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No.111 - 肖像画切り裂き事件 [アート]

No.86「ドガとメアリー・カサット」で、原田マハさんの短編小説「エトワール」の素材となった、エドガー・ドガ(1834-1917)とメアリー・カサット(1844-1926)の画家同士の交友を紹介しました。今回はドガとエドゥアール・マネ(1832-1883)の交友の話です。二人は2歳違いの「ほぼ同い年」です。


エドガー・ドガ 『マネとマネ夫人像』


2014年1月18日の『美の巨人たち』(TV東京)は、ドガの『マネとマネ夫人像』(1868/69)をテーマにしていました。ドガが35歳頃の作品です。この絵は北九州市立美術館が所蔵していますが、絵の右端が縦に切り裂かれていて、無くなった部分にカンヴァスが継ぎ足されていることで有名です。ピアノを弾いているはずのマネ夫人(シュザンヌ)のところがバッサリと切り取られています。

マネとマネ夫人像.jpg
エドガー・ドガ
マネとマネ夫人像』(1868/69)
(北九州市立美術館蔵)

番組で紹介されたこの絵の由来は、以下のような主旨でした。

ドガとマネは友情のあかしとして、互いに絵を描いて交換することにした。ドガがマネに贈った絵が『マネとマネ夫人像』である。

ドガがこの絵を描いた当時、マネは女性画家のベルト・モリゾと「不倫関係」にあった。

後日、マネの家を訪問したドガは、絵の右端が切り裂かれていることを発見し、怒ってその絵を自分の家に持ち帰った。

晩年のドガの家の室内写真がある。そこにはドガとともに『マネとマネ夫人像』が、切り取られたままで(カンヴァスが継ぎ足されないで)壁に飾ってあるのが写っている。つまり、この写真が撮られて以降に誰かがカンヴァスを継ぎ足した

新事実は④ですね。普通、この絵にカンヴァスを継ぎ足したのはドガ自身だと言われています。絵を所蔵している北九州市立美術館のホームページにも、

  変わり果てた自分の絵に怒ったドガはそれを取り返した。後に、夫人を復元するつもりで下塗りしたカンヴァスを継ぎ足したが、一日延ばしにしているうちに、そのままの状態になってしまった。

と書かれています。しかし「新事実 ④」からすると、この説明はおかしいわけです。ドガとマネが絵を交換したのはドガが35歳の頃です。ドガが切り裂かれた絵を発見したのは絵の交換のすぐあとと考えられます。ドガはマネの家をたびたび訪問したはずだから、たとえば10年もあとになってマネの家で切り裂かれた絵を発見するというのは考えにくい。そしてドガが49歳のときにマネは亡くなってしまいます。「美の巨人たち」で紹介された証拠写真は、晩年のドガの家の写真です。ドガは60歳台か、それ以降でしょう。少なくともその時点までは絵を「切り裂かれたままで」持っていた。ドガが継ぎ足したのではないと強く推定できます。

とすると、カンヴァスを継ぎ足したのは誰かということになる。その誰かとは次のような人物だと考えるのが妥当です。3つぐらいのポイントがあると思います。

ドガとマネが絵を交換したこと、かつ、ドガが切り裂かれた絵を持ち帰ったことを知る人物。

何も描かれていないカンヴァスを継ぎ足すことによって「肖像画切り裂き事件」という、印象派を先導した2人の巨匠の芸術上のエピソードを後世に残そう考えた人物。

切り裂かれたままより、あえて損傷した絵だということが一目で分かるようにした方が、絵の価値が上がることを理解できた人物。

の3つです。こういう人物はドガと親しかった画商でしょう。番組でもそう解説していました。画商だとすると、絵の価値を上げる意図が当然あると思いますが、印象派という「絵画の革命」に立ち会った画商としての使命感のようなものも動機かと思いました。


なぜマネは切り裂いたか:女の視点


しかしなぜマネは絵を切り取ったのでしょうか。北九州市立美術館の「公式の」解説は次です。

  マネはドガの描いた夫人の顔の歪みが気に入らず、顔のあたりから切り取ってしまった。

これは何となく納得性に乏しい解説です。「顔の歪みが気に入らない」と言うけれど、そんなに怒るほど、夫人を(この時点で)愛していたのだろうか。

番組では「ドガがこの絵を描いた当時、マネはベルト・モリゾと不倫関係にあった」ことを解説していました。これは有名な話ですね。不倫の程度はうかがい知れませんが、単なる師弟関係以上のものがあったことは確かなようです。絵においてマネは「だらしなく」「横柄な」態度でソファに寝そべっていて「心ここにあらず」というように見える。夫人のピアノの演奏に退屈しているようでもある。これは当時の夫婦関係が冷えていたことを表していて、ドガはその夫婦の内面までを描いた・・・・・・ そういう主旨の番組の解説でした。

夫婦の隠された現実を描いてしまった、そこにマネは激怒して絵を切り取った・・・・・・という解説はありませんでしたが、そう暗示したかったのかもしれません。番組スタッフも「マネはドガの描いた夫人の顔の歪みが気に入らず、顔のあたりから切り取ってしまった。」という公式の解説に納得がいかないのでしょう。しかし、たとえ冷えた夫婦の内面を描いたからといって、夫人の顔の部分だけを切り取るという行為の説明はできないと思いました。



ところがです。番組が終わった直後、いっしょに見ていた私の妻が「絵を切り取った理由は簡単」と言ったのですね。彼女は、

  絵を切り取った理由は簡単。マネ夫人は、自分の顔がきれいに描けていないことに怒ったのよ。そして夫に「こんな絵は絶対イヤ。切り取って」とマネに迫った。そうに決まっている。

と言ったのです。あなたはそんなことも分からないの、という感じで・・・・・・・。

うーん、ありうるかもと、その場では思ったのですが、あとから考えてみると、これはなかなか説得力のある説だと思えてきました。それには4つの理由があります。まず第1の理由ですが、それは

  女性は、自分が美しく描かれているかどうかを、ものすごく気にする

ということです。それは現代において「スナップ写真を人にあげる」ことを考えてみると分かります。たとえば、既婚のA子さんがいたとして、姉の一家(夫婦と1歳の娘)が自分の家に来たとします。記念にと、A子さんが1歳の姪を抱いている写真を何枚か撮った。それを後で姉にあげるとき、A子さんは「姪が最も可愛く写っている写真を選択しない」と思います。「自分が最もきれいに撮れている写真」を選択するはずです。「子供の写真をとるのは難しくって」とか言いながら・・・・・・・。姉としてもそれが真っ赤な嘘だとは感じながら「そうよね」と答えたりする。

それは何も姪だからというわけではありません。A子さん夫婦にも1歳の娘が一人いたとします。一家のスリー・ショットを写真年賀状にする場合、A子さんは「娘が一番可愛く写っている写真」という基準では選ばないと思います。あくまで「自分がきれいに写っているかどうか」で、まず写真を「ふるい」にかけるのではないでしょうか。その中から娘ができるだけ「まし」なのを選ぶ。

一般化するまでは出来ないでしょうが、少なくとも私が知っている女性はそうです。現代の写真を19世紀フランスの肖像画と考えると、マネ夫人も「自分がきれいに描かれているかどうか、ものすごく気にした」のではないか。そう推測します。それが第1の理由です。

第2の理由ですが、夫人に「切り取って」と迫られると、マネはしぶしぶ(ドガとの友情のことを考えながらも)そうしただろうと考えられます。なぜならマネは夫人に大きな負い目があるからです。それはまさに当時のベルト・モリゾとの「不倫関係」です。逆に夫人はマネに強気に出られる理由あるわけです。また、マネが切り取ったのではなく、怒った夫人が自ら切り取ったとも考えられる。だとしても、マネが阻止できなかったのは夫人に対する負い目だと想像できます。

第3の理由は、「切り裂き事件」があったにもかかわらずドガとマネはその後も良好な関係を続けたという歴史的事実です。絵は画家の分身のはずです。自分の作品を切り裂かれた画家は、切り裂いた画家と絶交してもおかしくはない。切り裂いた方は、絶交される覚悟でそうするはずです。画家なら、作品が芸術家にとっての分身だと分かっているからです。ところが意外にも、二人は良好な関係が続く。これはマネがドガに切り裂いた本当の理由を言ったからではないでしょうか。「ドガよ、許してくれ。本当のことは黙っておいてくれ。全部俺のせいにしておいてくれ」みたいな・・・・・・。

第4の理由ですが、「夫人がドガの描いた自分の姿に怒った」のがいかにもありうると考えられるのは、一般的に「ドガは女性を美しく描かない」からです。


女性を美しく描かない


誰だったか忘れたのですが、女性作家だったと思います。「ドガは嫌い、女性を美しく描かないから」という意味の文章を読んだことがあります。

確かにドガは女性を美しくは描きませんね。依頼されて描いたような一部の肖像画は別にして、女性の生活を描いた絵はきれいに描こうなどとは全く思っていないようです。絵の構図や人体のフォルム、瞬間を定着させることなど、そういったところにしか関心がない。踊り子の絵とか、歌手とか、働く女性とか、知り合いの家族とか、そういった作品を見れば強く感じます。

それでは、ドガは友人・マネの夫人であるシュザンヌをどう描いたのか。



それに関連して思い出す話があります。No.86「ドガとメアリー・カサット」で、ドガの友人の一人であるメアリー・カサットのことを書いたのですが、ドガがそのメアリーを描いた肖像画があります。

メアリー・カサットの肖像.jpg
エドガー・ドガ
メアリー・カサットの肖像』(1880/84)
(アメリカ国立肖像画美術館)

この絵を所蔵しているアメリカの国立肖像画美術館(The National Portrait Gallery, Washington D.C.)のウェブサイトの解説によると、メアリー・カサットは、この絵について次のように語ったそうです。


"It has artistic qualities but is so painful and represents me as a person so repugnant that I would not wish it to be known that I posed for it."

(試訳)
「芸術的価値はありますが、私を嫌な人間として描いていて、心を苦しめますので、私がモデルだということを知られたくありません。」(メアリー・カサット)

アメリカ国立肖像画美術館(Web site)

でしょうね。カードを持ったメアリーが前のめりになって、含み笑いというか「にやけた」ような表情をしています。カードの「手」がいいのでしょうか。フィラデルフィアの良家出身の女性がするポーズだとも思えない。絵が描かれた当時、彼女は30歳台の半ばです。ドガからするとメアリーは、フランスにあこがれてパリに定住した10歳下のアメリカ人女性画家であり、絵の才能を高く評価していて、アドバイスをしたりもした。自分を尊敬してくれている画家であり、友人でもあり、(芸術上の)喧嘩もするが、毎日のように会っていた時期もある(No.86「ドガとメアリー・カサット」参照)。そういう二人の関係と、この絵の表現は「落差」を感じます。メアリーは決して美人というわけではありませんが(No.86に写真を掲載)「こういう風に描くことはないでしょ!」と言いたくなる気持ちは分かります。

メアリー・カサットはこの絵をドガから贈られて持っていたが、ドガの死後すぐに売り払ったそうです(スーザン・マイヤー著「メアリー・カサット」による)。ドガが亡くなるまで(いやいやながらも)持っていたというのが、メアリー・カサットの律義りちぎなところですね。ドガは友人であり、ある意味では師匠でもあったからでしょう。また破棄せずに売ったのは、画家としての良心からだと想像します。メアリーはドガの死後にドガからもらった手紙をすべて焼き払ったのですが(No.86 参照)、さすがに絵を焼くことはできなかった。画家としては。

  しかしメアリーの「私がモデルだということを知られたくありません」という思いとは裏腹に、この絵は結局、アメリカの首都のスミソニアン博物館地区にある「国立肖像画美術館」に「ドガ作:メアリー・カサット」として収められてしまったわけです。二人とも有名アーティストだからやむをえないでしょう。

この絵は、ドガとメアリーの交流の中のどこかであった真実の瞬間なのだろうと思います。良家のお嬢さんがカード・ゲームをしてはいけないことはないし、ゲームでは当然、絵のような表情をすることもある。それをどう切り取って、どう絵にするかです。ドガはメアリーがみせた意外な表情としぐさをカンヴァスに定着させた。美化しようとか、女性をきれいに描こうとか、そんなことは一切思わない。それがメアリー・カサットにショックを与え、傷つけることになった。ドガにそんな意図は全くなかったはずだけれど・・・・・・。



マネ夫人もドガの絵を見てショックを受け、傷ついたのではないでしょうか。この絵が世に残るのは絶対に嫌だ。ドガに返すわけにはいかない。だからといって、夫の友人が描いた絵を破棄するのはどうか。幸いなことに、(メアリー・カサットの肖像とは違って)夫人の肖像は画面の右端にある。切り取ったとしても、絵として全く成り立たないというわけではない。じゃ、そうするしかない・・・・・・。画家であるメアリー・カサットは、ショックを受けた自分の肖像画にも「芸術的価値」を認めて、その絵を持っていたのですが、マネ夫人は画家ではありません(ピアニストです)。絵の芸術的価値よりもっと大事なことがあってもおかしくはない・・・・・・。

以上の「肖像画が切り裂かれた理由」は、全くの想像というか、推量です。本当のことは分かりません。しかし、以前にも何度か書いたように、絵を鑑賞する楽しみの一つは、そこからいろいろな想像を膨らませることです。こういう推量が許されてもいいと思います。



しかし想像とは別に、ドガの『マネとマネ夫人像』および『メアリー・カサットの肖像』を見て強く感じることがあります。それは「現実を美化・誇張しないで」「今、その時、その瞬間を描いた」と思わせる絵だということです。この2作品にかかわらず、ドガの絵にはそういう絵が多い。特に画家としての後半生の「有名な」絵はそうだと思います。

「女性を美しく描かない」のもそれと関係があるはずです。現代ではよく女性が「写真うつりが悪い」ことを気にしますね。写真が被写体をデフォルメすることはないので、要するにその女性が見せる表情の多くは(本人にとっては)写真うつりが悪い表情であり、ある時だけは写真うつりが良く見える。アマチュア写真ではその「ある時」をとらえるのが難しいということでしょう。プロの写真家はその瞬間をとらえるのにものすごくけています。

ということは、プロの写真家と同じく、画家にとっては「どういう瞬間を描くか」が重要になってきます。たとえば『マネとマネ夫人像』のマネの姿です。ピアノに退屈し、心ここにあらず、という表情と態度に見える。ドガは「その時」を描いた。もしこれが冷えた夫婦関係を暗示したのなら(マネ夫人の表情が分からないのは残念ですが)、ドガはある瞬間を切り取ることで「現実には見えないものまで描いてしまった」ことになります。

リアリズムを突き詰めると、現実の切り取り方によって、目には見えないが画家が感じ取ったものを描いてしまう。そして結果的にリアリズムを越えてしまう。そういう感じがします。


マネがドガに贈った絵は?


ドガの『マネとマネ夫人像』は、互いの友情のしるしとしてマネとドガが絵を交換したときの、一方の絵でした。ではマネはドガにどんな絵を贈ったのか。

マネがドガに贈ったのは、スモモ(プラム)を描いた静物画でした。その絵は「切り裂き事件」のときに、ドガがマネに送り返しました。そしてマネはその絵を売ってしまった。ドガと親しかった画商、ヴォラールの回想録に次のようにあります。「この絵」とはもちろん『マネとマネ夫人像』です。


ドガ ── 私は、彼の家で、こんなになったこの絵を見た時、ひどいショックを受けました。私は、この絵を取りあげると、さよならの挨拶もしないで帰って来ました。家に着くと私は、直ちに彼が私にくれた静物の小品をはずし、それに、「あなたのプラム(すもも)をお返しします」というメモをつけて、送り返してしまった。

ヴォラール ── しかし、あなたは後で、マネとは仲なおりしたのではありませんか?

ドガ ── ああ、マネと長続きできる者は、誰もいないよ。しかし、問題は、彼がそのプラムの静物画を、すぐ売ってしまったことだ。あれは、全く美しい小品だった・・・・・・

アンブロワーズ・ヴォラール
『親友ドガ』より(東 珠樹訳)
『ドガの想い出』(美術出版社 1984)所載

マネがドガに贈り、ドガが送り返した『スモモ』は、今は所在不明です。しかし「切り裂き事件」の10年後、マネは新たなスモモの静物画を描きました。その絵は今、アメリカのテキサス州にあります。マネがもともとドガに贈った絵、ドガが「送り返さなければよかった」と悔やんだ絵もこんな感じだったと想像できます。マネは「肖像画切り裂き事件」のことを思い出しながら、この絵を描いたに違いありません。

Plums.jpg
エドゥアール・マネ
スモモ(The Plums)』(1880)
ヒューストン美術館(Museum of Fine Arts, Houston. Texas)所蔵。スピード感あふれる筆使いだが、新鮮なフルーツのみずみずしさが伝わってくる美しい小品。背景がほとんど塗りつぶされているのも効果的で、画題は全く違うが「笛を吹く少年」を思い起こさせる。WikiPaintings より引用。

ドガの想い出.jpg
マネがドガの絵を切り裂き、ドガはそれを取り戻し、ドガはマネの絵を送り返し、マネはそれを売り払う・・・・・・。この二人は絶交に違いない思ってしまいますが、そうではないのですね。ヴォラールの回想録にあるように、マネとドガは「より」を戻し、ふたたび交流は続きます。

前に「カンヴァスを継ぎ足した人物像」について、3つのポイントをあげましたが、4つ目を付け加えてもよいと思います。つまり、

ドガとマネの交友関係は「肖像画切り裂き事件」では崩れなかったことを知っている人物。事件があからさまに分かるようにしても、一方的にマネがひどい人間だという世の中の評価にはならない、と確信できた人物。

というポイントです。

よりを戻したのは、互いに芸術家としての敬意があって、それが崩れなかったからでしょう。回想録に言葉を補うと、ドガは「ああ、(私以外に)マネと長続きできる者は、誰もいないよ。」と言っていますね。マネの芸術家としての偉大さを真に理解できるのは自分しかいないという自負に聞こえます。

マネが亡くなる3年前(1880)に再び『スモモ』描いたのも、そういった敬意の象徴のような気がします。ドガが切り取られたままの『マネとマネ夫人像』を自分の部屋に晩年まで飾っていたことも・・・・・・。




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