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No.47 - 最後の授業・最初の授業 [本]


パリ・コミューンと普仏戦争


No.13「バベットの晩餐会(2)」で、この映画の間接的な背景となっているのが、1871年のパリ・コミューンであることを書きました。このパリ・コミューンは普仏戦争におけるフランスの敗戦で引き起こされたものです。この普仏戦争に関連して思い出した小説があるので、今回はその話です。

普仏戦争の結果、講和条約が結ばれ、アルザス・ロレーヌ地区はドイツ(プロイセン)領になります。パリ籠城までして戦ったパリ市民はドイツとの講和に反対して蜂起しましたが(パリ・コミューン)、これは当然(ドイツの支援を受けた)フランス政府軍によって弾圧されたわけです(No.13参照)。支配層が、つい昨日まで敵だった国と裏で手を握り、かつての敵国にいつまでも反対し続ける国民(の一部)を弾圧するというパターンは歴史の常道です。

この普仏戦争の結果、アルザスがドイツ領になったという事実を背景にして書かれた小説があります。アルフォンス・ドーデ(1840-1897)の『最後の授業』(短編集『月曜物語』に収録。1873)です。要約すると以下のような短編です。


『最後の授業 - アルザスの一少年の物語』


ある晴れて暖かな朝、アルザスの少年、フランツは学校に急いでいます。今日はアメル先生がフランス語の分詞法の質問をするので、ずる休みをしようとも思ったのですが、気をとり直したのです。学校へは遅刻してしまいした。

叱られると思ったフランツですが、アメル先生は意外にもやさしいのです。そして普段は着ないような正装をしています。驚いたことに、教室の中には村の人たちもいます。そしてアメル先生が口を開きました。

「みなさん、私が授業をするのはこれが最後です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンからきました・・・・・。新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください。」

月曜物語.jpg
アルフォンス・ドーデ
月曜物語
(岩波文庫 1936)
フランツはびっくりし、そして幾度も学校をなまけたことを悔やみ、アメル先生から罰をうけたことなどを回想します。そのうちにフランツの名前が呼ばれ、分詞法の規則の暗唱を言われます。フランツはうまく言えません。しかしアメル先生は叱りませんでした。そのかわり、フランス語について次から次へと語り出します。フランス語は世界中でいちばん美しい、一番はっきりした、いちばん力強い言葉だ・・・・・・。

習字の時間になり、アメル先生はお手本を示します。そこには「フランス、アルザス、フランス、アルザス」と書かれていました。習字のあとは歴史の勉強です。

時計が12時を打ったとき、アメル先生は青ざめた顔をして教壇にのぼります。


「みなさん」と彼は言った。「みなさん、私は・・・・・・。私は・・・・・・。」
しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉を終わることができなかった。

そこで彼は黒板の方へ向きなおると、白墨を一つ手にとって、ありったけの力でしっかりと、できるだけ大きな字で書いた。
「フランスばんざい!」

そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図した。
「もうおしまいだ・・・・・・お帰り。」

ドーデ『月曜物語』より
(桜田 佐 訳。岩波文庫 1936)


篠沢・フランス文学講義


『最後の授業』は、文庫本でわずか7ページという短いものです。この短編には「フランス語」ないしはそれにまつわるキーワードがたくさん出てきます。そして、明日からフランス語の授業がなくなりドイツ語の授業になるという状況下で、言葉を守ることの重要性と、フランス語を忘れるなということが強調されます。

それもあって読者は「まるで、子供たちが、自分の話したことがない言葉を明日から教えられるような感じ」を無意識に抱いてしまいます。しかしそれは全くの誤解なのです。それが誤解だと指摘したのは、フランス文学者の篠沢秀夫・学習院大学名誉教授です。「篠沢フランス文学講義2」(大修館書店 1980)にそのことが出てきます。少々長いですが引用します。


アルフォンス・ドーデの『最後の授業』 La Dermier classe という短編を読んだことがある人がいると思いますが、明日から、一切ドイツ語になってしまうので、フランス語の授業はこれが最後だという日の光景ですね。そうすると、村の人たちがみんな出てきて、もっと勉強しとけばよかったなんて嘆くとか、子供たちも、今日はばかに静かだったなんて、感動的なものですが、あれも非常にドーデの文名を高めたけど、ドーデはあれは、南フランスの人間ですね。アルザスのことはよく知らないんで、まるで子供たちが、自分の話したことがない言葉を、明日から教えられるような感じですね。

そういう恐ろしいことをやったのは、大日本帝国の犯罪の一つですね。朝鮮と台湾でそれをやっているでしょう。学校では、一切日本語というんですね、日本に併合してからは。だから、『最後の授業』という短編は、日本が朝鮮を併合したときにやったことには、非常によくあてはまるわけです。今まで話したことがない言葉を、学校で一切、明日から習うわけですね。というやり方です。

ところが、アルザスの場合は違うんですね。あの連中は、家へ帰れば、ドイツ語を話しているんです。ですから、放っておけば、みんなドイツ語で話してるんです。毎日、あの時代には。フランス語をどこで習ってたかというと、学校で習ってただけなんですね。だから、今度学校で習うのをよすだけなんです。アルザスでは。ですから、あれはたいへん話が違うんですが、しかし、このようにして、一般のフランス人には、そんなことわかりませんから、あれを読むと、みんな滂沱(ぼうだ)と涙を流すわけですね。

それでアルザス・ロレーヌを取り返せというんで、むしろフランスは普仏戦争が始まるちょっと前は、熱狂的に戦争しよう、ドイツの皇帝は生意気だ、というふうにカッカしてましたけど、それはドイツの皇帝があおったんですね。その一年前を考えてみると、これはフランス人はプロシャと戦争しようなんて、誰もこれっぽっちも考えていなかったわけですね。非常に楽しく暮らしてたわけで、むしろ戦争が終わってから、フランスは宗教心の復活ともに、好戦的な意欲というのが燃えてきます。むしろそれまで見なかったような鉄砲のおもちゃとか、水兵の格好を子供にさせるとか、鉛筆削りまで銃の格好をしてるとかいうような小物の写真を博物館で見たことがありますが、そういうものは戦後に現れます。一種の好戦的ムードは、戦後にあおられていく。つまり仕返しをしよう、アルザスとロレーヌを取り返そうということですね。だから、領土問題というのが、どれだけ空想力を刺激するかというおもしろい例ですね。

ですから、我々も様々なこういう歴史から考えてみると、領土問題ということは、非常に冷静に処さなければならないということがわかります。

篠沢フランス文学講義2(大修館書店 1980)


『最後の授業』の真実


講義をそのまま本にしたようなので、読みにくいところもありますが、この篠沢教授の講義がほとんどすべてを言い尽くしています。すこし補足も加えて要約しますと、

アルザスの子供がたちが話していた言葉はドイツ語(のアルザス方言。アルザス語)であり、普仏戦争の結果、アルザスがドイツ(プロイセン)領になったため、学校でのフランス語の授業がなくなった。
アルザス・ロレーヌを取り返せ、という好戦的気分が、普仏戦争後のフランスで盛り上がった。

の2点です。

『最後の授業』を読んで「まるで子供たちが、自分の話したことがない言葉を明日から教えられるような感じ」を受けてしまうのは、全くの誤解なのです。むしろ、そういう誤解を生むことは「折り込み済み」で、この小説が書かれたという感じがする。

篠沢教授は、大日本帝国が朝鮮と台湾の学校で日本語を強制したことを書いていますね。『最後の授業』のシチュエーションは、ちょうど第2次世界大戦直後の朝鮮半島・台湾の学校にピッタリと当てはまります。つまり、次のような「想像」が可能なのです。

日本はポツダム宣言を受諾し、第2次世界大戦は終了しました。その数日後、朝鮮(あるいは台湾)の小学校で生徒に日本語を教えていた先生が、授業を終わったあと、生徒に言います。「日本語を教えるのは、今日が最後です。先生は日本に帰ることになりました。しかし皆さん、日本語を決して忘れないでください。日本語は世界で一番美しい言葉です。」そして黒板に大きく書きました。「大日本帝国万歳」・・・・・・。

この通りのことがあったかどうか、分かりません。おそらくないでしょう。そこまでの日本人教師がいたとは思えない。しかし『最後の授業』を(かつての)日本に当てはめるとこうなります。日常生活は朝鮮語(台湾語)、学校では日本語、日本語の学習が明日からなくなる、という状況です。この状況が篠沢教授の頭をよぎったに違いないと推測します。学者なので、想像だけのことを講義では言いませんが・・・・・・。

もちろん、母語以外の言葉で話すことを強制したのは、19世紀以降をとってみても日本だけではありません。自国の言葉と歴史の教育を禁止されたポーランドの例が有名ですね。「キュリー夫人伝」の最初には、ロシアの視学官に隠れてポーランド語で勉強するマリー(マリア・スクロドフスカ)たちの緊迫した場面が出てきます。その時の様子を伝記作家の文章から引用すると次のとおりです。

学校では、一番年の行かない生徒であり、それでいて、成績はいつでも一番よりさがらない。おそろしいロシアの督学官が来る時、質問をかけられるのは彼女である。鐘が鳴って督学官の入来が知らされると、すべてのポーランド語の本が、先生と生徒たちとの間の暗黙の了解によって、即座に姿を消す。ロシア語だけが許される唯一の言葉であり、マリア・スクロドフスカは非常に正確にロシア語を話す。エカデリナ二世以後皇統をついだすべてのロシア皇帝の名とロシア帝室の全構成員の肩書きを間違えずに暗誦する。しかし、そのあとでは、もはや神経の緊張の限度に達する。督学官が行ってしまうと、マリアはわっと泣き出す。

コットン著『キュリー家の人々』
(杉 捷夫訳 岩波新書 1964)

また、No.5「交響詩・モルダウ」で書いたように、かつてのオーストリア・ハンガリー帝国下のチェコではドイツ語が教えられていました。チェコの作曲家スメタナは、子供時代はチェコ語が話せなかったのです。以上のような、朝鮮、台湾、ポーランド、チェコなどの学校での状況がなくなる時が「最後の授業」です。つまり「最後の授業」は19世紀以降、世界各地で行われた可能性があるのです。


牢獄の鍵


篠沢教授は「ドーデはあれは、南フランスの人間で、アルザスのことはよく知らない」と言っています。アルザスの子供たちが普段はドイツ語を話していることをドーデは知らなかった、というような書き方ですが、これはちょっと違うと思います。

よく読むと『最後の授業』には次のような箇所があります。フランス語の分詞法の規則を暗唱できないフランツに対するアメル先生の言葉です(太字は原文にはありません)。

「フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです・・・・・・そんなふうにね。私たちは毎日考えます。なーに、暇は充分ある、明日勉強しようって。そしてそのあげくどうなったかお分かりでしょう・・・・・・ ああ!いつも勉強を明日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方ありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!・・・・・・ この点で、フランツ、君がいちばん悪いというわけではない。私たちはみんな大いに非難されなければならないのです。」

アメル先生は、従って作者のドーテは、子供たちがまともにフランス語を話せないことをちゃんと認識しています。それでは、まともに話せる言葉は何かというと、それはドイツ語です。ドイツ語しかない。ドーテは「知らなかった」のではないのです。さらに、言語学者の田中克彦・一橋大学名誉教授によると、ドーデはもっと明確に「アルザス人」のポジションを認識していたようです。以下は、田中克彦著『ことばと国家』からの引用です。

この短篇の副題である「アルザスの一少年の物語」という訳も、ひどく混乱に導くものである。これは、原文どおりに「小さなアルザス人」(un petit Alsacien) あるいは「アルザス人の少年」とすべきである。ドーデはこの少年に、単にアルザスという土地に暮らす少年ではなく、アルザス人という、その特有のたちばをはっきりと明示しているのである。「アルザスの」という地方的な限定だけではあらわせない内容が、この大文字のアルザス人の中には含まれている。

アルザス人の特有の立場を示すため、ドーデはそこに登場する人物のなまえにも特別の工夫をこらしている。フランツ(Frantz)少年、アメル(Hamel)先生、三角帽子をかぶったオーゼ(Hauser)老人という具合に、これらの名はすべてアルザス的に、すなわちドイツ的に響かせてある。それはちょうど、植民地文学が植民地の味付けなしではおもしろさも半分というのと同じである。そのアルザスの風光とかおりを浮き立たせるための工夫のすべてが、同時に、そこが非フランス語の世界であることもあらわにしているのである。

田中克彦『ことばと国家』
(岩波新書 1981)

そもそもアルザスは、かつては神聖ローマ帝国の一部でした。住民の言葉はドイツ語です。それが30年戦争の終結を決めたヴェストファーレン条約(1648)でフランス領になった。そして学校でフランス語を教えるようになる。それが『最後の授業』の前史です。普仏戦争後、アルザスはドイツ領に戻ります。この時期にアルザスで生まれた有名な人物が、アルベルト・シュヴァイツァー博士ですね。彼はアルザス人です。第一次世界大戦後にアルザスは再びフランス領になる。そして第二次世界大戦でドイツに占領されたあと、戦後にまたフランスになるわけです。現在アルザスはフランスの一部ですが、いまだに住民の多くはドイツ語(の方言のアルザス語)とフランス語のバイリンガルだといいますね。

『最後の授業』の中に次のような箇所があります。

(アメル先生は)、ある民族が奴隷になっても、その国語を保っているかぎりは、その牢獄の鍵を握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。

「言葉は牢獄の鍵」・・・・・・。言い得て妙、とはこのことです。『最後の授業』に出てくるアルザスの住民たちは、フランス政府のフランス語強制にも関わらずドイツ語を守り通し、アメル先生の言う「牢獄から脱出する鍵」を持ち続けたわけです。アメル先生は、「ああ!いつも勉強を明日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。」と、アルザス人がフランス語をうまく話せないのはアルザス人が怠惰だからのように言っていますが、そんなことはありません。うまく話せないのは、アルザス人にとってドイツ語こそが「母語」であり「牢獄の鍵」だからです。

篠沢教授の講義にあるように、普仏戦争の敗北後「アルザス・ロレーヌを取り返せという好戦的気分」が出てきます。この小説はその気分盛り上げるために書かれた「愛国宣伝小説」でしょう。

著者のドーデーは、普仏戦争では、国民軍の志願兵として出征して戦争を体験し、さらにパリ籠城でもプロシア軍と戦った愛国者である。

長山靖生「謎解き少年少女世界の名作」
(新潮新書 2003)

その愛国者の書いたプロパガンダが「言葉を守ることの大切さ」という文脈にすり替えられています。そして、ざっと読むとそのすり替えに気づかないようになっている。「言葉を守ることが大切」という言説が、誰が考えても全く正しいために・・・・・・。これは、ある意味では大変に「怖い小説」だと思います。



『最後の授業』は、

敗戦で支配者が変わった状況のもと、敗戦国側の教師が学校から去っていく物語

です。この次のステップの状況、つまり

敗戦で支配者が変わった状況のもと、戦勝国側の教師が学校にやってくる物語

があります。『最後の授業』が書かれてから約100年後、アメリカの作家、ジェームズ・クラベル(1924-1994)が書いた『23分間の奇跡』(青島幸男訳。集英社。1983)という短編です。要約すると次のような話です。

以下には物語のストーリーが明かされています


『23分間の奇跡』(原題:The Children's Story, 1980)


23分間の奇跡.jpg
ジェームズ・クラベル
23分間の奇跡
(集英社。1983)
ある国の、ある小学校の、ある教室での話です。その国は戦争で負け、今日、戦争に勝った国から新しい先生が教室にやってきます。いままでの先生と子供たちは、これから何が起こるのか、いったいどんな先生が来るのかと怖がっています。しかし生徒のジョニーは「負けるものか」と思っていました。

9時ちょうどに新しい先生がやってきました。若い女の先生です。「みなさん、おはよう。私が今日からみなさんの新しい先生です」と挨拶しました。子供たちは、言葉になまりが全くないことにびっくりします。海の向こうの別の国から来たはずなのに・・・・・・。

新しい先生は、今までの先生に校長室に行くように言います。今までの先生は泣きながら出ていきます。女の子が泣き顔で、その後を追いかけようとしました。新しい先生はやさしく女の子抱きしめ、床に座って、ゆっくりと歌を歌います。子供たちは思わずその歌声に聞き入ってしまいました。今までの先生は、歌を歌ってくれたことはなかったのです。

子供たちがびっくりしたことに、新しい先生は子供の名前を全部知っているようなのです。先生は、3日かけて座席の位置と名前を全部覚えたことを話します。そして誰が出席しているかが分かるから、出席はとらないと宣言します。朝一番に出席をとるの習慣だったので、これも驚きでした。

朝、最初にすることは何ですか、と、先生はジョニーに聞きます。ジョニーは「国旗に忠誠を誓います」と答えます。しかし先生は「忠誠を誓う、とはどういうこと」と子供たちに問いかけます。子供たちは「誓う」の意味までは何とか分かりますが「忠誠」の意味を答えられる人は誰もいません。先生は、意味の知らないことを言うのはよくないこと、前の先生が意味を教えなかったことはよくないとこと伝え、忠誠の意味を教えます。さらに国旗が人の命より大切というのはおかしいことを説明します。そんなに大切なものなら、私も国旗を少しわけてほしい、という先生は言いました。私も、私も、という声が子供たちからあがり、国旗は小さく切られ、皆に分配されてしまいました。

ジョニーは鬱積していた気持ちを先生にぶつけます。「ぼくのお父さんはどこへいった!」と。ジョニーはお母さんから「もう帰ってこない」と聞いていたのです。先生は、お父さんは間違った考えを持っていたので学校にいっていること、大人も学校にいく必要があること、間違った考えが直れば家に戻れることを言います。ジョニーは何となく納得できません。

先生は言葉巧みに生徒たちを誘導し「キャンディがほしいと神様にお祈りしましょう」と提案します。子供たちは目を閉じて祈りますが、もちろんキャンディは出てきません。そこで先生は「われらの偉大な指導者」に祈ってみましょう、と言います。そして子供たちが目を閉じて祈っている間に、先生は皆にキャンディを配りました。

この様子を密かにジョニーは見ていました。そして「キャンディを配ったのは先生だ!」と大きな声で言ったのです。ところが先生は全く動じず、あっさりとそのことを認めました。そして子供たちに言うのです。何かしてほしいことがあったとき、それを実現するのは神様でも偉大の指導者でもない、実現するのは「誰かほかの人」なんだと・・・・・・。先生は付け加えて「祈る」ことの無意味さを子供たちに言います。

この率直な先生の態度で、ジョニーは先生を好きになろうと決めます。他の子供はすでに、先生の言うことを素直に聞く気になっています。全ては、先生の計画どおりに進行したのでした。

時計を見ると、9時23分でした。


作家の動機


23分間で子供たちの考えが変わり(ないしは完全に順応し)、特に父親を連れ去られたジョニーの考えまで変わってしまう・・・・・・。これは一つの寓話です。

23分間の奇跡(集英社文庫).jpg
23分間の奇跡
(集英社文庫)
どこの国の話かは、いっさい書いてありません。『最後の授業』の続編を連想させますが、それはそぐわない。ドイツ語を母語とするアルザスの生徒の前に戦勝国ドイツの若い女の先生が現れる、という状況がマッチしないのです。アルザスの話だとしたら、17世紀にアルザスがフランス領になり、完璧なドイツ語を話すフランス人の先生がくる・・・・・・というのが近いでしょう。もっとも17世紀に小学校があればの話ですが・・・・・・。

どの国の話でもないのですが、実は、作者のクラベルは「作者の後記」の中で、この小説を書いた動機を語っています。

ジェームズ・クラベルはイギリス人です。少年時代は、海軍将校だった父と一緒に、各国のイギリスの軍港を転々としました。そして18歳のときにジャワ島で日本軍の捕虜になり、シンガポールの収容所で第2次世界大戦の終了を迎えます。

戦後に彼はアメリカに渡り、ハリウッドの脚本家、映画監督として活躍しました。スティーヴ・マックィーン主演の映画「大脱走」はクラベルの脚本です。この間、彼はアメリカ国籍をとり、アメリカに帰化しています。そのあとに彼は小説家に転じ、1962年に処女長編を出版し、戦国時代の日本を舞台にした「将軍」(1975)などのベストセラーを出しました。

クラベルが『23分間の奇跡』を書いた動機は、アメリカに渡ってからの彼の経験です。6歳の娘がアメリカの小学校に初めて登校し、帰宅した時のことです。彼女は「お父さん、私、国旗に忠誠を誓うのよ」といって、左の胸に手をあてて、なにやらもぐもぐとしゃべり、手を差しだして「10セントをちょうだい」と言ったのです。学校で「忠誠の誓い」をしっかり暗記するように先生に言われ、ちゃんと出来たらきっとお父さんやお母さんが10セントをくれますよ、と先生が言ったとのことなのです。

クラベルは娘に10セントを払いました。

そして娘に聞いたのです。「忠誠を誓う(pledge allegiance)」ってどういう意味?、と・・・・・・。娘は困った顔になり、その意味を答えられませんでした。先生も、どういう意味かは教えてくれなかったとのことです。

クラベルはアメリカ人のあらゆる知り合いに「忠誠の誓い」のことを聞いてみました。もちろん全員が知っていました。しかし誰一人として、その意味を学校で教えてくれたという人はいなかったのです。


忠誠の誓い:The Pledge of Allegiance


「忠誠の誓い」はアメリカの公立の小中学校や幼稚園で毎朝、星条旗に向かって「唱えられている」文言です。アメリカ人なら誰でも知っているわけです。

The Pledge of Allegiance

I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

私はアメリカ合衆国の国旗と、その国旗が象徴する共和国、神のもとに統一され、全ての人が自由と正義を享受する不可分の一つの国に忠誠を誓います。

確かにクラベルの娘のように、また小説の中の生徒のように、ちょっと難しい。特に allegiance という単語です。英語を学んでいる日本の高校生は分かるでしょうか。indivisible もアメリカの小学生には難しいのではと思います。

「忠誠の誓い」の under God という文言を問題にする人もいます(今も問題になっている)。大文字で書かれたGodとは、誰が考えてもキリスト教とユダヤ教の共通の「神」のことであり、信教の自由に反するからです。事実、合衆国憲法違反だという裁判所の判断が出たこともあります(撤回されたようですが)。

娘がアメリカの小学校に初めて行ったとき、クラベルはまだイギリス人でした。アメリカ国籍をとる前です。そして海軍将校の息子という経歴から分かるように、クラベルが「典型的なイギリス人としての教育」を受けてきたことは想像に難くありません。そのイギリス人・クラベルからすると、「忠誠の誓い」を意味も分からずに暗唱しようとする娘の姿に強い違和感を感じたのです。その時、「忠誠の誓い」をストーリーの核(の一つ)とする小説の構想が浮かびました。従って、アメリカ人がこの小説を読めば、自国を念頭に置いていることがすぐに分かるしかけになっています。

クラベルが『23分間の奇跡』を書いた「思い」をまとめると、次の2つのどちらかか、あるいは両方でしょう。

子供の考えや心理は、大人が簡単に誘導できるものだ。そういう子供たちに、意味も分からずに「忠誠」を誓わせていいのか、という疑問。
意味も分からずに「忠誠」を誓う、というような行為を続けていると、ある日、何らかの事情で全く正反対の考えを吹き込まれても、たやすく誘導されてしまうぞ、という警告。

『23分間の奇跡』は小説として考えると、成功作とは言いがたいのですが、寓話の形をとった問題提起という意味はあると思います。


日本における「最初の授業」


ジェームズ・クラベルが書いた「最初の授業の物語」も、ドーデの「最後の授業」と同じように、日本に当てはめて考えることができます。『23分間の奇跡』を訳した青島幸男(1932-2006)は「訳者あとがき」で次のように書いています。


思えば、この国にも似たようなことがあった。

「鬼畜米英われらの敵だ」、「撃ちてしやまん」、「一億玉砕」のスローガンのもとに育てられた "少国民" たちは、戦いが終わってやってきた "進駐軍" の列車にむらがり「ギブ・ミ・チョコレート」という、おぼえたての英語を使ったものであった。少国民はただの児童になり、スミで塗り消された教科書を使って育つことになったが、子ども心に多少の奇異の感はあったとしても、それほどの抵抗があったわけではない。やがて、ラジオから流れ出る "カム・カム・エブリボーデ" のメロディとともに、子ども心はするすると戦後の民主主義に変わっていったのであり、 "鬼畜米英" はいつのまにかどこかへ消えたのであった。

本書の示唆するのはそのような世界である。


青島幸男氏は太平洋戦争の終了時、13歳の「少国民」でした。教育の大転換を目の当たりにした氏の「思い」が、この小説を訳させたのでしょう。



『最後の授業』と『23分間の奇跡』の舞台となっているのは、それまでの価値観を否定するような教育が始まる状況、180度違う価値観の教育に転換する状況です。そのようなことを(結果として)招く世界を作ってはならない。これが、この2つの小説から読者が感じる強いメッセージです。それは、特定の政治的主張に基づく価値観を植え付けてはいけない、ということと表裏一体です。子供たちは、まだ「価値観」を選択できないのだから・・・・・・。




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