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No.170 - 赤ちゃんはRとLを聞き分ける [科学]

前回の No.169「10代の脳」では、日経サイエンス 2016年3月号の解説に従って、10代の脳が持つ特別な性質や働きを紹介しましたが、同じ号に "赤ちゃんの脳" の話が載っていました。『赤ちゃんの超言語力』と題した、ワシントン大学のパトリシア・クール教授の解説記事です。題名のように赤ちゃんが言葉を習得する能力についての話ですが、前回と同じく、脳の発達の話として大変興味深かったので紹介したいと思います。


赤ちゃんの言語習得


「あー、うー」としか言わなかった幼児が言葉を習得し、「まんま」とか言い出す。そして文らしきものをしゃべり出す・・・・・・。この過程は、よくよく考えてみると驚くべきことです。誰かが系統的に言葉を教え込んだのではないにもかかわらず、大人とのコミュニケーションが次第に可能になっていく。2歳とか3歳の幼児がいる親は、今まさにその現場に立ち会っているわけです。子育てに忙殺されて驚くどころではないと思いますが、第三者の目で客観的に眺めてみると、言葉の習得というのは驚くべき脳の発達です。

では、その赤ちゃんの言語能力はどういう風に発達するのか。日経サイエンスの記事『赤ちゃんの超言語力』には、まず次のように書いてあります。


誕生時の赤ちゃんは、世界の言語に800種類ほどある「音素」をすべて認識する能力がある。

パトリシア・クール教授
(ワシントン大学)
『赤ちゃんの超言語力』
(日経サイエンス 2016年3月号)

日経サイエンス 2016年3月号.jpg
日経サイエンス
2016年3月号
クール教授がここでまず言っているのは、赤ちゃんはどの言語でも習得できる潜在能力があるということです。記事によると世界には約7000の言語があるそうですが(数え方によるでしょうが)、赤ちゃんは生まれながらにしてどの言語でも習得できる。これは納得できます。

引用に出てくる「音素」という言葉ですが、これはおおざっぱには「子音」や「母音」のことです。ただし「音素」という場合、音声学的な(物理的な)音の分類ではありません。その言語の話者にとって「同じ音」だと認識されるものは同じ音素であり「違う音だ」と認識されるものは違う音素です。たとえば日本語の「シ」の発音の子音ですが、日本語話者からみて似たような英語の子音として、she, silk, think の最初の音があります。英語話者にとってこの3つの子音は違う音素です。これを日本語話者が日本語風に「シー」「シルク」「シンク」と発音したとしたら(また聞いたとしたら)、それは同じ音素と認識したことになります。音素は音声の問題ではなく、脳がどういう風に認識するかの問題です。その音素の違いが言葉の意味の違いにつながります。

この視点からみると、世界中の言語には、合計約800の音素がある。上の引用はそう言っています。


母国語を話せるようになるには、全部で800ある音素のうち母国語が用いる約40種類を識別する必要がある。そのためには微妙な発音の違いを聞き取らなくてはならない。

パトリシア・クール
『赤ちゃんの超言語力』

音素の数は言語によって違います。英語の音素は45程度で、日本語は25程度です。クール教授が「約40種類の音素」と書いているのは、英語を念頭に置いているか、もしくはどんな言語でも40程度の音素を識別できれば十分という意味かと思います。

音の微妙な違いの判別が必要、というのはまさにそうです。日本語の「あ・い・う・え・お」の母音は違う母音(=音素)です。しかし実際の会話では、これらは必ずしも明瞭に言い分けられているのではありません。「あ」「え」「お」などは、純粋な音としてはその区別がずいぶん曖昧に発音されることがある。それでも区別できるのは、大人からすると当然です。「えるく」「おるく」に近い音を発音しても、会話の中では「あるく・歩く」に聞こえる。日本語にはその単語しかないからです。また「あり・蟻」を「えり・襟」「おり・檻」に近く発音しても、全く違うものを指しているので文脈から判断できます。その他、アクセントとかイントネーションとか、区別の手段はいろいろあります。

しかし幼児はそもそも単語や文を知りません。どうやって音素を区別するのでしょうか。また単語はどうやって認識するのでしょうか。さらに、その能力はいつ頃から生まれてくるのでしょうか。


「敏感期」の脳は "統計的学習" をする



生後6ヶ月から1年の間に、子どもの脳で秘密のドアが開くことが私たちの研究から示されている。神経科学でいう「敏感期」に入ると子どもは言葉という魔法の最初の基礎レッスンを受けられるようになる。

子どもの脳が母国語の音を最も覚えやすくなる時期は、母音については生後6ヶ月、子音については9ヶ月ごろから始まる。敏感期は2~3ヶ月しか続かないが、第2言語の音に触れるとさらに長くなるようだ。

『赤ちゃんの超言語力』

「言葉という魔法の最初の基礎レッスン」は、幼児の月齢6ヶ月から1歳程度の間に行われるというのポイントです。その "レッスン" において、幼児はどうやって言葉(音素や単語)を学ぶのか。それはまず「脳における統計的学習」です。


私の研究と、当時ノースウェスタン大学にいたメイ(Jessica Maye)の研究で、幼児がどの音素が最も重要かを学ぶ際に、音の頻度という統計パターンが決定的役割を果たしていることが示された。8ヶ月齢から10ヶ月齢の子どもは話し言葉をまだ理解していない。しかし、音素がどれぐらいの頻度で聞こえるか(統計学でいう度数分布)については非常に敏感だ。

『赤ちゃんの超言語力』

特定の音が聞こえる頻度が幼児の脳に影響を及ぼすのです。このことが、英語の r と l の音と、それに相当する日本語の R (ローマ字表記で r と書かれる ラ・リ・ル・レ・ロ の子音。英語と区別するために大文字にした)を例に説明してあります。英語の r と l はもちろん違う音素であり、right と light のように、その違いで意味がガラリと変わります。一方、日本語の R は、英語を基準に考えると r と l の中間的な音です。ラーメンなどはむしろ l のように聞こえるといいます。このような音の認識は、8ヶ月齢から10ヶ月齢で確立されるようです。


赤ちゃんの脳ではいったい何が起きているのか。メイは、この月齢(引用注:8ヶ月~10ヶ月齢のこと)の脳は柔軟性が非常に高く、音の認識の仕方を変えられることを示した。日本人の赤ちゃんは英語の音を聞くと米国で使われている r と l の音を区別できるようになる。同様に英語のネイティブスピーカーに囲まれて育った赤ちゃんも、日本語特有の音を認識しうる。

生後半年から1年で学んだ音によって脳では母国語の神経系の接続が確立し、その時期に複数の言語に接していない限りは別の言語の接続は確立しないようだ。小児後期以降、特に大人になってからは、新しい言語を聞いても劇的な影響は生じない。

『赤ちゃんの超言語力』

この引用における「日本人の赤ちゃん」とは、もちろん「日本語環境で育った日本人の赤ちゃん」ということです。

クール教授は、成長してから第2言語を学ぶ難しさがここにあるといいます。第2言語が学べないということではありません。しかし「脳の音素の認識回路」に限っていうと、それは幼児期に決まると言っているのです。

米国人、日本人、台湾人の幼児を調査した結果が載っています。米国人にとって ra と la の違いを識別するのは容易ですが、日本人にとっては難しい。一方、台湾人にとって qi と xi の違いを識別するのは容易だが、米国人にとっては難しい。このことを赤ちゃんで検証した研究です。一番のポイントは、6ヶ月~8ヶ月齢の赤ちゃんは、その赤ちゃんがどういう言語環境で育っているかにかかわらず、ra と la、qi と xi を聞き分ける能力が同じだということです。それが数ヶ月で大きく変化します。


6ヶ月齢から8ヶ月齢の子どもは育った文化に関係なく ra と la の音を区別できる。しかし10ヶ月齢になるとこの能力は閉ざされ始め、特定の言語文化に染まり始めた最初の兆候が表れる。

東京とシアトルで行われた研究では、その時期に日本人の幼児は ra と la の違いを聞き取る能力が低下したが、米国の幼児は高くなった(赤線)。

台北とシアトルの研究では、qi と xi の音の違いを聞き取る能力が台湾人幼児は延びたのに対し、米国人幼児は下がった(紫線)。幼児は言葉を覚えるためにまさに必要なことを本能的に行っている。

『赤ちゃんの超言語力』

音素の認識率.jpg
米国人、日本人、台湾人の赤ちゃんの音素識別能力を計測した研究。生後6ヶ月齢の赤ちゃんは似たような能力だが、10ヶ月齢になると育てられている環境で差が出てくる。たとえば「ra と la の違いを識別する」能力は、米国人の赤ちゃんと日本人の赤ちゃんでは明白な差が現れる。
(日経サイエンス 2016年3月号 より)

脳の統計的学習で音素が認識できたとして、次には単語を認識する必要があります。書かれた言葉と違って、耳で聞く言葉は「単語の区切り」がありません。赤ちゃんはどうやって単語を認識するのでしょうか。

クール教授によると、これも「脳の統計的学習」だと言います。Aという "音節"(=言葉として発音される最小限の音素の集まり。音節の組み合わせで単語ができる)のあとにBという音節が聞こえる頻度が高ければ、A+Bを単語だと認識する。コンピュータによる音声合成で、ランダムに音節を組み合わせて作った無意味な単語を幼児に聞かせた実験が示されています。特定の組み合わせの頻度だけを高めて聞かせると(それも無意味な単語ですが)、その "単語" に幼児は反応するようになる。つまり "音節の組み合わせが聞こえる頻度" という統計的学習で単語の認識がされるのです。


幼児は「人との交流」で言葉を覚える


さらにクール教授が強調していることがあります。幼児の脳におけるは統計的学習は、人との交流で起動されるという事実です。

ある実験が示されています。シアトルに住む米国人の9ヶ月齢の赤ちゃんに、標準中国語を聞かせるという実験です。赤ちゃんは4つのグループに分けれられます。

第1グループ
中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかけます。

第2グループ
中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかけるビデオを見せます。

第3グループ
中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかける録音テープを聞かせます。

第4グループ
米国人が英語で話しかけます。これは比較対照のためです。

このセッションは1ヶ月に12回に行われました。そして10ヶ月齢になったときに検査すると、中国語の音素が聞き取れたのは第1グループだけでした。これは赤ちゃんの言語の習得には人との交流が決定的に重要なことを示しています。


親語(ペアレンティーズ)の重要性


クール教授はさらに「親語 = ペアレンティーズ」の重要性を指摘しています。「親語」とは、親が子どもに話しかけるときにしか使わない特有の言葉や発声方法です。母親語(マザーリーズ)とか、幼児語というのも同じことです。

日本語でいうと、たとえば食事(ないしは "ごはん")のことを "まんま" というたぐいです。また特別な幼児語を使わないまでも、たとえば赤ちゃんが「彩」という名前だったとすると「あーやーちゃーん」と、かなりの抑揚をつけて呼びかけたりすることを言います。

実は親語は、それを聞く赤ちゃんが音素を認識しやすく、また単語を認識しやすい言葉使いなのです。高い音は幼児の注意を引きつけ、また音と音との違いが強調された言葉になっている。我々は暗黙に「赤ちゃんなのだから特有の言葉を使い、特有の発音方法をするのは当たり前」と思ってしまうのだけれど、親語には赤ちゃんの言語習得にとって重要な意味があるのです。クール教授の解説記事には、親語で話かけられた赤ちゃんは、親語で話しかけられなかった赤ちゃんの2倍の単語を覚えたという話がでてきます。

言葉の意味の習得には、親とのコミュニケーションがさらに重要です。たとえば、幼児は親の視線に敏感です。親が何気なくおもちゃに視線を向けて「おもちゃ」と発話する。すると幼児はそれを敏感に察知する・・・・・・。このような行為の繰り返しが、単語の意味の習得に役立っているのです。


赤ちゃんの "言語脳"


以上のクール教授の解説をまとめると

赤ちゃんは、親がそれとは全く気づかない時期から言葉の習得を始めている(生後6ヶ月~1年)。

赤ちゃんが言葉を習得するには "親の語りかけ" が決定的に重要であり、中でも "親語" は大切な役割をはたしている。

ということだと思います。ほとんどの親は ② を無意識にせよ、やっているでしょう。しかし、それがどういう効果をもつのか、自覚している親は少ないのではないでしょうか。しかし ① のようなことを知ると、育児における親の行為の重要性が理解できる、この記事を読んでそう思いました。

もう一つ思ったのは、AI(人工知能)との関係です。赤ちゃんが言葉の音(音素)を認識し、また単語を認識するのは、赤ちゃんの脳にインプットされた「音素」や「音の組み合わせ」を脳が自律的に "分類" し、頻度の高いものを認識していくのですね。これはAI技術でいう「教師なし機械学習」と同じです。一方、単語の意味については、親との交流における親の「意識的、ないしは無意識の教唆」で習得していく。これは「教師あり学習」と言えるでしょう。

現代におけるAIの飛躍的な発展は、人間の脳のメカニズムの研究成果を取り入れたことが大きいわけです。そのとき「人間がどうやって考えているのか」も大事だが、「人間はどうやって考えられるようになっていくのか」という研究はもっと大事でしょう。AI技術の発展にとって、赤ちゃんが言語を初めて習得するやりかたを含む「赤ちゃんの脳の研究」が重要だと感じました。




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