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No.146 - お粥なら食べれる [文化]

前回の No.145「とても嬉しい」で、丸谷才一・山崎正和の両氏の対談本『日本語の21世紀のために』から「とても」と「全然」の使い方を取り上げました。この本では "有名な"「見れる」「来れる」という言葉遣いについても話題にしています。「とても」「全然」は個々の単語の問題ですが、「見れる」「来れる」に代表される、いわゆる "ラ抜き言葉" は、動詞の可能形をどう表現するかという日本語の根幹に関わっているので重要です。

日本語の21世紀のために.jpg
丸谷才一・山崎正和
「日本語の21世紀のために」
(文春新書)
「・・・・・・ することが出来る」という "可能" の意味で、

来られる
見られる
食べられる

と言わずに、

来れる
見れる
食べれる

とするのが、俗に言う "ラ抜き言葉" です。文法用語で言うと「来る」はカ行変格活用動詞、「見る」は上一段活用動詞、「食べる」は下一段活用動詞ということになります。 "ラ抜き言葉" が日本語の乱れか、そうでないのか、今でもまだ議論があると思います。これについて丸谷才一氏は次のように語っています。


丸谷才一
僕は「来れる」は使いませんね。「来られる」「来られない」でやっています。「見れる」も使わない。ただしこれは「見られる」とは言わずに「見ることができる」「──できない」と言っている気がします。

僕はしかし、自分では使わないけれども、「見れる」「来れる」を使うからといって、それを咎めたり、非難したりする気はないんですよ。いや、昔は非難したかな ?

丸谷才一・山崎正和
『日本語の21世紀のために』
(文春新書 2002)

自分では使わないが、使っている人を非難はしない、いや昔は非難したかもれない、とのあたりに、言葉の規範意識の変化が現れていると思います。言葉を職業にしている小説家でさえそうなのだから、普通の人の規範意識はもっと変化すると考えられます。

丸谷才一氏は、いわゆる "ラ抜き言葉" と文学の関係についても言及しています。それは川端康成が自分の作品に「見れる」を使っていることで、『日本国語大辞典』(小学館)にちゃんと例文が載っているという指摘です。さらに川端康成と "ラ抜き言葉" について、丸谷氏自身のおもしろい経験談が披露されています(原文に段落はありません)。


丸谷才一
伊藤整さんが、あるとき「川端さんはひどいですよ」と、僕に言うんです。何がひどいのかと思ったら、サイデンステッカーさんが伊藤整さんに向かって、「伊藤さん、あなたの日本語はおかしいですよ」と言ったんですって。あの人らしいよね。「あなたの作品の中に『見れる』とありました。あれは北海道の言葉です」。

そのとき横に川端康成がいたんだけど、黙っていて、ちっとも伊藤さんをかばってくれない。「ところが川端さんは『見れる』を使ってるんです」と伊藤さんは言ったんです。で、「川端さんというのはそういう人ですよ」(笑)。

山崎正和
なんだかありそうな感じがしますね。

丸谷才一・山崎正和
『日本語の21世紀のために』

サイデンステッカーは「見れる」を誤用(方言)だと確信しているし、伊藤整と川端康成は「見れる」を自分の作品に使っていて、そのことを自覚しているという構図です。黙っていた川端康成を "弁護" するなら、アメリカ人に日本語の誤用を指摘された文学者をかばうのは気が進まないでしょうね。自分も文学者であるだけに。


川端康成『二十歳』


『日本国語大辞典』があげている「見れる」の例文は、川端康成の短編小説『二十歳』からのものです。この小説は角川文庫の短編集『伊豆の踊子』に収録されています。

伊豆の踊子.jpg
川端康成「伊豆の踊子」
(角川文庫)
この文庫は短編小説集であり「二十歳」が収められている。
『二十歳』は、静岡県清水の歯医者の息子である "銀作" の20年という短い生涯の話です。銀作の母は "お霜" といい、清水の博徒の娘です。お霜は、銀作の弟の芳二が赤ん坊のころに離婚し(離縁され)、銀作の父親は清水の芸妓の "梅子" を後妻として迎え入れます。

その後お霜は測量技師と結婚し、夫とともに「出稼ぎ」に台湾に渡って、宿屋兼女郎部屋を経営しました。お霜は一時帰国したときに清水に立ち寄り、銀作を自分の元へと連れて帰ります。お霜の父親の里である大阪に立ち寄って売春婦を買い出し、船で台湾へと向かいました。

しかしお霜と銀作の台湾での生活は半年で幕を閉じます。結核にかかったお霜は先が長くないことを悟り、銀作に清水へ帰るように、また自分や自分の父と違ってまっとうな道を選ぶようにと強く遺言したからでした。

清水に戻った銀作はほどなく、帰国したお霜が危篤だという電報を大阪から受け取ります。銀作が面会に行ったそのすぐ後で、お霜は亡くなります。その次の文章です。


産みの母の死は銀作に、継母の家を出る決心をかためさせた。実の母の遺言は強く響き、台湾で激しく働くということを見て来たので、商売で身を立てようと、大胆な野心に燃えてもいたが、彼も出稼人でかせぎにんの根性に染まって帰ったのであった。お霜と暮らした半年は、梅子を継母と実にはっきり感じさせた。産みの母の死を悲しむことを知らず、梅子を継母ということもしかとは分らぬ、弟の芳二をふびんと思えるほどに、銀作は一家を離れて見れるようになっていた。船の中で売られていく女達と継母の話をし、それを繰り返して台湾へ着く頃には、梅子が鬼のような女にされていたことなどを思いだしても、今度はもう弟にうちあけなかった。

川端康成『二十歳』(1933 昭和8)
『伊豆の踊子』(角川文庫。1951初版)所載。

ここまでで『二十歳』という小説の約3分の1です。この小説は主人公の短いが波瀾万丈の生涯を短編の中に詰め込んでいて、会話文は一切ありません。引用部分の後も次から次へと色々なことが起こり、行く末が全く見通せない。いわゆる「ジェットコースター小説」の "はしり" のような作品です。しかし、最後の最後でテーマが浮かび上がるという仕掛けになっています。

余談ですが、母親だけでなく主人公の銀作も結核を発症するという設定です。銀作の場合は回復しますが、当時の結核の「国民病」ぶりがうかがえます(No.121「結核はなぜ大流行したのか」参照)。



話は「見れる」という日本語の使い方についてでした。引用した『二十歳』における川端康成の「見れる」の使い方は「見ることができる」という意味に間違いはないので、いわゆる "ラ抜き言葉" です。この部分が(サイデンステッカー氏に批判されつつ)『日本国語大辞典』に取り上げられてしまったのは、大作家であることの有名税のようなものかも知れません。

ところで、いわゆる "ラ抜き言葉" について非常に的確に解説しているのが、井上史雄ふみお・東京外国語大学教授(当時)の『日本語ウォッチング』(岩波新書 1998)です。この本に沿って "ラ抜き言葉" の歴史をまとめてみたいと思います。


「可能動詞」の歴史


日本語ウォッチング.jpg
井上史雄
「日本語ウォッチング」
(岩波新書)
日本語では動詞の「可能」を表現するのに「れる・られる」(古文では「る・らる」)を使うのが奈良時代以来の伝統です。その「れる・られる」は学校で習ったように、自発・受け身・尊敬・可能の4つの意味を持っています。しかし「可能」については「れる・られる」以外に、専用の形である「可能動詞」が発達してきました。

まず室町時代以降、「読む」などの五段活用動詞(以下、五段動詞。古文では四段活用)の一部で「読める」という言い方が出始めました。この動きは江戸時代に他の五段動詞、「走れる」「書ける」「動ける」などに広がり、明治時代を経て大正時代までには、多くの五段動詞において可能動詞が定着しました(もちろん可能動詞が不要な動詞もあるわけで、五段動詞全部というわけではありません)。

次に、カ行変格活用の動詞「来る」にこの動きが及び、可能動詞「来れる」が定着しました。

さらに昭和初期から「見る」「食べる」などの一段活用動詞(以下、一段動詞)に広まり、「見れる」「食べれる」という表現が出てきました。現代は一段動詞における可能動詞の形成の途中(初期)にあたる、というわけです。もちろん現在でも「見られる・食べられる」が正しい日本語とされ、「見れる・食べれる」は俗用とされています。

井上史雄・著『日本語ウォッチング』には、次のような図が載っています。
ラ抜きことばの拡大過程.jpg
可能動詞の拡大過程
井上史雄「日本語ウォッチング」より。可能動詞の成立は数百年にわたる日本語の変化のプロセスであり、現在は一段動詞の初期段階にあたる。この図は、動詞によって成立時期が違うことも表している。

この図の横軸は2100年より先までになっています。井上教授は「五段動詞での数百年単位のゆっくりした拡大ペースを考えると、一段動詞のすべてに "ラ抜き言葉 "が普及するには、かなり長い年数が必要だろう」と述べています。

補足になりますが、川端康成の『二十歳』における「見れる」の使用例は昭和8年(1933年)なので、「見れる」が広まり始めた頃ということになります。つまり当時の"最先端の" 言葉遣いだったはずです。『二十歳』の事例はあくまで文章語としての(少ない)例ですが、口頭語(話ことば)としては、当時からそれなりに広まっていたと考えられます。


「可能動詞」の広まりかた


『日本語ウォッチング』には可能動詞が広まったプロセスについての興味深いエピソードが何点かあります。以下、一段動詞の可能動詞を「見れる・食べれる」で代表させることにします。

 行ける 

五段動詞である「行く」の可能動詞は「行ける」ですが、東京では今でも「今度の集まりには行かれなくなりました」という人がいます。普通の言い方は「行けなくなりました」です。なぜでしょうか。

実は、五段動詞でも「行ける」の成立は遅れたそうです。というのも「イケル」が、一足早く「酒が飲める」の意味になり、またその否定形の「イケナイ」が「だめだ、悪い」という意味で使われるようになったからです。しかし「行かれる」と同じ発音の「イカレル」が、頭がおかしくなるという意味で使われるに至って、可能動詞としての「行ける」が一般化したとのことです。この成立の遅れが、現代でも「行かれなくなりました」と言う人がいる理由なのです。

 来れる 

カ行変格活用の「来る」の可能動詞「来れる」の成立は五段動詞よりも遅れた、というのも重要な事実です。可能性を問う言い方として、

今度の集まりに来れますか ?
今度の集まりに来られますか ?

のどちらが多いかというと、現代では だと思います。 は可能性ではなく尊敬表現ととるのが普通でしょう(状況によりますが)。

しかし最初に引用したように、丸谷才一氏は「来れる」は使わないと言っています。丸谷氏は1925年(大正14年)生まれですが、同世代の人には に違和感を抱く人がいるのでしょう。これも「来れる」の成立が遅れたことに原因があるようです。

 見れる・食べれる、は方言から 

一段動詞の可能動詞、見れる・食べれる は方言から始まったというのも興味深い事実です。この言い方は近畿地方を取り囲む地域(特に中部地方と中国地方)、および北海道で広まりました。その後、近畿と首都圏に波及し、全国に広がって現代に至っています。

最初に引用したように、サイデンステッカー氏が「見れるは北海道の言葉です」と言ったのも一理あるわけです。流行語は都会からと考えがちですが、見れる・食べれる は違います。

 一段動詞の中にも温度差 

いわゆる "ラ抜き言葉" が、一段動詞の中でも音節数が少ない語から始まったというのも、なるほどと思います。「見る」「着る」「出る」「寝る」などから普及したというわけです。そう言えば、5音節の「整える」「考える」「位置づける」「確かめる」や、6音節の「積み重ねる」などは、整えられる、考えられる、位置づけられる、確かめられる、積み重ねられる、がメジャーなような気がします。

そんなこと、とても考えられないよ
そんなこと、とても考えれないよ

を比較すると、確かに口頭語としても前者の方が多いような気がする。もっとも『日本語ウォッチング』によると、北海道、中部地方などの "ラ抜き言葉先進地域" では、すべての一段動詞が "ラ抜き言葉" になっていて、「考えれる」「位置づけれる」と言うようです。



『日本語ウォッチング』には書いてないのですが、「漢字 + じる」という一段動詞はどうでしょうか。「案じる」「演じる」「応じる」「感じる」「きょうじる」「禁じる」「減じる」「講じる」「仕損じる」「準じる」「しょうじる」「じょうじる」「信じる」「転じる」「動じる」「念じる」「封じる」「報じる」「命じる」「免じる」「論じる」などです。このうちのあるものは可能動詞としても使いたいわけですが、

秋の気配が感じられた
秋の気配が感じれた

そんなこと、信じられない
そんなこと、信じれない

どんな役でも演じられる
どんな役でも演じれる

の2つの言い方を比較すると、(個人的には)それぞれ前者が普通のように "感じられます"。若い人の仲間うちでの言い方で、「しんじらーれなーい !」という風に、むしろ「ラ」を強調して言うこともありますね。 "ラ抜き" ならぬ "ラ強調" というわけです。

「漢字 + じる」は相対的に "ラ抜き言葉" になりにくいのではと思います。もっとも「すべての一段動詞が "ラ抜き言葉" になっている(本書)」北海道や中部地方では「感じれる・信じれる・演じれる」なのでしょう。



要するに、言葉によって "ラ抜き言葉" が広まったものとそうでないものがあると言えそうです。「見れる」を使う人でも、また "ラ抜き言葉" を正式に認めるべきだと主張する人でも「考えれる」「感じれる」「演じれる」を使うとは(現段階では)限らない。そういうことだと思います。

 「する」の可能動詞は ? 

サ行変格活用の動詞「する」は、日本語における最も基本的な動詞の一つです。しかし「する」には、来れる・見れる・食べれる に相当する可能動詞がありません。「する」の可能形は、別系統の言葉の「できる」です。

一方、「する」は他の語と結びついて新たな語を作る造語機能をもっています。4音節の言葉だけでも「愛する」「察する」「制する」などがあるし、もっと長い音節では「利用する」「同情する」など多数あります。これらの言葉の可能動詞を作りたいときには「利用できる」「同情できる」とするのが一般的です。「・・・できる」と言えないものは「察せられる」というように「れる・られる形」で可能を表現するしかない。

ところが『日本語ウォッチング』で指摘してあるのは、「愛する」だけは「愛せる」という可能動詞があることです。逆に「愛できる」とは言えません。ということは、この動きが将来広まり「せる」が「する」の可能動詞に絶対にならないとは言えない。「利用できる」という意味で「利用せる」、「同情できる」という意味で「同情せる」という風にです。しかし、それにはあと何百年後かかるか分からないと『日本語ウォッチング』の井上教授は言っています。

しかしながら「同情せる」という "先端的表現" を東北地方の一部では可能表現として使っているとも本書に書いてあるのですね。日本語の変化にとって方言は要注意なのです。

 単純化と明晰化 

よく言われることですが『日本語ウォッチング』でも指摘してあるのは、「れる・られる」の4つの意味である「自発・受身・尊敬・可能」のうちの "可能" を "ラ抜き言葉" として分離することによって、言葉がより単純化し、明晰化する効果があることです。

4つうちの "自発" は主として "感情" や "感覚" や "思い" を表す動詞で使われ、あたかもその行為が自然に起こったかのごとく表現するものです。「見る」でいうと「あの新人は当選確実だと見られる」というような使い方です。その他、「・・・・・・ と思われる」「・・・・・・ と感じられる」などがよく使われます。"自発" を使う動詞は比較的少数であり、"自発" 以外の他の使い方と混同することは少ないと "考えられます"。

従って「見れる・食べれる」という可能動詞を作ると、「見られる・食べられる」を "尊敬" と "受け身" にほぼ限定する効果があることになります。つまり、尊敬と可能、受け身と可能を混同することがなくなるわけです。このうち "受け身" ついては「畑のトマトを鳥に食べられた」のように主格と目的格とが逆転するので、そもそも文脈から "可能" とは区別しやすいはずです。

実生活の上でまずいのは "尊敬" と "可能" の混同です。『日本語ウォッチング』には載っていないのですが「食べる」で例文を作ってみると、

先生は納豆を食べられますか?

という質問を「先生は納豆を食べますか ? の敬語表現」だと受け取ると、それは食習慣についての質問だから、いたって普通の質問になります。

しかし「先生は納豆を食べることが出来ますか」という質問だと受け取ってしまうと、先生としては「失礼だ」と感じるでしょう。外国人に対してならともかく、日本人対する質問としてはそう感じる。たとえ食習慣として納豆を食べないとしても、どうしても納豆を食べることが出来ないとは、普通の日本人なら考えにくいからです(そいういう人もいるでしょうが)。「俺は日本人だぞ!」「子供じゃないんだぞ!」と言いたくなる。ということは、

食べられる(尊敬、受け身)
食べれる(可能)

を分離してしまうと、こういった混同は無くなるわけです。例としてあげた「先生は納豆を食べられますか ?」なら敬語と受け取るのが普通でしょう。しかし、もっと混同の恐れの高いケースがあるのだと思います。我々は(おそらく)無意識に混同のリスクを感じ取っていて、それが可能動詞の成立へと誘導するわけです。

ちなみに、日本語における敬語の中の尊敬表現( = 上位者の行為についての敬語)は、「食べる」を例にとると、

お食べになる
(お + 動詞 + になる、の形)
召し上がる
(尊敬表現専用の動詞を使う)
食べられる
(れる・られる形)

の3種類が伝統的にありますが、"ラ抜き言葉"を先に使いはじめた地域と、尊敬表現に「れる・られる形」を多く使う地域は分布が重なっていることが『日本語ウォッチング』で指摘されています。これは尊敬と可能の混同を避けるために「見れる・食べれる」が発達したという傍証になっています。

 調査と実態の違い 

井上教授の『日本語ウォッチング』は、各種の言語調査をもとに "ラ抜き言葉" が広まってきた経緯が解説されています。これらの調査はアンケートか聞き取り調査によるものです。しかし、それが言語の実態を正しく反映しているとは必ずしも言えない。特に日本語の誤用だという規範意識がある言葉についての調査は微妙です。自分で使っているにもかかわらず「使わない」と答える傾向にあるからです。

それは著者の井上教授自身がそうだと告白しているのです。この率直な告白が本書で一番おもしろいところでした。そこを引用します(原文に段落はありません)。


筆者はラ抜きことばを使っていないつもりだった。相手につられて「見れる」と言いそうになっても、mir- のあたりでなんとか切り替えて areru を付けてごまかしていた。

ところが、同僚が研究データとして録画した自分の講義のビデオテープをあとで見たら、なんと自分でも使っていた。講義のときは次に何をどう話すかを考えながらしゃべるので、自分の使っていることばのモニターが十分でなくなるらしい。「見れる」とはっきり言っていて、すっかり自信をなくした。

そういえば、方言や俗語についての意識調査で、自分で使っているのに、「使いますか」と問いただされると「使わない」と答える人がいる。方言調査で「のう」と言うかどうか聞かれて「「のう」なんて言わんのう」と答えるたぐいである。自分も同類とは思ってもみなかった。

井上史雄『日本語ウォッチング』
(岩波新書 1998)

こういった調査の落とし穴は No.83-84「社会調査のウソ」で詳述した通りです。「あなたはこの前の選挙で投票に行きましたか?」という質問に対して 60% の人が「選挙に行きました」と答える。しかし実際の投票率は 40% だったりする。それと同じです。日本語の誤用だという規範意識がある言葉については、自分で使っているにもかかわらず「使わない」と答える傾向があることは覚えておいた方が良いと思います。各種メディアが「言語調査」をすることがありますが、要注意でしょう。

それと、井上教授の「告白」で思ったことは、言語学者・国語学者も職業上のストレスにさらされているということでした。



いわゆる "ラ抜き言葉"、もっと広くは "可能動詞" について『日本語ウォッチング』はよくまとまった本だと思いました。以下はこの本の感想です。


「ラ抜き」が「乱れ」になる


本書で井上教授は一貫して "ラ抜きことば" と書いているのですが、この俗称が「日本語の乱れ」という感じを倍加させたのではと思いました。つまり「抜く」には「本来発音すべき音を "怠けて" 抜いた言い方」というマイナス・イメージが付きまとっていて、「良くないことば」と無意識に思ってしまうのではと思います。ひょっとしたらこの俗称は「見れる・食べれる」を苦々しく思っている人のネーミングなのかもしれません。

ところが『日本語ウォッチング』にも書いてあるのですが、五段動詞の可能動詞、たとえば「読める」は「読み・得る」が縮まったものという説が有力です。つまり「読める」は「読まれる」という「れる・られる形」から派生したのではなく、可能動詞として独立に発達したと考えられているのです。

ということは「食べれる」も「食べ・得る tabe-eru」であり、母音の重複を避けるために間に r を入れて tabereru となった、と考えてもよいはずです。カナだけをみても「食べる」に「れ」を入れたのが「食べれる」です。必ずしも「食べられる」から「ら」を抜いたものと考えなくてもよい。事実、「食べれる」は「食べられる」の代用とはなり得えません。あくまで "可能" に限定した動詞です。

もし "ラ抜き言葉" でなく "レ付き言葉"、あるいはもっとポジティブに "可能言葉" というネーミングなら、日本語の乱れだという反発は少ないのではないでしょうか。


「する」の "可能動詞"は「せる」?


「見れる・食べれる」の問題とは直接の関係はありませんが、本書で大変興味深く読んだ部分です。

本書にもあるように、サ行変格活用(サ変)の動詞「する」には、直接的な可能動詞がありません。「できる」を代用として使っています。一方、造語要素としての「する」は、漢語や外来語と共に「複合・サ変動詞」を作る強いパワーをもっていて、これが日本語を豊かにしています。

「漢字1字 + する」をあげてみても、「愛する」「解する」「期する」「ぐうする」「くみする」「決する」「察する」「資する」「制する」「接する」「託する」「達する」「徹する」「涙する」「反する」「ふんする」「発する」「ほっする」など、多数あります。

「漢字2字 + する」は、日常使うものだけでも極めて数が多く、「結婚する」「質問する」「消費する」「処理する」「整理する」「同情する」「繁盛する」「理解する」「利用する」など、あげていったらキリがありません。

さらに外来語とも結びついて「オープンする」「ゴールする」「スカウトする」「ストップする」「プレーする」「ミスする」などと言います。これもキリがありません。擬声語と結びついた「チンする」というような言い方もあるし、さらに進んで、広告のキャッチ・コピーに「セコムする」などと使われる。

これだけ広く使われると、必要に応じて「複合・サ変動詞の可能動詞」を作りたくなるのが "人情" というものでしょう。『日本語ウォッチング』で指摘してあったのは「愛せる」がその第1号だということでした。

しかし「愛せる」に近いポジションと思われる語句はあります。たとえば「託する ⇒ 託せる」です。「託することができる」という意味で「託せる」と言ったとしても、ほとんどの日本人は違和感がないのではと思います。「このプロジェクトは彼に託せると判断します」という具合です。ちょっと堅い言い方ですが。

「愛する・託する」の可能動詞がなぜ違和感がない(少ない)かと言うと、「愛する・託する」を五段動詞化した「愛す・託す」が一般的に使われるからですね。そうすると「愛せる・託せる」は "正式の" 可能動詞ということになります。これを現象的には「愛する・託する」が可能動詞化して「愛せる・託せる」になったと考えてもよいわけです。

さらに "微妙な" 言葉に「解する(かいする)」があります。「あの人は風流をかいする人だ」というように使いますが、この可能動詞として「せる」があるのですね。主に否定形を伴って「あの人の行動はどうもせない」というように使います。これを「かいせる」と読むこともできるわけで(現時点では誤用だと思いますが)、そうすると「解する ⇒ 解せる」の可能動詞化が、発音も含めて完成することになります。

もっと言うと、これも現時点では誤用だと思いますが、「達する」「察する」「徹する」を可能動詞化して「達せる」「察せる」「徹せる」という人がいます。ネットで検索すると、それなりの数がヒットします。「徹する」の例文を作ってみると、

選手として成功したいのなら、まず基本に徹することだ
彼の選手としての成功は、基本に徹せるかどうかにかかっている

の、後者のような言い方です。このような語は、ほかにもあると思います。「利用する」なら「利用できる」が可能動詞として使えます。しかし「徹できる」とは言えない以上、可能表現は「徹せられる」しかない。しかしそれではちょっと長いし、可能の意味だけでは無くなる。「徹することができる」では長すぎる。この状況は「徹せる」に誘導されていく動機になると思います。



さらに、以上のことに加えて『日本語ウォッチング』では「同情せる」という使い方、つまり「せる」を「する」の可能動詞として使う言い方が、東北地方の一部地域で(方言として)あることが指摘してあるのでした。これらをまとめると

(普通に使われる) 愛せる、(託せる)
(一部で使うが誤用) 達せる、察せる、徹せる
(特定地域の方言) 同情せる、などの全て

となるわけですが、これはよくよく考えると、一段動詞の可能動詞「見れる・食べれる」が出現し始めた昭和初期とよく似た状況だと思うのです。

五段動詞 → カ変(来る)→ 一段動詞 という流れで可能動詞が形成されてきたことを考えると、サ行変格活用「する」の可能動詞が作られていくのは必然と思えました。「する」は「来る」よりも活躍の範囲が広い言葉だからです。


「見られる」の意味


"本題" の一段動詞の可能動詞についてです。「見れる・食べれる」は明晰化と単純化という、500年以上前から進行してきた可能動詞の成立プロセスの一環です。この流れはもう止まらないでしょう。

この明晰化・単純化の流れの原点に立ち返って考えてみると、そもそも「れる・られる」が「自発・受身・尊敬・可能」の、4つもの意味になぜ使われるのかという問題があるわけです。「見られる」で例文を作ってみると、

自発 今度出た新人は当選確実と見られる
受身 この姿を誰かに見られるのは嫌だ。
尊敬 先生はオペラを見られるのですか。
可能 水族館ではウミガメの泳ぐ姿が見られる

という具合です。4つもの意味に使うから文脈によっては曖昧になるわけで、明晰化・単純化に向かうというのも分からないではありません。ただし一般論ですが、曖昧で複雑なのが文化だとも言えます。一概に明晰で単純がいいとは限らない。

言葉の原則の一つは「たとえ違った意味に使うのでも、同じ言葉なら共通の(潜在的な)意味がある」というものです。上の4つの例文は、全く同じ「見られる」という語を使っています。その潜在的な共通の意味は何でしょうか。それは「ある行為が人のコントロールを越えたところでなされる」という意味だと、日本語学では指摘されています。ここでは同様の意味で「意志・意図の不在」としたいと思います。

まず "自発" ですが、「私は、今度出た新人を当選確実だと見ます」なら、自己の意見・意思を明確に述べています。それを「見られる」とすることによって、あたかもその意見が「自然と起こったように」表現している。あえて意図や意志を消し去り、主体性を後退させた表現になっています。

"受身" の「誰かに見られる」という場合、見られるのは自分の意図や意志とは無関係なことは言うまでもありません。もちろん自己のコントロールを越えています。また、「見る」のような他動詞だけではなく、自動詞でも同じです。No.140「自動詞と他動詞(1)」で、いわゆる "自動詞の受け身" の例をあげました。

彼女は遊ばれている」
昨日のハイキングは雨に降られた」
親に死なれた」
先に行かれてしまった」
彼に上がられた」(ゲームで)
こんな場所で寝られては困るよ」
釣った魚に逃げられた」

ですが、すべてに共通している意味は「コントロールを越えている」、ないしは「意志や意図からではない」ということです。その派生として「受け身」があるからこそ "自動詞の受け身" が成立するわけです。

さらに "尊敬" ですが、「オペラを見る」というのは個人の趣味なので「意志的行動」です。その行動から意志を除外してしまい、あたかも自然とそうするかのように言うことによって、上位者への尊敬を表しているのですね。

では「見れる」という表現が広まってきた "可能" はどうでしょうか。例文にあげた「ウミガメの泳ぐ姿が見られる」は、周囲の条件や環境に起因する「可能」であって、典型的な「状況可能」です。これは、見る人の意図や意志とは無関係です。しかし「可能」はこれだけではなく、人の能力を問題にする「能力可能」があります。それはまさに最初に引用した川端康成の『二十歳』の中の文章、

  銀作は一家を離れて見れるようになっていた。

がそうです。これが「意志・意図」とどう関係しているでしょうか。

分かりやすいように「英語がしゃべれる」という文章で言うと、しゃべれるようになるまでには本人の勉強や努力が続いたのでしょう。つまり意思や意図にもとづいて「英語がしゃべれるようなった」のです。しかし今の状態はどうかというと「自然と英語がしゃべれる能力」を持っているのですね。自分の意思、ないしはコントロールで、しゃべれたりじゃべれなかったりするのではない。

川端康成の文章も同じです。それは「家族を客観的に見ることができる」という意味であり、銀作は昔はそうではなかったが、産みの母と台湾で暮らすという経験を経て、家族を「自然と」客観視できるようになったわけです。



以上のように「れる・られる」のベーシックな意味は、「ある行為が人のコントロールを越えたところでなされる」、ないしは「意志・意図の不在」であることが分かります。


「見られる」と「見れる」は同じ意味か


以上を踏まえて「見られる」の可能用法と「見れる」は同じ意味かどうかを考えてみたいと思います。

  たとえ違った意味に使うのでも、同じ言葉なら共通の(潜在的な)意味がある

のなら、その逆である、

  言葉が違うのなら、完全に同じ意味というわけではない

も正しいことになります。可能動詞の「見れる」は、「見られる(可能用法)」と何らかの違いがあるでしょうか。そのヒントが『日本語ウォッチング』にあります。本書の中で井上教授は、各地に「状況可能」と「能力可能」を言い分ける方言があると書いています。つまり、

状況可能
  この服は小さくなったけどまだ着られる
能力可能
  この子は幼いけど一人で着れる

の二つを言い分けるのです。そして「見れる」が発達した一つの理由として、能力可能を言い分ける目的があると示唆されています。なるほどと思います。この文章のタイトルした「お粥なら食べれる」を例にとり、病気がまだ完全には直っていない人の言葉として、

お粥なら食べられる。
お粥なら食べれる。

を考えてみると、これは典型的な能力可能です。一方、山菜採りの達人の言葉として、

  このきのこは食べられる
  このきのこは食べれる

を考えると、これは「毒キノコではない」と主張する文なので、状況可能です。では、「お粥文」と「キノコ文」ではどちらが「食べれる」の使用率が多いでしょうか。もちろん人によって、年齢によって、また地域によって違うでしょうが、ひょっとしたら「お粥文」の方が「食べれる」の率が多く「キノコ文」の方は「食べられる」が多いのではと思うのです(個人的印象ですが)。

「言葉が違うのなら、完全に同じ意味というわけではない」という原則からすると、「見られる・食べられる(可能用法)」と「見れる・食べれる」は、我々はほとんど意識しないのだけれど微妙に意味が違うと考えた方がよいと思います。つまり「見られる・食べられる」は「意志や意図にかかわらず自然にという意味の、本来の可能」であり、「見れる・食べれる」は「意思的行為に関連した可能、ないしは能力可能」のニュアンスがより強いのではないでしょうか。少なくとも個人的にはそう感じます。


言葉は人々のモノの見方を規定する


これが正しいとすると、可能を表す「見られる」が将来完全に無くなるということは、「・・・・・・することができる」という "可能" のとらえ方、日本語話者が暗黙に感じている "可能" の意味が(微妙に)変化することだと思います。もちろんこの変化は個々の言葉ごとに進行していきます。

ここで考えるべきは、可能動詞の形成は、五段動詞において最初に始まってから500年近くが経過しているのに、いまだに動詞全部に広がっていないことだと思います。井上教授の想定でも、一段動詞の可能動詞の完成までには、あと100年、200年とかかります。ということは、言葉使いの根元的なところは、そう易々やすやすとは変わらないということなのでしょう。

文化は継承であり、継承をベースに新しいものが加わります。文化の最大のものである言葉もそうです。その言葉は、人々のモノのとらえかた、世界の見方を暗黙に規定しています。「見れる・食べれる」が誤用だとか、認めてよいという論議は、言葉の乱れや変化を表すようですが、実はそういった議論がまだ続いていること自体、日本語話者の「モノのとらえかた」がそう簡単には(100年程度では)変わらないことを示しているのだと思います。

次回に続く)


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