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No.215 - 伊藤若冲のプルシアン・ブルー [アート]

No.18「ブルーの世界」で青色顔料(ないしは青色染料)のことを書いたのですが、その中に世界初の合成顔料である "プルシアン・ブルー" がありました。この顔料は江戸時代後期に日本に輸入され、葛飾北斎をはじめとする数々の浮世絵に使われました。それまでの浮世絵の青は植物顔料である藍(または露草)でしたが、プルシアン・ブルーの強烈で深い青が浮世絵の新手法を生み出したのです。絵の上部にグラディエーション付きの青の帯を入れる「一文字ぼかし」や、本藍とプルシアン・ブルーをうまく使って青一色で摺るといった手法です(No.18)。プルシアン・ブルーが浮世絵に革新をもたらしました。

そして日本の画家で最初にプルシアン・ブルーを用いたのが伊藤若冲だったことも No.18「ブルーの世界」で触れました。その若冲が使ったプルシアン・ブルーを科学的に分析した結果が最近の雑誌(日経サイエンス)にあったので、それを紹介したいと思います。


伊藤若冲『動植綵絵』


宮内庁・三の丸尚蔵館が所蔵する全30幅の『動植綵絵』は、伊藤若冲の最高傑作の一つです。この絵を全面修復したときに科学分析が行われ、プルシアン・ブルーが使われていることが判明しました。その経緯を「日経サイエンス」から引用します。以下の引用で下線は原文にはありません。


伊藤若冲の代表作『動植綵絵』は、1999年度から6年間にわたり、大規模な修理が行われた。絹に描かれた絵から裏打ちの和紙をすべてはがし、新たに表装しなおす「解体修理」だ。作品を裏からも見ることができるまたとない機会にもなり、画面表裏からの様々な作品調査が平行して進められた。

調査の結果で最も驚きをもって受け止められたのは、作品の1つに、当時西欧から日本に伝えられたばかりの人工顔料、プルシアンブルーが用いられたいたことだ。明和3年(1766年)に描かれたとみられる「群魚図」の中のルリハタの絵である(引用注:「蛸」と「鯛」がある群魚図のうちの「鯛」)。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

群魚図(鯛).jpg
伊藤若冲『動植綵絵』より
「群魚図(鯛)」(1766)
(宮内庁 三の丸尚蔵館 所蔵)
「動植綵絵」の「群魚図」には「蛸」と「鯛」があるが、この絵は「鯛」の方である。絵の左下の隅に黒ずんだ濃紺色で描かれているのがルリハタである。黒ずんでいる理由は後述。

ルリハタ.jpg
ルリハタ
ハタ科の魚だが、鮮やかな青色の(瑠璃色の)体色と黄色の線が目立つ。"瑠璃" とはもともと仏教用語であり、鉱物としてはラピスラズリを意味する。ラピスラズリはウルトラマリン・ブルーとして西欧絵画の青に使われた。No.18「ブルーの世界」参照。

若冲の「群魚図」の分析に使われたのは「蛍光X線分析」という手法です。絵の表面に直径約2mmの微弱なX線をスポット照射します。そうするとそこにある元素が励起され、元の状態に戻るときに2次的なX線(=蛍光X線)を出します。元素が出す蛍光X線のエネルギーは元素ごとに決まっているので、どんな元素が存在するかが分かります。


『動植綵絵』全30幅の919ポイントに照射したところ、ルリハタの濃紺色の部分に鉄の存在を示すピークが現れた(下図)。鉄を含む青色であればプルシアンブルーの可能性が高い。当時、日本で青色の彩色に使われていたのは主に、藍銅鉱という鉱石を粉末にした群青か、植物からとった藍だ。いずれも鉄を含まない。

(同上)

蛍光X線スペクトル.jpg
ルリハタの蛍光X線スペクトル
鉄のピークがみられる。一般的な青色顔料である群青(藍銅鉱)や藍に鉄分は含まれない。Ca(カルシウム)のピークは下地に塗った胡粉を示している(胡粉は貝殻を砕いて作る)。
(日経サイエンス 2017.10 より)

分析を担当した早川康弘氏(東京文化財研究保存修復センター = 東文研)は、当初このデータを見落としていたといいます。というのも、プルシアン・ブルーが絵の具として頻繁に使われるようになったのは江戸時代末期の19世紀になってからであり、若冲が使っていたとは思われなかったからです。


日本に初めてプルシアンブルーが輸入されたの延享4年(1747年)である。このときは全量がオランダに返送され、日本で消費されたのは宝暦2年(1752年)からだ。1760年代までに輸入された量は全体で2.5ポンド(約1.3kg)で、極めて稀少な品だったとみられる。

絵画に用いたのはそれまで、平賀源内が1770年代前半に油彩「西洋夫人図」のドレスの胸元の模様を描いたのが最も早い例だとみられていた。本草学者で蘭学者、大名たちとも親交のあったマルチタレントの源内がいちはやく西洋の絵の具を入手し、西洋の技法で描いた絵に用いたというのは想像しやすい。だが西洋の素材や技法とあまり縁のない若冲が、その5年以上も前に使っていたというのは意外感がある。

(同上)

では、プルシアン・ブルーだと断定するにはどうするのか。江戸時代に輸入されて現在も残っているプルシアン・ブルーがあります。それと比較分析をします。


早川氏らは、ルリハタの絵を別の方法で調べてみることにした。絵の表面に白色光を照射し、反射光のスペクトルを測定する分光分析だ。古典的な手法だが、プルシアンブルーの同定にはよく用いられる。比較対照として、19世紀に鍋島藩で購入された「紅毛群青」を用いた。こちらはX線回折によってプルシアンブルーの結晶構造が確認されている。

結果は明快だった。400~850nm の広い波長域で反射率があまりかわらないプルシアンブルーに特徴的なスペクトルが得られ、鍋島藩の試料とも一致した。若冲は確かに、プルシアンブルーを使ってルリハタを描いたのだ。この結果は2009年、東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において公表された。

(同上)

可視分光スペクトル.jpg
ルリハタの可視分光スペクトル
400~850nm の広い波長域で反射率があまり変わらない。プルシアン・ブルーに特徴的な可視光スペクトルである。
(日経サイエンス 2017.10 より)







プルシアン・ブルー
この色はRGB値が "192f60"(16進数)であるが、あくまで一例である。実際に顔料・染料として使う方法によって色は変化する。


プルシアン・ブルーの合成


プルシアン・ブルーは世界初の合成顔料です。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、その発見は18世紀初頭のベルリンでした。当時ベルリンはプロイセン領だったので「プロイセンの青=プルシアン・ブルー」と呼ばれたのです。江戸時代の日本では「ベロ藍」ですが、ベロとはベルリンの意味です。その発見は全くの偶然でした。


「群魚図」から遡ること60年前の1706年ごろ、ベルリンの錬金術師ディッペル(Johann C. Dippel)の工房の一角で、染料・顔料の製造業者ディースバッハ(Johann J. Diesbach)が、カイガラムシから抽出した赤い色素、コチニールからレーキ顔料を作ろうとしていた。

(引用注) コチニールはカイガラムシから作る赤色の色素で、かつては絵の具のクリムゾンやカーマインに使われた。レーキ顔料とは、水溶性の顔料を何らかの方法で不溶性にしたもの。不溶性にすることをレーキ化と言う。

作業にはアルカリが必要だったが、たまたま切らしていたため、ディッペルから拝借した。ディースバッハがそのアルカリと硫酸鉄をコチニールに加えたところ、鮮やかなブルーが現れた

2人はさぞ驚いたに違いない。どのような反応が起きたのかはわからなかったが、予想外の青色が生じた原因がディッペルから借りたアルカリにあったことは推測できた。ディッペルは錬金術師であるだけでなく、神学者でかつ医者でもあった。動物の角や骨、血液などにアルカリを加えて乾留した「ディッペル油」を作り、薬品原料として売っていた。乾留後はアルカリを水に溶かして回収し、再び乾留に用いた。ディースバッハに渡したのは、すでに何度か乾留に使ったアルカリの炭酸カリウム溶液だった。

(同上)

動物の角や骨や血液などから作った油というのは、いかにも錬金術師が作りそうな "あやしげな" ものですが、まさにそこがこの発見物語のポイントです。ディースバッハが作ろうとしていた赤色染料・コチニールは、青色=プルシアン・ブルーの出現には関係ありません。「動物由来の成分が溶け込んだ炭酸カリウム液」と「硫酸鉄」が鍵です。日経サイエンスの記事によるとプルシアン・ブルーが生成した過程は次のようです。

ディッペルが動物の角や骨、血液などに炭酸カリウム液を加えて加熱したとき、骨や血液に含まれる炭素(C)と窒素(N)からシアン化物イオン(CN-)が生成し、それが炭酸カリウムと反応してシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)ができた。

シアン化カリウムが血液や鉄製の反応容器の含まれる鉄分(Fe)と反応して黄血塩(フェロシアン化カリウム。その名の通り黄色)ができた。

黄血塩に硫酸鉄が加わってプルシアン・ブルーができた。

日経サイエンス2017年10月号には、上記の過程をそのままに再現した実験が載っていて、見事にプルシアン・ブルーができています。それを使って画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵も掲載されています。

プルシアン・ブルーで描いたルリハタ.jpg
日経サイエンスにはプルシアン・ブルーを発見当時の製法で再現した実験が載っている。用いた動物原料は豚のレバーである。この絵は実験で作ったプルシアン・ブルーを用いて画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵。紙の上に描かれている。
(日経サイエンス 2017.10)

プルシアン・ブルーの結晶構造.jpg
プルシアン・ブルーの結晶構造
2価の鉄(Fe2+。黄色の丸)と3価の鉄(Fe3+。赤色の丸)が交互に結晶を作っている。
(日経サイエンス 2017.10 より)

プルシアン・ブルーの結晶の特徴は、2価の鉄(Fe2+)と3価の鉄(Fe3+)が交互に結晶を作っていることです。このように酸化度が違う金属が混在している結晶では、電子はその金属に集まります。かつ、電子は2価の鉄と3価の鉄を間を容易に移動できる。移動するときに強い光の吸収が起き、普通の物質より鮮やかな色になります。プルシアン・ブルーの場合は橙色が吸収されて青く見えます。この青は非常に "強い青" です。


プルシアンブルーの色の強さは、天然顔料のウルトラマリンの10倍以上といわれる。画家の浅野信二氏は「少し混ぜただけで全体がこの色になる。古楽器の演奏にエレキギターを持ち込むような影響力」だと語る。安定で退色しにくく、天然由来の顔料と違って確実に同じ色を作れるのも利点だ。

(同上)

しかし "強い色" は欠点にもなります。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、19世紀のフランス画壇ではプルシアン・ブルーは危険な色とされ、扱いには注意が必要だったようです。No.18に書いたことを再掲します。


プルシアン・ブルーは印象派の画家が好んで使った色です。印象派は「影にも色があることを発見した」とよく言われますが、ルノアールの有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876。オルセー美術館) には、その影や衣服の表現にプルシアン・ブルーが使われています。またゴッホもこの色を好みました。アルル時代の傑作である「星降る夜」(1888。オルセー美術館)にもプルシアン・ブルーが使われています。時代が進んで、ピカソ・20歳台のいわゆる「青の時代」の諸作品は、プルシアン・ブルーを他の色とまぜて多様な青を作り出しています。この時期のピカソは深い青を特に好んだようです。

しかし、プルシアン・ブルーは次第に使われなくなり、あとで開発されたコバルト・ブルーなどの合成青色顔料にとって代わられました。それは「プルシアン・ブルーは使い方が難しい」色だったからです。パリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長は、次のようにインタビューに答えています。

  とにかく、プルシアン・ブルーは使いこなすのが難しい色です。たとえば1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。その美しさにもかかわらず、使い方がとても難しい色なのです。

ルノワールもこの色の難しさに気づいて、画家仲間に注意書きのメモを残したと言います。油絵は浮世絵と違って色と色を混ぜ、かつ重ね塗りをします。プルシアン・ブルーは油絵にとっては「危険な色」なのです。しかし巨匠たちはその危険な色に挑み、名画を生み出しました。危険を承知で挑む強烈な魅力がこの顔料にあったということでしょう。



プルシアン・ブルーの歴史


日経サイエンスの記事に戻って、プルシアン・ブルーの歴史をまとめると、以下のようになります。

(1706年)ベルリンでディッペル(錬金術師)とディースバッハ(染料・顔料業者)がプルシアン・ブルーを偶然に合成。

2人はプルシアン・ブルーの製造を開始。製法は秘匿した。1712年頃には「需要に応えきれない」との手紙が残っている。

(1724年)英国の学者がドイツから入手したプルシアン・ブルーの製法を学術誌に発表。プルシアン・ブルーの科学的研究が始まる。

(1747年)日本に初めてプルシアン・ブルーが輸入された。この時は全量が返送されたので、実質的な最初の輸入は1752年。

(1766年)伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使用。

(1770年代前半)平賀源内が油彩画「西洋夫人図」にプルシアン・ブルーを使用。

(19世紀~)プルシアン・ブルーが浮世絵に多数使用される。たとえば葛飾北斎の『富嶽三十六景』であり、その制作・出版は1823年頃~1835年頃。

(19世紀~)印象派の画家が好んで使用。ピカソも「青の時代」の絵に多用。

(2009年)東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において、伊藤若冲がプルシアン・ブルーを使ったことが公表された。


1回きりのプルシアン・ブルー


ただし、伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使った理由は謎が残ると、日経サイエンスの記事は言います。


ひとつ疑問が残っている、なぜ伊藤若冲はこのルリハタに、プルシアンブルーを使ったのだろうか? しかも絵の具の上から墨を筋状に重ね塗りしており、もとの色があまりわからない。「この色なら、若冲のパレットにあるほかの絵の具で簡単に作れる」と東文研の早川氏は首をかしげる。貴重品だったプルシアンブルーをわざわざ使う理由が見当たらない。プルシアンブルーは若冲のほかの作品では見つかっていない。1回限りの実験だったのか。私たちが知らない理由があったのか。その点は謎のままだ。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

記事に「1回限りの実験か」と書いてありますが、実験ではないでしょう。『動植綵絵』は若冲の禅の師である大典顕常だいてんけんじょうがいる京都・相国寺に寄贈した絵です。若冲にとって "渾身の作" だろうし、事実、その出来映えは最高傑作と呼ぶにふさわしい。いいかげんな気持ちでプルシアン・ブルーを用いたはずがないと思います。当時は貴重で高価な絵の具です。初めて使う絵の具ということは、何度も下絵を書いて発色の具合を調べたはずです。そして『動植綵絵』に用いたと考えられる。

若冲がプルシアン・ブルーを用いたのは1回きりです。なぜかを推測すると、これは "自分には向かない絵の具" だと思ったからではないでしょうか。引用した画家の浅野信二氏やパリの絵の具専門店の店長の発言にあるように、プルシアン・ブルーは極めて "強い絵の具" であり、もっと言うと "危険な絵の具" です。上に引用したパリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長の発言をもう一度思い出すと、

1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。」

でした。近接して塗った絵の具を "食ってしまうほどの強力な青色" なのです。

一方、若冲の『動植綵絵』はどうでしょうか。この絵には「裏彩色うらざいしき」の技法が駆使されていることが分かっています。再び「日経サイエンス」から引用します。


共同で調査に当たった宮内庁三の丸尚蔵館の太田彩・主任研究官は、若冲を「色に執着した画家」と評する。例えば絹の裏面に色を置くと、表から絹目を通して見ることでやわらかい色になる。「裏彩色」と呼ばれる技法で、表から色を重ねるとさらに複雑な表情が生まれる。調査によって、若冲が『動植綵絵』に緻密な裏彩色を施していることが明らかになった。無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされていたのだ。

「若冲は、自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」と太田氏はいう。絵の具は質の良いものをふんだんに使い、どう使うとどのような色が生まれるのかを詳細に研究していた

(同上)

最も有名な裏彩色の技法は『動植綵絵』の「老松白鳳図」ですね。絹地の表から白、裏から黄を塗ることで、鳳凰の羽が金色に見えるという驚きの効果を生み出しています。その裏彩色は「老松白鳳図」だけではないのです。裏打ちしてある和紙を全部はがす解体修理をしてみると、南天の実、紅葉の葉にまで裏彩色が使われていた。この事実を考えると、若冲は『動植綵絵』以外の絵でも裏彩色を多用しているはずです。

そこでプルシアン・ブルーです。推測すると、プルシアン・ブルーは「裏彩色の技法が利かない絵の具」なのではないでしょうか。あまりに強い色であり、他の色を食ってしまうために・・・・・・。だとすると、裏彩色を駆使して「自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」若冲にとっては "使いにくい色" ということになります。実は若冲は、プルシアン・ブルーの性質(=難しさ)を良く理解していたのではないか。画家仲間に注意書きのメモを残したルノワールのように。

さらに推測を重ねると、若冲が「群魚図」のルリハタにあえて「1回きりのプルシアン・ブルー」を使った理由は、この絵に「秘密を仕掛けた」のではと思います。裏彩色もそうですが、若冲の絵には "秘密" がよくあります。肉眼では判別しがたいような細かい点々を描き込むとか、絵の具を4回も塗り重ねる(日本画で!!)といったような・・・・・・。

渾身の作に、オランダから輸入されたばかりの高価で貴重な絵の具を "そっと" 使う。それはルリハタの美しい瑠璃色を描くにはピッタリでしょう。しかも上から墨を重ねて分からないようする。それによって「群魚図」のプルシアン・ブルーを "封印" し、そしてプルシアン・ブルーの使用そのものも封印してしまう。「1回きりの秘密を仕掛けた」という解釈が最も妥当だと思います。そしてその秘密は、描かれてから243年後に現代科学の分析手法で解き明かされたわけです。


プルシアン・ブルーの現在


顔料としてのプルシアン・ブルーは、その後に開発された合成顔料であるコバルト・ブルーやセルリアン・ブルー(No.4「プラダを着た悪魔」でアンディが着ていたセーターの色)などに押されて使われなくなりました。しかしプルシアン・ブルーは顔料とは別の用途で発展します。


プルシアンブルーには色のほかにもユニークな性質が2つあり、幅広い分野で機能性材料として利用されている。

1つは鉄イオンの酸化・還元によって色が変わることだ。この性質を利用した有名な例が、図面などによく使われる青写真だ。また電気で色が変わるエレクトロクロミック材料として、電子カーテン電子ペーパーにも応用されている。(中略)

もう1つは、ジャングルジム状の結晶構造の中に様々な陽イオンや分子を出し入れできることだ。放射性セシウムの吸着剤になるほか、リチウムイオン電池やカリウムイオン電池の正極材料としても期待されており、開発が進んでいる。

(同上)

プルシアン・ブルーが放射性セシウムの吸着剤やカリウムイオン電池の正極材料になることは、No.18「ブルーの世界」の「補記」に書きました。電子カーテンは透明から不透明に多段階に変化する "ガラス" で、ボーイング 787 の窓がそうです。787に乗ると窓の下にボタンが二つあって窓の透明度を変えられます。787 の窓の材料は非公開なのでプルシアン・ブルーが使われているかどうかは分かりませんが、こういう使い方も可能な機能性材料がプルシアン・ブルーです。プルシアン・ブルーが強い青を発色して顔料になるのは、あくまで一つの機能に過ぎないのです。



18世紀初頭のベルリンで、顔料・染料業者と錬金術師が全くの偶然で合成したプルシアン・ブルーを、フランス画壇の著名画家たちが使い、若冲や北斎も使い、浮世絵に革新を起こし、さらには東日本大震災からの復興に陰で役立ち(放射性セシウムの吸着剤)、今後は次世代電池に使うべく研究されている・・・・・・。

プルシアン・ブルーは今で言う "化学" で作り出されたものですが、その化学が作り出した "機能性材料の奥深さ" がよく理解できた記事でした。




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