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No.62 - 音楽の不思議 [音楽]

今まで何回か音楽を取り上げました。

No. 5 - スメタナ「交響詩:モルダウ」
No. 8 - リスト「ノルマの回想」
No. 9 - コルンゴルト「ヴァイオリン協奏曲」
No.10 - バーバー「ヴァイオリン協奏曲」
No.11 - シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」
No.14 - ワーグナー「ニーベルングの指環」(No.14-17)
No.35 - 中島みゆき「時代」
No.44 - リスト「ユグノー教徒の回想」

などです。No.1 の「クラバート」からの連想で書いているので少々ジャンルが偏っていますが、音楽好きとしては今後も各種の曲を取り上げたいと思います。

その音楽について、個人的に驚いた経験を最近したのでそれを書きます。


キャンディーズ・ミックス


2012年4月21日(土)にクルマを運転していたときのことです。FM放送(確かFM横浜)からキャンディーズの楽曲が流れてきました。「4月21日」「キャンディーズ」と聞いてピンとくる人がいると思いますが、この日は亡くなった田中好子さんの一周忌だったのす。

元キャンディーズで女優の田中好子さんは、2011年4月21日に55歳という若さで亡くなられました。メディアで彼女の最後のメッセージが流されましたね。覚えている人も多いと思いますが、その冒頭は東日本大震災の被災者の方を思いやる内容でした。自分の死を認識した上で残されたこの遺言に感動した人は多いと思ます。

2012年4月21日にFM放送で流れていたのは、その田中さんを追悼するための「キャンディーズ・ミックス」と称するコンピレーションでした。キャンディーズの主要な楽曲を1コーラスだけ集めて連続的に繋いだものです。私は聞きながら田中さんの最後のメッセージを思い出していました。

しかし今回は音楽の話です。「キャンディーズ・ミックス」のあと、田中さんのメッセージの記憶以外に強く感じたことがあります。なぜ私はキャンディーズの主要な楽曲のメロディーを、始めから最後まで忘れないで全部覚えているのだろう、それは何故なのか、という疑問です。


キャンディーズの不思議


キャンディーズ・ミックスに出てきた曲は、今から思い出すと、
 ・年下の男の子
 ・ハートのエースが出てこない
 ・春一番
 ・暑中お見舞い申し上げます
 ・微笑みがえし
などです。これ以外にもあったと思いますが、とにかくキャンディーズの代表曲・ヒット曲ばかりであることは確かです。なぜなら私が知っている曲ばかりだったからです。そして「キャンディーズ・ミックス」を聞いて認識したことは、

かなり昔の曲であるにもかかわらず(1775-78年。30年以上前の曲)覚えている
出てきた全部の曲のメロディーを、始めから終わりまで忘れないでいる。
覚え間違いはなく、メロディーだけなら鼻歌で歌える。

という点でした。

キャンディーズの主要な楽曲のメロディーを、始めから最後まで全部覚えているのはあたりまえ」という人は大勢いると思います。その代表格は自民党の石破茂衆議院議員でしょう。しかし私にとっては決してあたりまえではありません。私は「キャンディーズ・ファン」だったことはないし、意識的にキャンディーズの曲を聞いたということはありません。TVの歌番組にチャネルを合わせたということもない。

キャンディーズのヒット曲を知っているのは、あくまでTVやラジオ、街角で流れてきた曲が「それとなく」頭の中にインプットされたからと推測できます。曲がヒットしたのは今からすると30年以上前の事です。キャンディーズ解散以降も折りにふれて放送されたとはいえ、昔のことです。つまりこれらの曲は「かなり以前に、知らず知らずのうちに覚えてしまった曲」です。それにもかかわらず「メロディーを終わりまで覚えていて、忘れていない」という事実に、非常に不思議な感じを抱いたし、軽い驚きを覚えたわけです。なぜ忘れないのだろうかと・・・・・・。


メロディー・旋律の記憶


キャンディーズ・ミックスから一般的に推測できることがあります。

覚えやすいメロディーは、一度頭の中にインプットされると容易には忘れない。

ということです。私たちはそれを当然のことのように感じ、何の疑問もなく日々過ごしています。しかし、よくよく考えれば不思議だという感じがする。もちろん「覚えにくいメロディー」もあります。何回聞いても覚えられない曲がある。また、曲の一部だけが印象的で覚えやすいこともある。いわゆる「サビ」の部分ですね。

メロディーを忘れないのはキャンディーズのようなポップスだけではなく、クラシックの歌曲やオペラのアリアでも同じです。また歌だけでなく器楽曲の旋律もそうでしょう。以前にとりあげた例では、No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」の第1楽章の第1主題(譜例12)は、主題としては長いものですが(そしてかなり複雑な旋律ですが)、この曲が好きな人ははっきりと覚えているでしょう。一般にクラシックの交響曲の演奏時間は長いのですが「メロディー・ラインとして曲全体を記憶するのは十分可能」だと思います。ベートーベンの『運命』の演奏は30分以上かかりますが、全曲をハミングで歌えそうな気がする。シューベルトの『未完成』もそうです。もちろん「オーケストラ」で演奏される「和声音楽」であり、かつ「ポリフォニー」なので旋律として追いにくいところはありますが・・・・・・。プロの指揮者や演奏家なら楽譜の1音1音まで記憶していて当然でしょうが、アマチュアの音楽愛好家でも旋律・メロディーとしてなら、かなり長い曲でも記憶できると思うのです。

この「メロディーの記憶」はあくまで「メロディーという音符の連鎖の記憶」であって、題名とメロディーを関連づけて記憶することはまた別です。よく知っているはずの曲であっても、曲の題名からメロディーを思い出せないことがありますね。歌い出しが分かってしまうとメロディーがどんどん思い出される。逆に、TV放送やラジオや街角で器楽曲が流れてきても題名が思い出せないこともよくあります。人間にとって言葉の記憶とは別に「音符の連鎖」を記憶する独自のメカニズムがあると感じられます。


詞・文章は忘れやすい


メロディーに比べると歌詞は忘れやすい。「キャンディーズ・ミックス」の曲を例にとると、『微笑がえし』で覚えていたのは「♪ お引っ越しのお祝い返しも済まないうちに・・・・・・」などの断片的なフレーズだけでした。

3.11 以降、テレビCMで『見上げてごらん夜の星を』が流されました(サントリーのCM)。この曲を聞くのは何10年ぶりかのはずなのにメロディーは忘れてはいなかった。それに比べ、歌詞の全部は覚えてはいませんでした。

カラオケ機器は、メロディーと歌詞の覚え易さの差の上に成り立っています。メロディーも歌詞と同じ程度に覚えにくいのなら、画面に楽譜を出す必要があります。しかしそうはなっていない。カラオケ産業はメロディーと歌詞の記憶の差によりかかって成立しています。

歌手の中にはコンサートで「みんなで歌おう」というコーナーをやる人がいますね。そのとき歌手が歌詞をフレーズごとに先行してレクチャーしたりします。カラオケと同じ状況を人間系で実現しているわけです。

メロディーとは無関係に存在している詩・文章などの「言葉」は、歌詞よりももっと忘れやすいのではないでしょうか。我々がよく記憶していて、いつでも引っ張り出せる「言葉」は、有名なことわざ・俳句・短歌のたぐいであり、比較的短いものです。唱えるのに分単位の時間がかかる長い文章を記憶している例は、あまり思いつきません。中学・高校の頃は日本国憲法前文を暗唱できたはずなのに、今はとてもできない。忘れてしまっているのです。

メロディーと一緒に記憶している言葉(=歌詞)は、まだ覚えているものが多いが(特に好きなアーティストの楽曲)、メロディーと無関係に比較的長めの文を覚えているというのはあまりない。ひょっとしたら歌の起源は、長い、まとまった言葉を、歌詞として覚える手段なのかもしれません。


「名曲」の条件


覚えやすいメロディーは、一度頭の中にインプットされると容易には忘れない・・・・・・。このことから類推できることがあります。それは「ヒット曲」さらには「名曲」と言われる曲の条件です。「名曲」の条件は、

印象的なメロディー・主題・旋律をもっていること

です。それは十分条件ではないが、必要条件です。これはクラシックでもポピュラー音楽でもロックでも変わらない。「ヒット曲」が誕生し、さらには「名曲」と呼ばれるまでには以下のようなプロセスがあるはずです。

その曲を1回聞いただけ、ないしはせいぜい2~3回聞いただけで、人の印象に強く残る。
人の印象に残った結果、噂やクチコミやメディアによって聴く人が雪だるま式に増大し、広く人々の記憶にインプットされていく。
さらに一時のヒットだけでなく、時間を超えて多くのアーティストによって歌い継がれ、演奏される。
多くの人が曲の一部を聞いて、あの曲だとか、どこかで聞いた曲だと思える。

といったプロセスです。このプロセスで最大のポイントとなるのが、記憶に残る「印象的な主題・旋律」です。catchy という英語がありますね。日本語にもなっています。「人の心を捕らえる」とう意味で、a catchy song と言うと「覚えやすい歌」です。この catchy の最重要ファクターは主題・旋律でしょう。

従って作曲家の最低限の条件は「印象的なメロディー・主題・旋律」を作る能力です。この能力を「主題力」と呼ぶことにします。ポップスの曲のヒットは「サビ」が印象的かどうかに大きく左右されます。つまり作曲家の「主題力」いかんです。現代のポップスの作曲家は「サビ」を作ることに日夜励んでいて「サビ」のストックをもっているはずです。作曲のときには、まずそのストックの中から新曲に適切なものがないか探すでしょう。

「主題力」はクラシックの曲のように長い曲の場合にも重要です。第1楽章だけで20分かかるような曲はザラにありますよね。この程度の長さになると曲の「構成」が重要です。たとえば第1主題から第3主題まで3つの主題があり、それが変形されて展開され、また3つの主題が順に舞い戻るとします。聴く人にとって重要なのは、どれが3つの主題なのか明瞭に分かることです。また変形されたのなら変形されたと理解できることです。そして主題が再現されたらそのことがすぐに分かる。つまり主題が印象的であることこそが、20分もの長い曲の構成を支える重要なポイントです。これがないとダラダラと続く(ように聞こえる)面白くも何ともない曲になってしまう。

ポップスの世界で「主題力」が最もある作曲家の一人は桑田佳祐さんです。『いとしのエリー』(1979)からはじまって現在まで、30年以上に渡って「主題力」を発揮している。2~3曲はいい曲を書いたがそれだけとか、3~5年間は素晴らしい曲を書いたが以降はダメで惰性で曲を作っているような作曲家、ないしはシンガー・ソングライターがいますよね。それに比べれば大したものだと思います。

クラシック音楽におけるベートーベンの人気も、結局のところ「主題力」だと思います。ベートーベンの曲は「緻密な構成力」や「盛り込まれた思想性」や「にじみ出る人生観」などばかりが強調されます。それはそれで正しいかもしれませんが、交響曲や弦楽四重奏曲やピアノソナタを聴いてまず感じるのは、魅力的で印象的な主題・旋律・パッセージ・動機・音型に溢れていることなのですね。とにかくその点の印象が強い。


音楽の不思議


「覚えやすいメロディー」は一度頭の中にインプットされると容易には忘れない・・・・・・。これはなぜそうなのかが非常に不思議だと思っています。音楽の不思議の最大のものでしょう。というのも、メロディーのベースとなっている「音階」や「和音」は極めて「人工的で数学的な創造物」だからです。

 人工的・数学的創造物 

現在、音楽に使われるのは西洋で18世紀以降に発達した「12平均律」(単に平均律)ですが、これは15世紀以降の「純正律」の発展形です。ド(C)の周波数を1すると以下の表のようになります。

 長音階における周波数比(ドを1) 
(差異は純正律からみた平均律の差異の割合)

音名純正律平均律 差異
1 1.0000 1.0000  0.00%
  ド# 16/15 1.0667 1.0595 ▲0.68%
9/8 1.1250 1.1225 ▲0.23%
  レ# 6/5 1.2000 1.1892 ▲0.91%
5/4 1.2500 1.2599  0.79%
ファ 4/3 1.3333 1.3348  0.11%
  ファ# 7/5 1.4000 1.4142  1.02%
3/2 1.5000 1.4983 ▲0.11%
  ソ# 8/5 1.6000 1.5874 ▲0.79%
5/3 1.6667 1.6818  0.90%
  ラ# 16/9 1.7778 1.7818  0.23%
15/8 1.8750 1.8877  0.69%
2 2.0000 2.0000  0.00%

純正律の長音階(ドレミファソラシド)の「ド」に対するの周波数の比率は、素数である2・3・5を使った出来るだけ単純な組み合わせの分数(1より大きく2より小さい値)で成り立っています。また平均律は、オクターブを12の半音の列とし、半音と半音の間の周波数の比が2の12乗根であるように作られています。平均律のピッチの決め方は非常に数学的というか、数学そのものです。

音の周波数の比が単純な整数に近い2音は響きがよいことが昔から知られていました。これが純正律の原理ですが、そう単純に割り切れないこともある。ド(C)を基底音とする4つの三和音の周波数比が下表です。

和音.jpg
長三和音(C 4: 5: 6
短三和音(Cm 10: 12: 15
減三和音(Cdim 5: 6: 7
増三和音(Caug 20: 25: 32

和音の基本は長三和音(C)と短三和音(Cm)であり、減三和音(Cdim)と増三和音(Caug)は不協和音とされています(現代の音楽では不協和的な効果を狙って使われる)。確かに Caug の周波数比は大きな数字が並んでいて「単純な整数比」とは言えません。しかしその一方で Cdim の周波数比は Cm よりもシンプルです。なぜ短三和音(Cm)が「協和的に」聞こえ、よりシンプルな減三和音(Cdim)が「不協和的に」聞こえるのか・・・・・・。単純ではありません。

現在の音楽に使われている平均律にしても、表に掲げたように純正律からすると微妙にずれています。この程度の差は人間の耳には大して関係ないということなのか、それとも微妙にずれていることがかえって音楽の魅力を生むのか・・・・・・。どちらもありうると思います。ヴァイオリン奏者はヴィブラートをかけて音のピッチを「細かく揺らす」ことをしますね。周波数がピタッと整数倍に合っている和音は、響きは純粋だが「面白み」がないのかもしれません。微妙な「揺らぎ」や「ズレ」や「かすかな違和感」や「どこかちょっと違う感じ」があった方が、かえって美しさを増加させることが芸術の世界ではよくあります。

音階や和音は極めて人工的で数学的な創造物です。そもそもオクターヴ(周波数が2倍)の間に12の音がある理由は、古代ギリシャの数学者・ピタゴラスが決めた「ピタゴラス音律」からきているわけです。ピタゴラス音律の決め方は2と3という素数からなっています。つまりド(C)の音の周波数を3倍し2で割ると(1.5倍すると)ソ(G)の音になる。以下、順に周波数を1.5倍し、それが2を超えると2で割るという操作を繰り返していくと

C → G → D → A → E → B →F# → C# → G# → D# → A# → F

という12の音列が得られます(英語音名で表記)。最後の F にもう一度この操作をすると、結果は C に対する周波数の比が

  312  

  219  
 = 
  531441  

  524288  
 = 1.0136

となって出発点と極めて近くなります。そこで上記操作の最後の F の音、

F = 
  311  

  217  
 = 
  177147  

  131072  
 = 1.3515

を、純正律の F の音である 1.3333 で置き換えてしまい、1.5倍するとちょうど2になるようにすると、

  F → C(元に戻る)

となって、12の音からなる「音の輪」が完成します。これが12音の起源です。この音律の作り方だと F を少し下げるため A# と F の間隔が狭くなりますが、それはやむをえません。3の累乗が2の累乗に等しくなることはないので、どこかに「しわ寄せ」がくるのは必然です。

ともかくオクターヴがなぜ12音かというと、3の12乗が最も2の累乗に近くなるからというのがその答えなのです。ちなみに「音の輪」の最後の F から始まって

  F → C → G → D → A → E → B

と音をとり、これを音の高さで並べ替えると

  ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ(・ド)

となって長調の音階になります。また「輪」の最初の C から始まって

  C → G → D → A → E

と5つの音をとり、音の高さで並べ替えると、ド・レ・ミ・ソ・ラ(・ド)という、いわゆる5音音階になります。これは日本を含む世界中に古来からありますね。『あかとんぼ』『蛍の光』『アメージング・グレース』『結婚しようよ(吉田拓郎)』というわけです。ドボルザークの『新世界』の第1楽章の主題や第2楽章の「家路」の前半部もそうです。

 音楽は相当する自然物がない芸術 

音階や和音は極めて人工的で数学的な創造物、ということを別の視点から見ると、

音楽は、相当する自然物ないしは、類似する非人工物がない芸術(あるいは文化)である。

と言えます。

絵画の発祥は明らかに自然の模倣です。石器時代の洞窟画がそうだし、人物画も風景画も自然や現実を写し取るところから始まっています。宗教画で天国を描いたとしても、それは現実世界のある断面や部分の模倣としての想像世界であるわけです。彫刻、写真、映画も現実を写すところから始まっています。文学もノンフィクションとフィクションの違いはありますが、現実ないしは想像力で作った模擬現実の記述が原点です。もちろん抽象画や抽象彫刻はありますが、それらは暗黙に具象絵画や具象彫刻との対立項だから価値があるのだと思います。

これらと比較して、音楽はそれに相当する自然や非人工物がありません。鳥のさえずりが音楽に聞こえるといっても「音声」であることは確かですが、音階や和声に基づく「音楽」とはレベルが全く違います。滝の音、木の葉のざわめき、波しぶき、雨だれ、川のせせらぎ、風のうなり声・・・・・・。自然界は「音」に満ち溢れているけれど、それらは「音楽」と言うにはかなり異質なものです。「自然の奏でる音楽に包まれて・・・・・・」というような文章は比喩であって「自然の音に包まれて」が正しい。

 人間が本質的にもつ感性と共鳴する 

音楽は、相当する自然物ないしは、類似する非人工物がない存在です。しかしそれにもかわらず、人間の感性と奇妙に共鳴し、シンクロしています。覚えやすいメロディーが人間の脳裏に刻み込まれ容易には忘れないことは、人間の感性と音楽の相性の良さを暗示しています。

長調と短調があります。ないしは長三和音と短三和音がある。長調が「喜びや外向的雰囲気」を表すのに対し、短調は「悲しみや内向的雰囲気」を表す。別にそういうルールがあるわけでも何でもないが、楽曲を聴く人は皆そう思うわけです。長調の曲を「暗い」と感じ、短調の曲を「明るい」と感じる人はまずいない。長調と短調に関する人間の感性も、音楽が人間が本質的に持つ「何か」と関係している現れだと思います。

また、天才肌の音楽家の幼少時のエピソードにありますよね。3歳の頃、彼(ないしは彼女)にトイピアノを与えたところ、何時間もそれを弾き続け、さらには曲を作ろうとしていたというような・・・・・・。もちろん全ての音楽家がそうではありませんが「3歳でトイピアノで作曲のまねごと」というのも、考えてみれば非常に不思議だと思います。幼少の子に与えられたのは、1オクターヴ、プラスアルファの数の白鍵・黒鍵の列であり、数学的に12種の周波数が決まっている楽器です。それが3歳児の感性とシンクロする・・・・・・。

音楽は人間の脳の働きの根幹にかかわる何かと深い関係があるのだと思います。


時間アートとしての音楽


「人間の脳の働きの根幹にかかわる何か」とはどういうものか。私はそれは人間が言葉をしゃべる脳の働きと関係しているのだと思っています。

単語をつないで一つのまとまった話を人間がしゃべるといことは、時間をまたがる連続的創造行為です。「今日の」という言葉を発すると、その次に続く言葉は何百種類かが考えられ、その中から例えば「予定は」というように言葉が選択されて、それが次々と続きます。「今日の」→「右足は」となることはまずない(しかし状況によっては、あり得ないことはない)。どういう言葉が次々と選択されるか、選択されないかはシチュエーションによります。聴く人も次に続く言葉を無意識下で予感し、話者が選択する言葉を聴き、その繰り返しで文脈を把握していく。

素晴らしい文章を書く作家やエッセイストの本を読むと、言葉と言葉のつながりが極めて自然でなめらかであると同時に、要所要所に軽い違和感を覚えるような「言葉のつながりの飛躍」が挟みこまれます。この軽いジャンプ感が文章を引き締め、生き生きと躍動させる。良い文章は「想定通り」と「想定通りではない」という二つの「はざま」にあります。

この「言葉をしゃべる」「言葉を聞く」プロセスと、「音楽を奏でる・歌う」「音楽を聴く」プロセスは酷似していると思うのです。言葉における言語・文法に相当するのは、音階・和声・リズムなどの約束ごとです。この約束ごとをベースに、次々と音符が奏でられ(歌われ)、時間をまたがって繋がっていく。我々が音楽を聞く時には、次にどういう展開があるかという暗黙の想定をしながら聴いています。そしてハッとする展開にぶつかったときに、印象が残る。

No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」において、
音楽は時間芸術です。音楽を聞くとき私たちは、これから来るであろう音をなんとなく予感し、また過ぎ去った音を回顧しつつ、その瞬間・瞬間に耳を傾けています。この連続型が「聴く」という行為です。
と書きました。言葉と音楽は「時間ともにある」ことが似ています。言葉も音楽も、その瞬間に発せられる「音」だけを聴いて理解することは絶対にできません

過ぎ去った「音」の記憶
今の瞬間の「音」の受容
これからの「音」の予感

これら三つを一体的に把握し、時間をまたがって理解が進むのが「言葉」と「音楽」です。

言葉を聞く行為と音楽を聴く行為は類似しています。であれば、音楽を聴く能力は人間の言語能力の獲得と関わっているという推定も成り立ちます。それは果たして正しいでしょうか。

ともかく、人工物である音楽が人間の感性と非常に親和的であること、それが音楽の不思議さです。その不思議さを人々は深層心理で感じているのだと思います。だからこそ、それを知りたいと思うし、熱狂するし、のめり込んだりもする。人間は不思議さを秘めたものに惹かれます。音楽がこれほど身近にあり、現代における一大産業を形成していて、確固とした芸術のジャンルにもなっている理由がそこにあると思います。



 補記:音楽と人間の知的活動 

音楽が人間の精神活動に深く関わっているのでは、という意見を紹介します。理系の科学者の方の発言(コラム記事)です。


音楽は知的活動の基礎要素
 科学者の研究 後押しか


(省略:言葉と人間の精神活動について)


音楽、とりわけ歌は動物の求愛行動の中で大きな役割を果たしていると考えられることから、ダーウィンは進化論的にみて、歌の方が発話に先行すると考えていたようである。

近年では、脳神経科医として認知症やパーキンソン病などの患者を数多く診たオリバー・サックスが、言語能力を喪失した後も音楽の能力を長く維持する症例を報告している。たとえ記憶をうしない会話ができなくなっても、昔の歌を完璧に歌うことができ、楽器の演奏も滞りなくできることがあるという。

このような人間の知的活動に根源的な音楽は、実のところ科学とも密接に関連している。周知のように、リズムや調性、作曲技法から楽器制作に至るまで、音楽には科学的な要素が多い。意外なことかもしれないが、逆に音楽が科学研究の上で大きな役割を果たしている可能性もある。

アインシュタインはバイオリンを生涯愛好し、研究の合間に慰みに弾くだけでなく、折に触れて仲間との合奏を楽しんでいた。プランクやハイゼンベルクも、玄人はだしのピアノの名手であった。日本でも寺田寅彦がバイオリンやチェロの演奏で知られるが、現代でも音楽に傾倒し、演奏や歌唱に堪能な科学研究者を多く目にする。

もしかすると人間の知的活動の根底には音楽があり、それが科学研究において何らかの意味で後押ししているのかもしれない。問題解決への直感的なひらめきや研究全体の構想を練り上げるうえで、知性と感性を統合する音楽が深く関与しているというのは、科学の創造的現場の姿としてごく自然なものに思われる。

高エネルギー加速器研究機構・准教授
筒井泉
(日経産業新聞 2017.12.8)




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