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No.150 - クリスティーナの世界 [アート]

今までに原田マハさんの "美術小説" に関して二回書きました。

『楽園のカンヴァス』(2012)
No.72「楽園のカンヴァス」
『エトワール』 - 短編集『ジヴェルニーの食卓』(2013)より
No.86「ドガとメアリー・カサット」

原田マハ「モダン」.jpg
の二つの記事です。この続きなのですが、最近、原田さんは新しい短編小説集『モダン』(文藝春秋。2015)を出版しました。収められたのはいずれも美術をテーマとする小説ですが、すべてがニューヨーク近代美術館(MoMA - Museum of Modern Art)を舞台にしているので、"美術小説" というよりは "美術館小説" です。むしろ "MoMA小説" と言うべきかもしれません。

以下でとりあげるのは『モダン』の冒頭の『中断された展覧会の記憶』です。この小説は私にとっては過去の記憶を呼び醒まされた一編でした。そのストーリーは次のようです。


『中断された展覧会の記憶』


以下では『中断された展覧会の記憶』のストーリーの前半が明らかにされています)

ニューヨーク近代美術館(MoMA)の「展示会ディレクター」である杏子きょうこ・ハワードは、夫のディルとともにマンハッタンのアパートに暮らしています。杏子の両親は若いときにボストンに移住した日本人で、彼女はアメリカ国籍ですが、英語と日本語のバイリンガルです。

杏子はMoMAでの仕事を続けつつ、博士論文を執筆中でした。というのも、彼女は「キュレーター(学芸員)」になるという "野望" を持っていたからです。MoMAのキュレーターは全員が博士号をもっています。彼女も30歳台のうちに博士号をとり、それをキュレーターへの第1歩としたいのでした。

論文の提出期限まで2ヶ月となった2011年のある金曜日の朝のことです。前夜も遅くまで論文に添付する資料を印刷していたのですが、途中で寝てしまい、朝、夫に声をかけられて初めて目が覚めました。その夫が「ちょっと来てくれ。すごいことになっている。トウホクってどこ ?」と言ったのです。すぐに起きあがった杏子は、テレビの画面を見て自分の目を疑いました。夫が「インディペンデンス・デイの最終場面かと思った」と表現した光景が映し出されていたからです。

杏子はすぐに "ふくしま近代美術館" の学芸員、長谷部伸子と連絡をとりはじめます。というのも、ふくしま近代美術館では現在『アンドリュー・ワイエスの世界』展が開催されていて、MoMAはそこにワイエスの「クリスティーナの世界」を貸し出していたからです。この貸し出し交渉にあたったのが杏子であり、日本への輸送・搬入時にはMoMAのコンサバター(修復家)とともに杏子も立ち会ったのでした。

長谷部伸子からのメールには、美術館では一時断水があったものの被害はないこと、ワイエスの作品はまったく問題がないこと、『アンドリュー・ワイエスの世界』展は一時中断せざるを得ないが、引き続き作品の貸し出しをお願いしたいこと、などが書かれていました。

杏子はほっとするのですが、翌週の月曜に出勤しようとした杏子のスマートフォンに、MoMAの館長の秘書から【至急】と題されたメールが入ります。MoMAに着いたら席にすわらずに館長室にくるようにという内容です。

館長が杏子に告げたのは「クリスティーナの世界をフクシマから "救出する"」という、月曜早朝のMoMA緊急理事会の決定でした。杏子は、それでは契約違反になる、展覧会はまだ2ヶ月残っている、と抗議します。しかし館長は、これは契約にある "天変地異" によるものであり、放射能のリスクなど、今後何がおこるか分からないと説明します。理事会の決定は絶対だと分かっている杏子は、従うほかありませんでした。

さらに館長は杏子にクーリエを依頼します。一般に美術館は作品を他の美術館に貸し出すとき、搬入・搬出時に貸し出し側の専門家を責任者として同行させます。これがクーリエですが、クーリエはキュレーターかコンサバターが勤めるものです。杏子のような、そのどちらでもない人間がアサインされるのは異例中の異例です。その理由の推測がついた杏子はクーリエを引き受けました。そして、作品の輸送の手はずが両美術館の間で整った後、杏子は日本へ向ったのでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・

その後の経緯は割愛したいと思います。ただ、何らかの "波乱" が起きるとか、そういうことはありません。これは基本的に「日米の美術館の、作品の貸し借りに関するストーリー」です。波乱が起きる余地はありません。物語はどちらかというと淡々と、ないしは粛々と進みます。その中で杏子と日本の学芸員の伸子との交流が語られ、この作品のテーマが浮かび上がってきます。


4つのポイント


この短編小説には4つのポイントがあります。まず第1は、これが『オール讀物』(文藝春秋)2011年12月号に掲載されたということです。ということは、遅くとも9-10月頃には書きあがっていた、そういう時間経緯だということを押さえておく必要があります。

2つ目は、この小説が東日本大震災からの復興、特に傷つき、打ちひしがれた人たちへの作者なりの "エール" として書かれたということです。この小説の最後の部分は、そのことが明確になるように書かれています。

3つ目は、ここが大切なことですが、この小説はフィクションだということです。2011年3月11日の時点で「クリスティーナの世界」が日本に貸し出されていたという事実はありません。そもそも "ふくしま近代美術館" という美術館は日本にはないのです。ただし、福島県立美術館ならあります。そして福島県立美術館は、日本の公的な美術館ではめずらしくアンドリュー・ワイエスの絵を数点(6点だったと思います)所蔵していることで有名です。おそらく作者の原田さんは、

 東日本大震災
  ↓
 福島
  ↓
 福島県立美術館
  ↓
 ワイエス
  ↓
 クリスティーナの世界
  ↓
 MoMA

という連想が、ほとんと直感的に働いたのでしょう。そして是非とも「クリスティーナの世界」を素材にした小説を書こうと思った。

第4のポイントは、そのワイエスの絵です。実はこの小説のテーマは「クリスティーナの世界」という絵そのものなのです。

  余談になりますが、私がこの小説に惹かれたのは福島県立美術館に行ったときを思い出したからでした。だいぶ前になりますが、東北地方の南部をクルマで家族旅行したとき、帰路の途中にたまたま立ち寄ったのが福島県立美術館でした。計画して行ったわけでなく、ガイドブックを見るとクルマですぐだから立ち寄ってみようかと・・・・・・。そこで強い印象を受けたのが "予想外だった" アンドリュー・ワイエスの作品であり、特に『松ぼっくり男爵』だったのです。


クリスティーナの世界


「クリスティーナの世界」(1948)は、アンドリュー・ワイエスが31歳のときに制作したテンペラ画で、彼の代表作の一つです。この絵については『中断された展覧会の記憶』に原田マハさん自身が書いている "解説" を引用するのが適切でしょう。

クリスティーナの世界.jpg
アンドリュー・ワイエス
(1917-2009)
クリスティーナの世界」(1948)
(ニューヨーク近代美術館)


ワイエスは、1917年、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれた。生涯、生まれ故郷と別荘のあるメーン州クッシング以外には移動を好まず、ひたすらその周辺の風景や人物を描き続けた。草原であれば風に揺れる草の一本一本の輝きを、人物であれば血管が透けて見えるほどのきめ細やかな肌を描き、「マジック・リアリズム」の代表的画家としてその名を広く知られている。2009年、チャッズ・フォードの自宅で死去。享年91。

虚弱体質だったワイエスは、ほとんと学校にも通わず、挿し絵画家だった父から教育を受けて成長した。自宅と別荘の周辺以外に移動しなかった画家は、必然的に自らの周辺の事物に注意深いまなざしを注ぐようになる。極めて鋭い観察眼と対象の本質をも見抜く洞察力を身につけていたワイエスは、別荘の近くに住んでいたひとりの女性を発見する。それが、クリスティーナ・オルソンだった。

原田マハ
『中断された展覧会の記憶』


クリスティーナは小児麻痺ポリオに罹り、足が不自由だった。にもかかわらず、自分のことはすべて自分でやり抜いた。常に前向きな彼女の生き方に、ワイエスは深い感銘を覚えた。その結果、世間からは「不憫な女性」と見なされていたクリスティーナは、画家によって永遠の命を与えられることになる。

横長の画面を枯れた草原がいちめんに覆っている。画面上部を横切っている空に陽光はなく、どんよりとした曇り空だ。その下にぽつんと建つ二軒の家。

画面で見る者の目を奪うのは、やや左下寄りの中央に描かれた女性の後ろ姿だ。薄いピンク色のワンピースに包まれた細い体。両手は枯れ草の大地にしっかりと食い込み、いましも前進しようと力をこめている。か細い髪を揺らして乾いた風が通り過ぎる。過酷な重力に逆らい、懸命に進もうとするその後ろ姿。決して振り向かないその背中。彼女こそが、クリスティーナだ。

『同上』


「多くの人が不幸の烙印を押すであろう彼女の人生を、彼女は自ら克服した。その力をこそ、私は描きたかった」。生前、ワイエスはそう語った。「彼女は確かに身体的には不自由だっただろう。けれど、心は自由だったのだ」。

誰の助けも借りず、自らの意志で、自らが行きたいと願う場所へ行こうとするクリスティーナ。ワイエスがその姿に見たのは、絶望ではない。光だった。

『同上』

小説の中で主人公の杏子が二ヶ月ぶりに福島を訪れ、美術館の収蔵庫で「クリスティーナの世界」と再会する場面があります。


作品は床に敷かれた分厚い布の上に置かれ、壁に立てかけられていた。杏子は少し離れたところから、まず作品全体を眺めた。

二ヶ月まえ、この美術館に運び込まれ、展示室の壁に掛けられたとき、画面の隅々まで輝いているように見えた。ワイエスの個展のハイライトとして展示された効果もあったらからだろうが、この絵はこんなにもすばらしかったのかと驚嘆せずにはいられなかった。

いま、あらためて向かい合ってみると、作品の発するオーラは普通ではなかった。魔力と呼びたいくらいの強烈な引力にあらがい切れない気持ちで、杏子は画中のクリスティーナに視線を注いだ。

枯れた草原、果てしない大地を、どうにか前進しようとする後ろ姿。その後れ毛を無情に揺らす乾いた風。もの皆死に絶えたかのように殺伐とした世界で、彼女はたったひとり生き残った人類であるかのようにすら見える。それでも生きることを望み、前進すること以外眼中にない。まっすぐで、健気で、ひたむきで ─── 生きることに貪欲な、ひとりの人間。

『同上』

「クリスティーナの世界」の英語題名は "Christina's World" です。そして『中断された展覧会の記憶』には、この英語題名を踏まえた副題がついています。

  Christina's Will

というものです。小説家が伝えたかったメッセージはこの副題が表しています。そしてこの絵はクリスティーナという一人の女性の生き方をギュッと凝縮したような絵だと行って良いでしょう。

想像するに原田マハさんは、過去に何度となく見たはずの「クリスティーナの世界」という絵を "再発見" したのだと思います。この絵がもつ深い意味と普遍性のあるメッセージが "真に" 理解できた。そのきっかけとなったのが、2011年3月11日に東日本で起こった出来事だった。だから小説を書こうと思った。いや、書くことが、MoMAに勤務したことがあり、かつ物書きである自分の使命だと思った・・・・・・。そういうことだと想像します。


「時代」と「クリスティーナ」


話は飛ぶのですが、この短編小説を読んで中島みゆきさんの「時代」を思い出してしまいました。No.35「中島みゆき:時代」に書いたように、この曲は一青窈さんや八神純子さんが被災地で歌っています。また、歌うのはこの二人だけではないし、何よりも数々のアマチュアの合唱団や学校の合唱サークルが被災地で歌っています。歌い手は、被災された方への希望のメッセージを「時代」という歌に託しているわけです。

「時代」は40年前に作られた曲であり、震災や災害とは何の関係もありません。しかし「時代」の詩がもつ普遍性が歌い手をして、この曲に "自分の思いを託したい" という気にさせるのだと思います。

そこで「クリスティーナの世界」です。これは絵なので、何らかの言葉が付随しているわけではありません。絵についての画家の言葉があるだけです。そこからクリスティーナがどういう女性だったかは理解できます。しかし絵を見ると、空の下の"荒涼とした" 草原に家が2軒、女性がひとり、たったそれだけです。たったそれだけの中に、人は深い意味を見つけ、そして原田マハさんのように被災された方々へのメッセージを託することまでできる。1枚の絵画がもつ "ちから" を感じます。

その "ちから" を絵にもたらしたのは、言うまでもなくクリスティーナという女性そのものです。常に前を向き、自分に与えられた環境の中で、真摯に、やるべきことを全うする。そのクリスティーナの "ちから" を倍増させているのが、実はアンドリュー・ワイエスの絵の描き方だと思います。テンペラの手法を用い、細かい作業を、一つ一つ、膨大に積み重ねていって、空と草原と家と女性という、たったそれだけの世界を真摯に描くというその制作態度・・・・・・。これがあるからこそ、表情の分からないクリスティーナは永遠の生命を持ったし、見る人に強いインパクトを与えることになった。

この絵は、描かれたモチーフと絵画手法が最上の形でマッチした傑作でしょう。だからこそ、この絵が強烈なメッセージ性を宿すことになったのだと思います。『中断された展覧会の記憶』という "フィクション" が書かれるほどに・・・・・・。


『モダン』


原田マハさんの『モダン』には、

  『中断された展覧会の記憶』
『ロックフェラー・ギャラリーの幽霊』
『私の好きなマシン』
『新しい出口』
『あえてよかった』

の5つの短編小説が収められています。『ロックフェラー・ギャラリーの幽霊』と『私の好きなマシン』は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長、アルフレッド・バー・ジュニアに関係した物語、『新しい出口』は「マティス ピカソ展」に関した話です。また最後の『あえてよかった』は「ニューヨークに居住したことのある日本人」でないとまず思いつかないような "小洒落こじゃれた" ストーリーになっています。

最初に書いたように、いずれの短編もMoMAが舞台であり、主人公は "MoMA関係者" です。ただし5編の主人公はぜんぶ違ったタイプの "MoMA関係者" です。そして全体に感じたのは、原田マハさんのストーリー・メイキングのうまさです。その腕が冴えた小説集だと思いました。


ポーラ美術館のセザンヌ展


ここからは原田マハさんの『中断された展覧会の記憶』とは直接の関係がない余談です。

箱根のポーラ美術館でゼザンヌ展が開催されています。会期は2015年4月4日(土)~ 9月27日(日)で、会期中は無休です。この展覧会の最大のポイントは、日本全国の美術館のセザンヌの作品、21点が一堂に会することです。分類すると、

◆ポーラ美術館所蔵: 9点
◆他美術館所蔵:12点

ポーラ美術館・セザンヌ展(2015).jpg
です。ただし他美術館所蔵のうち、東京国立近代美術館(皇居・北の丸公園)が2014年に20億円で購入したばかりの「大きな花束」は、6月7日までの展示です。従って6月8日以降は20点のセザンヌ作品ということになります。

さらにこの展覧会では、セザンヌの前の時代クールベ、マネ、セザンヌの師のピサロ、友人のモネとルノアール、セザンヌから出発して絵画に革命を起こしたピカソとマティスなどを合わせて53作品が展示され、近代絵画におけるセザンヌのポジションが一望できるようになっています。

ところが、2015年7月3日にポーラ美術館はホームページで「展示作品の一部変更について」というアナウンスを行いました。そのアナウンスは現在(2015.7.18)次のようになっています。


展示作品の一部変更について

箱根町大涌谷周辺の噴火警戒レベルが3に引き上げられたことに伴い、企画展「セザンヌ―近代絵画の父になるまで」では、緊急時における当館運営の指針に基づき、借用作品のうち下記8点を展示しておりません。ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんが、予めご了承いただきますようお願い申し上げます。

ポール・セザンヌ

《りんごとテーブルクロス》(1879-1880)
  三菱一号館美術館寄託
《ポントワーズの橋と堰》(1881)
  国立西洋美術館
《縞模様の服を着たセザンヌ夫人》(1883-1885)
  横浜美術館
《曲った木》(1888-1890)
  ひろしま美術館
《帽子をかぶった自画像》(1890-1894)
  ブリヂストン美術館
《水の反映》(1892-1894)
  愛媛県美術館
《ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山》(1892-1895)
  横浜美術館

(セザンヌ以外の1作品は省略。記述を一部簡略化)

この結果、展示されているセザンヌ作品は、

◆ポーラ美術館所蔵:9点
◆他美術館所蔵:4点

ということになります。こうなると、残念ながら「国内のセザンヌが一同に会した展覧会」ではなくなってしまいました。なお展覧会は今も(2015.7.18 現在)続いています。

おそらくポーラ美術館は、セザンヌを貸し出してくれた美術館に対して、箱根山の火山活動への対応を丁寧に説明したと思います。管理に万全を期すとか、万一の場合の対応など、こと細かに説明したと想像します。しかし上記の7作品を所蔵する美術館の判断は「レベル3で展示中止」だった。作品をどうしたかは、ホームページに書いていないので分かりません。箱根から離れた場所に避難させたのか、あるいは所蔵美術館に返されたのか、それは不明です。

他館からの4作品は現在も展示中のようです。つまり貸し出した側の対応も分かれたわけですが、それはやむをえないと思います。噴火のリスクがある以上、展示は中止する。それも分かるし、ポーラ美術館側の対応を信頼して展示を続けるのも分かる。こういった自然災害のリスクをどう考えるかは難しいものです。

この展覧会を企画・実現したポーラ美術館の学芸員はさぞかし無念だと思いますね。(おそらく)2年も3年もかけて企画した展覧会のはずです。国内最多のセザンヌ所蔵数を誇る美術館だからこその企画だという自負もあっただろうし、ある種の "使命感" があったかもしれない。しかも「大きな花束」という、所蔵する東京国立近代美術館にとっての「超目玉」作品まで(はじめの2ヶ月とはいえ)借り受けた。交渉には紆余曲折があったと想像します。他の美術館も、セザンヌを9点も所蔵しているポーラ美術館だからこそ協力したのでしょう。

しかし、セザンヌ展が華々しくオープンした2015年4月4日の "矢先" と言ってもいい4月の下旬、箱根山で不吉な火山性微動が観測され始めた。その後の経緯はマスメディアで報道されている通りです。そして今回の7作品の展示中止です。

ポーラ美術館のセザンヌ展の経緯をみていると『中断された展覧会の記憶』のストーリーが、極めてリアルなものに思えてきました。もちろん小説はフィクションなので、日米にまたがる「話の組み立て」は大きいし、背景となっている災害の規模も桁違いだけれど・・・・・・。

あえて "余談" を書いた理由です。



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