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No.123 - ローマ帝国の盛衰とインフラ [歴史]

No.112-113「ローマ人のコンクリート」の続きです。

古代ローマ人は社会のインフラストラクチャー(道路・街道、上水道・下水道、城壁、各種の公共建築物、など。以下、インフラ)を次々と建設したのですが、その建設にはコンクリート技術が重要な位置を占めていました。またその建設資金は、元老院階級(貴族)の富裕層の寄付が多々あったことも書きました。

No.112 に写真を掲げたインフラの中に、「ポン・デュ・ガール」(世界遺産)がありました。これは南フランスの都市、ニームに水を供給するために敷設された「ニーム水道」の一部です。古代ローマ人の驚異的なインフラ建設技術を物語るものなので、写真と図を掲載しておきます。

Pont du gard.jpg
ポン・デュ・ガール (Wikipedia)

Nimes Aqueduct-C.jpg Nimes Aqueduct-D.jpg
Nimes Aqueduct-E.jpg
ポン・デュ・ガール付近に残る、ニーム水道の遺跡。
http://www.avignon-et-provence.com/

Nimes Aqueduct-A.jpg Nimes Aqueduct-B.jpg
「ニーム水道」のルートを示した図。水源地のユゼス(上方)からニーム(左下)までの直線距離は約20kmであるが、水道は約50kmもある。水源からニームの町はずれのカステルム(貯水槽)までの高低差はわずか12m程度で、平均すると1kmで24cmの傾斜がついていることになる(=1000分の0.24の勾配)。そのため導水路は、途中の山地を避けつつ、できるだけ平坦になるように曲がりくねって建設された。
ポン・デュ・ガール付近を拡大した図。青色がガルドン川(その古名がガール川)で、ローヌ川に合流する。緑色が導水路で、複雑なルートであることがよく分かる。もちろん曲がるだけではなく、水路の途中には数々の水道橋やトンネルが作られた。建設されたのは紀元1世紀である。ポン・デュ・ガールの建設技術には驚くが、50km・高低差12mの導水路を作った測量技術も驚きである。

左の図は(A)、右の図は(B)より引用。説明は(B)を参考にした。
(A) http://www.avignon-et-provence.com/
(B) http://www.romanaqueducts.info/



そういったインフラと古代ローマの盛衰の関係を、本村凌二もとむらりょうじ氏が書いていたので紹介したいと思います。本村氏は元東京大学教授(現・早稲田大学教授)で、古代ローマ史の専門家です。以前、No.24「ローマ人の物語(1)」と、No.26「ローマ人の物語(3)」で、本村氏の『多神教と一神教』(岩波新書)を引用したことがあります。

以下、少々長くなりますが、ローマの盛衰とインフラの関係についての記述を引用します。下線は原文にはありません。


ローマ帝国の滅亡



ローマ滅亡の原因は国力の低下だ、と先述しました。では「国力」とは具体的に何を意味するのでしょう。もっとも大きいのは、今も昔も「経済力」です。そして、それがもっとも具体的な形で表れるのが「インフラの老朽化」です。

日本でも現在、前回の東京オリンピック(1964年)の時に造ったインフラが老朽化し、さまざまな問題が起きています。しかし、インフラは問題が起きてもすぐに新しく造り替えることはできないのが現実です。なぜなら、ひとつには莫大な費用がかかるから。もうひとつは、今動いているインフラを止めるわけにはいかないから、です。

日本はわずか50年でこうした問題に直面しているわけですが、ローマの場合は、できあがってから500年以上経っています。道路は、まだ地表を走っているのでいいのですが、上下水道、特に上水道の修理は大変です。

もちろん、ローマもこの500年間放っておいたわけではありません。途中で何度も修理していますが、インフラ設備は根本的な部分が老朽化していくことがあり、新しく造り直さなければどうにもならないものがあります。しかも、新しく造ると言ってもすぐにできるものではありません。アッピア街道も、アッピア水道も、完成までには長い年月がかかっています。

当時のローマには、ローマの町だけで10本以上の水道があり、そのほかの各属州にも多くの水道がありました。

たとえば今もフランスに残る水道橋ポン・デュ・ガールはネマウスス(現・フランスの都市ニーム)に水を供給するためにローマ時代に造られたものです。

これらは、帝国が版図を広げていった豊かな時代に造られているので、多くがほぼ同時期に造られています。そのため老朽化という問題も属州各地から一気にローマに押し寄せることになりました。

現在は、インフラを造るときには、メンテナンスの費用に毎年いくらかかるか、何年経ったら塗装をやり直さなければならないか、など計画的に考えて、きちんと予算を組んでから、インフラ整備が進められています。しかし、当時のローマにはそうしたものはありません。そもそも、予算という考え方すら、あったかどうか疑問です。

さらに、今のように国家予算で造っているのではありません。富裕層が私財で造ったり、市民が寄付をつのって造ったりしているので、国家がインフラに責任を持つという意識も希薄でした。

富裕層の立場からすれば、新しいものを造るときには、自分の名前がついたり、記念碑が建てられたりと、自分の行為をアピールできますが、修復ではお金がかかるわりに誰も賞賛してくれません。出資に見合った名誉が得られないことにも、問題の種はあったと思います。その結果、富裕層は、積極的にインフラの補修はしていません。もちろん、富裕層に、それだけの財政的余裕があったかどうかも根本問題としてあります。

このように、さまざまな理由で、帝政末期のローマはインフラの整備、インフラの維持が限界に来ており、それがローマの体力をいちじるしく奪っていったのです。

本村凌二
『はじめて読む人のローマ史 1200年』
祥伝社(2014)

インフラはメンテナンスが何よりも重要(むしろ建設するよりも重要)であり、ローマ帝国もインフラの補修をこまめに続けた。しかし帝国後期になるとそれもとどこおり、帝国の凋落の一因になったというのが、引用部分のおおまかな主旨です。

引用の最後の下線の部分に、インフラと富裕層の関係が書かれています。富裕層は私財でインフラを建設するが、メンテナンスはしないし、ましてや老朽化したインフラを作り替えたりはしない。それらは国家の責任になる・・・・・・。そこにはある種の社会的な不整合があるわけです。「富裕層の私財で造られた」ローマ帝国のインフラが抱える本質的な問題点が指摘されています。

普通、歴史上のインフラの建設資金は、国家が出すか、あるいは人民の労役の提供という形の「税金」でまかなわれたものだと、我々は考えます。現代においてもインフラの建設は税金か、ないしは受益者負担が原則でしょう。

現代でも「メセナ」という言葉があるように、企業やオーナー企業のトップが文化活動に寄付をすることは、欧米各国を先頭に一般化しています。しかし寄付で社会インフラを造る、というのはあまり聞きません。メセナという言葉は、古代ローマの初代皇帝、アウグストゥスの腹心だったガイウス・マエケナスの名前からきています。彼は文化人の支援に非常に熱心だった。しかし古代ローマでは、文化の育成のみならずインフラ建設も私財だったわけです。


小さな政府と富裕層


なぜローマ帝国では富裕層が私財を出してインフラを造ったのか。それには、ローマ帝国が「小さな政府」だったことが背景にあります。


帝政期のローマの人口は約6000万人、属州は50州、常備軍が40万人という大所帯にもかかわらず、国家官僚はわずか300人ほど、公務員ですら1万人程度です。これは、現代のイギリスと比べると約50分の1の規模です。この小さな政府で、あれだけの帝国をどのようにして統治していたのでしょう。

注目すべきポイントは、国費でまかなわなければならない部分がとても少なかったことです。国費のほとんどを占めていたのは国防費で、資料の示唆するところでは、ローマの財政の7割は国防費だったようです。

紀元前146年以降、ローマは拡大するにしたがい、イタリア半島の外に多くの属州を持つようになりました。属州には中央から役人が派遣されますが、その数はほんのわずかです。わずかな役人で、どのようにして統治を行ったのかと言うと、派遣された役人が自分の手足となって働く人を数多く雇い、実務を分担させたのです。彼らは、国が雇ったのではありません。派遣された役人、つまり貴族が個人的に雇うので、その費用は役人個人が負担しました。

本村凌二・前掲書

貴族は中央にいたときからの子分(=平民)を連れて属州に行くこともあれば、属州のエリートたちを子分として雇い入れることもあったようです。いずれにせよ国家が負担するのは派遣した貴族(役人)の分だけです。

古代ローマの軍事費が国家財政の7割というのは、現代国家と違って、医療や福祉などの社会保障費がなかったこともあるのでしょうが、ベースには「小さな政府」があるわけです。


属州では徴税も、派遣された役人が個人的に雇った「徴税請負人(プブリカニ)」に行わせました。そのため国家には徴税の経費も必要ありませんでした。その代わり、役人が国家が求める以上の徴税を行うことを黙認していました。

たとえば10億セステルティウスの税金が見込める属州の場合、国家はきちんと10億セステルティウスを中央に納めてくれれば、現地の役人が徴税請負人に12億セステルティウスを徴税させて差額の2億セステルティウスを自分のものにしたとしても黙認した、ということです。

本村凌二・前掲書

国家による「差額を自分のものにすることの黙認」は当然でしょうね。10億セステルティウスを徴税し、10億セステルティウスを中央に納めたとしたら、貴族(役人)の財産は目減りする一方です。なぜなら、徴税請負人をはじめとする子分たち(属州統治の実務担当者)は、貴族が私的なお金で雇ったものだからです。

しかし貴族が「子分を雇う費用相当分の差額を自分のものにした」ということはありえないでしょう。人間というものはそのようには行動はしません。必ず、出費を差し引いた「余得」や「役得」が貴族の収入になる。属州といっても、現代の地中海沿岸諸国の一つの「国」の広さがあります。そういう「国」から得られる「余得や役得」は巨大なものだったと思います。

もちろん中には「度を過ぎた税金の取り立て」もあり、属州民が中央政府に訴えて裁判になったケースがあったと、本村教授の本にありました。

本村教授が(例として)あげている「差額の2億セステルティウス」というのは、現代の貨幣価値にすると200億円とか300億円とか、そういうオーダーの金額です。属州という「国」レベルの税金なので、そういう金額になります。2億セステルティウスが事実かどうかはともかく、そいういう規模の話だということに注意すべきしょう。



思い起こすのはカエサルです。有名な話ですが、カエサルは借金王でした。彼はローマで一番の資産家であったマルクス・リキニウス・クラッススから借金を続けます。本村教授によると、財務官に当選したときには(BC.65 カエサル35歳)、クラッススから2500万セステルティウスを借金し、当選祝いに25万人を集めた競技会()を開催し、借りたお金を全部使い切りました。2500万セステルティウスは、現在の貨幣価値にして30億円()です。

本村教授は「競技会」とマイルドに書いていますが、要するに剣闘士の試合(殺し合い)で、このとき集められた剣闘士は320組と言います。「ローマ人の物語」で塩野七生さんは次のように書いていました。()は引用注です。


320組となれば、640人になる剣闘士を(カエサルは)借り切ったことになる。しかも剣闘士たちには、右腕を守るために着ける腕鎧うでよろいを、すべて銀で制作して着用させた。試合場に出たときに、陽光を浴びて光り輝く効果を狙ったのである。

塩野七生「ローマ人の物語 Ⅳ」
(ユリウス・カエサル ルビコン以前)
(新潮社 1995)

カエサルの「太っ腹」には驚きますが、この件だけではなく、カエサルにお金を貸し続けたクラッススも相当な人です。クラッススの資産は国家予算の半分もあった(No.112「ローマ人のコンクリート(1)」参照)からこそでしょうが、それだけではなく、カエサルが地位を上り詰めることを見込んだことと、地位を上り詰めれば借金は返せることが分かっていたらからだと想像します。

事実、カエサルは亡くなったときには財産を残しています。それまでにカエサルは、属州(ヒスパニア)の総督を経験し、有名なガリア遠征の総指揮官を努めています。属州総督の余得は先述した通りだし、戦役では(勝てば)戦利品が得られる。クラッススの「見立て」は正しかったと言えるでしょう。

  古代ローマの貨幣価値についての余談です。カエサルの時代(前1世紀)、本村教授によると2500万セステルティウスが30億円なので、1セステルティウス青銅貨は、現代日本の120円という換算になります。一方、No.22「クラバートと奴隷(1)」で書いたのですが、アルベルト・アンジェラ著「古代ローマ人の24時間」(2010出版)では、トラヤヌス帝の時代(紀元2世紀初頭)の1セステルティウス青銅貨は、現在の貨幣価値で2ユーロと結論づけていました。

貨幣価値は時代で変わるし(カエサルとトラヤヌス帝では200年近い差がある)、現代の貨幣価値も数年でかなり変動します。また2000年前の貨幣価値を何を基準にして計測するかは、難しい問題があると思います。「現代の貨幣価値で」というのは、あくまで概算と考えた方が良いと思われます。



話がそれてしまいましたが、古代ローマの富裕層の話でした。カエサルは「財務官当選記念競技会」に数10億円(しかも借金)を使ったという認識を持つことで、当時のローマの富裕層の「富裕の規模」がイメージできると思います。「富裕層とインフラ建設」に話を戻すと、要するに古代ローマでは、

富裕層に富が集中していて(そういう社会の仕組みであり)、
富裕層による「富の再分配」があり、
再分配として、私財によるインフラ建設があり、
それが国家レベルで大々的に行われていた

ということだと思います。小さな政府を背景とした、私財による公共投資。これは経済の成長期・繁栄期において、考えようによっては「最適な」システムです。

しかし経済成長が止まり、ないしはマイナス成長になると、このやり方は裏目に出てしまう。しかも、建て直す必要があるインフラがどんどん出てくると、非常に困ったことになる。インフラの老朽化が経済の停滞を招き、それが負のスパイラルとなって一挙に国家の凋落を招く可能性があるわけです。

本村教授は、ローマ帝国の後期になるとこの「負のスパイラル」がボディー・ブローのようにして利いてきて、国の体力を奪っていったことを指摘しているのだと考えます。


ローマの水使用量


インフラの例ですが、本村教授が「道路は、まだ地表を走っているのでいいのですが、上下水道、特に上水道の修理は大変です。」と指摘している「上水道」です。この上水道とテルマエ(公衆浴場)の関係を紹介しておきたいと思います。


ローマは毎日、大量の水を消費していました。ローマ市街の水道は、紀元前四世紀末のアッピア水道から始まり、最盛期には11本もの水道が引かれていました。それらの水道が供給する水の量は、1日あたり何と100万立方メートル(約2億ガロン)にも達していました。ちなみに、当時のローマ市の人口は約100万人、2009年の横浜市(人口367万人)の1日平均給水量が約120万立方メートルであることを考えれば、ローマ人がいかに大量の水を使っていたかおかわりいただけるでしょう。

しかも、この水はローマで湧いていたわけでなく、遠方の水源から水道を通ってきたものです。そして、何本もの巨大な水道橋が必要でした。

本村凌二・前掲書

計算すると、ローマ市民一人当たりの水使用量は、現代の横浜市民の3倍ということになります。これだけの大量の水を使った理由の一つがテルマエ(公衆浴場)でした。


テルマエ自体は紀元前からありましたが、これほどまでに普及したのは、帝政期にはいってから。歴代の皇帝が、市民サービスの一環として大規模なテルマエを次々と建設したからでした。

なかでも、カラカラ帝(在位211~217)が造ったカラカラ浴場が有名です。カラカラ浴場は遺跡が残っており、実際に行ってみると、その大きさに圧倒されます。長さ225メートル、幅185メートルで、2000~3000人が入浴できたと言います。

しかし、ローマには、そのカラカラ浴場を上回る規模の巨大テルマエがありました。長さ330メートル、幅215メートル、それは五賢帝の一人トラヤヌス帝が109年に完成させたトラヤヌス浴場です。

この巨大なテルマエの使用料は無料ではありませんが、金額はほんのわずか。史料によればクァドランス銅貨1枚。クァドランス銅貨は、当時ローマで発行されていた最小通貨ですから、タダ同然の安さで、楽しめたのです。

本村凌二・前掲書

日本人は温泉が大好きですが、温泉は地下から湧いてくるもので、いわば「自然の恵み」にあずかっているわけです。しかし、テルマエは温泉ではありません。超巨大銭湯であり、「都市型健康ランド」です。それを成り立たせるのに必須なのは、

浴場の建設とメンテナンス
水道
燃料(=木)
浴場運営を行う労働者(古代ローマでは奴隷)

であり、これらを負担する国家財政です。

テルマエの使用料はクァドランス銅貨1枚とありますが、ローマ帝政期における「クァドランス」は「セステルティウス」の16分の1です。トラヤヌス帝の時代のセステルティウスを現在の価値で2ユーロだとすると(前述のアルベルト・アンジェラ著「古代ローマ人の24時間」による)、テルマエの使用料は8分の1ユーロで、15円程度になります。まさに「タダ同然」です。

これら①~④の条件が、ローマ帝国の末期になるとなくなってきます。


盛況を誇ったローマのテルマエは、4世紀頃から除々に衰退していきます。ローマ人が風呂嫌いになったわけではなく、テルマエの運営が立ち行かなくなったのです。巨大なテルマエは、膨大な量の水と、その水を沸かすための膨大な燃料、さらにそこで働く大勢の奴隷を必要としました。それをタダ同然の使用料でまかなえるはずもなく、経費のほとんどは国が負担していました。そのため、国力が衰えるとテルマエの運営自体が難しくまってしまったのです。

本村凌二・前掲書

さらにテルマエの衰退のもう一つの要因は、水の確保が難しくなったことだと、本村教授は言います。


古代ローマの水道の中には、現代も使われているものもあり、一度造ってしまえば半永久的につような印象を受けるかもしれません。しかし、機能を維持するためには、当然のこととして定期的なメンテナンスが必要不可欠です。

実際、こまめなメンテナンスがローマの水道を支えていましたが、ローマが衰退期に入ると、それもとどこおるようになり、老朽化に拍車がかかるようになります。新しい水道橋を引けメンテナンスは楽になりますが、十分なメンテナンスすらできない状況では、新しい水道を引く余裕などありません。

その結果、ローマの給水量は減少し、テルマエのために大量の水を使うことが物理的に難しくなっていった、という事情もあったのです。ローマのテルマエは、ローマの経済状態と共に隆盛し、衰退して、最後はローマと共に滅びてしまったということです。

本村凌二・前掲書

No.113「ローマ人のコンクリート(2)光と影」で、テルマエの維持のために、ローマ周辺の木材資源が枯渇してしまったという話を紹介しましたが、燃料となる木材の供給だけでなく水の供給も困難になってしまったというが、本村教授の指摘です。さらに、高度な建設技術で作られた水道は高度なメンテナンス技術が必要であり、その技術を維持し続けるためには、それなりの継続的な資金投入が必要だということも言えるでしょう。


インフラの重要性


インフラ(インフラストラクチャ)は、日本語で言うと「下部構造」です。言葉の定義からしても、インフラの上部構造として国が造られます。そういう発想のもとに世界史上で最初の国を作ったのがローマ人だった。ローマ人が「インフラの父」と言われるゆえんです。国力は経済力が第一ですが、インフラ国家における経済力は「インフラが維持され、正常に機能している前提」で発展するということになります。従って、その前提が無くなったとしたら、経済力は弱体化し、国力の凋落を招く。

ローマ市は(最盛期11本の)水道がある前提で、100万都市だった。その水道が機能不全に陥ると、ローマ市は凋落の道をたどる。もちろん水道がなくても人は生活していけるが、そのため疫病が蔓延したり、人口が数分の1に減少したとしたら、ローマ市の繁栄は消し飛んでしまう。これはあくまで想定ですが・・・・・・。

古代ローマ史のおもしろさは、一つの国の誕生から成長、繁栄、凋落、終焉までがワンセットとしてあり、文献資料もそれなりにあって研究されていることです。その歴史は、人間の生き方や人間集団の運営に関する示唆や教訓に満ちています。そこには現代にも通用しそうなものが一杯ある。

インフラに関していうと、No.113「ローマ人のコンクリート(2)光と影」に書いたのは、「交通・輸送網」「上下水道」「エネルギー供給網」ですが、現代はそれに加えて「情報通信網」なども重要であり、さらに「社会福祉システム」などのソフト面のインフラも大変に重要です。はたしてそれらが「持続可能」なのかどうか。我々は考えてみるべきでしょう。

続く


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