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No.90 - ゴヤの肖像画「サバサ・ガルシア」 [アート]

No.86-87 の

 ◆ ドガとメアリー・カサット
 ◆ メアリー・カサットの「少女」

でメアリー・カサット(1844-1926)が描いた絵を何点か取り上げました。そのときに書いたのですが、彼女は30歳になる前にスペインに滞在し、スペインの巨匠の絵を研究し、模写をし、また自らも絵の制作に励みました。その彼女に影響を与えた画家の一人がフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)です。今回はそのスペイン絵画の巨匠・ゴヤが描いた一枚の絵について書いてみたいと思います。

NGA.jpg
National Gallery of Art
( Washington DC )
No.87「メアリー・カサットの少女」で『青い肘掛け椅子の少女』(1878)の感想を書きましたが、この作品を所蔵しているのはアメリカの首都・ワシントン DC にあるナショナル・ギャラリー(National Gallery of Art)でした。その同じ美術館に、ゴヤが描いた一人の女性の肖像画があります。『セニョーラ・サバサ・ガルシア』という作品です。私はワシントン・ナショナル・ギャラリーに一度だけ行ったことがあるのですが、そのときにこの絵は展示してあり、実物を鑑賞することができました。


『セニョーラ・サバサ・ガルシア』


Sabasa Garcia.jpg
フランシスコ・デ・ゴヤ
セニョーラ・サバサ・ガルシア
(c. 1806/1811 71×58cm)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

西欧絵画史の巨匠・ゴヤはいろいろなジャンルの絵を書いています。スペインの宮廷画家だったので、もちろん王侯貴族の肖像画を描いているし、誰もが知っている「裸のマハ/着衣のマハ」もある。「戦争の惨禍」のような作品もあるし、最晩年には「黒い絵」シリーズを描いています。しかし、肖像画に限って言うと『セニョーラ・サバサ・ガルシア』が最高傑作だと思うのです。なぜそう思うのかが今回のテーマです。

ちなみに「セニョーラ」は既婚女性ですね。日本語で言うと「サバサ・ガルシア夫人」でしょうか。しかしそういう日本語は全くそぐわない絵の雰囲気です。16歳の時の肖像だと言います。結婚したてのようです。

すぐに分かることですが、この絵は徹底的にモデルだけを引き立たせるように描かれています。背景は暗い色で塗り潰されているし、頭から上半身と手にかけてヴェールやショールや衣装で覆われている。宝飾品のたぐいはいっさいありません。つけていたとしても隠されている。手のポーズはレオナルド・ダ・ヴィンチを意識して画家が指示したのでしょう。ひと言で言うと「スペイン美女の肖像」です。

しかしこの絵は「単に美女を描いただけの絵ではない」と感じられるのです。ここから以降の文章は絵から受ける印象であって、それは個人によって違うことを断っておきます。あくまで個人的印象です。



ポイントは描かれた彼女の表情です。この表情には、かすかな「陰」のようなものを感じるのですね。それはまず口もとの雰囲気です。また、じっと見つめる右目(向かって左)が見せる表情であり、左とは感じが違います。そもそも顔の左と右で微妙に表情が違うように見える。そのあたりに何となく「陰」を感じるのです。

No.87「メアリー・カサットの少女」において『青い肘掛け椅子の少女』に描かれた少女が

退屈で
何となく不機嫌で
もっと言うと、ふてくされている感じ

に見えることに関連して、以下のように書きました。

若い女性や少女をモデルした絵は、モデルの「ポジティブな感情や表情」を表したものが多いわけです。笑顔、微笑、真剣、清楚、可憐、おだやか、安心、幸福、信頼、大人の成熟や自信、母の愛情といったものです。それらとは反対の「ネガティブな感情や表情」、つまり、退屈、不機嫌、無気力、怒り、冷笑、悲哀、軽蔑、嫌悪、不安などを表した女性像は少ない。

ゴヤが描くサバサ・ガルシアは、青い肘掛け椅子に座っている少女とは違って、別に「ふてくされている」わけではありません。真剣そうな、普通の表情です。しかしその中に何となく、僅かにあるネガティブな感情を感じてしまうのです。そうだとしたら、そのネガティブな感情とは何かを以下に推測してみたいと思います。


伝説


この絵には、描かれた経緯に関する「伝説」があります。それをワシントン・ナショナル・ギャラリーのホームぺージを日本語訳して引用すると次の通りです。


セニョーラ・サバサ・ガルシアは、スペインの外務大臣だったエバリスト・ペレス・デ・カストロの姪である。言い伝えられた話によると、ゴヤが大臣の公式の肖像画を描いている時に、この若い女性が現れた。画家は彼女の美しさに打たれ、絵筆を止めて、肖像画を描く許可を求めた。

念のために原文を掲げると、以下の通りです。

Senora Sabasa Gargia was the niece of Evaristo Perez de Castro, Spain's minister of foreign affairs, for whom Goya was painting an official portrait when, according to an perhaps legendary anecdote, the young woman appeared. The artist, struck by her beauty, stopped work and asked permission to paint her portrait.

(National Gallery of Art, Washington DC)

"according to an perhaps legendary anecdote"とあるように、この話がどこまで本当なのかは分からないようです。しかしこの「言い伝え」の通りだとすると、どのような想像ができるでしょうか。たとえば次のような状況です。

外務大臣が自宅にゴヤを招き、書斎で肖像画を描いてもらっている。姪のサバサは、たまたま何かの用事で伯父の家に来ていた。

外務大臣の夫人は、サバサに書斎に飲み物を運ぶように頼み、そこで彼女が前触れなく画家の前に現れることになった。その姿を見て画家は大臣を描くことを中断した・・・・・・。

大臣にしてみれば、途中で描くのをやめてしまったゴヤを失敬だと思ったかもしれません。いやそうではなく、大臣にとってもサバサは「自慢の姪」だったので「ゴヤよ、やっぱりそうか」と思ったかもしれない。それは分かりません。しかし彼女のほうは間違いなく「とまどった」でしょうね。初対面の画家に肖像画を書きたいと、突如として言い出されるのだから・・・・・・。


かすかな「陰」


ここまでの想像をもとに、彼女の表情がみせるポジティブではない要素、かすかな「陰り」といったものの原因が何か、それを3つ推測してみたいと思います。

まず肖像画のモデルになることの「恥ずかしさ」や「恥じらい」が考えられます。ゴヤは宮廷画家です。その「スペイン最高の画家」に自分の姿をカンヴァスに描かれてしまう。現在なら、写真を撮られるのを恥ずかしがる若い女性はいないでしょう。しかし19世紀初頭のスペインでは違います。肖像画を描いてもらうというのは基本的に王侯貴族や裕福な一部の人たちであり、一般の人(しかも若い女性)はそういうことがないわけです。お金がかかるし、印象派の画家のようにスピーディに一気に描くというわけではないので、時間もかかる。サバサにとって絵のモデルになるのは生まれて初めての経験のはずです。恥ずかしいと思うのは当然だと考えられます。

2つ目は、肖像画のモデルを続けることが嫌だという感情です。「恥じらい」に加えてそういう感情があることが考えられる。「もういいでしょう、帰してください」と、かすかに哀願しているのかもしれません。16歳の彼女には夫がいます。気にならないはずがない。伯父の大臣に「モデルになってやりなさい」と言われて嫌々ながら承諾したのかもしれません。

3つ目に、ひょっとしたらありうると思うのは、画家に対するかすかな軽蔑です。彼女は自分の美しさを完全に自覚しているはずです。そして今まで、美人だというだけで言い寄ってくる男が数々いたのではないでしょうか。女性の外見だけからチヤホヤする男たち・・・・・・。彼女はそういった男たちを内心では軽蔑していたのかもしれない。そして、伯父の肖像を描いていた画家も、彼女の姿を見たとたんに絵筆を置いて「肖像を描きたい」と申し出たのです。ゴヤの場合はアーティストとしてのインスピレーションが働いたのだろうけれど・・・・・・。



もっといろいろ考えられると思いますが、とにかくそういったネガティブな感情を彼女は内心抱いていて、それが微かな表情となって現れ、見る人に単純ではない印象を与え、それが絵に引き込まれる要因になっているのだと感じます。


肖像画の傑作


肖像画の名作と言われる絵は、まずモデルの特徴(ないしは部分的な特徴)を的確にとらえていて、平たく言うと「似ている」「そっくり」と感じられる絵です。しかし昔の絵だと、どれだけ似ているかは現代の我々には分かりません。「似ている」「そっくり」は、基本的には同時代作家の作品でしか評価できない。

絵が描かれた時期にかかわらず、肖像画の傑作と言われる絵に共通しているのは、鑑賞する人に「描かれた人物の性格や内面を感じさせる」ということです。その典型が、No.19「ベラスケスの怖い絵」の冒頭に掲げた『インノケンティウス十世の肖像』(1650)です。中野京子さんは著書の「怖い絵」の中でこの絵を評して、

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

と断言しています。そこまで書いてしまっていいのかと思うぐらいですが、それだけ人物の内面や性格をあらわにした(と、見る人に感じられる)絵だということです。

時代が下っても「人物の内面や性格を感じさせる絵」はいろいろあります。ほとんど肖像画しか描かなかった画家にモディリアーニがいますが、線と色が非常にシンプルにもかかわらず人の内面を感じさせる絵が多い。農夫を描いた絵を見ると「この人は勤勉で、実直で、穏やかな性格だ」と思ってしまう・・・・・・、そういった具合です。

東洲斎写楽が役者を描いた浮世絵もそうです。人物の性格(ないしは、歌舞伎の役の上での人物の性格)を的確に表現したと感じられるものが多々ある。

ベラスケスとモディリアーニと東洲斎写楽では、文化背景が違い、時代も違い、描き方も、写実の度合いも、線の使い方も全く違うのですが、肖像画の傑作が人物の内面を感じさせる、という点についてはかなり共通していると思います。

しかし肖像画の傑作と言われる絵には、人物の内面を感じさせるという以上に、別の観点で素晴らしい絵があります。それは、モデルとなった人が見せる微妙な表情が描かれていて、その描写力で傑作と言われる作品です。単にポジティフな表情でもないし、ネガティブというわけでもない。複雑で奥深い表情の絵です。その典型がレオナルド・ダヴィンチの『モナ・リザ』ですね。微笑ほほえんではいるが、単なる微笑ではない(と思える)。見る人は何か奥深いものを感じてしまい、それが何かは謎でもある。謎を通り越して「崇高」とか「神秘」というようなイメージを人に与える絵です。

人は人の表情に極めて敏感に反応します。笑いの中に僅かに異質なものがあっても、それを感じてしまう。笑顔にもかかわらず「眼は笑っていない」などと言いますよね。人は笑顔だと眼が細くなる。その細くなり具合が少しだけ足りない。だから眼は笑っていない・・・・・・。たとえばそういうたぐいの微妙な「感じ」です。人は人とコミュニケーションをしないと生きていけないのですが、その手段は「言葉」に加えて「表情」です。

人が見せる表情の奥深さや微妙さ、複雑さ。それを描きえたという意味で『セニョーラ・サバサ・ガルシア』は肖像画の傑作だし、ゴヤの肖像画では最も優れた作品だと思います。『インノケンティウス十世の肖像』(No.19「ベラスケスの怖い絵」)を描いたベラスケスの天才ぶりは言をまたないのですが、ゴヤの画力もずば抜けている。

さきほども書いたように、この作品は明らかにダ・ヴィンチのモナ・リザを意識して描かれています。女性の年齢は違いますが、二人とも既婚者です。人が見せる表情の複雑さを描いたということも考慮して、この絵を「ワシントンのモナ・リザ」と呼んでもいいでしょう。

そして思うのですが、人が見せる表情の複雑さを描くことによって傑作といえる肖像画は、19世紀以前に確立した西欧絵画技法で可能な表現なのですね。印象派以降の絵になるとそういう絵はあまり思い当たらないし、日本画にもない。性格描写で傑出した絵はいろいろあるけれども・・・・・・。その理由は、絵画における「リアリズム」や「細密な描写」がないと(=絵を見る人がリアルだと思える描写がないと)人が見せる微妙な表情は描きにくいからです。その意味では、現代日本の「超リアリズム」の画家にそういった作品があるのは注目すべきだと思います。

リアリズムから離れることで得られるものも大きいが、そのことによって失われるものもあり、リアリズムでしか出来ないこともある。ゴヤの『セニョーラ・サバサ・ガルシア』を見て、改めてそう思います。




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