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No.56 - 強い者は生き残れない [本]


理系学問からの思考


No.50「絶対方位言語と里山」において、森林生態学者の四手井 綱英 氏が「里山」という言葉を広め、それが人間と自然の関わり方についてのメッセージの発信になり、社会的な運動を引き起こしたことを書きました。

ふつう人間や社会を研究するのは文学、哲学、心理学、社会学、政治学、経済学などの、いわゆる文化系学問だと見なされています。それは正しいのですが、理科系の学問、特に生命科学の分野、物理学、数学などから得られた知見が人間の生き方や社会のありかたに示唆を与えることがいろいろあると思うのです。

森林は人間と非常に関係が深いので、森林生態学における発見や認識(たとえば里山)が人間の生き方や社会のありかたに影響を与えることはすぐに理解できます。しかし「人間の生き方や社会のありかたへの影響」は何も森林生態学に限ったことではなく、生命に関する学問全般で言えることだし、もっと広く自然科学全般でもありうる思います。

そういった例の一つとして『強い者は生き残れない』という進化論の本を紹介したいと思います。


『強い者は生き残れない』(新潮選書 2009)


強い者は生き残れない.jpgこの本は吉村仁(よしむら じん)氏が書いた、生物の進化を扱った本です。吉村さんは静岡大学教授であり、またニューヨーク州立大学併任教授、千葉大学客員教授も勤めています。専門は数理生態学で、主に進化論の研究をしていると本の背表紙にありました。『素数ゼミの謎』(文藝春秋)という一般向けの本もあります。

『強い者は生き残れない』の内容は進化のメカニズムから人間社会の考察まで、多岐に渡っています。すべての概要を紹介できませんが、コアと思われる部分を以下に紹介します。


ダーウィンの「自然選択理論」


まず出発点はダーウィンです。本の冒頭にはダーウィンの「自然選択理論」が簡潔に要約されています。

生物の進化について解明したイギリスの生物学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1882)の「自然選択理論」の骨子は、以下の3点である。

生物の個体には形質のばらつき(変異)がある。
その形質の違いが生存率や繁殖率に影響を及ぼす。
この形質は遺伝する場合がある。
(p.15)

ダーウィンのそれまでになかった新規性は「個体変異」に注目し、それと自然選択(natural selection)が重なって生物が進化するという基本理論を確立したことです。これは現代でも進化論の基礎となっています。

しかし自然選択と言う場合の「自然」とは、実は「生物からみた環境」なのです。環境選択というのが正しい。

自然選択とは、本来の意味からすると「環境選択(environment selection)」と呼ぶべきであろう。つまり、選択する主体は「環境」であり、選択される対象は「生物の各個体」なのである。だから、当たり前のことであるが、環境が変われば自然選択もかわる。この点は非常に重要で、ダーウィンが生きた19世紀には、自然選択は変化しないというような考えが広く信じられていたが、自然選択はいつもダイナミックに変化しているのだ。
(p.17)

重要なことは「環境は変わる = 自然選択は変わる」ということです。森林に住んでいるウサギと草原のウサギでは、食べるエサも危険な捕食者も異なります。太古の昔から森林(ないしは草原)だった環境、森林から草原へと移行した環境、その逆の環境、森林と草原が交互に繰り返された環境では、何が生物の生存にとって有利かが異なってくるのです。

なお本書に断ってありますが、進化(evolution)という言葉に、かつてのような「進歩」という意味合いはありません。21世紀の進化論研究者が使う用語としての「進化」は「変化」と同じ意味です。


環境変化が進化を促す


「環境により選択されて」起きる生物の進化は、どのように進むのでしょうか。吉村さんは今までの学説や自身の数理シミュレーションの成果も引用しながら、あくまで「仮説」と断ってですが、以下のようなモデルを提示しています。

 シーン0 環境安定期 
環境が安定している長期の期間を言います。この時期、自然選択は微弱で、表現型の変化はほとんどありません。「表現型」とは「生物の個体が実際に備えている性質・形質・行動」を言います。生物の種数の変化もあまり起きません。

しかしこの時期に生物の内部では遺伝子の多様化が進みます。それは「中立突然変異」によります。これは1968年に木村資生(もとお。1924-1994)が発見した原理で、
遺伝子のDNAの突然変異は、一定の確率でランダムに起こり、その多くは個体の生き残りに対して良くも悪くもない中立的なもの(自然選択に対して中立的)である。
というものです。ここで注意すべきは「自然選択に対して中立的」ということは、その時点での「環境選択」に対して中立的だと言っているわけで、環境が変化したときにそれらの突然変異がどう作用するかは別だということです。

 シーン1 環境激変期 
環境が激変すると自然選択のありようも急激に変化し、生物は大絶滅を起こします。この結果生物全体の遺伝子の多様性も激減します。

 シーン2 適応放散期 
環境の激変が終わった直後の時期です。大絶滅を生き延びたわずかな種は、他に生物があまりいないので今度は大増殖します。分布域を広げ、個体数が増え、広がった場所に適応していきます。この過程で種の分化が起こります。

 シーン3 最適化期 
環境が安定する最初の時期です。シーン2で適応放散した生物は、それぞれの環境に精密に適応していきます。種間の競争も激しく、種数はどんどん絞られますが、適応のレベルはますます高くなります。

 シーン4 環境安定期 = シーン0に戻る 
以上の比較的短いシーン1~3を経過したあとは、非常に長い環境安定期に移ります。これは最初のシーン0と同じです。これらのシーン0から3が繰り返されることによって生物は進化していきます。このモデルは生物の進化が急激かつ断続的に起こるという、化石研究のデータをもとにした「断続平衡説」ともマッチしています。



環境の変化が進化(=生物の変化)を引き起こす・・・・・・。吉村さんは「魚は自分の意志で陸に上がらない」と表現しています。その通りで、海の環境で「何不自由なく」暮らしている魚が、陸にあこがれ、苦難を乗り越えて陸にあがったということはないのです。私なりに補足すると、浅海に多様な魚が生息していたが、その海が地殻変動によって広範囲に干上がり干潟になってしまった。多くは海に逃れたが、干潟に取り残された魚もいた。もちろんその大多数は絶滅します。しかし中には干潟でも皮膚呼吸で生存できる種がいた。その種が次第に肺を発達させ、やがては陸での生活に適応していった(両生類への進化)。魚は「しかたがないから」「やむにやまれず」陸に上がったのです。

これは人間の文明の発生を連想させますね。人間の文明の端緒が「農業」にあることは定説です。しかし狩猟採集で十分暮らしていけるのなら、別に農業などという面倒なことをしなくてもよいわけです。野山に食料となる木の実やフルーツや雑穀が豊富にあるのなら、それを食べていればよい。採ってくるだけなのだから楽です。しかし環境が変わり、降雨量が激減し、森林が無くなって草原になると話は変わってきます。木の実やフルーツや雑穀が容易には入手できなくなる。その時、人間は草原のイネ科の植物に目をつけ、種を撒いて育てるということを始めます。環境が十分な食料を与えてくれなくなったので「しかたがないから」自分で作るわけです。

そうこうしているうちに、もっと環境が悪化して降雨量がさらに減り、草原での農業は無理になった。「しかたがないから」人間は大河のそばに集まり、河から水を引いて畑を作る。そうして人間の集団の共同作業が発達し、都市ができて文明と言えるものが生まれる・・・・・・。

人間はやむにやまれず農業を始めたのだと思います(吉村さんもそう書いています)。「農業」と「魚が陸に上がる」話と共通するのは、環境の変化の中でも「環境の悪化」が、生物を次の進化段階に引き上げるということです。「シーン1 環境激変期」もそうです。大多数にとって環境が悪化するから、大多数が絶滅するのです。


強いものが生き残るとは限らない


以上のことを前提とすると「強いものが生き残って進化した」という単純な見方はおかしいわけです。それはちょっと考えてみれば分かります。本書が言っていることを、私なりに説明すると次のようです。

ある草原地帯に2種の草食動物が生息していたとして、それをSTRONG種とWEAK種とします。STRONG種は体が大きく、力も強く、WEAK種と争うと必ず勝って相手を蹴散らします。草を食べる量も多く、子供の数も多い。一方のWEAK種は全く正反対で、小さくて痩せていて、子供の数も少ない。STRONG種の目が届かない陰でひっそりと草を食べている。どちらの数が多いかと言うとSTRONG種です。しかしWEAK種が絶滅するかというと、そうでもない。草原の草の量には環境条件で決まる限界があり、STRONG種といえどもむやみに数を増やせないからです。

この状況のもとで、環境が変わり、たとえば乾燥化が進んで草の量が激減したらどうなるか。これは基礎代謝量が多く、たくさんの食物摂取が必要なSTRONG種に不利に働きます。体が小さく、食物摂取量が少なく、子供も少ないWEAK種が有利になる。STRONG種は激減するでしょう。STRONG種同士が少ない食料を争って自滅するかもしれない。力が強いということが「アダ」になることもあるのです。

どちらの種が生き延びる上で有利かは環境に依存します。現在の環境に適応しすぎると環境変化に対応できないのです。

本書では環境が変化・変動しているときには、その変化に対応できるように生物は進化することが述べられています。その研究の例が鳥のクラッチ・サイズです。

鳥が一回に生む卵の数を「クラッチ・サイズ」と言います。吉村さんはいろいろな鳥で実験を行い、興味深い事実を発見します。たとえばワシカモメの場合、親鳥は6羽の雛鳥を同時に育てることが出来るにもかかわらず、実際のクラッチサイズは2~3個です。ワシカモメは「余力を残して」卵を生むのであり、これは多くの鳥で成り立ちます。著者はこの原因が「環境悪化に対する対応」だと考えていて、現在も研究しているそうです。

環境が変化・変動しているときには、子供の数、すなわち平均適応度を最大化していくと、逆に不利になる。死亡リスクをかぶらないよう、絶滅しないよう、子供の数を少なく抑えている個体こそが、いざ環境が悪化した時に生き残れるのだ。
(p.129)

絶滅するかしないか、という実験は非常に難しいので、鳥のクラッチサイズについての「環境悪化適応説」はまだ仮説です。しかし最低限、認めるべきは

 ◆環境は変化する
 ◆資源は有限である

の2点をベースにモノを考えると、従来とは違った様相が見えてくることです。そして「環境は変化し資源は有限」という点は全く正しいのです。


環境からの独立:共生と協調


以上の考察からすると「できるだけ環境からの影響を受けにくい生物」が生き残りやすいということになります。「環境からの独立」です。各種の生物が作る「巣」はそのための手段だと考えられます。そして「環境からの独立」を実現する「切り札」として生物が発達させてきたのが「共生・協力」なのです。

吉村さんはいろいろと共生・協力の例をあげています。たとえば地衣類は藻類と菌類の共生体であり、藻類が光合成を、菌類が栄養の分解を水分の補給を受け持っています。

現在のほとんどの生物を構成している真核細胞(核を持つ細胞)は、原核生物(核を持たない細胞)の共生体であるという説が、1970年にマサチューセッツ大学のマーギュリス教授によって唱えられました。この仮説は、細胞内のミトコンドリアや葉緑体に独自の遺伝子が確認されたことから、現在では定説になっています。

生物の個体同士が協力しあう関係も、シロアリや鳥の例などで説明されています。多くの哺乳類や鳥類がペアを作る「一夫一妻制」も、特定の個体が交尾相手を独占することを防ぎ、集団としての共生・協力関係を引き出すベースになっていると言います。「共生・協力する生物が進化する」のです。そして、このことは人間社会でも同様だ、と吉村さんは考えています。


ゲームの理論と人間社会


『強いものは生き残れない』という本の大きな特徴は、生物の進化についての考察だけでなく、そこからのアナロジーとして人間社会のありように関する考察が書かれていることです。その一つが「協調と裏切り」に関するゲームの理論からの考察です。

「囚人のジレンマ」という有名なゲームの理論の問題があります。アメリカでの司法取引を模したゲームです。2人組の強盗が別件の軽犯罪で逮捕され、別々の部屋で強盗事件の尋問をうけます。2人とも黙秘を通すと(=協調すると)、2人とも軽犯罪で懲役1年の刑になります。1人が自白し(=裏切り)1人が黙秘すると、自白した方は司法取引で無罪放免になり、黙秘した方は強盗の罪で懲役10年の刑になります。2人とも自白したときには、自白したということで刑が少し軽減され、2人とも懲役8年の刑になります。さてどういう戦略がベスト(=自分の懲役が少なくなる)か、という問題です。相手の戦略は分かりません。

この問題において、ゲームの理論では「裏切り」が最良の戦略となります。それはなぜか。

裏切り(自白)という戦略を選択すると、相棒が協調(=黙秘する)の場合は、自分は無罪放免になり、相棒が裏切り(=自白)の場合は懲役8年になります。自分が戦略を変更する(自白から黙秘に変える)と、懲役はそれぞれ1年と10年になる。戦略を変更すると相手の戦略がどうであれ、懲役が増えることになります。この状況は相手にとっても全く同じです。

ゲームの理論に「ナッシュ均衡」(ナッシュ解)という概念があります。アメリカ人の数学者・ナッシュが提唱したもので、彼はこの功績で1994年のノーベル経済学賞を受賞しています(経済学賞という点に注意)。ちなみにラッセル・クロウ主演の映画「ビューティフル・マインド」は、ナッシュの半生を描いたものです。以下がナッシュ均衡の説明です。

ゲームの理論では、ゲームはプレーヤーの間で行われるが、各プレーヤーは自由に戦略を選択できる。ナッシュ均衡は、以下のように定義される。

「対戦相手の戦略が決まっている場合に、自分が戦略を変更してもより高い利益を得ることができない。このことがすべてのプレーヤーについて成り立つ。」
(p.15)

「囚人のジレンマ」ゲームにおいては、2人とも裏切る(自白する)のが、ちょうどナッシュ均衡になっています。自己の利益を最大化しようとすると、ナッシュ均衡に落ち着く。2人とも黙秘すればそれぞれ懲役1年だから、これが全体最適であることは明白です。しかし自分の利益を最大化しようとするあまりに、2人とも懲役8年になってしまう。これは「自分にだけよい戦略」が、いかにまずい戦略になるかを物語っている例なのです。

しかし「囚人のジレンマ」ゲームのナッシュ解(裏切る=自白するという選択)は、実社会の話だとしたら間違った解であって、そうはならないはずです。実社会では「裏切り」を抑制し、協調を増大させる数々の規制があります。一人が裏切って無罪放免になったとしても、裏切り者は許さないという仲間の掟によって殺されるかもしれない。そうでなくても「その道」の連中から「裏切り者」という烙印を押され、それを一生背負わないといけないでしょう(「その道」で生きていくのなら)。仲間や同業がいないとしても、自白で無罪放免になったけれど相棒が服役している容疑者は「良心の呵責」に悩み続けないといけない(良心があればの話ですが)。

とにかく、社会やコミュニティーのルールや規則、道徳、倫理、宗教、慣習など、一言で言うと「社会規範」が、人間同士の協調を促すように人間に刷り込んでいる。この刷り込みに忠実であれば、2人とも黙秘し、2人とも懲役1年で済むわけです。

ゲームの理論は「社会規範」を考慮していません。従ってゲームの理論をもとに人間の社会行動を解釈したり、行動の指針を作ったりすることは間違いです。ところが、そういった間違いがなされ、特にそれが経済学に応用された結果、人間社会が不幸な状況になっているというのが、著者・吉村さんの見方です。以下は本書からの引用です。

ゲーム理論では社会規範による制約が考慮されていない。協同行動の促進には、多くの社会規範の成立が重要な鍵を握っている。その社会規範(協同行動のルール)の進化によって、小さな集落が村や町に、そして都市から国へと巨大化できた。

ゲーム理論の最大の落とし穴は、何よりその目的がプレーヤーの最大利益を求めることにあるという点につきる。人間が社会を作ったそもそもの動機は「存続のための協力」だったが、そんなことはすっかり忘れ去られてしまったかのようだ。
(p.221)
人間社会は環境の不確定性に備えるための「協力」からはじまった。それが民主主義のスタートラインのはずだった。ところが、その民主主義との両輪であるはずの自由主義が高度に発達するにつれて、様相が変わってきた。「個人の利益を最大限に追求する」ために、経済活動においてはゲーム理論の「ナッシュ解」が成立してしまっているのである。

端的な例が、ゲーム理論の経済学への導入である。まず、1944年、ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンの名著『Theory of Games and Economic Behavior』(ゲームの理論と経済行動)が出版され、経済学への応用が可能になった。経済行動を、利益を追求するプレーヤー間のゲームとして捉えたのだ。この理論を背景に、勝つものがさらに勝ち、利益がさらに利益を生むというアメリカ発の市場原理主義が台頭し、瞬く間に世界を席巻した。社会規範を忘れた「強者の世界」の現出である。
(p.222)

この引用で「民主主義」という言葉が出てきます。人間社会は「強い者の一人勝ちを防ぐしくみ」を発達させてきました。それが「協調の促進」の基礎となるからです。一つの例は「一夫一妻制」ですが(財力と体力があるのなら何人の妻を持とうが、かまわないはずです)「民主主義」もそうだというのが吉村さんの考えであり、上記の文章はその文脈で書かれています。

「民主主義は強い者の一人勝ちを防ぐしくみ」であるというのは確かにそうです。一人一票という意志決定プロセスでは、たとえば「富裕層(少数)」から「非富裕層(多数)」への所得移転を起こすような法律(累進課税など)は制定されますが、その逆は通りにくい。現代社会では「強い者=富める者」であることが多いわけですが、自由経済をベースとする資本主義社会は、最低限、民主主義とセットでないと国がおかしくなることは目に見えています。

そして本書のむすびは次のようになっています。

「自由」という錦の御旗の下に、ナッシュ解を求めていったら、絶滅しかあり得ないことは、約40億年の地球の生物たちの進化史が教えてくれているのである。今、「長期的な利益」のために、「短期的な利益」の追求を控え、協調行動をとるべき時なのだ。

「強い者」は最後まで生き残れない。最後まで生き残ることができるのは、他人と共生・協力できる「共生する者」であることは「進化史」が私たちに教えてくれていることなのである。
(p.228)

これ以降は、この本を読んだ感想です。


「生物の進化」と「人間の社会行動」


この本の大きな特徴は

生物進化の研究からの知見。つまり、環境変化への適応力と、共生・協力を発達させたものが生き残り、種の持続と発展が保たれること
変化適応力と共生・協調の重要性は、人間の社会行動や人間社会においても同じであり、それが人間社会の存続の鍵であること。

の2点を述べていることです。もちろん生物進化の記述が多いわけですが、人間社会にも随分と踏み込んだ記述になっている。そもそも本の「まえがき」にトヨタ自動車の渡辺捷昭(かつあき)社長(2005-2009:社長)の言葉が引用されています。

【トヨタ自動車 渡辺社長】

強いものが生き残るのではなく、環境変化に対応できたものだけが生き残るのだ。

2008年12月10日
読売新聞「激震経済トヨタ・ショック4」より

この言葉は別に渡辺社長の発明ではなく、英米では昔から警句としてあったようです。しかし先人の言葉であるにせよ大切なことは、日本を代表する企業、最強と見られている企業のトップがこのような問題意識を持っていることです。著者の吉村さんとしては大いに共感するものがあり、引用したのだと思います。

そして、こういう記述のスタイルが、ひょっとしたら学者仲間からの顰蹙をかっているのではないでしょうか。「進化生物学者は、進化や生態のことを語れ。安易なアナロジーで社会現象を語るべきでない」という反発です。

しかし生物学・生態学・進化論から得られた知見を「思考のツール」として使い、人間社会についての「仮説」を立てることは全くかまわないと思います。もちろん、人間社会についての「仮説」は、人間社会における「事実」によって検証することが前提です。

「安易なアナロジー」という批判は当然出るでしょうが、私にはむしろ数理生態学をベースとする進化研究から得られた知見と、トヨタの渡辺社長(当時)の言っていることが、少なくとも外面的には全く同じであることの方が印象的でした。著者が書いているシーン0からシーン4の「生物進化モデル」を読んで直感的に思うのも、現代社会における企業の発展プロセスとの類似性です。

 シーン0 環境安定期 
経済が成長している時期であり、企業は本業で順調に業績を伸ばします。この間、企業は「次の柱となる事業」のネタをいろいろと仕込みます。これはネタであって業績にはほとんど寄与しないし、外面的には現れません。

 シーン1 環境激変期 
経済環境が激変する時期で、企業の業績が急速に悪化します。多くの企業はここで破綻したり、回復不可能なダメージを受けます。

 シーン2 適応放散期 
何とか激変期を持ちこたえた企業は、シーン0で仕込んでおいた新たな事業に打って出て、生き残りをはかります。

 シーン3 最適化期 
新たな事業も、業績に寄与できるまでに成長するのはわずかです。そのわずかな事業が、本業に続く第2の柱となって企業は活力を取り戻します。

実際の企業活動はもっと複雑ですが、
環境激変期における「変化対応力」
環境安定期における「次の事業への投資」
が企業を存続させる鍵であることは誰しも納得するのではないでしょうか。トヨタの渡辺社長がいみじくも言っているように、企業が生き延びる条件は「環境変化に対応できる」ことです。そしてその対応は、環境変化が始まってからでは遅い(ことが多い)のです。


共生と協調の社会


共生・協調が人間社会を存続させる鍵であるという著者の主張も、全くその通りだと思います。共生・協調を促進する数々の社会規範は人類が作り上げてきた貴重な財産です。このことを前提にすると、次のことが言える。

共生・協調を否定するような動きがあります。自分たちの信じる思想・考えを唯一無二の正義だと信じ、他者の考えをいっさい聞かず、協調を否定する。あげくの果ては意見が違う他者を攻撃にかかる。こういった「共生・協調の拒否」を内在する思想、政治主義、宗教は、人間社会から排除していくべきものでしょう。

生命科学における共生に関して言うと、植物と動物は炭酸ガスと酸素の交換を通じて「共生」関係にあることは常識です。人間もこの「植物・動物共生系」の一部として生活しています。従って人間社会においても「植物を絶滅に追いやる思想・主義」や、「結果としてある地域の植物を絶滅させることになったとき、そのことに対して何の反省も後悔も感じないような思想や主義」は、この地球上から排除していかねばならないのです。

『強いものは生き残れない』という本から感じ取れる人間の行動指針は、こういった非常にシンプルなことだと思います。それに加えて「人間社会で各人が最大限の自己の利益を追求すると、神の手が働いて全体が最適になる」というのは全くの空論であることを、改めて確認した本でした。あたりまえだけど・・・・・・。


クラバートと千尋


それと同時に、この本のメッセージを個人のレベルで考えることもできます。「大人」が持つべき重要な能力は「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」なのですね。子どもが大人になる過程で学ぶべき大切なことは「変化する仕方」です。No.1, 2「千と千尋の神隠しとクラバート」で書いたクラバート少年を思い出します。彼は水車場の3年間でこの能力を身につけたはずで、それはクラバートの「自立」の重要な部分を占めていると思います。「千と千尋の神隠し」の千尋も全く同じです。クラバートと千尋は、それまでとは全く異質な世界に「いやおうなしに」引き込まれます。生きるためには自分を変えないといけない。クラバートにとっての水車場、千尋にとっての湯屋は「変化する仕方」を身にしみて学んだ場であったと考えられます。

もちろん No.2 で既に書いたようにクラバートは職人仲間や少女との「相互扶助」によって水車場から脱出し、自立を完成させます。また千尋もハクとの「相互扶助」によって湯屋から脱出します。そして相互扶助の別名である「共生と協力」もまた、この本の重要なメッセージなのでした。





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