No.86 - ドガとメアリー・カサット [アート]
No.19「ベラスケスの怖い絵」で中野京子さんの『怖い絵』に従って、ドガの傑作『エトワール、または舞台の踊り子』を紹介しました。
この「踊り子が当時置かれていた立場」を鮮やかに描き出した小説が最近出版されたので、その内容を紹介したいと思います。No.72で紹介した小説『楽園のカンヴァス』を書いた原田マハさんの『ジヴェルニーの食卓』です。
『ジヴェルニーの食卓』は次の4編からなる短編小説集です。
◆ うつくしい墓
◆ エトワール
◆ タンギー爺さん
◆ ジヴェルニーの食卓
いずれも19世紀から20世紀前半にかけてのフランスの画家とその周辺を主題にした短編小説で、歴史的事実を織り交ぜて作られたフィクションです。今回紹介するのは、その中の『エトワール』です。
『エトワール』は、エドガー・ドガ(1834-1917)と、10歳年下の画家メアリー・カサット(1844-1926)との友情を背景とし、ドガの画家像をメアリー・カサットの視点で書くという構成になっています。そこでまず最初に、メアリー・カサットの生涯とドガとの関係をまとめておきます。メアリー・カサットがどういう画家かを踏まえておかないと、小説の意味が理解しにくいと思うからです。以下はスーザン・E・マイヤー著『メアリー・カサット』(渡辺眞 監訳。山口知子 訳。同朋社。1992)からの要約です。この本の著者は絵画雑誌の編集者を長年勤めた人で、アメリカ人画家に関する著書が多数あります。
メアリー・カサットの生涯
◆1844(0歳)
ペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれる。男3人・女2人の5人兄弟の次女であり、父親は銀行業や不動産業で財をなしていた。
◆1849(5歳)
カサット一家は同じペンシルヴァニア州のフィラデルフィアに移る。
◆1851(7歳)
一家は子供たちの教育のためにパリに移住。そこで2年間を過ごす。
◆1853(9歳)
さらに一家はドイツに移住(ハイデルベルク、ダルムシュタット)。長男をエンジニアの学校に入れるのが大きな目的であった。
◆1855(11歳)
一家はパリに数ヶ月滞在したあと、フィラデルフィアに戻る。
◆1860(16歳)
メアリーはペンシルヴァニア美術アカデミーに入学。
◆1865(21歳)
メアリーはパリに行って画家になる決心を固め、両親にそう宣言する。初め猛反対していた父親も、メアリーの説得を受け入れ、娘のパリ行きを支援した。
◆1866(22歳)
メアリーはパリに到着。ルーブル美術館での模写に励む。国立美術学校で教えていた画家・ジェロームのレッスンも受けた。
この年、メアリーは官展(サロン)に行き、初めてドガの作品を目にします。『メアリー・カサット』では以下のように記述されています。
原田さんの『エトワール』では、この年のサロンでメアリーは、唯一ドガの「障害競馬 - 落馬した騎手」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)に心を惹かれたと書かれています。ちなみに上の引用にあるモネの作品は、妻・カミーユを等身大に描いた「緑衣の女」(独:ブレーメン美術館)という作品です。
◆1868(24歳)
メアリーの作品『マンドリンを弾く女』が官展(サロン)に初入選。
◆1870(26歳)
この年、普仏戦争が勃発。メアリーはアメリカに戻る。
◆1871(27歳)
ピッツバーグの司教から、イタリアのパルマにあるコレッジョの2枚の宗教画を模写するよう依頼をうけ、イタリアに旅立つ。
◆1872(28歳)
スペインのマドリードとセヴィリアに8か月滞在。プラド美術館ではベラスケスやムリーリョ、ゴヤの絵に感銘をうける。この間、多数の絵を制作する。
なお、世界美術全集「印象派の画家たち 9 カサット」(八重樫春樹・柏 健 解説。千趣会 1978)には、「首都マドリードのプラド美術館ではベラスケス、リューベンス、ゴヤなどの作品を熱心に模写した」とあります。
◆1873(29歳)
スペインで描いた『闘牛士にパナルを差し出す女(トレーロと少女)』がサロンに入選。これを機会に、オランダ、ベルギーへの旅行を経てパリに移る。
◆1874(30歳)
『コルティエ婦人の肖像』がサロンに入選。この年、有名な第1回印象派展が開催された。
1874年のサロンをドガが訪れた時のことが『メアリー・カサット』に記述されています。下の引用の「ナダールの展覧会」とはもちろん、第1回印象派展のことです。
◆1875(31歳)
メアリーはパリに永住する意向を固める。彼女は以前に画廊で見たドガの作品に強く惹かれていく。
この頃、メアリーはパリで友人になったアメリカ人のルイジーン・エルダーにドガのパステル画『バレエのリハーサル』を買うように強く勧めます。ルイジーンは100ドルで購入し、これがアメリカ人が購入した最初の印象派作品になりました。ルイジーンはのちに精糖会社を経営していたヘンリー・ハブマイヤーと結婚し、ハブマイヤー夫妻はメアリーをアドバイザーとして印象派の大コレクションを築きます。これらはのちにメトロポリタン美術館に寄贈されました。
メアリーはハブマイヤー夫妻以外にも美術品を収集しているアメリカ人コレクターに印象派の絵を買うように勧めます。アメリカ東部のエスタブリッシュメントの間では「カサット家のお嬢さん推薦」というのが一種の「ブランド」になったようです。現代のアメリカに印象派の重要な作品が数多く存在するのはメアリー・カサットの功績であり、そもそも印象派の絵画が世界的に成功した、その立役者の一人が彼女なのです。
◆1877(33歳)
ドガが、友人のジョセフ・ツアニーの紹介でメアリーのアトリエを訪問。印象派展に出品するよう、メアリーを勧誘する。
◆1879(35歳)
第4回印象派展にメアリー・カサット初出展。出展作は『青い肘掛け椅子の少女』など11点。
これ以降、1880年代・90年代と、メアリーの画家としての才能が大きく開花します。当初酷評された印象派の絵画を擁護し世に広めた画商、ポール・デュラン=リュエルの画廊で個展も開催しました。彼女はフランスでも高名な画家になります。特に「母と子」や「子ども」のモチーフを独特の暖かいタッチで描いた一連の作品は有名です。
◆1904(60歳)
メアリーはフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章(シュヴァリエ)を受ける。1910年代以降は白内障で視力が衰え、ほどんど描かなくなります。
◆1917(73歳)
アトリエで倒れたドガが急逝。ドガ83歳。
◆1926(82歳)
メアリー・カサット逝去
ドガとメアリーは互いのアトリエを訪問し、画家同士の友情で結ばれていました。と同時に、メアリーは画家としてドガの影響を受けています。彼女がパステル画を多く描くようになったのはドガの影響です。二人の関係を『メアリー・カサット』は次のように記述しています。
「死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払った」とありますね。その時点でドガは既に亡くなっています。絶対に他人に読まれたくない手紙ということでしょう。メアリー・カサットからみてドガはどういう人だったのでしょうか。
ちなみにドガがメアリーに贈ったグリフォン犬は『青い肘掛け椅子の少女』(前掲)に描き込まれています。メアリーの他の絵にもこの愛犬が登場します。なお、上の引用には小型テリアとありますが、グリフォン犬とテリア犬は違うので著者の勘違いかと思います。
原田マハ『エトワール』 (短編集『ジヴェルニーの食卓』より)
本題の原田さんの小説『エトワール』です。舞台はパリのポール・デュラン=リュエルの画廊で、ドガの死の翌年、1918年に設定されています。ポール・デュラン=リュエルは一貫して印象派を擁護した画商で、幾多の困難を乗り越えて印象派を世に認知させた立役者です。ドガをはじめとする印象派の画家たちとの付き合い広く、もちろんメアリー・カサットとも旧知の間柄です。
おりしもポール・デュラン=リュエルの画廊では「ドガ回顧展」が開催されていました。メアリー・カサットは招待をうけ、ポールが差し向けたクルマで画廊に到着します。このときポールは87歳、メアリーは74歳です。二人は久しぶりの再会を喜びます。
ドガが亡くなった後のアトリエからは、大量の油彩画、パステル画、デッサンが発見され、画廊はその目録を作ったのでした。その目録の完成記念に開催したのが「ドガ回顧展」です。メアリーとポールはドガの作品を見ながら思い出を語ります。
しかしポールがわざわざ車を差し向けて隠居中のメアリーを画廊に招いたのは、ある目的がありました。ポールはメアリーを車に乗せ、デュラン=リュエル画廊の美術倉庫へと連れていきます。
何重にも鍵がかかった倉庫の中でポールがメアリーに見せたのは、ドガのアトリエで発見された多数の小さな立体作品です。それは蝋で作られたバレエの踊り子で、踊り子がいろいろなポーズをとっているものでした。メアリーはドガがこのような作品を作っていたことを知り、驚きます。ポールは、これは彫刻作品以前の「試作(マケット)」と呼ぶべきで、おそらくドガは絵画を描く際にこれらのマケットを使って踊り子のポーズを研究していたのだという推測を述べます。確かに生身の人間につま先で長時間立つポーズをさせるなど無理です。
しかしポールがメアリーに一番見せたかったのは別のものでした。美術倉庫の一番奥にあったのは、メアリーがよく知っている、彼女にとっても忘れられない作品でした。それはドガの生前に発表された唯一の彫刻作品『14歳の小さな踊り子』です。メアリーは40年近く前にドガのアトリエを訪れた時のことを思い出します。
メアリーはアトリエの前室にコートをかけると、隣室のドガに話かけながらアトリエに入ろうとします。そしてハッと立ち止まってしまいます。黒い布を垂らした壁の前に少女が立っています。少女は全裸です。
ドガはにこやかにメアリーに話かけますが、気が動転したメアリーは前室に戻り、長椅子に腰掛けます。ドガがモデルを前に制作をするのはいつものことでしたが、全裸の女性に行き合ったのは初めてした。しかも年端もいかない少女です。
少女が帰ったあと、メアリーはドガに話かけます。
以前からドガは、アトリエに連れてきた踊り子をモデルに熱心にポーズの研究をしていました。メアリーはその光景を何度も目にしていたのです。
「あの少女もそういう境遇であるに違いない」とメアリーは思いますが、全裸の少女の姿を目撃して以来、メアリーはドガのアトリエから足が遠のきます。
しかし次の印象派展のための作品の制作開始が迫ってきた時期、メアリーは出展作品の意見を交わすためにドガのアトリエを訪問します。その時ドガは蝋で作った少女の小さな像(マケット)を数点見せます。
そしてこのマケットをもとにドガは1メートルほどの大きさの少女の像を作ったのでした。メアリーが再び尋ねてきた時、印象派展まで絶対に秘密にするという条件でドガはその像をメアリーに見せます。
メアリーはモデルになった少女に会おうと決心します。ドガが少女の像を制作した真の理由をどうしても知りたくなったのです。教えられた少女の名前はマリー・ヴァン・ゴーテム。メアリーは冬の夕方、オペラ座の裏口に面した路地で、踊り子たちのレッスンが終わるのを待ちます。
そうして待っている間にも、何台もの馬車が止まり、シルクハットを被った紳士が裏口から劇場に消えていきました。メアリーにはかつてドガが語った言葉が忘れられません。
メアリーはマリーとオペラ座の裏口で出会い、自分も画家であることを言い、自分のアトリエにつれていきます。アトリエに入るなり「全部脱げばいいですか」と吐き捨てるように言うマリーに対し、メアリーはそうじゃない、話を聞きたいだけだと言います。そしてドガのモデルになった経緯や、ドガがマリーにした約束を聞き出します。
ドガがマリーにした約束、およびポール・デュラン=リュエルが『14歳の小さな踊り子』をメアリー・カサットに見せた目的は割愛したいと思います。このあたりが小説のストーリーのキモになっています。
付け加えますと『14歳の小さな踊り子』は第6回印象派展(1881)に出品され、批評家たちから酷評を浴びます。そして売れることもなく、ドガのアトリエにしまい込まれたのでした。
アートにかける情熱
紹介したのはストーリの骨子だけです。この骨子の部分はほとんどフィクション(ないしは作者の推測)でしょう。しかしその骨子の中にドガやメアリーカサットの生涯、二人に出会いと交流などの歴史的事実が多数織り込まれています。また19世紀後半のフランスの美術界の状況やアメリカとの関係が概観できるようになっています。作者は「史実にもとづいたフィクション」と書いています。
『エトワール』の一番のポイントは、アーティストが作品の創造にかける桁外れの情熱を描き出したことでしょう。No.72で紹介した『楽園のカンヴァス』で作者の原田さんは画家(アンリ・ルソー)、コレクター、研究者、キュレーターがそれぞれの立場でアートに賭ける情熱を描いたのですが、この『エトワール』の場合はエドガー・ドガの情熱です。それを友人の画家であるメアリー・カサットの目を通して描くことによってより鮮明にし、その構図の中で当時のパリ・オペラ座の踊り子が置かれていた状況を描き出す・・・・・・。小説の構成テクニックがピタリと決まった作品です。
そしてこの小説のもう一つのポイントはメアリー・カサットですね。小説では彼女はドガという画家を見る「視点」としての役割ですが、よくよく考えれば彼女も相当な人です。
ペンシルヴァニアの良家のお嬢さんが、当時ほとんどいなかった女性の画家を目指し、退路を絶ってパリに移住し、しかも批評家・大衆から酷評されていた前衛アート(=印象派)の運動に参加して「いばらの道」を歩む。ドガに多大な影響を受けつつも、それを乗り越えて「母と子」や「子ども」のモチーフに見られる独自の作品世界を作る。その上、印象派の絵画をアメリカに広めることに注力し、印象派の世界的成功の立役者になる。ただし、そのことを人にひけらかすことはない・・・・・・・・。
メアリー・カサットという画家もまた、そのアートに対する飽くことのない探求心においてはドガに引けをとらないのです。そしてメアリーの伝記、スーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』で何回か強調されていることは、メアリーはアートに対する強い情熱とは別に、人間としては実に控えめで謙虚だったということです。原田マハさんの『エトワール』は、実はそういったメアリー・カサットの人間像もうまく掬い取っていると思いました。
ここからは余談です。モネやゴッホがそうであったように、19世紀後半のパリにいた画家の多くは、日本美術、特に浮世絵の影響を受けています。『エトワール』の二人の画家もそうです。
メアリー・カサットが印象派を世界に広める貢献をしたこと、また、彼女の謙虚な人柄についての証言があります。画商のヴォラールが書いた「画商の想い出」という回想録の中の記述です。英訳版からの引用と、日本語試訳が以下です。
補足しますと、ハブマイヤー夫妻の夫人、ルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの親友であり、本文中に書いたように、カサットの勧めによって購入したドガのパステル画はアメリカ人が初めて買った印象派絵画なのでした。
展示会での会話の部分は必ずしも分かりやすくはないのですが、ヴォラールが展覧会で二人の女性の会話を聞いていたと想像できます。一人はメアリー・カサットであり、会話している二人は互いに誰かは知らない。メアリー・カサットの名前をあげた「もう一人」は、"Oh, nonsense!" と答えた相手が「画家で、メアリー・カサットに嫉妬している」と思ったのでしょう。そういう情景だと解釈するのが最も妥当だと思います。
このエピソードは、スーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』の最後の締めくくりとして出てきます。伝記作者にとっても印象的だったのでしょう。
さらにヴォラールの回想録には重要な点があります。メアリー・カサットがアメリカの実業家に印象派の絵を売ることに非常に熱心だったという事実です。カサットの写真を引用したフィリップ・フック著「印象派はこうして世界を征服した」には、
とありました。今では想像することさえ難しいけれども、印象派とそれに続くポスト印象派は当時の "前衛アート" です。それらの絵を購入してアートとしての成立を支えたのは、フランスのみならずアメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなどのコレクターです。そのなかでも最大の顧客であるアメリカへの橋渡しを最初にしたのがカサットだった。絵が売れるということは画家の生活が安定し、アートが発展するということに他なりません。ヴォラールが言うようにカサットは "前衛アート" を扱う画商にとって有り難い存在だったわけですが、一番助かったのは画家のはずです。
我々は、現代において高名な画家は当時も有名だったと錯覚しそうでが、決してそんなことはない。たとえばシスレーは困窮の中で死んだし、ゴッホは絵がほとんど売れずにピストル自殺をしました。ゴーギャンもタヒチで亡くなっています。なぜわざわざタヒチにまで行くのか ─── 。シスレー、ゴッホ、ゴーギャンは、画家としての絶望の中で死んでいったのだと思います。
そしてもちろん、生前から高い評価を受け、絵が売れ、安定した生活を送った "前衛アート" の画家がいたわけです。その背景(の一つ)に当時の新興国家であるアメリカがあり、そこへのブリッジとなった一人がメアリー・カサットだった。まさに印象派が世界に広まる手助けをしたわけで、このことを過小評価してはならないと思います。
なお『画商の想い出』は日本語訳が出版されています(美術公論社 1980)。
現代では全く想像しがたいのですが、本文中に書いたように印象派は当時の批評家から酷評されていました。そのあたりをフィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』から引用します(メアリー・カサットの写真を引用した本です)。著者はサザビーズの印象派&近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人です。引用に出てくるヴォルフは当時の有名な批評家です。
ちなみに、決闘を申し込もうとしたベルト・モリゾ(1841-1895)の夫とは、マネの弟のウージェーヌ・マネですね(1874年結婚)。この文章で気づくのは、当時のパリには決闘の習慣があったということです。
それはともかく、我々が目にするベルト・モリゾの作品というと、いかにも "おだやか" で "ノーマル" で "家庭的" ですが、それでも批評家からすると「精神異常者」なのです。本文で引用した原田マハさんの短篇小説『エトワール』には、画家(ドガ)のアートにかける情熱と戦いが描かれていたわけですが、そのバックにあるのは印象派に対する酷評や揶揄だった。そこを考えないと小説の真の意味は理解しにくいと思います。
メアリー・カサットとエドガー・ドガの関係についてのエピソードの一つです。『髪を整える少女』(1886。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)という作品に関するものです。
本文で引用したスーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』には、二人の関係がいろいろと記述されています。「二人の長い友情の間には、ぶつかり合いも頻繁に起こり、メアリーがドガの振る舞いに怒って会うのを拒むこともあった」ということも書かれていました。この『髪を整える少女』の件も、そういった一つなのだろうと思います。「女に様式などわからない」などと、ひどいことを言われたメアリーが、見返してやろうと発奮して絵を描き、ドガはそれに感嘆した・・・・・・。二人の関係を物語っていると思います。
この絵の「片方の肘をあげ、片方の手は髪をつかむ」というポーズで直観的に思い出すのは、アングルの『ヴィーナスの誕生』と、それとほぼ同じポーズの『泉』ですね。明らかにそれを踏まえていると思います。また、ひょっとしたらこの絵は、ドガの代表作の一つである『アイロンをかける女たち』(1884/6 オルセー美術館)を意識しているのではないでしょうか。メアリーはかなり意図的にモチーフを選んだのかもしれません。
ドガがメアリー・カサットの作品を評した、別のエピソードを紹介します。「化粧」(Woman Bathing)という版画です。一見して日本の浮世絵の影響が見てとれる作品です。
補記3もそうですが、どうも伝えられるドガの発言には「現代人が言ったとしたらセクシャル・ハラスメントになりそうなもの」がいろいろありますね。もちろん当時のヨーロッパは完全な「男社会」であり、そこに出現したアメリカの上流階級出身の女性画家など、ドガがらすると本来「ありえない」存在だったからでしょう。
「女性は素描が下手だ。ただしメアリーだけは別格だ」という意味にとれます。この版画を絶賛した発言だと思います。
2016年6月25日~9月11日の予定で、横浜美術館で「メアリー・カサット展」が開かれています(その後、京都国立近代美術館に巡回)。その音声ガイドで、カサットとドガの関係を暗示するような解説があったので、掲げておきます。
またこの展示会では、メアリー・カサットの年譜の中に次のような記述がありました。
この記事の本文に引用したスーザン・マイヤーの伝記には、「メアリーは、死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払っている」と書かれていました。メアリー・カサットは自分とドガの間で交わした書簡が後世に残ることのないよう、念入りに行動したようです。
この記事の本文でメアリー・カサットの23歳の写真を掲載しましたが、それはフィリップ・クック著『印象派はこうして世界を征服した』からの引用でした。また「補記2」も同じ本からの引用です。
そのフィリップ・クックはオークション会社・サザビーズのシニア・ディレクターですが、彼の別の著書にドガの『14歳の小さな踊り子』を評した箇所があります。この彫刻は本文でとりあげた短編小説『エトワール』(原田マハ)の主題になっているので、是非その箇所を引用したいと思います。
「ホッケー場の香り」とは意外性があるたとえですが、要するに "スポーツをやっている少女から受けるような、健康的ではつらつとしが雰囲気" ということでしょう。
上の文章でフィリップ・クックは、ドガの技量や芸術性に疑問を呈しているのではありません。全く逆で、ドガを非常に高く評価しているのです。同じ本には次のように書いています。
フィリップ・クックが『14歳の小さな踊り子』を評した「男たらしの娘のコケティッシュな気配」とか、「高慢で、金銭ずくで、だらしなく、抜け目ない、そのすべてが入り混じったような表情」というのは偏見でしょうか。彼は美術のプロなので、1880年当時のパリの踊り子の状況を熟知しているはずです(=パトロンを求める下層階級の少女)。「金銭ずくで」などという表現は、その知識なしには書けないでしょう。つまりこの彫刻を見るときの "バイアスがかかった見方" と言えそうです。
しかしそれよりも大きいのは、ドガが真実の姿、リアルな表情を切り取る技量のすごさでしょう。"ドガに魅了されている" 美術のプロフェッショナルが『14歳の小さな踊り子』を評した率直な(率直過ぎる)発言は、一切の美化を排して現実を映し出すアーティスト = ドガ の姿勢を浮き彫りにしています。
1880年のパリのオペラ座の14歳のダンサーと、2009年のロンドンのロイヤル・バレエ学校の14歳のダンサーは全く違う境遇にある。そのことを改めて思い起こす必要があると思いました。
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(パリ・オルセー美術館) |
『ジヴェルニーの食卓』は次の4編からなる短編小説集です。
◆ うつくしい墓
◆ エトワール
◆ タンギー爺さん
◆ ジヴェルニーの食卓
いずれも19世紀から20世紀前半にかけてのフランスの画家とその周辺を主題にした短編小説で、歴史的事実を織り交ぜて作られたフィクションです。今回紹介するのは、その中の『エトワール』です。
原田マハ 「ジヴェルニーの食卓」 (集英社。2013) |
以降、本からの引用にあるアンダーラインは、いずれも原文にはありません。 |
メアリー・カサットの生涯
メアリー・カサット (メトロポリタン美術館) |
◆1844(0歳)
ペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれる。男3人・女2人の5人兄弟の次女であり、父親は銀行業や不動産業で財をなしていた。
◆1849(5歳)
カサット一家は同じペンシルヴァニア州のフィラデルフィアに移る。
◆1851(7歳)
一家は子供たちの教育のためにパリに移住。そこで2年間を過ごす。
◆1853(9歳)
さらに一家はドイツに移住(ハイデルベルク、ダルムシュタット)。長男をエンジニアの学校に入れるのが大きな目的であった。
◆1855(11歳)
一家はパリに数ヶ月滞在したあと、フィラデルフィアに戻る。
◆1860(16歳)
メアリーはペンシルヴァニア美術アカデミーに入学。
◆1865(21歳)
メアリーはパリに行って画家になる決心を固め、両親にそう宣言する。初め猛反対していた父親も、メアリーの説得を受け入れ、娘のパリ行きを支援した。
◆1866(22歳)
メアリーはパリに到着。ルーブル美術館での模写に励む。国立美術学校で教えていた画家・ジェロームのレッスンも受けた。
この年、メアリーは官展(サロン)に行き、初めてドガの作品を目にします。『メアリー・カサット』では以下のように記述されています。
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原田さんの『エトワール』では、この年のサロンでメアリーは、唯一ドガの「障害競馬 - 落馬した騎手」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)に心を惹かれたと書かれています。ちなみに上の引用にあるモネの作品は、妻・カミーユを等身大に描いた「緑衣の女」(独:ブレーメン美術館)という作品です。
◆1868(24歳)
メアリーの作品『マンドリンを弾く女』が官展(サロン)に初入選。
◆1870(26歳)
この年、普仏戦争が勃発。メアリーはアメリカに戻る。
◆1871(27歳)
ピッツバーグの司教から、イタリアのパルマにあるコレッジョの2枚の宗教画を模写するよう依頼をうけ、イタリアに旅立つ。
◆1872(28歳)
スペインのマドリードとセヴィリアに8か月滞在。プラド美術館ではベラスケスやムリーリョ、ゴヤの絵に感銘をうける。この間、多数の絵を制作する。
なお、世界美術全集「印象派の画家たち 9 カサット」(八重樫春樹・柏 健 解説。千趣会 1978)には、「首都マドリードのプラド美術館ではベラスケス、リューベンス、ゴヤなどの作品を熱心に模写した」とあります。
◆1873(29歳)
スペインで描いた『闘牛士にパナルを差し出す女(トレーロと少女)』がサロンに入選。これを機会に、オランダ、ベルギーへの旅行を経てパリに移る。
◆1874(30歳)
『コルティエ婦人の肖像』がサロンに入選。この年、有名な第1回印象派展が開催された。
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1874年のサロンをドガが訪れた時のことが『メアリー・カサット』に記述されています。下の引用の「ナダールの展覧会」とはもちろん、第1回印象派展のことです。
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◆1875(31歳)
メアリーはパリに永住する意向を固める。彼女は以前に画廊で見たドガの作品に強く惹かれていく。
この頃、メアリーはパリで友人になったアメリカ人のルイジーン・エルダーにドガのパステル画『バレエのリハーサル』を買うように強く勧めます。ルイジーンは100ドルで購入し、これがアメリカ人が購入した最初の印象派作品になりました。ルイジーンはのちに精糖会社を経営していたヘンリー・ハブマイヤーと結婚し、ハブマイヤー夫妻はメアリーをアドバイザーとして印象派の大コレクションを築きます。これらはのちにメトロポリタン美術館に寄贈されました。
エドガー・ドガ
「バレエのリハーサル」(c.1876) ネルソン・アトキンス美術館(The Nelson-Atkins Museum of Art。Kansas City, Missouri, USA)所蔵。パステルとグアッシュ。 ルイジーン・エルダーはメアリー・カサットの強い勧めにより1877年にこの絵を購入し、これがアメリカ人が購入した最初の印象派の絵となった。MoMAのサイトにあるドガの経歴によると、ルイジーンは1878年にこの絵をニューヨークの展覧会に貸し出し、ドガが(従って印象派が)アメリカに紹介された最初の機会となった。つまり、2つの意味で「歴史的」な作品である。リハーサルをしている踊り子を2人の男が見守っているが、右端に描いてあるのは「エトワール、または舞台の踊り子」と同じような「黒服の男」である。この絵もまた、「踊り子が当時置かれていた立場」を表している。画像は Wikimedia Commons より引用。ちなみに、ネルソン・アトキンス美術館は、海北友松の「月下渓流図屏風」を所蔵している美術館である。 |
メアリーはハブマイヤー夫妻以外にも美術品を収集しているアメリカ人コレクターに印象派の絵を買うように勧めます。アメリカ東部のエスタブリッシュメントの間では「カサット家のお嬢さん推薦」というのが一種の「ブランド」になったようです。現代のアメリカに印象派の重要な作品が数多く存在するのはメアリー・カサットの功績であり、そもそも印象派の絵画が世界的に成功した、その立役者の一人が彼女なのです。
◆1877(33歳)
ドガが、友人のジョセフ・ツアニーの紹介でメアリーのアトリエを訪問。印象派展に出品するよう、メアリーを勧誘する。
◆1879(35歳)
第4回印象派展にメアリー・カサット初出展。出展作は『青い肘掛け椅子の少女』など11点。
メアリー・カサット
この絵はワシントン・ナショナル・ギャラリー展(国立新美術館。2011.6)で展示された。
「青い肘掛け椅子の少女」(1878) (ワシントン・ナショナル・ |
これ以降、1880年代・90年代と、メアリーの画家としての才能が大きく開花します。当初酷評された印象派の絵画を擁護し世に広めた画商、ポール・デュラン=リュエルの画廊で個展も開催しました。彼女はフランスでも高名な画家になります。特に「母と子」や「子ども」のモチーフを独特の暖かいタッチで描いた一連の作品は有名です。
メアリー・カサット
「縫い物をする若い母親」(1900) (メトロポリタン美術館) |
◆1904(60歳)
メアリーはフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章(シュヴァリエ)を受ける。1910年代以降は白内障で視力が衰え、ほどんど描かなくなります。
◆1917(73歳)
アトリエで倒れたドガが急逝。ドガ83歳。
◆1926(82歳)
メアリー・カサット逝去
ドガとメアリーは互いのアトリエを訪問し、画家同士の友情で結ばれていました。と同時に、メアリーは画家としてドガの影響を受けています。彼女がパステル画を多く描くようになったのはドガの影響です。二人の関係を『メアリー・カサット』は次のように記述しています。
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「死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払った」とありますね。その時点でドガは既に亡くなっています。絶対に他人に読まれたくない手紙ということでしょう。メアリー・カサットからみてドガはどういう人だったのでしょうか。
ちなみにドガがメアリーに贈ったグリフォン犬は『青い肘掛け椅子の少女』(前掲)に描き込まれています。メアリーの他の絵にもこの愛犬が登場します。なお、上の引用には小型テリアとありますが、グリフォン犬とテリア犬は違うので著者の勘違いかと思います。
エドガー・ドガ (オルセー美術館) |
本題の原田さんの小説『エトワール』です。舞台はパリのポール・デュラン=リュエルの画廊で、ドガの死の翌年、1918年に設定されています。ポール・デュラン=リュエルは一貫して印象派を擁護した画商で、幾多の困難を乗り越えて印象派を世に認知させた立役者です。ドガをはじめとする印象派の画家たちとの付き合い広く、もちろんメアリー・カサットとも旧知の間柄です。
おりしもポール・デュラン=リュエルの画廊では「ドガ回顧展」が開催されていました。メアリー・カサットは招待をうけ、ポールが差し向けたクルマで画廊に到着します。このときポールは87歳、メアリーは74歳です。二人は久しぶりの再会を喜びます。
ドガが亡くなった後のアトリエからは、大量の油彩画、パステル画、デッサンが発見され、画廊はその目録を作ったのでした。その目録の完成記念に開催したのが「ドガ回顧展」です。メアリーとポールはドガの作品を見ながら思い出を語ります。
しかしポールがわざわざ車を差し向けて隠居中のメアリーを画廊に招いたのは、ある目的がありました。ポールはメアリーを車に乗せ、デュラン=リュエル画廊の美術倉庫へと連れていきます。
何重にも鍵がかかった倉庫の中でポールがメアリーに見せたのは、ドガのアトリエで発見された多数の小さな立体作品です。それは蝋で作られたバレエの踊り子で、踊り子がいろいろなポーズをとっているものでした。メアリーはドガがこのような作品を作っていたことを知り、驚きます。ポールは、これは彫刻作品以前の「試作(マケット)」と呼ぶべきで、おそらくドガは絵画を描く際にこれらのマケットを使って踊り子のポーズを研究していたのだという推測を述べます。確かに生身の人間につま先で長時間立つポーズをさせるなど無理です。
ドガが制作した踊り子のマケット (メトロポリタン美術館) |
しかしポールがメアリーに一番見せたかったのは別のものでした。美術倉庫の一番奥にあったのは、メアリーがよく知っている、彼女にとっても忘れられない作品でした。それはドガの生前に発表された唯一の彫刻作品『14歳の小さな踊り子』です。メアリーは40年近く前にドガのアトリエを訪れた時のことを思い出します。
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メアリーはアトリエの前室にコートをかけると、隣室のドガに話かけながらアトリエに入ろうとします。そしてハッと立ち止まってしまいます。黒い布を垂らした壁の前に少女が立っています。少女は全裸です。
ドガはにこやかにメアリーに話かけますが、気が動転したメアリーは前室に戻り、長椅子に腰掛けます。ドガがモデルを前に制作をするのはいつものことでしたが、全裸の女性に行き合ったのは初めてした。しかも年端もいかない少女です。
少女が帰ったあと、メアリーはドガに話かけます。
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以前からドガは、アトリエに連れてきた踊り子をモデルに熱心にポーズの研究をしていました。メアリーはその光景を何度も目にしていたのです。
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「あの少女もそういう境遇であるに違いない」とメアリーは思いますが、全裸の少女の姿を目撃して以来、メアリーはドガのアトリエから足が遠のきます。
しかし次の印象派展のための作品の制作開始が迫ってきた時期、メアリーは出展作品の意見を交わすためにドガのアトリエを訪問します。その時ドガは蝋で作った少女の小さな像(マケット)を数点見せます。
そしてこのマケットをもとにドガは1メートルほどの大きさの少女の像を作ったのでした。メアリーが再び尋ねてきた時、印象派展まで絶対に秘密にするという条件でドガはその像をメアリーに見せます。
エドガー・ドガ
「14歳の小さな踊り子」(1881) (ワシントン・ナショナル・ この作品はドガの死後にブロンズに鋳造され、約30の像が欧米の美術館に所蔵されている。写真はドガが作ったオリジナルの塑像である。高さは約1mで、モデルとなった少女の2/3のサイズである。 ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式カタログは次のように書いている。 ・・・・ そのレアリスムに加えて、ドガは彫像に本物のチュチュとリボンを付けために、ぎょっとさせるものがあった。アカデミー派の、多くは古典に主題を得た裸婦像のなめらかな仕上げに慣れた批評家たちは、「小さいバレリーナ」のレアリスムをグロテスクと評した。作家で美術評論家のJ・K・ユイスマンスは違う感想を持った。「実際のところ、ムッシュー・ドガは一撃にして、彫像の伝統を覆した」。 |
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メアリーはモデルになった少女に会おうと決心します。ドガが少女の像を制作した真の理由をどうしても知りたくなったのです。教えられた少女の名前はマリー・ヴァン・ゴーテム。メアリーは冬の夕方、オペラ座の裏口に面した路地で、踊り子たちのレッスンが終わるのを待ちます。
そうして待っている間にも、何台もの馬車が止まり、シルクハットを被った紳士が裏口から劇場に消えていきました。メアリーにはかつてドガが語った言葉が忘れられません。
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メアリーはマリーとオペラ座の裏口で出会い、自分も画家であることを言い、自分のアトリエにつれていきます。アトリエに入るなり「全部脱げばいいですか」と吐き捨てるように言うマリーに対し、メアリーはそうじゃない、話を聞きたいだけだと言います。そしてドガのモデルになった経緯や、ドガがマリーにした約束を聞き出します。
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ドガがマリーにした約束、およびポール・デュラン=リュエルが『14歳の小さな踊り子』をメアリー・カサットに見せた目的は割愛したいと思います。このあたりが小説のストーリーのキモになっています。
付け加えますと『14歳の小さな踊り子』は第6回印象派展(1881)に出品され、批評家たちから酷評を浴びます。そして売れることもなく、ドガのアトリエにしまい込まれたのでした。
アートにかける情熱
紹介したのはストーリの骨子だけです。この骨子の部分はほとんどフィクション(ないしは作者の推測)でしょう。しかしその骨子の中にドガやメアリーカサットの生涯、二人に出会いと交流などの歴史的事実が多数織り込まれています。また19世紀後半のフランスの美術界の状況やアメリカとの関係が概観できるようになっています。作者は「史実にもとづいたフィクション」と書いています。
『エトワール』の一番のポイントは、アーティストが作品の創造にかける桁外れの情熱を描き出したことでしょう。No.72で紹介した『楽園のカンヴァス』で作者の原田さんは画家(アンリ・ルソー)、コレクター、研究者、キュレーターがそれぞれの立場でアートに賭ける情熱を描いたのですが、この『エトワール』の場合はエドガー・ドガの情熱です。それを友人の画家であるメアリー・カサットの目を通して描くことによってより鮮明にし、その構図の中で当時のパリ・オペラ座の踊り子が置かれていた状況を描き出す・・・・・・。小説の構成テクニックがピタリと決まった作品です。
「パリのアメリカ人」、娘時代のメアリー・カサット。印象派の画家としても活躍したが、印象派絵画を収集する多くのアメリカ人コレクターの強力なアドヴァイザーでもあった。 |
ペンシルヴァニアの良家のお嬢さんが、当時ほとんどいなかった女性の画家を目指し、退路を絶ってパリに移住し、しかも批評家・大衆から酷評されていた前衛アート(=印象派)の運動に参加して「いばらの道」を歩む。ドガに多大な影響を受けつつも、それを乗り越えて「母と子」や「子ども」のモチーフに見られる独自の作品世界を作る。その上、印象派の絵画をアメリカに広めることに注力し、印象派の世界的成功の立役者になる。ただし、そのことを人にひけらかすことはない・・・・・・・・。
メアリー・カサットという画家もまた、そのアートに対する飽くことのない探求心においてはドガに引けをとらないのです。そしてメアリーの伝記、スーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』で何回か強調されていることは、メアリーはアートに対する強い情熱とは別に、人間としては実に控えめで謙虚だったということです。原田マハさんの『エトワール』は、実はそういったメアリー・カサットの人間像もうまく掬い取っていると思いました。
ここからは余談です。モネやゴッホがそうであったように、19世紀後半のパリにいた画家の多くは、日本美術、特に浮世絵の影響を受けています。『エトワール』の二人の画家もそうです。
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メアリー・カサット
「舟遊び」(1893/94) (ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
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次回に続く
 補記1  |
メアリー・カサットが印象派を世界に広める貢献をしたこと、また、彼女の謙虚な人柄についての証言があります。画商のヴォラールが書いた「画商の想い出」という回想録の中の記述です。英訳版からの引用と、日本語試訳が以下です。
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補足しますと、ハブマイヤー夫妻の夫人、ルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの親友であり、本文中に書いたように、カサットの勧めによって購入したドガのパステル画はアメリカ人が初めて買った印象派絵画なのでした。
展示会での会話の部分は必ずしも分かりやすくはないのですが、ヴォラールが展覧会で二人の女性の会話を聞いていたと想像できます。一人はメアリー・カサットであり、会話している二人は互いに誰かは知らない。メアリー・カサットの名前をあげた「もう一人」は、"Oh, nonsense!" と答えた相手が「画家で、メアリー・カサットに嫉妬している」と思ったのでしょう。そういう情景だと解釈するのが最も妥当だと思います。
このエピソードは、スーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』の最後の締めくくりとして出てきます。伝記作者にとっても印象的だったのでしょう。
さらにヴォラールの回想録には重要な点があります。メアリー・カサットがアメリカの実業家に印象派の絵を売ることに非常に熱心だったという事実です。カサットの写真を引用したフィリップ・フック著「印象派はこうして世界を征服した」には、
( | メアリー・カサットは)印象派の画家としても活躍したが、印象派絵画を収集する多くのアメリカ人コレクターの強力なアドバイザーでもあった。 |
とありました。今では想像することさえ難しいけれども、印象派とそれに続くポスト印象派は当時の "前衛アート" です。それらの絵を購入してアートとしての成立を支えたのは、フランスのみならずアメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなどのコレクターです。そのなかでも最大の顧客であるアメリカへの橋渡しを最初にしたのがカサットだった。絵が売れるということは画家の生活が安定し、アートが発展するということに他なりません。ヴォラールが言うようにカサットは "前衛アート" を扱う画商にとって有り難い存在だったわけですが、一番助かったのは画家のはずです。
我々は、現代において高名な画家は当時も有名だったと錯覚しそうでが、決してそんなことはない。たとえばシスレーは困窮の中で死んだし、ゴッホは絵がほとんど売れずにピストル自殺をしました。ゴーギャンもタヒチで亡くなっています。なぜわざわざタヒチにまで行くのか ─── 。シスレー、ゴッホ、ゴーギャンは、画家としての絶望の中で死んでいったのだと思います。
そしてもちろん、生前から高い評価を受け、絵が売れ、安定した生活を送った "前衛アート" の画家がいたわけです。その背景(の一つ)に当時の新興国家であるアメリカがあり、そこへのブリッジとなった一人がメアリー・カサットだった。まさに印象派が世界に広まる手助けをしたわけで、このことを過小評価してはならないと思います。
なお『画商の想い出』は日本語訳が出版されています(美術公論社 1980)。
 補記2  |
現代では全く想像しがたいのですが、本文中に書いたように印象派は当時の批評家から酷評されていました。そのあたりをフィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』から引用します(メアリー・カサットの写真を引用した本です)。著者はサザビーズの印象派&近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人です。引用に出てくるヴォルフは当時の有名な批評家です。
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ちなみに、決闘を申し込もうとしたベルト・モリゾ(1841-1895)の夫とは、マネの弟のウージェーヌ・マネですね(1874年結婚)。この文章で気づくのは、当時のパリには決闘の習慣があったということです。
それはともかく、我々が目にするベルト・モリゾの作品というと、いかにも "おだやか" で "ノーマル" で "家庭的" ですが、それでも批評家からすると「精神異常者」なのです。本文で引用した原田マハさんの短篇小説『エトワール』には、画家(ドガ)のアートにかける情熱と戦いが描かれていたわけですが、そのバックにあるのは印象派に対する酷評や揶揄だった。そこを考えないと小説の真の意味は理解しにくいと思います。
 補記3  |
メアリー・カサットとエドガー・ドガの関係についてのエピソードの一つです。『髪を整える少女』(1886。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)という作品に関するものです。
メアリー・カサット
『髪を整える少女』(1886)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
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本文で引用したスーザン・マイヤー著『メアリー・カサット』には、二人の関係がいろいろと記述されています。「二人の長い友情の間には、ぶつかり合いも頻繁に起こり、メアリーがドガの振る舞いに怒って会うのを拒むこともあった」ということも書かれていました。この『髪を整える少女』の件も、そういった一つなのだろうと思います。「女に様式などわからない」などと、ひどいことを言われたメアリーが、見返してやろうと発奮して絵を描き、ドガはそれに感嘆した・・・・・・。二人の関係を物語っていると思います。
この絵の「片方の肘をあげ、片方の手は髪をつかむ」というポーズで直観的に思い出すのは、アングルの『ヴィーナスの誕生』と、それとほぼ同じポーズの『泉』ですね。明らかにそれを踏まえていると思います。また、ひょっとしたらこの絵は、ドガの代表作の一つである『アイロンをかける女たち』(1884/6 オルセー美術館)を意識しているのではないでしょうか。メアリーはかなり意図的にモチーフを選んだのかもしれません。
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エドガー・ドガ
『アイロンをかける女たち』(1884/6)
(オルセー美術館)
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 補記4  |
ドガがメアリー・カサットの作品を評した、別のエピソードを紹介します。「化粧」(Woman Bathing)という版画です。一見して日本の浮世絵の影響が見てとれる作品です。
メアリー・カサット
『化粧』(1990/1991)
(アクアチント + ドライポイント + エッチング)
(メトロポリタン美術館蔵) |
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補記3もそうですが、どうも伝えられるドガの発言には「現代人が言ったとしたらセクシャル・ハラスメントになりそうなもの」がいろいろありますね。もちろん当時のヨーロッパは完全な「男社会」であり、そこに出現したアメリカの上流階級出身の女性画家など、ドガがらすると本来「ありえない」存在だったからでしょう。
「女性は素描が下手だ。ただしメアリーだけは別格だ」という意味にとれます。この版画を絶賛した発言だと思います。
 補記5  |
2016年6月25日~9月11日の予定で、横浜美術館で「メアリー・カサット展」が開かれています(その後、京都国立近代美術館に巡回)。その音声ガイドで、カサットとドガの関係を暗示するような解説があったので、掲げておきます。
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またこの展示会では、メアリー・カサットの年譜の中に次のような記述がありました。
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この記事の本文に引用したスーザン・マイヤーの伝記には、「メアリーは、死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払っている」と書かれていました。メアリー・カサットは自分とドガの間で交わした書簡が後世に残ることのないよう、念入りに行動したようです。
(2016.7.31)
 補記6  |
この記事の本文でメアリー・カサットの23歳の写真を掲載しましたが、それはフィリップ・クック著『印象派はこうして世界を征服した』からの引用でした。また「補記2」も同じ本からの引用です。
そのフィリップ・クックはオークション会社・サザビーズのシニア・ディレクターですが、彼の別の著書にドガの『14歳の小さな踊り子』を評した箇所があります。この彫刻は本文でとりあげた短編小説『エトワール』(原田マハ)の主題になっているので、是非その箇所を引用したいと思います。
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「ホッケー場の香り」とは意外性があるたとえですが、要するに "スポーツをやっている少女から受けるような、健康的ではつらつとしが雰囲気" ということでしょう。
上の文章でフィリップ・クックは、ドガの技量や芸術性に疑問を呈しているのではありません。全く逆で、ドガを非常に高く評価しているのです。同じ本には次のように書いています。
私はドガに魅了されている。私にとって、ドガは芸術におけるフランスの真髄を体現している。彼はおそらく19世紀の最も偉大なデッサン家であり、また構図に対する卓越した眼をもった、技巧的にも最高の革新者だった。 |
2009年のサザビーズのオークションのプロモーションの写真。フィリップ・クック「サザビーズで朝食を」より
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しかしそれよりも大きいのは、ドガが真実の姿、リアルな表情を切り取る技量のすごさでしょう。"ドガに魅了されている" 美術のプロフェッショナルが『14歳の小さな踊り子』を評した率直な(率直過ぎる)発言は、一切の美化を排して現実を映し出すアーティスト = ドガ の姿勢を浮き彫りにしています。
1880年のパリのオペラ座の14歳のダンサーと、2009年のロンドンのロイヤル・バレエ学校の14歳のダンサーは全く違う境遇にある。そのことを改めて思い起こす必要があると思いました。
(2018.11.12)
2013-06-21 20:34
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