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No.89 - 酒を大切にする文化 [文化]

No.31「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」でワイン(赤ワイン)の話を書いたのですが、そこからの連想です。

No.31で書いたのは、イタリアワインである「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」をたまたま飲む機会があり、その味に感動し、それ以降「ワイン好き」になったという経緯でした。しかし「ワイン好き」の理由は、単に味や香りが好きということだけではないと自己分析しています。その他の理由として、

  ◆ ワインは(主として)食中酒である
  ◆ ワインを大切にする文化がある

の2点が大きいと思っているのです。

食中酒というのはもちろん「酒が料理を引き立て、料理は酒のおいしさを増すという相乗作用を引き出す酒」ということです。これが食事の楽しみを倍加させる。ワインと食事の「マリアージュ(=結婚)」などと言います。No.12-13「バベットの晩餐会」では

 ・ヴーヴ・クリコ 1860(白・発泡性)
 ・クロ・ヴージョ 1845(赤)

が食中酒として使われていました。もちろんバベットの故郷であるフランスのワインです。

ワインを大切にする文化というのは

ワインの造り手
レストラン関係者(シェフ、ウェイター、ソムリエなど)
ワインの流通にかかわる様々な人々や組織(ショップ、評論家、ジャーナリズムなど)
ワインの消費者

のそれそれが、品質の良いワインをはぐくみ、楽しむという点において、それぞれの立場から多様な工夫を積み重ねたきた歴史がある、という意味です。この、積み重ねられた厚みのある文化がバックグラウンドとなってワインの楽しみを増進させていると考えられるのです。それは歴史的に言うとフランスやイタリアを中心とするヨーロッパの国で発達したものですが、その「ワイン文化」は他の国、たとえば日本にも波及し、それが当然のようになっています。一言で言うとワインは「酒を大切にする文化」の中で醸成されてきたと言えると思います。



そこで今回は、ワイン以外の酒、特に「日本酒(清酒)」と「ビール」について、日本における「酒を大切にする文化」がどうなっているかを考えたいと思います。まず日本酒です。


いづみ橋:栽培から醸造まで


神奈川県海老名市に泉橋酒造株式会社という酒造会社があります。「いづみ橋」というブランドの日本酒を製造しているのですが、安政4年(1857)年創業という「老舗」です。

この酒造会社は約4ヘクタールの自社用農地を持ち、酒米を栽培しています。同時に相模川の東側の海老名市および周辺地域の農家に委託し、自社農地を合わせて30ヘクタールで酒米を栽培しています。泉橋酒造のホームページより引用します。


泉橋酒造は、「さがみ酒米研究会」という原料米の研究・栽培会を組織しております。この研究会は、地元の酒米生産者、JA、そして、神奈川県の農業技術センター等のお力をお借りしています。酒米の栽培地域は、海老名市、座間市、そして、相模原市に広がり、約30ヘクタール(平成24年度)余りの栽培面積になっております。また、会員農家は全員神奈川県認定のエコファーマーでもあり、環境に配慮した農業を率先して行っております。泉橋酒造は、上記30ヘクタールのうち、約4ヘクタールを自社で栽培しています。

(泉橋酒造のホームページより)

酒米は、山田錦、雄町といった日本で一般的なものが多いのですが、中には「亀の尾」「神力(しんりき)」といった「復古米」もあります。復古米というのは酒米としていったんすたれていたものを復活させたものです。

またこの会社は精米も自社で行っています。ホームページには以下のように書かれています(アンダーラインは筆者)。


泉橋酒造は、米作りから精米、そして、醸造まで一貫して取り組んでおります。私たちは、米作りと同様に精米作業も私達の大切な仕事と考えております。毎年夏場の天候は変わり、一年として同じ天候の年はありませんが、地元栽培された同じ品種のお米でも、農家や田んぼの位置が変わることで少しずつ性格が変わってきます。その生産者ごと、田んぼごとの特徴を見極め、日本酒へと醸していくためには、他所へ委託せずに、自ら精米作業を行うことはとても大切なことだと私たちは考えています。「精米は酒造りの魂」とも云われます。私たちは、お客様のためにごく普通のことを当たり前に行っています。

(泉橋酒造のホームページより)

この引用のところは自社精米の重要性を言っていますが、それは米の栽培にも大いに関わっています。なぜ、自社栽培と「生産者の顔が見える」地元での委託栽培にこだわるのかというと、それは酒米の品質を確保するためと同時に、栽培地ごとに最適な精米を行うためでもある、というわけです。このように泉橋酒造は、米作りから精米・醸造・製品化に至る日本酒造りのすべての工程を自社で行うという「栽培醸造」をやっているのです。日本酒造りは酒米造りから始まる・・・・・・。実は、こういった酒造会社は全国でも多くはないようです。

しかし考えてみると、たとえばワインでは「栽培醸造」があたりまえです。世界のまともなワイン
いづみ橋 恵.jpg
いづみ橋の定番商品、恵(めぐみ)の青ラベル(純米吟醸酒)と赤ラベル(純米酒)。泉橋酒造周辺の海老名産の山田錦を使用。日本酒度は +8 ~ +10 と辛口である。
醸造家で葡萄を自社栽培していないところはないでしょう。欧米のワイナリーは全部そうです。甲府盆地には数々のワイン醸造会社がありますが、私の知っている限り全て自社の農園を持っています。サントリー、メルシャンといった大手メーカーもそうです。もちろん甲府盆地の葡萄農家と契約栽培をしているケースも多いし、またフランスなどから原酒を輸入して自社ワインとブレンドしたりもしている。それは決して悪いことではありません。ワインの価格もいろいろあり、味の嗜好にもバリエーションがある。多様なワイン造り方があってよいわけです。しかし「全く自社栽培しないワインメーカー」というのは少ないはずです。

ワインと日本酒では醸造方法が違いますが、品質が原料に左右されるということは変わらないはずです。日本酒でも酒米に適した米の品種がまずあり、それをどの程度の精米で酒にするかで(つまり米粒のどの部分を使うかによって)吟醸になったり大吟醸になったりする。ということは、酒米の栽培における肥料の与え方や栽培方法、収穫時期、米ごとの精米方法などによって日本酒の味は微妙に違ってくると想像できます。米造りの最初から責任を持ってやるというのは、それが全部の米ではないにしろ、日本酒醸造家の姿勢としては当然の姿だと思うのです。


日本酒を大切にする


日本酒は長い歴史の中で育ったものであり、それを大切にする人たちによって守られてきたと思います。しかしワインに比較すると、本当に「日本酒を大切にする文化」は大丈夫なのだろうか、という疑問が涌いてきます。近年、日本酒の消費量は減ってきていると言います。何か問題があるのではないか。

 造り手 

一つは日本酒の「造り手」です。まず、「いづみ橋」のような栽培醸造をやっているメーカが少ないというのは解せません。品質のいい醸造酒を造るには、原料の栽培方法と醸造方法の相乗効果で完成度のレベルをあげていくことが重要なはずです。もちろん原料には「水」も「米麹」も重要ですが、「米」が重要な原料なのは論をまたないでしょう。

また、高級酒の酒米の品種が「山田錦」一辺倒なのも気になります(それに続くのが「雄町」でしょうか)。「いづみ橋」が復古米を栽培していることを書きましたが(亀の尾、神力)、そういう試みがもっとあっていいと思います。

日本酒を大切にする視点としては、和食との「マリアージュ」があると思います。日本酒を和食の食中酒として味わうときには、どんな酒でもよいわけではありません。糖分が多くて甘い日本酒は、食前酒としては適当かもしれないが、食中酒としては食事の味を殺してしまいます。従って糖分が少ない(=日本酒度の高い)酒が望ましい。特に和食の代表格とも言える寿司や天麩羅に合わせるには、日本酒度が高く、かつ酸度も高い日本酒が必須だと(個人的には)思います。日本酒メーカは「寿司に会う日本酒」「天麩羅に会う日本酒」などをもっと開発すべきでしょう。

これと関連してですが、日本酒文化を広めるために業界としての統一した品質表示基準を是非設定してほしいと思います。現在、本醸造と純米本醸造(醸造用アルコールを加えていない酒)の区別があり、それらの精米の度合いを高めた酒として、吟醸酒、大吟醸酒の表示基準が定められています。それに加えて、
 ◆ 日本酒度
 ◆ 酸度
を統一基準で表示してほしい。酒造会社がラベルに表示するケースは増えてきましたが・・・・・・。

日本酒度は、日本酒の比重にリンクした値で -15 ~ +20 程度の値です。ゼロが水と同じ比重で、プラスにいくほど比重が軽くなり、従って糖分の割合が下がります。いわゆる「辛口」「ドライ」になるわけです。酸度は基本的にpH(酸性度)にリンクした値で、1.5~3程度の値をとるのが普通です。日本酒を食前酒として飲むのか食中酒なのかは、日本酒度と酸度が一つの基準になると思います。もちろん味や香りは個人の感じ方の差があって、数値で計れるものではないのですが、一つの目安にはなります。

日本酒メーカーは「酒米の自社栽培」や「酒米の品種の工夫」「和食に合わせやすい酒」などにおいて、高品質の日本酒を造り出していく努力に(総体的に)欠けているのではと危惧します。

 飲食店・レストラン 

和食を出す料亭、飲食店、レストランで、ごくわずかの種類しか日本酒が置いていない店があるのは非常に奇異な感じがします。極端なケースでは1種だけだったりする。しかも高級料亭でそういうケースがある。

もちろん「日本酒リスト」が揃っているところも多いわけです。個人経営の居酒屋で、店主が日本酒好きで各地の地酒を取り寄せているようなところも多い。

しかしこれとは全く逆で、1種の日本酒しか用意せず、客から選択肢を奪ってしまうような店があります。客は「選べない」のです。こういう店は「日本酒を大切にしている」とはとても言えないと思います。

私の近所に夫婦だけで経営している小さなイタリア料理店があります。この店にもワインリストがあり、赤ワインが8種ほど、白ワインが4種ほどが常時用意されています。イタリアワインが多いのですが、チリワインもあり、味のバラエティーも考えられている。これらのワインはオーナーシェフが選んでいます。狭い店なのでワインをストックする場所にも困るようで、赤ワインなどは通路の隅の箱にむき出しで置いてある。

こういう小さな店であっても、数は少ないながらもワインのリストを用意し、客に選択肢を提供するのが「あたりまえ」なのです。それが「ワイン文化」の一面です。ヨーロッパでそういうスタイルが出来上がると、それは日本にも波及し、夫婦2人で切り回すイタリアンの店でも当然のこととして行われる。この店で初めて知って、それ以降、個人購入しているワインもあります。それでまた「ワイン文化」が広まっていくわけです。

日本酒においてもこういう姿を期待したいと思います。


ビールを大切にする


日本の「ビール文化」に対する大きな不満は、一般の飲食店・レストランでビールの銘柄を選べないことです。ほとんどの飲食店では特定の大手ビールメーカーの製品しか置いていません。「地ビール」と呼ばれる「非大手系メーカー」のビールは日本にたくさんあり、その味も多様なのですが、それを置いている店は一般的ではない。ビールの種類もラガー以外にエールもあれば白ビールもあるのに、そういうビールは一般的にはレストランで飲めません。特定の大手ビールメーカーの製品だけを置くことで安く仕入れる契約をしているのだと想像できますが、消費者の選択権を奪っています。

大手ビールメーカーの製品だけだとしても、たとえばアサヒ・スーパードライとサントリー・モルツでは味がかなり違うと思うのですが、そういった選択もできません。取り扱い方法が違う生ビールの銘柄が限られるのはまだ分かりますが、瓶ビールの種類が限られるのは納得できない。

こういった状況に慣れてしまった日本の消費者は、飲食店で単に「ビール」と注文します。それで注文が成立してしまう。「中瓶か、小瓶か、グラスか、生か」と聞かれることはあっても、銘柄を聞かれることは極めて少ないわけです。

しかし外国旅行でレストランに行くと、一般的にそうではありません。私の経験からいうと、アメリカ、イギリス、ドイツ、ベルギーでは、ビールは銘柄を言って注文するのが普通です。アメリカ西海岸を想定すると、「ビール」と言うと「何にしますか」と聞かれます。「何がありますか」と聞くと「Coors, Heineken, Ichiban,・・・・・・。」というような答えが返ってきて「Ichiban」と言うと「一番絞り」が出てくる、といった具合です。

以前、ロサンジェルス近郊のレストランで「ビールは何がありますか」と聞いたところ「欲しいビールを言ってみなさい。それを持ってくるから」と言われたことがあります。店としてはかなりの「自信」ですが、そのレストランはかなりの種類の(数10種類?)ビールを揃えているようでした。

ビールの味も多様です。ドイツだと原料が「麦」か「小麦」かで味がかなり違う。小麦を原料とするビールは「ヴァイツェン(小麦)」ないしは「ヴァイス(白)」と言っています。イギリスでは黄色い「ラガー」か黒っぽい「エール」の違いがあります。ベルギーのビールは種類と味のバリエーションが非常に多く、銘柄を言わないと注文はできません。

結局、日本では「ビールなんて、どうせ似たようなもの」という(一部の)飲食店・製品供給元の「ビールを見下した」考え方があるのではないでしょうか。それは「ビールを大切にする」とか「酒を大切にする」のとは真っ向から対立するものであり、是非、改めて欲しいと思います。大手ビール会社も、発泡酒や第三のビールの味を競うだけでなく、本来のビールでの個性的な味の製品を出していって欲しい。

最近のサッポロビールの広告のコピーに

ビールでなく「エビス」を造る職人がいる

というのがありますが、意識としてはまさにそういう方向です。しかし「ビール文化」は職人だけのものではなく、ビール会社、飲食店、レストラン、消費者など、皆で作るものです。サッポロビールもそこをよく考えてほしいと思います。


村上春樹のビールに関するエッセイ


やがて哀しき外国語.jpg
村上春樹
「やがて哀しき外国語」
(講談社。1994)
作家の村上春樹さんは、1990年代の前半にアメリカのニュージャージー州のプリンストンに約2年半滞在したことがあります。ここはプリンストン大学で有名な大学町で、村上さんは大学に籍を置いていたので、付き合った人も大学関係者が多かったようです。

「大学村スノビスムの興亡」というエッセイ(「やがて哀しき外国語」講談社。1994 に収録)によると、プリンストンで村上さんは2紙の新聞を取っていました。「ニューヨーク・タイムズ」の土曜・日曜版と、地元紙の「トレントン・タイムズ」(毎日)です。トレントン・タイムズは週のうち4日は火事か交通事故が1面トップになるようなローカル紙で、それだけに普通のアメリカ人の生活ぶりがよく分かった、とは村上さんの言です。

しかし村上さんの知っているプリンストン大学関係者は、みな毎日ニューヨーク・タイムズを取っていて、村上さんがトレントン・タイムズを取っていると言うと、あれっというような奇妙な顔をするのです。そしてニューヨーク・タイムズを毎日は取っていないと言うと、もっと変な顔をし、すぐに話題を変えてしまう。「プリンストン大学村」では、ニューヨーク・タイムズを週末だけとり、毎日はローカル紙を読むという生活態度がコレクト(正しきこと)ではないのです。

このあとに、新聞と類似の話として「ビール」の話が出てきます。以下、少々長くなりますが引用します。


これと同じようなことは     新聞からかなり話が飛んじゃうけれど     ビールについても言える。僕が見たところでは、プリンストン大学の関係者はだいたいにおいて輸入ビールを好んで飲むようである。ハイネケンか、ギネスか、ベックか、そのあたりを飲んでおけば「正しきこと」とみなされる。アメリカン・ビールでもボストンの「サミュエル・アダムス」やらサンフランシスコの「アンカー・スティーム」あたりだと、あまり一般的なブランドでないから許される。ボストンやサンフランシスコといったちょっとシックな土地柄も評価の対象になる。学生は安くてちょっと通っぽい感じのするローリング・ロックをよく飲んでいる。話によるとかつて東海岸では、クアーズが比較的手に入りにくくて「コレクト」であったようだが、最近はこっちでも手に入りやすくなったので、ずいぶん評価が落ちたらしい。日本製のビールも存在としてはマイナーだからもちろんコレクトだが、実際に飲んでいる人の数はあまり多くない。いずれにせよそのあたりを飲んでいると、まあ問題はない。

しかしバドワイザー、ミケラブ、ミラー、シュリッツあたりを飲んでいると、やはり怪訝な顔をされることが多いようである。僕も甘ったるいアメリカン・ビールはあまり好まないし、どちらかといえばヨーロッパ系の方が好きなのだけれど、例外的にバド・ドライを好んでよく飲んでいる。もう少しドライでもいいんじゃないかという気はしないでもないが、客観的に言ってけっこうよく出来たビールだし、スシにもまあちゃんとあう。続けて飲んでもあまり飽きないし、なにしろ値段も安い。六本パックで五百円ぐらいで買える。悪くない。でもある教授と会ったときに世間話のついでに「僕はアメリカン・ビールの中ではバド・ドライが割に好きでよく飲んでいます」と言ったら、その人は首を振ってひどく悲しい顔をした。「僕もミルウォーキーの出身だからアメリカのビールを褒めてもらえるのは嬉しいけれど、しかしね・・・・・・」と言って、あとは口を濁してしまった。

要するにバドとミラーといったようなテレビでばんばん広告をうっているようなビールは、主として労働者階級向けのものであって、大学人、学究の徒というのはもっとクラシックでインタレクチュアルなビールを飲まなくてはならないのだ     というか飲むことを期待されているのである。かくかように、新聞からビールの銘柄にいたるまで、ここでは何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確である。

村上春樹「大学村スノビスムの興亡」
『やがて哀しき外国語』(講談社。1994)より

プリンストン大学の教授の発言がおもしろいと思います。「僕もミルウォーキーの出身だから・・・・・・」とあるように、ミルウォーキー(ミシガン湖の西岸の都市)はビール醸造で有名です。代表的なアメリカン・ビールの一つ、ミラーの本社はここにあります。この都市に本拠を置くメジャーリーグのチームは「ブリュワーズ」で、醸造業者の意味です。その昔、「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」という、サッポロビールのコマーシャルがありました。

しかしそのミルウォーキー生まれの教授であっても、ミラーのようなビールを飲むのは「インコレクト」なのですね。この文章はプリンストン大学関係者に漂うスノビズムの雰囲気を描いたものとして興味津々です。何しろ、プリンストン大学ではインタレクチュアルなビールとそうでないビールがあるらしいのです。そういうところから類推すると、おそらく(現代の)プリンストン大学関係者はWindowsではなくMacの愛好者が多いのでしょうね。サミュエル・アダムスを傾けながらデルのWindowsパソコンを立ち上げるなんて最悪のはずです。ここは是非ともMacでなければならない。余談ですが・・・・・・。

しかし文章の主旨とは別に、村上さんのエッセイを読んで強く感じることがあります。それはプリンストンではレストランなどで多様なビールが味わえるということです。文章の中に出てくるビールを原産国(発祥の地)とともに全部あげると以下のようです。

ハイネケンオランダ
ギネスイギリス
ベックドイツ
サミュエル・アダムス米・ボストン
アンカー・スティーム米・サンフランシスコ
ローリング・ロック米・ペンシルヴァニア
クアーズ米・コロラド
バドワイザー、ミケラブ米・セントルイス
ミラー米・ミルウォーキー
シュリッツ米・ミルウォーキー
(銘柄不明)日本

The Beers in Murakami's Essay 2.jpg

村上春樹氏のエッセイ「大学スノビズムの興亡」に名前があがっているビールを掲げた。但し、写真は現代のものである。エッセイで銘柄が書いていない「日本のビール」は、アメリカで売られている代表的なものとして「一番搾り」をあげた。
バドワイザー、クアーズ、ミラーあたりを代表的なアメリカン・ビールだとすると、サミュエル・アダムス、アンカー・スティーム、ギネス、一番搾りなどは、かなり味が違うビールである。

国籍や地域を越えて多様なビールを味わえることがわかります。これらは例としてあがっているものだけなので、実際にプリンストンのレストランやカフェで飲めるビールの種類はもっと多いでしょう。そして善悪は別にして、村上さんの言う「スノビズム」をプリンストン大学村の住人たちが発揮できるのは、「ビール」と注文せずに「アンカー・スティーム」と注文できるからであって、多様な選択肢という背景があるからこそなのです。



これは酒だけではないのですが、文化の需要な要素は

多様性の尊重と、多様性を作り出す努力
選択肢の提供と、その選択肢の活用
伝統の継承することと、それを革新することの両立
均一でないことや、微妙な相違を大切にする意識

などだと思います。こういった要素を尊重することが「酒を大切にする文化」を醸成するのだと思います。

続く


 補記 

村上春樹さんのビールのエッセイは1990年代前半のアメリカ(のプリンストン)での話です。では現在ではどうなのか。最近の個人旅行のスナップ写真を紹介します。いずれもニューヨークです。

アメリカでは、日本の「地ビール」に相当するのが craft beer です。直訳すると「手作りビール」でしょうか。もちろん最新の醸造装置を使うのですが、要するに比較的小規模で、個性的な味と製法にこだわったビールを craft beer と言うようです。下の写真はニューヨークのセントラル・パークの西側にある食料品店「ゼイバーズ」の店内の「craft beer コーナ」です。ニューヨークのビールもあれば輸入品(ベルギーなど)もあり、全部で40種類ほどそろっています。

Craft Beer - Zaber's.jpg
Zaber's 店内の CRAFT BEER コーナー



下の写真はジョン・F・ケネディ空港のバーで撮った、生ビールのタップ(注ぎ口)です。ここに写っているビールは左から次の5種です。

ヒューガーデン(ベルギー原産)
バド・ライト
サミュエル・アダムス
ステラ・アルトワ(ベルギー原産)
グース・アイランド IPA( = India Pale Ale)

この5種類のビールはかなり味が違います。自分の好みの生ビールを飲めるというわけです。私がこの中から選ぶとするとヒューガーテンかサミュエル・アダムスですが、それは全くの個人の好みであって、選択はその人の嗜好いかんです。このような光景はJFKのバーだけでなく、アメリカの大都市でよく見かけます。

Draft Beer - JFK.jpg
生ビールのタップ
(John F. Kennedy国際空港)

ビール好きにとって、たまらない国」をあげるとしたら、多様なビールが楽しめるという観点から、ベルギーとともにアメリカ(の大都市)だと思います。

(2013.8.23)



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