No.93 - 生物が主題の絵 [アート]
No.85「洛中洛外図と群鶴図」で、尾形光琳(1658-1716)の「群鶴図屏風」(米国・フリーア美術館蔵)のことを書きました。この六曲一双の屏風には19羽の鶴が描かれているのですが、西洋の絵画と対比したところで、
と書きました。
確かに近代までの西洋の絵画は圧倒的に人物が中心で、宗教画・神話画・歴史画・肖像画・自画像など、人物(ないしは神や聖人)が画題になっています。中には「希望」「哲学」「妬み」といった抽象概念を擬人化して人物の格好で表した絵まである。「そこまでやるか」という感じもするのですが、とにかく人物が溢れています。人物画の次は静物画や風俗画、近代以降の風景画でしょうか。光琳の群鶴図のような野生動物はもとより、動物・植物・昆虫などの生物を描いた有名な絵はあまり思い当たらなかったのです。今回はそのことについての随想を書いてみたいと思います。
もちろん動物が登場する絵はいっぱいあります。たとえばNo.87「メアリー・カサットの少女」で感想を書いた、メアリー・カサットの『青い肘掛け椅子の少女』(1878)です。
グリフォン犬
『青い肘掛け椅子の少女』では、少女の向かって左の椅子に寝そべっている犬がいます。この犬については、No.86「ドガとメアリー・カサット」でメアリーの伝記から引用しました。
メアリー・カサットはグリフォン犬をたいそうかわいがったようです。他の絵にもこの愛犬が登場します。下の絵は『Young Girl at a Window』(1883/4。コーコラン美術館 - Corcoran Gallery of Art。ワシントン DC)という作品です。スーザン・マイヤーの伝記では『犬を抱いてバルコニーに座るスーザン』というタイトルで紹介されている絵です。
グリフォン犬(現代で言うブリュッセル・グリフォン)はベルギー原産の犬です。ドガがグリフォン犬の子犬をメアリー・カサットのために骨を折って見つけ出したと伝記にありますが、19世後半のパリでは貴重な犬だったことをうかがわせます。
そしてこのグリフォン犬に関してなのですが、メアリー・カサットの時代の450年以上前のベルギーで、この犬を描いた絵が制作されているのです。それは、西洋美術史では「超」がつくほど有名な絵画です。
ファン・エイク:アルノルフィーニ夫妻の肖像
ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある『アルノルフィーニ夫妻の肖像』(1434)は、ヤン・ファン・エイク(1390頃 - 1441)の作品です。ファン・エイクはブルッヘ(仏語・英語名はブルージュ。現在のベルギー、当時はフランドルの都市)を中心に活躍した画家です。ファン・エイクは西洋における油絵を完成させた人と言われていますね。精緻に描くその技法は、のちの西洋絵画に多大な影響を与えました。
この絵の夫妻の足もとにいる犬がグリフォン犬です。犬の「容貌」は、現代のブリュッセル・グリフォンやメアリー・カサットが描く犬とも少々違いますが、それは数百年の年月の経過を考える必要があります。犬や猫といった家畜は品種改良が行われるからです。
メアリー・カサットのグリフォン犬は彼女のペットでした。では『アルノルフィーニ夫妻の肖像』のグリフォン犬もペットなのでしょうか。どうもそれは違うようなのです。
神戸大学准教授で美術史家の宮下規久朗氏の著書『モチーフで読む美術史』(ちくま文庫。2013)には『アルノルフィーニ夫妻の肖像』を解説して次のように書かれています。
宮下先生の解説にあるように、この絵において「犬」は特定の意味をもつシンボルとして描かれています。そして西洋の絵画における動物や生物は、主題(この絵の場合夫妻、ないしは夫妻の結婚)を補足するサブの存在として描かれ、かつ「シンボル」として使われることが大変に多いのです。
西洋画における生物
『アルノルフィーニ夫妻の肖像』に典型的にみられるように、西洋画における「生物」は、まず「シンボル」として描かれるケースが思い浮かびます。宗教画(キリスト教絵画)では数々の「象徴」があります。鳩は聖霊の象徴で、平和の象徴でもあるというたぐいです。聖人の持物(じもつ = アトリビュート)としての生物もあります。つまり人物が誰かを見分けるための伝統的な道具や動物で、鶏が描かれていれば、そばの人物はペテロという感じです。
シンボルやアトリビュートとしての生物はいろいろあり、羊、驢馬、鴉、蛇、魚、百合、葡萄、石榴、棕櫚、などが思いつきます。こういったシンボルは宗教画以外にも進出しています。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」で、英国の画家・ミレイが「サン・バルテルミの虐殺」の当日を描いた作品を紹介しましたが、その絵のトケイソウ(Passion Flower)は受難の象徴でした。
ギリシャ・ローマ神話を描いた絵にも、神話に登場する動物や植物、果実がいろいろあります。鷲や雄牛がゼウスの化身だとか、林檎がヴィーナスの持ち物だとかです。
宗教・歴史・神話を離れて、一般的な寓意を表す生物もあります。『アルノルフィーニ夫妻の肖像』の犬は「忠節」の象徴でした。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したブリューゲルの「絞首台の上のかささぎ」では、かささぎが「偽善」や「告げ口」といった意味を持っていました。豚が「貪欲」の象徴のこともあります。
もちろん絵の主題の一部として描かれた生物もあります。乗馬や競馬や狩猟の情景の馬とか、風俗画における家畜や、家庭内のペット(犬や猫、小鳥)、牧場風景の牛や羊などです。
また、静物画の動植物もあります。獲物としての動物(兎、鳥、など)、肉、魚介類、野菜、果物(石榴、葡萄、林檎、梨)などです。花瓶の花や花束も静物画の一大ジャンルになっています。しかしフランス語で静物画のことを "nature morte"(=死んだ自然)と言うように、これらは生きているわけではありません。
西欧の絵画で生物が描かれるのは、上記のような「シンボル」「象徴」「主題の一部」「静物」というのがよくあるケースであり、生物そのものが主題という絵はそう多くはないようです。少なくとも、欧米の第1級の美術館ではあまり見かけないわけです。
日本の「生物画」
一方、日本の伝統的では生物を主役とする絵画が大きなポジションを占めています。ここで、静物画ならぬ「生物画」を次のように定義するとします。
この意味での「生物画」が日本画には非常に多いわけです。
樹木は日本画の一大ジャンルになっています。「松」「梅」「桜」「竹」「柳」「楓」「桐」「椿」「槙」「柿」などは、繰り返し画題になってきました。
草花では、「朝顔」「杜若」「菖蒲」「花菖蒲」「牡丹」「紫陽花」「罌粟」「菊」「葵」「芙蓉」「百合」「藤」「つつじ」「桔梗」「芭蕉」などが思い浮かびます。「春・秋の七草」も画題の中心です。各種の「野菜」も描かれました。
鳥では、「鶏」「雀」「鴉」「鶴(光琳の群鶴図など)」「白鷺」「百舌」「鴛鴦」「孔雀」「鷹」「雁」「鴨」などでしょう。伊藤若冲は、かなりの数の鶏の絵を描いていますね。自分で飼育して観察したようです。
動物では、「犬」「猫」「猿」「鹿」「牛」「栗鼠」などです。江戸後期の森狙仙を開祖とする「森派」は、猿の絵で有名です。なお、虎は日本に生息しないので伝聞で描かれた絵が多いのですが、「虎」も超有力な画題です。
魚では、静物ではない生きた魚(水の中で泳ぐ魚)を描くのが日本画の特徴です。「鯉」「鮎」「鯰」「亀」(爬虫類ですが)などです。昆虫を描いた絵もあります。「蝶」「蛍」「蜻蛉」などです。
伊藤若冲の「動植綵絵」(最初にプルシアン・ブルーを使った作品。No.18「ブルーの世界」参照)は、こういった生物たちを総体的に描いた絵です。また、さまざまなモチーフを組み合わせた「花鳥図」「草木図」も、歴史上、多数制作されました。
No.30「富士山と世界遺産」で「特定の山を主題に描いた絵は西洋に少ない」と書きました。例外的に思い浮かぶのは(有名な画家では)セザンヌとホドラーぐらいだと・・・・・・。一方、日本では(近代以降は)全く逆です。これは昔から「山」を信仰の対象にしていた日本と、19世紀までは「山に名前をつけることさえ一般的でなかった」西洋との文化的相違と考えるのが妥当でしょう。
日本では「生物画」がメジャーであり、西洋ではそうではないということについて、安易な解釈をするのは禁物ですが、やはり「永遠なるもの」「神聖なるもの」を何に感じるかという、人の心の相違だと考えられます。
西洋における「生物画」の傑作
しかし、よくよく考えてみると「野生動物を主題にした西洋絵画はあまり思い当たらない」というのは速断すぎました。西洋絵画にも「生物画」はあり、野生動物の絵もあります。絵というのは主題の自由さ(何でもよい)が特長なのです。
西洋絵画の「生物画」の何点かの絵、特に印象的な絵画を(個人的主観で)あげてみます。まず最初は、カサットやファン・エイクの作品に描かれていた犬で、犬だけを描いた作品です。
18世紀イギリスの画家、ゲインズバラがポメラニアンの親子を描いた作品です。テート・ギャラリーの公式サイトによると、ゲインズバラの友人にエイベルというヴィオラ・ダ・ガンバの名手がいて、二人で演奏することもあった。この絵は音楽のレッスンを受けた謝礼に、エイベルの飼い犬を描いたもの、とあります。
親犬は何かの物音に気づいたように、耳をたて、左の方向を凝視しています。一方の子犬は、親犬とは無関係に下の方の何かに気を取られています。その2匹を対比させた描き方がうまいと思います。立派な毛並みは、いかにも上流階級の飼い犬といった雰囲気です。
イタリア出身の政治家・銀行家で東洋美術コレクターだったアンリ・セルヌッシ(チェルヌスキ)の愛犬、タマを描いた作品です。日本犬というタイトルのとおり、この犬は日本原産の狆です。セルヌッシは日本に旅行し、この犬を持ち帰りました。タマの前に転がっているのは日本人形のようです。
1世紀前のゲインズバラの絵と比べると、マネのこの絵は19世紀後半の絵画らしくスピーディで荒い筆致で描かれています。それによって、小型犬のすばしっこい様子や、舌を出したり、きょろきょろと辺りを見たりといった愛らしさが表現されています。
日本人的感覚から言うと「タマ」は猫の名前ですが、この場合のタマは日本語の "玉" で、宝石の意味のようです。飼い主はこの犬をたいそう可愛がったようで、ルノワールにもマネと同時期にタマの絵の制作を依頼しています。分かりにくいですが、TAMAと絵の左上に書いてあるのもマネの絵と同じです。
なお、マネの描いた犬の絵では他に『キング・チャールズ・スパニエル犬』があります。この絵もまた、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの所蔵です。イギリス原産の犬で、その名のとおりイギリス王室の愛玩犬でした。
フランスの画家、ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は「生物画」を描いています。画題としては、鹿、狐、鱒、樫の木などがあり、野生生物を描いているのが特長です。その「鹿」と「樫」の例を下に掲げます。
鹿を画題とする絵は何点かあって、野生の鹿、追われる鹿、死んだ鹿と、狩猟という視点での一連の作品があります。下に掲げたブリジストン美術館の絵も狩猟で追われている鹿を描いたのでしょう。また、東京の国立西洋美術館には『罠にかかった狐』という絵がありますが、これらの絵をみても「狩猟画の延長、ないしは変型としての動物画」という感じです。
西欧にも木を描いた絵がありますが、多くは風景の一部としての木、ないしは森や林の情景の中の木であり、樹木だけを主体的に描いたものは少ないと思います。このクールベの樫の絵は、巨木の存在感を描くことに徹したものです。
余談ですが、上の絵の「樫」と訳されている絵は、原題では「Le Chêne de Flagey(The Oak of Flagey)」です。Chêne(Oak。オーク)はコナラ属の木の総称ですが、日本語でそれに相当する樹は、樫(常緑性)や楢(落葉性)です。ヨーロッパのオークは多くが落葉性で、クールベが描いた樹も絵からすると日本で言う「楢」ですね。オークは古代ヨーロッパから神聖な樹とされてきました。
クールベは絵画史で「写実派」とされています。要するに「想像では描かない」わけです。その画題は、人物、自画像、風俗(葬儀の場面、画家のアトリエ、など)自然の風景、海岸に打ち寄せる波、石割り人夫、ヌード、女性の下半身(オルセー美術館の有名な絵)と多岐に渡っていて、そういった「写実の目」は野生生物にも向けられたわけです。
クールベの樫の絵を引用したので、別の樫の絵を掲げます。ロシアの風景画家、シーシキンの作品です。
シーシキンは、特に樫の木立や森をテーマにすることを好んだようです。その中でもこの絵は "樫の大木そのもの" を描こうとしています。一般に森や林を描いた風景画には樹木が描かれますが、それはあくまで「風景の一部としての樹木」です。そうではなく「樹木そのものに焦点を当てて描く」ということには意味があると考えられます。
つまり我々は大木や巨木に出会うと、人間の寿命よりはるかに長い時間(数百年、時には1000年以上)をかけて成長し、風雪に耐えて生きながらえ、現在も成長を続けているという実感を持つことができます。木に触れたり叩いたりしてもビクともせず、そこに屹立している。その重量感と実在感に圧倒されるわけです。さらに、最初はごく些細な芽生えであったはずのものが長い年月の間に数10トンもの巨大な存在になるという "生命の不思議さ" を感じ、そこまでになる植物の生命力に打たれることにもなります。
それが高じると「人智を遙かに超えたもの」を感じてしまい、神聖なものとしてとらえることになります。日本の古来の伝統では、大木や巨木に神が宿る(ないしは降臨する)という概念があり、注連縄と紙垂をつけた大木・巨木が至る所にあります。こういった感性は程度の差はあれ、森林が多い地域に発生した文化に共通です。
クールベとシーシキンの絵を見て思うのは、画家が樹木そのものを描こうと思った動機が、上に述べたような感性(のどれか)にもとづくのではないかということです。さらに思うのは、大木や巨木に向き合ったときに人が覚える感動とか感慨をカンヴァスに表現するためには、リアリズム絵画の手法こそ有効だということです。印象派以降の絵画手法ではそうはいかないでしょう。シーシキンのこの絵は、パリで印象派が全盛の頃に描かれたものですが、改めてリアリズム絵画の意味を考えされられます。
馬は西洋では非常になじみのある家畜です。現在でもヨーロッパの都市の大きな公園に行くと、乗馬している人とすれ違ったりします。公園に乗馬道があるのです。
そういった文化的伝統からか、馬を描いた絵もいっぱいあります。多くは人が騎乗した姿ですが、狩りの情景や競馬のシーンなどの「風俗画」もあります。下の絵はフランスの女性画家、ローザ・ボヌール(1822-1899)の『馬市』(1853)という作品。メトロポリタン美術館の「人気コーナー」であるヨーロッパ近代絵画の展示室にあり、幅5メートルという巨大な絵なので、いやがおうでも目につきます。メトロポリタン美術館を訪れた日本人は多いと思いますが、(この絵は展示替えがないだろうという前提で)ほぼ全員が目にしているはずの絵です。
この絵はパリ郊外の「馬市」を描いた一種の「風俗画」ですが、馬を描くこと自体が目的という感じがします。
馬だけを描いた絵もあります。フランスの画家、テオドール・ジェリコーやエドガー・ドガは馬そのものを主題とした作品を制作しています。またボヌールも馬だけの絵を多数描いています。
馬だけの絵で最も印象深いのは、英国の画家、ジョージ・スタッブス(1724-1806)が描いた『Whistlejacket』(1762頃)で、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』と同じく、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているものです。Whistlejacket という名前の競争馬を描いたものですが、3m × 2.5m という大きなカンヴァスに、背景なしで馬だけが描かれています。スタッブスの絵はこれしか見たことがないのですが「馬の画家」と呼ばれていて、馬をかなり描いているようです。
ロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れると、この絵がやけに印象的です。私の経験からですが「ロンドン・ナショナル・ギャラリーにおいて、予備知識が全く無いという前提で鑑賞して、最も印象的な作品」ではないでしょうか。要するに、こういうタイプの絵が珍しいからインパクトが強いのだと思います。
なお、ジョージ・スタッブスは馬だけでなく、動物園で観察したライオンやカンガルーをはじめ、各種の動物を描いたようです。また『馬市』のローザ・ボヌールも、牛・羊・山羊・狐・鹿・犬といった動物の絵を多数描いています。
動物画を描くということにおいてスタッブスはボヌールの「先輩」にあたるわけですが、さらにその先輩がいます。オランダの画家、パウルス・ポッテル(1625-1654)です。ポッテルは牛や馬といった家畜を多数描いています。
この絵はルーブル美術館のフランドル絵画のエリアにある、Le Cheval Pie(英語題名は The Spotted Horse。まだら馬)と題する絵です。ボヌールやスタッブスの絵とは違って、この絵は 40cm×30cm という小品です。しかし斑の馬の確かな造形が光っています。ボヌール、スタッブス、ポッテルのように動物画を主体に描いた画家は、私が知らないだけで、もっとあると想像されます。
牛については「馬市」と同じく、ローザ・ボヌールが印象的な絵を描いています。オルセー美術館の「ニヴェルネー地方の耕作」という絵です。
これは「農村風景」を描いた絵ですが、オルセー美術館で実際に見ると、明らかに牛を描くことが目的の絵だということがよくわかります。幅2.6メートルの大きな絵で、牛の力強さが迫ってきます。パリを訪れる日本人の大多数はオルセー美術館に行くと思うので、この絵も「馬市」と同じく(展示替えがないだろうという前提で)多くの人が目にしているはずの絵です。
牛を描いた絵では、オランダの首都、デン・ハーグに傑作があります。
デン・ハーグ : マウリッツハイス美術館
オランダの首都、デン・ハーグに「マウリッツハイス美術館」があります。貴族の館を改装した非常に小さな美術館(正式名称:王立絵画陳列室)ですが、ここにはフェルメール(1632-1675)が3点あります。中でも、
は超有名作品です。フェルメール作品は「傑作」と「普通の絵」の2つに分かれると思うのですが(どんな画家でもそうですが)、この2つは傑作中の傑作でしょう。
その他の作品ですが、レンブラント(1606-1669)の
も有名な絵画です。
しかしこの美術館の「みどころ」は他にもあります。それは、同じ年に30歳前後で夭折した二人のオランダ人画家が描いた「生物画」です。
一つは、ルーブルの馬の絵を描いた、パウルス・ポッテルの『雄牛』(1647)です。この『雄牛』は2.5m×3.5m程度の非常に大きな絵で、中心に描かれた雄牛は実寸大です。雄牛の生命力が大変な迫力で迫ってくる絵です。
もう一つの作品は、カレル・ファブリティウス(1622-1654)の『ごしきひわ』(1654)です。ポッテルとはうってかわった 33.5cm×22.8cm という小さな作品で、ペットとして飼われていた小鳥(足に鎖がついている)をシンプルに描いています。壁が背景なので、この絵を家の壁に飾っておくとあたかも小鳥がそこにいるような感覚になるでしょう。一種のだまし絵的な要素のある絵ですが、造形の確かさと美しい色使い、小鳥の部分の軽やかな筆運びが印象に残る作品です。
動物画の画家
今まで引用したなかに、主に動物画を描いた画家がいます。年代順にあげると、
の3人です。活躍した世紀も国も違いますが、こうしてみるとヨーロッパには動物画の歴史や流れがあることが推測できます。そうした画家の一人が、スウェーデンのリリエフォッシュです。スウェーデンの画家というと、我々はカール・ラーション(1853-1919)ぐらいしか知らないのですが、リリエフォッシュも本国では有名な画家のようです。
ブルーノ・リリエフォッシュ(Bruno Liljefors、1860-1939)は19世紀末から20世紀初期にかけて活動した画家で、動物画を得意としていました。彼の動物画の多くの特徴は、
というものです。もちろん動物を描くためには観察が必要です。画家は自然の中に家とアトリエを建て、野生動物を捕獲してケージで飼育し、その観察をもとに描きました。あるいは、狩猟の獲物を観察して描くこともしたようです。私は実物の絵を見たことがないのですが、リリエフォッシュの2作品を引用します。
一見するとキツネは1匹のようですが、右端に寝そべっているもう1匹がいます。おそらく画家はキツネの習性を観察し、2匹のこの瞬間を絵にしたのだと思います。
季節は秋で、背景は色づき始めた木の葉で埋め尽くされています。その中に小鳥が3羽、配置されている(コガラだと思います)。自然の中のキツネという雰囲気を盛り上げています。
イェーテボリ美術館の解説によると、このキツネは同じ年の春に生まれた若いキツネとのことです。いかにも柔らかそうな、ふさふさした毛並みがそれを表しています。
オオタカの幼鳥が雷鳥(クロライチョウ)を襲った瞬間を描いています。真冬の、あたり一面に雪が舞う中で、オオタカが雷鳥の群を狙い、その中の一羽を襲う。オオタカの右下に描かれているのはクロライチョウの雌でしょう。雌は黒ではなく茶色をしています。オオタカが "つがい" のクロライチョウを襲ったという想定です。
スウェーデン国立美術館の解説によると、リリエフォッシュは狩猟でしとめたオオタカの幼鳥とクロライチョウを林の中に持って行き、この絵をすべて戸外で描いたそうです。もちろんそれだけでは、この絵の迫真の感じは出せないでしょう。画家はオオタカが獲物を襲う瞬間をよく観察したのだと思います。その観察の成果が現れているようです。
雪が舞い、クロライチョウの群が逃げ出す背景は、淡い色使いの幻想的な描き方です。その中で、狩りの瞬間が極めてリアルに描写されている。その対比も光っていると思います。
ウィーン : アルベルティーナ美術館
ウィーン市内の中心部にアルベルティーナ美術館がありますが、ここにアルブレヒト・デューラー(1471-1528)の「生物画」の傑作があります。
まず、有名な『野兎』(1502)です。水彩・グアッシュで紙に描かれた25cm程度の小さな絵ですが、ウサギの毛の細密描写が見事です。
さらにこの美術館では、同じデューラーの『芝草』(1503)が非常に印象的な作品です。『野兎』と同じく水彩・グアッシュの絵で、40cm ×31.5cm の大きさです。描かれているのは芝草、イネ科の植物らしい草、タンポポ、アザミなど、日常生活の周辺のどこにでもありそうなものです。日本でも十分にありうる光景と言っていいでしょう。
西欧では「ボタニカル・アート」という絵のジャンルがありますね。花や草などの「植物だけを背景なしに描いた絵」ですが、ボタニカル(=植物学)というだけあって記録ないしは学術的意味に重点が置かれている絵です。
しかしデューラーの『芝草』はボタニカル・アートではありません。描かれているのは、どこにでもある「雑草」です。その雑草に目を向け、一つの作品(素描)に仕上げた画家の「目」に注目したいと思います。
ひるがえって考えてみると、実は「雑草」は日本画の伝統的なモチーフです。一つだけ例をあげると、たとえば酒井抱一(1761-1829)の『夏秋草図屏風』(1821。東京国立博物館所蔵)です。
日本では春の七草、秋の七草などと言われます。これらの草の中で、桔梗や撫子などの可憐な花をつける草はともかく、春のセリ、ナズナ、ハコベ、秋のフジバカマ、クズ、オミナエシなどは、その草の名前を知らない人にとっては「雑草」としか見えないでしょう。しかしそういった草に名前をつけ、年中行事に使い(七草粥など)、画題にもしてきたのが日本の文化的伝統です。
デューラーの『芝草』、そして『野兎』を見て感じるのは、日本画にも通じる画家の目です。文化はいったん確立すると拡大・再生産されます。一方では生物を画題とする絵が綿々と作られ、他方では宗教画や人物画が自律運動的に広がっていく。しかしそういった文化的伝統の相違を除いてみると、「画家の目」は日本でも西欧でも似ているのではないか・・・・・・。デューラーの絵をみたとき、そういった思いに駆られました。と同時に、絵画は「何を描くか」もあるが「どう描くか」が重要である・・・・・・。デューラーと抱一の絵で感じるのはそのことです。
ゴッホ
近代以降の画家で "生物画" を多数描いたのは、ゴッホが一番でしょう。その画題は、
などです。果樹や樹木の絵では、花が咲く頃を描いたものが多くあります。またこれ以外に、数は少ないですが、鳥(カワセミ)や昆虫(蛾、蝶)を描いた作品もあります。
花に関して言うと、もちろんゴッホは静物画としての花の絵(=花瓶に飾られた切り花の絵)を多数描いていますが、それとあわせて大地に生えている草や木に花が咲いている姿を画題として描いている。生命の息づかいを描いたということで、画家として特徴的だと思います。その例を引用したいのですが、ゴッホの "生物画" は多数あります。何をあげるか迷うのですが、アイリスの絵にします。
アイリスは日本で言うアヤメです。ないしはアヤメ属の花を指すものとすると、「アヤメ」「ハナショウブ」「カキツバタ」「イチハツ」などです(そもそもこれらの種は見分けにくい)。
アヤメ類は日本画では定番の画題の一つで、誰しも思い出すのは尾形光琳の「燕子花図屏風」(根津美術館)でしょう。日本画と比較してみるのもおもしろいと思います。
このゴッホの作品はサン・レミの療養院の時代の絵です。群生するアヤメが、ゴッホらしい鮮やかな色彩で生き生きととらえられています。この絵から受ける印象は、あでやかで大ぶりの花をつけるアヤメの生命力です。それを描きたかったのだと思います。
モネ
ゴッホと同時代の画家では、モネが花や樹木の "生物画" を描いています。もちろん有名なのは『睡蓮』を描いた一連の(数百の)作品です。ただこの連作のほとんどの作品は "睡蓮の池" に焦点があり、特に時間や天候によって千変万化する様子を描いています。睡蓮の花だけを描いた作品もありますが一部です。というわけで「睡蓮シリーズ」はここでは割愛します。
睡蓮以外に目を向けると、モネは、アイリス、バラ、リンゴの花、クレマティスなどを描いています。その中からゴッホつながりで、国立西洋美術館が所蔵するアイリスの絵を次に引用します
この絵について、国立西洋美術館のサイトには次のような説明がしてありました。
確かにこの絵は装飾性が強く、縦長の大画面は日本趣味を感じさせます。一方、同じ黄色いアイリスの絵で全くイメージの違った絵がパリのマルモッタン・モネ美術館にあります。
マルモッタン美術館というと『印象・日の出』で有名な美術館ですが、この絵も記憶に残る絵です。その理由は "アイリスと空" という取り合わせでしょう。樹木の花と空という組み合わせならともかく、草花と空を描くのは日本画にはあまりありません。そもそも日本画には空を描いた絵が少ない。一部の浮世絵だけでしょう。
というわけで、この絵は国立西洋美術館の絵の "日本趣味" とは全く違っています。アングルも地表からアイリスを見上げたような構図になっていて、モネならではの作品だと思います。
モネは若い時に、鳥を主題にした作品を描いています。それが次の『七面鳥』です。
画題もめずらしいが、正方形のカンヴァスも一般的ではありません。これは、当時モネのパトロンだった美術愛好家、エルネスト・オシュデの注文で、パリ郊外のモンジュロンにあったオシュデの別荘を飾るために描かれた作品です。別荘に放し飼いにされていた七面鳥を描いています。
木陰に10数羽の鳥がいますが、描き方は木々や草むらと似ていて、庭の風景の一部になっているような感じを受けます。正方形のカンヴァスも含めて、別荘の壁にかける装飾画ということが関係しているのでしょう。
生物を描く
以上、20世紀初頭までの作品をあげましたが、もちろん現代作家も "生物画" を描きます。実際に見たことのある現代作家の絵で印象的だったのは、スペインの具象画家、アントニオ・ロペス(1936 -)の『マルメロの木』(1990)です。この絵は日本での「アントニオ・ロペス展」に出品されました(Bunkamura ザ・ミュージアム。2013.4.27 - 6.16)。アントニオ・ロペスは制作時間が長いことで有名で、この絵も「晴れた日の午前中の決まった時間」に少しずつ描くわけです。マルメロの実や葉の白い線は、実際に画家がマルメロにつけた線です。なぜ線をつけるのかと言うと、描いている期間で実が熟して枝が垂れ下がり、全体のバランスが変化してくる。その初期配置を記憶するための線ということらしい。結局、この絵は未完だそうですが、たわわに実ったマルメロと長時間向き合おうとする画家の執念が現れているようです。
以上のように、いろいろ思い出して(かつ確認して)みると、西洋絵画にも動植物を主題にした「生物画」はいろいろあることが認識できます。著名な画家も描いているし、実際に実物を見た絵もいろいろある。なぜ「生物画」はあまりないと(No.85「洛中洛外図と群鶴図」で)思ってしまったのか。
日本画の伝統では「生物画」が主流(の一つ)です。一方、西洋の伝統的な具象画では、宗教・歴史・神話・人物・風景・静物といった画題が主流です。当然、その主流に沿って絵が注文され、画家は画題を選び、絵が取り引きされ、美術館のコレクションがなされ、展示する作品がセレクションされ、美術教育があり、アートに関するジャーナリズムも作られる。われわれ一般人のモノの見方も、その「主流」に添って形成されるわけです。
我々は「見たいと思うものを見る」のであり「見たいと思わないものは見えない、ないしは意識に残らない・残りにくい」のでしょう。どうも、そういうことだと思われました。
日本画
デューラーの『芝草』のところで酒井抱一の絵を引用したので、最後に日本画をもうひとつ引用します。クールべが雪景色の中の鹿を描いた絵を前に掲げましたが、同じ雪景色の中の鹿を描いた日本画です。
川合玉堂という人は、古今東西の著名画家の中でも最もデッサンが上手な画家の一人だと思います。この絵を見るとそれがよく分かる。玉堂が20歳台の作品で、上京した直後あたりのものです。我々がよく目にする玉堂作品というと「日本の自然や風景の中に溶け込んだ人の営み」的なテーマが多いのですが、この絵はそのテーマに至る前の作品であり、1頭の鹿を描くという日本画ではよくあるものです。しかしそれだけに純粋に画力が現れていると思います。
本文中にローザ・ボヌールの『馬市』と『ニヴェルネー地方の耕作』を引用しましたが、この2つの作品の詳しい解説を、
No.266 - ローザ・ボヌール
に掲載しました。
本文中にゴッホの『アイリス』の画像を引用しましたが、そこでも書いたようにゴッホは多数の "生物画" を描いています。その主なものを、
No.292 - ゴッホの生物の絵
に掲載しました。
国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。この作品は、本文に引用したクールベの作品と比較してみるのがよさそうです。
2つの作品とも1本の樫の木だけを描いています。そして画家の目的は「樹木のもつ生命力」をカンヴァスに描き出すことだと感じます。しかし、その生命力の表現方法は2つの絵で違います。
クールベの作品は巨大な幹を丹念に描いているように、数百年の時を経てなお屹立し、生き続ける巨樹の生命力を描いているようです。
一方のコリントの作品は木全体に葉をまとった姿であり、無数の葉をつける木の生命力を表現しています。クールベもコリントも「樫」というタイトルがついていますが、英語で oak、フランス語で chêne、ドイツ語で eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉性の木です(日本語では常緑性の樫と落葉性の楢を使い分ける)。
冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを描いたものでしょう。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。
本文のクールベの『フラジェの樫の木』のところと「補記3」で、ヨーロッパでオーク(英語で oak、フランス語で chêne、ドイツ語で eiche)と呼ばれる木は、和学名はヨーロッパナラであり、日本語に訳す場合は楢とすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉性の樹木です。コナラ属の常緑性の木を日本では樫と言いますが、たとえばイタリアなどには常緑性のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。
オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。
「樫」という木は固すぎて家具に加工するのはむずかしい、とありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合は、その堅さを生かして樫が使われます。木偏に堅いという漢字の通りです。
鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきます。稲本氏がなぜ岐阜の工芸村にオークという名前をつけたかと言うと、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。
国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。
野生動物を主題にした西洋絵画はあまり思い当たらない |
と書きました。
尾形光琳「群鶴図屏風」(米・ワシントンDC。フリーア美術館) |
確かに近代までの西洋の絵画は圧倒的に人物が中心で、宗教画・神話画・歴史画・肖像画・自画像など、人物(ないしは神や聖人)が画題になっています。中には「希望」「哲学」「妬み」といった抽象概念を擬人化して人物の格好で表した絵まである。「そこまでやるか」という感じもするのですが、とにかく人物が溢れています。人物画の次は静物画や風俗画、近代以降の風景画でしょうか。光琳の群鶴図のような野生動物はもとより、動物・植物・昆虫などの生物を描いた有名な絵はあまり思い当たらなかったのです。今回はそのことについての随想を書いてみたいと思います。
なお以下の話は、主として記録を目的とした「植物画」や「博物画」を除いて考えます。
もちろん動物が登場する絵はいっぱいあります。たとえばNo.87「メアリー・カサットの少女」で感想を書いた、メアリー・カサットの『青い肘掛け椅子の少女』(1878)です。
グリフォン犬
『青い肘掛け椅子の少女』では、少女の向かって左の椅子に寝そべっている犬がいます。この犬については、No.86「ドガとメアリー・カサット」でメアリーの伝記から引用しました。
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メアリー・カサットはグリフォン犬をたいそうかわいがったようです。他の絵にもこの愛犬が登場します。下の絵は『Young Girl at a Window』(1883/4。コーコラン美術館 - Corcoran Gallery of Art。ワシントン DC)という作品です。スーザン・マイヤーの伝記では『犬を抱いてバルコニーに座るスーザン』というタイトルで紹介されている絵です。
メアリー・カサット
「犬を抱いてバルコニーに座る (Corcoran Gallery of Art。Washington DC) 「多くの印象派画家がそうであったように、メアリーも戸外で描くのを好んだ。自宅のバルコニーからモンマルトルを望むこの絵は、パリの風景を描いた数少ない作品のうちの一つである。メアリーはこの絵の中に、ドガからもらったベルギー産のグリフォン犬バティーも描いている。」 モデルのスーザンは、メアリーの家政婦・マチルドの従妹と推定されている。 |
ブリュッセル・グリフォン |
そしてこのグリフォン犬に関してなのですが、メアリー・カサットの時代の450年以上前のベルギーで、この犬を描いた絵が制作されているのです。それは、西洋美術史では「超」がつくほど有名な絵画です。
ファン・エイク:アルノルフィーニ夫妻の肖像
ヤン・ファン・エイク
「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(1434) (National Gallery。London) |
ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある『アルノルフィーニ夫妻の肖像』(1434)は、ヤン・ファン・エイク(1390頃 - 1441)の作品です。ファン・エイクはブルッヘ(仏語・英語名はブルージュ。現在のベルギー、当時はフランドルの都市)を中心に活躍した画家です。ファン・エイクは西洋における油絵を完成させた人と言われていますね。精緻に描くその技法は、のちの西洋絵画に多大な影響を与えました。
メアリー・カサットのグリフォン犬は彼女のペットでした。では『アルノルフィーニ夫妻の肖像』のグリフォン犬もペットなのでしょうか。どうもそれは違うようなのです。
神戸大学准教授で美術史家の宮下規久朗氏の著書『モチーフで読む美術史』(ちくま文庫。2013)には『アルノルフィーニ夫妻の肖像』を解説して次のように書かれています。
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宮下先生の解説にあるように、この絵において「犬」は特定の意味をもつシンボルとして描かれています。そして西洋の絵画における動物や生物は、主題(この絵の場合夫妻、ないしは夫妻の結婚)を補足するサブの存在として描かれ、かつ「シンボル」として使われることが大変に多いのです。
西洋画における生物
『アルノルフィーニ夫妻の肖像』に典型的にみられるように、西洋画における「生物」は、まず「シンボル」として描かれるケースが思い浮かびます。宗教画(キリスト教絵画)では数々の「象徴」があります。鳩は聖霊の象徴で、平和の象徴でもあるというたぐいです。聖人の持物(じもつ = アトリビュート)としての生物もあります。つまり人物が誰かを見分けるための伝統的な道具や動物で、鶏が描かれていれば、そばの人物はペテロという感じです。
シンボルやアトリビュートとしての生物はいろいろあり、羊、驢馬、鴉、蛇、魚、百合、葡萄、石榴、棕櫚、などが思いつきます。こういったシンボルは宗教画以外にも進出しています。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」で、英国の画家・ミレイが「サン・バルテルミの虐殺」の当日を描いた作品を紹介しましたが、その絵のトケイソウ(Passion Flower)は受難の象徴でした。
ギリシャ・ローマ神話を描いた絵にも、神話に登場する動物や植物、果実がいろいろあります。鷲や雄牛がゼウスの化身だとか、林檎がヴィーナスの持ち物だとかです。
宗教・歴史・神話を離れて、一般的な寓意を表す生物もあります。『アルノルフィーニ夫妻の肖像』の犬は「忠節」の象徴でした。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したブリューゲルの「絞首台の上のかささぎ」では、かささぎが「偽善」や「告げ口」といった意味を持っていました。豚が「貪欲」の象徴のこともあります。
もちろん絵の主題の一部として描かれた生物もあります。乗馬や競馬や狩猟の情景の馬とか、風俗画における家畜や、家庭内のペット(犬や猫、小鳥)、牧場風景の牛や羊などです。
また、静物画の動植物もあります。獲物としての動物(兎、鳥、など)、肉、魚介類、野菜、果物(石榴、葡萄、林檎、梨)などです。花瓶の花や花束も静物画の一大ジャンルになっています。しかしフランス語で静物画のことを "nature morte"(=死んだ自然)と言うように、これらは生きているわけではありません。
西欧の絵画で生物が描かれるのは、上記のような「シンボル」「象徴」「主題の一部」「静物」というのがよくあるケースであり、生物そのものが主題という絵はそう多くはないようです。少なくとも、欧米の第1級の美術館ではあまり見かけないわけです。
日本の「生物画」
一方、日本の伝統的では生物を主役とする絵画が大きなポジションを占めています。ここで、静物画ならぬ「生物画」を次のように定義するとします。
生物画: 人間社会やその周辺に日常的に存在する動物・植物・生物の「生きている姿」を主題に描く絵。空想(龍、鳳凰)や伝聞(江戸時代以前の日本画の象・ライオン・獅子など)で描くのではない絵。生物だけ、ないしは生物を主役に描き、風俗や風景が描かれていたとしても、それは脇役である絵。 |
この意味での「生物画」が日本画には非常に多いわけです。
樹木は日本画の一大ジャンルになっています。「松」「梅」「桜」「竹」「柳」「楓」「桐」「椿」「槙」「柿」などは、繰り返し画題になってきました。
草花では、「朝顔」「杜若」「菖蒲」「花菖蒲」「牡丹」「紫陽花」「罌粟」「菊」「葵」「芙蓉」「百合」「藤」「つつじ」「桔梗」「芭蕉」などが思い浮かびます。「春・秋の七草」も画題の中心です。各種の「野菜」も描かれました。
鳥では、「鶏」「雀」「鴉」「鶴(光琳の群鶴図など)」「白鷺」「百舌」「鴛鴦」「孔雀」「鷹」「雁」「鴨」などでしょう。伊藤若冲は、かなりの数の鶏の絵を描いていますね。自分で飼育して観察したようです。
動物では、「犬」「猫」「猿」「鹿」「牛」「栗鼠」などです。江戸後期の森狙仙を開祖とする「森派」は、猿の絵で有名です。なお、虎は日本に生息しないので伝聞で描かれた絵が多いのですが、「虎」も超有力な画題です。
魚では、静物ではない生きた魚(水の中で泳ぐ魚)を描くのが日本画の特徴です。「鯉」「鮎」「鯰」「亀」(爬虫類ですが)などです。昆虫を描いた絵もあります。「蝶」「蛍」「蜻蛉」などです。
伊藤若冲の「動植綵絵」(最初にプルシアン・ブルーを使った作品。No.18「ブルーの世界」参照)は、こういった生物たちを総体的に描いた絵です。また、さまざまなモチーフを組み合わせた「花鳥図」「草木図」も、歴史上、多数制作されました。
No.30「富士山と世界遺産」で「特定の山を主題に描いた絵は西洋に少ない」と書きました。例外的に思い浮かぶのは(有名な画家では)セザンヌとホドラーぐらいだと・・・・・・。一方、日本では(近代以降は)全く逆です。これは昔から「山」を信仰の対象にしていた日本と、19世紀までは「山に名前をつけることさえ一般的でなかった」西洋との文化的相違と考えるのが妥当でしょう。
日本では「生物画」がメジャーであり、西洋ではそうではないということについて、安易な解釈をするのは禁物ですが、やはり「永遠なるもの」「神聖なるもの」を何に感じるかという、人の心の相違だと考えられます。
西洋における「生物画」の傑作
しかし、よくよく考えてみると「野生動物を主題にした西洋絵画はあまり思い当たらない」というのは速断すぎました。西洋絵画にも「生物画」はあり、野生動物の絵もあります。絵というのは主題の自由さ(何でもよい)が特長なのです。
西洋絵画の「生物画」の何点かの絵、特に印象的な絵画を(個人的主観で)あげてみます。まず最初は、カサットやファン・エイクの作品に描かれていた犬で、犬だけを描いた作品です。
 犬  |
トマス・ゲインズバラ(1727-1788)
「ポメラニアンの親子」(1777頃) (テート・ギャラリー) |
18世紀イギリスの画家、ゲインズバラがポメラニアンの親子を描いた作品です。テート・ギャラリーの公式サイトによると、ゲインズバラの友人にエイベルというヴィオラ・ダ・ガンバの名手がいて、二人で演奏することもあった。この絵は音楽のレッスンを受けた謝礼に、エイベルの飼い犬を描いたもの、とあります。
親犬は何かの物音に気づいたように、耳をたて、左の方向を凝視しています。一方の子犬は、親犬とは無関係に下の方の何かに気を取られています。その2匹を対比させた描き方がうまいと思います。立派な毛並みは、いかにも上流階級の飼い犬といった雰囲気です。
エドゥアール・マネ(1832-1883) 「タマ、日本犬」(1875頃) |
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー) |
イタリア出身の政治家・銀行家で東洋美術コレクターだったアンリ・セルヌッシ(チェルヌスキ)の愛犬、タマを描いた作品です。日本犬というタイトルのとおり、この犬は日本原産の狆です。セルヌッシは日本に旅行し、この犬を持ち帰りました。タマの前に転がっているのは日本人形のようです。
1世紀前のゲインズバラの絵と比べると、マネのこの絵は19世紀後半の絵画らしくスピーディで荒い筆致で描かれています。それによって、小型犬のすばしっこい様子や、舌を出したり、きょろきょろと辺りを見たりといった愛らしさが表現されています。
日本人的感覚から言うと「タマ」は猫の名前ですが、この場合のタマは日本語の "玉" で、宝石の意味のようです。飼い主はこの犬をたいそう可愛がったようで、ルノワールにもマネと同時期にタマの絵の制作を依頼しています。分かりにくいですが、TAMAと絵の左上に書いてあるのもマネの絵と同じです。
ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919) 「タマ、日本犬」(1876頃) |
(クラーク美術館:米・マサチューセッツ州) |
なお、マネの描いた犬の絵では他に『キング・チャールズ・スパニエル犬』があります。この絵もまた、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの所蔵です。イギリス原産の犬で、その名のとおりイギリス王室の愛玩犬でした。
エドゥアール・マネ 「キング・チャールズ・スパニエル犬」(1866頃) |
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー) |
 クールベの野生生物  |
フランスの画家、ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は「生物画」を描いています。画題としては、鹿、狐、鱒、樫の木などがあり、野生生物を描いているのが特長です。その「鹿」と「樫」の例を下に掲げます。
鹿を画題とする絵は何点かあって、野生の鹿、追われる鹿、死んだ鹿と、狩猟という視点での一連の作品があります。下に掲げたブリジストン美術館の絵も狩猟で追われている鹿を描いたのでしょう。また、東京の国立西洋美術館には『罠にかかった狐』という絵がありますが、これらの絵をみても「狩猟画の延長、ないしは変型としての動物画」という感じです。
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877) 「雪の中を駆ける鹿」(1856-57) (ブリジストン美術館) |
ギュスターヴ・クールベ 「フラジェの樫の木」(1864) (クールベ美術館) |
西欧にも木を描いた絵がありますが、多くは風景の一部としての木、ないしは森や林の情景の中の木であり、樹木だけを主体的に描いたものは少ないと思います。このクールベの樫の絵は、巨木の存在感を描くことに徹したものです。
余談ですが、上の絵の「樫」と訳されている絵は、原題では「Le Chêne de Flagey(The Oak of Flagey)」です。Chêne(Oak。オーク)はコナラ属の木の総称ですが、日本語でそれに相当する樹は、樫(常緑性)や楢(落葉性)です。ヨーロッパのオークは多くが落葉性で、クールベが描いた樹も絵からすると日本で言う「楢」ですね。オークは古代ヨーロッパから神聖な樹とされてきました。
余談の余談になりますが、No.72「楽園のカンヴァス」の「補記」で紹介したアンリ・ルソーの「樫の枝」というデッサンも、そこに描かれている枝と葉とドングリは明らかに日本で言う楢の木です。 |
クールベは絵画史で「写実派」とされています。要するに「想像では描かない」わけです。その画題は、人物、自画像、風俗(葬儀の場面、画家のアトリエ、など)自然の風景、海岸に打ち寄せる波、石割り人夫、ヌード、女性の下半身(オルセー美術館の有名な絵)と多岐に渡っていて、そういった「写実の目」は野生生物にも向けられたわけです。
 樫  |
クールベの樫の絵を引用したので、別の樫の絵を掲げます。ロシアの風景画家、シーシキンの作品です。
イワン・シーシキン(1832-1898)
「樫の木立、夕刻」(1887) (トレチャコフ美術館) |
シーシキンは、特に樫の木立や森をテーマにすることを好んだようです。その中でもこの絵は "樫の大木そのもの" を描こうとしています。一般に森や林を描いた風景画には樹木が描かれますが、それはあくまで「風景の一部としての樹木」です。そうではなく「樹木そのものに焦点を当てて描く」ということには意味があると考えられます。
つまり我々は大木や巨木に出会うと、人間の寿命よりはるかに長い時間(数百年、時には1000年以上)をかけて成長し、風雪に耐えて生きながらえ、現在も成長を続けているという実感を持つことができます。木に触れたり叩いたりしてもビクともせず、そこに屹立している。その重量感と実在感に圧倒されるわけです。さらに、最初はごく些細な芽生えであったはずのものが長い年月の間に数10トンもの巨大な存在になるという "生命の不思議さ" を感じ、そこまでになる植物の生命力に打たれることにもなります。
それが高じると「人智を遙かに超えたもの」を感じてしまい、神聖なものとしてとらえることになります。日本の古来の伝統では、大木や巨木に神が宿る(ないしは降臨する)という概念があり、注連縄と紙垂をつけた大木・巨木が至る所にあります。こういった感性は程度の差はあれ、森林が多い地域に発生した文化に共通です。
クールベとシーシキンの絵を見て思うのは、画家が樹木そのものを描こうと思った動機が、上に述べたような感性(のどれか)にもとづくのではないかということです。さらに思うのは、大木や巨木に向き合ったときに人が覚える感動とか感慨をカンヴァスに表現するためには、リアリズム絵画の手法こそ有効だということです。印象派以降の絵画手法ではそうはいかないでしょう。シーシキンのこの絵は、パリで印象派が全盛の頃に描かれたものですが、改めてリアリズム絵画の意味を考えされられます。
 馬  |
馬は西洋では非常になじみのある家畜です。現在でもヨーロッパの都市の大きな公園に行くと、乗馬している人とすれ違ったりします。公園に乗馬道があるのです。
そういった文化的伝統からか、馬を描いた絵もいっぱいあります。多くは人が騎乗した姿ですが、狩りの情景や競馬のシーンなどの「風俗画」もあります。下の絵はフランスの女性画家、ローザ・ボヌール(1822-1899)の『馬市』(1853)という作品。メトロポリタン美術館の「人気コーナー」であるヨーロッパ近代絵画の展示室にあり、幅5メートルという巨大な絵なので、いやがおうでも目につきます。メトロポリタン美術館を訪れた日本人は多いと思いますが、(この絵は展示替えがないだろうという前提で)ほぼ全員が目にしているはずの絵です。
この絵はパリ郊外の「馬市」を描いた一種の「風俗画」ですが、馬を描くこと自体が目的という感じがします。
ローザ・ボヌール(1822-1899) 「馬市」(1853) (メトロポリタン美術館) |
馬だけを描いた絵もあります。フランスの画家、テオドール・ジェリコーやエドガー・ドガは馬そのものを主題とした作品を制作しています。またボヌールも馬だけの絵を多数描いています。
馬だけの絵で最も印象深いのは、英国の画家、ジョージ・スタッブス(1724-1806)が描いた『Whistlejacket』(1762頃)で、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』と同じく、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているものです。Whistlejacket という名前の競争馬を描いたものですが、3m × 2.5m という大きなカンヴァスに、背景なしで馬だけが描かれています。スタッブスの絵はこれしか見たことがないのですが「馬の画家」と呼ばれていて、馬をかなり描いているようです。
ジョージ・スタッブス(1724-1806) 「Whistlejacket」(1762) (ロンドン・ナショナル・ギャラリー) |
ロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れると、この絵がやけに印象的です。私の経験からですが「ロンドン・ナショナル・ギャラリーにおいて、予備知識が全く無いという前提で鑑賞して、最も印象的な作品」ではないでしょうか。要するに、こういうタイプの絵が珍しいからインパクトが強いのだと思います。
なお、ジョージ・スタッブスは馬だけでなく、動物園で観察したライオンやカンガルーをはじめ、各種の動物を描いたようです。また『馬市』のローザ・ボヌールも、牛・羊・山羊・狐・鹿・犬といった動物の絵を多数描いています。
動物画を描くということにおいてスタッブスはボヌールの「先輩」にあたるわけですが、さらにその先輩がいます。オランダの画家、パウルス・ポッテル(1625-1654)です。ポッテルは牛や馬といった家畜を多数描いています。
パウルス・ポッテル(1625-1654)
Le Cheval Pie(まだら馬)
(ルーブル美術館)
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この絵はルーブル美術館のフランドル絵画のエリアにある、Le Cheval Pie(英語題名は The Spotted Horse。まだら馬)と題する絵です。ボヌールやスタッブスの絵とは違って、この絵は 40cm×30cm という小品です。しかし斑の馬の確かな造形が光っています。ボヌール、スタッブス、ポッテルのように動物画を主体に描いた画家は、私が知らないだけで、もっとあると想像されます。
 牛  |
牛については「馬市」と同じく、ローザ・ボヌールが印象的な絵を描いています。オルセー美術館の「ニヴェルネー地方の耕作」という絵です。
ローザ・ボヌール(1822-1899) 「ニヴェルネー地方の耕作」(1849) (オルセー美術館) |
これは「農村風景」を描いた絵ですが、オルセー美術館で実際に見ると、明らかに牛を描くことが目的の絵だということがよくわかります。幅2.6メートルの大きな絵で、牛の力強さが迫ってきます。パリを訪れる日本人の大多数はオルセー美術館に行くと思うので、この絵も「馬市」と同じく(展示替えがないだろうという前提で)多くの人が目にしているはずの絵です。
牛を描いた絵では、オランダの首都、デン・ハーグに傑作があります。
デン・ハーグ : マウリッツハイス美術館
◆ | デルフトの眺望(1660頃) | |
◆ | 真珠の耳飾りの少女(1665頃) |
は超有名作品です。フェルメール作品は「傑作」と「普通の絵」の2つに分かれると思うのですが(どんな画家でもそうですが)、この2つは傑作中の傑作でしょう。
その他の作品ですが、レンブラント(1606-1669)の
◆ | テュルプ博士の解剖学講義(1632) |
も有名な絵画です。
しかしこの美術館の「みどころ」は他にもあります。それは、同じ年に30歳前後で夭折した二人のオランダ人画家が描いた「生物画」です。
一つは、ルーブルの馬の絵を描いた、パウルス・ポッテルの『雄牛』(1647)です。この『雄牛』は2.5m×3.5m程度の非常に大きな絵で、中心に描かれた雄牛は実寸大です。雄牛の生命力が大変な迫力で迫ってくる絵です。
パウルス・ポッテル 「雄牛」(1647) (マウリッツハイス美術館) |
もう一つの作品は、カレル・ファブリティウス(1622-1654)の『ごしきひわ』(1654)です。ポッテルとはうってかわった 33.5cm×22.8cm という小さな作品で、ペットとして飼われていた小鳥(足に鎖がついている)をシンプルに描いています。壁が背景なので、この絵を家の壁に飾っておくとあたかも小鳥がそこにいるような感覚になるでしょう。一種のだまし絵的な要素のある絵ですが、造形の確かさと美しい色使い、小鳥の部分の軽やかな筆運びが印象に残る作品です。
カレル・ファブリティウス 「ごしきひわ」(1654) (マウリッツハイス美術館) |
動物画の画家
今まで引用したなかに、主に動物画を描いた画家がいます。年代順にあげると、
1625-1654 | ||
イギリス | 1724-1806 | |
フランス | 1822-1899 |
の3人です。活躍した世紀も国も違いますが、こうしてみるとヨーロッパには動物画の歴史や流れがあることが推測できます。そうした画家の一人が、スウェーデンのリリエフォッシュです。スウェーデンの画家というと、我々はカール・ラーション(1853-1919)ぐらいしか知らないのですが、リリエフォッシュも本国では有名な画家のようです。
ブルーノ・リリエフォッシュ(Bruno Liljefors、1860-1939)は19世紀末から20世紀初期にかけて活動した画家で、動物画を得意としていました。彼の動物画の多くの特徴は、
野生動物の | |
野生の環境における | |
野生の生態を描く |
というものです。もちろん動物を描くためには観察が必要です。画家は自然の中に家とアトリエを建て、野生動物を捕獲してケージで飼育し、その観察をもとに描きました。あるいは、狩猟の獲物を観察して描くこともしたようです。私は実物の絵を見たことがないのですが、リリエフォッシュの2作品を引用します。
ブルーノ・リリエフォッシュ (1860-1939) 「キツネたち」(1885) |
(イェーテボリ美術館) |
一見するとキツネは1匹のようですが、右端に寝そべっているもう1匹がいます。おそらく画家はキツネの習性を観察し、2匹のこの瞬間を絵にしたのだと思います。
季節は秋で、背景は色づき始めた木の葉で埋め尽くされています。その中に小鳥が3羽、配置されている(コガラだと思います)。自然の中のキツネという雰囲気を盛り上げています。
イェーテボリ美術館の解説によると、このキツネは同じ年の春に生まれた若いキツネとのことです。いかにも柔らかそうな、ふさふさした毛並みがそれを表しています。
ブルーノ・リリエフォッシュ 「鷹と黒い獲物」(1884) |
- Hawk and Black-Game - (スウェーデン国立美術館) |
オオタカの幼鳥が雷鳥(クロライチョウ)を襲った瞬間を描いています。真冬の、あたり一面に雪が舞う中で、オオタカが雷鳥の群を狙い、その中の一羽を襲う。オオタカの右下に描かれているのはクロライチョウの雌でしょう。雌は黒ではなく茶色をしています。オオタカが "つがい" のクロライチョウを襲ったという想定です。
スウェーデン国立美術館の解説によると、リリエフォッシュは狩猟でしとめたオオタカの幼鳥とクロライチョウを林の中に持って行き、この絵をすべて戸外で描いたそうです。もちろんそれだけでは、この絵の迫真の感じは出せないでしょう。画家はオオタカが獲物を襲う瞬間をよく観察したのだと思います。その観察の成果が現れているようです。
雪が舞い、クロライチョウの群が逃げ出す背景は、淡い色使いの幻想的な描き方です。その中で、狩りの瞬間が極めてリアルに描写されている。その対比も光っていると思います。
ウィーン : アルベルティーナ美術館
まず、有名な『野兎』(1502)です。水彩・グアッシュで紙に描かれた25cm程度の小さな絵ですが、ウサギの毛の細密描写が見事です。
アルブレヒト・デューラー 「野兎」(1502) (アルベルティーナ美術館) |
さらにこの美術館では、同じデューラーの『芝草』(1503)が非常に印象的な作品です。『野兎』と同じく水彩・グアッシュの絵で、40cm ×31.5cm の大きさです。描かれているのは芝草、イネ科の植物らしい草、タンポポ、アザミなど、日常生活の周辺のどこにでもありそうなものです。日本でも十分にありうる光景と言っていいでしょう。
アルブレヒト・デューラー 「芝草」(1503) (アルベルティーナ美術館) |
西欧では「ボタニカル・アート」という絵のジャンルがありますね。花や草などの「植物だけを背景なしに描いた絵」ですが、ボタニカル(=植物学)というだけあって記録ないしは学術的意味に重点が置かれている絵です。
しかしデューラーの『芝草』はボタニカル・アートではありません。描かれているのは、どこにでもある「雑草」です。その雑草に目を向け、一つの作品(素描)に仕上げた画家の「目」に注目したいと思います。
ひるがえって考えてみると、実は「雑草」は日本画の伝統的なモチーフです。一つだけ例をあげると、たとえば酒井抱一(1761-1829)の『夏秋草図屏風』(1821。東京国立博物館所蔵)です。
酒井抱一 「夏秋草図屏風」(二曲一双。1821) (東京国立博物館。重要文化財) |
日本では春の七草、秋の七草などと言われます。これらの草の中で、桔梗や撫子などの可憐な花をつける草はともかく、春のセリ、ナズナ、ハコベ、秋のフジバカマ、クズ、オミナエシなどは、その草の名前を知らない人にとっては「雑草」としか見えないでしょう。しかしそういった草に名前をつけ、年中行事に使い(七草粥など)、画題にもしてきたのが日本の文化的伝統です。
デューラーの『芝草』、そして『野兎』を見て感じるのは、日本画にも通じる画家の目です。文化はいったん確立すると拡大・再生産されます。一方では生物を画題とする絵が綿々と作られ、他方では宗教画や人物画が自律運動的に広がっていく。しかしそういった文化的伝統の相違を除いてみると、「画家の目」は日本でも西欧でも似ているのではないか・・・・・・。デューラーの絵をみたとき、そういった思いに駆られました。と同時に、絵画は「何を描くか」もあるが「どう描くか」が重要である・・・・・・。デューラーと抱一の絵で感じるのはそのことです。
ゴッホ
近代以降の画家で "生物画" を多数描いたのは、ゴッホが一番でしょう。その画題は、
果樹(モモ、スモモ、梨、アーモンド、など) | |
樹木(マロニエ、ライラック、糸杉、オリーヴ、など) | |
花(アイリス、薔薇、ポピー、など) | |
草、麦の穂 |
などです。果樹や樹木の絵では、花が咲く頃を描いたものが多くあります。またこれ以外に、数は少ないですが、鳥(カワセミ)や昆虫(蛾、蝶)を描いた作品もあります。
花に関して言うと、もちろんゴッホは静物画としての花の絵(=花瓶に飾られた切り花の絵)を多数描いていますが、それとあわせて大地に生えている草や木に花が咲いている姿を画題として描いている。生命の息づかいを描いたということで、画家として特徴的だと思います。その例を引用したいのですが、ゴッホの "生物画" は多数あります。何をあげるか迷うのですが、アイリスの絵にします。
フィンセント・ファン・ゴッホ (1853 - 1890) 「アイリス」(1889) |
(米:ゲティ・センター) |
アイリスは日本で言うアヤメです。ないしはアヤメ属の花を指すものとすると、「アヤメ」「ハナショウブ」「カキツバタ」「イチハツ」などです(そもそもこれらの種は見分けにくい)。
アヤメ類は日本画では定番の画題の一つで、誰しも思い出すのは尾形光琳の「燕子花図屏風」(根津美術館)でしょう。日本画と比較してみるのもおもしろいと思います。
このゴッホの作品はサン・レミの療養院の時代の絵です。群生するアヤメが、ゴッホらしい鮮やかな色彩で生き生きととらえられています。この絵から受ける印象は、あでやかで大ぶりの花をつけるアヤメの生命力です。それを描きたかったのだと思います。
モネ
ゴッホと同時代の画家では、モネが花や樹木の "生物画" を描いています。もちろん有名なのは『睡蓮』を描いた一連の(数百の)作品です。ただこの連作のほとんどの作品は "睡蓮の池" に焦点があり、特に時間や天候によって千変万化する様子を描いています。睡蓮の花だけを描いた作品もありますが一部です。というわけで「睡蓮シリーズ」はここでは割愛します。
睡蓮以外に目を向けると、モネは、アイリス、バラ、リンゴの花、クレマティスなどを描いています。その中からゴッホつながりで、国立西洋美術館が所蔵するアイリスの絵を次に引用します
クロード・モネ(1840-1926) 「黄色いアイリス」(1914/7) |
(国立西洋美術館) |
この絵について、国立西洋美術館のサイトには次のような説明がしてありました。
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確かにこの絵は装飾性が強く、縦長の大画面は日本趣味を感じさせます。一方、同じ黄色いアイリスの絵で全くイメージの違った絵がパリのマルモッタン・モネ美術館にあります。
クロード・モネ 「黄色いアイリス」(1917/9) |
(マルモッタン・モネ美術館) |
マルモッタン美術館というと『印象・日の出』で有名な美術館ですが、この絵も記憶に残る絵です。その理由は "アイリスと空" という取り合わせでしょう。樹木の花と空という組み合わせならともかく、草花と空を描くのは日本画にはあまりありません。そもそも日本画には空を描いた絵が少ない。一部の浮世絵だけでしょう。
というわけで、この絵は国立西洋美術館の絵の "日本趣味" とは全く違っています。アングルも地表からアイリスを見上げたような構図になっていて、モネならではの作品だと思います。
モネは若い時に、鳥を主題にした作品を描いています。それが次の『七面鳥』です。
クロード・モネ 「七面鳥」(1876) |
(オルセー美術館) |
画題もめずらしいが、正方形のカンヴァスも一般的ではありません。これは、当時モネのパトロンだった美術愛好家、エルネスト・オシュデの注文で、パリ郊外のモンジュロンにあったオシュデの別荘を飾るために描かれた作品です。別荘に放し飼いにされていた七面鳥を描いています。
木陰に10数羽の鳥がいますが、描き方は木々や草むらと似ていて、庭の風景の一部になっているような感じを受けます。正方形のカンヴァスも含めて、別荘の壁にかける装飾画ということが関係しているのでしょう。
生物を描く
以上、20世紀初頭までの作品をあげましたが、もちろん現代作家も "生物画" を描きます。実際に見たことのある現代作家の絵で印象的だったのは、スペインの具象画家、アントニオ・ロペス(1936 -)の『マルメロの木』(1990)です。この絵は日本での「アントニオ・ロペス展」に出品されました(Bunkamura ザ・ミュージアム。2013.4.27 - 6.16)。アントニオ・ロペスは制作時間が長いことで有名で、この絵も「晴れた日の午前中の決まった時間」に少しずつ描くわけです。マルメロの実や葉の白い線は、実際に画家がマルメロにつけた線です。なぜ線をつけるのかと言うと、描いている期間で実が熟して枝が垂れ下がり、全体のバランスが変化してくる。その初期配置を記憶するための線ということらしい。結局、この絵は未完だそうですが、たわわに実ったマルメロと長時間向き合おうとする画家の執念が現れているようです。
アントニオ・ロペス(1936-) 「マルメロの木」(1990) |
(フォクス・アベンゴア財団) - Wikimedia Commonsより画像を引用 - |
以上のように、いろいろ思い出して(かつ確認して)みると、西洋絵画にも動植物を主題にした「生物画」はいろいろあることが認識できます。著名な画家も描いているし、実際に実物を見た絵もいろいろある。なぜ「生物画」はあまりないと(No.85「洛中洛外図と群鶴図」で)思ってしまったのか。
日本画の伝統では「生物画」が主流(の一つ)です。一方、西洋の伝統的な具象画では、宗教・歴史・神話・人物・風景・静物といった画題が主流です。当然、その主流に沿って絵が注文され、画家は画題を選び、絵が取り引きされ、美術館のコレクションがなされ、展示する作品がセレクションされ、美術教育があり、アートに関するジャーナリズムも作られる。われわれ一般人のモノの見方も、その「主流」に添って形成されるわけです。
我々は「見たいと思うものを見る」のであり「見たいと思わないものは見えない、ないしは意識に残らない・残りにくい」のでしょう。どうも、そういうことだと思われました。
日本画
デューラーの『芝草』のところで酒井抱一の絵を引用したので、最後に日本画をもうひとつ引用します。クールべが雪景色の中の鹿を描いた絵を前に掲げましたが、同じ雪景色の中の鹿を描いた日本画です。
川合玉堂(1873-1957) 「冬嶺孤鹿」(1898) (山中湖高村美術館) |
美術年鑑社「川合玉堂の世界」(1998)より画像を引用 |
川合玉堂という人は、古今東西の著名画家の中でも最もデッサンが上手な画家の一人だと思います。この絵を見るとそれがよく分かる。玉堂が20歳台の作品で、上京した直後あたりのものです。我々がよく目にする玉堂作品というと「日本の自然や風景の中に溶け込んだ人の営み」的なテーマが多いのですが、この絵はそのテーマに至る前の作品であり、1頭の鹿を描くという日本画ではよくあるものです。しかしそれだけに純粋に画力が現れていると思います。
 補記1:ローザ・ボヌール  |
本文中にローザ・ボヌールの『馬市』と『ニヴェルネー地方の耕作』を引用しましたが、この2つの作品の詳しい解説を、
No.266 - ローザ・ボヌール
に掲載しました。
(2019.8.23)
 補記2:ゴッホの生物画  |
本文中にゴッホの『アイリス』の画像を引用しましたが、そこでも書いたようにゴッホは多数の "生物画" を描いています。その主なものを、
No.292 - ゴッホの生物の絵
に掲載しました。
(2020.8.22)
 補記3:ロヴィス・コリント  |
国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。この作品は、本文に引用したクールベの作品と比較してみるのがよさそうです。
ロヴィス・コリント(1858-1925) 「樫の木」(1907) |
- Der Eichbaum - |
(国立西洋美術館) |
ギュスターヴ・クールベ 「フラジェの樫の木」(1864) (クールベ美術館) |
2つの作品とも1本の樫の木だけを描いています。そして画家の目的は「樹木のもつ生命力」をカンヴァスに描き出すことだと感じます。しかし、その生命力の表現方法は2つの絵で違います。
クールベの作品は巨大な幹を丹念に描いているように、数百年の時を経てなお屹立し、生き続ける巨樹の生命力を描いているようです。
一方のコリントの作品は木全体に葉をまとった姿であり、無数の葉をつける木の生命力を表現しています。クールベもコリントも「樫」というタイトルがついていますが、英語で oak、フランス語で chêne、ドイツ語で eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉性の木です(日本語では常緑性の樫と落葉性の楢を使い分ける)。
冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを描いたものでしょう。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。
(2020.10.07)
 補記4:オーク  |
本文のクールベの『フラジェの樫の木』のところと「補記3」で、ヨーロッパでオーク(英語で oak、フランス語で chêne、ドイツ語で eiche)と呼ばれる木は、和学名はヨーロッパナラであり、日本語に訳す場合は楢とすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉性の樹木です。コナラ属の常緑性の木を日本では樫と言いますが、たとえばイタリアなどには常緑性のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。
オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。
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「樫」という木は固すぎて家具に加工するのはむずかしい、とありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合は、その堅さを生かして樫が使われます。木偏に堅いという漢字の通りです。
鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきます。稲本氏がなぜ岐阜の工芸村にオークという名前をつけたかと言うと、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。
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国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。
(2020.10.07)
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2013-09-06 20:31
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