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No.67 - 中島みゆきの詩(4)社会と人間 [音楽]


社会を見つめる


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A1978『愛していると
云ってくれ』
中島さんの作品には、現代社会についてのメッセージや、現代人の生き方に対する発言と考えられる一連の詩があります。それは決して多いというわけではないけれど、中島さんのキャリアの初期から現在に至るまで一貫しています。こういった「社会に対するメッセージ性のある詩」を書き続けているシンガー・ソングライターは(今となっては)少ないのではと思います。

「デビュー」して3年目(26歳)に作られた《世情》という作品。


世情

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度 崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

・・・・・・
A1978『愛していると云ってくれ

中島さんと同時代に10代後半から20代前半を過ごした人にとっては、この詩のもつ意味は非常によくわかると思います。「意味」だけでなく「体温」や「肌触り」を共有できると感じる人は多いのではないでしょうか。

しかしそういった1960-70年代だけでなく、今から振り返ってみてもこの詩のもつ普遍性は明らかでしょう。「時の流れをとめて夢を見たがる者」と「時の流れの中に夢を見たがる者」の戦いは1960-70年代以降も続いてきたし、今のこの日本でも現在進行形だからです。

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A1983『予感』
「世情」というタイトルに注目したいと思います。世情とは「世の中の状況」とか「世の中のありさま」という意味です。かなり汎用的な言葉で、どちらかというと無色透明で、いつの時代にも使える表現です。詩の中に「シュプレヒコールの波」という一言があるために、この詩が学生運動を念頭に置いたと思う人が多いと思いますが(特に中島さんと同世代の人は直観的にそう思うでしょうが)、必ずしもそのように受け取る必要はありません。別々の夢をみる2種の人々を描いたと考えれば、それはいつの時代にもあります。それが「世情」という言葉に込められた意味だと思います。

世情》の5年後(31歳)の時には《ファイト!》がリリースされています。


ファイト!

・・・・・・

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

・・・・・・
A1983『予感
S1994『空と君のあいだに / ファイト!

この詩は中島さんがDJをしていた時に受け取った投書に触発されて書かれたと言われていますね。詩の中に「女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている」という表現も出てきます。
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A1985『miss M.』
「ファイト」はスポーツの試合などでの応援のかけ声ですが、この社会で賢明に生きている人たちへの共感を込めたメッセージという面が強い詩です。

ファイト!》は1994年にリメイクされ、《空と君のあいだに》と合わせてシングルCDとして出されています。中島さんにとっても重要な曲なのだと思います。

ファイト!》の2年後には、TVにまつわる現代社会を歌った詩が書かれています。


ショウ・タイム

・・・・・・

日本中このごろ静かだと思います
日本中秘かに計画してます
なにも変わりありません なにも不足ありません
たまに虚像の世界をびたいだけ

日本中望みをあからさまにして
日本中傷つき 挫けた日がある
だから話したがらない だれも話したがらない
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

いまやニュースはショウ・タイム
いまや総理はスーパースター
カメラ回ればショウ・タイム
通行人も新人スター
Watch & enjoy チャンネル切れば別世界

・・・・・・
A1985『miss M.

同じアルバム『miss M.』には《忘れてはいけない》という曲もありました。


忘れてはいけない

・・・・・・

許さないと叫ぶ野良犬の声を
踏み砕いて走る車輪の音がする
認めないと叫ぶ少女の声は細い
いなかったも同じ 少女の声は細い

でも忘れてはいけないことが必ずある
口に出すことができない人生でも
忘れてはいけないことが必ずある
口に出すことができない人生でも

・・・・・・
A1985『miss M.

「許さない」と「野良犬」、「認めない」と「少女」という対応関係にある言葉は、現代社会に対する発言であることは確かだと思います。

miss M.』の3年後(36歳)には《吹雪》という作品が書かれました。


吹雪

日に日に強まる吹雪は なお強まるかもしれない
日に日に深まる暗闇 なお深まるかもしれない
日に日に打ち寄せる波が 岸辺を崩すように

どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
どこにも残らぬ島なら 名前は言えない

恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
そこに描けないものが 君たちを殺すだろう
間引かれる子の目印 気付かれる場所にはない

・・・・・・
A1988『グッバイ ガール

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A1988『グッバイ ガール』
忘れてはいけない》よりもさらに言葉のイメージが抽象的です。具体的なことはあまりなく、象徴詩に近い。従って「吹雪」「暗闇」「どこにも残らぬ島」「描けないもの」「間引かれる子」などの解釈は聴き手の自由ですが「現代社会における何か」の象徴であることは確かでしょう。

・・・・・・・・・・

その6年後(42歳)に発表された《ひまわり“SUNWARD”》は、うって変わって具体的イメージに富んでいます。これは国レベルの戦争や抗争、ないしは内戦がテーマです。


ひまわり“SUNWARD”

あの遠くはりめぐらせた
妙な柵のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から

目を覚まされた鳥たちが
燃え立つように舞い上がる
その音に驚かされて赤ん坊が泣く

たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえどんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

・・・・・・
A1994『LOVE OR NOTHING

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A1994『LOVE OR NOTHING』
「銃声」という一言があるために、すべての言葉が非常に具体的なイメージを持ってきます。その「銃声が鳴り響く」場所はどの国(地域)を想像してもよいのですが、このアルバムが発売された頃は旧ユーゴスラビア内戦(1991-2000)のまっただ中でした。民族と宗教と地域が複雑に絡み合った戦争です。上の引用に続く詩は

  私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
柵は伸びてゆく

ですが、まさにその通りだと思ったものです。



社会に対するメッセージとしての「極めつけ」は、1998年の《4.2.3.》(46歳)です。

1996年12月17日、ペルーの首都・リマにある在ペルー日本大使公邸では、当時の青木大使が主催する恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが開催され、ペルー政府要人や各国の在ペルー大使館関係者、日系の人たちが招かれていました。そこへ反政府組織メンバーが乱入し、約600人を人質にとって立てこもるという大事件が勃発しました。いわゆる「在ペルー日本大使公邸占拠事件」です。

事件は4ヶ月後の1997年4月22日(日本時間、4月23日)、ペルー軍の特殊部隊が大使公邸に突入し、最後まで残った人質72人のうち71人を救出することで幕を閉じました。しかし人質一人(ペルー最高裁判事)と、突入したペルー軍特殊部隊の兵士2人が犠牲になったのです。

特殊部隊の突入と人質救出の模様は全世界にTVで中継され、その映像はニュースで何回となく放映されました。私も、負傷した特殊部隊の兵士が担架で運び出される生々しい様子を鮮明に記憶しています。そして・・・・・・。

中島さんは「日本人人質の安否や、日本人は無事ということだけを放送し、人質を救うため命をかけて突入して重傷を負った(実際は死んだ)兵士の安否については全く一言も触れなかったTVの実況中継」に対して、非常に強い違和感をいだいたのです。担架で運び出された兵士の胸には赤いシミが広がっているというのに・・・・・・。その違和感をもとに作られたのが《4.2.3.》です。


4.2.3.

・・・・・・

あの国の人たちの正しさを
ここにいる私は測り知れない
あの国の戦いの正しさを
ここにいる私は測り知れない

しかし見知らぬ日本人の無事を
喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には
心を払うことがないのだろう

この国は危い
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう
平和を望むと言いながらも
日本と名の付いていないものにならば
いくらだって冷たくなれるのだろう

慌てた時に人は正体を顕わすね
あの国の中で事件は終わり
私の中ではこの国への怖れが
黒い炎を噴きあげはじめた

4.2.3.…… 4.2.3.……
日本人の人質は全員が無事

・・・・・・
A1998『わたしの子供になりなさい

曲のタイトルが「4.2.2」(1997年4月22日:現地時間)ではなく「4.2.3」(1997年4月23日:日本時間)となっているのは、あくまで日本におけるメディアの報道のあり方がテーマだからと推測されます。

A1998 わたしの子供になりなさい.jpg
A1998『わたしの子供に
なりなさい』
補足しておきますと、死亡した2人の兵士の家族に対しては日本からも多くの人が義捐金を寄付しました。またペルーを訪問する日本政府関係者は2人の墓を訪れるのが慣例になっています。

あえて言うと《4.2.3.》は、曲と詩の両面からみて失敗作だと思います。「メッセージ」があまりにダイレクトに詩と曲にぶつけられていて、作品としての完成度をいでいる。しかしたとえ失敗作だとしても、こうような作品をアルバムの最後の曲として「堂々と」収録する中島さんの勇気に敬意を表したいと思います。最初に書いたように、社会に対するメッセージ性のある詩を書き続けているシンガー・ソングライターは、今となっては少ないのです。



最近のアルバム『真夜中の動物園』(2010)からも引用しておきます。


小さき負傷者たちの為に

・・・・・・

言葉持たない命よりも
言葉しかない命どもが
そんなに偉いか 確かに偉いか
本当に偉いか 遥かに偉いか

卑怯と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に

・・・・・・
A2010『真夜中の動物園

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A2010『真夜中の 動物園』
4.2.3.》とはうって変わって、言葉の抽象度が高められています。「言葉持たない命」「卑怯と闘う」「小さき負傷者」などは、何らかの「社会事象」に関係していると受け取るのが普通でしょうが、そうではなく人と人との関わり、さらには人間と動物・生物との関係と受け取ることも可能でしょう。こういった言葉の多義性を利用してイメージを膨らませた詩を書くのも中島さんの特徴です。それは、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で書いたように、ファースト・アルバムの第1曲、《あぶな坂》から一貫しています。

ちなみにこの詩は、4つ前に引用した《忘れてはいけない》(A1985『miss M.』)とコンセプトが非常によく似ていて、それは詩全体を読めば良く分かります。「小さき負傷者」は、すなわち「許さないと叫ぶ野良犬」および「認めないと叫ぶ少女」でしょう。2つの作品には25年の時間の経過があるのですが、中島さんは一貫するところは極めて一貫しています。


人間を見つめる


「社会を見つめる」というテーマの一部と言えますが、中島さんの詩には、この社会の中で生きていく(生きてきた)「人」に焦点を当てた詩があります。特に社会の底辺で生きる人や若年層、老人などがテーマの詩です。ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)の《アザミ嬢のララバイ》という曲における「アザミ嬢」とは、詩の内容からして、いわゆる「水商売」の女性でしょう。この曲を含めて次のような曲が思い出されます。

アザミ嬢のララバイ A1976『私の声が聞こえますか
彼女の生き方 A1976『みんな去ってしまった
狼になりたい A1979『親愛なる者へ
エレーン A1980『生きていてもいいですか
白鳥の歌が聴こえる A1986『36.5℃
流星 A1994『LOVE OR NOTHING

この中の《白鳥の歌が聴こえる》ですが、伝説では「白鳥は死の前に鳴く」と言われます。そのイメージを職業女性に重ねた詩です。


白鳥の歌が聴こえる

海からかぞえて三番目の倉庫では
NOを言わない女に逢える
くずれかかった瀞箱の陰には
夜の数だけ天国が見える

白鳥たちの歌が聴こえて来る
YOSORO YOSORO
たぶん笑っているよ

・・・・・・
A1986『36.5℃

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A1986『36.5℃』
この詩には「難しい」言葉が出てきます。瀞箱(とろばこ)とは魚を入れる箱を言います。またYOSOROは「ようそろ」という船舶用語で「そのまま直進。それでよい。問題なし」というような意味です。大変に古い言葉で、宜候(よろしくそうろう)が詰まったものと言います。瀞箱も宜候もこの曲で初めて知りました。

なぜ「港・船関係専門用語」を使うのか。おそらくこの詩の主人公である娼婦の生きている世界を表したかったのだと想像します。しかし明らかに聴くだけでは分からない

この詩だけはないのですが、中島さんの詩には時として耳で聴くだけでは分からない言葉が出てきます。これらは「歌詞」から独立した「詩」として理解すべきべきでしょう。No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用した例のように・・・・・・。



LOVE OR NOTHING』の《流星》という曲では、長距離トラックの運転手が描かれます。全体の構成と内容にユーモアを感じさせる、おもしろい作品です。


流星

バスがとまった気配に気づき
そっとまぶたをあけてみると
ここは山頂のサービスエリア
次の町まであと何百キロ

埃まみれの長距離トラックが
鼻先ならべる闇の中
自販機のコーヒーは甘ったるいけど
暖まるならそれでいい

どこまで行くの 何しているの
歌を歌っているんです

そうかい、おいらは歌は知らねえな
演歌じゃねえんだろ、そのなりじゃあな

香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
流れる星よ いつか最後に
どこへたどりつこうというのだろうか

おいらはこれから北の国まで
となりはこれから南まで
便りのないのが良い便り
どこかで会うかもしれねえな

身体こわさず がんばってみなよ
たまには親にも電話してやんな
吹く口笛はスプリングスティーン
あれは演歌だと おっちゃんは信じてる

香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
流れる星よ いつか最後に
どこへたどりつこうというのだろうか

・・・・・・
A1994『LOVE OR NOTHING

中島さんの全国ツアーの合間の1シーンをユーモラスに描いたもの、というのが普通の見方でしょう。「演歌じゃねえんだろ、そのなりじゃあな」! 「吹く口笛はスプリングスティーン」!・・・・・・。

しかし決してそれだけではない。長距離トラックの運転手を「流れる星」と表現し、曲の題名を「流星」とすることこそ中島みゆきの真骨頂なのですね。この曲の6年後に《地上の星》がテレビのドキュメンタリー番組のテーマ曲として発表されました。長距離トラックのおっちゃん達もまた「地上の星」ということなのでしょう。



アルバム『寒水魚』の中の《傾斜》は、老女、ないしは人間の老いそのものがテーマになっています。


傾斜

傾斜10度の坂道を
腰の曲がった老婆が少しずつのぼってゆく
紫色の風呂敷包みは
また少し また少し 重くなったようだ

彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横すべり 横すべり
のぼれども のぼれども
どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ

冬から春へと坂を降り 夏から夜へと坂を降り
愛から冬へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか

・・・・・・
A1982『寒水魚
A2004『いまのきもち

A1982 寒水魚.jpg
A1982『寒水魚』

30歳の女性の書く詩とはとても思えないし、題名も「傾斜」という極めて無機質な言葉です。この傾斜という言葉は、人生の坂道という時の「坂道」のように単なる比喩だと思ってしまいます。しかし中島さんは「夜会」で、実際に傾斜をつけた舞台装置の上でこの曲を歌ったことがあります。比喩であって、同時にそれ以上のものである・・・・・・。中島さんの言葉に対するこだわりは相当なものだと思います。ちなみに、この《傾斜》もリメイクされています(A2004『いまのきもち』)。彼女にとっての重要作品なのでしょう。

この《傾斜》から28年もたった後ですが《鷹の歌》という作品が発表されました。


鷹の歌

あなたは杖をついて ゆっくりと歩いて来た
見てはいけないようで 私の視線はたじろいだ
あなたはとても遅く 身体を運んでいた
まわりの人はみんな いたわりの手を差しのべた

鷹と呼ばれていた人が
這うように命を運ぶ

「見なさい」あなたの目が
「見なさい」私を見た
「怖れるなかれ 生きることを」
鷹の目が 見つめて来た

・・・・・・
A2010『真夜中の動物園

「杖をついて」とか「いたわりの手」ということから「鷹」とは老人を想像します(別の解釈も可能でしょうが)。この詩は「傾斜:第2部」のような作品だと思っています。



「社会と人間を見つめる」詩に関連して、中島さんは人生や人の一生を語った詩も書いています。それは別途



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