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No.34 - 大坂夏の陣図屏風 [歴史]

前回の、No.33「日本史と奴隷狩り」で、藤本久志 著『新版 雑兵たちの戦場』に添って戦国時代の「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」の実態を紹介したのですが、この本の表紙は「大坂夏の陣図屏風」の左隻(させき)の一部でした。今回はこの屏風についてです。

なお、以下の図は『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』(中央公論社 1988)から引用しました。また絵の解説も、この本を参考にしています。


大坂夏の陣図屏風・左隻


「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)は六曲一双の屏風です。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたものです。現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされています。

黒田長政は黒田官兵衛の長男として播磨・姫路城で生まれ、秀吉に仕えた戦国武将でした。秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となります。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になりました。

「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれています。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれています。この左隻の中に『雑兵たちの戦場』の表紙になった「濫妨狼藉の現場」が描かれているのです。その左隻の第1扇から第6扇までを以下に掲げます。

大坂夏の陣図屏風・左隻・1-3扇.jpg
大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第1扇(右)から第3扇

大坂夏の陣図屏風・左隻・4-6扇.jpg
大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第4扇(右)から第6扇

一見してわかるようにものすごい人の数です。六曲一双で5071人と言いますから、左隻は2千人程度でしょうか。数えたわけではないのですが、とにかくおびただしい人の数であることは間違いありません。以下は、その左隻の人物群の中から「濫妨狼藉の現場」を中心に、ごく一部を紹介します。

大坂夏の陣図屏風・左隻・部分図1.jpg
部分図1 : 第1扇の中央より少し上
画面の中央、金雲の間の黒っぽい部分は大坂城周辺の川です。避難民は川を渡って逃げますが、画面中央では兵士が避難民の男から荷物を奪おうとしています。男は奪われまいと、男の妻(でしょうか)に荷物を渡そうとしています。

大坂夏の陣図屏風・左隻・部分図2.jpg
部分図2 : 部分図1の下方を拡大
部分図1の下部の中央を拡大したものです。裸足で逃げる婦女から、兵士が赤い包みを奪おうとしています。

大坂夏の陣図屏風・左隻・部分図3.jpg
部分図3 : 第3扇の中央の左方
雑兵たちの戦場」の表紙になった部分です。画面の右上では東軍の兵士が、左手を切り落とされた落武者の首を打とうとしています。落武者の首は「追い首」といってあまり功名にはなりませんが、東軍の功名の中には「追い首」が多く、それどころか町人・農民などの首(にせ首)も少なくなかったと言います。

画面左下では、泣きじゃくる若い娘を東軍の兵士が連れていこうとしています。その右は母親でしょうか、観念した様子で、娘を慰めています。

大坂夏の陣図屏風・左隻・部分図4.jpg
部分図4 : 第3扇、部分図3の少し下
画面左下方では、荷物を持ち、乳飲み子を抱え、子供を背負った避難民が左方向へ逃げ、そこに兵士が追いすがります。右上では兵士が男を捕まえています。荷物を奪おうとしてるのか、あるいは「にせ首」を狙ったのか。画面右下の鳥居は天満天神を表しています。

大坂夏の陣図屏風・左隻・部分図5.jpg
部分図5 : 第5扇の中央より少し下の右方
兵士たちが若い娘を取り囲んでいます。乱暴しようとしているのか、あるいは「人取り」か。その両方かもしれません。

大坂夏の陣図屏風・左隻・部分図6.jpg
部分図6 : 第6扇の中央より少し上
神崎川を渡って北に逃げた避難民を待ち受けるのは、野盗の一団です。太刀や長刀を振りかざして、身ぐるみを剥がし(画面右端)、あるいは荷物を奪い、人を捕らえています。画面中央の上にふんぞり返っている男が、野盗のリーダでしょうか。その前には「戦利品」が積まれています。

「江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。」(「新版 雑兵たちの戦場」。No.33「日本史と奴隷狩り」参照)。大坂の陣は野盗・盗賊の「出稼ぎ」の場でもあったようです。


戦国のゲルニカ ?


以前、NHK総合で「その時、歴史は動いた」という番組がありました。そこで「大坂夏の陣図屏風・左隻」が「戦国のゲルニカ」という番組タイトルのもとに紹介されたことがあります(2008年6月25日)。

NHKといえども、番組視聴率をあげるためには視聴者の「気を引く」タイトルを付けたいわけです。日本の「戦国」と「ゲルニカ」という異色の組み合わせは、確かに「気を引く」タイトルであることは確かです。もちろん「ゲルニカ」とはピカソの有名な絵を指しています。しかしこういったタイトルは、視聴者を誤ったものの見方に導くものでもあると思うのです。

確かに「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風・左隻」には共通点があります。それは「戦争に一般市民が巻き込まれ、多数の死傷者が出た状況を念頭に描かれた絵」という共通点です。しかし、共通点はこの1点でしかありません。あとの点は全然違っている。

ゲルニカ.jpg
ピカソ「ゲルニカ」(1937)
(site : ソフィア王妃芸術センター)


「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点(1)


まず相違点の第1点は「ゲルニカ」は、当時としては「あまりなかった状況」を描いた絵だということです。1936年からのスペイン内戦(スペイン市民戦争)は、スペイン共和国軍と、共和国を転覆させようとするフランコ反乱軍の戦いです。そのフランコ軍を支援していたのがドイツでした。1937年4月26日、ドイツ空軍は共和国軍の支配地域であるスペイン北部・バスク地方の小都市、ゲルニカ(人口、7000人程度)を無差別爆撃します。無差別爆撃とは、軍事目標であろうとなかろうと、とにかくその地域全体の壊滅をねらった爆撃です。従って、多数の一般市民に死傷者が出ますが、それは「折り込み済み」の作戦なのです。ゲルニカでは事前のドイツ軍の警告もなかったとこともあり、数百人の死者がでました。

ゲルニカという小さな都市にどれほどの軍事的意味があったのか、意見は分かれるところだと思います。こういった「市民戦争」では補給基地も全国的に散らばるので、軍事的意味がない都市はないと思います。ゲルニカも共和国軍の拠点の一つではあったようです。しかしゲルニカの近くには、スペイン北部の工業都市であるビルバオ(当時、共和国側)があります。軍事目標を攻撃するならこちらの方がよほど「価値」が高いものがある。ゲルニカを狙ったのは多数の死者を出し、共和国軍にドイツに支援されたフランコ軍の「脅威」を示すものだったと考えられます。

もちろん軍事目標を狙った爆撃で一般人が「巻き添え」になることは、それ以前にもありました。しかし一般人の殺傷が「折り込み済み」である都市の無差別爆撃という手法は、当時の世界の戦争行為としては決して一般的なものではありませんでした。だからこそ、フランコ軍・ドイツ軍は世界中から非難を受けたわけです。

この「ゲルニカ無差別爆撃」に怒りを感じてピカソが描いたのがゲルニカ(1937)です。この絵は今、マドリードのソフィア王妃芸術センターにあり、スペインの宝となっています。

一方、「大坂夏の陣図屏風・左隻」はどうでしょうか。そこには逃げまどう避難民とともに、雑兵たちの「濫妨狼藉」が描かれています。そして戦争時における農民や町民に対する濫妨狼藉(人と物の略奪、暴力行為)は、前回の No.33「日本史と奴隷狩り」で紹介したように、日本の戦国時代において「しばしば」行われていました。大坂夏の陣の終了後、蜂須賀軍は「奴隷狩り」の戦果を177人と徳川幕府に報告しています(No.33 参照)。この報告の目的は「蜂須賀軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張するものでした。屏風の注文主である黒田長政も秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参加して朝鮮半島各地を転戦しています。No.33 で紹介したように、そこでも数々の濫妨狼藉があったわけです。

もちろん、大坂夏の陣が一般の戦国時代の戦争と違った面もあります。それは大坂城およびその周辺という「市街地 = 人口密集地域」で戦争が行われたということです。従って濫妨狼藉の被害も通常の戦国時代の戦闘よりは大きかった。これは確かだと思います。しかし濫妨狼藉そのものは日本全国で、また朝鮮半島で、戦争時には当然のように行われていたことも事実なのです。それは『雑兵たちの戦場』で詳述されている通りです。

ゲルニカの無差別爆撃は、当時としては「それまでになかった状況」、大坂夏の陣における濫妨狼藉は、当時として「それまでにもよくあった状況」です。ここがまず違います。ゲルニカは最初の無差別爆撃、大坂夏の陣は最後の濫妨狼藉なのです。

しかし残念なことにゲルニカが先例となった「都市の無差別爆撃(絨毯爆撃)」はその後何回か繰り返され、まれな状況ではなくなってしまいました。
・ 重慶(1938-43。日本軍)
・ ドレスデン(1945.2.13。英米連合軍)
・ 東京(1945.3.10。アメリカ軍。東京大空襲)
などです。また広島・長崎も「都市の無差別爆撃」だと言えるでしょう。たった一つの爆弾による無差別爆撃です。

重慶は当時の中国国民党政府が移転してきた都市であり、もちろん軍事的意味はあります。しかし重慶爆撃は第二次大戦の戦勝国からは強く非難され、また重慶市民には今でも反日感情が根強いようです。ドレスデンには「軍事基地や軍需工場、関連施設」があったわけではありません。ドレスデンは芸術と文化と歴史の町です。この無差別爆撃は、ドイツ文化を破壊しドイツ国内の厭戦気分を盛り上げようとするかのようです。1945.3.10 の東京大空襲も、日本の軍需産業を支える東京下町の町工場群を破壊した、という言い訳はできるでしょうが、苦しい説明です。10万人が死んだと言われる大空襲の目的は「10万人が死ぬこと」だった(日本の降伏を早めるため)と考えられます。


「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点(2)


「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」のもう一つの相違点は、絵の描き手(注文主)です。いうまでもなく「ゲルニカ」を描いたのはピカソという画家であり、一市民です。ゲルニカ市民およびスペイン共和国軍という、ゲルニカで被害をうけた側の立場に立った画家です。

それに比較して「大坂夏の陣図屏風」を画家に描かせたのは、黒田長政という大坂夏の陣で勝利した側の大名です。勝利者が自分の功績、ないしは徳川方の戦績を記録するために描かせたものが「大坂夏の陣図屏風」なのです。そこが決定的に違います。


現代人の感覚で歴史を見る落とし穴


「大坂夏の陣図屏風」を評して

戦争に巻き込まれた非戦闘員の悲惨な姿を描き、戦争を告発した

というような意見があります。この屏風を「戦国のゲルニカ」だとする表現は、このような見方からきています。しかし、はたしてそうなのでしょうか。また、絵を引用した『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』の解説には、

豊臣恩顧の大名でありながら、心ならずも徳川氏に従って、豊臣氏の滅亡に力をかさなければならなかった黒田長政が、滅びゆく旧主のために捧げた挽歌ともいうべきものではなかっただろうか

と書かれています。こんなことを言ってしまってよいのでしょうか。

最低限、推定できるのは、

この屏風を見たはずの黒田長政の家臣をはじめとする周囲の人たちは、戦争の悲惨さを描いた(ないしは告発した)ものだとか、豊臣家への挽歌だとは思わなかった

ということです。なぜそう言えるのかと言うと、

もし、この屏風を見た黒田長政の家臣をはじめとする周囲の人たちが、戦争の悲惨さを描いたものだとか豊臣家への挽歌だと思ったのであれば、黒田長政は事前にそれが予測できたはず

だからです。そして

戦争の悲惨さや豊臣家への挽歌を描いた絵だと周囲が受け取るような絵を、黒田長政が注文するはずがない

のです。もし仮にそんなものを注文して作らせ、それが噂になって、その噂が徳川幕府の耳に入ればどうなるか。理由は何とでもつけられます。謹慎ぐらいならまだましで、悪くすると長政は切腹、黒田家は取り潰しではないでしょうか。そんなリスクを福岡藩のトップがおかすはずはない。長政のように紆余曲折を経ながら戦国の世を生き抜き、徳川体制の藩主にまで上り詰めた人間というのは、余計なリスクを負わない「したたかさ」があって当然なのです。

父親の黒田官兵衛もそうですが、長政はキリシタン大名ですね。しかし長政は、秀吉が「バテレン追放令」(No.33「日本史と奴隷狩り」 参照)を出すとキリスト教を棄教し、徳川時代にはキリスト教徒を厳しく弾圧します。この程度は、当時を生き抜くための「したたかさ」以前の「分別」のたぐいでしょう。当時のカトリックの教えに従ってせっせと領内の寺院・神社を破壊した高山右近や大村純忠(No.28「マヤ文明の抹殺」)とはわけが違うのです。

黒田長政は豊臣家に恩義がある・・・・・・。これは全くの事実です。そのため家康は、大坂冬の陣では長政の徳川方での参戦を許さなかった。関が原の合戦の東軍勝利の立役者であるにもかかわらず、です。長政は夏の陣でやっと参戦を許され、そして徳川方は勝利し、徳川の世は確固としたものになった。

黒田長政のような立場の人間は、もとから徳川方だった大名以上に、徳川家に対する恭順の「しるし」を表そうとするはずです。大坂夏の陣の時のように・・・・・・。たとえ内心では豊臣家に恩義を感じていたとしても(それはありうる)、ゆめゆめそうは見られないように細心の注意を払って行動したでしょう。

日光東照宮・石鳥居.jpg
日光東照宮
石鳥居
日光東照宮の重要文化財・石鳥居いしどりいは、石材だけで作られた鳥居では日本最大と言われていますが、この鳥居を寄進したのは黒田長政です。もちろん福岡藩主にまでとりたててもらった家康への恩義からだろうし、徳川幕府への忠誠の証としての石鳥居です。長政が「豊臣家への挽歌を描いた絵」を注文するはずがないと思うのです。

「大坂夏の陣図屏風」の右隻は戦闘場面であり、当然黒田長政が描かれているし、家康も秀忠もいます。右隻は戦勝記念画なのです。そして左隻は、戦勝の結果としての「戦果」を描いています。ここには、大坂城から淀川にいたる戦場が実況中継のように描かれています。この左隻は徳川方にとってポジティブな情景(戦果としての濫妨)か、ないしはニュートラルなものだと思います。少なくとも徳川方にとってネガティブなものではない。

大坂夏の陣図屏風の中心テーマは、
  右隻が「武士たちの戦場」
  左隻が「雑兵たちの戦場」
だと思います。藤本久志さんの著書『雑兵たちの戦場』の表紙には、本の題名そのものズバリの絵、つまり「大坂夏の陣図屏風・左隻=雑兵たちの戦場」が用いられているのです。

「大坂夏の陣図屏風・左隻」を見て「ゲルニカ」のように考えてしまうのは(ないしは反戦画のように考えてしまうのは)、現代人の感覚で歴史を見る落とし穴にはまっているのだと思います。


怖い絵


要するに「大坂夏の陣図屏風・左隻」は、中野京子さん流に言うと「怖い絵」なのです。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野さんは「ラス・メニーナス」に描かれている小人症の「慰み者」に着目し、


『ラス・メニーナス』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たず愛玩物とした「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い。


と書いています。この表現をそのまま借用すると、


『大坂夏の陣図屏風・左隻』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たずに濫妨狼藉した「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い。


と言えるでしょう。絵は「見方」によってその意味がガラッと変わることがあります。『大坂夏の陣図屏風・左隻』は、「ゲルニカ」ではなくて「怖い絵」だと思います。




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