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No.209 - リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 [音楽]

今までにフランツ・リストの曲を2つとりあげました。

No.  8 - リスト:ノルマの回想
No.44 - リスト:ユグノー教徒の回想

の2つですが、そもそもローマのレストランのテレビでやっていた「素人隠し芸大会」で、オペラ「ノルマ」の有名なアリア「清き女神よ」を偶然に聞いたことが発端でした(No.7「ローマのレストランでの驚き」参照)。

この2つはいわゆる "パラフレーズ" 作品です。つまりそれぞれ、ベッリーニのオペラ「ノルマ」とマイヤベーアのオペラ「ユグノー教徒」のなかの数個のアリアの旋律をもとに、それを変奏したり発展させたりして自由に構成した作品です。まさにオペラを観劇したあとに、それを回想しているという風情の作品です。

今回は方向性を全く変えて、同じリストの作品ですが「ピアノ・ソナタ ロ短調」を取り上げます。なぜこの曲かというと、恩田陸さんの小説『蜜蜂と遠雷』に出てきたからです。この小説は直木賞(2016年下半期)と本屋大賞(2017年)をダブル受賞したことで大きな話題になりました。

蜜蜂と遠雷.jpg
(幻冬舎 2016)


蜜蜂と遠雷


『蜜蜂と遠雷』は、日本での国際ピアノコンクールに参加した4人のコンテスタント(16歳、19歳、20歳、28歳の4人)を中心に、彼らをとりまく友人、師匠、審査員なども含めた群像劇です。これらコンテスタントのなかで、マサル(=マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。19歳)の演奏曲目に、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」がありました。"マサル" とは日本の男性名にちなんだ名前ですが、これは父親がフランス人で母親が日系3世のペルー人だからです。マサルはジュリアード音楽院に在学中で、"ジュリアードの秘蔵っ子" という設定です。

以降『蜜蜂と遠雷』から、マサルが演奏するピアノ・ソナタ ロ短調の描写を紹介したいと思います。以降、大部分が恩田陸さんの文章の引用になってしまいそうですが、それはやむを得ません。


第3次予選


国際ピアノコンクールは第1次予選(90人)、第2次予選(24人)、第3次予選(12人)、本選(6人)と進みます。本選はオーケストラと競演するコンチェルトですが、それ以前はピアノ独奏です。

マサルは第3次予選へと進みました。第3次予選の規約は「60分を限度とし、各自が自由にリサイタルを構成する」です。マサルが選んだ曲は次の通りです。

バルトーク「ピアノ・ソナタ Sz.80」
シベリウス「五つのロマンティックな小品」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178」
ショパン「ワルツ 第14番 ホ短調」

もちろんこの構成における "メインディッシュ" はリストです。以下の引用では漢数字を算用数字に変えました。


フランツ・リスト作曲、ピアノ・ソナタ ロ短調。

1852年から53年にかけて作曲され、初演は1857年。

リストは既にピアニストを引退していたため、彼の弟子のハンス・フォン = ビューローが演奏した。

傑作の誉れ高いこの曲は、ソナタ形式としてはかなり異色である。ソナタと名付けたせいで、発表当時、これがソナタなのかという大論争になった。あまりにも斬新な構造だったので、激しい非難にさらされたことでも有名である。

最も特徴的なのは、通常のソナタではきっちり楽章ごとに分かれて主題部と展開部が奏されるのであるが、この曲は楽章が分かれておらず、全体でひとつづきの一楽章になっているところであろう。

30分近い大曲であり、難曲揃いのリストの曲の中でも、さまざまな技量が要求される最高級の難曲である。

その複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきたが、マサルはこの曲を聴くたびに、周到に伏線の張られた、巧みな構成の長編小説のようだと思う。

そう、これは音符で描かれた壮大な物語なのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』
第3次予選 - ロ短調ソナタ
(幻冬舎 2016)

ロ短調ソナタ.jpg
フランツ・リスト
ピアノ・ソナタ ロ短調
1854年の初版楽譜(ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社)。シューマンに献呈する旨が書かれている。IMSLP(International Music Score Library Project)のサイトより。

「あまりにも斬新な構造」で「複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきた」とありますが、たとえば Wikipedia にはその研究成果が解説されています。この曲は「単一楽章のソナタ形式」と「多楽章(4つ、ないしは3つ)のソナタ」が重ね合わされた「2重形式」です。さらに主題も複数個で構成された「主題群」であり、それらが曲全体に渡って入り組みながら変奏され、"変容して" いきます。新しい主題が現れたと思ったらそれは前の主題の変奏であったり、主題が再現したと思ったらそれは主題の展開だったり、という感じです。そのせいか "複雑に" 聞こえる曲です。

  余談ですが、「単一楽章と多楽章の2重形式」ですぐに思いだされるのが、ツェムリンスキーの「弦楽4重奏曲 第2番」(1914-1915 作曲)です。2重形式が分かりやすく実現されていて、しかも大変な名曲です。ひょっとしたらリストに(リストにも)影響されたのかもしれません。なお、ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」に書きました。

一方、ロ短調ソナタを「標題音楽」と見なす意見も昔からあり、特にゲーテの『ファウスト』と結びつける解釈はリストの弟子の時代からあったそうです。だたしリスト自身は「標題」にふれるような言葉を一切残していません。

そして『蜜蜂と遠雷』に「これは音符で描かれた壮大な物語なのだ」とあるように、マサルの解釈も「標題音楽」なのです。


「ピアノ・ソナタ ロ短調」から感じる物語


マサルは子供の頃からこの曲を何回か聴いてきたし、レッスンでさらったこともありましたが、コンクールを前にもう一度譜面を丹念に読み込むことから始めます。マサルが譜面を見ながら感じた「周到に伏線の張られた巧みな構成の壮大な物語」とは、次のようなものです。


曲は ─── 物語は、さりげなく、謎めいた場面から始まる。

マサルは思い浮かべる。

一人の男が静かに歩いてくる。そっと草を踏み、暗く燃えるような目をして、冬枯れの一本道を。身なりは悪くなく、彼が卑しからぬ階級に属する人間であり、知的職業に就いていることを窺わせる。

辺りも静かだ。

寒々とした風景。空はどんよりとした厚い雲に覆われ、空気も冷たく、鳥たちの声も聞こえない。

足の下でぱきんと枯れた枝が折れる乾いた音。

ふと、男は足元に朽ち掛けた墓石が草と土に埋もれていることに気付く。年代らしきものが見えるが、文字も崩れかけ、人の世の虚しさ、はかなさだけが伝わってくる。

青年は、無表情にその墓石を踏み越えていく。

視線の先に見えるのは、小高い丘に広がる集落。

教会の尖塔や、古い城壁などが見え、由緒ある豊かな集落であることが分かる。

青年は無言だ。しかし、その目は不穏であり、ある一点をずっと見つめている ───

そう、これは何世代もの因果がからみあう悲劇。さまざまな人々の思惑が思わぬところで交錯する。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

「ピアノ・ソナタ ロ短調」の導入部は Lento assai と指示された「主題 A」(譜例76)で始まります。ゆっくりとして静かで、かつ不穏な雰囲気が漂っています。
譜例76 リスト:ピアノソナタ A.jpg
主題 A
「ピアノ・ソナタ ロ短調」の冒頭、第1小節から。曲はLento assai で始まる。なお「主題 A」は便宜的につけたもので、以下同じ。


不穏な導入部の次は、主題部分だ。この土地の中心に君臨する一族の、主要メンバーが登場する。

暴君の父、その後釜を狙う弟たち、息子たち。一族の禍々まがまがしくも華麗な歴史と因縁が語られる。常に陰謀は現在進行形であり、すでにいさかいの種はかれている。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここで導入部に続く「主題部分」とされているのは Allegro energico の「主題 B」(譜例77)と、それに続く「主題 C」(譜例78)でしょう。これが「一族のテーマ」です。冒頭の主題 A と、主題 B、主題 C の3つは、このソナタの「第1主題群」を形成していて、以降、さまざまに変奏されていくことになります。
譜例77 リスト:ピアノソナタ B.jpg
主題 B
主題 A に続く第8小節から。Allegro energico(エネルギッシュに)の部分。最も印象に残る主題で、さまざまに変奏されていく。

譜例78 リスト:ピアノソナタ C.jpg
主題 C
主題 B に続けて第13小節から演奏される。marcato(1音1音はっきりと)の指示がある。主題 B と C で一つの主題とも考えられる。


現在の状況がひとしきり語られたあとで、もうひとつの主題が現れる。

もうひとりの主人公、清新なヒロインの登場である。

一族のひとりであるが、早くに父母を亡くし、後ろ盾がないために全く誰にも相手されない。厳格だが愛情に満ちた祖母に育てられ、集落の外れでひっそりと質素に暮らしている。

美しく聡明なヒロイン。その目を見れば、彼女の中に真の勇気がはぐくまれていることを誰もが感じずにはいられない。

彼女のテーマは、その性格にふさわしく、温かく愛情に満ちた、感動的なメロディである。力強く雄大でもあり、彼女の存在が祝福されたものであることをはっきりと表しているのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここでヒロインのテーマとされているのは、第2主題群の「主題 D」(譜例79)でしょう。さらに「主題 E」(譜例80)もヒロインのテーマの一部だと思われます。2つの主題を合わせると「美しく聡明」で「愛情に満ち感動的」で「力強く雄大」などの言葉がピッタリです。主題 E は主題 C(一族のテーマ)の変奏です。ヒロインも一族の末裔なのです。
譜例79 リスト:ピアノソナタ D.jpg
主題 D
第105小節からの新しい主題。Grandiosoと書かれている部分。「愛情・感動的・雄大」という言葉の印象がピッタリする。

譜例80 リスト:ピアノソナタ E.jpg
主題 E(= 主題 C の変奏)
第153小節からの cantando espressivo(歌うように、感情をこめて)。主題 C の変奏であるが、新しい主題のように聞こえる。


物語が動き出すのは、ある日、牧師館にいつもの手伝いに行った帰りに、ヒロインが気になる男に出会うところからだ。

集落の外れに佇み、じっと何かを見ている男。

その脇には、役人らしき男が付き添い、何かくどくどと説明している。

男を見つめるヒロイン。

初めて見るよそ者なのだが、なぜか心がざわめく。ずっと昔から知っているような気がする ───

やがて、偶然は何度も彼女と男を引き合わせる。牧場でケガした子供を介抱したことから言葉を交わすようになる二人。

男は弁護士で、依頼人の命に従い、訴訟の準備でこの土地にやってきたという。互いに心を惹かれるようになるが、ヒロインは男が時折ぞっとするような目をすることが気に掛かる。

男の存在は、少しずつ集落の中で評判になり、ひそひそと陰で噂が囁かれる。

どうのあいつは、あの一族を訴えるために誰かに雇われているらいし、と。

そのことは一族の主の耳にも遠からず入るところになる。

一族のテーマが流れる部分は、常に緊張感をはらんでいていドラマティックだ。

じわじわと一族を追いつめていく謎の男。彼の周りでは、一族の暗い部分を担ってきた者たちが不慮の事故や他愛のない喧嘩で次々と命を落としていく。

めまぐるしく場面は変わり、一族の男たちをパニックにひきずりこむ。

何が起きているのか? これは一族に対する復讐ふしゅうなのか? あの男はそれに関係しているのか? あの男を陰で操っているのは何者なのか?

彼らは互いに疑心暗鬼に陥っていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』では、ここでいったん、この物語を思い浮かべているマサルの心情が描写されます。


マサルは、さまざまな場面が目の前を通り過ぎていくのを生々しく感じる。

本当に、台詞が聴こえてくるような気さえするのだ。

ディナーでゆらめくロウソクの炎や、勝手口で情報屋に渡される銀貨の鈍い光、馬車のわだちに溜まった雨まで見えるようだ。

この物語には、華麗な登場人物がフル出演だ。気の強い美女や、深謀遠慮にけた叔母など、個性あふれるメンバーには事欠かない。

細やかな情景描写と心理描写も巧みだ。次々とドラマティックな場面が現れ、悲劇のクライマックスを目指して物語は進んでいく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語はクライマックスへと突き進んでいきます。このクライマックスで、「一族」「謎の男」「ヒロイン」の秘密が明かされます。


運命は変えられない。ひたひたと時の歯車は回り、登場人物を引き合わせ、その場所へと運んでいく。

ヒロインは、この物語の中心に、思わぬ形で巻き込まれていく。これまで一族から完全に無視されてきたのに、年頃になり誰の目にも彼女がとても美しいことが明らかになるにつれ、一族の若い男たちが秋波を送ってくるようになったのだ。当惑するヒロイン。

あの謎の男に心を惹かれていたヒロインは、誰の申込にもイエスと言うことができない。

男の方でも、ヒロインには心を許すところをしばしば見せていたが、ある日彼女が一族の末裔の一人であることを知り、逆上する。その理由を追求するヒロイン。

そして男は、ついに自分の目的が一族への復讐、一族を滅ぼすことであると告白するのである ───

物語のクライマックス。

ついに一族は、男がかつて一族の罪状を告発しようとしたため皆で殺した末の息子の子供であるこををつきとめる。当時、生まれたばかりの子供を連れて逃げようとした男の妻も、追いつめて町外れで惨殺した。しかし、彼女が連れて逃げていたはずの生まれたばかりの子供はどこにも見当たらなかった。寒い冬の夜だったし、乳児が育つ可能性は限りなく低い。きっとどこかで死んだと思っていたのに ───

一族は、男に刺客を放つ。

しかし、それぞれが疑心暗鬼に陥っていた一族のものたちは、この機会にとばかりに互いに殺し合いを始めるのである。

男も抵抗し、一族の血塗られた罪が次々と明らかになる。
そこここで血が流され、死体が転がる。

復讐に燃え、自暴自棄になった男は、ヒロインにも手を掛けようとする。

複雑な思いで男を見つめるヒロイン。

そこに悲鳴が上がる。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』の読者は「一族の物語」をこのあたりまで読むと、最後がどういう展開になるか、だいたい予測できます。重大な秘密が明かされ、悲劇で終わる。そういう結末です。


身体を壊してずっと寝込んでいた祖母が、壁に手をついて立ち上がり、二人の姿を見つめている。

祖母は、ひとつの名前を呼ぶ。

愕然とする男。

かつて、息子の腹違いの弟とその嫁が殺されたことを祖母は知っていた。血の繋がりはなかったが、二人とはなぜか通い合うものがあったのだ。

彼女は慄然りつぜんとし、激怒した。だが、その事実を知っていることを話せば、彼女も殺されるだろう。それでも、二人を不憫ふびんに思い、嫁が生んだ子供は彼女がこっそり隠していた。彼女が生んだのは男女の双子だった。将来また相続争いの新たな火種になりそうな男児は遠く里子に出し、女児だけを自分の手元に残した。早世した息子の子供は女の子だったが、彼女もまた身体が弱く亡くなった。それを隠して、その子を自分の孫だということにしたのだ ───

二人はきょうだいだったのだ。

改めて驚愕とショックを込めて、互いの姿を見る二人。それでは、初めて見た時から心惹かれた理由は ───

男は再び絶望にうめき声を上げ、飛び出していく。

そこへ、闇に潜んでいた一族の若い男がやってきて男を刺す。彼は、ヒロインをこの男に取られたと思い、嫉妬の念から彼を付け狙っていたのだ。

闇を切り裂き、ヒロインの悲鳴が吸い込まれていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語は実質的にここで終わりですが、再び冒頭のシーンに戻って「伏線の意味」が明かされ、エンディングを迎えます。


ラストシーンは最初と同じ場所だ。

喪服に身を包んだヒロインがじっと町外れのくさむらに佇んでいる。

兄を初めて見かけた場所。

彼女は町を去ることに決めた。遠い牧師館で手伝いをすることになったのだ。

ふと、彼女は足元の草に埋もれかけた粗末な墓石に気付く。

何気なく土をけ、崩れかけた名前をみた彼女は驚いた。それは、彼女のほんとうの母親の名前だった。ここが母親の殺された場所であり、それを気の毒に思った祖母が内緒で小さな墓石を建てた場所だったのだ。

ヒロインは、やりきれない気持ちで空を見上げる。

冒頭の場面と異なるのは、雲が少しだけ明るく、遠くにわずかながら青空が覗いていること。

ヒロインは、じっとその墓石を見つめたあと、踵を返して静かにその場所を去っていく。

二度と振りかえることなく、ゆっくりとその後ろ姿が遠ざかっていく ───

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

マサルの想像した物語はここまでです。冒頭のさりげない、しかし "意味ありげな" シーンが、最後の最後で重要な意味を持つ。これは極めてよくある話のパターンです。マサルは譜面を閉じます。


かくて長い物語は一巻の終わりとなる。

ぱたんと譜面を閉じる。

いささかベタな話だけど、19世紀のグランドロマンの時代だから、これくらいベタでも許されるよな。

それに、実際、マサルにはこの曲からそういう物語が「聴こえて」きたのである。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』


大きな屋敷を隅々まで掃除する


以上の「一族の物語」は、ピアニストが ロ短調ソナタ から感じた物語という設定ですが、それは同時に音楽の聴き手が感じた物語であってもよいものです。しかし『蜜蜂と遠雷』で次に展開される文章は、あくまでピアニストの視点、曲を練習して仕上げるという立場から ロ短調ソナタ を見たものです。

譜面を閉じたマサルはピアノの前に向かい、この曲の仕上げにかかります(以下の引用で下線は原文にはありません)。


曲を仕上げていく作業は、なんとなく家の掃除に似ている。

練習していると、いつもマサルはそう思う。

綺麗な部屋を眺め、住むところを想像している分にはいいけれど、実際に暮らしてみると、話は異なる。

家を維持する掃除は、絶え間ない肉体労働だ。演奏もしかり。

常に家全体を綺麗にしておくのは難しい。

小さな家なら掃除も楽だし、そんなに時間も掛からない。短時間で綺麗になるし、ちょっとさらうだけでいつでも綺麗にしておける。

しかし、大きなお屋敷は掃除も大変だ。ずっと美しいままに保つには、細心の注意が必要になる。

ロ短調ソナタは、とんでもなく大きな屋敷だ。構造は入り組んでいて、凝った意匠もてんこもり。これまでに数多くの人間が出入りし、ピカピカにしてきたお屋敷だ。

こんな大きな家、一人で掃除しろっていうの?

門を開けるのでさえ、重たくて一苦労。車寄せまで行くにも、落ち葉を掃いていかなければならないし、元の姿がどういうものだったのか、綺麗になった時はどんなふうなのかを常に考えていなければならない。

古い壁紙や、真鍮しんちゅうの手すりなど、どうやって掃除したらいいのか分からない部分も多い。

まずは、掃除に掛かる手間や材料、掃除の方法を考え、準備をしてから掃除に掛かる。

自信はあった。マサルには最新式の掃除道具があるし、スタミナもある。

しかし掃除を始めてみると、予想以上に大変なことが分かってくる。

とてもじゃないが、ベランダの隅まで掃除が行き届かない。あまりに広くて、すぐにふうふう息切れしてしまう。

そこもあそこも掃除し残しているし、窓ガラスも拭ききれない。天井のすすを払う余裕もない。最初のうちは、長い廊下をモップ掛けするだけで精一杯。

一箇所を重点的に掃除していると、しばらくお留守になっていたところに、いつのまにかまたほこりが積もっている。

想像以上にタフな曲だった。

マサルはもう一度屋敷の外に出て、考える。

ただ闇雲に掃除するだけではとうてい綺麗にならないことが分かってくる。

持てる力のすべて、技術のすべてを駆使する総力戦になるのを覚悟する。

効率のよい方法をいろいろ試してみるものの、結局最後は、愚直に一部屋ずつ丁寧に磨いていくしかないという結論に達した。

それでも、辛抱強く磨いていくと、毎日さまざまな発見がある。

誰もが見向きもしなかった場所に、素敵な意匠があったりするし、これまで誰も掃除をしなかったクローゼットの引き出しが見つかったりする。誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

毎日繰り返し練習していると、玄関ホールにワックスをかけるタイミングも、掃除の途中で一休みするタイミングも分かってくる。

少しずつ、屋敷は綺麗になっていく。すべての部屋が、廊下が繋がり、整然とした建築当時の姿が現れてくる。

大広間に向かう階段の両端は、埃がたまりやすいからまめにモップを。

時には、すべての窓を開け放して、屋敷に風を通す。

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所も分かってくる。お客様が何かの拍子に見かけたら、「ほう、こんなところまで目配りがきいているんだ」と感心してくれる場所も把握している。

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せてくれることにも気付いた。

やがてその日はやってくる。

意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を表す日。

周囲の景色の四季の変化や、季節ごとに必要な対応も理解している。

この屋敷は自分のもの。自分の一部。庭の草木のいっぽんいっぽんまで覚えているし、目を閉じれば今どんな風に揺れているのかも鮮明に浮かぶ。

そんな日がやってくるのだ。

この曲のすべてを知っていると思う瞬間

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

このあと『蜜蜂と遠雷』は、マサルがピアノコンクールの第3次予選でロ短調ソナタを弾いているシーンと重なってきて、そして曲のエンディングを迎えます。コンクール会場の聴衆は圧倒的な拍手を送ります。


「一族の物語」と「大きな屋敷の掃除」


「一族の物語」は確かに "ベタな" ストーリーです。というか、"ベタ過ぎる" 物語です(2人は兄と妹だった!!)。しかしこれはロ短調ソナタが "ベタ" というわけではありません。この物語は曲の展開をそのままなぞっているのではなく、ロ短調ソナタという曲から受ける "印象" と、物語から感じる "印象"、その印象の総体が類似するように書かれたストーリーなのです。

このストーリーの要点をいくつかのキーワードで表すと、

  不穏、謎、秘密、陰謀、醜さ、禍々まがまがしさ、嫉妬、虚しさ、復讐、因果応報、伏線、因縁、あらがえない運命、過去と現在の交錯、驚きの真実、急展開、愛情、勇気、清新さ、かすかな希望、未来への一歩

などでしょう。これらの多様な要素が絡み合って物語を構成しています。これは「複数の主題が変容を重ねて複雑な構造を作り上げている」ロ短調ソナタを言語化したものと言えるでしょう。

もう一つ、キーワードを付け加えるなら、ある種の "おどろおどろしさ" です。「異様な雰囲気が漂う、大げさな感じ」と言ったらいいのでしょうか。これはロ短調ソナタに限らずリストの特定の曲がもつ一面であり、聴き手がリストに "のめり込む" 大きな魅力となっています。そもそも『超絶技巧練習曲』などというネーミングが "おどろおどろしい" わけです。何となく "聴いてはいけない曲" といった感じがある。

恩田さんは「一族の物語」を "グランドロマン" と書いていますが、ゴシック・ロマンにも近いものです。もし一族が、かつて殺害した男とその妻の亡霊に悩まされていたとか、全く不可解な事故で一族の何人もが死に、男たちは次は自分の番かと怯えていた、というような(これまた "ベタ" な)ゴシック的要素を付け加えると、もっと "おどろおどろしく" なります。

「一族の物語」はロ短調ソナタの "標題音楽的な解釈" とみることができます。リストは他の多くの作品で標題を示したり、譜面に書いたりしていますが、標題音楽というのは「物語音楽」(オペラ、バレエの音楽など)ではないし「描写音楽」でもありません。あくまで「標題」であって、タイトルと本文の間に位置する "前置き" です。小説家は本の扉に過去の文芸作品から引用した題辞(= モットー)を書くことがありますが、そのようなものだと解釈すべきでしょう。「一族の物語」は、いささか長い "題辞" だけれど。

付け加えると「一族の物語」に登場する人物は、謎の男とヒロイン、祖母を含めて、すべて一族の人間です。ロ短調ソナタは少数の主題を変化させ、変容を繰り返すことで成り立っています。そのあたりを汲み取った物語になっています。



その次の「大きな屋敷の掃除」の文章ですが、ピアニストがロ短調ソナタを練習し「この曲のすべてを知っていると思う瞬間」にまで至る、その過程を "大きな屋敷を隅々まで掃除する" ことに例えたのは大変に印象的です。かなりのハードワークでありながら、そこにいろいろな発見があり、そして喜びがある。特に下線をつけたところ、

誰もが見向きもしなかった場所に素敵な意匠がある

誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せる

などの表現は、ロ短調ソナタの魅力をよく伝えていると思いました。


音楽を言語化する試み


恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』がどういう小説かと言うと、大きなポイントは「音楽を言語化する試み」です。上に引用したのはリストのロ短調ソナタですが、コンクールを予選から本選まで描いているので、それ以外にも様々な曲が出てきます。音楽だけでなく自然界にある「音」も言語化の試みがされています。「音楽の言語化」は大変に難しいものです。得てしてありきたりの表現になってしまう。『蜜蜂と遠雷』はその難しいことに果敢に挑戦して成功した、稀有な小説だと思います。

その中でも特にリストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」です。この曲を「一族の物語」と「大きな屋敷を掃除する」という視点でとらえたのには感心しました。小説家でしかなしえない音楽の言語化。そういう風に思いました。

このロ短調ソナタの "言語化" を読んで考えさせられたのは、音楽にとっての「複雑性」です。ロ短調ソナタは複雑だと言われていて、実際、聴いていてもそうなのですが、よくよく考えてみるとこの程度の複雑性は、小説や戯曲(演劇)、映画などではあたりまえなのです。「一族の物語」を "ベタな" 話と感じるように、この程度のストーリー展開は "あたりまえ過ぎる"。また、大きな屋敷を隅々まで掃除することを考えてみても、「もう投げ出したい」から「何と美しい光だ」まで、その時の人の感情は多様だし、掃除の過程での人の感情をたどって文章化したとしたら極めて "複雑" になるでしょう。

No.136-137「グスタフ・マーラーの音楽」で書いたことを思い出しました。マーラーのシンフォニーでは、全く異質なメロディを同時進行させたり、突如として無関係な旋律が "乱入して" きたりするのですが、「異質なものの同居、ないしは交錯」は、文学とか舞台とか映画では常套手段なのですね。マーラーのシンフォニーとロ短調ソナタでは音楽の質が全く違いますが、最初は "複雑に聴こえる" ことでは似ています。

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』における "音楽の文章化" を読んで、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」は20世紀芸術を予見した曲だと、改めてそう感じました。音楽を文章化することでクリアに見えてくるものがある。『蜜蜂と遠雷』の狙いはそこだったのでしょう。




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