No.79 - クラバート再考:大人の条件 [本]
前々回と前回に書いた『赤毛のアン』は何回目かの「少年少女を主人公とする物語」でした。特に意識しているわけではないのですが、第1回が『クラバート』だったので自然とそういう流れになったのかも知れません。
取り上げた「少年少女を主人公とする物語」は、4つの小説と1つのアニメーション映画です。作品名、発表年、物語の舞台となった国、主人公の名前をまとめると次の通りです。
一見してわかるように、5つの物語は発表年に100年以上の隔たりがあり、物語の舞台となった国は全部違います。しかしその内容には共通点があるように思えます。今回はこの「5つの物語」の共通点を考えてみようというのが主旨です。
5つの物語
No.2「千と千尋の神隠しとクラバート(2)」で、『クラバート』という小説は、一言で言うと少年が「大人になる物語」だと書きました。これは他の4つの物語でも共通しています。大人になるという言い方がそぐわないなら「主人公の少年(少女)が、自立した人間として生きていくためのさまざま経験をし、成長する物語」だと言ってよいでしょう。この共通点は10代の少年少女を主人公にした物語としては自然なものです。少年少女は大人に向かって成長する過程にあるのが当然だからです。
しかし5つの作品には、単に「大人になる物語」というレベルを越えた共通点があります。それは主人公が置かれた環境に関係しています。つまり5つの物語は全て次のような経過をたどるのです。
この物語の構造が5つの作品に共通しています。主人公は「物語の舞台となる環境」で成長していくのですが、それは主人公の意志とは無関係に外部から決められた、全く新しい環境なのです。
孤児であるクラバートがシュバルツコルムの水車場に身を投じたきっかけは「夢のお告げ」でした。彼は「そこがどういうものか全く知らない」状況で、職人の見習いとして働き出します。
ごく平凡な家庭の女の子だった千尋は、湯婆婆の支配する湯屋で働くようになりますが、そのきっかけは、引っ越しの途中に不意に「異空間への入り口」であるトンネルを通ってしまったからです。
セーラがロンドンの学園の屋根裏部屋に住み込んで小間使いとして働き出したのは、父親の突然の死と破産という、まさに晴天の霹靂がきっかけでした。学園の優秀な生徒だったセーラの立場は180度変化します。この小間使いの期間こそ『小公女』の核です。
イタリア人のニコラスが外国であるスペインの宮廷に連れていかれたのは、小人症の子どもを集めていたスペイン宮廷の使者に父親がニコラスを「売った」からでした。
最後のアンはクラバートと同じように両親を無くした孤児です。彼女がグリーン・ゲーブルズに来たのは、マシューとマリラ兄妹の希望に応じて孤児院がアンを選んだからですが、仲介者のミスによって男の子のはずが女の子のアンが選ばれてしまったわけです。
5つの物語は自分の選んだのではない環境と折り合いをつけ成長するというところがキーになっていると思います。というのも、それが大人の重要な条件だと思うからです。
自己選択はできない
我々は人生の節目節目において、種々の選択をしていると考えています。高校、大学への入学、就職、結婚、住居など、重要な時点で自分の考えて判断して「選ぶ」という行為をしていると考えている。
しかし人間社会においては、人生における極めて重要な環境条件が自分では選べないもの、自己選択できないものです。まず誰でも分かるのは「家族」です。我々は両親を選択できないし、兄弟も選択できません。
結婚相手(配偶者)が選択できるかというと、そう単純には言えない。ほとんどの人は職場や学校、サークル活動やコミュニティ活動で「たまたま」知り合い、一緒になってもいいなと思った人と結婚するのだと思います。結婚を決めるのは本人同士ですが、出会いに至る過程とその後の経緯は偶然の積み重ねであり、本人の意志とは無関係なところで決まる。職場で3人と付き合っていて、そのうちの一人を結婚相手として選択した、というような人もいると思いますが、極く少数でしょう。
結婚相手の「条件」がまずあり、その条件に合致する人が現れるまで次々と交際するというのでは、いつまでたっても結婚できません。話が逆なのです。
仕事も、多くの場合は「選択できない」と言った方がよいと思います。もちろん「仕事を自分で選択した」と言い切れる人があるのは確かです。外科医を目指して一所懸命に勉強し、医学部に合格し、国家試験をうけて外科医になった人もいるでしょう。弁護士や検事、パイロットなどもそうです。警察官や消防士も、それを目指してきた人が多いでしょう。自分でベンチャー企業を起こしたり、脱サラしてラーメン店を始めるようなケースも「仕事を自分で選んだ」と言えると思います。
しかし、大学で就職活動をして会社に就職するという、多くの人がたどるケースを考えると「仕事を自分で選択した」とは言い難い。たとえば大学の理系学部にすすみ、自動車会社への就職を希望して、運良く入社したとしましょう。しかし自動車会社における理系の仕事は極めて多様です。①次世代2次電池の研究、②ボディーの外観デザイン、③クリーンなディーゼル・エンジンの開発、④工場における生産設備の開発と、たった4つだけをとってみても仕事の内容は全く違います。必要とする技術、ノウハウ、経験の蓄積が全く違う。(大手の)電機会社だともっと仕事のバリエーションが多いわけです。Panasonicという会社はテレビを作っていますが、産業用の溶接機も作っています。それぞれに研究もあれば工場現場サイドでのものづくりもある。
自動車会社3社と電機会社2社の入社試験をうけ、たまたまPanasonicに採用され、産業用溶接機の部門に配属された人は、仕事を選択したとは言い難いと思います。「ものづくりに従事することを選択した」とは言えるでしょうが「ものづくり」はあまりに大まかすぎて仕事だとは言えません。家業を継ぐ場合と同じく、会社で働く場合も仕事はあくまで外部から「与えられた」ものなのです。
人は「与えられた」仕事でいかに努力をするか、が普通です。自分の仕事が自分に合っていないと感じ、自らの意志で転職を繰り返す人がいますが、こういう人はいつまでたっても重要な仕事はできないし、収入も増えないでしょう。話が逆転しているからです。
現代社会において人間は生きていく過程で、数々の自由意志による選択をしています。何を食べるかから始まって、どこに住むか、どういうクルマを購入するか、趣味は何か、誰と付き合って誰と付き合わないかなど、自由意志で決まることが多々あります。
しかし家庭や仕事などの「社会を成立させている根幹のところ」においては選択ができないことが多い。先ほど弁護士を目指して勉強し、めでたく弁護士になった人もいるという話を書きましたが、誰でも「弁護士」という仕事を選択できるわけではありません。司法試験の難関を突破するためには徹底的な努力が必要であり、努力する能力を身につけていて、かつ才能にも恵まれた人だけに弁護士への道が開かれるのだと思います。
人間社会の成立と継続にとって非常に重要なことは選択できないようになっています。人間の自由意志による選択などにまかせていては、社会が危なくなるからです。
自己選択できない環境で最善を尽くせる
大人の条件の最も重要なことは「自己選択できない環境で最善を尽くせる」ことだと思います。
仕事で成功した人が、その仕事を自ら選択したというようなことを語ることがあります。商社で重要なポストにある人が、日本は貿易立国であり、エネルギーの確保が重要だから商社に就職し、中東諸国とのエネルギープラントの仕事に従事してきた、というような話です。しかしおそらく実態は、たまたま商社に就職でき、たまたまエネルギー部門に配属され、その環境条件で本人が苦労し努力を重ねてきたから重要なポストにつけたのだと思います。「自己選択した」というのは「後付けで作られた物語」です。
結婚もそうです。この人と結婚した理由、その人を選んだ理由は「ない」ケースが多いのではないでしょうか。「何となく」結婚し、その後本人同士が努力を重ねてきたから「幸せな家庭」が築けたということだと思います。独身を通してきた人が「結婚しないという道を選択した」と語るのも同様です。「たまたまそういう風になった」のが実態なのだと思います。自己選択したという物語は事後的に作られる。そういうケースが多いはずです。
「自己選択したから最善を尽くす」のはあたりまえで、子どもでもそういうマインドの形成ができるでしょう。「自己選択したものでなくても最善を尽くせる」のが大人の条件です。
少年少女を主人公にした5つの物語は、この大人の条件を暗示しているように見えます。特に、クラバート、千尋、セーラは10代前半ですが、仕事・労働に従事します。ニコラスも8歳程度の時からスペイン宮廷で「道化」としての役割を与えられます。労働は社会を成立させている根幹ですが、自分の意志とは無関係に外部から強制された仕事を通じての彼らの成長は示唆的です。
アンは、少なくとも第1作の『赤毛のアン』では仕事をしません。しかしアンが孤児院から与えられたグリーン・ゲイブルズという環境(家庭)は仲介者のミスなのですね。望まれない存在としてグリーン・ゲイブルズに来た(それでもアンはうまくやっていった)という作者・モンゴメリの物語設定は大きな意味があると思います。
線引きの容認
「自己選択できない」ということに関連する大人の条件を付け加えると「どこかに線が引かれることを容認できる」ことがあります。人間と人間の間のどこかに線を引く必要がある。「線引きの容認」が大人の条件です。
現代の日本で、子どもが「線引き」という現実を強く感じるのは入学試験でしょう。たとえば高校入試です。私の住んでいる神奈川県の公立高校の入試は全県1区なので、論理的には県内のどの高校を受験してもよいのですが、実際は内申書や学力によって受験できる高校がほとんどピンポイントで決まります。あなたはA高、あなたはB高というように線が引かれる。「線引き」は、スポーツの部活動で正選手に選ばれるか補欠かということでも言えます。
線を引く厳密な基準はないので曖昧性が残るのですが、どこかに線を引かないといけない。もちろん理不尽な基準には文句を言っていいわけです。寄付をたくさんすると高校に入れる、とか・・・・・・。しかし多くの場合は「線を引くしかないから、線を引いている」のですね。
昔、公立高校への全入制度をとっている都道府県がありました。義務教育でないにもかかわらず、住む地域によってどの高校へ入るかが決まっているわけです。これは結局、子どもが「線引き」という現実に直面する時期を大学入試とか就職に遅らせているだけです。それだけ子どもの成長機会を奪っているのだと思います。
5つの物語に戻ると『クラバート』がこの「線引き」を直接的に扱っています。毎年、職人の一人が犠牲になり、反面、次期親方の候補に選ばれる者もいる(クラバート自身ですが)。大人の社会を寓話的に表しているのだと思います。
変化する能力
「自己選択できない環境で最善を尽くせる」という条件からロジカルに導き出せることは、変化する能力が重要だということです。環境の変化や新しい環境に対応して生き延び、他人やコミュニティとの良好な関係を保ち、自分自身としてもより満足を得られるためには、自分を変えていくことが重要です。また、外界の条件に対応した能力を磨くことが必須です。
外界の変化に対応して自らを変えられる能力をもつこと。これは大人の重要な条件です。
No.56「強い者は生き残れない」で進化生物学者・吉村仁氏の著書から「強い生物が生き残るのではない。環境の変化に即応できる生物が生き残るのだ」という主旨の見識を紹介しましたが、それと極めてよく似ています。
もちろん、人の性格とか信念・信条、自分が自分であることの源泉だと信じていることは変わりません。変わったとしても急には変わらない。5つの物語では、セーラ、ニコラス、アンは自尊心というか、プライドを持っている少年少女に描かれています。セーラは虐待(と言えるような仕打ち)をうけても「気品」を失わないし、ニコラスとアンは自分の「身体的特徴」をからかわれると相手が大人であっても猛然と反論します。クラバートや千尋も含めて「自分は自分だ」という意識がある。人の性格・信念・信条などは人の個性を作り出すものであり、非常に大切なものです。
しかしその一方で、それにこだわりすぎて「変わらないもの」が肥大化し過ぎると外界と環境の変化についていけなくなります。
努力を継続できる能力
「自己選択できない環境で最善を尽くせる」という条件から導けるもう一つの大人の条件は「努力する能力」「努力を継続できる能力」です。自分が選んだのではない、よく知らない新しい環境とうまく折り合っていくためには、本人の努力が是非とも必要です。
子どもが学校で身につけるべき最重要ポイントは、この「努力を継続できる能力」でしょうね。それは勉強でも部活でも同じです。「こんな勉強は役に立たない」と思って努力を放棄してしまう子どもがいるとしたら、それは間違っています。
たとえば数学(算数)を例にとると、整数や分数の四則演算が社会で「役に立つ」ことは誰でも分かります。しかし中学も進んでくると何の役に立つのか、一見分からないテーマになる。因数分解とか二次関数とか・・・・・・。本当は論理的思考を養うのに非常に有用だと思うのですが、それは直接的な効能を言えないし、子どもには理解しにくい。
しかし数学(算数)で学ぶ内容、もっと広くは勉強の内容(コンテンツ)もさることながら、勉強をするということ自体(プロセス)が重要です。コンテンツは役立たないこともありうる。しかし努力するプロセスとその経験は必ず役立ちます。大の苦手だった幾何を克服したアンのように・・・・・・。
小さいときから努力することの価値や大切さを教えられなかった子どもは可哀想です。大人の条件を欠いて社会に出ることになるのだから。
「努力することを継続できる能力」とペアになっているのは「自分の欲望を自分で制限できる能力」でしょう。欲望を全面に出して生きていくのでは、努力する時間も余裕もなくなります。努力を継続することは、ある意味で自分を変えることです。
努力するといった場合、目標として何らかの明確なゴールを設定する場合が多いでしょう。たとえば「A大学に合格する」といったような・・・・・・。しかし「ゴールのない目標」「ゴールに到達しえない目標」に向かって努力できる能力もまた重要です。なぜかというと社会と人生における重要な目標はゴールが設定できないからです。到達可能な具体的な目標は、多くの人が同じ目標を持つことになります。A大学に合格するという目標は、同じ年齢の数千人・数万人が同じものを持っている。しかしゴールのない目標は他人と共有できません。それこそが人間の独自性の発揮です。
5つの物語
少年少女を主人公にした5つの物語から類推できる「大人の条件」を何点か書きましたが、その内容は極めてシンプルで、あたりまえのことです。しかし我々大人は日々の生活や仕事の複雑さに追われ、シンプルなことを忘れがちです。少年少女の成長の物語が「大人の条件」を浮かび上がらせる・・・・・・。大人が少年・少女を主人公にした物語を読む(再読する)意義はそこにあると思います。
取り上げた「少年少女を主人公とする物語」は、4つの小説と1つのアニメーション映画です。作品名、発表年、物語の舞台となった国、主人公の名前をまとめると次の通りです。
◆ | クラバート(No.1, No.2) | 1971  | ドイツ  | クラバート  | |
◆ | 千と千尋の神隠し(No.2) | 2001  | 日本  | 千尋  | |
◆ | 小公女(No.40) | 1888  | イギリス  | セーラ  | |
◆ | ベラスケスの十字の謎(No.45) | 1999  | スペイン  | ニコラス  | |
◆ | 赤毛のアン(No.77, No.78) | 1908  | カナダ  | アン  |
一見してわかるように、5つの物語は発表年に100年以上の隔たりがあり、物語の舞台となった国は全部違います。しかしその内容には共通点があるように思えます。今回はこの「5つの物語」の共通点を考えてみようというのが主旨です。
5つの物語
No.2「千と千尋の神隠しとクラバート(2)」で、『クラバート』という小説は、一言で言うと少年が「大人になる物語」だと書きました。これは他の4つの物語でも共通しています。大人になるという言い方がそぐわないなら「主人公の少年(少女)が、自立した人間として生きていくためのさまざま経験をし、成長する物語」だと言ってよいでしょう。この共通点は10代の少年少女を主人公にした物語としては自然なものです。少年少女は大人に向かって成長する過程にあるのが当然だからです。
しかし5つの作品には、単に「大人になる物語」というレベルを越えた共通点があります。それは主人公が置かれた環境に関係しています。つまり5つの物語は全て次のような経過をたどるのです。
◆ |
主人公の置かれた環境は「物語の開始時の環境」から、それとは全く異質な「物語の舞台となる環境」へと大きく転換する。 | |
◆ |
この「転換」は主人公が選んだものではなく、主人公の意見をもとに決められたものでもない。「転換」に際しては主人公のいかなる意志も意向も反映されない。 | |
◆ | 主人公は、自分の選んだのではない環境と何とか折り合いをつけ、自分を磨き、または自分の意志を貫き、成長し、自立していく。 |
この物語の構造が5つの作品に共通しています。主人公は「物語の舞台となる環境」で成長していくのですが、それは主人公の意志とは無関係に外部から決められた、全く新しい環境なのです。
孤児であるクラバートがシュバルツコルムの水車場に身を投じたきっかけは「夢のお告げ」でした。彼は「そこがどういうものか全く知らない」状況で、職人の見習いとして働き出します。
ごく平凡な家庭の女の子だった千尋は、湯婆婆の支配する湯屋で働くようになりますが、そのきっかけは、引っ越しの途中に不意に「異空間への入り口」であるトンネルを通ってしまったからです。
セーラがロンドンの学園の屋根裏部屋に住み込んで小間使いとして働き出したのは、父親の突然の死と破産という、まさに晴天の霹靂がきっかけでした。学園の優秀な生徒だったセーラの立場は180度変化します。この小間使いの期間こそ『小公女』の核です。
イタリア人のニコラスが外国であるスペインの宮廷に連れていかれたのは、小人症の子どもを集めていたスペイン宮廷の使者に父親がニコラスを「売った」からでした。
最後のアンはクラバートと同じように両親を無くした孤児です。彼女がグリーン・ゲーブルズに来たのは、マシューとマリラ兄妹の希望に応じて孤児院がアンを選んだからですが、仲介者のミスによって男の子のはずが女の子のアンが選ばれてしまったわけです。
主人公 | 物語の開始時の環境 | 物語の舞台となる環境(主人公の年齢) | 転換のきっかけ |
クラバート | 浮浪児。物乞いで生活している。 | シュバルツコルムの水車場。魔法使いの親方が支配。(14歳 ~) | 「水車場に来い」という夢のお告げにさそわれる。 |
千尋 | 両親と3人暮らしの、ごく平凡な家庭の女の子。 |
湯屋。魔法使いでもある湯婆婆が支配。 (10歳) |
引っ越しの途中でトンネルから「異空間」に迷い込む。 |
セーラ | インドのダイヤモンド鉱山主の娘。ロンドンの学園で勉学に励む。 |
学園の小間使い。屋根裏部屋に住む。 (11歳 ~) |
父親の破産と死。 |
ニコラス | ジェノバ近郊に住むイタリア人の息子。 |
スペイン王、フェリペ4世の宮廷。 (7歳か8歳 ~) |
小人症の子供を集めていた宮廷の使者が父親と取引き。 |
アン | 孤児院 | グリーン・ゲイブルズのマシューとマリラ兄妹の家庭。(11歳 ~) | 仲介者の誤った話をもとに孤児院がアンを選択。 |
5つの物語は自分の選んだのではない環境と折り合いをつけ成長するというところがキーになっていると思います。というのも、それが大人の重要な条件だと思うからです。
自己選択はできない
我々は人生の節目節目において、種々の選択をしていると考えています。高校、大学への入学、就職、結婚、住居など、重要な時点で自分の考えて判断して「選ぶ」という行為をしていると考えている。
しかし人間社会においては、人生における極めて重要な環境条件が自分では選べないもの、自己選択できないものです。まず誰でも分かるのは「家族」です。我々は両親を選択できないし、兄弟も選択できません。
結婚相手(配偶者)が選択できるかというと、そう単純には言えない。ほとんどの人は職場や学校、サークル活動やコミュニティ活動で「たまたま」知り合い、一緒になってもいいなと思った人と結婚するのだと思います。結婚を決めるのは本人同士ですが、出会いに至る過程とその後の経緯は偶然の積み重ねであり、本人の意志とは無関係なところで決まる。職場で3人と付き合っていて、そのうちの一人を結婚相手として選択した、というような人もいると思いますが、極く少数でしょう。
結婚相手の「条件」がまずあり、その条件に合致する人が現れるまで次々と交際するというのでは、いつまでたっても結婚できません。話が逆なのです。
仕事も、多くの場合は「選択できない」と言った方がよいと思います。もちろん「仕事を自分で選択した」と言い切れる人があるのは確かです。外科医を目指して一所懸命に勉強し、医学部に合格し、国家試験をうけて外科医になった人もいるでしょう。弁護士や検事、パイロットなどもそうです。警察官や消防士も、それを目指してきた人が多いでしょう。自分でベンチャー企業を起こしたり、脱サラしてラーメン店を始めるようなケースも「仕事を自分で選んだ」と言えると思います。
しかし、大学で就職活動をして会社に就職するという、多くの人がたどるケースを考えると「仕事を自分で選択した」とは言い難い。たとえば大学の理系学部にすすみ、自動車会社への就職を希望して、運良く入社したとしましょう。しかし自動車会社における理系の仕事は極めて多様です。①次世代2次電池の研究、②ボディーの外観デザイン、③クリーンなディーゼル・エンジンの開発、④工場における生産設備の開発と、たった4つだけをとってみても仕事の内容は全く違います。必要とする技術、ノウハウ、経験の蓄積が全く違う。(大手の)電機会社だともっと仕事のバリエーションが多いわけです。Panasonicという会社はテレビを作っていますが、産業用の溶接機も作っています。それぞれに研究もあれば工場現場サイドでのものづくりもある。
自動車会社3社と電機会社2社の入社試験をうけ、たまたまPanasonicに採用され、産業用溶接機の部門に配属された人は、仕事を選択したとは言い難いと思います。「ものづくりに従事することを選択した」とは言えるでしょうが「ものづくり」はあまりに大まかすぎて仕事だとは言えません。家業を継ぐ場合と同じく、会社で働く場合も仕事はあくまで外部から「与えられた」ものなのです。
人は「与えられた」仕事でいかに努力をするか、が普通です。自分の仕事が自分に合っていないと感じ、自らの意志で転職を繰り返す人がいますが、こういう人はいつまでたっても重要な仕事はできないし、収入も増えないでしょう。話が逆転しているからです。
現代社会において人間は生きていく過程で、数々の自由意志による選択をしています。何を食べるかから始まって、どこに住むか、どういうクルマを購入するか、趣味は何か、誰と付き合って誰と付き合わないかなど、自由意志で決まることが多々あります。
しかし家庭や仕事などの「社会を成立させている根幹のところ」においては選択ができないことが多い。先ほど弁護士を目指して勉強し、めでたく弁護士になった人もいるという話を書きましたが、誰でも「弁護士」という仕事を選択できるわけではありません。司法試験の難関を突破するためには徹底的な努力が必要であり、努力する能力を身につけていて、かつ才能にも恵まれた人だけに弁護士への道が開かれるのだと思います。
人間社会の成立と継続にとって非常に重要なことは選択できないようになっています。人間の自由意志による選択などにまかせていては、社会が危なくなるからです。
自己選択できない環境で最善を尽くせる
大人の条件の最も重要なことは「自己選択できない環境で最善を尽くせる」ことだと思います。
仕事で成功した人が、その仕事を自ら選択したというようなことを語ることがあります。商社で重要なポストにある人が、日本は貿易立国であり、エネルギーの確保が重要だから商社に就職し、中東諸国とのエネルギープラントの仕事に従事してきた、というような話です。しかしおそらく実態は、たまたま商社に就職でき、たまたまエネルギー部門に配属され、その環境条件で本人が苦労し努力を重ねてきたから重要なポストにつけたのだと思います。「自己選択した」というのは「後付けで作られた物語」です。
結婚もそうです。この人と結婚した理由、その人を選んだ理由は「ない」ケースが多いのではないでしょうか。「何となく」結婚し、その後本人同士が努力を重ねてきたから「幸せな家庭」が築けたということだと思います。独身を通してきた人が「結婚しないという道を選択した」と語るのも同様です。「たまたまそういう風になった」のが実態なのだと思います。自己選択したという物語は事後的に作られる。そういうケースが多いはずです。
「自己選択したから最善を尽くす」のはあたりまえで、子どもでもそういうマインドの形成ができるでしょう。「自己選択したものでなくても最善を尽くせる」のが大人の条件です。
少年少女を主人公にした5つの物語は、この大人の条件を暗示しているように見えます。特に、クラバート、千尋、セーラは10代前半ですが、仕事・労働に従事します。ニコラスも8歳程度の時からスペイン宮廷で「道化」としての役割を与えられます。労働は社会を成立させている根幹ですが、自分の意志とは無関係に外部から強制された仕事を通じての彼らの成長は示唆的です。
アンは、少なくとも第1作の『赤毛のアン』では仕事をしません。しかしアンが孤児院から与えられたグリーン・ゲイブルズという環境(家庭)は仲介者のミスなのですね。望まれない存在としてグリーン・ゲイブルズに来た(それでもアンはうまくやっていった)という作者・モンゴメリの物語設定は大きな意味があると思います。
線引きの容認
「自己選択できない」ということに関連する大人の条件を付け加えると「どこかに線が引かれることを容認できる」ことがあります。人間と人間の間のどこかに線を引く必要がある。「線引きの容認」が大人の条件です。
現代の日本で、子どもが「線引き」という現実を強く感じるのは入学試験でしょう。たとえば高校入試です。私の住んでいる神奈川県の公立高校の入試は全県1区なので、論理的には県内のどの高校を受験してもよいのですが、実際は内申書や学力によって受験できる高校がほとんどピンポイントで決まります。あなたはA高、あなたはB高というように線が引かれる。「線引き」は、スポーツの部活動で正選手に選ばれるか補欠かということでも言えます。
線を引く厳密な基準はないので曖昧性が残るのですが、どこかに線を引かないといけない。もちろん理不尽な基準には文句を言っていいわけです。寄付をたくさんすると高校に入れる、とか・・・・・・。しかし多くの場合は「線を引くしかないから、線を引いている」のですね。
昔、公立高校への全入制度をとっている都道府県がありました。義務教育でないにもかかわらず、住む地域によってどの高校へ入るかが決まっているわけです。これは結局、子どもが「線引き」という現実に直面する時期を大学入試とか就職に遅らせているだけです。それだけ子どもの成長機会を奪っているのだと思います。
5つの物語に戻ると『クラバート』がこの「線引き」を直接的に扱っています。毎年、職人の一人が犠牲になり、反面、次期親方の候補に選ばれる者もいる(クラバート自身ですが)。大人の社会を寓話的に表しているのだと思います。
変化する能力
「自己選択できない環境で最善を尽くせる」という条件からロジカルに導き出せることは、変化する能力が重要だということです。環境の変化や新しい環境に対応して生き延び、他人やコミュニティとの良好な関係を保ち、自分自身としてもより満足を得られるためには、自分を変えていくことが重要です。また、外界の条件に対応した能力を磨くことが必須です。
外界の変化に対応して自らを変えられる能力をもつこと。これは大人の重要な条件です。
No.56「強い者は生き残れない」で進化生物学者・吉村仁氏の著書から「強い生物が生き残るのではない。環境の変化に即応できる生物が生き残るのだ」という主旨の見識を紹介しましたが、それと極めてよく似ています。
しかしその一方で、それにこだわりすぎて「変わらないもの」が肥大化し過ぎると外界と環境の変化についていけなくなります。
努力を継続できる能力
「自己選択できない環境で最善を尽くせる」という条件から導けるもう一つの大人の条件は「努力する能力」「努力を継続できる能力」です。自分が選んだのではない、よく知らない新しい環境とうまく折り合っていくためには、本人の努力が是非とも必要です。
たとえば数学(算数)を例にとると、整数や分数の四則演算が社会で「役に立つ」ことは誰でも分かります。しかし中学も進んでくると何の役に立つのか、一見分からないテーマになる。因数分解とか二次関数とか・・・・・・。本当は論理的思考を養うのに非常に有用だと思うのですが、それは直接的な効能を言えないし、子どもには理解しにくい。
しかし数学(算数)で学ぶ内容、もっと広くは勉強の内容(コンテンツ)もさることながら、勉強をするということ自体(プロセス)が重要です。コンテンツは役立たないこともありうる。しかし努力するプロセスとその経験は必ず役立ちます。大の苦手だった幾何を克服したアンのように・・・・・・。
小さいときから努力することの価値や大切さを教えられなかった子どもは可哀想です。大人の条件を欠いて社会に出ることになるのだから。
「努力することを継続できる能力」とペアになっているのは「自分の欲望を自分で制限できる能力」でしょう。欲望を全面に出して生きていくのでは、努力する時間も余裕もなくなります。努力を継続することは、ある意味で自分を変えることです。
努力するといった場合、目標として何らかの明確なゴールを設定する場合が多いでしょう。たとえば「A大学に合格する」といったような・・・・・・。しかし「ゴールのない目標」「ゴールに到達しえない目標」に向かって努力できる能力もまた重要です。なぜかというと社会と人生における重要な目標はゴールが設定できないからです。到達可能な具体的な目標は、多くの人が同じ目標を持つことになります。A大学に合格するという目標は、同じ年齢の数千人・数万人が同じものを持っている。しかしゴールのない目標は他人と共有できません。それこそが人間の独自性の発揮です。
5つの物語
少年少女を主人公にした5つの物語から類推できる「大人の条件」を何点か書きましたが、その内容は極めてシンプルで、あたりまえのことです。しかし我々大人は日々の生活や仕事の複雑さに追われ、シンプルなことを忘れがちです。少年少女の成長の物語が「大人の条件」を浮かび上がらせる・・・・・・。大人が少年・少女を主人公にした物語を読む(再読する)意義はそこにあると思います。
2013-04-05 20:12
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