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No.86 - ドガとメアリー・カサット [アート]

No.19「ベラスケスの怖い絵」で中野京子さんの『怖い絵』に従って、ドガの傑作『エトワール、または舞台の踊り子』を紹介しました。


誰もが知っている有名な絵で「ドガの踊り子」と言えばこの絵を指します。中野さんが着目するのは、この絵の左上に下半身が描かれている黒服の男です。この男は踊り子のパトロンです。中野さんは「オペラ座は上流階級の男たちのための娼館」という当時の批評家の言葉を紹介しつつ、踊り子が当時置かれていた立場と、パリの世相を活写します。


No.19-12 Degas-Etoile.jpg
(パリ・オルセー美術館)
この「踊り子が当時置かれていた立場」を鮮やかに描き出した小説が最近出版されたので、その内容を紹介したいと思います。No.72で紹介した小説『楽園のカンヴァス』を書いた原田マハさんの『ジヴェルニーの食卓』です。

『ジヴェルニーの食卓』は次の4編からなる短編小説集です。

 ◆ うつくしい墓
 ◆ エトワール
 ◆ タンギー爺さん
 ◆ ジヴェルニーの食卓

いずれも19世紀から20世紀前半にかけてのフランスの画家とその周辺を主題にした短編小説で、歴史的事実を織り交ぜて作られたフィクションです。今回紹介するのは、その中の『エトワール』です。

ジヴェルニーの食卓.jpg
原田マハ
「ジヴェルニーの食卓」
(集英社。2013)
『エトワール』は、エドガー・ドガ(1834-1917)と、10歳年下の画家メアリー・カサット(1844-1926)との友情を背景とし、ドガの画家像をメアリー・カサットの視点で書くという構成になっています。そこでまず最初に、メアリー・カサットの生涯とドガとの関係をまとめておきます。メアリー・カサットがどういう画家かを踏まえておかないと、小説の意味が理解しにくいと思うからです。以下はスーザン・E・マイヤー著『メアリー・カサット』(渡辺眞 監訳。山口知子 訳。同朋社。1992)からの要約です。この本の著者は絵画雑誌の編集者を長年勤めた人で、アメリカ人画家に関する著書が多数あります。

以降、本からの引用にあるアンダーラインは、いずれも原文にはありません。


メアリー・カサットの生涯


Mary Cassatt - Self Portrait.jpg
メアリー・カサット自画像」(1878)
(メトロポリタン美術館)

◆1844(0歳)
ペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれる。男3人・女2人の5人兄弟の次女であり、父親は銀行業や不動産業で財をなしていた。

◆1849(5歳)
カサット一家は同じペンシルヴァニア州のフィラデルフィアに移る。

◆1851(7歳)
一家は子供たちの教育のためにパリに移住。そこで2年間を過ごす。

◆1853(9歳)
さらに一家はドイツに移住(ハイデルベルク、ダルムシュタット)。長男をエンジニアの学校に入れるのが大きな目的であった。

◆1855(11歳)
一家はパリに数ヶ月滞在したあと、フィラデルフィアに戻る。

◆1860(16歳)
メアリーはペンシルヴァニア美術アカデミーに入学。

◆1865(21歳)
メアリーはパリに行って画家になる決心を固め、両親にそう宣言する。初め猛反対していた父親も、メアリーの説得を受け入れ、娘のパリ行きを支援した。

◆1866(22歳)
メアリーはパリに到着。ルーブル美術館での模写に励む。国立美術学校で教えていた画家・ジェロームのレッスンも受けた。



この年、メアリーは官展(サロン)に行き、初めてドガの作品を目にします。『メアリー・カサット』では以下のように記述されています。


産業館(=サロンの開催場所)のあちこちを歩きまわった彼女は、このときはじめてエドガー・ドガの競馬場を描いた作品を目にしたと思われる。またこの年のサロン展でセンセーションを引き起こしたクロード・モネの実物大の大作《カミーユ》も、この時彼女の目にとまっただろうことはまちがいない。

スーザン・マイヤー『メアリー・カサット』

原田さんの『エトワール』では、この年のサロンでメアリーは、唯一ドガの「障害競馬 - 落馬した騎手」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)に心を惹かれたと書かれています。ちなみに上の引用にあるモネの作品は、妻・カミーユを等身大に描いた「緑衣の女」(独:ブレーメン美術館)という作品です。



◆1868(24歳)
メアリーの作品『マンドリンを弾く女』が官展(サロン)に初入選。

◆1870(26歳)
この年、普仏戦争が勃発。メアリーはアメリカに戻る。

◆1871(27歳)
ピッツバーグの司教から、イタリアのパルマにあるコレッジョの2枚の宗教画を模写するよう依頼をうけ、イタリアに旅立つ。

◆1872(28歳)
スペインのマドリードとセヴィリアに8か月滞在。プラド美術館ではベラスケスやムリーリョ、ゴヤの絵に感銘をうける。この間、多数の絵を制作する。

なお、世界美術全集「印象派の画家たち 9  カサット」(八重樫春樹・柏 健 解説。千趣会 1978)には、「首都マドリードのプラド美術館ではベラスケス、リューベンス、ゴヤなどの作品を熱心に模写した」とあります。

◆1873(29歳)
スペインで描いた『闘牛士にパナルを差し出す女(トレーロと少女)』がサロンに入選。これを機会に、オランダ、ベルギーへの旅行を経てパリに移る。

◆1874(30歳)
『コルティエ婦人の肖像』がサロンに入選。この年、有名な第1回印象派展が開催された。

Mary Cassatt - Offering the Panale to the Bullfighter.jpg Mary Cassatt - Portrait of Madame Cortier.jpg
メアリー・カサット
闘牛士にパナルを差し出す女」(1873)
(クラーク美術館)
この作品は、2013年2月より日本に巡回した「クラーク・コレクション展」で公開された。
メアリー・カサット
コルティエ婦人の肖像」(1874)
(個人蔵。WikiPaintingsより)



1874年のサロンをドガが訪れた時のことが『メアリー・カサット』に記述されています。下の引用の「ナダールの展覧会」とはもちろん、第1回印象派展のことです。


ナダールの展覧会に対する批評家の酷評にもかかわらず、ドガは仲間たちと共に独立した展覧会を開いたこと、二度と再びサロン展に出品しないと言明したことなどを、正しかったと確信していた。産業館の24の展示室を埋めつくしたつまらない絵の群れを目にしたとき、彼は自分の判断が正しかったという思いをいっそう強めた。そこにあるのは、ありふれた英雄的な戦闘シーン(常に大衆の支持を得た)、ありふれた陰気な肖像画、同じように退屈な神話や聖書の一場面を描いた作品などであった。もちろんいくつか例外があったことは、彼自身も認めている、彼は、自分の古くからの友人でありライバルでもあるエドワール・マネの《鉄道》の前では、立ち止まってその作品を賞賛した。しかし、アメリカ人画家メアリー・カサットの描いた《コルティエ夫人の肖像》に出会うことは、まったく予期していなかった。これはある中年女性の写実的な肖像画で、巨匠たちのテクニックと現代的な精神が一つにとけ合った作品だった。この絵をしばらく見つめていた後、彼は友人のツアニーを振り返り、こう語った。「私と同じ感性をもつ人がいる」。

スーザン・マイヤー『メアリー・カサット』

◆1875(31歳)
メアリーはパリに永住する意向を固める。彼女は以前に画廊で見たドガの作品に強く惹かれていく。



この頃、メアリーはパリで友人になったアメリカ人のルイジーン・エルダーにドガのパステル画『バレエのリハーサル』を買うように強く勧めます。ルイジーンは100ドルで購入し、これがアメリカ人が購入した最初の印象派作品になりました。ルイジーンはのちに精糖会社を経営していたヘンリー・ハブマイヤーと結婚し、ハブマイヤー夫妻はメアリーをアドバイザーとして印象派の大コレクションを築きます。これらはのちにメトロポリタン美術館に寄贈されました。

Degas - Rehearsal of the Ballet.jpg
エドガー・ドガ
バレエのリハーサル」(c.1876)

ネルソン・アトキンス美術館(The Nelson-Atkins Museum of Art。Kansas City, Missouri, USA)所蔵。パステルとグアッシュ。

ルイジーン・エルダーはメアリー・カサットの強い勧めにより1877年にこの絵を購入し、これがアメリカ人が購入した最初の印象派の絵となった。MoMAのサイトにあるドガの経歴によると、ルイジーンは1878年にこの絵をニューヨークの展覧会に貸し出し、ドガが(従って印象派が)アメリカに紹介された最初の機会となった。つまり、2つの意味で「歴史的」な作品である。リハーサルをしている踊り子を2人の男が見守っているが、右端に描いてあるのは「エトワール、または舞台の踊り子」と同じような「黒服の男」である。この絵もまた、「踊り子が当時置かれていた立場」を表している。画像は Wikimedia Commons より引用。ちなみに、ネルソン・アトキンス美術館は、海北友松の「月下渓流図屏風」を所蔵している美術館である。

メアリーはハブマイヤー夫妻以外にも美術品を収集しているアメリカ人コレクターに印象派の絵を買うように勧めます。アメリカ東部のエスタブリッシュメントの間では「カサット家のお嬢さん推薦」というのが一種の「ブランド」になったようです。現代のアメリカに印象派の重要な作品が数多く存在するのはメアリー・カサットの功績であり、そもそも印象派の絵画が世界的に成功した、その立役者の一人が彼女なのです。



◆1877(33歳)
ドガが、友人のジョセフ・ツアニーの紹介でメアリーのアトリエを訪問。印象派展に出品するよう、メアリーを勧誘する。

◆1879(35歳)
第4回印象派展にメアリー・カサット初出展。出展作は『青い肘掛け椅子の少女』など11点。

Mary Cassatt - Little Girl in a Blue Armchair.jpg
メアリー・カサット
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
この絵はワシントン・ナショナル・ギャラリー展(国立新美術館。2011.6)で展示された。

これ以降、1880年代・90年代と、メアリーの画家としての才能が大きく開花します。当初酷評された印象派の絵画を擁護し世に広めた画商、ポール・デュラン=リュエルの画廊で個展も開催しました。彼女はフランスでも高名な画家になります。特に「母と子」や「子ども」のモチーフを独特の暖かいタッチで描いた一連の作品は有名です。

Mary Cassatt - Young Mother Sewing.jpg
メアリー・カサット
縫い物をする若い母親」(1900)
(メトロポリタン美術館)

◆1904(60歳)
メアリーはフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章(シュヴァリエ)を受ける。1910年代以降は白内障で視力が衰え、ほどんど描かなくなります。

◆1917(73歳)
アトリエで倒れたドガが急逝。ドガ83歳。

◆1926(82歳)
メアリー・カサット逝去



ドガとメアリーは互いのアトリエを訪問し、画家同士の友情で結ばれていました。と同時に、メアリーは画家としてドガの影響を受けています。彼女がパステル画を多く描くようになったのはドガの影響です。二人の関係を『メアリー・カサット』は次のように記述しています。


メアリーと同じように、ドガも頑固で自説を曲げず、芸術を何にもまして優先した。ロマンスさえも、彼らには芸術ほどの意味を持たなかった。メアリーとドガが実際に恋人同士であったかどうか、二人の間で結婚について語られることがあったかどうか、我々には知るよしもない。メアリーは、死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払っているのでなおさらである。わかっていることは、彼らの友情は当時もよく知られていたということだけである。

ドガはメアリーに対して、ほかの女性には決して見せないような優しさと寛大さを示している。たとえば、ドガ自身はペットなど軽蔑していたが、ベルギー産のグリフォン犬の子犬を彼女のためにたいそう骨を折って見つけだしている。そしてメアリーは、死ぬまでグリフォン種の小型テリアを側から離さなかった。

しかし彼らの関係は波瀾に富んでいた。二人の40年に及ぶ友情の中で、毎日のように会っていた時期もあれば、何の接触もなく数ヶ月過ごすこともあり、またメアリーがドガに会うことを拒絶していた数年間さえあった。物事を率直に口にするメアリーも、ドガの扱い方は心得ていて、ふだんは彼を怒らせないように如才なく振る舞っていた。しかしときにはドガの振る舞いに怒って、会うのを拒むこともあった。あるときドガがメアリーの友人に対して彼女の作品を辛辣に批評したため、非常に腹を立てたメアリーは数ヶ月間彼と会おうとしなかった。

こうしたぶつかり合いは、二人の長い友情を通じて頻繁に起こっている。彼ら自身、こうしたいさかいをほとんど楽しんでいるようにすら見える。ある友人は彼らについてこう語っている。「彼らの友情は刻々と移り変わる磁場のようだ。そこでは常に引き合う力と退け合う力がある。しかし悲劇やスキャンダルはそこには存在しない。彼らの愛はパリの芸術の世界に溶け込み、そこで昇華されているのだ」。

スーザン・マイヤー『メアリー・カサット』

「死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払った」とありますね。その時点でドガは既に亡くなっています。絶対に他人に読まれたくない手紙ということでしょう。メアリー・カサットからみてドガはどういう人だったのでしょうか。

ちなみにドガがメアリーに贈ったグリフォン犬は『青い肘掛け椅子の少女』(前掲)に描き込まれています。メアリーの他の絵にもこの愛犬が登場します。なお、上の引用には小型テリアとありますが、グリフォン犬とテリア犬は違うので著者の勘違いかと思います。

Degas - Self Portrait.jpg
エドガー・ドガ自画像」(1855)
(オルセー美術館)


原田マハ『エトワール』 (短編集『ジヴェルニーの食卓』より)


本題の原田さんの小説『エトワール』です。舞台はパリのポール・デュラン=リュエルの画廊で、ドガの死の翌年、1918年に設定されています。ポール・デュラン=リュエルは一貫して印象派を擁護した画商で、幾多の困難を乗り越えて印象派を世に認知させた立役者です。ドガをはじめとする印象派の画家たちとの付き合い広く、もちろんメアリー・カサットとも旧知の間柄です。

おりしもポール・デュラン=リュエルの画廊では「ドガ回顧展」が開催されていました。メアリー・カサットは招待をうけ、ポールが差し向けたクルマで画廊に到着します。このときポールは87歳、メアリーは74歳です。二人は久しぶりの再会を喜びます。

ドガが亡くなった後のアトリエからは、大量の油彩画、パステル画、デッサンが発見され、画廊はその目録を作ったのでした。その目録の完成記念に開催したのが「ドガ回顧展」です。メアリーとポールはドガの作品を見ながら思い出を語ります。

しかしポールがわざわざ車を差し向けて隠居中のメアリーを画廊に招いたのは、ある目的がありました。ポールはメアリーを車に乗せ、デュラン=リュエル画廊の美術倉庫へと連れていきます。

何重にも鍵がかかった倉庫の中でポールがメアリーに見せたのは、ドガのアトリエで発見された多数の小さな立体作品です。それは蝋で作られたバレエの踊り子で、踊り子がいろいろなポーズをとっているものでした。メアリーはドガがこのような作品を作っていたことを知り、驚きます。ポールは、これは彫刻作品以前の「試作(マケット)」と呼ぶべきで、おそらくドガは絵画を描く際にこれらのマケットを使って踊り子のポーズを研究していたのだという推測を述べます。確かに生身の人間につま先で長時間立つポーズをさせるなど無理です。

Degas - 踊り子のマケット.jpg
ドガが制作した踊り子のマケット
(メトロポリタン美術館)

しかしポールがメアリーに一番見せたかったのは別のものでした。美術倉庫の一番奥にあったのは、メアリーがよく知っている、彼女にとっても忘れられない作品でした。それはドガの生前に発表された唯一の彫刻作品『14歳の小さな踊り子』です。メアリーは40年近く前にドガのアトリエを訪れた時のことを思い出します。

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ドアのアトリエのドアの前に、メアリーはひとり、立っていた。

てんの毛皮のマフから右手を出すと、ゆっくりと二回、ノックをする。彼のアトリエを訪問するのは、画家仲間か、画商のポールと決まっていたが、制作に没頭している最中に彼らがやかましくドアを叩くのをドガは嫌っていた。それを心得ていたので、メアリーはドアを開けるまでもなく自分が来たことをアトリエの主が気づくように、きっかり二回、ノックする。エレガントなノックの音を立てさえすれば、「入りたまえ」のひと言がなくともアトリエの中に踏み入ることが許される特権を、彼女はすでに獲得していた。

原田マハ『エトワール』

メアリーはアトリエの前室にコートをかけると、隣室のドガに話かけながらアトリエに入ろうとします。そしてハッと立ち止まってしまいます。黒い布を垂らした壁の前に少女が立っています。少女は全裸です。

ドガはにこやかにメアリーに話かけますが、気が動転したメアリーは前室に戻り、長椅子に腰掛けます。ドガがモデルを前に制作をするのはいつものことでしたが、全裸の女性に行き合ったのは初めてした。しかも年端もいかない少女です。

少女が帰ったあと、メアリーはドガに話かけます。


「あの子は誰?」できるだけ平静を装って、メアリーは尋ねた。それでも、声には嫌悪感がにじみ出てしまった。
「あなたが制作のためにモデルを必要としていることはわかるわ。けれど、あんな年若い子供を・・・・・・。それも、裸にするなんて・・・・・・」

ガチャンと派手な音を立てて、ドガはティーカップとソーサーを作業台の上に置いた。その勢いで、紅茶がスケッチブックの上に飛び散った。スケッチプックには少女の裸体があらゆる角度から描かれているのが見えた。

「遊びじゃないんだ。これは闘いなんだよ、メアリー」 暗く、くぐもった声でドガは言い放った。
「『印象派』なんて言われて、いい気になってちゃだめなんだ。官展に反旗を翻したつもりでも、実際には、我々は世間から馬鹿にされたままじゃないか。生温なまぬるいんだよ。いまのままじゃ」

メアリーは、燃えるように冷酷なドガのまなざしから顔を背けた。視線の先に、汚れたスケッチブックがあった。飛び散った紅茶のしみが、冷たい血のように、少女の貧相な乳房を濡らしていた。

原田マハ『エトワール』

以前からドガは、アトリエに連れてきた踊り子をモデルに熱心にポーズの研究をしていました。メアリーはその光景を何度も目にしていたのです。


作品を生み出すためのドガの壮絶な努力を、メアリーは間近にみる機会を与えられた。それは画家としては幸運だったと言うべきだろうが、女性としては複雑な気分にならざるを得なかった。踊り子たちが辛抱強くポーズをとるのを、アトリエの隅でメアリーは、苦渋と励ましの入り混じった気持ちで見ていた。ときには屈辱的とも思われる画家の要求に、彼女たちはよく応えた。メアリーは、彼女たちが置かれた特殊な立ち位置をすでに理解していた。

踊り子たちのほとんどは、恵まれない家庭環境に育ち、家計を助けるために舞台の上で脚を上げていた。舞台裏に出入りしていた男たちは、彼女たちを見定めて愛人にしようと目論もくろ支援者パトロンだった。有力者の愛人になれば、主役エトワールになれる。たっぷりと給金をもらい、病気の父を、苦労ずくめの母を、幼い妹弟を養うことができる。踊り子たちの目指すのは、ただそのひとつ。「エトワール」になることだった。

原田マハ『エトワール』

「あの少女もそういう境遇であるに違いない」とメアリーは思いますが、全裸の少女の姿を目撃して以来、メアリーはドガのアトリエから足が遠のきます。

しかし次の印象派展のための作品の制作開始が迫ってきた時期、メアリーは出展作品の意見を交わすためにドガのアトリエを訪問します。その時ドガは蝋で作った少女の小さな像(マケット)を数点見せます。

そしてこのマケットをもとにドガは1メートルほどの大きさの少女の像を作ったのでした。メアリーが再び尋ねてきた時、印象派展まで絶対に秘密にするという条件でドガはその像をメアリーに見せます。

Degas - Little Dancer Aged Fourteen.jpg
エドガー・ドガ
14歳の小さな踊り子」(1881)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

この作品はドガの死後にブロンズに鋳造され、約30の像が欧米の美術館に所蔵されている。写真はドガが作ったオリジナルの塑像である。高さは約1mで、モデルとなった少女の2/3のサイズである。

ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式カタログは次のように書いている。

・・・・ そのレアリスムに加えて、ドガは彫像に本物のチュチュとリボンを付けために、ぎょっとさせるものがあった。アカデミー派の、多くは古典に主題を得た裸婦像のなめらかな仕上げに慣れた批評家たちは、「小さいバレリーナ」のレアリスムをグロテスクと評した。作家で美術評論家のJ・K・ユイスマンスは違う感想を持った。「実際のところ、ムッシュー・ドガは一撃にして、彫像の伝統を覆した」。


それを目にしたとき、メアリーは、ほとんど叫びそうになった。それは写実を超えて猟奇的ですらある、生々しい踊り子の姿だった。

蝋で固められた肌は透き通ってつややかに輝き、人毛で作られた長い髪にはサテンのリボンが結わえられている。リネンのコルセットにモスリンのチュチュ、トウシューズと靴下を身につけた少女は、芸術家の意のままに、その支配を一身に受ける神の小羊のようだった。

うっすらと閉じたまぶたにまつげまでが生え揃っているのをみつけ、「なんのために」と、荒ぶる声が出てしまうのをメアリーは止められなかった。

「なんのために、こんなリアルな像を作ったの? あの子を完全にあなたのものにするため?」

この像に注がれたドガの異常な情熱に気づかないほど、メアリーは鈍感ではなかった。同時に、像をみた瞬間、彼女の中を得体のしれない突風が吹き抜けた。メアリーは、どうしても、その像を見つめることができなかった。見てはいけないもののように感じてしまう、それはドガの常套じょうとう手段なのだ。そのくせ、穴があくほどみつめてみたかった。嫉妬と羨望が入り混じった熱波がメアリーを高揚させた。

原田マハ『エトワール』

メアリーはモデルになった少女に会おうと決心します。ドガが少女の像を制作した真の理由をどうしても知りたくなったのです。教えられた少女の名前はマリー・ヴァン・ゴーテム。メアリーは冬の夕方、オペラ座の裏口に面した路地で、踊り子たちのレッスンが終わるのを待ちます。

そうして待っている間にも、何台もの馬車が止まり、シルクハットをかぶった紳士が裏口から劇場に消えていきました。メアリーにはかつてドガが語った言葉が忘れられません。


君には想像できないだろう。けれど、踊り子たちは、パトロンに見出されるために、血のにじむような努力をしていいるんだ。

襟ぐりの大きく開いたドレス、奥をちらりと覗かせる膨らんだスカート、脚を美しく見せるトウシューズ。スポットライトを浴びたときに華やかに見えるように、うなじは白く、頬と唇はあかく染める。愛想のいい笑顔、しなの作り方。何もかも、金持ちの紳士の気を引くため。彼女たち自身が、金を得るための道具になっているんだよ。

よく聞くんだ、メアリー。確かに、君のように世間知らずのお嬢さまには聞くに堪えない下卑げひたことかもしれない。けれど、それが現実なんだ。そして、その現実は、驚くほど何かに似てやしないか。

そうだ。彼女たちは、私たちなんだ。このシステムは、私たちが属している美術の世界とよく似ているんだ。芸術家とパトロン。私たちもまた、パトロンの気を引くために、彼らの共感を得るために、日々、絵を描いているじゃないか。パトロンに見出されなければ、生きていけないじゃないか。この世界の星になりたいと切望しているじゃないか。君も、私も。メアリー、私たちは、彼女たちなんだよ。

原田マハ『エトワール』

メアリーはマリーとオペラ座の裏口で出会い、自分も画家であることを言い、自分のアトリエにつれていきます。アトリエに入るなり「全部脱げばいいですか」と吐き捨てるように言うマリーに対し、メアリーはそうじゃない、話を聞きたいだけだと言います。そしてドガのモデルになった経緯や、ドガがマリーにした約束を聞き出します。

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ドガがマリーにした約束、およびポール・デュラン=リュエルが『14歳の小さな踊り子』をメアリー・カサットに見せた目的は割愛したいと思います。このあたりが小説のストーリーのキモになっています。

付け加えますと『14歳の小さな踊り子』は第6回印象派展(1881)に出品され、批評家たちから酷評を浴びます。そして売れることもなく、ドガのアトリエにしまい込まれたのでした。


アートにかける情熱


紹介したのはストーリの骨子だけです。この骨子の部分はほとんどフィクション(ないしは作者の推測)でしょう。しかしその骨子の中にドガやメアリーカサットの生涯、二人に出会いと交流などの歴史的事実が多数織り込まれています。また19世紀後半のフランスの美術界の状況やアメリカとの関係が概観できるようになっています。作者は「史実にもとづいたフィクション」と書いています。

『エトワール』の一番のポイントは、アーティストが作品の創造にかける桁外れの情熱を描き出したことでしょう。No.72で紹介した『楽園のカンヴァス』で作者の原田さんは画家(アンリ・ルソー)、コレクター、研究者、キュレーターがそれぞれの立場でアートに賭ける情熱を描いたのですが、この『エトワール』の場合はエドガー・ドガの情熱です。それを友人の画家であるメアリー・カサットの目を通して描くことによってより鮮明にし、その構図の中で当時のパリ・オペラ座の踊り子が置かれていた状況を描き出す・・・・・・。小説の構成テクニックがピタリと決まった作品です。

Mary Cassatt - Photo.jpg
「パリのアメリカ人」、娘時代のメアリー・カサット。印象派の画家としても活躍したが、印象派絵画を収集する多くのアメリカ人コレクターの強力なアドヴァイザーでもあった。   フィリップ・フック「印象派はこうして世界を征服した」(白水社。2009)より写真と文を引用。1867年(23歳)に撮影された写真である。彼女がパリに到着した、その翌年である。
そしてこの小説のもう一つのポイントはメアリー・カサットですね。小説では彼女はドガという画家を見る「視点」としての役割ですが、よくよく考えれば彼女も相当な人です。

ペンシルヴァニアの良家のお嬢さんが、当時ほとんどいなかった女性の画家を目指し、退路を絶ってパリに移住し、しかも批評家・大衆から酷評されていた前衛アート(=印象派)の運動に参加して「いばらの道」を歩む。ドガに多大な影響を受けつつも、それを乗り越えて「母と子」や「子ども」のモチーフに見られる独自の作品世界を作る。その上、印象派の絵画をアメリカに広めることに注力し、印象派の世界的成功の立役者になる。ただし、そのことを人にひけらかすことはない・・・・・・・・。

メアリー・カサットという画家もまた、そのアートに対する飽くことのない探求心においてはドガに引けをとらないのです。そしてメアリーの伝記、スーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』で何回か強調されていることは、メアリーはアートに対する強い情熱とは別に、人間としては実に控えめで謙虚だったということです。原田マハさんの『エトワール』は、実はそういったメアリー・カサットの人間像もうまくすくい取っていると思いました。



ここからは余談です。モネやゴッホがそうであったように、19世紀後半のパリにいた画家の多くは、日本美術、特に浮世絵の影響を受けています。『エトワール』の二人の画家もそうです。


メアリーの作品は、1890年に国立美術学校で開かれた日本芸術展を見て以来、大きな進歩を遂げた。ドガもメアリーも長年日本の芸術には興味を持っており、ドガはすでに自分の作品に日本的なアイデアを取り入れていた。しかしこれまで、これほどの数の日本の芸術が一か所に集められたことはなかった。千点以上の浮世絵や絵草紙を前にすっかり夢中になった二人は、何度も会場に足を運び、メアリーは多くの版画を自らのコレクションとして購入した。

力強い線や、平面的に配置され単純化された形態がメアリーの好奇心を刺激したが、何にもまして印象的だったのはその際だった構図である。多くの作品で構図が劇的に中心をはずされていることや、描かれた物がしばしば絵の端で無造作に切られていることに、メアリーは特に感銘を受けた。こうしたことから、優れた構図というものが必ずしも調和や均整といった伝統的な西洋の原理に従って対象を配置することには依存しないことが明らかとなった。

スーザン・マイヤー『メアリー・カサット』

Mary Cassatt - Boating Party.jpg
メアリー・カサット
舟遊び」(1893/94)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
次回に続く



 補記1 

メアリー・カサットが印象派を世界に広める貢献をしたこと、また、彼女の謙虚な人柄についての証言があります。画商のヴォラールが書いた「画商の想い出」という回想録の中の記述です。英訳版からの引用と、日本語試訳が以下です。


Mary Cassatt ! At the time of my first attempts,when I used to ask myself anxiously what the morrow would be like, how often did she get me providentially out of a difficulty !

"Have you a picture for the Havemeyers ?"
It was with a sort of frenzy that generous Mary Cassatt laboured for the success of her comrades: Monet, Pissarro, Cezanne, Sisley and the rest. But what indifference where her own painting was concerned! What an aversion from "pushing" her work in public. One day at an exhibition, they were fighting for and against the Impressionists.
"But," said someone, speaking to Mary Cassatt without knowing who she was, "you are forgetting a foreign painter that Degas ranks very high."
"Who is that? " she asked in astonishment.
"Mary Cassatt."
Without false modesty, quite naturally, she exclaimed, "Oh, nonsense!"
"She is jealous," murmured the other, turning away.

Ambroise Vollard
「Recollections of a Picture Dealer」(1936)
Chapter 19
( site : openlibrary.org )

(試訳)

メアリー・カサット!  私が画商になりたてで、明日はどうなるのかと案じつつ自問の日々を送っていた頃、彼女は神の助けのように、何度となく私を困難から救ってくれた。

「ハブマイヤー夫妻に売る絵はありますか?」

思いやりのあるメアリー・カサットは、熱狂的と言ってもいいくらいに仲間の成功のために尽くした。モネ、ピサロ、セザンヌ、シスレー、その他である。しかし自分の絵のことになると何と無関心だったのだろう。彼女は自分の作品を世に「売り込む」ことには嫌悪の情をもっていた。

ある日、ある展覧会で、二人の女性が印象派の画家たちを品定めしていた。
「だけど、」と、そのうちの一人が、相手は誰だか知らないでメアリー・カサットに話した。
「あなたはドガが高く評価している外国人の画家を忘れていますよ」
「誰ですの?」と、メアリーはびっくりして尋ねた。
「メアリー・カサットです」
「とんでもない!」とメアリーは叫んだ。わざとらしい謙遜ではなく、ごく自然に。
いているんだわ」と、もう一人は独り言を呟いて向こうへ行った。

ヴォラール「画商の想い出」より

補足しますと、ハブマイヤー夫妻の夫人、ルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの親友であり、本文中に書いたように、カサットの勧めによって購入したドガのパステル画はアメリカ人が初めて買った印象派絵画なのでした。

展示会での会話の部分は必ずしも分かりやすくはないのですが、ヴォラールが展覧会で二人の女性の会話を聞いていたと想像できます。一人はメアリー・カサットであり、会話している二人は互いに誰かは知らない。メアリー・カサットの名前をあげた「もう一人」は、"Oh, nonsense!" と答えた相手が「画家で、メアリー・カサットに嫉妬している」と思ったのでしょう。そういう情景だと解釈するのが最も妥当だと思います。

このエピソードは、スーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』の最後の締めくくりとして出てきます。伝記作者にとっても印象的だったのでしょう。



さらにヴォラールの回想録には重要な点があります。メアリー・カサットがアメリカの実業家に印象派の絵を売ることに非常に熱心だったという事実です。カサットの写真を引用したフィリップ・フック著「印象派はこうして世界を征服した」には、

メアリー・カサットは)印象派の画家としても活躍したが、印象派絵画を収集する多くのアメリカ人コレクターの強力なアドバイザーでもあった。

とありました。今では想像することさえ難しいけれども、印象派とそれに続くポスト印象派は当時の "前衛アート" です。それらの絵を購入してアートとしての成立を支えたのは、フランスのみならずアメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなどのコレクターです。そのなかでも最大の顧客であるアメリカへの橋渡しを最初にしたのがカサットだった。絵が売れるということは画家の生活が安定し、アートが発展するということに他なりません。ヴォラールが言うようにカサットは "前衛アート" を扱う画商にとって有り難い存在だったわけですが、一番助かったのは画家のはずです。

我々は、現代において高名な画家は当時も有名だったと錯覚しそうでが、決してそんなことはない。たとえばシスレーは困窮の中で死んだし、ゴッホは絵がほとんど売れずにピストル自殺をしました。ゴーギャンもタヒチで亡くなっています。なぜわざわざタヒチにまで行くのか ─── 。シスレー、ゴッホ、ゴーギャンは、画家としての絶望の中で死んでいったのだと思います。

そしてもちろん、生前から高い評価を受け、絵が売れ、安定した生活を送った "前衛アート" の画家がいたわけです。その背景(の一つ)に当時の新興国家であるアメリカがあり、そこへのブリッジとなった一人がメアリー・カサットだった。まさに印象派が世界に広まる手助けをしたわけで、このことを過小評価してはならないと思います。

なお『画商の想い出』は日本語訳が出版されています(美術公論社 1980)。



 補記2 

現代では全く想像しがたいのですが、本文中に書いたように印象派は当時の批評家から酷評されていました。そのあたりをフィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』から引用します(メアリー・カサットの写真を引用した本です)。著者はサザビーズの印象派&近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人です。引用に出てくるヴォルフは当時の有名な批評家です。


1876年の印象派の第二回展(引用注:画商のデュラン = リュエルの画廊で開催)の展評を書いたアルベール・ヴォルフは、展覧会に対していかなる好意も示さなかった。

  デュラン=リュエル画廊で〈絵画〉であると主張されているものの展覧会が始まった。・・・・・・ 女性一人を含む五、六人の精神異常者たちが ── このグループは哀れにもみんな気のふれた野心にとりつかれているのだが ── 自分たちの作品を展示するためにこの画廊に集まっている。その作品を見て大笑いする者もいたが、個人的には私はひどい苦悩を感じる。自身を〈非妥協派〉とか〈印象派〉と呼んでいるこの自称画家たちは、絵の具と筆を手にしてカンヴァスに向かうと、わずかばかりの色をでたらめにおき、それですべて終わりなのだ。彼らのしていることが何に似ているかといえば、ラ・ヴィル = エヴラール精神病院の患者たちが、道ばたの小石を集め、それを愚かにもダイヤモンドだと思いこんでいるようなものだ。人間が虚栄心によって、これほどまでに錯乱状態に押しやられるのを目の当たりにするのは恐ろしいことだ。

二十一世紀のタブロイド紙がもし当時あったなら、印象派の絵画と五歳の子どものいたずら描きの写真を並べた上に、「どっちがどっちかおわかりか?」という見出しをつけて嘲笑的な特集を組んだことだろう。当時もパリのジャーナリズムは、印象派の展覧会に来た妊婦が、絵をみたショックで早産を引き起こす恐れがあるからと、入り口で閉め出されている風刺画を載せている。このように1870年代の印象派の展覧会は〈モダンアート〉を笑いものにするという最初の機会を新聞に与えることになったのだが、これ以後、大衆新聞にとって、この路線は記事として外れることがなかった。

1876年の印象派展で「五、六人の精神異常者のうちの一人」と、ヴォルフに名指しされた女性はベルト・モリゾだった。彼女の夫は、この批評家に決闘を申し込もうとして引き留められた。


ちなみに、決闘を申し込もうとしたベルト・モリゾ(1841-1895)の夫とは、マネの弟のウージェーヌ・マネですね(1874年結婚)。この文章で気づくのは、当時のパリには決闘の習慣があったということです。

それはともかく、我々が目にするベルト・モリゾの作品というと、いかにも "おだやか" で "ノーマル" で "家庭的" ですが、それでも批評家からすると「精神異常者」なのです。本文で引用した原田マハさんの短篇小説『エトワール』には、画家(ドガ)のアートにかける情熱と戦いが描かれていたわけですが、そのバックにあるのは印象派に対する酷評や揶揄だった。そこを考えないと小説の真の意味は理解しにくいと思います。



 補記3 

メアリー・カサットとエドガー・ドガの関係についてのエピソードの一つです。『髪を整える少女』(1886。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)という作品に関するものです。

Mary Cassatt - Girl Arraging Her Hair.jpg
メアリー・カサット
髪を整える少女』(1886)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

この作品が1886年の最後の「印象派展」に出品されたとき、これを見たドガは「なんという素描力、なんという様式!」と感嘆して叫んだという。そして彼はカサットに、その絵を自分の湯浴みする女を描いたパステル画一枚と交換してくれるよう頼んだ。じつはこの作品は、カサットが友人の絵を様式がないと評したところ、ドガに「女性には様式などわからない」のだから他人の作品をそのように批判すべきでないと言われたのが腹にすえかねて、彼女がそれに答えるべく描いたものであった。ごく平凡な題材であるにもかかわらず見る者を退屈させないのは、まさに彼女が挑んだ「様式」ゆえであろう。

八重樫春樹・柏 健 解説
世界美術全集
「印象派の画家たち 9 カサット」
(千趣会 1978)

本文で引用したスーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』には、二人の関係がいろいろと記述されています。「二人の長い友情の間には、ぶつかり合いも頻繁に起こり、メアリーがドガの振る舞いに怒って会うのを拒むこともあった」ということも書かれていました。この『髪を整える少女』の件も、そういった一つなのだろうと思います。「女に様式などわからない」などと、ひどいことを言われたメアリーが、見返してやろうと発奮して絵を描き、ドガはそれに感嘆した・・・・・・。二人の関係を物語っていると思います。

この絵の「片方の肘をあげ、片方の手は髪をつかむ」というポーズで直観的に思い出すのは、アングルの『ヴィーナスの誕生』と、それとほぼ同じポーズの『泉』ですね。明らかにそれを踏まえていると思います。また、ひょっとしたらこの絵は、ドガの代表作の一つである『アイロンをかける女たち』(1884/6 オルセー美術館)を意識しているのではないでしょうか。メアリーはかなり意図的にモチーフを選んだのかもしれません。

Ingres - ヴィーナスの誕生.jpg Ingres - 泉.jpg
ドミニク・アングル(1780-1867)
ヴィーナスの誕生」(1807-1848)
(コンデ美術館:シャンティ城)
(画像はWikipediaより)
」(1820-1856)
(オルセー美術館)


Degas - アイロンをかける女たち.jpg
エドガー・ドガ
アイロンをかける女たち』(1884/6)
(オルセー美術館)



 補記4 

ドガがメアリー・カサットの作品を評した、別のエピソードを紹介します。「化粧」(Woman Bathing)という版画です。一見して日本の浮世絵の影響が見てとれる作品です。

Mary Cassatt - Woman Bathing.jpg
メアリー・カサット
化粧』(1990/1991)
(アクアチント + ドライポイント + エッチング)
(メトロポリタン美術館蔵)

この《化粧》は、ドガをして、「女性にこれほどみごとな素描ができるとは、認めるわけにはいかない」と嘆息せしめたものである。

八重樫春樹・柏 健 解説
世界美術全集
「印象派の画家たち 9 カサット」
(千趣会 1978)

補記3もそうですが、どうも伝えられるドガの発言には「現代人が言ったとしたらセクシャル・ハラスメントになりそうなもの」がいろいろありますね。もちろん当時のヨーロッパは完全な「男社会」であり、そこに出現したアメリカの上流階級出身の女性画家など、ドガがらすると本来「ありえない」存在だったからでしょう。

「女性は素描が下手だ。ただしメアリーだけは別格だ」という意味にとれます。この版画を絶賛した発言だと思います。



 補記5 

2016年6月25日~9月11日の予定で、横浜美術館で「メアリー・カサット展」が開かれています(その後、京都国立近代美術館に巡回)。その音声ガイドで、カサットとドガの関係を暗示するような解説があったので、掲げておきます。


カサットは、短気で偏屈なドガとなぜ付き合っていられるのかを尋ねられたとき、こう答えています。「それは、私が自立しているからです」。

メアリー・カサット展
音声ガイドより
2016年6月25日~9月11日 横浜美術館

またこの展示会では、メアリー・カサットの年譜の中に次のような記述がありました。


1917年(73歳)
9月27日、ドガ没。カサットはその遺産管理を手伝う。ドガとカサットの書簡が廃棄処分される。

メアリー・カサット展
図録より
2016年6月25日~9月11日 横浜美術館

この記事の本文に引用したスーザン・マイヤーの伝記には、「メアリーは、死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払っている」と書かれていました。メアリー・カサットは自分とドガの間で交わした書簡が後世に残ることのないよう、念入りに行動したようです。

(2016.7.31)


 補記6 

この記事の本文でメアリー・カサットの23歳の写真を掲載しましたが、それはフィリップ・クック著『印象派はこうして世界を征服した』からの引用でした。また「補記2」も同じ本からの引用です。

そのフィリップ・クックはオークション会社・サザビーズのシニア・ディレクターですが、彼の別の著書にドガの『14歳の小さな踊り子』を評した箇所があります。この彫刻は本文でとりあげた短編小説『エトワール』(原田マハ)の主題になっているので、是非その箇所を引用したいと思います。


2009年、ロンドンのサザビーズが、ドガの高名な作品で、19世紀の最も医大な彫刻の一つである《14歳の小さな踊り子》(1880年)のブロンズ鋳造を売ったときのことが思い出される(作品は1900万ドル[約17億円]で売れた)。セール前の宣伝のため、ロイヤル・バレエ学校から14歳の生きた本物のバレリーナが借り出され、ドガが1880年に制作した踊り子の隣でポーズをとった。

これはプロモーションイヴェントとしては大成功を収めたし、2009年の英国人ダンサーはとても可愛らしかった。彼女は彫刻の隣でまったく同じポーズをとったまま、長時間にわたり立ち続け、その間、報道陣が2人並んだ姿を撮った。

比較してみて特に興味深かったのは、2人のポーズの微妙な違いだ。表面的には同じポーズだった。右脚を前に出し、左脚に対して足を直角に置いている。両手を背中で組み、頭を引き上げ、両目は自然に鼻の下の方へと視線を向けている。

だが2人を比べてみると、1880年のフランス製のオリジナル作品には、いくらか冷笑的なだらけた印象があることに気づく。それは男たらしの娘のコケティッシュな気配であり、頭と両目をそのような角度で置くことで、高慢で、金銭ずくで、だらしなく、抜け目ない、そのすべてが入り混じったような表情を映しているのだ。

2009年の生身の英国人ダンサーのヴァージョンからは、どれほど喜ばしい対照性が明らかになったことか。彼女は清々しい顔をして、身体の作りは強靱で、姿勢を真っ直ぐに保ち、優美で健康的で、ほのかにホッケー場の香りを漂わせていた。眼差しは純粋で、活気に満ち、瞳は澄んでいた。


「ホッケー場の香り」とは意外性があるたとえですが、要するに "スポーツをやっている少女から受けるような、健康的ではつらつとしが雰囲気" ということでしょう。

上の文章でフィリップ・クックは、ドガの技量や芸術性に疑問を呈しているのではありません。全く逆で、ドガを非常に高く評価しているのです。同じ本には次のように書いています。

  私はドガに魅了されている。私にとって、ドガは芸術におけるフランスの真髄を体現している。彼はおそらく19世紀の最も偉大なデッサン家であり、また構図に対する卓越した眼をもった、技巧的にも最高の革新者だった。

Degas' Danser and Royal Ballet Danser.jpg
2009年のサザビーズのオークションのプロモーションの写真。フィリップ・クック「サザビーズで朝食を」より
フィリップ・クックが『14歳の小さな踊り子』を評した「男たらしの娘のコケティッシュな気配」とか、「高慢で、金銭ずくで、だらしなく、抜け目ない、そのすべてが入り混じったような表情」というのは偏見でしょうか。彼は美術のプロなので、1880年当時のパリの踊り子の状況を熟知しているはずです(=パトロンを求める下層階級の少女)。「金銭ずくで」などという表現は、その知識なしには書けないでしょう。つまりこの彫刻を見るときの "バイアスがかかった見方" と言えそうです。

しかしそれよりも大きいのは、ドガが真実の姿、リアルな表情を切り取る技量のすごさでしょう。"ドガに魅了されている" 美術のプロフェッショナルが『14歳の小さな踊り子』を評した率直な(率直過ぎる)発言は、一切の美化を排して現実を映し出すアーティスト = ドガ の姿勢を浮き彫りにしています。

1880年のパリのオペラ座の14歳のダンサーと、2009年のロンドンのロイヤル・バレエ学校の14歳のダンサーは全く違う境遇にある。そのことを改めて思い起こす必要があると思いました。

(2018.11.12)



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