No.138 - フランスの「自由」 [社会]
2015年1月7日、フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリ本社がテロリストに襲撃される事件が起きました。この後の一連の報道に接する中で、以前の記事 No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で書いたフランス革命の話を連想したので、その経緯を書いてみたいと思います。
シャルリー・エブド
2015年1月7日午前11時半ごろ(日本時間、同日19時半頃)フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリの本社に2人のテロリストが乱入して銃を乱射し、編集長、編集関係者、風刺画家、警官の12人が射殺されました。テロリストは「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者・ムハンマドの風刺画を掲載していることに反発したようです。
1月11日、フランス全土で「シャルリー・エブド」への連帯を示すデモ行進が行われ、350万人以上が参加しました。パリでは100万人以上とも言われる規模の行進が行われました。このときの「私はシャルリー」というスローガンは、
の表明です。この「パリ大行進」では、フランス、イギリス、ドイツの大統領・首相と並んでイスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長が先頭に立ったのが印象的でした。
1月14日に発行された「シャルリー・エブド」は再びムハンマドの風刺画を掲載しましたが、今度はこれに抗議するデモが世界各国のイスラム教国で発生しました。
今回のテロに関しては「アラビア半島のアルカイダ」が犯行声明を出しているので、いわゆるイスラム過激派、ないしはそれに感化された犯人によるテロであることは間違いないでしょう。しかし、テロリストはイスラム教徒を標榜してはいるが、イスラム教とは無縁の存在であることは確実です。自分たちはイスラム教徒の「つもり」かもしれないが、テロリストのやった行動は「イスラム教を貶めるもの」に他なりません。また、社会(フランス、ヨーロッパ)の混乱と不安定化を招こうとする意図があったのかもしれない。とにかく大多数のイスラム教徒にとってテロリストの行為は許しがたいものであり、また今後予想されるイスラム教徒への差別や迫害を予想して「迷惑千万」とも映ったでしょう。
ちなみに犯人は、フランスで生まれ、フランスで育ったフランス人でした。このことも今回の事件の大きなポイントです。
ところで私がこの事件で考えさせられたことは、表現の自由とは何かということです。テロを断固排斥することを大前提として、以下、この事件の背後にある「表現の自由」について考えてみたいと思います。
表現の自由
問題の「表現の自由」についてですが、ローマ法王であるフランシスコ教皇は、1月15日に、
と発言しました。もちろん宗教家のサイドから発言ですが、極めて妥当で、まっとうな見解だと思いました。
またイスラムの側からの発言として、朝日新聞がパレスチナ自治政府のアッバス議長に行った単独インタビューがあります。アッバス議長はイスラエルのネタニヤフ首相らとともに「パリ大行進」に参加した理由について「テロに反対することを世界に示すため」と述べ、さらに次のように語っています。
アッバス議長がイスラエルのネタニヤフ首相と並んで「パリ大行進」に参加したことはパレスチナの住民からの批判も強いようですが、それはまた別の問題です。ともかく、上に引用したアッバス議長の発言はフランシスコ法王と並んで極めて妥当で、まっとうな意見だと思いました。
さらにフランスのあるメディアが行ったフランス人の世論調査でも「預言者の風刺画を掲載してもよい」という意見とともに「預言者の風刺画を掲載すべきでない」という意見もありました。テレビで見ただけでウロ覚えなのですが、両者は6対4ぐらいの比率だったと思います。世論調査はやり方によって結果が左右されるので確定的なことは言えませんが、フランスにおいても少なからぬ人々が預言者の風刺画に批判的なのです。
しかし(少なくともフランスにおいては)「預言者の風刺画を掲載してもよい」という意見が多数あるのも確かです。それも、どこかの新興宗教の預言者ではなく、キリスト、ムハンマド、モーゼといった、1000年、2000年という長期に渡って「数億人レベルの多数の人々の信仰の核となっている預言者」ないしは「民族のアイデンティティーとなっている預言者」なのです。この「掲載してもよい」とする代表的な意見が、朝日新聞(2015.1.20)のオピニオン・ページに載っていたので、それを紹介・考察してみたいと思います。
宗教への批判は絶対の権利
2015年1月20日付の朝日新聞のオピニオン・ページに、フランスの作家で哲学者のベルナール = アンリ・レビ氏にインタビューした記事が載っていました。レビ氏の経歴は以下のように紹介されています。
この記事の見出しは「宗教への批判は絶対の権利」です。この「絶対の権利」という言い方は過激ですが、実はレビ氏自身が語っていることなのです。以下、レビ氏の発言内容の紹介ですが(下線は原文にはありません)、まず記事の冒頭からです。
この発言は極めて妥当です。「表現の自由には例外がある」というのは、表現の自由がある国のすべてに共通していることだからです。例外は法律で規定されているものもあります。日本でも「名誉毀損」は犯罪だし「犯罪を呼びかけたり教唆する表現」も犯罪です。フランスでは「人種差別」や「反ユダヤ」の表現も法律が禁じているようですが、それは国の(歴史的)事情によるのでしょう。ドイツでは確か「ナチを礼賛する表現」が法律で禁止されているはずです。
もちろん「表現の自由の例外」が法律で規定されていなくても、表現の自由・言論の自由がある国では新聞やメディアが発達しているので、たとえば日本でも政治家が「人種差別発言」をするとメディアに批判され、陳謝に追い込まれたりして、そのことによって実質的に表現の自由が制限されるという仕掛けになっています(同時に、個人攻撃による表現の自由の圧迫や自粛の強要といった危険性もある)。
表現の自由だけではないですが、「自由がある」ということは「自由の例外がルール・法律によって規定されている、ないしは例外についての暗黙の合意が形成されている」ということです。自由を保障することイコール、その自由の例外を決めることです。ここまでは誰もが納得するでしょう。
問題はこのあとです。レビ氏は上の引用にすぐに続けてこう言っています。
「宗教を批判することは絶対の権利」という言い方には非常に違和感を感じますが、ここまで明白にレビ氏が言うのは、これが個人の考えではないからです。「1905年の法律」とありますが、それ以前のフランスの歴史も関係しているようです。
ベルナール = アンリ・レビ氏は、ラブレー(16世紀)やボルテール(18世紀)といったフランス史を持ち出して「宗教とて他のイデオロギーと同じで、法の前では横並び」と発言しているのですが、ここで私が連想したのが No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で書いたフランス革命の話でした。つまり、現在のフランスの「国のかたち」を作った発端が(少なくとも建前上は)フランス革命(18世紀末)だとすると、フランスは宗教を打倒してできた国だということです。
フランスは宗教を打倒してできた国
No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で、王政とともにフランス革命で打倒されたのは宗教(カトリック)であり、その象徴的な出来事として「カルメル会修道女の処刑」と「監獄になったモン・サン・ミシェル」の2点をあげました。
フランス革命(1979 - )では、カトリックの聖職者が迫害され、投獄、処刑されました。革命政府の「理性神」や共和国憲法・法律に忠誠を誓う宣誓が聖職者に強要され、拒否するものは「反革命」とみなされたのです。1792年9月2日からの数日間、パリの監獄や(監獄として使われていた)修道院を民衆が襲い、収監されていた「反革命派」を殺害した事件(いわゆる"9月虐殺")では、多数の聖職者が犠牲になりました。これは、パリにおいては "サン・バルテルミの虐殺"(1572年8月24日。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」参照)以来の事件だと言われています。
このカトリックの犠牲の象徴的な事件が、カルメル会修道女16人の処刑です。パリの北東のコンピエーニュにあったカルメル会修道院(カトリックの修道会の一つ)の修道女16人全員が、1794年7月17日、反革命の罪で処刑されました。これはフランシス・プーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」(1957)の題材になっています。このオペラは、16人の修道女たちが一人一人ギロチンにかけられるシーンで終わります。
もちろんフランス革命においては聖職者だけが「選択的に」迫害されたわけではありません。革命政府の方針に反旗を掲げた民衆、穏健共和派、王党派も「反革命」として徹底的に弾圧されました(ヴェンデ戦争やリヨン大虐殺)。
フランス革命では、教会・修道院が略奪、破壊され、政府による建物・資産の接収と転用が行われました。この象徴がモン・サン・ミシェルです。
モン・サン・ミシェル修道院は革命後に監獄に転用され、聖職者や王党派といった「反革命派」が収監されました。この監獄が閉鎖され、再び修道院としての修復が始まったのが1863年と言いますから、約70年のあいだ監獄だったわけです。その間、投獄されたのは14,000人にのぼると言います。「海のバスティーユ(監獄)」と呼ばれて恐れられたようです。
現在、モン・サン・ミシェル修道院は世界遺産の有名な観光地ですが、現地に行ってみると修道院の歴史が説明されていて、その中には監獄だった過去の説明もあります。囚人が物資を運んだ車輪の設備など、監獄の「名残り」も見学できます。
先ほど「王政とともにフランス革命で打倒されたのは宗教(カトリック)」と書きましたが、これはちょっと不正確です。「フランス革命で打倒されたのは宗教(カトリック)であり、それとともに王政も打倒された」というのがより正確です。このフランス革命の経緯が「シャルリー・エブド」の風刺画の源流にあるようです。明治大学の鹿島茂教授は、2015年1月12日の読売新聞で次のように述べています。
鹿島教授は「1789年の仏革命の最大の敵はカトリック教会」と正確に指摘しています。確かに1792年に王政は廃止されたけれど、それまでは立憲君主的です。1790年当時の革命議会は、法と国王への忠誠を市民に要請しているぐらいです。また、王政廃止後のフランスには王政まがいの「皇帝」が現れました。フランス革命が一貫して「敵」としたのはカトリック教会であり、端的に言うと「宗教」そのものなのです。
1000年というレベルの長期にわたって根づいてきた宗教を打倒して国の基礎ができる・・・・・・。これは世界の歴史でもかなり特別なことではないでしょうか。王政を打倒してできた国はいっぱいあります。イギリスでは国王が処刑され(清教徒革命)、その後の紆余曲折の結果「君臨するも統治せず」の立憲君主制になった。しかし英国国教会はそのまま残っています。カトリックを「打倒」してプロテスタントになった国はヨーロッパにたくさんありますが(ドイツ、英国、オランダなど)、それはキリスト教の中の宗派の争いです。日本の明治維新期の「廃仏毀釈」も仏教の破壊活動であって、その一方で明治政府は神道を擁護・推進しました。
王政が打倒されるとともに宗教そのものが攻撃されたということで唯一思いつくのは、ロシア革命とその後の経緯です。ロマノフ朝が倒れ、国王が処刑されたあとのロシアでは、ロシア正教の教会が破壊され、僧侶が処刑されました。しかしこれは「コミュニズム理論」の実践によるものであって、その実践はわずか70年という短い期間で終わってしまった。世界史の流れからすると「一過性の」出来事に過ぎません。それに対してフランスは、フランス革命という「国のかたち」を作った出来事の継続として200年以上、現在も国が続いているわけです。
フランス革命で、宗教や信仰の特別扱いはなくなりました。信仰上の理由であっても反革命は反革命です。その「革命」の理念として掲げられたのは「自由・平等・友愛」であり、ここから「表現の自由・言論の自由」の考え方が定着するわけですね。それはフランスだけでなく、その後の世界の自由主義国家・民主主義国家に多大な影響を与えた。その「フランス的自由」は、国民同士の悲惨な殺し合いの経験を通してフランス人が勝ち取ったものなのです。そしてその自由の一部として宗教批判がある。
シャルリー・エブドのテロ事件に関するベルナール = アンリ・レビ氏の見解に戻りますと、彼は、
と言っています。この見解は、実はフランス革命を原点とする「フランスという国のかたち」そのものではないか、と思うわけです。国の出発点に宗教批判があるから、現在もそれがないと国の存在基盤が危うくなる(と感じられる)。ましてや「宗教批判はすべきでない」となると、それじゃカトリックの司祭や修道女を処刑したあのフランス革命は何だったのかということになってしまう。国のスタートが間違っていたということになりかねない。
ベルナール = アンリ・レビ氏は「フランスの根元的な価値観を体現する筋金入りの知識人」という印象を受けます。「絶対の権利」という言い方にそれを感じます。再度確認すると「宗教を批判する」とは「堕落した教会や聖職者を批判する」というようなこと(だけ)ではありません。キリスト教会を批判したいのなら、たとえばバチカンの法王や枢機卿の風刺画を載せればよいわけで、それならプロテスタントが500年前に起こした宗教改革と同じです。そうではなくキリストの風刺画を載せるということは、宗教そのものを(宗教の否定も含めて)批判するということです。
今回の「シャルリー・エブド」の襲撃で「表現の自由」が危機に瀕したような報道や論調がありました。しかし、それは違うのではないでしょうか。正しくは「フランス的表現の自由」が危機に陥ったのだと思います。そして日本を含めてフランス以外の国は「フランス的表現の自由」に同意する必要はないのです。
それにもかかわらず、日本を含む世界の一部のメディアは「シャルリー・エブド」の風刺画を(あるものはモザイク付きで)転載しました。その理由として「表現の自由についての議論の素材を提供する」とした日本のメディアがありましたが、違うと思いますね。預言者の風刺画は一般的な表現の自由の議論の素材にはなりません。「シャルリー・エブド」は(いいか悪いかは別にして)フランス固有の伝統にのっとり、フランス的表現の自由を守るという意識のもと、身の危険を承知で掲載したわけです。しかしそれを転載する(たとえば日本の)メディアには、そういった意識も覚悟もないでしょう。それでいて「表現の自由」を建前に、まともなジャーナリズムを装っているから悪質です。もっとも、このような「話題性を狙った扇情的報道」で発行部数を伸ばそうとするメディアが出ることは、言論や表現の自由のある国では避けられないことです。それは民主主義の根幹である「表現の自由」があるという証拠でもある。
社会的弱者を攻撃する「自由」
「表現の自由」は現代の民主主義社会の根幹ですが、そもそも何のためだったのかを考えてみる必要もあるでしょう。歴史を振り返ると明らかなのですが「表現の自由」は民衆の権力への反撃手段として発達し、定着してきたものです。まさにベルナール = アンリ・レビ氏がボルテールやラブレーの例をあげているように、教会、権力、権威、政治などを批判する権利として「表現の自由」があった。あったというよりフランス国民が血みどろの殺し合いの中から獲得したものです。その自由の一部としてフランスでは「宗教を批判する自由」があった。宗教とはもちろんカトリックです。つまり、1000年以上の長い期間にわたってフランスに根付いてきた「自らの宗教」をも批判する自由だった。
しかし、現代はフランス革命の時代や「1905年に法律で国と教会の分離を定めた時代」とは社会環境が全く違っています。今回問題になった「ムハンマドの風刺画」に関して言うと、フランスにおけるイスラム教徒は 7% だと報道されています。その多くは移民、ないしは移民の子であり、フランス社会でも比較的貧しく、若者が職を得るにも苦労すると言います。その移民の多くは、かつてフランスが植民地として支配・搾取した北アフリカのイスラム教国からきた人たちなのですね。移民社会のイスラム教徒にとっては「神とともに生きる」ことが彼らなりの「自由」です。預言者は神の言葉を伝える存在であり、預言者を風刺することは耐えがたいことになります。
ムハンマドの風刺画をメディアに掲載する「表現の自由」は、フランス社会では結果として「社会的弱者を攻撃する自由」になっています。風刺画を掲載する方は、攻撃ではない、それはフランス伝統のエスプリだと言うでしょうが、イスラム教徒からすると自分たちが攻撃されたとしか受け取りようがない。
シャルリー・エブドで12人がテロの犠牲になってから1ヶ月もたたない2015年1月末、日本人のジャーナリスト、後藤健二氏がシリアでテロリストに殺害されました。彼は常に社会的弱者に寄り添った報道を続けてきた人です。その弱者とはアフガニスタン、イラク、シリア、ルアンダ、シエラレオネなどでの戦争・内戦の難民や子供たちであり、その多くがイスラム教徒です。同じジャーナリズムでも(結果として)社会的弱者を攻撃するのとは全く対極的な後藤氏の姿勢です。「予言者の風刺画は絶対的権利」とするベルナール = アンリ・レビ氏の意見は、後藤氏とは全く正反対の「上から目線」を感じます。
「表現の自由」に戻りますと、社会におけるあらゆる制度や権利は、それが確立した背景と理由があります。それを無視して制度や権利の一人歩きを許すと、結果として制度や権利を形骸化させることになります。
「フランス的表現の自由」は、それがフランスの「国のかたち」であることは認めつつ、現実の社会環境を鑑みて、ある局面では「自制」が必要なのです。法律で規制できない(規制すべきでない)以上、自制しかない。当然ですが・・・・・・。メディアの世論調査にあったように、フランスにおいても少なからぬ人が「預言者の風刺画を掲載すべきではない」と思っています。2015年1月11日の「パリ大行進」に参加したフランス人の中にも「風刺画には反対だが、テロに屈しないという意志を表明するために参加した人」があったはずです。
フランスを代表する知識人の一人で、歴史学者・人類学者のエマニュエル・トッド氏は、読売新聞の電話インタビューに答えて次のように語っています。
同じ知識人でもレビ氏とは違い、このトッド氏の意見には大いに共感できます。彼は日本の新聞社の電話インタビューだから応じたわけですが、確信できることは、彼はフランスにおいても決して「独りぼっち」ではないということです。
「国のかたち」とグローバル化
グローバル化が進む現代において、異文化との共存は避けて通れない問題です。異なる文化と価値観を持った2つの集団が一つの国において共存する必要がでできたとき、互いの理解から始めるしかないと思います。そして共存の道を探り、模索する。伝統的なフランスの(ないしは民主主義国家の)価値観をもつ人はイスラム文化を理解する必要があるし、またイスラム教徒のフランス人もフランスの「国のかたち」や「伝統的な価値観」を理解する必要があります。それに同意したり従ったりする必要はないが、その理由を知る必要はある。その意味で、国家レベルの「異文化理解の教育」が非常に大切だと思います。
それはフランスだけの課題ではもちろんなく、日本の課題でもあり、今後ますます重要になる課題だと強く思いました。
シャルリー・エブド
2015年1月7日午前11時半ごろ(日本時間、同日19時半頃)フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリの本社に2人のテロリストが乱入して銃を乱射し、編集長、編集関係者、風刺画家、警官の12人が射殺されました。テロリストは「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者・ムハンマドの風刺画を掲載していることに反発したようです。
1月11日、フランス全土で「シャルリー・エブド」への連帯を示すデモ行進が行われ、350万人以上が参加しました。パリでは100万人以上とも言われる規模の行進が行われました。このときの「私はシャルリー」というスローガンは、
・ | 反テロの決意 | ||
・ | 表現の自由を守る決意 |
の表明です。この「パリ大行進」では、フランス、イギリス、ドイツの大統領・首相と並んでイスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長が先頭に立ったのが印象的でした。
1月14日に発行された「シャルリー・エブド」は再びムハンマドの風刺画を掲載しましたが、今度はこれに抗議するデモが世界各国のイスラム教国で発生しました。
今回のテロに関しては「アラビア半島のアルカイダ」が犯行声明を出しているので、いわゆるイスラム過激派、ないしはそれに感化された犯人によるテロであることは間違いないでしょう。しかし、テロリストはイスラム教徒を標榜してはいるが、イスラム教とは無縁の存在であることは確実です。自分たちはイスラム教徒の「つもり」かもしれないが、テロリストのやった行動は「イスラム教を貶めるもの」に他なりません。また、社会(フランス、ヨーロッパ)の混乱と不安定化を招こうとする意図があったのかもしれない。とにかく大多数のイスラム教徒にとってテロリストの行為は許しがたいものであり、また今後予想されるイスラム教徒への差別や迫害を予想して「迷惑千万」とも映ったでしょう。
ちなみに犯人は、フランスで生まれ、フランスで育ったフランス人でした。このことも今回の事件の大きなポイントです。
ところで私がこの事件で考えさせられたことは、表現の自由とは何かということです。テロを断固排斥することを大前提として、以下、この事件の背後にある「表現の自由」について考えてみたいと思います。
表現の自由
フランシスコ教皇
(Wikipedia) |
「 | 他人の信仰を侮辱してはならない。表現の自由には限界がある」 |
と発言しました。もちろん宗教家のサイドから発言ですが、極めて妥当で、まっとうな見解だと思いました。
またイスラムの側からの発言として、朝日新聞がパレスチナ自治政府のアッバス議長に行った単独インタビューがあります。アッバス議長はイスラエルのネタニヤフ首相らとともに「パリ大行進」に参加した理由について「テロに反対することを世界に示すため」と述べ、さらに次のように語っています。
|
アッバス議長
(Wikipedia) |
さらにフランスのあるメディアが行ったフランス人の世論調査でも「預言者の風刺画を掲載してもよい」という意見とともに「預言者の風刺画を掲載すべきでない」という意見もありました。テレビで見ただけでウロ覚えなのですが、両者は6対4ぐらいの比率だったと思います。世論調査はやり方によって結果が左右されるので確定的なことは言えませんが、フランスにおいても少なからぬ人々が預言者の風刺画に批判的なのです。
しかし(少なくともフランスにおいては)「預言者の風刺画を掲載してもよい」という意見が多数あるのも確かです。それも、どこかの新興宗教の預言者ではなく、キリスト、ムハンマド、モーゼといった、1000年、2000年という長期に渡って「数億人レベルの多数の人々の信仰の核となっている預言者」ないしは「民族のアイデンティティーとなっている預言者」なのです。この「掲載してもよい」とする代表的な意見が、朝日新聞(2015.1.20)のオピニオン・ページに載っていたので、それを紹介・考察してみたいと思います。
宗教への批判は絶対の権利
2015年1月20日付の朝日新聞のオピニオン・ページに、フランスの作家で哲学者のベルナール = アンリ・レビ氏にインタビューした記事が載っていました。レビ氏の経歴は以下のように紹介されています。
ベルナール = アンリ・レビ |
この記事の見出しは「宗教への批判は絶対の権利」です。この「絶対の権利」という言い方は過激ですが、実はレビ氏自身が語っていることなのです。以下、レビ氏の発言内容の紹介ですが(下線は原文にはありません)、まず記事の冒頭からです。
|
ベルナール=アンリ・レビ
(1948~) (site : www.asahi.com) |
もちろん「表現の自由の例外」が法律で規定されていなくても、表現の自由・言論の自由がある国では新聞やメディアが発達しているので、たとえば日本でも政治家が「人種差別発言」をするとメディアに批判され、陳謝に追い込まれたりして、そのことによって実質的に表現の自由が制限されるという仕掛けになっています(同時に、個人攻撃による表現の自由の圧迫や自粛の強要といった危険性もある)。
表現の自由だけではないですが、「自由がある」ということは「自由の例外がルール・法律によって規定されている、ないしは例外についての暗黙の合意が形成されている」ということです。自由を保障することイコール、その自由の例外を決めることです。ここまでは誰もが納得するでしょう。
問題はこのあとです。レビ氏は上の引用にすぐに続けてこう言っています。
|
「宗教を批判することは絶対の権利」という言い方には非常に違和感を感じますが、ここまで明白にレビ氏が言うのは、これが個人の考えではないからです。「1905年の法律」とありますが、それ以前のフランスの歴史も関係しているようです。
|
|
ベルナール = アンリ・レビ氏は、ラブレー(16世紀)やボルテール(18世紀)といったフランス史を持ち出して「宗教とて他のイデオロギーと同じで、法の前では横並び」と発言しているのですが、ここで私が連想したのが No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で書いたフランス革命の話でした。つまり、現在のフランスの「国のかたち」を作った発端が(少なくとも建前上は)フランス革命(18世紀末)だとすると、フランスは宗教を打倒してできた国だということです。
フランスは宗教を打倒してできた国
No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で、王政とともにフランス革命で打倒されたのは宗教(カトリック)であり、その象徴的な出来事として「カルメル会修道女の処刑」と「監獄になったモン・サン・ミシェル」の2点をあげました。
 カルメル会修道女の処刑  |
フランス革命(1979 - )では、カトリックの聖職者が迫害され、投獄、処刑されました。革命政府の「理性神」や共和国憲法・法律に忠誠を誓う宣誓が聖職者に強要され、拒否するものは「反革命」とみなされたのです。1792年9月2日からの数日間、パリの監獄や(監獄として使われていた)修道院を民衆が襲い、収監されていた「反革命派」を殺害した事件(いわゆる"9月虐殺")では、多数の聖職者が犠牲になりました。これは、パリにおいては "サン・バルテルミの虐殺"(1572年8月24日。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」参照)以来の事件だと言われています。
このカトリックの犠牲の象徴的な事件が、カルメル会修道女16人の処刑です。パリの北東のコンピエーニュにあったカルメル会修道院(カトリックの修道会の一つ)の修道女16人全員が、1794年7月17日、反革命の罪で処刑されました。これはフランシス・プーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」(1957)の題材になっています。このオペラは、16人の修道女たちが一人一人ギロチンにかけられるシーンで終わります。
フランシス・プーランク
「カルメル会修道女の対話」
フランス、サン=テティエンヌのオペラ場での公演より(2005年2月6日)。写真はオペラの最終場面。
(site : www.forumopera.com)
|
もちろんフランス革命においては聖職者だけが「選択的に」迫害されたわけではありません。革命政府の方針に反旗を掲げた民衆、穏健共和派、王党派も「反革命」として徹底的に弾圧されました(ヴェンデ戦争やリヨン大虐殺)。
 モン・サン・ミシェル監獄  |
フランス革命では、教会・修道院が略奪、破壊され、政府による建物・資産の接収と転用が行われました。この象徴がモン・サン・ミシェルです。
モン・サン・ミシェル修道院は革命後に監獄に転用され、聖職者や王党派といった「反革命派」が収監されました。この監獄が閉鎖され、再び修道院としての修復が始まったのが1863年と言いますから、約70年のあいだ監獄だったわけです。その間、投獄されたのは14,000人にのぼると言います。「海のバスティーユ(監獄)」と呼ばれて恐れられたようです。
現在、モン・サン・ミシェル修道院は世界遺産の有名な観光地ですが、現地に行ってみると修道院の歴史が説明されていて、その中には監獄だった過去の説明もあります。囚人が物資を運んだ車輪の設備など、監獄の「名残り」も見学できます。
先ほど「王政とともにフランス革命で打倒されたのは宗教(カトリック)」と書きましたが、これはちょっと不正確です。「フランス革命で打倒されたのは宗教(カトリック)であり、それとともに王政も打倒された」というのがより正確です。このフランス革命の経緯が「シャルリー・エブド」の風刺画の源流にあるようです。明治大学の鹿島茂教授は、2015年1月12日の読売新聞で次のように述べています。
|
鹿島教授は「1789年の仏革命の最大の敵はカトリック教会」と正確に指摘しています。確かに1792年に王政は廃止されたけれど、それまでは立憲君主的です。1790年当時の革命議会は、法と国王への忠誠を市民に要請しているぐらいです。また、王政廃止後のフランスには王政まがいの「皇帝」が現れました。フランス革命が一貫して「敵」としたのはカトリック教会であり、端的に言うと「宗教」そのものなのです。
1000年というレベルの長期にわたって根づいてきた宗教を打倒して国の基礎ができる・・・・・・。これは世界の歴史でもかなり特別なことではないでしょうか。王政を打倒してできた国はいっぱいあります。イギリスでは国王が処刑され(清教徒革命)、その後の紆余曲折の結果「君臨するも統治せず」の立憲君主制になった。しかし英国国教会はそのまま残っています。カトリックを「打倒」してプロテスタントになった国はヨーロッパにたくさんありますが(ドイツ、英国、オランダなど)、それはキリスト教の中の宗派の争いです。日本の明治維新期の「廃仏毀釈」も仏教の破壊活動であって、その一方で明治政府は神道を擁護・推進しました。
王政が打倒されるとともに宗教そのものが攻撃されたということで唯一思いつくのは、ロシア革命とその後の経緯です。ロマノフ朝が倒れ、国王が処刑されたあとのロシアでは、ロシア正教の教会が破壊され、僧侶が処刑されました。しかしこれは「コミュニズム理論」の実践によるものであって、その実践はわずか70年という短い期間で終わってしまった。世界史の流れからすると「一過性の」出来事に過ぎません。それに対してフランスは、フランス革命という「国のかたち」を作った出来事の継続として200年以上、現在も国が続いているわけです。
フランス革命で、宗教や信仰の特別扱いはなくなりました。信仰上の理由であっても反革命は反革命です。その「革命」の理念として掲げられたのは「自由・平等・友愛」であり、ここから「表現の自由・言論の自由」の考え方が定着するわけですね。それはフランスだけでなく、その後の世界の自由主義国家・民主主義国家に多大な影響を与えた。その「フランス的自由」は、国民同士の悲惨な殺し合いの経験を通してフランス人が勝ち取ったものなのです。そしてその自由の一部として宗教批判がある。
シャルリー・エブドのテロ事件に関するベルナール = アンリ・レビ氏の見解に戻りますと、彼は、
・ | 宗教を批判することは絶対の権利です。 | ||
・ | 宗教とて他のイデオロギーと変わりません。法の前では横並びです。 |
と言っています。この見解は、実はフランス革命を原点とする「フランスという国のかたち」そのものではないか、と思うわけです。国の出発点に宗教批判があるから、現在もそれがないと国の存在基盤が危うくなる(と感じられる)。ましてや「宗教批判はすべきでない」となると、それじゃカトリックの司祭や修道女を処刑したあのフランス革命は何だったのかということになってしまう。国のスタートが間違っていたということになりかねない。
ベルナール = アンリ・レビ氏は「フランスの根元的な価値観を体現する筋金入りの知識人」という印象を受けます。「絶対の権利」という言い方にそれを感じます。再度確認すると「宗教を批判する」とは「堕落した教会や聖職者を批判する」というようなこと(だけ)ではありません。キリスト教会を批判したいのなら、たとえばバチカンの法王や枢機卿の風刺画を載せればよいわけで、それならプロテスタントが500年前に起こした宗教改革と同じです。そうではなくキリストの風刺画を載せるということは、宗教そのものを(宗教の否定も含めて)批判するということです。
今回の「シャルリー・エブド」の襲撃で「表現の自由」が危機に瀕したような報道や論調がありました。しかし、それは違うのではないでしょうか。正しくは「フランス的表現の自由」が危機に陥ったのだと思います。そして日本を含めてフランス以外の国は「フランス的表現の自由」に同意する必要はないのです。
それにもかかわらず、日本を含む世界の一部のメディアは「シャルリー・エブド」の風刺画を(あるものはモザイク付きで)転載しました。その理由として「表現の自由についての議論の素材を提供する」とした日本のメディアがありましたが、違うと思いますね。預言者の風刺画は一般的な表現の自由の議論の素材にはなりません。「シャルリー・エブド」は(いいか悪いかは別にして)フランス固有の伝統にのっとり、フランス的表現の自由を守るという意識のもと、身の危険を承知で掲載したわけです。しかしそれを転載する(たとえば日本の)メディアには、そういった意識も覚悟もないでしょう。それでいて「表現の自由」を建前に、まともなジャーナリズムを装っているから悪質です。もっとも、このような「話題性を狙った扇情的報道」で発行部数を伸ばそうとするメディアが出ることは、言論や表現の自由のある国では避けられないことです。それは民主主義の根幹である「表現の自由」があるという証拠でもある。
社会的弱者を攻撃する「自由」
「表現の自由」は現代の民主主義社会の根幹ですが、そもそも何のためだったのかを考えてみる必要もあるでしょう。歴史を振り返ると明らかなのですが「表現の自由」は民衆の権力への反撃手段として発達し、定着してきたものです。まさにベルナール = アンリ・レビ氏がボルテールやラブレーの例をあげているように、教会、権力、権威、政治などを批判する権利として「表現の自由」があった。あったというよりフランス国民が血みどろの殺し合いの中から獲得したものです。その自由の一部としてフランスでは「宗教を批判する自由」があった。宗教とはもちろんカトリックです。つまり、1000年以上の長い期間にわたってフランスに根付いてきた「自らの宗教」をも批判する自由だった。
しかし、現代はフランス革命の時代や「1905年に法律で国と教会の分離を定めた時代」とは社会環境が全く違っています。今回問題になった「ムハンマドの風刺画」に関して言うと、フランスにおけるイスラム教徒は 7% だと報道されています。その多くは移民、ないしは移民の子であり、フランス社会でも比較的貧しく、若者が職を得るにも苦労すると言います。その移民の多くは、かつてフランスが植民地として支配・搾取した北アフリカのイスラム教国からきた人たちなのですね。移民社会のイスラム教徒にとっては「神とともに生きる」ことが彼らなりの「自由」です。預言者は神の言葉を伝える存在であり、預言者を風刺することは耐えがたいことになります。
ムハンマドの風刺画をメディアに掲載する「表現の自由」は、フランス社会では結果として「社会的弱者を攻撃する自由」になっています。風刺画を掲載する方は、攻撃ではない、それはフランス伝統のエスプリだと言うでしょうが、イスラム教徒からすると自分たちが攻撃されたとしか受け取りようがない。
シャルリー・エブドで12人がテロの犠牲になってから1ヶ月もたたない2015年1月末、日本人のジャーナリスト、後藤健二氏がシリアでテロリストに殺害されました。彼は常に社会的弱者に寄り添った報道を続けてきた人です。その弱者とはアフガニスタン、イラク、シリア、ルアンダ、シエラレオネなどでの戦争・内戦の難民や子供たちであり、その多くがイスラム教徒です。同じジャーナリズムでも(結果として)社会的弱者を攻撃するのとは全く対極的な後藤氏の姿勢です。「予言者の風刺画は絶対的権利」とするベルナール = アンリ・レビ氏の意見は、後藤氏とは全く正反対の「上から目線」を感じます。
「表現の自由」に戻りますと、社会におけるあらゆる制度や権利は、それが確立した背景と理由があります。それを無視して制度や権利の一人歩きを許すと、結果として制度や権利を形骸化させることになります。
エマニュエル・トッド
(1951~) (site : president.jp) |
フランスを代表する知識人の一人で、歴史学者・人類学者のエマニュエル・トッド氏は、読売新聞の電話インタビューに答えて次のように語っています。
|
同じ知識人でもレビ氏とは違い、このトッド氏の意見には大いに共感できます。彼は日本の新聞社の電話インタビューだから応じたわけですが、確信できることは、彼はフランスにおいても決して「独りぼっち」ではないということです。
「国のかたち」とグローバル化
グローバル化が進む現代において、異文化との共存は避けて通れない問題です。異なる文化と価値観を持った2つの集団が一つの国において共存する必要がでできたとき、互いの理解から始めるしかないと思います。そして共存の道を探り、模索する。伝統的なフランスの(ないしは民主主義国家の)価値観をもつ人はイスラム文化を理解する必要があるし、またイスラム教徒のフランス人もフランスの「国のかたち」や「伝統的な価値観」を理解する必要があります。それに同意したり従ったりする必要はないが、その理由を知る必要はある。その意味で、国家レベルの「異文化理解の教育」が非常に大切だと思います。
それはフランスだけの課題ではもちろんなく、日本の課題でもあり、今後ますます重要になる課題だと強く思いました。
2015-02-20 19:54
nice!(0)
トラックバック(0)