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No.198 - 侵略軍を撃退した日本史 [歴史]

No.37「富士山型の愛国心」の中で元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)についてふれたのですが、今回はその継続というか、補足です。

最近の新聞に、元寇について近年唱えられた説の紹介がありました。日本の勝因は「神風」ではなかったという説です。それを紹介したいと思います。


日本の勝因は「神風」ではなかった


くまもと文学・歴史館の館長・服部英雄氏(日本中世史)は著書の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)で「神風=暴風雨」説を否定し、学界の内外にセンセーションを巻き起こしました。


(神風が勝因という)見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。

元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。

では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。

続く弘安の役では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみる。

編集委員・宮代栄一
朝日新聞(2017.1.8)

服部館長によると、「鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかった」らしい。「主張したのは敵国調伏の祈祷きとうをした社寺。武士はむしろ自らの戦績を誇った」

しかし、そのはるか後世、「神風」の記憶だけが歪曲わいきょくされ、西欧列強の脅威に直面した明治期と、「神州不滅」が叫ばれた第2次世界大戦中の2度にわたり、「元寇」は日本人の国民意識の形成に大きな役割を果たすことになる。

(同上)

AS20170106003383_comm.jpg
朝日新聞(2017年1月8日)
(www.asahi.com より)

ちなみに「モンゴル軍」と書いてあるところは「モンゴル・高麗連合軍」の方がより正確でしょう。記事の内容をまとめると次の通りになります。

文永の役で嵐があったという史料はない。嵐があったとしてもモンゴルの軍船に被害が出たという史料はない。

弘安の役では嵐があったが、嵐によるモンゴルの被害は一部にとどまる。

鎌倉武士は勝因を神風とは考えていなかった。武士は自らの戦績を誇った。

「神風」の主張したのは敵国調伏の祈祷をした神社・仏閣である。

明治期と第2次世界大戦中の2度にわたり「神風」が勝因だと叫ばれた。

① ② は歴史資料から見えてきた事実であり、③ の「鎌倉武士は戦果を誇った」というのは当然です。また ④ の「敵国調伏の祈祷の成果だと誇った」のも、神社・仏閣の立場としては当然でしょう。

しかし異常なのは明治から昭和にかけての「神風勝因説」( ⑤ )です。これは国家とマスコミが宣伝したわけですが、侵略軍を撃退した自国の歴史を否定し、暴風雨によって敵が去ったと主張することは、長い歴史を有し独立性を維持してきた国家としては異常だと思います。


無敵艦隊を撃退したアルマダの海戦


視野を広げて考えてみるために、外国の例をあげてみたいと思います。「侵略軍の撃退と暴風雨」というテーマでひとつ思いつくのは、16世紀に英国とスペインが戦った「アルマダの海戦(アルマダ戦争)」です。

1588年、スペインのフェリペ2世は無敵艦隊(アルマダ)をイギリスに向かわせました。時の英国国王はエリザベス1世です。フェリペ2世が無敵艦隊を出撃させた経緯は少々複雑なので省略します。とにかく、フェリペ2世はイギリスを "やっつける" ために無敵艦隊(約130隻)を差し向け、イギリス上陸をめざした(艦隊に軍馬を積んでいます)。対するエリザベス1世も海上で迎え撃つために艦隊を繰り出します。イギリス艦隊の副指令官は、元海賊だったフランシス・ドレークで、これは有名な話です。

決戦は英仏海峡付近の数回の海戦(=アルマダの海戦)でした。近年の歴史家の研究では、戦いはほぼ互角です。もちろんスペインは苦戦したし、イギリス側が有利に終わったとする見解もあります。しかし決定的な差がついたわけではない。スペインの誤算は、短期決戦で決定的に勝利できなかったことです。スペインにとっては完全に "アウェイ" の戦いなので、戦争が長引けば補給などの関係で不利になります。スペインはいったん自国に引き上げることにしました。

Invincible_Armada.jpg
無敵艦隊とイギリス艦隊
16世紀の作者不詳の絵(Wikipediaより)

無敵艦隊は、英仏海峡からスコットランドの北をグルッと迂回して北海から大西洋に出るルートでスペインに帰ろうとしました。ところがアイルランド沖で暴風雨に遭遇し、多くの船を失ってしまいます。スペインに帰港できたのは約半数と言います。



この戦争を、その後のイギリスではどのように自国民に宣伝したのでしょうか。当然、

  イギリスの軍人と兵士は勇敢に戦い、世界最強と言われたスペインの無敵艦隊を撃破した。その上、神の加護(嵐)もイギリス側にあった。

です。神の加護を言うにしても、まず最初に自国を侵略から守ったイギリス国民の勇気と働きを称え、その次に(補足として)神の加護です。神の加護に全くふれない(無視する)のもいいでしょう。それが普通の、正常な国家のあり方です。事実、エリザベス1世はイギリスの勝利を大々的に宣伝したし、その後のイギリスの歴史でも「無敵艦隊の撃破」が語り継がれました。

Elizabeth_I_(Armada_Portrait).jpg
エリザベス1世の肖像画。いわゆる「アルマダの肖像」で、背後にわざわざ無敵艦隊が描かれている。無敵艦隊を破ったあとの1588年の絵で、右手を地球儀の上に置いているという念の入れようである。Wikipediaより。


侵略軍を撃退した事実を否定する史観


蒙古襲来絵詞.jpg
蒙古襲来絵詞 [部分](宮内庁・三の丸尚蔵館)。肥後の御家人・竹崎季長(すえなが)が、自分の戦いぶりを描かせたものと言われる。図は、モンゴル・高麗連合軍の船に乗り込む季長たち(至文堂 日本の美術 第414号 2000 より引用)

日本史に話を戻します。文永・弘安の役ですが、史料によると「暴風雨はなかったか、あったとしてもモンゴル軍の被害は軽微」だったようです。もちろん、史料に残っていない(ないしはまだ確認されていない史料に記載されている)暴風雨があったのかも知れません。モンゴル軍の被害も、史料にないだけで大きかったのかも知れない。しかし百歩譲って、たとえ暴風雨が主たる勝因だったとしても、

  日本全国から集まった武士は勇敢に戦い、侵略してくるモンゴル軍を撃退した。さらに神風の追い打ちもあって、モンゴル軍は退散した

と説明するのが正常な国家というものでしょう。もちろん暴風雨には一切ふれずに、

  日本全国から集まった武士は勇敢に戦い、侵略してくるモンゴル軍を撃退した

とするのもいいと思います。

侵略軍を迎え撃つ防衛戦を戦うためには、綿密な準備と作戦が必要です。海岸線の防衛設備、武器、機材、戦闘員の手配とその配置など、リアルな計画がいる。朝鮮半島に軍を出兵するのとはわけが違って、負けたら国が終わりです。一方、「神風」は空想の世界です。「勝因は神風」と喧伝するということは、「戦争をリアルには戦うな、空想の世界で戦争をやれ」と言っているに等しい。これでは絶対に戦争に勝てません。

また、文永・弘安の役は日本史において一方的に迫ってきた外国侵略軍を撃退した貴重な歴史です。勝因を「神風」だと言うことは、勇敢に戦った武士たちを愚弄するものだし、死んでいった武士たちや虐殺された対馬の住民の魂に唾をかけるようなものです。武士だけでなく、日本人そのものをおとしめています。さらに、勝因は神風などと言っている限り、"自らの手で国を守る気概" など生まれようがないと思います。

自虐史観というのはイヤな言葉で、あまり使いたくはないのですが、自虐史観と呼ぶに値する唯一のものは「文永・弘安の役の勝因は暴風雨」説だと思います。




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