。三浦氏は数ある「病める子」の中からピンポイントでMoMAのリトグラフを選んだはずです。この2枚の絵を対比させて提示した三浦氏の慧眼に感心しました。
酒井抱一と「クレイク・オブライエン現象」
視覚心理学で「クレイク・オブライエン現象」と呼ばれる錯視現象があります(コーンスウィート現象とも言う)。下図(上)においては左側が暗く、右側が明るく見えます。しかし実際には境目のすぐ左側の狭い領域が暗いだけで、その他の部分の明るさは左右で同じです。境目のところを隠すと(下)、そのことがわかります。
このように物理的には狭い領域の明るさが変化しているだけなのに、広い領域にわたって明るさが変化しているように見えるのが「クレイク・オブライエン現象」です。実は、日本の画家はこの現象を巧みに利用してきました。たとえば江戸琳派の祖である酒井抱一の「寿老・春秋七草図」です。
酒井抱一のような月の描き方は、他にもいろいろ例があります。日本の画家は、心理学者が視覚の研究で発見する以前からこの現象を知っていて、それを絵に利用していたわけです。
モネ、ルノワールと「色の恒常性」
エーデルソン錯視と呼ばれる現象があります。下図(上)でチェッカーボードの A の部分は黒で、B の部分は白だと、我々は判断します。しかし実際には A と B は同じ色です。我々の脳は A には光が当たっているから明るいと判断し、B は円柱の影になっているから暗いと判断し、この照明状況を考慮し、照明の効果を差し引いて A は黒、B は白と判断するのです。
このような脳の働きを「色の恒常性」と呼んでいます。つまり白い壁に光が当たっている部分と影の部分があるとき、我々の脳は網膜で受け取った実際の物理的な色に修正をかけ、全体が同じ白だと判断します。
ところが印象派の画家たちはこの「色の恒常性」を無視して絵を描きました。たとえば有名なモネの「ルーアンの大聖堂」の連作です。
モネは、通常の脳の働きである「色の恒常性」を無視して描けたのです。上のエーデルソン錯視の例で言うと A と B を同じ色で描いた。これはすごいことです。神経生理学者のセミール・セキという人は「モネは脳で描いた。だが、何という脳だろう」と言ったそうです。
このような描き方は、ルノワールもそうだと言います。たとえばオルセー美術館の『ブランコ』という作品です。
よく「印象派は影にも色があることを発見した」などと言われますが、視覚心理学からすると「色の恒常性を無視して描いた」となります。その方がより正確な言い方です。さらに三浦氏は、この描き方は写真の影響ではと推測しています。
ポロックの「フラクタル次元」
本書にはオレゴン大学のテイラー教授(物理学)が行った、ジャクソン・ポロックの "アクション・ペインティング"(または "ドリップ・ペインティング")についてのフラクタル解析が紹介されています。ポロックの作品には "秘密" があるのです。"アクション・ペインティング" の代表的作品は、たとえば次の「ナンバー 14」ですが、これにどんな秘密があるのか。そのキーワードは "フラクタル" です。
2値画像を念頭に補足しますと、自己相似的性質をもつ画像は一定の値の「フラクタル次元」を定義できます。自己相似的性質のない画像は、そのような一定の値は定義できません。フラクタル次元が1とは1次元であり、直線が一本書かれた画像はそうです。フラクタル次元が2とは2次元、つまりすべての点が黒で埋められた画像です。
2次元画像のフラクタル次元はボックス・カウンティング法で計測できます。この方法ですが、2次元の2値画像を1×1の正方形領域にマッピングしたとします。そして正方形の縦横をそれぞれ N 分割し、N×N 個の小領域に分けます。そして画像の黒点がある小領域の数をカウントして、その数を P(N) とします。すると、フラクタル次元 D は、N が十分に大きいとして、次のように定義できます。
D = log P(N) / log N
もし、画像に直線が横1線に描かれているだけとしたら、P(N) = N なので、D = 1 となります(1次元)。もし画像が黒点で埋め尽くされているのなら、P(N) = N * N なので D = 2(2次元)となります。数学的には平面を埋め尽くす曲線が定義できるのですが(=空間充填曲線。ペアノ曲線など)、そのような曲線のフラクタル次元は2(=2次元平面と同じ)になります。画像が自己相似性をもつと D の値は(Nが大きい範囲で)ほぼ一定になります。自己相似性がないと、こような一定の D の値は定まりません。
テイラー教授はこの方法でポロックの絵画のフラクタル次元を求め、分析しました。
本書には京都大学霊長類研究所の研究者が、スーパー・チンパンジーである "アイ" に線画を書かせ、それをフラクタル解析したことが書かれています。それによるとフラクタル構造は見いだせなかったとのことです。"アイ" の絵は残念ながら "デタラメ" だったようです。しかし、ポロック風のアクション・ペインティングを描いたとしても "デタラメ" になってしまうのは、何も "アイ" だけではありません。
ちなみに本書によると、テイラー教授は絵を描くのが趣味で、美術学校に通ったこともあるそうです。プロの画家ではありませんが、全くの素人でもありません。しかし、美術学校に通ったことがあって絵画が趣味程度ではポロックの域にはとても到達できないのです。
ポロックの "アクション・ペインティング" は、デタラメとはほど遠く、それはある種の "心地よさ" を生み出すように計算しつくされたものである。このことを知るだけで絵の見方も変わるでしょう。
絵画を見る視点
本書には上にあげた以外にも、視覚心理学と絵画にからむさまざまな話題が取り上げられていますが、割愛したいと思います。いずれも絵画を愛好する人なら興味深い内容でしょう。
振り返ってみると、このブログでは中野京子さんの『怖い絵』シリーズから、かなりの引用をしてきました。『怖い絵』シリーズのメッセージは、
ということでしょう。三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」も、それと似ています。つまり、
とうことです。そのことがよく理解できた本でした。
三浦佳世氏は、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されました。これは「視覚心理学が明かす名画の秘密」の補足のような内容です。その一部を、No.256「絵画の中の光と影」で紹介しました。
◆ | ピエロ・デル・ポッライオーロ | ||
「若い貴婦人の肖像」(1470頃) ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ) | |||
◆ | アントニオ・デル・ポッライオーロ | ||
「若い女性の肖像」(1465頃) ベルリン絵画館 | |||
◆ | ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス | ||
「ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490) アンブロジアーナ絵画館(ミラノ) | |||
◆ | ドメニコ・ギルランダイヨ | ||
「ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90) ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード) |
最近、ある本を読んでいたらプロフィールの左向き・右向きについての話がありました。三浦佳世『視覚心理学が明かす名画の秘密』(岩波書店 2018。以下、本書)です。そこで今回は、プロフィールの左向き・右向きも含め、本書からいくつかのトピックスを紹介したいと思います。
著者の三浦氏は九州大学名誉教授の心理学者で視覚心理学が専門ですが、父親は洋画家の安田謙(1911-1996)です。視覚心理学の知見をもとに名画を語る(ないしは、名画を素材に視覚心理学を語る)にはうってつけの方でしょう。まず、西洋画における光の方向の話からです。
フェルメールの光
前回の No.242「ホキ美術館」で、生島 浩氏の『5:55』という作品について「明らかにフェルメールを思わせる光の使い方と空間構成」と書きました。この作品はパッと見て "フェルメールを踏まえた絵" と感じるのですが、その一番の理由は、室内に差し込む左上の方からの柔らかな光です。本書にはまず、次のフェルメール作品が引用されています。
フェルメール(1632-1675)
「手紙を書く女と召使い」(1670/71)
1974年と1986年の2回に渡って盗難にあったことで有名な作品。
(アイルランド国立美術館)
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確かにフェルメールの作品には「主人公が女性で、その女性だけ、または女性を含む複数の人物が室内に配置され、左側に窓があって、左上から柔らかな光が差し込んでいる」という絵が多いわけです。中には主人公が男性というのもあるし(天文学者、地理学者)、右からの光の作品もあります(例えば、ルーブルにある刺繍をする女性の絵)。しかし圧倒的に多いのは、女性が主人公で、特に "左からの光" なのです。
しかし本書によると、この "左上からの光" は何もフェルメールに限ったこことではないようです(以下の本書からの引用で下線は原文にありません。また段落を増やしたところがあります)。
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ではなぜ、左上からの光が多いのでしょうか。本書に書かれている一つの推測は、画家はアトリエにおいて窓を左にしてイーゼルをたてることが多いからです。なぜなら多くの画家は右利きであり、窓を左にする方が筆の先に光が当たって描きやすい。三浦氏は似た話として学校の教室を持ち出しています。記憶にある学校の教室は左側が窓で、右側に廊下があり、これは多くの子が右利きなのでノートに影が落ちないような工夫なのだろうと ・・・・・・。これは、いかにも納得性の高い説明です。
陰影に基づく凹凸判断
(本書より)
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瞬時にわかると思います。そしてここが大切なのですが「凹んでいるものが1つだけあると瞬時に判断」できるはずです。ところが、この絵を上下逆さにすると「膨らんでいるものが1つだけあると瞬時に判断」することになります。なぜそのような判断になるかと言うと、人は暗黙に上方向からの光を仮定しているからです。
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「生後6~7ヶ月で凹凸の無意識推論ができる」ことをどうやって調べたのか、本書には書いてありませんが、かなり工夫した実験をしないとわからないはずで、是非知りたいものです。それはともかく、この「凹凸の無意識推論」には続きがあります。
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人の視覚判断は左上からの光に最も鋭敏であり、従って、左上からの光が最も自然ということになります。これが絵画に左上からの光が多い理由の推定です。
右上からの光
人にとって左上からの光が最も自然だとすると、その逆の右上からの光は「自然ではない」ということになります。そして画家はその「自然ではない」状況をうまく利用したのでないか、というのが三浦氏の推測です。その一つの例が、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるカラバッジョの『マタイの召命』です。
カラバッジョ(1571-1610)
「マタイの召命」(1600)
(サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会)
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右上からの光は "非日常の光" を暗示し、カラバッジョはそれを利用して右上からの "神の光" を描いた。そう推測できるのです。
本書にはない余談ですが、「右上からの神の光」と「改心」で思い出すのが、No.118「マグダラのマリア」で引用した2つの絵画作品、フィレンツェ・ピッティ宮が所蔵する、ティツィアーノとアルテミジア・ジェンティレスキの『悔悛するマグダラのマリア』です。
ティツィアーノの作品は有名で、「マグダラのマリア」と言えばこの絵を思い浮かべる人も多いと思います。アルテミジア・ジェンティレスキは明らかにティツィアーノを踏まえていますが、女性画家らしく裸体表現は最小限に押さえ、"決意" や "自立" といった雰囲気が伝わってくる作品に仕上がっています。またティツィアーノと違って一番強い光は胸に当たっていて、この直後に顔も強い光に照らされて改心が成就する。そのようにも見えます。これはひょっとしたらカラバッジョからインスピレーションを得たのかも知れません。
この2作品に共通するのが "右上からの神の光" です。これが "改心" というテーマを効果的にしていると考えられます。
ティツィアーノの「悔悛するマグダラのマリア」(1533。左)と、アルテミジア・ジェンティレスキの「悔悛するマグダラのマリア」(1620頃)。いずれもフィレンツェ・ピッティ宮所蔵。
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本書に戻ります。三浦氏はさらに、ジョルジュ・デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』をとりあげています。この作品は第1次世界大戦が勃発した年に描かれました。それもあってか、無邪気に遊ぶ少女の先に "影" が待ち受けているという、不安感をかもしだす絵です。
ジョルジュ・デ・キリコ(1888-1978)の「街の神秘と憂鬱」(1914。個人蔵)。左は透視図法の消失点が一つではないことを示した図。
(本書より)
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さらにこの絵から受ける印象としては、どうも通常の風景ではなさそうだという「違和感」であり、「どこか変だな」という印象です。
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しかし、本当にそれが違和感や不思議な印象の理由なのだろうか、と三浦氏は疑問を呈しています。というのも、一点に収斂しない透視図法に対して人は寛容だからです。
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フェルメール(1632-1675)の「ミルクを注ぐ女」(1658)。アムステルダム国立美術館蔵。机の消失点はミルクポットの上のところにはない。
(本書より)
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では、キリコの絵の「どこか変」という印象はどこからくるのか。三浦氏は「この絵は影の方向が見慣れない」と指摘しています。
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左向きのプロフィール
以上を踏まえて、最初に書いた左向きの横顔肖像画(=プロフィール)が多い理由は次のようになります。三浦氏は "左からの光" を含めて3つの理由をあげています。
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そして左向きプロフィールの代表例として、No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で引用したピエロ・デル・ポッライオーロの「若い貴婦人の肖像」が紹介されています。
ピエロ・デル・ポッライオーロ
「若い貴婦人の肖像」
(ポルディ・ペッツォーリ美術館)
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ここまでは、左向きプロフィールに関しての予想どおりの話の展開です。しかし、ちょっと意表をつかれたのはポッライオーロの絵とともに、右向きプロフィールの代表例として、No.121「結核はなぜ大流行したのか」で引用したムンクの「病める子ども」が紹介してあることでした。
エドヴァルド・ムンク(1863-1944)
「病める子ども」(1896)
(ニューヨーク近代美術館)
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No.121で書いたように「病める子」は、15歳で結核で死んだ姉(そのときムンクは13歳)を思い出して描いた絵です。ムンクは20歳代以降、40年間にわたって何枚も「病める子」を描いていて、油絵だけでも6枚もあります。No.121で引用したのは油絵の最初の作品でしたが(1885/6。オスロ国立美術館蔵)、本書で引用してあるのはニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵するリトグラフ作品です。そしてこの絵について三浦氏は次のように書いています。
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なるほど ・・・・・・。カラヴァッジョの「マタイの召命」からの類推で言うと、ムンクは「神に召されようとしている姉が、神の光を受けて目に光が宿ったところ」を描いたのでしょう。ムンクにそういう意図がなかったとしても、右からの光が暗黙に「自然ではない光」を表すのが西洋絵画の伝統なので、結果としてそれに符合するように描かれた。このリトグラフに関してはそういう感じがします。何枚もある「病める子」の中には左向きの絵もあるのですが、右向きの絵が特に印象が強いように思うのはそのせいでしょう。そう言えば、最初に描かれた油絵の「病める子」(オスロ国立美術館蔵。No.121で引用)も右向きなのでした。
ポッライオーロの描く左向きの貴婦人は明るい自然な光に照らされて、いかにも健康的で、はつらつとしています。一方のムンクの描く右向きの15歳の姉は、残り少ない命の最後の輝きのような "尋常ではない神々しさ" を感じる。三浦氏は数ある「病める子」の中からピンポイントでMoMAのリトグラフを選んだはずです。この2枚の絵を対比させて提示した三浦氏の慧眼に感心しました。
酒井抱一と「クレイク・オブライエン現象」
視覚心理学で「クレイク・オブライエン現象」と呼ばれる錯視現象があります(コーンスウィート現象とも言う)。下図(上)においては左側が暗く、右側が明るく見えます。しかし実際には境目のすぐ左側の狭い領域が暗いだけで、その他の部分の明るさは左右で同じです。境目のところを隠すと(下)、そのことがわかります。
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クレイク・オブライエン現象
上の図において左右の明るさは違って見えるが、実際に違うのは境目の付近だけである。下図のように境目付近を黒で隠すとそのことがわかる。
(Wikipediaより)
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このように物理的には狭い領域の明るさが変化しているだけなのに、広い領域にわたって明るさが変化しているように見えるのが「クレイク・オブライエン現象」です。実は、日本の画家はこの現象を巧みに利用してきました。たとえば江戸琳派の祖である酒井抱一の「寿老・春秋七草図」です。
酒井抱一
「寿老・春秋七草図」(秋)
(山種美術館蔵)
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酒井抱一のような月の描き方は、他にもいろいろ例があります。日本の画家は、心理学者が視覚の研究で発見する以前からこの現象を知っていて、それを絵に利用していたわけです。
モネ、ルノワールと「色の恒常性」
エーデルソン錯視と呼ばれる現象があります。下図(上)でチェッカーボードの A の部分は黒で、B の部分は白だと、我々は判断します。しかし実際には A と B は同じ色です。我々の脳は A には光が当たっているから明るいと判断し、B は円柱の影になっているから暗いと判断し、この照明状況を考慮し、照明の効果を差し引いて A は黒、B は白と判断するのです。
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エーデルソン錯視
Aは黒っぽく Bは白っぽく見えて違う色のようだが(上)、2つの色の間に無理矢理ブリッジを作ると(下)全く同じ色であることがわかる。
(Wikipediaより)
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このような脳の働きを「色の恒常性」と呼んでいます。つまり白い壁に光が当たっている部分と影の部分があるとき、我々の脳は網膜で受け取った実際の物理的な色に修正をかけ、全体が同じ白だと判断します。
ところが印象派の画家たちはこの「色の恒常性」を無視して絵を描きました。たとえば有名なモネの「ルーアンの大聖堂」の連作です。
クロード・モネ
「ルーアンの大聖堂」
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
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モネは、通常の脳の働きである「色の恒常性」を無視して描けたのです。上のエーデルソン錯視の例で言うと A と B を同じ色で描いた。これはすごいことです。神経生理学者のセミール・セキという人は「モネは脳で描いた。だが、何という脳だろう」と言ったそうです。
このような描き方は、ルノワールもそうだと言います。たとえばオルセー美術館の『ブランコ』という作品です。
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オーギュスト・ルノワール
「ブランコ」
(オルセー美術館)
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よく「印象派は影にも色があることを発見した」などと言われますが、視覚心理学からすると「色の恒常性を無視して描いた」となります。その方がより正確な言い方です。さらに三浦氏は、この描き方は写真の影響ではと推測しています。
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ポロックの「フラクタル次元」
本書にはオレゴン大学のテイラー教授(物理学)が行った、ジャクソン・ポロックの "アクション・ペインティング"(または "ドリップ・ペインティング")についてのフラクタル解析が紹介されています。ポロックの作品には "秘密" があるのです。"アクション・ペインティング" の代表的作品は、たとえば次の「ナンバー 14」ですが、これにどんな秘密があるのか。そのキーワードは "フラクタル" です。
ジャクソン・ポロック
「Number 14 : Gray」(1948)
(Yale University Art Gallery)
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2値画像を念頭に補足しますと、自己相似的性質をもつ画像は一定の値の「フラクタル次元」を定義できます。自己相似的性質のない画像は、そのような一定の値は定義できません。フラクタル次元が1とは1次元であり、直線が一本書かれた画像はそうです。フラクタル次元が2とは2次元、つまりすべての点が黒で埋められた画像です。
2次元画像のフラクタル次元はボックス・カウンティング法で計測できます。この方法ですが、2次元の2値画像を1×1の正方形領域にマッピングしたとします。そして正方形の縦横をそれぞれ N 分割し、N×N 個の小領域に分けます。そして画像の黒点がある小領域の数をカウントして、その数を P(N) とします。すると、フラクタル次元 D は、N が十分に大きいとして、次のように定義できます。
D = log P(N) / log N
もし、画像に直線が横1線に描かれているだけとしたら、P(N) = N なので、D = 1 となります(1次元)。もし画像が黒点で埋め尽くされているのなら、P(N) = N * N なので D = 2(2次元)となります。数学的には平面を埋め尽くす曲線が定義できるのですが(=空間充填曲線。ペアノ曲線など)、そのような曲線のフラクタル次元は2(=2次元平面と同じ)になります。画像が自己相似性をもつと D の値は(Nが大きい範囲で)ほぼ一定になります。自己相似性がないと、こような一定の D の値は定まりません。
テイラー教授はこの方法でポロックの絵画のフラクタル次元を求め、分析しました。
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本書には京都大学霊長類研究所の研究者が、スーパー・チンパンジーである "アイ" に線画を書かせ、それをフラクタル解析したことが書かれています。それによるとフラクタル構造は見いだせなかったとのことです。"アイ" の絵は残念ながら "デタラメ" だったようです。しかし、ポロック風のアクション・ペインティングを描いたとしても "デタラメ" になってしまうのは、何も "アイ" だけではありません。
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ちなみに本書によると、テイラー教授は絵を描くのが趣味で、美術学校に通ったこともあるそうです。プロの画家ではありませんが、全くの素人でもありません。しかし、美術学校に通ったことがあって絵画が趣味程度ではポロックの域にはとても到達できないのです。
ポロックの "アクション・ペインティング" は、デタラメとはほど遠く、それはある種の "心地よさ" を生み出すように計算しつくされたものである。このことを知るだけで絵の見方も変わるでしょう。
絵画を見る視点
本書には上にあげた以外にも、視覚心理学と絵画にからむさまざまな話題が取り上げられていますが、割愛したいと思います。いずれも絵画を愛好する人なら興味深い内容でしょう。
振り返ってみると、このブログでは中野京子さんの『怖い絵』シリーズから、かなりの引用をしてきました。『怖い絵』シリーズのメッセージは、
絵画は「見て、感じればよい」というだけでなく、描かれた背景、つまり画家の個人史、制作された時代の状況、絵画史における位置づけなどを知ることで、より興味深い鑑賞ができるし、描かれた背景を知れば "絵の意味" が一変してしまうことさえある。 |
ということでしょう。三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」も、それと似ています。つまり、
心理学の知識を踏まえて名画を見ると、より興味深い鑑賞ができるし、名画とされるその理由の一端が感じられる。 |
とうことです。そのことがよく理解できた本でした。
(次回に続く)
 補記  |
三浦佳世氏は、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されました。これは「視覚心理学が明かす名画の秘密」の補足のような内容です。その一部を、No.256「絵画の中の光と影」で紹介しました。
(2019.4.13)
2018-10-13 07:49
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