No.153 - 中島みゆきの詩(7)樋口一葉 [音楽]
今までに、中島みゆきの詩に関して7つの記事を書きました。
No. 35 - 中島みゆき「時代」
No. 64 - 中島みゆきの詩( 1)自立する言葉
No. 65 - 中島みゆきの詩( 2)愛を語る言葉
No. 66 - 中島みゆきの詩( 3)別れと出会い
No. 67 - 中島みゆきの詩( 4)社会と人間
No. 68 - 中島みゆきの詩( 5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩( 6)メディアと黙示録
の7つですが、今回はその続きです。
日本文学からの引用
No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」で、《重き荷を負いて》(A2006『ララバイSINGER』)という曲の題名は、徳川家康の遺訓である「人の一生は、重き荷を負いて遠き道を行くがごとし」を連想させると書きました。あくまで連想に過ぎないのですが、こういう連想が働くのも、中島作品には日本の歴史や文化に根ざした詩がいろいろあるからで、たとえば、
などがある、としました。ここにあげたのは題名が「日本関連」のもので、その内容は小説・神話・宗教・文化など、さまざまです。
しかし中島さんの詩の中には、題名には現れてはいないが、日本文学、それも明治時代の小説にストレートに影響されたと考えられる作品があります。今回はその話で、《帰れない者たちへ》(A2005『転生』)という作品です。
帰れない者たちへ
《帰れない者たちへ》は、2005年のアルバム『転生』に収められた曲で、その詩を引用すると次の通りです。
この詩は樋口一葉の小説『十三夜』を踏まえて作られていると思います。その理由ですが、まず「十三夜」という、現代ではあまり馴染みのない昔の風習(後述)が詩のキーワードになっていることです。しかし、それだけでは偶然の一致ということも考えられる。「十三夜」というタイトルの曲を書いた人もいるぐらいです(谷村新司)。
樋口一葉の小説を踏まえているとする大きな理由は、詩のタイトルと内容に小説との本質的な類似点があることです。以下にそれを順に書いてみます。
樋口一葉『十三夜』
『十三夜』は樋口一葉(明治5 - 明治29。1872-1896)が明治28年(1895。23歳)に発表した小説です。この年、一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「ゆく雲」「十三夜」と、たて続けに名作を発表しました。その翌年の明治29年春には結核が悪化し、年の暮れには息を引き取ります。樋口一葉の作家としてのピークはほんの1年少々ですが、その短い期間に彼女は次々と日本文学史上に残る傑作を書いた。その一つが『十三夜』です。
「十三夜」は、かつては「十五夜」と並ぶ「お月見」の日でした。旧暦(太陰暦)の8月15日は、いわゆる中秋の名月 = 十五夜です。現代では9月の秋分の日の前後の満月の日を中秋の名月としています。一方、旧暦の9月13日の十三夜にも月見をする風習が江戸期にはあり、これを「後の月」などと言っていました。そして、両方の月見をするのが正式であり、一方だけでは「片月見」といって縁起が悪いとされていました。樋口一葉の『十三夜』には「片月見」という言葉とともに「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれど・・・・・・」と出てきます。明治28年の段階では、十三夜の月見は「旧弊」と意識されていたようです。
樋口一葉の『十三夜』は、次のようなあらすじの小説です。
主人公の "お関" は、高級官僚・原田勇の妻で、一人息子の太郎の母です。実家の斉藤家は貧しい庶民ですが、お関が17歳のとき、遊んでいるところをたまたま通りかかった原田がお関を見染め、是非にと請われて嫁に行ったのでした。当初、お関は大切にされましたが、太郎が生まれると原田は人が違ったように、お関に辛くあたるようになります。お関は、今では原田から精神的虐待を受ける日々を送っています(ちなみに原文では阿関となっている)。
物語は(上)と(下)の二つに分かれています。まず(上)は、旧暦9月13日の夜、お関が離縁を決意して実家の斉藤家を人力車で訪れるところから始まります。突然の来訪に両親は驚きますが、もちろん久しぶりに会うお関を歓待します。弟の亥之助は、たまたま夜学に行って不在でした。
お関は思い切って、離縁したいと打ち明けます。原田は毎日小言が絶えず、女中の前でもお関の不器用なところを並べ立てる。二言目には「教育がない」と、お関の出自を蔑む。家の中がつまらないのはお関のせいだと、理由もなしに罵る。太郎の乳母として置いてやっているのだと嘲る。一昨日に出かける時も、着物のそろえ方が悪いといって着物をたたきつけ、洋服を着て出ていった・・・・・・。お関は、息子の太郎と別れるのは忍びないが、原田の家には戻らない、実家に置いてほしいと訴えます。
お関の母親は同情します。元々、お関は請われて嫁がせたものだ、それを、親なし子をもらったように扱うのは何だ、自分も身分の差を考えて娘に会いに行きたいのを我慢してきた、女中の前でそんな扱いを受けたのでは太郎も母親をバカにするだろう、今までが我慢のし過ぎだよ・・・・・・。
しかし父親は、お関に深く同情しながらも、お関を諭します。身分差があるのだから考えや思うことに違いが出てくるのは当然だ。原田さんも勤めの不平を家に帰ってぶちまけているのかもしれない。原田の妻という座を捨てて世間に笑われてもいいのか。亥之助が就職できたのも原田さんの口添えがあったからこそだ。それに太郎はどうする。離縁して継母がくれば二度と会えないのだぞ。どうせ不幸に泣くなら原田の妻で泣け。おまえの涙は亥之助を含め、我々家族が分かち合うよ・・・・・・。
一人息子の存在という痛いところをつかれたお関は、結局のところ父の説得を受け入れ、無理に自分自身を納得させて原田の家の戻ることにします。そして人力車を拾ったのでした。
ここからが(下)になります。原田の家に人力車で戻る途中、お関は車夫から意外なことを言われます。「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」とのことなのです。お関はドキッとし「こんな夜道で降ろされても困る、せめて車が拾える広小路まで」と、少し震えながら車夫を説得します。当然ですが、お関は強請のたぐいだと思ったはずです(そうは書いてませんが)。しかしそれは違いました。車夫は説得を受け入れます。
ところが、お関は車夫の顔に見覚えがあったのです。車夫は幼なじみの高坂録之助でした。録之助も "斉藤のお関さん" と気づきます。高坂録之助は斉藤家の近くの煙草屋の一人息子で、お関は「将来は録之助と連れ合いになるのかな」と、子供心に想像していました。その録之助も、お関に恋心をもっていました。しかしお関には原田との結婚話がもち上がりました。そのころから録之助は人が変わったように放蕩を始めたのです。
録之助と知ったからには車には乗れないと、お関は車から降りて、広小路の方へと一緒に歩き出します。その道すがら聞いた身の上話によると、録之助の放蕩は結婚してからも続き、女房は実家へ帰り、子供は風の便りに病気で死んだとのことです。録之助は、今は住む家もなく、"村田" という木賃宿の二階に宿泊し、気が向いた時だけ車夫をしています。もう何もかも、世の中が厭になっているようです。
昔は賢そうな少年だったが、今は見るかげもない色黒の小男の車夫になっている・・・・・・。お関は録之助のあまりの変わりように驚きつつも、何がしのお金を包んで渡します。そして「以前のような録之助さんに戻ってください」と言って広小路で分かれました。その二人を十三夜の月が照らしています。小説は以下の文章で終わります。
十三夜の月の下、お関の "力なさそうな" 塗り下駄の音が響く・・・・・・という最後の情景が印象的です。
『十三夜』と「帰れない者たち」
鮮やか、としか言いようのない小説です。前半の(上)を読んでいると、"家" という制度にからめとられた女性の苦しみが描かれていて、それを親が励ますという構図です。これだけなら普通の小説です。もちろん、お関の結婚のいきさつからその後の経緯、今の精神的苦痛、父親の説得までを、三人の会話だけで流れるように提示していく樋口一葉の文章は素晴らしいと思いますが、文章がいいだけでは小説とは言えません。
しかし後半になって、全く意外な展開になります。特に後半の出だしに「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」という、車夫としては "あり得ない" 言葉をもってきたのがうまいと思います。えっ、いったいこれは何だ、と読者は思うわけです。この車夫が実は「家族と別れ、住む家もなく、腑抜けのようになっている "幼なじみ" であり、かつて互いに恋心を抱いていた間柄」だと分かる。
お関は「家という制度の中で虐げられている可哀想な女」ですが、録之助という人物を対比させることによって、しょせん人間は人間同士の関係性の中で生きていくしかないことが炙り出されてきます。お関は一児の母で、夫の精神的虐待に耐える現在であり、それを実家の両親に訴えもした。目下のお関の最大の関心事はその「耐えている」ことですが、社会における人間関係を一切無くし、人間らしい感情まで失った録之助は「耐えることさえ出来ない」わけです。父親に諭され励まされたお関は、皮肉にも録之助を励ます側になってしまった。
この小説には当然のことながら "結論" がありません。塗り下駄の音が響く中で終わります。お関も録之助も、これからどうなるのか何も分からない。宙ぶらりんの状態で、読者は置いていかれます。どうなるのかと想像するのも意味がないのでしょう。ただ、人が生きることはどういうことかを考えさせられる。
家という制度のなかの女性の苦しみだと思って読み進むうちに、一挙に "人が生きることについての洞察" へと突き進んでしまう・・・・・・。この樋口一葉の小説づくりは見事だと思います。「たけくらべ」から始まる樋口一葉の「傑作の年 = 明治28年」の最後を飾るにふさわしい、完成度の高い作品です。
そこで、中島みゆき《帰れない者たちへ》との関係です。『十三夜』の登場人物である "お関" も "録之助" も、帰る場所がありません。お関にとっての原田家は精神的に帰る場所ではないし、実家の斉藤家は帰る場所ではないことが分かってしまった。録之助にとっては、そもそも「この世」が帰る場所ではありません。この二人を「帰れない者たち」ととらえ、それをヒントに発想を膨らませて書かれたのが、《帰れない者たちへ》だという気がします。詩の中にある、
などの句は、いかにも『十三夜』を思い起こさせます。『十三夜』の(下)の部分は、まさに「異人」の録之助と原田家にとっての「よそ者」であるお関が出合うシーンと言えるでしょう。
もちろん《帰れない者たちへ》が『十三夜』の登場人物の二人を描いた詩だとか、そういうことではありません。ただ、詩の発想の "きっかけ" になったのが『十三夜』だったはずです。
《帰れない者たちへ》の詩を読んで気づくのは「十三夜」という言葉を持ち出さなくても、十分に詩として成立することです。逆に「十三夜」と言われても、それが読者のイメージを膨らませることには(一般的には)ならないと思います。"昔のお月見の日" だと知っている人は少ないはずです。もうすぐ満月(十五夜の前々日)というぐらいは分かるが、そうだからといって詩の内容と密接な関係があるようにも思えない。
このことから考えると、《帰れない者たちへ》という詩は「十三夜」というキーワードをあえて使うことによって、中島さんが自ら「樋口一葉が好き」と明らかにした詩・・・・・・、そういういう風に思います。さらに、詩の中に出てくる "戻れぬ関" とはズバリ、『十三夜』の主人公の "お関" のことだと思える。『十三夜』の(上)は、まさに "戻れぬお関" の物語なのです。つまり「関」とは、物事をさえぎり分け隔てるもの(関所の "関")という本来の意味であると同時に、『十三夜』の主人公である "お関" をも意味していて、つまり日本文学で言う掛詞なのでしょう。詩の中に "関" という言葉を出したのは「樋口一葉を踏まえている」という中島さんの "念を押した" メッセージだと思います。
樋口一葉が好きというのは、取り立てて珍しいことではありません。五千円札の肖像にもなっている日本文学の代表者の一人だし、「たけくらべ」や「にごりえ」は明治文学の代表作です。特に女性作家で樋口一葉に影響を受けたと公言している人もいます。樋口一葉の現代語訳に挑戦した作家もいます。最近では川上未映子さんが「たけくらべ」の現代語訳をしましたが(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13。河出書房新社。2015年)、樋口一葉を尊敬し、かつその文章が好きでないとできないことです。いつかは「たけくらべ」の現代語訳をしてみたいという "野心" を抱いている人は、他にもいるのではないでしょうか。
詩人であり小説も書いている中島さんが一葉を尊敬していたとしても、それは自然なことでしょう。しかし《帰れない者たちへ》が普通ではないのは、中島さんがこの詩で創作の秘密というか、インスピレーションの源泉を明らかにしていることです。しかもそれは "先輩筋" と言ってもいい作家の文学作品です。そういった例はごく少ないと思うのです。その意味で《帰れない者たちへ》という詩は特別という気がします。
失恋と別れ
そこで考えるのですが、「樋口一葉が好き」なら、他にも一葉を "踏まえた" 中島作品があるのでは、と思うわけです。もしあったとしたら、どの詩だろうかと・・・・・・。これは、一葉の作品を隅々まで知っているわけではないので非常に難しい設問です。ただ、一つだけ思い当たるフシがあります。それは「失恋」に関するものです。
今ではそれほどでもありませんが、中島さんのシンガー・ソングライターとしてのキャリアの特に初期は、失恋や男女の別れの歌が非常に多かったわけです。それは No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」に書いた通りです。
樋口一葉も "別れ" を経験しています。一葉は明治24年(1891)19歳の時、小説家として身を立てることを決意し、東京朝日新聞の専属の小説家であった半井桃水(1861-1926)を訪れて、教えを請います。桃水は31歳で、妻と死別して独身でした。一葉は翌、明治25年3月(1892。20歳)、桃水が創刊した同人誌「武蔵野」に処女作の『闇桜』を発表します。桃水は一葉の小説家としての師匠です。
しかし桃水は何かと女性関係が絶えない人で、一葉との関係も巷の噂になりはじめました。一葉は 14歳の時から中島歌子の主宰する歌塾に入門していたのですが、師の歌子は一葉の行く末を心配し、桃水と別れるように忠告します。一葉はこの忠告を受け入れ、明治25年6月に桃水を訪れて、もう会えなくなったと伝えました(以上の顛末は集英社文庫『たけくらべ』の解説によります)。しかし半井桃水と別れはしたが「樋口一葉は生涯、半井桃水への思慕の情をもっていた」というのが研究者の間では定説になっています。
半井桃水と別れた約1年後、一葉はそれまで住んでいた本郷区菊坂町の借家を離れ、母(滝)と妹(邦子)とともに下谷区龍泉町に転居しました。ここで荒物・駄菓子店を開いて、貧困の中で何とか一家を養おうとします。樋口一葉は父と兄が病没したため、17歳で戸籍上の戸主になった人です。戸主としての責任を一葉は負っていました。ちなみに、吉原にも近い龍泉町での経験が「たけくらべ」の原点になったとされています。
一葉は半井桃水と会った頃から日記をつけていて、それがほとんど残っていることで有名です。龍泉町に転居した当日の明治26年(1893。21歳)7月20日の日記に、次の記述があります。
「樋口一葉全集」の注釈に、「斯の君」とは「かの人」であり、半井桃水のことだとあります。上に引用した部分の直後の文章で一葉は、本郷・菊坂町の家は桃水も訪れたことがあるが、この家(龍泉町)は桃水も知らない、私は忘れられていくだろう、という意味のことを書いています。半井桃水は「菊坂町の一葉」を思い出すことはできるが「龍泉町の一葉 = 今の自分」を思い出すことはできないと、ふと思い当たって愕然とする・・・・・・。「忘られて」という言葉に、別れて1年たつが、引っ越しで改めて引き起こされた一葉の感情が籠もっています。この引用の中の、
という "歌" は、数ある一葉日記の中でも有名なところです。一葉が明治28年(1895)に発表した小説「ゆく雲」の題は、ここから採られていると言われています。
この「忘られて 忘られはてて」の歌が、中島みゆきさんのある詩を連想させます。1982年のアルバム『寒水魚』に収められた《捨てるほどの愛でいいから》です。あくまで連想ですが・・・・・・。この詩は No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」でも引用しました。
三角関係にもなれない "片想い" の詩です。それも「究極の片想い」とでもいうのでしょうか。もし中島さんが彼女の歌唱力をもってしてコンサートで歌ったとしたら、詩の主人公に感情移入した女性ファンのすすり泣きがあちこちから聞こえて来そうな、そんな感じの詩です。
しかし問題は詩が喚起するイメージです。この詩にある
という言葉の使い方は、一葉日記の
という言葉の使い方とそっくりだと思うのですね。この部分から受けるイメージは「波=海」と「雲=空」が違うだけで、ほぼ同じと言えるでしょう。また、一葉日記にある「浮かぶ瀬もなく 朽ちはてる」的な表現も、中島さんの「一人の浜辺に打ちあげられるだけ」と類似している。もちろん、この詩と一葉日記のシチュエーションはかなり違います。しかし「忘られて・・・・・・」の言葉使いと喚起されるイメージが似ている。
これは全くの偶然なのでしょうか・・・・・・。たぶん偶然だと思います。しかし可能性として、中島さんが樋口一葉を踏まえて書いた詩、ないしは無意識に樋口一葉に似てしまった詩ということが「全く無いわけではない」とも思います。もちろん想像するとしたら、その方が興味深い。
中島さんは 1982年(30歳)に、樋口一葉をそっと忍ばせた詩を書いた(=《捨てるほどの愛でいいから》)。その23年後(53歳)に、今度は "あからさまに" 樋口一葉を踏まえた詩を発表した(=《帰れない者たちへ》)。「帰れない者たちへ」という詩を知ってしまった以上、是非ともそう考えたい感じがします。
今まで「十三夜」とか「忘れられて」のようなキーワードから中島作品と樋口一葉との関係を推測してきたのですが、中島さんが真に樋口一葉に影響を受けたとしたら、それは単なる「ことば」ではなく「樋口一葉ワールド」そのものかも知れません。特に「たけくらべ」や「にごりえ」は「十三夜」と違って、社会の底辺に生きる人たちを男女の感情や情念とともに描いています。底辺に生きる人々という面では、中島作品にもいろいろあることが思い起こされます。
しかし中島さんの詩は、何よりも「ことば」が大切にされています。「十三夜」や「忘れられて 忘れられて」は、そこにそういう「ことば」があることが、彼女の中では必然的だったと考えるのが妥当です。そこに、「ことば」を頼りに中島作品と先人の文芸作品、たとえば樋口一葉との関連性を考える "拠り所" があると思います。
No. 35 - 中島みゆき「時代」
No. 64 - 中島みゆきの詩( 1)自立する言葉
No. 65 - 中島みゆきの詩( 2)愛を語る言葉
No. 66 - 中島みゆきの詩( 3)別れと出会い
No. 67 - 中島みゆきの詩( 4)社会と人間
No. 68 - 中島みゆきの詩( 5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩( 6)メディアと黙示録
の7つですが、今回はその続きです。
日本文学からの引用
No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」で、《重き荷を負いて》(A2006『ララバイSINGER』)という曲の題名は、徳川家康の遺訓である「人の一生は、重き荷を負いて遠き道を行くがごとし」を連想させると書きました。あくまで連想に過ぎないのですが、こういう連想が働くのも、中島作品には日本の歴史や文化に根ざした詩がいろいろあるからで、たとえば、
『夜を往け』1990 | |||
『EAST ASIA』1992 | |||
『時代』1993 | |||
『10 WINGS』1995 | |||
『おとぎばなし』2002 | |||
『DRAMA !』2009 |
などがある、としました。ここにあげたのは題名が「日本関連」のもので、その内容は小説・神話・宗教・文化など、さまざまです。
しかし中島さんの詩の中には、題名には現れてはいないが、日本文学、それも明治時代の小説にストレートに影響されたと考えられる作品があります。今回はその話で、《帰れない者たちへ》(A2005『転生』)という作品です。
帰れない者たちへ
《帰れない者たちへ》は、2005年のアルバム『転生』に収められた曲で、その詩を引用すると次の通りです。
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中島みゆき「転生」(2005)
収録曲 ①遺失物預り所 ②帰れない者たちへ ③線路の外の風景 ④メビウスの帯はねじれる ⑤フォーチュン・クッキー ⑥闇夜のテーブル ⑦我が祖国は風の彼方 ⑧命のリレー ⑨ミラージュ・ホテル ⑩サーモン・ダンス ⑪ 無限・軌道
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この詩は樋口一葉の小説『十三夜』を踏まえて作られていると思います。その理由ですが、まず「十三夜」という、現代ではあまり馴染みのない昔の風習(後述)が詩のキーワードになっていることです。しかし、それだけでは偶然の一致ということも考えられる。「十三夜」というタイトルの曲を書いた人もいるぐらいです(谷村新司)。
樋口一葉の小説を踏まえているとする大きな理由は、詩のタイトルと内容に小説との本質的な類似点があることです。以下にそれを順に書いてみます。
樋口一葉『十三夜』
『十三夜』は樋口一葉(明治5 - 明治29。1872-1896)が明治28年(1895。23歳)に発表した小説です。この年、一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「ゆく雲」「十三夜」と、たて続けに名作を発表しました。その翌年の明治29年春には結核が悪化し、年の暮れには息を引き取ります。樋口一葉の作家としてのピークはほんの1年少々ですが、その短い期間に彼女は次々と日本文学史上に残る傑作を書いた。その一つが『十三夜』です。
一葉肖像
(明治28年。23歳頃の肖像。集英社文庫「たけくらべ」より)
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「十三夜」は、かつては「十五夜」と並ぶ「お月見」の日でした。旧暦(太陰暦)の8月15日は、いわゆる中秋の名月 = 十五夜です。現代では9月の秋分の日の前後の満月の日を中秋の名月としています。一方、旧暦の9月13日の十三夜にも月見をする風習が江戸期にはあり、これを「後の月」などと言っていました。そして、両方の月見をするのが正式であり、一方だけでは「片月見」といって縁起が悪いとされていました。樋口一葉の『十三夜』には「片月見」という言葉とともに「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれど・・・・・・」と出てきます。明治28年の段階では、十三夜の月見は「旧弊」と意識されていたようです。
樋口一葉の『十三夜』は、次のようなあらすじの小説です。
主人公の "お関" は、高級官僚・原田勇の妻で、一人息子の太郎の母です。実家の斉藤家は貧しい庶民ですが、お関が17歳のとき、遊んでいるところをたまたま通りかかった原田がお関を見染め、是非にと請われて嫁に行ったのでした。当初、お関は大切にされましたが、太郎が生まれると原田は人が違ったように、お関に辛くあたるようになります。お関は、今では原田から精神的虐待を受ける日々を送っています(ちなみに原文では阿関となっている)。
物語は(上)と(下)の二つに分かれています。まず(上)は、旧暦9月13日の夜、お関が離縁を決意して実家の斉藤家を人力車で訪れるところから始まります。突然の来訪に両親は驚きますが、もちろん久しぶりに会うお関を歓待します。弟の亥之助は、たまたま夜学に行って不在でした。
お関は思い切って、離縁したいと打ち明けます。原田は毎日小言が絶えず、女中の前でもお関の不器用なところを並べ立てる。二言目には「教育がない」と、お関の出自を蔑む。家の中がつまらないのはお関のせいだと、理由もなしに罵る。太郎の乳母として置いてやっているのだと嘲る。一昨日に出かける時も、着物のそろえ方が悪いといって着物をたたきつけ、洋服を着て出ていった・・・・・・。お関は、息子の太郎と別れるのは忍びないが、原田の家には戻らない、実家に置いてほしいと訴えます。
お関の母親は同情します。元々、お関は請われて嫁がせたものだ、それを、親なし子をもらったように扱うのは何だ、自分も身分の差を考えて娘に会いに行きたいのを我慢してきた、女中の前でそんな扱いを受けたのでは太郎も母親をバカにするだろう、今までが我慢のし過ぎだよ・・・・・・。
しかし父親は、お関に深く同情しながらも、お関を諭します。身分差があるのだから考えや思うことに違いが出てくるのは当然だ。原田さんも勤めの不平を家に帰ってぶちまけているのかもしれない。原田の妻という座を捨てて世間に笑われてもいいのか。亥之助が就職できたのも原田さんの口添えがあったからこそだ。それに太郎はどうする。離縁して継母がくれば二度と会えないのだぞ。どうせ不幸に泣くなら原田の妻で泣け。おまえの涙は亥之助を含め、我々家族が分かち合うよ・・・・・・。
一人息子の存在という痛いところをつかれたお関は、結局のところ父の説得を受け入れ、無理に自分自身を納得させて原田の家の戻ることにします。そして人力車を拾ったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・
ここからが(下)になります。原田の家に人力車で戻る途中、お関は車夫から意外なことを言われます。「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」とのことなのです。お関はドキッとし「こんな夜道で降ろされても困る、せめて車が拾える広小路まで」と、少し震えながら車夫を説得します。当然ですが、お関は強請のたぐいだと思ったはずです(そうは書いてませんが)。しかしそれは違いました。車夫は説得を受け入れます。
ところが、お関は車夫の顔に見覚えがあったのです。車夫は幼なじみの高坂録之助でした。録之助も "斉藤のお関さん" と気づきます。高坂録之助は斉藤家の近くの煙草屋の一人息子で、お関は「将来は録之助と連れ合いになるのかな」と、子供心に想像していました。その録之助も、お関に恋心をもっていました。しかしお関には原田との結婚話がもち上がりました。そのころから録之助は人が変わったように放蕩を始めたのです。
録之助と知ったからには車には乗れないと、お関は車から降りて、広小路の方へと一緒に歩き出します。その道すがら聞いた身の上話によると、録之助の放蕩は結婚してからも続き、女房は実家へ帰り、子供は風の便りに病気で死んだとのことです。録之助は、今は住む家もなく、"村田" という木賃宿の二階に宿泊し、気が向いた時だけ車夫をしています。もう何もかも、世の中が厭になっているようです。
昔は賢そうな少年だったが、今は見るかげもない色黒の小男の車夫になっている・・・・・・。お関は録之助のあまりの変わりように驚きつつも、何がしのお金を包んで渡します。そして「以前のような録之助さんに戻ってください」と言って広小路で分かれました。その二人を十三夜の月が照らしています。小説は以下の文章で終わります。
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十三夜の月の下、お関の "力なさそうな" 塗り下駄の音が響く・・・・・・という最後の情景が印象的です。
集英社文庫「たけくらべ」
1993年刊。「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」が原文で収められている。この文庫は樋口一葉を原文で読みやすくするためのさまざまな工夫がしてあり、編集者の一葉に対する「思い入れ」が感じられる。なお2015年現在では表紙カバーが変更されている。
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『十三夜』と「帰れない者たち」
鮮やか、としか言いようのない小説です。前半の(上)を読んでいると、"家" という制度にからめとられた女性の苦しみが描かれていて、それを親が励ますという構図です。これだけなら普通の小説です。もちろん、お関の結婚のいきさつからその後の経緯、今の精神的苦痛、父親の説得までを、三人の会話だけで流れるように提示していく樋口一葉の文章は素晴らしいと思いますが、文章がいいだけでは小説とは言えません。
しかし後半になって、全く意外な展開になります。特に後半の出だしに「ここで降りてほしい、お代はいらない、車をひくのが厭になった」という、車夫としては "あり得ない" 言葉をもってきたのがうまいと思います。えっ、いったいこれは何だ、と読者は思うわけです。この車夫が実は「家族と別れ、住む家もなく、腑抜けのようになっている "幼なじみ" であり、かつて互いに恋心を抱いていた間柄」だと分かる。
お関は「家という制度の中で虐げられている可哀想な女」ですが、録之助という人物を対比させることによって、しょせん人間は人間同士の関係性の中で生きていくしかないことが炙り出されてきます。お関は一児の母で、夫の精神的虐待に耐える現在であり、それを実家の両親に訴えもした。目下のお関の最大の関心事はその「耐えている」ことですが、社会における人間関係を一切無くし、人間らしい感情まで失った録之助は「耐えることさえ出来ない」わけです。父親に諭され励まされたお関は、皮肉にも録之助を励ます側になってしまった。
この小説には当然のことながら "結論" がありません。塗り下駄の音が響く中で終わります。お関も録之助も、これからどうなるのか何も分からない。宙ぶらりんの状態で、読者は置いていかれます。どうなるのかと想像するのも意味がないのでしょう。ただ、人が生きることはどういうことかを考えさせられる。
家という制度のなかの女性の苦しみだと思って読み進むうちに、一挙に "人が生きることについての洞察" へと突き進んでしまう・・・・・・。この樋口一葉の小説づくりは見事だと思います。「たけくらべ」から始まる樋口一葉の「傑作の年 = 明治28年」の最後を飾るにふさわしい、完成度の高い作品です。
そこで、中島みゆき《帰れない者たちへ》との関係です。『十三夜』の登場人物である "お関" も "録之助" も、帰る場所がありません。お関にとっての原田家は精神的に帰る場所ではないし、実家の斉藤家は帰る場所ではないことが分かってしまった。録之助にとっては、そもそも「この世」が帰る場所ではありません。この二人を「帰れない者たち」ととらえ、それをヒントに発想を膨らませて書かれたのが、《帰れない者たちへ》だという気がします。詩の中にある、
・ | 異人の形です 旅した者は | ||
・ | 戻れぬ関です よそ者には | ||
・ | 帰れない歳月を 夢だけがさかのぼる |
などの句は、いかにも『十三夜』を思い起こさせます。『十三夜』の(下)の部分は、まさに「異人」の録之助と原田家にとっての「よそ者」であるお関が出合うシーンと言えるでしょう。
もちろん《帰れない者たちへ》が『十三夜』の登場人物の二人を描いた詩だとか、そういうことではありません。ただ、詩の発想の "きっかけ" になったのが『十三夜』だったはずです。
《帰れない者たちへ》の詩を読んで気づくのは「十三夜」という言葉を持ち出さなくても、十分に詩として成立することです。逆に「十三夜」と言われても、それが読者のイメージを膨らませることには(一般的には)ならないと思います。"昔のお月見の日" だと知っている人は少ないはずです。もうすぐ満月(十五夜の前々日)というぐらいは分かるが、そうだからといって詩の内容と密接な関係があるようにも思えない。
このことから考えると、《帰れない者たちへ》という詩は「十三夜」というキーワードをあえて使うことによって、中島さんが自ら「樋口一葉が好き」と明らかにした詩・・・・・・、そういういう風に思います。さらに、詩の中に出てくる "戻れぬ関" とはズバリ、『十三夜』の主人公の "お関" のことだと思える。『十三夜』の(上)は、まさに "戻れぬお関" の物語なのです。つまり「関」とは、物事をさえぎり分け隔てるもの(関所の "関")という本来の意味であると同時に、『十三夜』の主人公である "お関" をも意味していて、つまり日本文学で言う掛詞なのでしょう。詩の中に "関" という言葉を出したのは「樋口一葉を踏まえている」という中島さんの "念を押した" メッセージだと思います。
樋口一葉が好きというのは、取り立てて珍しいことではありません。五千円札の肖像にもなっている日本文学の代表者の一人だし、「たけくらべ」や「にごりえ」は明治文学の代表作です。特に女性作家で樋口一葉に影響を受けたと公言している人もいます。樋口一葉の現代語訳に挑戦した作家もいます。最近では川上未映子さんが「たけくらべ」の現代語訳をしましたが(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13。河出書房新社。2015年)、樋口一葉を尊敬し、かつその文章が好きでないとできないことです。いつかは「たけくらべ」の現代語訳をしてみたいという "野心" を抱いている人は、他にもいるのではないでしょうか。
詩人であり小説も書いている中島さんが一葉を尊敬していたとしても、それは自然なことでしょう。しかし《帰れない者たちへ》が普通ではないのは、中島さんがこの詩で創作の秘密というか、インスピレーションの源泉を明らかにしていることです。しかもそれは "先輩筋" と言ってもいい作家の文学作品です。そういった例はごく少ないと思うのです。その意味で《帰れない者たちへ》という詩は特別という気がします。
失恋と別れ
そこで考えるのですが、「樋口一葉が好き」なら、他にも一葉を "踏まえた" 中島作品があるのでは、と思うわけです。もしあったとしたら、どの詩だろうかと・・・・・・。これは、一葉の作品を隅々まで知っているわけではないので非常に難しい設問です。ただ、一つだけ思い当たるフシがあります。それは「失恋」に関するものです。
今ではそれほどでもありませんが、中島さんのシンガー・ソングライターとしてのキャリアの特に初期は、失恋や男女の別れの歌が非常に多かったわけです。それは No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」に書いた通りです。
樋口一葉も "別れ" を経験しています。一葉は明治24年(1891)19歳の時、小説家として身を立てることを決意し、東京朝日新聞の専属の小説家であった半井桃水(1861-1926)を訪れて、教えを請います。桃水は31歳で、妻と死別して独身でした。一葉は翌、明治25年3月(1892。20歳)、桃水が創刊した同人誌「武蔵野」に処女作の『闇桜』を発表します。桃水は一葉の小説家としての師匠です。
しかし桃水は何かと女性関係が絶えない人で、一葉との関係も巷の噂になりはじめました。一葉は 14歳の時から中島歌子の主宰する歌塾に入門していたのですが、師の歌子は一葉の行く末を心配し、桃水と別れるように忠告します。一葉はこの忠告を受け入れ、明治25年6月に桃水を訪れて、もう会えなくなったと伝えました(以上の顛末は集英社文庫『たけくらべ』の解説によります)。しかし半井桃水と別れはしたが「樋口一葉は生涯、半井桃水への思慕の情をもっていた」というのが研究者の間では定説になっています。
半井桃水と別れた約1年後、一葉はそれまで住んでいた本郷区菊坂町の借家を離れ、母(滝)と妹(邦子)とともに下谷区龍泉町に転居しました。ここで荒物・駄菓子店を開いて、貧困の中で何とか一家を養おうとします。樋口一葉は父と兄が病没したため、17歳で戸籍上の戸主になった人です。戸主としての責任を一葉は負っていました。ちなみに、吉原にも近い龍泉町での経験が「たけくらべ」の原点になったとされています。
一葉は半井桃水と会った頃から日記をつけていて、それがほとんど残っていることで有名です。龍泉町に転居した当日の明治26年(1893。21歳)7月20日の日記に、次の記述があります。
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「樋口一葉全集」の注釈に、「斯の君」とは「かの人」であり、半井桃水のことだとあります。上に引用した部分の直後の文章で一葉は、本郷・菊坂町の家は桃水も訪れたことがあるが、この家(龍泉町)は桃水も知らない、私は忘れられていくだろう、という意味のことを書いています。半井桃水は「菊坂町の一葉」を思い出すことはできるが「龍泉町の一葉 = 今の自分」を思い出すことはできないと、ふと思い当たって愕然とする・・・・・・。「忘られて」という言葉に、別れて1年たつが、引っ越しで改めて引き起こされた一葉の感情が籠もっています。この引用の中の、
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という "歌" は、数ある一葉日記の中でも有名なところです。一葉が明治28年(1895)に発表した小説「ゆく雲」の題は、ここから採られていると言われています。
ちなみに、引用した日記の名前は『塵之中』で、明治26.7.15 - 明治26.8 の記録です。「塵」とは、樋口一葉が自らの住居を指してそう言っています。 |
この「忘られて 忘られはてて」の歌が、中島みゆきさんのある詩を連想させます。1982年のアルバム『寒水魚』に収められた《捨てるほどの愛でいいから》です。あくまで連想ですが・・・・・・。この詩は No.65「中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉」でも引用しました。
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中島みゆき「寒水魚」(1982)
収録曲 ①悪女 ②傾斜 ③鳥になって ④捨てるほどの愛でいいから ⑤B.G.M. ⑥家出 ⑦時刻表 ⑧砂の船 ⑨歌姫
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三角関係にもなれない "片想い" の詩です。それも「究極の片想い」とでもいうのでしょうか。もし中島さんが彼女の歌唱力をもってしてコンサートで歌ったとしたら、詩の主人公に感情移入した女性ファンのすすり泣きがあちこちから聞こえて来そうな、そんな感じの詩です。
しかし問題は詩が喚起するイメージです。この詩にある
・ | 忘れられて、忘れられて | ||
・ | 波間に漂い | ||
・ | 消えていく |
という言葉の使い方は、一葉日記の
・ | 忘られて 忘られはてて | ||
・ | 行雲とともに | ||
・ | 空に消えていく |
という言葉の使い方とそっくりだと思うのですね。この部分から受けるイメージは「波=海」と「雲=空」が違うだけで、ほぼ同じと言えるでしょう。また、一葉日記にある「浮かぶ瀬もなく 朽ちはてる」的な表現も、中島さんの「一人の浜辺に打ちあげられるだけ」と類似している。もちろん、この詩と一葉日記のシチュエーションはかなり違います。しかし「忘られて・・・・・・」の言葉使いと喚起されるイメージが似ている。
これは全くの偶然なのでしょうか・・・・・・。たぶん偶然だと思います。しかし可能性として、中島さんが樋口一葉を踏まえて書いた詩、ないしは無意識に樋口一葉に似てしまった詩ということが「全く無いわけではない」とも思います。もちろん想像するとしたら、その方が興味深い。
中島さんは 1982年(30歳)に、樋口一葉をそっと忍ばせた詩を書いた(=《捨てるほどの愛でいいから》)。その23年後(53歳)に、今度は "あからさまに" 樋口一葉を踏まえた詩を発表した(=《帰れない者たちへ》)。「帰れない者たちへ」という詩を知ってしまった以上、是非ともそう考えたい感じがします。
今まで「十三夜」とか「忘れられて」のようなキーワードから中島作品と樋口一葉との関係を推測してきたのですが、中島さんが真に樋口一葉に影響を受けたとしたら、それは単なる「ことば」ではなく「樋口一葉ワールド」そのものかも知れません。特に「たけくらべ」や「にごりえ」は「十三夜」と違って、社会の底辺に生きる人たちを男女の感情や情念とともに描いています。底辺に生きる人々という面では、中島作品にもいろいろあることが思い起こされます。
しかし中島さんの詩は、何よりも「ことば」が大切にされています。「十三夜」や「忘れられて 忘れられて」は、そこにそういう「ことば」があることが、彼女の中では必然的だったと考えるのが妥当です。そこに、「ことば」を頼りに中島作品と先人の文芸作品、たとえば樋口一葉との関連性を考える "拠り所" があると思います。
(続く)
2015-08-21 20:19
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