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No.147 - 超、気持ちいい [文化]

No.144 / 145 / 146 に続き、日本語の話題を取り上げます。No.144「全然OK」で、朝日新聞(2015年4月7日)に掲載された「"全然OK" は言葉の乱れ」との主旨の投書を取り上げましたが、再び朝日新聞の投書欄からです。


"めっちゃ" と "超(ちょう)"


2015年5月17日の朝日新聞の投書欄に、以下のような投書が掲載されました。


日本語と方言の豊かさ知って
東京都・無職・76歳(男性)

若者を中心に「めっちゃ」「超」という言葉が使われています。同じ意味の言葉は、ほかにもこんなにあります。

とても。非常に。大変。大層。甚だ。すこぶる。うんと。大いに。それはそれは。何とも。めっぽう。とびきり。べらぼうに。無上の。えも言われぬ。4月1日の本誌朝刊「折々のことば」にも「はてない」という、すてきな言葉がありました。日本語は何と豊かなことか。

方言も宝物です。昔聞いた、みそ会社のコマーシャルも忘れられません。亡くなった歌手の淡谷のり子さんが「たいすたたまげた!」と言っていました。みそ汁の香りまで連想させます。

中学生、高校生のみなさん、使う言葉の幅を広げ、方言も仲間に加えてみてはいかがですか。

朝日新聞(2015.5.17)

実はこの投書の横には別の投書があって「"半端じゃない" を "ぱない" と言う若者言葉は略しすぎで、言葉の乱れ」という主旨の、14歳の少女(福岡県・中学生)の投書が載っていました。言葉遣いに関心がある人は年齢を問わずに多いようで(私もそうですが)、たて続けに(定期的に)このような投書を採用する朝日の編集部にも、ずいぶん日本語に関心がある人がいるようです。新聞社ならあたりまえかもしれませんが。

東京都・76歳氏の投書に話を戻して、この投書に列挙されている16個の言葉が、話ことば(口頭語)として「めっちゃ」や「超」の替わりになるかどうかは大いに疑問です。この種の言葉は「役割語」としての性格を帯びていて、若者・老人・サラリーマン・男・女などの、社会における「役割」に応じて使う言葉に特色があることが多いからです。使う言葉によって「役割」を再確認し合っている。意味が同じだからといって代替できるとは限りません。

その、列挙されている「豊かな日本語」の筆頭は「とても」(= 肯定的に使う "とても")です。No.145「とても嬉しい」で書いたように、明治時代から(おそらく)昭和10年代まで、"とても" は「とても出来ない」というように否定語と組み合わせて使うべき、という言葉の規範意識がありました。実際、作家の丸谷まるや才一氏(1925。大正14年生まれ)は "とても" を「なるべく否定のときに使うようにしている」言っています。評論家の山崎正和氏(昭和9年生まれ)の祖母は、山崎氏が子供のころ「とても嬉しい」というような言い方をすると厳しく叱ったといいます(以上、No.145)。

東京都・76歳氏が小学校から10歳台を過ごしたのは昭和20年代から昭和30年代はじめ(1945-1958年あたり)なので、この頃にはすでに肯定的に使う "とても" は一般的だったということでしょう。もし内心、少しでも違和感があるのなら「豊かな日本語」の筆頭とはしないはずです。肯定的に使う "とても" は「使ってはいけない言葉」から「豊かな日本語」へと大変身したわけです。



それはさておき、この投書は「言葉遣いの乱れを指摘する投書の一般的なパターン」ではないことが特徴です。つまり No.144「全然OK」で指摘したように、一般的なパターンとは、

最近(ないしは、最近の若者に)「・・・・・・」という言い方が目立つ。
これは言葉遣いの乱れである。
正しい言葉を使おう

という論旨展開を言っています。一見、論理的なようなのですが、No.144「全然OK」でみたように の前提が違っていることがあり、たとえば「全然いい」のような「肯定的に使う全然」は、最近言われ出したどころか明治時代からあったりするのでした。

さきほど触れた福岡県・14歳嬢の投書はこの「一般的なパターン」に沿っているのですが、東京都・76歳氏の投書は違います。その特徴は2点あって、

「めっちゃ」と「超」を話題にしているが、それを「言葉遣いの乱れ」とか「日本語の乱れ」だとはしていない。ほかにもっと言葉がありますよ、と若者をさとしている。

「方言は宝物」だと主張している。方言にも( "めっちゃ" や "超" に相当する)多様な言葉があると言っている。

の二点です。②の「方言は宝物」という発言に関してですが、日本近代史を振り返ると「方言撲滅運動」や「方言矯正運動」がいろいろありました。沖縄の「方言札」が有名です。学校で方言を言うと首に札をぶらさげるという・・・・・・・。関東地方でも「ねさよ運動」がありました。そういう歴史からすると、方言は貴重という意識は日本の文化の成熟を感じます。

しかし、ここで問題にしたのは です。 は「若者の単調な言葉遣い」、きつく言うと「若者のボキャブラリーの貧困」を指摘しているのですが、想像するに東京都・76歳氏は「めっちゃ・超」という言葉そのものに違和感を感じるのだろうと思います。それは「はてない」という、まず普通の日本人は話し言葉で使わないだろうし、文章語としても(プロの文筆家は別にして)まず使わない言葉を引き合いに出していることに現れていると思います。「めっちゃ・超」とは全くの対極にある言葉を持ち出すことで「めっちゃ・超」に対する違和感をにじませている。

しかし思うのですが、「めっちゃ」「超」は日本語の伝統に沿った、大変に "まともな" 言葉だと思います。そしてこういう言葉の存在こそ「日本語の豊かさ」を実証していると思うのです。その理由を以下に書きます。


めっちゃ、楽しい


"めっちゃ" ないしは "めちゃ" が滅茶苦茶(目茶苦茶、メチャクチャ)から来ているとは誰しも認めると思います。

  滅茶苦茶(めちゃくちゃ)、楽しい

という使い方がオリジナルでしょう。この言葉は日本語大辞典(小学館)では、次のように解説されています。


めちゃ-くちゃ 【滅茶苦茶・目茶苦茶】

「くちゃ」は語調を整えるために添えたもの。「滅茶苦茶」「目茶苦茶」はあて字)

①全く筋道のたたないこと。非常に度はずれていること。また、そのさま。めちゃめちゃ。めちゃ。むちゃくちゃ。(田山花袋、夏目漱石からの引用 - 省略)

②どうにもならないほどこわれること。まったく悪い状態になること。また、そのさま。めちゃめちゃ。めちゃ。むちゃくちゃ。(有島武郎などからの引用 - 省略)

日本語大辞典 第10巻
(小学館 1976)

「くちゃ」は語調を整えるために添えたもの、とありますが、添えられる前の言葉である「滅茶・目茶」の解説もあります。


めちゃ 【滅茶・目茶】

「むちゃ」の変化したものか。「滅茶」「目茶」はあて字)

①「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)①」に同じ。

②「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)②」に同じ。(樋口一葉などからの引用 - 省略)

日本語大辞典 第10巻
(小学館 1976)

この語義解説をまとめると「めちゃ(滅茶)」も「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)」も同じ意味であり、明治時代からある言葉であって、書き言葉としては著名作家が使っているということになります。また「めちゃ」の語源と推測されている「むちゃ」は江戸時代からある言葉です(日本語大辞典)。むちゃ(無茶)→ めちゃ(滅茶)→ めちゃくちゃ(滅茶苦茶)という、言葉の形成過程が推測できます。

最新の『広辞苑 第6版』(2008)には、もちろん「めちゃ」も「めちゃくちゃ」もあります。ただし「程度が非常に大きいさま」という語義は「めちゃくちゃ」にしかありません。従って「めちゃ、楽しい」は "俗な言い方" ということになりそうです(あくまで "広辞苑基準" ですが)。

言葉の使われ方には栄枯盛衰があり、ある言葉がメジャーになったりマイナーになったりします。推測ですが、おそらく口頭語としての「めちゃ」は明治時代以来、綿々と使われていていて、それが現代で「目立つ」ようになった。特に「程度が非常に大きいさま」にも使われるようになった。だから「目立たない」時代に幼少期を過ごした人は違和感を感じる。そういうことではないでしょうか。

めちゃ(滅茶)のような "由緒ある" 言葉を、現代の若者が「めっちゃ、楽しい」と、副詞としてリユースするのは全く問題がないと思います。問題がないどころか、日本語を豊かにする "さきがけ" となっていると思います。


超 (ちょう)


「滅茶(目茶、めちゃ、めっちゃ)」と違って、副詞としての「超(ちょう)」は昔からある言い方ではありません。Wikipediaの記事によると、1950年代から使われ出して、1968年の東映映画には実例があるということなので、まだ60年ほどの歴史しかありません。

近年(と言っても、10年以上前ですが)「超(ちょう)」を有名にしたのは、水泳の北島康介選手です。2004年のアテネオリンピックで北島選手は100メートル平泳ぎと200メートル平泳ぎで金メダルをとりましたが、その100メートル平泳ぎで優勝した直後の発言です。


北島 悲願の金 「ちょー気持ちいい」

<アテネ五輪競泳:男子100メートル平泳ぎ>◇15日

勝った。泣いた。叫んだ。北島が悲願の金メダルを獲得した。競泳男子100メートル平泳ぎで、日本のエース北島康介(21=日体大)が1分0秒08のタイムで優勝。世界記録保持者ブレンダン・ハンセン(23=米国)を退け、表彰台の中央に立った。ケガや体調不良に苦しみ、大会直前には世界記録も更新されたが、大舞台で逆転。競泳では92年バルセロナ大会の岩崎恭子以来、男子では88年ソウル大会の鈴木大地以来の栄冠を日本にもたらした。

最後はやはりハンセンとの争いだった。猛追してくるライバルから、必死に逃げる。持ち前の大きな泳ぎは崩れない。最後のタッチは流れたものの、0秒17差勝った。金メダルを確認すると、水面を右こぶしで思い切り叩く。激しい水しぶきの中に最高の笑顔。体を震わせて、何度も雄叫びを上げる。日の丸が激しく揺れるスタンドに手を挙げ、ど派手なガッツポーズ。追い求めてきた夢をかなえ、体中から喜びがあふれた。

「ちょー、気持ちいい。やる前からハンセンとの勝負と思っていた。気持ちで絶対に勝つと思い、スタート台に立った。どこで勝ったかは覚えていない」と一気に話した。「(金メダルは)鳥肌ものですね。気持ちいい~」。緊張感から完全に開放されると、ひと目も気にせずに号泣した。感動的な男泣きだった。

2004/8/16/09:35
nikkansports.com(紙面から)

北島選手・アテネ五輪.jpg
(nikkansports.com より)
試合後のインタビューは繰り返しテレビで放映されたので、多数の(大多数の)の日本人が見たはずです。「ちょー、気持ちいい」は、2004年の「新語・流行語大賞」の「年間大賞」になりました。「超(ちょう)」が完全に "市民権" を得たということでしょう。北島選手のこの発言は、オリンピックでの金メダルというスポーツ選手の最高峰に立った喜びを爆発させた発言として、多くの日本人が感動したのではと思います。中には(おそらく東京都・76歳氏のように)違和感を感じた人がいたかもしれないけれど。


「超」の使い方の拡大


「超」の基本の使い方は、名詞の接頭語(接頭辞)として既存の名詞の前に付加し「その名詞が表す通常の概念を越えた存在」であることを示す新たな名詞を作る、というものです。これには、

  超特急、超大国、超高層(ビル)、超自然(現象)、超人、超能力、超新星、超音波、超伝導

など多数あります。英語の super- や ultra- の訳としても使われます。superconductivity の訳は超伝導、のたぐいです。上にリストした単語は明らかに「一語の名詞」として発音されています。

しかし「超」は既存の言葉だけではなく、新たな言葉を作り出す接頭語としても使われてきました。1980年代ですが、小説家、シドニー・シェルダンの「ゲームの達人」(1987)を翻訳出版したアカデミー出版は、この日本語訳を「超訳」と称しました。これは「日本語としての読みやすさ・分かりやすさを最優先させるため、徹底した意訳を行い、省略や構成の組み替えも辞さない訳」だそうです。この翻訳方針が妥当かどうかは別にして、「超」を使って新語(=広告のためのキャッチ・コピー)と作った例です。

また1990年代ですが、一橋大学の野口悠紀雄教授(当時)は『「超」整理法』(1993)を出版しました。これは内容による分類を全く捨て去り、書類や文書にアクセスした日時によって時系列に整理するという手法です。題名としては『新整理法』でもいいはずですが、「従来の整理の概念を根本から変える」という意味を込めて「超」をつけたのだと思います。この本の題名は「超」を括弧にいれることで、整理を修飾する独立した形容詞のイメージにしています。

もちろん野口教授は言葉遣いの怪しい若者ではなく、実績のあるれっきとした経済学者です。これは、社会的地位が高い(と考えられている)人物が「超」を独立句として使った(使わされた?) "画期的な" 本だと思います。

このような伝統からか、現在においても『超訳 日本国憲法』(池上彰。新潮新書。2015)や『超・知的生産法』(角川新書。2015)などがあり、「超」は出版界に定着したようです。



ここまでの「超」は「名詞の前につける語」でした。しかし「超」が「程度を表す名詞」の前つくと微妙になってきます。「超」が形容詞(形容動詞)を修飾する副詞的になってくるのです。

「超満員」という言葉があります。これは一見「超特急」と同じようですが、少し違います。実際の使われ方は、

新幹線の自由席は「超満員」だった。
新幹線の自由席は「超」「満員」だった。

の2種あります。 は「超満員」という一語であり、アクセントを「超」だけにつけます。「超音波」「超伝導」と同じ発音です。一方 は「超」でいったん語を区切る言い方です(発音のピッチを下げ、満で再び上げる)。おそらくNHKのアナウンサーは必ず でしょうが、普通の会話では もよく聞きます。そうだとすると が許されるという前提で、

新幹線の自由席は「超」混んでいた。

と言いたくなるのは不思議ではありません。

さらに「超一流」というような言葉になると、もっと微妙になります。これは「超満員」とはまた違って、

彼のシェフとしての腕前は「超」一流だ。

というように「超」を独立語として発音するのが普通です。「超」で発音のピッチをいったん下げ、「一流」でピッチを上げる。ということは、

彼が出すフレンチは「超」旨い。

という言い方があってもおかしくはない。

さらに現代社会では、家電量販店のチラシ、ディスカウント・ストアやスーパーの店頭のPOP広告、CMのキャッチ・コピー、ネットショッピングのサイトなどに「超」のつく言葉が溢れています。超安値、超新鮮、超快適、超人気、超レア、などです。これらの言葉を日常会話で使うとすると、

このテレビは超安値で買った
このテレビは「超」安かった

となります。

の言い方と、北島選手の「超、気持ちいい」はごく近いわけです。北島選手の発言は、確かに日本語の昔からある用法ではないかも知れないけれど(高々、使われ出してから60年です)、言葉の使用法の拡大としては、自然な流れの中にあると言えるでしょう。


「極」「即」という前例


「超、気持ちいい」という言い方は、「漢字一字を音読みにして副詞として使う」ものです。実は、日本語にはこの前例があります。今しがた使った「極(ごく)、近い」という表現です。

「極」は熟語として、極上、極悪、極悪人、極意、極秘、極道、極彩色、極薄、などと使います。また名詞に付加する接頭語として、専門用語になりますが「極紫外線」というようにも使う。しかし「極(ごく)」は、

極、親しい間柄
極、まれに起こる
極、わずかしかない

というように、独立した副詞としても使うのですね。

さらに「即」という前例もあります。熟語としは、即断、即決、即興、即答、即席、などですが、

即、電話して!

のようにも使います。



まとめると「超、気持ちいい」という言い方は、超特急 → 超満員 → 超一流 → 超安い → 超気持ちいい、という使用法の拡大の流れの中にあり、かつ「極」「即」という前例にも沿っています。これは「とても嬉しい」と同じように、日本語の語彙をより豊かにする変化だと思います。


強調表現の宿命


北島康介選手のインタビューに戻ります。北島選手はなぜ「ちょー」と言ったかを推測すると、オリンピックでの金メダルという、スポーツ選手としての「究極の目標」を達成し、しかも「宿敵」のハンセン選手に僅差で勝ったという状況の中で、他に適当な言葉が見つからないということではないでしょうか。もし北島選手が、

とても気持ちいい
大変、嬉しい

とか言うと、おそらくテレビを見ている人は「おやっ。喜びも "ほどほど" なのか」と暗黙に受け取ってしまうでしょう。つまり、このようなシチュエーションでの「普通の言葉」や「正しい日本語」は、かえってそぐわない。

  その意味で、水泳つながりですが、1992年のバルセロナ・オリンピックの女子200メートル平泳ぎで金メダルをとった岩崎恭子さん(当時14歳になったばかり)の「今まで生きてきた中で一番幸せです」という発言は名言と言えるでしょう。「今まで生きてきた中で」という表現は、黒柳徹子さんが言うのならともかく、14歳の女の子の発言としては聞く方がドキッとします。まるで不治の病と戦う少女が病院のベッドで言うような言葉だからです。このギャップ感が名言たるゆえんです。ただし、こういう言い方は誰でも咄嗟に出るわけではないでしょう。

本題に戻って、「普通の言葉はそぐわない」というのは、程度を強調する "強調表現" の宿命を象徴しているように思えます。あまりに一般化してしまった強調表現は、強調の度合いが少ないように感じられてしまうわけです。振り返ってみると、No.144「全然OK」の "全然"も No.145「とても嬉しい」の "とても" も、否定とペアで使うのが(一時期)メジャーだった言葉を、強調のための副詞として使うものでした。

副詞以外の強調表現もそうです。冒頭で触れた「半端じゃない」という言い方も、わざわざ「半端」を持ち出して「ない」で否定している。あえて「ない」を使う方がより強調を表すように人は感じるからだと思います。言語学・文化人類学者の西江雅之氏の著書に、次のような一節があります。


「ものすごい」などというのも、かつては恐ろしいものに対してしか使わなかったのが、今やまったく普通に「ものすごい美人を見た」と言いますよね。昔だったら、それではもう怪獣かお化けみたいになってしまいますけど。形容詞などにはそういう例が多いんです。

西江雅之
『「ことば」の課外授業』
(洋泉社。2003)

青空文庫の用例で「ものすごい(物凄い)」を検索すると、夏目漱石、正岡子規、寺田寅彦、島崎藤村、宮沢賢治、梶井基次郎、太宰治、などの著名作家の文章が続々と出てきますが、確かに「恐ろしいもの」にしか使っていませんね。青空文庫は著作権が切れた(死後、50年以上たった)作家の作品しかありません。「ものすごい美人」という表現は、この50年の間に広まったことは間違いないでしょう。そういう、日本語の語彙変化の中で「めっちゃ」も「超」も考えるべきだと思います。



少々余談になりますが、思い出したので書いておきます。従来「・・・・・・ すぎ(過ぎ)」「・・・・・・ すぎだ」「・・・・・・ すぎる ・・・・・・」という表現は、形容詞・形容動詞の語幹について「程度が許容の範囲を越えている」という意味に使われてきました。「このTシャツは、私には大きすぎます」というようにです。

ところが、2000年代からこの表現は「程度が通常の想定を上回っていて好ましい」という意味にも使われ出しました。これを広めたのが、2007年に八戸市の市議会議員に当選した藤川優里議員を「美人すぎる市議」と形容したメディアの報道です。以降、「可愛いすぎ」「面白すぎ」「楽しすぎ」「うれしすぎ」というような使い方が続々とされるようになった。こういった使い方は「超」と似ています。「超可愛い」「超面白い」「超楽しい」「超うれしい」とも言えるからです。

今後も強調表現の "進化" は続くのでしょう。


「超」に続くのは?


"強調表現の宿命" を考えると、「超」が完全に一般化したあかつきには、別の漢字一字の音読み(字音)で「程度が強い」ことを表す言葉が出現すると予想しています。

最近マスコミで、中国人観光客を中心とした「爆買い」が話題になっていますが、この「爆」はどうでしょうか。

もともと「爆」は、爆弾、爆発、爆撃、空爆、など、何かが破裂するイメージです。ところが「爆笑」という言葉があります。破裂のイメージを大笑いに拡張したものだと考えられます。ここまではよいのですが「爆睡」となると怪しくなってくる。これは長時間、死んだように眠ることなので、破裂のイメージほとんどなく「睡」を強調する語としての使い方です。これが「爆買い」となると、短時間にお金をつぎ込んでたくさん買う意味であり、「爆」には強調の意味しかないことが明白です。もともとの言葉のイメージが完全に変化しています。

しかし「爆」は、現段階では形容詞的な言葉にはつながらないと思います(爆安?)。独立した副詞とするには、まだ不十分でしょう。



やはり「超」に続く最有力候補は「激」ではないかと思います。この語は、激化、激務、激減、激増、激震、激賞、激痛、激怒、激動、激突、激変、激流、激励、激論、などと使い、また二字熟語の後ろとしては、過激、刺激、感激、急激、などで使われます。

ところが「激」は新語を作る接頭語としても使われるのですね。その代表は、写真家・篠山紀信氏の、女性をモデルにした写真集につけられた「激写」(1975~)です(その最初は、山口百恵さんのグラビア写真)。ちなみに「激写」は小学館が商標登録しているそうです。つまり「激写」と銘打った写真集は小学館しか出せません。

この「激写」が引き金になったのだと思いますが、「激走」「激太り」「激せ」などと言われ出しました。さらにここが重要ですが、形容詞的な語とも結合して、激安、激から、激うま、激、激レア、などと使われます。このうち「激辛」は1986年の新語・流行語大賞の新語部門で銀賞をとった言葉で、つまり1986年から広まった言葉です。しか今や「激辛」はトウガラシ、スパイスなどの香辛料の刺激味を表現する言葉として完全に定着してしまった感があります。そういう前提で次の3つの文、

あの店の麻婆豆腐は激辛だ。
あの店の麻婆豆腐は「激」辛い。
あの店の麻婆豆腐は「激」うまい。

を考えてみると、 が許されるなら があってもよい感じがするし、それなら将来 が出てくるように思えるのです。



いずれ死語になってしまうような新語・流行語・省略語は別にして、"正しい" とされる言葉も徐々に変化し、使い方が拡大していきます。あれっ、と思うような言葉でも、日本語の変化の大きな流れとして理解できることが多い。また前回の No.146「お粥なら食べれる」で書いたように、言葉の基本的な部分はそう易々やすやすとは(100年程度では)変わらないものです。言葉遣いの問題は、少し長期の視野から見て議論するべきだと思います。



 補記1:シュールレアリスム 

ゴルコンダ.jpg
ルネ・マグリット
「コルコンダ」
(美術展の公式サイトより)
2015年3月25日から6月29日まで、東京・六本木の国立新美術館でルネ・マグリット展が開催されています(その後、京都市美術館に巡回)。この展覧会を見ると、マグリットの作風はさまざまに変化してきたことが分かるのですが、有名なのは、いわゆる「シュールレアリスム」の作品群でしょう。

朝日新聞・2015年6月14日の紙面で「はじめてのシュールレアリスム」という見出しで、フランスの詩人、アンドレ・ブルトンが1920年代のパリで開始したシュールレアリスムの文化運動が解説されていました。マグリットの「ゴルコンダ」が、シュールレアリスムの代表的な作品として紹介されています。その記事の最後で、日本語との関連があったので引用します。


シュールレアリスムの日本語訳は「超現実主義」。仏文学者の巌谷いわや國士くにおさんは「超現実の『超』は『超かわいい』という時に近い」という。フランス語で言う「シュルレアリスム」の「シュル」は「強度の」という意味。「超現実」は「真の現実」なのだ。

朝日新聞(2015年6月14日)

確かに仏和辞典をみると、接頭語としてのシュル(sur)の意味は「・・・の上に、・・・を超えて、極度の、過度の」とあります。シュールレアリスム運動が始まったのは、日本で言うと昭和の時代の初め頃です。従って「超現実主義」という日本語訳は "現実ではない" というニュアンスになってしまい、フランス語本来の意味をとらえていないものだった。しかし「超かわいい」という言い方が日本でも1950年代から使われ出して、現代ではかなりメジャーになった。となると、意外にも「超現実主義」という日本語訳が本来のフランス語の意味とマッチするようになった・・・・・・。

シュールレアリスムは、日本の若者言葉風に「ちょー現実主義」と受けとるべきなのですね。それが文化・芸術運動としての本来の意味です。フランス語の「シュル」と日本語の「超」の意外な関係が理解できました。



 補記2:鬼 

本文中で、「超」と同じように「漢字1字を音読みにして副詞として使う」言い方の次の候補は「激」ではないかと予想しました。しかし「超」と類似の新顔が現れて、すでに使われています。それが「鬼・おに・オニ」です。これは漢字1字の音読みではなく、訓読み=古来の日本語です。しかし使われ出した経緯が「超」と極めて似ています。

「鬼」はもともと名詞の接頭辞として「無慈悲」「冷酷」「恐ろしい」「巨大」「異形」「勇猛」「強い」などの意味を付加するものでした。「鬼将軍・鬼軍曹」「鬼監督・鬼コーチ」「鬼検事」などです。栗の外皮を「鬼皮」と言いますが、強いという意味です。

さらに「鬼」は動植物・生物の名前にも長らく使われてきました。同類と思われている生物同士の比較において、大きいとされているものは「大・おお・オオ」を接頭辞として使いますが、それをさらに凌駕する大型種は「鬼・おに・オニ」を冠して呼びます。オニグモ(鬼蜘蛛)、オニユリ(鬼百合)、オニバス(鬼蓮)といった例です。

しかしこの数年、さらに進んで、鬼を副詞として、ないしは形容詞・形容動詞の接頭辞として使って意味を強める言い方が若者の間に出てきました。オニの部分をあえて漢字書くと、

 ・鬼かわいい
 ・鬼きれい
 ・鬼うまい(鬼おいしい)
 ・鬼むかつく

といった言い方です。これは「超」の使い方とそっくりです。この使い方が定着するのか、ないしは今後消えてしまうのかは分かりません。ただ、強調表現の宿命として常に新しい表現が求められる、その格好の実例だと思います。

(2020.6.12)



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