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No.118 - マグダラのマリア [アート]

最近の記事、No.114No.115で、中野京子さんによる絵の評論を紹介し、その感想を書きました。

  ジェローム仮面舞踏会後の決闘』(No.114
  スーラグランド・ジャット島の日曜日の午後』(No.115

の2作品です。また以前には、No.19「ベラスケスの怖い絵」で、中野さんによる

  ベラスケスインノケンティウス十世の肖像
   ラス・メニーナス

の評論を紹介しました。今回もその継続で、別の絵を紹介します。ティツィアーノ『悔悛かいしゅんするマグダラのマリア』(1533。フィレンツェ・ピッティ宮)です。この絵は「マグダラのマリア」を描いた数ある絵の中で、最も有名なもの(の一つ)だと思いますが、中野さんはこの絵の解説でサマセット・モームの小説を持ち出していました。それが印象に残っているので取り上げます。

Tiziano - Maddalena penitente.jpg
ティツィアーノ
悔悛するマグダラのマリア』(1533)
(フィレンツェ・ピッティ宮)
- Wikipedia -

まず「マグダラのマリア」がどういう女性(聖女)か、その歴史的背景を踏まえておく必要があります。中野さんも解説(「名画の謎 ── 旧約・新約聖書篇」文藝春秋。2012)の中で書いているのですが、紙数の制約もあり短いものです。ここでは、京都大学・岡田温司あつし教授の著書である『マグダラのマリア ─ エロスとアガペーの聖女』(中公新書。2005)によって振り返ってみたいと思います。以下の「歴史的背景」はすべて岡田教授の本によります。


聖書における「マグダラのマリア」


新約聖書における「マグダラのマリア」に関する記述は、次の4つです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書の記述を総合すると以下のようになります。

 福音の旅 (ルカ) 

「悪霊を追い出して(イエスに)病気を治していただいた女たち」の一人で、「七つの悪霊を追い出したいただいたマグダラと呼ばれるマリア」が、使徒たちとともにイエスに従って福音の旅をする。

 キリスト磔刑の立会人
 (マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)
 

マタイ、マルコにはキリストの磔刑を「遠くから眺めている女たち」の一人として「マグダラのマリア」が明記されている。ルカには「ガラリアからイエスについてきた女たち」とだけ書かれているが、「福音の旅」の記述からしてこの中に「マグダラのマリア」がいたと推測できる。

ヨハネだけは違っていて「遠くから眺めている」のではなく、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリアとマグダラのマリアが立っていた」と記述されている。

 キリスト埋葬の立会人
 (マタイ、マルコ、ルカ)
 

マタイとマルコには「マグダラのマリア」(を含む女たち)が埋葬に立ち会ったと書かれている。ルカによると、立ち会ったのは「イエスといっしょにガラリアから出てきた女たち」である。

 キリスト復活の証人
 (マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)
 

4つの福音書とも、マグダラのマリア(を含む女たち)が復活したイエスに出会い、そのことを使徒たちに告げるということでは一致している。特にヨハネの記述では、復活したイエスに会うのはマグダラのマリアだけである。

またマルコとルカによると、マグダラのマリアら3人の女性はイエスに香油を塗ろうと思って墓を訪れたことになっている。このことから後の絵画において、香油壷がマグダラのマリアを象徴する持物じもつ(アトリビュート)となる。



岡田温司「マグダラのマリア」.jpg
以上の新約聖書の記述から、3つのことが言えます。まず第1ですが、意外なことに「悔い改めた罪ある女(娼婦)」というマグダラのマリアの一般的な概念やイメージは、聖書のどこにもないことです。そのイメージは後世の創作、ないしは聖書解釈で付け加えられたものなのです。

第2に、キリストの磔刑・埋葬・復活という聖書の重要シーンのすべてにマグダラのマリアが登場することです。特に「キリストの復活」は、キリスト教の教義の根本に係わる超重要シーンですが、その復活の証人になり、かつ復活を使徒に伝えるのはマグダラのマリアです。

第3に、これは岡田教授が指摘していることですが、4つの福音書で「マグダラのマリア」に対する「微妙な温度差」があることです。岡田教授によると、ヨハネがマグダラのマリアに対して最も親和的で、かつ重要な役割を与えているのに対し、ルカはマグダラのマリアの役割をできるだけ引き下げようとしているようです。


マグダラのマリアの変貌


マグダラのマリアを新約聖書の記述から変身させたのは、教皇・大グレゴリウス(590-604)の「貢献」が大きいと岡田教授は言っています。大グレゴリウスは、聖書に登場する2人の女性を取り上げます。

罪深い女(ルカ。7:37-50)
パリサイ人・シモンの家でイエスが食卓についているとき、イエスの足下に駆け寄り、その足を自分の涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらにその足に口づけをして、みずからの罪を悔い改めようとした女性。

ベタニアのマリア(ヨハネ。11:1-44。12:1-8)
ラザロとマルタの姉妹のマリア。イエスは奇跡でラザロを生き返らせたが、そのラザロの姉妹のマリアは、イエスの足に香油を塗り、髪の毛でイエスの足をぬぐった。

別のシーンで、マリアとマルタが自分の家にイエスを迎えたとき、マリアはじっとイエスの言葉に聞き入っていたが、姉妹のマルタは忙しく働いていた。イエスは「マリアが良い方を選んだ」と語った(ルカ。11:38-42)。

  このシーンはフェルメールが描いています。No.41「ふしぎなキリスト教(1)」を参照。

の2人です。そして大グレゴリウスは、マグダラのマリア、①罪深い女、②ベタニアのマリア、の3人は同じ女性という説を唱えるのです。なぜそのような「聖書解釈」が可能なのでしょうか。

まず、「七つの悪霊」(ルカ)を「罪」と読み代えることにより、マグダラのマリア = ①罪深い女、と解釈します。そして「イエスにひざまづき、髪の毛でイエスの足をぬぐう」という「行為の同等性」により、①罪深い女 = ②ベタニアのマリアとなる。三段論法で3人は同一人物となるわけです。ベタニアのマリアは、聖書(ルカ)の記述から「瞑想的生活」を好む女性です。ここに、

  悔い改めた罪ある女(=娼婦)で、瞑想的生活を好むマグダラのマリア

というイメージの基本線が成立します。さらに新約聖書にある、

サマリアの女(ヨハネ。4:6-27)
5人の夫をもった上に、不法な夫と暮らしている女。

姦淫の場で捕らえられた女(ヨハネ。4:6-27)
  「あなたたちのなかで罪のないものが石を投げなさい」とイエスが言う、有名な場面の女。

も「堕落や性的な罪にもかかわらずイエスに許された」という類似性で ① との連想を生み、「悔い改めた罪ある女」というマグダラのマリアのイメージを強化することになります。さらには娼婦ということから「金髪の美貌の女性」というイメージが加わります。



さらにマグダラのマリアには「苦行者」というイメージが加わってきます。それは次の2つの伝承が重ね合わされたものです。

エジプトのマリア
12歳のときに娼婦になり、17年間その生活を続けていたが、エルサレムの巡礼をきっかけに自分の罪の深さに打ちのめされ、発心ほっしんして世を捨て、苦行のなか、47年の長きにわたって、ひとり砂漠で純潔を守って生きた(5世紀)。

プロバンス地方に伝わる伝承
この伝承によると、ローマ帝国の迫害を逃れたマグダラのマリアと弟子たちの一行は、地中海を渡ってマルセイユの港に辿たどりつき、そこでゴール人に布教した。そしてマリアは、郊外のサント・ボームの洞窟に引き籠もり、禁欲的な瞑想と苦行に余生を捧げた。

以上のような結果、マグダラのマリアは

キリストの使徒(新訳聖書)
悔い改めた娼婦
金髪で美貌
瞑想的生活
洞窟での苦行(サント・ボーム)

というような複数のイメージが重ね合わされた「ハイブリッドな聖女」へと変貌してしまったのです。



そもそも教皇・大グレゴリウスの説は、強引な聖書解釈というより「創作」ですね。なぜなら、福音書はキリストの弟子たちが書いた文書であり、その弟子たちはマグダラのマリアと顔見知りだからです。もし仮に「罪深き女」や「ベタニアのマリア」がマグダラのマリアなら、弟子たちは福音書にそう書いたはずです。「この女は後にマグダラのマリアと呼ばれるようになった」というように・・・・・・。つまり、教皇によってマグダラのマリアは「娼婦という濡れ衣を着せられた」(岡田教授)ことになります。ではなぜ教皇はこのようなイメージを作りあげたのでしょうか。


大グレゴリウスが組み立てた、いわばハイブリッドなマグダラ像は、こうして、罪人たちにとって悔い改めと希望の模範となり、キリストへの敬虔けいけんな奉仕と瞑想的生活の理想となる。わたしたちにも親しい聖女のイメージの中核が、ここにそのかたちをとりはじめてきたのである。

マグダラのマリアは「罪深い女」であるかぎりにおいて、エヴァ(引用注:= 旧約聖書のイヴ)の末裔まつえいであることに変わりはないが、悔い改めによって希望へと道が開かれているという意味で、まさしく聖母マリアにも近づくことができる存在となるのである。


と岡田教授は書いています。つまり、マグダラのマリアは、

罪を悔い改める、というカトリックの教義に沿った存在。

聖母・マリアとイヴの間を埋める存在。人々が幅広いイメージを投影できる存在。

特に、官能と聖性の両義性をもつ存在。

だと言えます。この最後の「官能と聖性の両義性」というイメージを的確に表した絵画の代表格が、冒頭に掲げたティツィアーノの『悔悛かいしゅんするマグダラのマリア』なのです。岡田教授の本にも、口絵の先頭にこの絵が掲げられています。マグダラのマリアの絵画の代表的存在ということだと思います。


ティッツィアーノの「マグダラのマリア」


ここからが本題で、ティッツィアーノの『悔悛するマグダラのマリア』についての中野京子さんの解説です。中野さんは「官能と聖性の両義性」、特に、聖母マリアとの対比において「官能・エロスが強調されるマグダラのマリア」のポジションから論を起こしています。


これはなかなか凄い仕掛けで、旧約に比べエロスの足りない新約聖書の、強烈なキャラクター誕生となった。欧米的思考たる二項対立にもかなう。要するに、聖母 VS.娼婦。あくまで清純で、結婚しても出産しても処女だという、途轍とてつもない存在の聖母に対し、ありとあらゆる放埒ほうらつを経験してきた妖艶ようえんなる若き美女、しかも若さも美も残してもだえ泣きしながら反省しているとくれば、たまらない。


Tiziano - Maddalena penitente.jpg


各国歴代の画家がこのふたりの女性の描き分けに闘志を燃やしたのは必然で、名画のオンパレードだ。中でも、あふれる天分と幸運に恵まれた画家ティツィアーノは、敬虔けいけんと官能の奇跡的合体を(とはいえ前者1に対し後者9の割合だが)画面に表出せしめた。マグダラのマリアはイエス亡き後、サント・ボームの洞窟で苦行くぎょう瞑想めいそうに明け暮れたとの伝説があり、本作はそれを基にしたもの。荒涼たる背景、なぜか裸のマリアは波打つ金髪で身体を隠そうとしてかえって目立たせ、潤んだ瞳で天をぐ。左手には香油壷。この作品は大評判となり、似たような涙眼に裸のマリアが量産される。まさか聖母の服を脱がすわけにはゆかないが、元娼婦ならいいだろうと、肉体讃歌のルネサンスやドラマ志向のバロックの画家たちは、マグダラのマリアに仮託かたくして理想の肉体美を追求したのだ。それは次代にも受け継がれる。

中野京子「名画の謎」

マグダラのマリアの絵画表現の典型的なパターンは、美貌のマリア(半裸や全裸で描かれることがある)が改心し、神への愛に目覚める(ないしは祈る)というものであり、数々の名画が作られました。そしてこのテーマに人々が(ないしは画家が)惹かれ、何世紀にも渡って図像化されてきた要因を、中野さんはサマセット・モームの短編小説『雨』を引き合いに出して説明しています。


サマセット・モームの『雨』


その『雨』を引き合いに出しての解説を、少々長くなりますが引用してみましょう。以下の引用は『雨』の要約が過半数なのですが、全体としてゾクッとするような研ぎ澄まされた文章です。


サマセット・モームの傑作短編『雨』を思い出す。

ここには明らかに、マグダラのマリア的女性に対する男のいびつな眼差まなざしが皮肉られている。ゲイだったモームだからこそ書けた辛辣しんらつさ、と言えるかもしれない。

── 舞台は二十世紀初頭、狂信的なイギリス人牧師が船で任地に向かう途中、検疫けんえきのため南洋のサモア諸島に一時停留する。船客たちの中にはミス・トムソンという娼婦もいて、毎晩、音楽を鳴らして踊り遊び、どうやら男たちを引き入れて「商売」もしているらしい。牧師は我慢ならず、あの手この手で彼女を教化しようとするのだが相手にされず、ついには強制送還そうかんの手続きをするぞと脅す。送還されれば監獄行きだったミス・トムソンは震え上がり、牧師の教養する悔い改めの祈りを受け入れる。

執拗しつように降り続く熱帯の雨。牧師は連日連夜、その雨と同じく執拗に熱烈に、彼女の部屋で祈り続ける。次第に変貌へんぼうしてゆくミス・トムソン。派手な服やどぎつい化粧、動物的なきつい香水の「あばずれ」は、小動物のようにおびえ、髪もとかさず素顔に部屋着のままで、ほとんど食事もとらず牧師といっしょにひたすら祈る。そんな彼女のことを牧師は、「ほんとうに生まれかわった、夜のように暗かった魂が、いまや新雪のように清純になっている」と、同行の親しい医師に喜んで語って聞かせるのだった。

いよいよ強制送還前夜、いつものように牧師は彼女の部屋へ入っていった。真夜中にそこを出ると浜辺に向かい、のどを切り裂いて自殺する。遺体を検分した医師が、ミス・トムソンにも知らせにいく。すると驚いたことに彼女は、前以上の厚化粧に自堕落じだらくきわまりない様子で音楽をとどろかせているではないか。医師が批難すると、彼女は激しい憎悪をこめた目をむけ、こう叫ぶ。「男はみんな同じだ、汚らわしい豚だ!」。

医師はふたりの間に何があったかを悟り、愕然がくぜんとする・・・・・・。

これを善と悪の、理性と本能の闘いと解釈するのはたやすい。だがもしミス・トムソンが娼婦のままだったら、牧師は道をあやまったろうか? そうは思えない。

「一種みだらな美しさ」のあるミス・トムソンに、牧師が最初からかれていたのは確かだ。だからこそ気になって仕方がなく、男と遊んでいると怒り、自分の言うことを聴かないと憎み、死に物狂いで教化しようとした。彼女からセクシャルな部分をぎ落とし、自分が安心したかった。ところがいざそうなってみると、逆に自制がきかなくなる。ミス・トムソンの魅力は倍加してしまった。敬虔けいけんさの背後に、過去の淫乱の名残りが透けて見えるという二重の官能性。それはいかに理性をかき集めてもあらがいがたいものだったのだろう。性欲、あるいは恋と呼んでもそれほど間違いでもなさそうなこうした情熱は、全くもって奥深い。

何世紀にもわたるマグダラのマリアへの視線もまた、この牧師のそれとさほど大きくは異なっていないのではないか。

中野京子「名画の謎」

モーム「雨」.jpg
『雨』は、サマセット・モームの最も有名な短編小説であり、「世界短編小説上にも永久に残る傑作」という評価もあるぐらいで、読んだ人も多いと思います。この小説は、中野さんも書いているように「善と悪の、理性と本能の闘い」というように見るか、ないしは「執拗に降り続く雨が人間の心理に影響し、理性を狂わす」といった風に捉えられることが多いと思います。しかし中野さんによると、これは「マグダラのマリアの物語」なのですね。『雨』には、牧師夫妻と医師夫妻が聖書の「姦淫の場で捕らえられた女」(ヨハネ。4:6-27)の節を朗読し、4人で祈る場面が出てきます。

マグダラのマリアはティッツィアーノのような絵画だけでなく、文学や映画にも多大な影響を与えてきました。岡田教授の本には数々の例が紹介されています。比較的最近の映画を例にとると、たとえばジュゼッペ・トルトナーレ監督の『マレーナ』です。モニカ・ベルッチが主演したこの映画は、第2次世界大戦で夫を戦地に送ったシチリアの美しい女性・マレーナが「娼婦」呼ばわりされる顛末を描いたものですが、マレーナ = マグダラのマリアです。マグダラのマリアはイタリア語で「マリア マッダレーナ」であり、マッダレーナの愛称がマレーナなのです。

文学(小説)の例では、

アンナ・カレーニナ(トルストイ)
復活(トルストイ)
ボヴァリー夫人(フロベール)
マノン・レスコー(アヴェ・プレヴォ。プッチーニのオペラ化作品も有名)

などにおけるヒロインの造型は、マグダラのマリアの影響なしには考えられない、と岡田教授は言っています。なるほどそうかもしれません。しかし、中野さんの解説で気づかされるのは、

  小説に関しては、サマセット・モームの『雨』のミス・トムソンこそ、マグダラのマリアのもっともストレートな後継者

なのですね。なぜなら、彼女は「明確に娼婦」であり、しかも「牧師によって(一旦は)改悛かいしゅんする」のだから・・・・・。その舞台はサント・ボームの洞窟ならぬ、降りしきる雨に閉じこめられた熱帯の島です。しかし、その改悛は最後の最後でゼロ・クリアされてしまう、ほかならぬ牧師の「裏切り」によって、というところがモームの皮肉です。モームは『雨』において「悔い改めた娼婦」というイメージに強い性的魅力を感じてしまう男性心理のいびつさを揶揄しているというのが、中野さんの見立てです。

しかしモームの短編は「揶揄」や「皮肉」というレベルにはとどまらない感じですね。それは『雨』の最後の2つのセンテンスを読めば一目瞭然です。小説の最後を原文から引用すると以下です。「マクフェイル博士」とは、中野さんが「医師」と書いている人物です。


"You men! You filthy, dirty pigs! You`re all the same, all of you. Pigs! Pigs!"
Dr. Macphail gasped. He understood.

W. Somerset Maugham "Rain"


「男、男がなんだ。豚だ! 汚らわしい豚! みんな同じ穴のむじなだよ、お前さんたちは、豚! 豚!」
マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。

サマセット・モーム『雨』
中野好夫訳(新潮文庫。1959)

そもそも娼婦は、必要とする男たちがいるから成立するわけです。ミス・トムソンが吐き捨てた「同じ穴のむじな」という言葉の意味は、

娼婦を買う男
娼婦=罪、として改悛させる男
改悛した娼婦に理性を失う男

が全部同類だということでしょう。モームの『雨』においては、牧師よりも、医師よりも、ミス・トムソンの方がよほど人間的に描かれています。


マグダラのマリアという「文化装置」


ティッツィアーノの『悔悛するマグダラのマリア』についての解説のはずが、意外な方向に広がってきました。改めて中野さんの論を要約すると、次の2点になると思います。

敬虔さの背後に娼婦の名残りが透けて見える「二重の官能性」。これがマグダラのマリアに人が(男が)惹かれる理由だろう。

  それは「男の(男社会の)いびつな眼差まなざし」だと思える。女性からみると(少なくとも中野さんからすると)そう見える。サマセット・モームもそう見ている。

という2点です。「二重の官能性」については、確かにそのような気がします。男が女性に惹かれる度合いを「式」で表すと、

 聖女 < 娼婦 < 娼婦だった聖女

ということでしょうか(単純ですが)。「聖女」とか「娼婦」というのは極端であり、そういう人と付き合ったことがないので確信は持てないのですが、現実のもっと軽い例で置き換えてみると、お化粧をバッチリと決め、服装はトレンドをちゃんと押さえ、じゃべり方もハキハキしていて、快活で、話していても飽きない美しい女性、しかしどこかかすかに「崩れているところ」を感じてしまう女性、その「崩れ感」に魅力を感じてしまうということがありますね(現代の女優でいうと米倉涼子さんのイメージか)。それに近い感情かと思います。



「男社会のいびつな眼差まなざし」というのはどうでしょうか。確かに、女性にそう言われてもしかたがないかと思います。

というのも、ティツィアーノの『悔悛かいしゅんするマグダラのマリア』は裸体だからです。この絵だけでなく、半裸ないしは全裸の姿でマリアを描いた絵が沢山あります。ギリシャ・ローマ神話の「異教の女神」ならともかく、マグダラのマリアはれっきとしたキリスト教の聖女であり、使徒であり、イエスの復活の証人となった超重要人物です。その女性を裸体で描くというのは、そもそも女性の裸体を描きたいという画家(男性)の興味と欲求が先に立っているのだろうと思います。そこに「元娼婦」という格好のモチーフがあった。その欲求が「いびつな眼差し」の根底にあると思います。

しかし男の立場から少々言い訳をすると、「元娼婦である聖女」に対する男性の眼差しがいびつなのは、そうなるべき理由があると思うのです。それは、

  男性の女性に対する(性的な)情熱は、本能とか生理学的な条件よりも、文化による影響が大きい

からです。「マグダラのマリア」という女性像がいったん出来上がると、それは文化として広まり、逆に「マグダラのマリア的女性」に魅力を感じるようになってしまう、そのように暗黙に刷り込まれてしまうという面が強いと思うのです。映画や小説の例のように、マグダラとは言ってなくても「マグダラのマリア的女性に男性が強く惹かれるという物語」は蔓延しています。

No.115「日曜日の午後に無いもの」で紹介したように、中野さんは、19世紀のフランス女性が外出時にハンドバックを持たなかったことについて(= 持つのを拒否したことについて)、「それが時代の雰囲気であり、文化装置だ」と言っていました。「マグダラのマリア」も一つの文化装置であり、その文化装置が男性の女性への情熱(の一つのパターン)を作り出しているのだと思います。

「文化装置」にはいろいろの種類があり、文化圏によって、また時代によって多様です。同じ時代でもさまざまな「文化装置」があり、個人個人をみると「女性への情熱の持ち方」はいろいろある。「感情の起伏が激しく、言動も変化し、男を翻弄する女性」に魅力を感じる人もいるだろうし、「金髪の美女」ではなく「抜けるように白い肌の女性」(もしくはその逆)に強く惹かれる人もいる。「女としては未熟な10代の少女」に情熱を傾ける男もいる。

そしてマグダラのマリアとミス・トムソンの「職業」に関して言うと、「お金を払って女性と寝る」ことに執着する男がいるわけです。お金を払うことで満足感を得る。これが「娼婦」という職業が成立する一番根本的な理由でしょう。

「文化装置」は「作りもの」であり、フィクションです。それは「悔悛した娼婦」という「聖書に根拠がない創作物語」に象徴的に現れています。「作りもの」だから、基本的には「何でもあり」です。その「作りもの感」や「何でもあり感」が、「いびつだ」「不自然だ」と女性が感じる要因になっているのだと推測します。



中野さんが書いた、ティッツィアーノの『悔悛するマグダラのマリア』についての文章は、単なる絵の評論でなく、人間心理に言及しているところが印象的でした。と同時に、これは、

  絵画評論であり、文学評論

になっている。そう言えば中野京子さんの本職は美術評論家ではなく、文学研究者(ドイツ文学)なのでした。



最後に、マグダラのマリアを図像化した2つの作品を掲げておきます。16-17世紀のイタリアの親子の画家(父と娘)、オラツィオ・ジェンティレスキ(1563-1639)とアルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652)の作品です。西洋のアートの歴史から言うと、いわゆる「バロック」の画家で、カラヴァッジョの影響が強く現れています。この2作品は岡田教授の本の口絵にも挙げられていました。

Orazio Gentileschi - Penitent Mary Magdalene.jpg
オラツィオ・ジェンティレスキ
悔悛のマグダラ』(1625頃)
(ウィーン美術史美術館)
- Wikigallery -

Artemisia Gentileschi - Penitent Mary Magdalene.jpg
アルテミジア・ジェンティレスキ
悔悛のマグダラ』(1620頃)
(フィレンツェ・ピッティ宮)
- Wikimedia Commons -

父・オラツィオの作品は、サント・ボームの洞窟で瞑想と祈りに捧げるマリアを描いた作品で、骸骨、聖書といった定番アイテムが描かれています。中野さんは、前に引用した中で、


肉体讃歌のルネサンスやドラマ志向のバロックの画家たちは、マグダラのマリアに仮託かたくして理想の肉体美を追求したのだ。


と書いていましたが、まさにそういう感じがします。カラヴァッジョ流の強い陰影の表現が印象的です。

一方の、娘・アルテミジアの作品は、マリアの肩をはだけた姿と、豪華そうな衣装(や椅子)が特徴で、おそらく見る人に当時のイタリアの娼婦を連想させたのだと思います。かつ、よく見ると右下にわずかに香油壷が描かれている。つまりマリアの伝統的解釈に忠実です。

この絵は明らかにティッアーノの絵を踏まえています。しかし娼婦としての官能表現は最低限に押さえられている。むしろこの絵は、マリアの「いる思い」や「改心の意志を訴える気持ち」、「神に帰依する決意」などが前面に押し出されています。マリアに当たっている強い光(神の光でしょう)も効果的です。その神の光が最も強く当たっているのは胸であり、この直後に顔に当たって悔悛が成就する ・・・・・・。この構図が素晴らしいし、また女性目線で描いたマリアという意味で印象に残る作品です。




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