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No.109 - アンダーソンヴィル捕虜収容所 [歴史]

No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」の続きです。No.104では、朝日新聞の奴隷解放宣言についての解説記事(2013.5.13)の見出しである、

  人種差別主義者だった? リンカーン

という表現について、

「人種差別主義者」というような言葉を新聞記事の見出しにするのは良くない。誤解を招く。
リンカーンが生きた時代のアメリカでは「人種差別」が普通のことであり、現代の価値観で過去を判断してはいけない。

という主旨のことを書きました。

政治家はリーダーシップで国を導いていくものですが、同時にその国・その時代の大衆の意識や意見に影響されます。世論と極端に違う意見を、政治家は(特に国政の中枢に行こうとする政治家は)とれない。アメリカは民主主義国家なのです。

しかし見出しはともかく、朝日新聞の解説記事では奴隷解放とその背景となった南北戦争について、3つの重要な指摘をしていました。

リンカーンは人種差別の考え方をもっていた。

奴隷解放で形の上では平等になっため、逆に黒人に対する圧迫が強くなった。

南北戦争の死者は、第2次世界大戦での米軍の死者を上回る62万人であり、都市の徹底破壊や殲滅せんめつ戦が行われるなど近代戦の幕開けとなった。

の3点です。今回はこの3つの指摘について考えてみたいを思います。3つのうち、「①リンカーンが人種差別の考え方をもっていた」ことは、No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」の「補記」で引用したイリノイ州上院議員選挙でのディベートの記録で明らかです。リンカーンはそこで、

国民の権利は白人と黒人で違って当然であり、白人を優位に位置づけるべき」

という主旨の演説をしています。もっとも、こういった選挙演説は「当選すること」が目的なので、その場の聴衆の大多数の考えに沿った(従って聴衆の支持を得やすい)内容になりがちなことが想像できます。リンカーンの人種差別の「程度」をこの演説内容だけから判断するのは危険だと思いますが、程度はさておき「リンカーンが人種差別の考え方をもっていた」のは事実で、それは当時としては「自然な」考え方です。



以降は、朝日新聞が指摘していた②と③について、ちょっと掘り下げてみたいと思います。


奴隷解放の結果、人種差別が始まった


②奴隷解放で形の上では平等になっため、逆に黒人に対する圧迫が強くなった」という解説は、全くその通りです。圧迫が強くなったというより、奴隷解放の結果として人種差別が始まったというのが正確でしょう。今までは「人間と奴隷」だったのに「全部が人間」になってしまった。そうなると「以前は奴隷だった人間=黒人を差別・圧迫しないと社会が成り立たない」と、「以前からの人間=白人」が考えるのは極めて自然です。

南北戦争時の南部の人口は900万人、そのうち400万人が奴隷だと言います。人口の45%が奴隷というのは異様な多さです。ちょっと比較してみますと、900万人という南部の人口は、紀元前1世紀頃の古代ローマの人口(イタリア半島の人口)とほぼ同じです。この時点の奴隷の比率は30%程度です。古代ローマは「労働は奴隷が行う」という奴隷制社会で、農場における労働だけでなく社会の隅々にまで奴隷がいた。それでもこの程度なのです。

  古代ローマの奴隷の数ですが、塩野七生著「ローマ人の物語 3 勝者の混迷」には、紀元前1世紀のローマ国家において、イタリア半島に住む、60歳以上の老人に女子供もふくんだ自由民の総数は600万人~700万人、それに対し奴隷は200万人から300万人、とあります。自由民を650万人、奴隷を250万人とすると、人口は900万人であり、奴隷の全人口に対する比率は30%程度ということになります。

奴隷制廃止の結果、このままでは州議会議員の過半数が黒人になる時が来るかもしれない、という危機感を白人が抱くのは当然でしょう。それは阻止しなれけばならない。その具体策として歴史の本にあるのは、たとえば「投票権の前提となる税(人頭税)」を作ることです。つまり投票権を税の支払い能力で制限するわけです。また「識字能力がないと投票できない」という法律を作った州もありました。かつて奴隷だった当時の黒人に字が読めない人が多いことに「つけ込む」わけです。

学校、公共施設、公共交通機関を「白人用」と「黒人用」に分離するのもよくある手でした。たとえ同じ学校に入学を認めたとしても、同じ教室で授業を受けてはいけないという法律を作った州もあった。そうしておいて黒人用の学校、教室、公共施設、公共交通機関の「供給量」を少なくする。実質的には黒人差別ということになります。重要なのは学校の差別ですね。教育の機会均等を奪うことで、社会の中心的な位置に黒人が進出するのを阻止できます。

  余談ですが「教育の機会均等を奪うことで、奪われた人たちの社会進出を阻止する」というのは、現在でも特定の国の特定の団体が声高に主張しています。つまり「女子教育の廃止」です。



公的な差別制度ではない「差別意識」も生まれたでしょう。たとえば、白人の貧困層の人たちにとってみると、今までは自分たちが社会の最下層だったのが、新たに自分たちより下の層が出現したわけです。これは差別意識の源泉になると思います。「自分が他人にやられた嫌なことを、ほかの他人にはしない」という人と、「自分がやられた嫌なことを、他人にやり返す」という人と、どちらが多いかというと、人間社会では一般には後者でしょう。また白人貧困層の人たちからすると「差別しなければ職を奪われかねない」とも見えてしまう。

暴力事件も起こるでしょうね。奴隷制度の時代、もし白人が自分とは無関係の黒人奴隷を殴ったとすると、それは奴隷の所有者(たとえばプランテーションのオーナー)の「私有財産を毀損する」ことになります。そんなことは、おいそれとはできません。

しかし奴隷解放のあとに白人が「以前は奴隷だった黒人=今は人間」を殴ったとすると、それは人間同士の暴力事件であり、法治国家では刑法の範疇になります。刑法の範疇になると、白人警官は(殴った)白人と(殴られた)黒人を公平には扱わないでしょう。白人は黒人を「安心して」殴れるわけです。これは単なるたとえ話ではありません。黒人をリンチにかけて、場合によっては殺害までするような白人至上主義団体ができたのは、奴隷解放の以降です。



奴隷解放から1世紀を経た1964年に公民権法が成立し、差別制度は撤廃されました。そしてその45年後にオバマ大統領が登場しました。かつての奴隷の子孫たち=アフリカ系アメリカ人を差別することは、今はありません。しかし、アメリカは今でも「奴隷制度の残滓」を引きずっているのではと思えることがあります。

あくまで歴史的な経緯によってですが、貧困、犯罪歴、低学歴、無職といった人たちは、黒人=アフリカ系アメリカ人にその比率が高い傾向にあります。そういった人たちを救おうとする政府の政策は、白人のある層からみると「黒人を救う政策」のように無意識に見えてしまうのではないでしょうか。

オバマ大統領は「オバマ・ケア」という政策で、アメリカの医療保険制度を改革しようとしています。無保険者を無くすというのが重要な柱です。しかしこれには反対も強い。2013年には予算の不成立と2週間の政府閉鎖まで引き起こしました。反対の理由は「自助努力を尊ぶ」「公的援助を嫌う」「自分は自分で守る」「小さな政府を志向する」といった、建国以来のアメリカ人の気風、精神だと説明されます。「オバマ・ケアは社会主義だ」という反発です。確かにその通りなのでしょうが、隠れた反対理由は「オバマ・ケア」が「黒人救済策」に見えてしまうことではないのでしょうか。

別の視点ですが、アメリカは日本などからみると異様にも見える銃社会です。銃の乱射事件も「定期的に」あるし、家族が同居の家族を銃で(誤って)死なせる悲劇がたびたび起こっています。かつて、ロサンジェルスのアメリカ人の自宅に招かれたことがあります。奥さんはオランダ人ですが、彼女は「結婚してロスに住んでから、すでにロスの学校内で数人が銃で死んだ。信じられない」と言っていました。アメリカの銃社会を異様と思うのは日本人だけではないのです。

何度となく提出された銃規制法案はその都度頓挫しています。銃を持つ権利、武器をもつ権利は憲法で保証されているという理由です。そして「自分の身は自分で守るのがアメリカの建国以来の伝統だ」という風に説明されるわけです。では、なぜそういう伝統ができたのでしょうか。自分の身を何から守るのでしょうか。家に押し入る強盗か、街にたむろする「ならず者」か、それともネイティヴ・アメリカンの襲撃から自分の身を守るのか。

もちろんそれもあるでしょうが、かつて「一番切実だったのは黒人奴隷の反乱から身を守ること」ではと想像します。南部の人口の45%が奴隷だったと書きましたが、歴史上まれにみる異様な数の多さです。こうなると、奴隷の反乱は白人にとっての最大の恐怖のはずです。各人が武装しないとやっていけません。実際に反乱が起きるかどうかより、個人レベルでの非武装状態は心理的にもたないでしょう。

制度は撤廃されても、意識とか考え方は「伝統」になって残ってしまい、後世に影響を与える・・・・・・。そういう風にみえます。


近代戦の幕開けとしての「アメリカ内戦」


南北戦争の米国での言い方は「The Civil War」で、直訳すると「内戦」です。また世界的に標準の呼び方は「American Civil War」で、「アメリカ内戦」です。以降、南北戦争を「アメリカ内戦(南北戦争)」ないしは「アメリカ内戦」と表記します。

朝日新聞がで指摘するように、アメリカ内戦は20世紀の戦争で典型的にみられる事象が予告的に起こった戦争です。この「事象」のなかから、

戦略攻撃
大量の戦死者
捕虜の大量死

の3つについて以下に書きます。


戦略攻撃:海への進軍


1864年5月から9月にかけての「アトランタ作戦」で、連邦軍(北軍)は、南部連合軍(南軍)が守るジョージア州・アトランタを陥落させ、市のほぼ全域を炎上させます(映画「風と共に去りぬ」のシーン)。そして北軍は11月からジョージア州の大西洋岸の町・サバンナまでの約400キロを進軍し、殲滅せんめつ戦を展開しました。進軍は幅約50-100キロに渡り、途中の家屋、農家、農園、工場、市街地などに火を放ち、また鉄道や橋が徹底的に破壊されました。そしてその年の12月末までに大西洋岸に到達したのです。これがいわゆる「海への進軍 - The March to the Sea」です。南軍の抵抗はほとんど無かったと言います。

The March to the Sea - 1.jpg
「海への進軍」のルートを示した地図。左上のアトランタから右下のサバンナに至る。このルートの南西方向に Andersonville Prison の位置が示されている。
( site : georgiainfo.galileo.usg.edu )


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「海への進軍」で、建物に火を放ち、鉄道を破壊しながら進軍する様子を描いた絵。
( site : georgiainfo.galileo.usg.edu )

地図をみるとアトランタはジョージア州の北西部にあり、サバンナは南東方向の海岸の町です。まさに、ジョージア州の中央部が焦土と化したわけです。当時の様子を描いた絵をみると、北軍の兵士はツルハシで一所懸命、鉄道のレールを剥がしています。破壊された鉄道の写真も残っています。

The March to the Sea - 3.jpg The March to the Sea - 4.jpg
北軍の兵士が「金テコ」と「ツルハシ」で鉄道を壊している様子が描かれている。右は破壊された鉄道の写真。
( site : georgiainfo.galileo.usg.edu )

この「海への進軍」は、軍隊と軍隊が戦って死傷者が多い方が負け、というような戦争形態では全くないのですね。攻撃の相手は軍隊ではありません。敵の都市機能を破壊し、農場を壊滅させ、社会インフラ(鉄道・道路)を破壊・寸断するという作戦です。作戦の目的は、

南軍の補給路(兵站線)を断ち、後背地を焦土と化すことによって補給物資をなくし、そのことによって戦争を有利に進める。

南軍の兵士と南部の一般市民にショックと恐怖と諦めを与え、心理的に追い詰めることによって戦争を有利に進める。

の2点です。これは20世紀の戦争で言う「戦略攻撃」です。要するに「敵の後背地に対する破壊作戦」や「兵站へいたん線の寸断」です。

20世紀の戦争、特に飛行機が発達した第2次世界大戦では戦略攻撃が頻繁に行われました。もちろんそれは「戦略爆撃機」で敵の領土の上から爆弾を落とし、工場や市街地を壊滅させる作戦です。もしくは全く無差別に大量の爆弾を落とす作戦です(いわゆる絨毯爆撃)。No.34「大坂夏の陣図屏風」で書いた「有名な」作戦では、

◆ゲルニカ 1937.4.26 ドイツ軍
◆重慶 1938-1943 日本軍
◆ドレスデン 1945.2.13 英米連合軍
◆東京 1945.3.10 アメリカ軍(=東京大空襲)

がありました。

一方、戦略爆撃機がないアメリカ内戦(南北戦争)の時代では、軍隊が地上を進軍してあたり一面に火を放ち、鉄道のレールを兵士がツルハシで引き剥がすわけです。しかし戦略の考え方は同じと言えます。北軍はこいういった「戦略攻撃」を、ジョージア州での「海への進軍」だけでなくサウス・カロライナ州などでも行いました。

第2次世界大戦を振り返ると、敵側の兵站へいたん線(補給路)を寸断することは戦略の核心でした。ドイツ軍は北大西洋で英国の輸送船を潜水艦で次々と沈めたし(第1次世界大戦でも同様)、太平洋戦争でアメリカ軍は日本軍の輸送船を徹底的に狙ったわけです(日本軍の暗号を全部解読していたので、輸送船の発見は容易だったようです)。補給を断たれて南の島に残された日本の兵隊は悲惨です。太平洋戦争における日本兵の死者の半数以上は餓死だと言います。

  一方の日本軍は、潜水艦でアメリカの輸送船を狙うことをしませんね。また、潜水艦だけではありません。ガダルカナル戦の初期の「第1次ソロモン海戦」で日本軍は、連合軍(アメリカ・イギリス・オーストラリア)の駆逐艦や巡洋艦のほとんどを撃沈するか大破するという勝利をあげたにもかかわらず、それらに護衛されていた肝心の輸送船団を攻撃しませんでした。日米の開戦となった真珠湾攻撃も、ハワイのアメリカ軍の石油備蓄基地を使用不能にするという目的はなかったようです。何が戦略的に重要かの判断がアメリカ軍とはだいぶ違う感じです。このあたりは「近代戦慣れ」していない日本軍としてはやむをえなかったのかもしれません。

アメリカ内戦は「20世紀の戦争で典型的にみられる事象が予告的に起こった」と言えるでしょう。アメリカにとっての最初の「近代戦」は、日本の明治維新以前に起こった、自国での内戦だったわけです。その学習効果(成功も失敗も含めて)は大きかったと思います。


大量の戦死者


アメリカ内戦(南北戦争)の死者は62万人で、これはアメリカの戦死者の最高記録です。第2次世界大戦でのアメリカ軍の死者はヨーロッパ戦線と太平洋戦線を合わせて40万人程度ですが、その1.5倍も多い。

しかし「第2次世界大戦の1.5倍の死者が、アメリカ内戦(南北戦争)で出た」とするのは誤った見方です。そもそも国の総人口が違うからです。アメリカ内戦(南北戦争)が起こった1860年代のアメリカの人口は3000万程度です。一方、第2次世界大戦の1940年代は1億4000万人程度です。人口は5倍近く違います。つまり、

  人口比で考えると、アメリカ内戦(南北戦争)の死者は、第2次世界大戦の約7倍

というのが、正しいモノの見方でしょう。アメリカ内戦で国民の2%が戦争で死んだということは、男性人口だけからすると4%が死んだわけです。兵役適齢人口を仮に男性の半分とすると、その8%が死んだという計算になります。当時としては非常に多い数です。

その後の歴史をみると、20世紀の戦争ではアメリカ内戦(南北戦争)を上回る死者が出たケースが多数あります。第2次世界大戦の日本の死者は、非戦闘員を含んで300万人と言われています。当時の日本の人口は8000万人程度なので「死亡率」はアメリカ内戦(南北戦争)の倍です。第2次世界大戦では、ソ連はもっと多くの死者を出しているし、その前の第1次世界大戦でもヨーロッパ各国は多数の死者を出している。第1次世界大戦のフランスの死者は約170万人で、この数は第2次世界大戦の3倍です。要するに20世紀の戦争は「総力戦」なのですね。この点でもまさにアメリカ内戦(南北戦争)は「20世紀の戦争で典型的にみられる事象が予告的に起こった」と言えるでしょう。


アンダーソンヴィル捕虜収容所


その死者という点ですが、アメリカ内戦(南北戦争)は、

  捕虜収容所での、捕虜の大量死

という、これもまた20世紀の戦争を予告するような事態が起きました。

「海への進軍」の舞台となったジョージア州に、南軍の最大の捕虜収容所、アンダーソンヴィル捕虜収容所(Andersonville Prison)がありました(「海への進軍」の地図参照)。この収容所に延べ45,000人の北軍兵士が収容され、そのうち13,000人が死亡しました。死亡の原因は栄養失調(餓死)や病気です。

Andersonville Prison - 1.jpg
Andersonville Prison
( site : www.nps.gov )


Andersonville Prison - 2.jpg Andersonville Prison - 3.jpg
北軍捕虜を撮影した写真と、現在の「アンダーソンヴィル歴史地区」に復元されている当時の「テント」。
( site : georgiainfo.galileo.usg.edu )

残された写真を見ると、捕虜は敷地の中の粗末なテントに「野宿」の形で収容されていたことがわかります。10,000人を収容する「施設」のはずが、最大で33,000人の捕虜を詰め込んだようです。それでなくても南軍は敗勢であり、食料や医薬品の補給は困難なはずだから、収容人数の3倍もの捕虜を詰め込んで野宿させると何が起こるかは明白でしょう。1864年8月(真夏)には、1ヶ月で3,000人が亡くなったと言います(アメリカ政府内務省・国立公園局のサイトの解説による)。毎日100人を埋葬する日が続くという悲惨さです。

  なお、アンダーソンヴィル捕虜収容所の跡地とその周辺の墓地は「アンダーソンヴィル歴史地区」(Andersonville National Historic Site)として、アメリカ政府内務省・国立公園局(National Park Service)が管理しています。国立公園局のウェブサイトは、http://www.nps.gov/。このサイトで捕虜収容所の歴史も解説されています。

アメリカ内戦(南北戦争)の終結後、収容所の所長は捕虜虐待で逮捕され、裁判にかけられて死刑判決をうけ、執行されました。アメリカ内戦後の死刑判決はこの所長だけです。

補足しますと、南軍に捕虜虐待の意図があったかどうかは別として、これだけの捕虜の大量死が起こったのだから「外形的には捕虜虐待」でしょう。さらに、このような事件は戦勝側が敗戦側の捕虜虐待を大いに宣伝し、それが歴史として残ってしまうのが常なので、北軍側の捕虜虐待が無かったとは言えないと思います

この「アンダーソンヴィル事件」も、20世紀の戦争で典型的にみられる事象が予告的に起こったと言えます。つまり、

戦争の捕虜収容所における「虐待」の結果、多数の捕虜が死亡するに至る。

戦争後、勝った側が、負けた側の責任者を「捕虜虐待の罪」や「人道に対する罪」で、「戦争犯罪人」として裁判にかける。

の2点です。

ちなみに、戦勝国が敗戦国の責任者を裁判にかけるというのは20世紀の戦争の特徴というより、アメリカの戦争の特徴ですね。ヨーロッパ諸国間の戦争で、そんなことはなかったはずです。アメリカ内戦(南北戦争)が終結(1865)した5年後にヨーロッパで普仏戦争(プロイセン・フランスの戦争。1870-71)が勃発しますが、勝ったプロイセン(ドイツ)はフランスから賠償金と領土(アルザス・ロレーヌ地方)を巻き上げただけでした。もっとも北軍にしてみれば、アメリカ内戦(南北戦争)はあくまで「アメリカ国内における反乱勢力との戦い」なので、人間を虐待するのは刑法犯罪であり、従って裁判にかけるという論理でしょう。アメリカはこの論理を外国との戦争に拡大したと考えられます。


アメリカ内戦と太平洋戦争


アメリカ内戦(南北戦争)は「20世紀の戦争で典型的にみられる事象が予告的に起こった」としましたが、その「20世紀の戦争」は日米間の太平洋戦争についても言えます。それどころか、アメリカの視点で見ると、太平洋戦争の経緯はアメリカ内戦(南北戦争)と非常によく似ているのです。対比してみると以下のようです。

類似点 南北戦争
(1861-65)
太平洋戦争
(1941-45)
経済封鎖 北軍は海軍力で南部の大西洋沿岸を海上封鎖した。これが南部連合の体力を徐々に消耗させた(No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」参照)。北軍はアメリカ北部の工業力・経済力をバックに優位に戦争を進めた。 アメリカを中心とする連合国は、日本の海外資産を凍結し、石油の禁輸などの経済封鎖を行った。アメリカは、日本とは比較にならない工業力・経済力をバックに(戦争初期はともかく)圧倒的優位に戦争を進めた。
後背地の
戦略攻撃
北軍は「敵国」であるジョージア州やサウス・カロライナ州で、無差別の破壊作戦を展開した。「海への進軍」はその典型である。 アメリカ軍は戦略爆撃機による日本本土の絨毯爆撃を行い、主な大都市は焼け野原となった。また広島と長崎に原爆を投下した。
兵站線の
寸断
北軍はジョージア州やサウス・カロライナ州で鉄道網や橋を破壊し、鉄道・道路を使用不能にした。 アメリカ軍は日本軍の輸送船を徹底的に攻撃した。広大な太平洋での輸送船の発見は困難なはずだが、暗号解読でそれを可能にした。
捕虜虐待 南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所で、北軍の捕虜13,000人が餓死または病死した(アンダーソンヴィルだけが有名なのは、北軍=アメリカ連邦政府の宣伝だと考えられる)。 インドシナ半島やフィリピンで日本軍の「捕虜虐待事件」があった(日本軍だけに虐待があったというのは戦勝国の言い分である。また、シベリア抑留では日本兵が虐待された)。
戦争犯罪
裁判
北軍は「捕虜虐待」の罪で、南軍のアンダーソンヴィル捕虜収容所の責任者を裁判にかけた。 アメリカは「捕虜虐待」の罪で、日本軍の責任者(いわゆるB・C級戦犯)を裁判にかけた。
敗戦国の
改革
勝った北軍=連邦政府は、憲法を改正して奴隷制度を廃止した。これによって、南部の社会・経済構造は抜本的な変革を迫られた。 日本を占領したアメリカ軍は、農地解放、財閥解体、教育制度改革など、社会の仕組みを根本から変える変革を実施した。

まさに、太平洋戦争で典型的にみられた事象がアメリカ内戦(南北戦争)で予告的に起こっていたと見えます。また一歩進んで、アメリカ内戦(南北戦争)における北軍=連邦政府の行動パターンを、80年後の太平洋戦争とその戦後処理でアメリカ軍=アメリカ政府が繰り返したとも感じます。

アメリカ内戦(南北戦争)は、国家分裂という建国以来の最大の危機にアメリカが陥った時期です。この危機をリンカーン大統領の連邦(Union)政府と連邦軍(北軍)は乗り切ったわけです。この「国家最大の危機が到来したが、それを克服した」という成功物語が、アメリカの歴史意識の根幹にあるのでしょう。

アメリカ内戦での連邦政府(北軍)の個々の成功体験は、20世紀になってアメリカ政府(アメリカ軍)がより精緻な形で反復し、また、アメリカ内戦で連邦政府(北軍)が正当化した軍事行動や政策は、それが正当だということを証明するために、20世紀になっても繰り返されたのではないでしょうか。

国家の行動は歴史に影響されるということだと思います。国家のアイデンティティとなっている「近代史上の成功物語」は、現在の国家の正当性を暗黙に保証するものである以上、繰り返さざるを得ないのでしょう。それは現代における組織や会社の成功体験とも似ていると感じます。

しかし、過去の成功物語を繰り返すことは、環境の変化のために失敗につながることもあるし、むしろその方が多い・・・・・・。このあたりが重要だとも思います。




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