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No.129 - 音楽を愛でるサル(2) [音楽]

前回から続く)

キツネとブドウ


前回からの続きで、正高まさたか信男・著『音楽を愛でるサル』(中公新書 2014)についての話です。著者は音楽が「認知的不協和」に与える影響を実験したのですが、「認知的不協和」を説明するためにイソップ寓話の「キツネとブドウ」を例にあげています。

「キツネとブドウ」は大変に有名な話で、数々の類話や脚色があります。著者もかなり「脚色して」紹介しているのですが、オリジナル版の話は短いものです。最も広まっているシャンブリ版(フランス 1927)のイソップ寓話集からの訳を掲げます。


飢えたキツネが、ブドウだなからブドウの房がさがっているのを見て、取ろうと思った。しかし、取ることができなかったので、つぎのようにひとりごとをいいながら立ち去った。「あれはまだ酸っぱくて食えない」

同様に、人間のなかにも、自分の力がなくてことをうまく運ぶことができないのを、周囲の事情のせいにする者がいる。

塚崎 幹夫・訳
『新訳 イソップ寓話集』
(中公文庫 1987)

キツネが立ち去る時の「捨てぜりふ」は、要するに「負け惜しみ」です。英語で「酸っぱいブドウ=sour grapes」と言うと、ズバリ負け惜しみを意味します。

この話を心理学的に解釈するとどうなるでしょうか。心理学では「したくてもできない」という状況に置かれたとき「認知的不協和」が生じたと言い、そのとき人は(イソップではキツネですが)心のバランスを回復するために自分の認識を都合よく修正する傾向があるとされています。キツネは自分の力不足を認めると「心」のバランスが崩れるので、あのブドウは酸っぱいから欲しくないと、認識を都合よく修正したわけです。

この話のポイントの一つは、キツネが(おそらく)ジャンプしてブドウを取ろうとしたことだと思います。ジャンプしたら取れるとキツネは思ってしまった。しかし取れない。もしブドウが絶対に取れないようなところ、たとえば垂直に切り立った崖の上の方にあったとしたら、キツネは初めから諦めて、取ろうなどとはしないわけです。その場合は「認知的不協和の解消」の必要はなく、「ブドウは美味しいな、欲しいな」と思いつつ去って行ったでしょう。



これが「認知的不協和とその解消」という心理学の理論です。著者はこの「認知的不協和」が起きるとき、音楽がどういう影響を持つかを実験しました。


認知的不協和実験


著者の実験結果を一言でいうと

  モーツァルト効果により、認知的不協和が緩和する

となります(モーツァルト効果については、前回の No.128 参照)。次のような実験です。

25人の4歳の男の子のグループを2グループ作り、その子たちに被験者になってもらいます。仮にAグループ(25人)とBグループ(25人)としておきます。Aグループ、Bグループとも実験の内容はほとんど同じです。

まず男の子を一人ずつ部屋に呼んで、ポケモンに出てくる5種類の怪獣のフィギュアを与えます。そして、その子にとっての5種類の好みの「ランキング」を決めます。どうやって決めるのかと言うと、5種から2種を取り出す合計10個の組み合わせ全部について、どっちが好きかを質問し、その結果を総合します。

ポケモンのフィギュア.jpg
ポケモンのフィギュア
本書の実験で使われたものではありません。バンダイのホームページより引用。

次に実験者は「10分間、一人だけにしておくから自由にフィギュアで遊んでいいよ」と言います。ただし、それぞれの子が2番目に好きなフィギュアだけは、遊ぶことを禁止します。この禁止のしかたが、AグループとBグループでは違います。

Aグループの男の子に対しては「厳しく禁止」します。つまり実験者は男の子に次のように言います。

  もしこの(と、二番目に好みのフィギュアを指して)怪獣で遊んだら、すごくがっかりするよ。あんまりがっかりするので、怪獣を全部持って家に帰ってしまって、もう戻ってこないかもしれないなあ。もしこれで遊んだら、それは赤ちゃんのすることだよね。じゃあ行くからね。

一方、Bグループの男の子に対しては「ゆるやかに禁止」します。

  もしも、この怪獣で遊んだら困ったことになるんだ。でもいない間、ほかの怪獣では遊んでいいよ。じゃあ行くからね。

そう言って、実験者は部屋を退出します。

10分後に部屋に戻った実験者は、再びフィギュアの好みの「ランキング」を調査します。そして遊ぶのを禁止されたフィギュア(それぞれの男の子が2番目に好きだったフィギュア)のランキングが上昇したか下降したかを調べます。その結果が表1です。

表1:禁止の程度とランキングの変化
「音楽を愛でるサル」の表から作成(以下同じ)
グループと禁止の程度  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化 
上昇した 変わらない 下降した
 Aグループ:厳しく禁止  16 7 2
 Bグループ:緩やかに禁止  5 14 6


2ヶ月後、再び50人の男の子に集まってもらいます。今度も全く同じ手順で調査をするのですが、言葉による禁止ではなく、2番目に好きなフィギュアを持ち去ります。つまり、Aグループ、Bグループとも実験者は、

  「ほんのちょっとの間、ここから出ていくけれどすぐに戻ってくるから、ポケモン怪獣で遊んでいていいよ」とだけ言い、子どもが2番目に好きなフィギュアを黙って手にして退出する

わけです。そして10分後に実験者は持ち出したフィギュアを手にして部屋に戻り、そのフィギュアの「好みランキング」の変化を調べます。その結果が表2です。

表2:"持ち去り"がランキングに与える影響
グループ  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化 
上昇した 変わらない 下降した
 Aグループ  14 7 4
 Bグループ  16 6 3

表1と表2から、次の2点が分かります。

フィギュアで遊べないという状況(厳しい禁止、持ち去り)は、そのフィギュアに対する好みを増大させる。これが普通である。

しかし「緩やかに禁止」すると、フィギュアに対する好みが増大しない。禁止したのに増大しないという意味では、他のケースとの比較において、相対的に好みが低下したと言える。

この実験結果は心理学における「認知的不協和の理論」に合致しています。つまり男の子は、怪獣のフィギュアで遊ぶことを「緩やかに禁止」されると、遊びたいのに遊べないという心的葛藤状態になり、心のバランスをとるために自分はそのフィギュアでそれほど遊びたくはないのだと認識を修正し、本来あるべき「禁止による好みの上昇」を消してしまう、というのが最も妥当な解釈なのです。「強い禁止」や「持ち去り」では、子どもは初めから遊ぶのを諦めてしまって、心の葛藤は起きません。そして「遊べない」ことが好みを増大させるのです。



そこで音楽の登場となります。実はこの実験には、もう一つのCグループ(25人)があります。実験者はCグループに対して、1回目の実験では「緩やかに禁止」し、実験者が退室している間はモーツァルトのピアノ・ソナタをBGMとして流します(またしてもモーツァルトのピアノ・ソナタ!!)。2回目の実験でフィギュアを持ち去るのも同じですが、この時も退室している間にモーツァルトが流れます。このCグループの「好みランキング」の変化をさっきの表に加えたのが、「表1追加」と「表2追加」です。AグループとBグループの値は前の表と同じです。

表1追加:禁止の程度とランキングの変化
グループと禁止の程度  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化 
上昇した 変わらない 下降した
 Aグループ:厳しく禁止  16 7 2
 Bグループ:緩やかに禁止  5 14 6
 Cグループ:モーツァルトの
音楽を流しつつ緩やかに禁止
 
15 7 3

表2追加:"持ち去り"がランキングに与える影響
グループ  2番目に好きだったフィギュアのランキング変化 
上昇した 変わらない 下降した
 Aグループ  14 7 4
 Bグループ  16 6 3
 Cグループ  16 5 4

2つの表で一目瞭然なのは「モーツァルトを流しながら緩やかに禁止」するのは「厳しく禁止」するのと全く同じ傾向を示すということです。つまり、実験全体をまとめると、

緩やかな禁止は、好みを相対的に低下させる。これは認知的不協和の理論と合致している。

モーツァルトのピアノ・ソナタは、認知的不協和の状態を緩和し、一般のケースと同じように禁止によって好みが増大する効果を与える。

となります。著者はモーツァルトのピアノ・ソナタ以外の音楽では実験しなかったようなので、あえてモーツァルトと書きましたが、本当はモーツァルトに限らないはずです。

では、なぜこんなことになるのでしょうか。『音楽を愛でるサル』から引用します。


一言で表すならば、音楽を耳にすることによって心の中の言語を用いた論理操作の作業が一時的に中断するからではないかと考えられないだろうか。「私の思っていたオモチャの価値」と「周囲がオモチャに与えていた価値」とのギャップ ─── それが心地悪いものでもなんでもなくなってしまう。そういう効果が音楽には存在する。

『音楽を愛でるサル』

認知的不協和は思考によって生まれる、その思考は言語でなされる、音楽はそこに影響を与える、というのキーポイントになっています。

ということは「そもそも思考しないのであれば、認知的不協和は生じない」ことになります。それがまさに、イソップ寓話の擬人化されたキツネではない、自然界のキツネでしょう。


自然界に生息する「本当の」キツネが空腹時にブドウを目の当たりにし、届かないからとそう易々と退散しないのも当然である。ある意味で、イソップのキツネより性根がすわっているとも言えなくはないだろう。そしてそれは、なまじ言語で思考しないからにもとづいている。「欲しいものは、どうしたって欲しい」のだ。それゆえモーツァルトの音楽には、私たちを言語で思考しだした以前の段階へと回帰させる力があるとも書けなくはないのである。

『音楽を愛でるサル』

著者は引用部分で、

  ・・・とも書けなくはない
  ・・・とも言えなくはないだろう
  ・・・ではないかと考えられないだろうか(一つ前の引用)
  ・・・とみなせないことはないようにも思えてくる(前回での引用)

などと、断定を避けた「曖昧な」表現をしているのですが(本書全体にそういう表現が多い)、科学者として「断定できないものは、できない」ことを明確にしたかったのだと思います。「モーツァルト効果」を研究する者は「エセ科学者」と見なされるリスクがあるとしたら(前回の No.128 参照)、なおさらです。

それはともかく、音楽には私たちを言語で思考しだした以前の段階へと回帰させる力があるというところが核心だと思います。それは、テナガザルの「歌」にみられるように、歌唱行動から言語が発達したとする推測と整合的です。


ストループ干渉実験


『音楽を愛でるサル』には、もう一つの「モーツァルト効果」の実験が示されています。それは先ほどの「認知的不協和実験」よりはシンプルなものです。

「ストループ干渉」という心理学で有名な現象があります。被験者は単語を見せられて文字がどいういう色で書かれているかを答えるのですが、その単語は赤とか青などの色の名前(色名)であって、しかも色名と文字の色が合致している場合もあれば、合致していない場合もあります。そして、合致していない場合の方が答えるのに時間がかかる、というのが「ストループ干渉」です。要するに、

赤色で「あか」と書かれた文字を見て「赤」と答えるのは容易だが

赤色で「くろ」と書かれた文字を見て「赤」と答えるのは時間がかかる

ということです。人間はどうしても一瞥して「文字」→「言語」→「意味」という思考が入ってしまい、それが色を答えるという動作に「干渉」して、答えに要する時間を増やしてしまうのです。これは「認知的不協和」の一種です。

「ストループ干渉」は米国のジョージ・ストループという心理学者が1935年に発表したもので、心理学では非常に有名な実験です。最も繰り返し行われた実験とも言われていて、極めて再現性が高いものです。

ストループ干渉・日経サイエンス.jpg
英語でのストループ干渉

上左から右へ、下へと文字の色を英語で答えていく。答えは、red, blue, orange(黄色っぽい色), purple(紫色)、green の5つである。

上2行は単語の意味と文字の色が一致しているが、3行目以降は一致していない。3行目以降の方が答えるのが難しいはずである。

もし上2行と3行目以降が同じスピードで答えられるとしたら、ストループ干渉は起きていないことになり、中学・高校の6年間、英語を勉強したはずのあなたの英語力は「問題あり」である(冗談です)。
(日経サイエンス「脳が生み出すイリュージョン」より引用)

なお、日本語のストループ干渉のカラー図版を「音楽を愛でるサル」の口絵としてちゃんと載せるべきである。読者としては見ないと理解しにくいのだから。中公新書も「コスト削減」の方向に向かっているのだろうか。

著者が「ストループ干渉」における音楽の影響を調べた実験の内容と、その結果のグラフが以下です。

8~9歳の子供を被験者に選ぶ。ポケモン怪獣の実験(3~4歳の子)よりは「高度」だから、年齢層を上げる。

「あか」「あお」などの単語を見せ、字の色を答えてもらう。字の色には、単語が表す色名とは違う色が使われている。その答えに要する時間を測定する。

比較対照のために「XXX]といった、意味のない記号列を着色したものでも実験をする。

BGMなしの場合と、BGMとして音楽を流す場合を測定する。音楽としては「モーツァルトのメヌエット」(作曲は父親のレオポルト・モーツァルト)を選んだ。大変シンプルなピアノ曲(ハ長調)である。

さらに、音楽は2種類を用意する。一つは「モーツァルトのメヌエットの原曲」、もうひとつは「モーツァルトのメヌエットの変曲(編曲)」である。その「変曲」とは、原曲の「ソ」と「レ」の音を半音下げる(フラットをつける)ものであり、つまり意図的に「不協和音」の響きを作り出すものである。もちろん原曲は「協和音」からできている。

モーツァルトのメヌエット(原曲).jpg
モーツァルトのメヌエット
(「音楽を愛でるサル」より引用。以下同じ)

モーツァルトのメヌエット(変曲).jpg
モーツァルトのメヌエットを"変曲"した「不協和メヌエット」

ストループ干渉.jpg
ストループ干渉の実験結果

この結果が次のことが分かります

「XXX」といった無意味な記号より、「あか」といった色名の方が答える時間が長くなる。つまり確かにストループ干渉が起こっていることが分かる。

「XXX」といった無意味な記号の場合、BGMがあってもなくても回答時間は同じである。

色名の場合、BGMとして「モーツァルトのメヌエット」を流すとストループ干渉が緩和され、答える時間が(BGMがないよりも)早くなる。

一方、不協和音を含む「変曲」をBGMとして流すと、今度は回答時間が(BGMがないよりも)長くなる。ストループ干渉をより強めたことになる。

この結果は、音楽が「認知的不協和」を緩和するというポケモン怪獣の実験と同じです。被験者は「あか」という文字を見た瞬間、文字→言語→意味という「言語活動」が働いてしまい、本来あるべき回答(青色で「あか」と書かれていたら「青」と答える)までの時間が延びるのです。音楽はその「言語による脳の活動」を緩和していることになります。

この実験のもう一つのポイントは「不協和音」の効果です。不協和音の音楽は、認知的な「不協和、干渉、葛藤、ストレス」を高める効果があるようなのです。この「不協和音」を不快だと感じるのはヒトの生来の性質で、遺伝的要素が強いものだと言います。


不協和音はおおむね耳にとって不快な響きと言ってよいものだろう。少なくとも乳児は不協和音を好まないし、それは子ども時分を通して一貫している。そういう感性には遺伝的な素地があるらしい。すでに新生児ですら、その正面1.5メートルほど先を注視させておき、スピーカーからさまざまな音を流してみると、不協和音のときにはすぐに顔をそむけてしまう。不快に感じるようなのだ。

『音楽を愛でるサル』

我々は何となく「協和音」とか「不協和音」というのは音楽理論だと思っています。人為的に作られた理論である、というような・・・・・・。しかしそれは違うようです。協和音とか不協和音というのは、ヒトはそういう遺伝的な性質をもっているという、ヒトについての説明に近いものなのですね。ここにも、音楽が人間にとって非常に根源的なものだということが現れていると思います。



『音楽を愛でるサル』では、音楽がストループ干渉を緩和することについて、ヒトの脳の前頭葉の発達との関係で説明されているのですが、省略したいと思います。また本書には、音楽と人間に関するさまざまな話題が、音楽と直接関係がないものを含めて述べられています。多岐に渡り過ぎてまとまりが薄く、著者のこの10年の研究に関する話題を詰め込んだ感じです(「あとがき」にそう書いてあります。こういう新書の作り方がいいのか疑問ですが)。また、著者は現代音楽や現代のポピュラー・ミュージックが嫌いなようで、それらについての「理解のなさ」が露呈しています(クラシック音楽は好きなようですが)。しかしそれらを飛ばして、音楽についての類人猿研究や心理学研究のところだけをとると、そこは一読の価値があると思いました。


感想:音楽の不思議


ここからは『音楽を愛でるサル』の感想です。

そもそもの疑問は、No.128「音楽を愛でるサル(1)」の最初に書いたように、「メロディーの記憶がなぜ長期間残るのか」というものでした。この記憶は器楽曲でも起こります。歌という「体の運動」が「手続き記憶」として長く残るというのは本書に説明があるのですが、「体の運動」がなくても、つまり純粋な器楽曲を聞いただけでも、印象的なメロディーの記憶は長く残ります。それはなぜかについての私の理解は次の通りです。

我々はメロディーを聞くとき(たとえば、器楽曲のメロディーを聞くとき)、暗黙にそれを「歌」として聞いている。

つまり、もし歌ったとしたらどうなるか、体の運動の時間的な変化パターン(=声帯の緊張の変化など)はどうなのか、それを無意識に想像しながら聞いている。

その変化パターンが「手続き記憶」として、体に染み込む。だから印象的なメロディーの記憶は長く残る。

というものです。たとえ歌ではなくても、音楽はその背後に「歌」を仮定して聞くとき最も心に刻み込まれるものになるのだと思います。No.124「パガニーニの主題による狂詩曲」で、平原綾香さんがラフマニノフのメロディー(譜例67)に歌詞をつけて歌っていることを書きましたが、このように「器楽曲を歌にする」のは、人間と音楽の関わりの最も本質のところをついているのだと認識しました。

譜例67.jpg
余談になりますが、この手の曲で最も印象深いのがビリー・ジョエルの「This Night」(アルバム「イノセント・マン」に収録。1983)です。ベートーベンの悲愴ソナタの第2楽章の有名なメロディー(譜例69)に歌詞をつけて自分の曲の中に取り込み、自らが作曲した部分と融合させている。才人、ビリー・ジョエルの面目躍如という感じで、見事な出来栄えです。ちなみにこのベートーベンの旋律もラフマニノフと同じく「Cantabile」という指示がついています。メロディー・メーカーたる大作曲家が「歌うように演奏しなさい」言っているのだから、本当に歌いたくなるのは当然だと言えるでしょう。

譜例69.jpg

本筋に戻って、本書を読んで分かることの一つは、歌を作るときに、メロディーを先に作り(あるいはすでにメロディーがあって)、あとからそのメロディーにフィットする歌詞をつけるのは、極めてまっとうな曲の作り方ということです。ヒトの歴史をみると、ふしを伴う発声がまずあって、その次に言葉が発達したのだから・・・・・・。

さらに言うと、オペラは普通、歌だけで劇が進みます。ミュージカルにも、台詞せりふがいっさい無く、歌だけでストーリーが進行するものがあります。こういった作品は、ヒトの本性に根差した最も根源的な表現手段だと思いました。



これでいちおう納得なのですが、なんとなく割り切れない感じがしないでもない。なぜメロディーの記憶が長く続くのか、なぜヒトは音楽を求めるのか(なくても生活に支障は全くないのに)。その問いに対する本書の答えは、要するに「それが本能だから」「ヒトとはそういうものだから」ということに近いわけです。

「本能です」と言われると、それで回答は終わりです。何となく割り切れない感じが残る。それでは、おもしろくない、もっと理由がないのか、という・・・・・・。

子供が「どうして・・・なの?」を連発する段階からはじまって、我々には「理由を求めたい」「納得できる説明が聞きたい」という思いがつきまとっています。理由がないと自分が宙ぶらりんになったような気がして不安にかられる。それは言語能力を獲得した人間のさがであり、ある意味では本能とも言えるものです。そして、理由を知りたいからこそ、科学や学問や宗教が発達し、今の人間社会ができた。

しかしよくよく考えてみると、音楽にまで理由を求めるべきではないのですね。音楽に理由を求めるのは『音楽を愛でるサル』に書かれている学問的知見に反します。なぜなら、「理由」というのは人間の言語活動の範疇に属するものであり、音楽は言語以前のものだからです。

  理由の詮索はやめて、それよりも好きな音楽に浸ろう。我々は、ホモ・サピエンス(言葉をあやつるサル)であると同時に、いや、それ以前にホモ・ミュージエンス(音楽を愛でるサル)なのだから

というのが、本書を読んだ最大の感想=教訓です。





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