No.30 - 富士山と世界遺産 [社会]
No.18「ブルーの世界」で、プルシアン・ブルーを使った葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の「凱風快晴」をとりあげました。そこからの連想なのですが、画題としての富士山、富士山を愛する日本人の心、および富士山を世界遺産へ登録する運動について書いてみたいと思います。
富士山と日本文化
富士山ほど絵画にしばしば取り上げられてきたテーマはないと思います。江戸時代における富士山の版画の連作は北斎だけではありません。安藤(歌川)広重も「富士三十六景」「不二三十六景」「富士見百図」などの連作を書いています。また明治以降も数々の日本画家、洋画家が富士山を描いてきました。
これらの中から一つだけ印象的な絵を日本画の中から取り上げると、2008年に東京国立博物館で「対決 - 巨匠たちの美術」という展覧会がありました。ここで並べて展示してあったのが富岡鉄斎と横山大観の作品です。富士山が芸術家に呼び起こすイメージの多様さに驚きます。
代表作(の一つ)が富士山の絵である画家は多いし(大観、梅原龍三郎など)、ほとんど富士だけを一生描き続けた画家もいます。富士の絵だけの展覧会も開催されています。
絵画だけでなく、写真撮影のモチーフとして最も取り上げられるのも富士山ではないでしょうか。絵画と同じように、富士山だけを撮っている写真家もいます。また言うまでもなく、和歌・短歌・文学にも平安時代から数多く登場しています。
さらに大切なことですが、富士山は霊峰であり信仰の山です。山が信仰の対象になるのは日本ではあたりまえなのですが富士山もそうです。関東を中心にある1000社以上ある浅間神社は富士山を神格化した神をまつっています。その総本山は富士宮市の浅間神社で、ここの御神体は富士山そのものです。神社の奥宮は富士の頂上にあり、また8合目以上は今でもこの神社の境内のはずです。富士山に参拝する人も昔から多く、関東一円では江戸時代から「富士講」が盛んでした。現代でも白衣・金剛杖・鈴という姿の登拝者があとを絶ちません。
富士山はまた、切手や紙幣、硬貨にも使われています。つまり日本最高峰として国の象徴であり、日本を代表させる「アイコン」として使われているわけです。日の丸に代わる国旗のデザインをもし考えるとしたら、赤い丸の代わりに富士山をかたどったデザインを配置するのが適当と思えるほどです。
まとめると富士山は「信仰の対象」であり「芸術・文化との結びつき」が強く、さらに「国の象徴」にもなっているわけです。
信仰と文化:海外では・・・
海外で似たような存在はあるでしょうか。アジアに目を向けると、信仰の山・霊峰はたくさんあります。特に中国の道教の聖地である泰山や、チベット仏教とヒンズー教の聖地であるカイラス山(チベット高原)が有名です。
特定の山が文化活動と結びついている例は、中国における「山水画や漢詩と密接な関係のある山」があります。たとえば安徽省の黄山(世界遺産)がそうです。中国史の伝説上の皇帝である「黄帝」ゆかりの山であると同時に、独特の自然景観が有名で水墨画や漢詩にたびたび登場します。また、仙人が住むと言われてきた山でもあり、周辺には道教や仏教の寺院が数多くあります。
ヨーロッパの山岳地帯をもつ国、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、ドイツ、スペインなどではどうでしょうか。これらの国では山を信仰するという文化的伝統はないようです。昔にあったとしてもキリスト教の影響ですたれてしまったはずです。山は登山やスキーの対象のようですが、その登山・スキーは近代以降に発達したものです
芸術、特に絵画ではどうか。ヨーロッパに有名な山はたくさんありますが、我々が知っているような著名画家の作品で特定の山を主題にした絵はあまり見た記憶がありません。マッターホルンやモンブランやモンテローザやヴェスビオ山の絵は、誰かが描いていたでしょうか。
さすがに山の「本場」のスイスでは、スイス人画家・ホドラーがユングフラウやアイガー、メンヒなどの山を主題とする絵を描いています。しかしスイスで活躍し「アルプスの画家」と言われたセガンティーニは、アルプス風景をいっぱい描いているわりには、山は背景として描かれるだけで、山を主題として描いたわけではない。山を主題にしたセガンティーニの絵はないはずです。ドイツのフリードリッヒも山岳風景をたくさん描いていますが、特定の山が主題の絵はごく少ないわけです。
フランスやイタリア、スペインは、歴史的にみてスイスやドイツ以上の絵画大国です。しかし山の景色を描いた絵はあるものの、特定の「山を主題にした絵」は少ないと思います。日本では富士山だけではなく、桜島、大山、浅間山、筑波山、磐梯山、八甲田山、出羽三山、羊蹄山などの特定の山が単独でよく画題になりますが、それと対照的な感じです。
例外的に思い浮かぶのがセザンヌです。セザンヌは、彼の故郷であるエクス・アン・プロヴァンスのサント・ヴィクトワール山の絵の連作を描きました。この連作は絵画史においても20世紀絵画を切り開いた傑作群とされています。余談ですが、ひょっとしたらこの連作の発端は北斎の影響ではないでしょうか。19世紀後半のパリでは「富嶽三十六景」は有名な絵です。フランスの画家、アンリ・リヴィエールはパリの街角を描いた「エッフェル塔36景」を描いているほどです。「ひょっとしたら」と思ったのは、ロンドンのコートールド美術館にあるのセザンヌの絵を見て、直感的に北斎を連想したからです。
ヨーロッパでは山に対する信仰がなく、かつ「山を愛でる」という行為も文化としてなかった感じです。セザンヌのように「故郷や郷土の風景や風土を愛する」というのは当然あるでしょうが・・・・・・。このことを端的に語っている記述があります。
山の名前は?
No.29「レッチェンタールの謝肉祭」でとりあげた、スイス政府外務省がスイスを対外的に紹介しているホームページがあります(http://www.swissworld.org/jp/)。ここに「ハイジ」の一節が紹介してありました。
「ハイジ」は19世紀後半、1880年頃の小説です。その時点でさえ「山に名前なんてない」のです。人間社会において、モノは名前を付けられることによって初めて認識されます。名前がないということは、物理的に存在するものの、人間文化の観点からは存在しないわけです。「山の本場」のスイスでさえそうだったようです。
日本人の深層心理
以上をまとめると「信仰の対象」「芸術・文化との結びつき」「国の象徴」の3点が成立していることにおいて、富士山は世界でも特徴的だと言えると思います。似た存在としては、山水画のルーツとも言える中国の黄山ぐらいでしょうか。
そこまで日本人は富士山を「愛でる」のか。その背後にある日本人の富士山に対する心理を推測してみたいと思います。日本最高峰という以上に、普通の日本人が暗黙に抱いている「思い」は、
というものではないでしょうか。そういう深層心理があるように思います。「自然の山」として、遠方からの「眺望」「景観」の美しさに対する「誇り」が無意識下にある。
しかしある外国人の弁なのですが「確かに富士山は美しいが、大騒ぎすることのほどでもない」という意見を読んだことがあります。新幹線に日本人と一緒に乗ったとき、車窓から見える富士山の美しさを日本人から長々と説明されて閉口したという話でした。果たして富士山は、世界の観点からみてどの程度「美しい」のでしょうか。
成層火山
富士山は成層火山(海抜3776メートル)です。つまり火口から火山灰が長年に渡って噴出され、次第に火口の周りに積もって高くなって出来た山です。従って火山地帯であれば成層火山はそんなに珍しいものではない。世界における標高6000メートル級の代表的な成層火山を3つあげます。
◆コトパクシ(エクアドル。5897m)
◆キリマンジャロ(タンザニア。5895m)
◆ミスティ(ペルー。5822m)
コトパクシはエクアドルの中央部にあり、今でも噴煙をあげている活火山です。キリマンジャロは、この3つの山では一番知られているアフリカの山ですね。タンザニアの北部、ケニアとの国境付近にあります。ミスティはペルー南部にあるペルー第2の都市、アレキパの郊外にある山です。以下に掲げる写真のように、コトパクシとミスティは富士山と同じ「独立峰」で、かつ「円錐形」をしています。キリマンジャロが円錐形でないのは火口が3つあるからです。いずれも海抜6000メートルに近い高山ですが、こういった山の「威容」は海抜よりも麓から頂上までの「比高」で決まります。たとえばミスティ山のあるアレキパの街は海抜2300メートルを越えています。ミスティ山の比高は3500メートル程度でしょう。その意味では富士山と「いい勝負」です。
このほかの海抜5000メートル級の山、4000, 3000メートル級の山を含めると、成層火山は世界の火山地帯にいっぱいあります。そのすべてを知っているわけはもちろんないのですが、形の美しさを問題にするなら、コトパクシやミスティーがそうであるように「富士山なみ」の山、つまり「成層火山」で「独立峰」で「円錐形・円錐台形」の山は他にもあるはずです。たとえば南アメリカのパタゴニア地方、アルゼンチンとチリの国境にあるラニン山は「成層火山」「独立峰」「円錐形」で、しかも全くの偶然ですが、標高が富士山と同じ(3776m)です。
そもそも世界の成層火山をうんぬんする前に、日本においても成層火山は数々あり、羊蹄山(蝦夷富士)、岩木山(津軽富士)をはじめ「何々富士」が日本中にあるくらいだから、富士山のような山が世界中にあっても何らおかしくありません。標高が同じ山があってもおかしくない。それは確率の問題です。
羊蹄山(1898m)
富士山を愛する心
以上からうかがえるのは、富士山が美しい山だというのは全くその通りですが、その美しさが世界的にみて「飛び抜けていて」「ダントツ」であり「他の山を圧倒的に凌駕する美しさ」とは言えないようです。「世界に冠たる山」だという無意識下の思いには根拠がないのです。
しかし多くの日本人はコトパクシやミスティを知らないし、知らないで富士山が「世界に冠たる山だ」と深層心理で思っている。それは主観的にそうだということです。それはそれでよいと思います。富士山を「美しい」と思い「誇り」に思い「愛する」。日本の象徴であり、大切に守るべき自然である・・・・・・。新幹線で外国人に富士山の美しさを長々と説明した人の行為は、自国の誇りを対外的に説明しようとする「シンプルな愛国心」の発露だと思います。
「愛国心」というとちょっと大げさなようですが、国を構成する重要な側面は「自然」です。そして日本の場合、富士山を含む「山」は自然の極めて重要なファクターです。従って「日本を愛する」ことの一部として「富士山を愛する」ことがあって当然だと思います。
富士山と世界自然遺産
以上の考察をもとに、富士山と世界遺産の関係を考えてみたいと思います。以前に「富士山を世界自然遺産に」という動きがありましたが、最終的に日本政府はユネスコへの登録申請はを見送りました。
もちろん「形の美しい成層火山」というだけでは世界自然遺産になりません。「形の美しい成層火山」ということだけで登録ができるなら、ほかにも登録すべき山がたくさん出てくる。富士山が世界自然遺産なのに、6000メートル級のコトパクシやミスティが世界自然遺産でないのは説明がつかないわけです。
ではなぜ富士山は世界自然遺産に申請されなかったのでしょうか。その理由を探るために、登録済の日本の世界自然遺産をみてみたいと思います。日本の世界自然遺産は、
◆屋久島
◆知床
◆白神山地
◆小笠原諸島(2011年6月24日 登録)
の4つです。これらがなぜ世界自然遺産なのか。
屋久島の特徴はその生態系です。中央部に海抜2000メートルの高山・宮之浦岳がそびえ、島は亜熱帯から亜寒帯までの植物相がそろっています。屋久島にしかない固有種も多い。屋久杉とよばれる樹齢1000年を越える杉の自生地でもあり、樹齢数千年の「縄文杉」もある。人の手が入っている場所は少数で、原生林に近い状態が保たれています。
知床は、知床半島とその沿岸海域が世界遺産です。この海域は世界的にみても流氷が到達する南限です。流氷のもたらすプランクトンと魚類、知床半島を遡上する鮭、半島の豊富な植物と熊や鷲などの動物や鳥類、半島から海に注ぐ川がもたらす栄養分。これらが有機的に結びつけられた循環生態系を構成しています。
白神山地(秋田・青森)の世界遺産の理由は、言わずと知れたブナの原生林です。面積は世界でも最大級といわれています。
この3つの自然遺産に共通するのは、日本人として客観的に見ても世界遺産として保護する価値がある自然が残っていることです。もうひとつの共通点は、自然を保護するための厳しい規制があることです。屋久島、知床半島(遠音別岳)、白神山地は自然環境保全地域であり、法律によって開発の規制がされています。知床半島北部の観光は、船から眺めることしかできません。貴重な自然遺産として後世に残すのならこの程度の規制は当然です。
なお、4番目の自然遺産に登録された小笠原諸島ですが、ここは「東洋のガラパゴス」と言われる、生物の固有種の宝庫です。一つの例ですが、何とカタツムリの9割は固有種だと言いますね。小笠原では外来生物から固有種を守るための島民の方々の努力が続けられています。それは無人島に入るときには靴の裏の泥・土を水で洗う(外来種の種子などを持ち込まないため。観光客も)といった地道な努力の積み重ねです。また、飼い猫の飼育に数々の規制を設ける「飼いネコ適正飼養条例」もありますね。猫が希少動物を襲うことを避けるためです。
富士山とその周辺地域には、以上の4つに比べて自然遺産としての価値が弱く、かつ強力な自然保護活動もなかった、ということではないかと思います。樹海や各種の洞穴などの自然が残っていますが、5合目まで自動車道が通り、排気ガスがタレ流されています。また5合目以下はリゾート開発が進んでいます。登山道周辺や樹海がゴミだらけであり、これでは自然遺産にはならないと問題になりました。しかしゴミ問題以前に、富士山とその周辺地域の自然を保護するという強い流れになっていない。国の自然環境保全地域にも指定されていないのです。
そもそも富士山を「自然遺産」に登録しようとした意図は何でしょうか。富士山周辺の自然環境が破壊されていく現状を憂い、自然遺産に登録することによって、それを契機に屋久島・知床・白神山地なみの保護や規制を行うのが目的だとすると、それはそれで理解できます。たとえば世界遺産を契機に、
などです。「遺産」は「次世代に引き継ぐ」ものです。引き継ぐために保護するのは当然です。しかし、どうもそういう目的でもなかったようです。
2009年6月、ユネスコは「ドレスデン・エルベ渓谷」の世界文化遺産登録を抹消しました。周辺の渋滞解消のため4車線の橋の建設が始まり、景観を損なうと判断されたためです。小笠原諸島の人たちは、自然保護のために数々の努力をしていますが、その中には住民生活に不便を強いるものもあるわけですね。世界遺産を守るということは、それによって「利便性」や、一般の国民が享受している「豊かさ」が一定程度失われることを意味します。その覚悟をするかどうかが、登録への出発点だと思います。
富士山と世界文化遺産
現在は富士山を「文化遺産」ないしは、文化と自然の融合体である「複合遺産」に登録しようとする運動がされています。そのポイントは、登録を推進する団体のアナウンスによると「芸術と文化の山」だとのことです。つまり初めに書いたように、日本でにおいて富士山は、絵画、短歌、文学、工芸などの主題として深く関わってきていて、かつ信仰の山だという点です。これは確かにその通りです。
その動きに反対するわけではありませんが、ちょっと危惧するのは「富士山が世界文化遺産として適当だ」という客観的判断から運動がされているのだろうか、という点です。
「富士山を世界文化遺産に」という今の運動の多くの部分は、実は「シンプルな愛国心」から来ているのではないのでしょうか。まず「富士山を世界遺産にするのだ」という「愛国心」ないしは山梨・静岡を中心とする「愛郷心」に裏打ちされた「目標」が先にあって、「世界遺産として適切な理由」が後から付け加えられているような気がする。その証拠に「自然遺産」への登録を見送ったら、手の掌を返すように「文化遺産」が持ち出されている。
「国の誇り」や「愛国心」から世界各国の人が世界遺産登録を言い出したらきりがないし、遺産としての「質」が保てません。富士山が「世界遺産」として適切と考えられるのはなぜなのか、何がユネスコに(世界に)対する訴求点なのか、遺産として何をどのような手段で次世代に伝えるべきなのか、登録を実現するためにもよく考えてみるべきだと思います。
日本の世界文化遺産
ここで自然遺産と同じように、日本の代表的な世界文化遺産をみてみたいと思います。日本の世界文化遺産は11あります。その中の代表的な以下の遺産を考えてみます。
◆京都の文化財
◆奈良の文化財
◆法隆寺地域の仏教建築
◆姫路城
◆紀伊山地の霊場と参詣道
◆原爆ドーム
◆石見銀山
これらの文化遺産を眺めてみると、自然遺産と同じように「世界というレベルで考えて、次世代に引き継ぐべき客観的な価値」が十分あると思えます。それはユネスコの世界遺産登録基準を知らなくても分かる。
京都や奈良の文化財は言うまでもないでしょう。世界的にみて京都・奈良ほど、宗教建築物、歴史的芸術(絵画・彫刻)、庭園、伝統文化の集積地域はあまりないと思います。これほどの密集地域はローマぐらいでしょうか。そのローマは、もちろん世界遺産です。
法隆寺は誰もが知っている「世界最古の木造建築」で、世界的にも有名です。法隆寺にいっぱいある国宝の仏像群を持ち出すまでもなく、この事実だけで世界文化遺産の資格はあると言えるでしょう。
姫路城は400年前に建てられてそのまま残っている木造の城郭です。これは世界的にみてもめずらしい。また白鷺城といわれる白漆喰の美しい姿は、美術品と考えても一級です。
紀伊山地の霊場と参詣道ですが、20近くのの寺院・神社と、熊野・大峰・高野山の参詣道のネットワークと、山と原生林と滝(那智)が一体となった「地域信仰複合体」です。これは千年を超える人間の活動によってできあがってきたものです。
広島の原爆ドームが世界文化遺産として適切なことは論をまたないでしょう。アメリカは反対したようですが、日本は何もアメリカへの非難や「あてつけ」のために世界遺産に登録申請したのではありません。核兵器がない世界を願ってのことです。これはプラハ演説に触発されて「オバマ大統領を広島に招こう」という運動をするのと同じ動機です。
石見銀山は、16世紀から17世紀にかけて、西のポトシ(ペルー)、東のイワミと言われたほど、銀鉱山として世界的に有名でした。No.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」で書いたように、銀は通貨や決済手段としては大変重要なもので、銀本位制をとっていた国も歴史上多々あります。ヨーロッパ製の地図で日本を単体で描いた最初の地図(ティセラの日本図)には、すでに石見の地名と銀鉱山の記述があります。当時のヨーロッパの「関心」が何にあったのかがうかがえます。また石見銀山では、まわりの自然環境を破壊することなく銀の採掘・精錬が行われたことも、次世代に残す遺産として重要です。歴上有名なスペインのビルバオ銀山やペルーのポトシ銀山の周辺が荒野になってしまったのとは大きな違いでしょう。
文化遺産の「客観性」
以上を考えると、日本の世界文化遺産は、世界に残すべき遺産としての客観的な価値が、日本人から見てもあるようです。決して日本の「ひとりよがり」ではない。また日本人として「誇りに思う」とか「日本人の愛国心」から出たものでもない。確かに、京都、奈良、法隆寺などは「日本の誇り」であり、かつ「世界文化遺産」でしょうが、それは「たまたま」と考えた方がよく、そうでないものもある。
たとえば石見銀山を「日本の誇り」だと思っていた日本人は、歴史学者や地元の人を除いて、どれだけいたのでしょうか。むしろ世界文化遺産に登録されるまで石見銀山の存在さえ知らなかった日本人が多いはずです。さらに原爆ドームのような「誇り」とは無関係な「負の遺産」として残すべきものもある。あくまで次世代に残すべき遺産としての価値の問題なのです。
そこで富士山です。富士山は「世界文化遺産」として価値がどの程度なのか、世界にどう説明できるかです。ユネスコにどのようにロジカルに説明するかです。富士山は信仰の山であり、それが文化遺産に推薦する1つのポイントになっています。確かにそうなのですが、ひとつ気になるのは「紀伊山地の霊場と参詣道」が「信仰のジャンル」で既に世界遺産になっていることです。これに比べて富士山はやや「小ぶり」な感じがする。
やはり富士山の特徴は日本人の芸術・文化活動との結びつきの強さでしょう。しかしこの点をどう対外的に説明するのか。歌舞伎や能などの伝統芸能なら無形文化財として残すことができるし、演じることができるし、見学もできます。しかし富士山に関係した歴史的文化活動の「成果」は日本中に散らばっています。どこか一カ所で「見学」することはできない。どうやって、遺産として可視化して次世代に残すのか。その工夫は我々日本人自身にとっても重要な課題だと思います。
そして思うのですが、富士山を「芸術と文化の山」として世界文化遺産に登録する際の一番の障害となるものは、皮肉なことに「世界文化遺産に登録するという活動の動機」そのものではないでしょうか。「富士山を世界遺産にする国民会議」という組織があります。そのホームページには次のように書いてありました(2011.6.24 現在)。
つまり「日本一の富士山が世界遺産でないのは意外だ、ありえない。日本一なのだから世界遺産になるのは当然。」という雰囲気なのです。日本人が日本国内で富士山を日本一だと思うのは全く問題がないのですが、そのメンタリティをユネスコの場に持ち出すのは場違いです。それは世界に人々に「芸術と文化の山」を説明する際に有害でしかありません。こういう意識を乗り越えることこそ、最も重要だと思います。
2012年6月30日の朝日新聞(夕刊)に「世界に54の〇〇富士」という記事が掲載されました。移民や旧日本兵が命名し、今でも現地の日系人の間で山の呼称として使われている「〇〇富士」が54あるとのことです。これは筑波大付属高校の田代教諭が調査し「世界の『富士山』」(新日本出版社)という本にまとめました。記事に名前が掲載されていた世界の「富士」と、その一つ「ニュージーランド富士」の写真をここに掲げておきます。
南米にはエクアドルのコトパクシ山よりも標高の高い、6000mを越える成層火山があるようです。コトパクシのあるエクアドルの最高峰のチンボラソ山(6310m)も成層火山です(噴煙は出していない)。またチリとボリビアの国境にはパリナコータ山(6348m)やリカンカブール山(5916m)があります。さらにボリビアの最高峰であるサマハ山(6542m)も、活動した記録はないのですが、火山のようです。
下の写真はチリ・ボリビア国境のアタカマ高地にあるリカンカブール山で、標高は 5916m です。麓の標高は 4300m ぐらいなので、比高は1600m 程度でしょう。アタカマ富士と呼ばれているようです。
補記2の余談です。写真を掲載したリカンカブール山があるチリのアタカマ高地には、日米欧の共同プロジェクトである電波望遠鏡施設が建設されています。ALMA(アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計 - Atacama Large Millimeter / submillimeter Array)と呼ばれるこの施設は、アタカマ高地の直径約18.5キロのスペース(山手線の内側と同程度の規模!)に電波望遠鏡・66基を設置し、それらを一体運用することで直径18.5キロメートルの巨大な電波望遠鏡として機能させ、宇宙観測を行うものです。ALMAの公式サイトからその写真を転載しておきます。
富士山と日本文化
富士山ほど絵画にしばしば取り上げられてきたテーマはないと思います。江戸時代における富士山の版画の連作は北斎だけではありません。安藤(歌川)広重も「富士三十六景」「不二三十六景」「富士見百図」などの連作を書いています。また明治以降も数々の日本画家、洋画家が富士山を描いてきました。
これらの中から一つだけ印象的な絵を日本画の中から取り上げると、2008年に東京国立博物館で「対決 - 巨匠たちの美術」という展覧会がありました。ここで並べて展示してあったのが富岡鉄斎と横山大観の作品です。富士山が芸術家に呼び起こすイメージの多様さに驚きます。
富岡鉄斎:富士山図屏風 [site : asahi.com] |
横山大観:雲中富士山図屏風 [site : asahi.com] |
代表作(の一つ)が富士山の絵である画家は多いし(大観、梅原龍三郎など)、ほとんど富士だけを一生描き続けた画家もいます。富士の絵だけの展覧会も開催されています。
絵画だけでなく、写真撮影のモチーフとして最も取り上げられるのも富士山ではないでしょうか。絵画と同じように、富士山だけを撮っている写真家もいます。また言うまでもなく、和歌・短歌・文学にも平安時代から数多く登場しています。
さらに大切なことですが、富士山は霊峰であり信仰の山です。山が信仰の対象になるのは日本ではあたりまえなのですが富士山もそうです。関東を中心にある1000社以上ある浅間神社は富士山を神格化した神をまつっています。その総本山は富士宮市の浅間神社で、ここの御神体は富士山そのものです。神社の奥宮は富士の頂上にあり、また8合目以上は今でもこの神社の境内のはずです。富士山に参拝する人も昔から多く、関東一円では江戸時代から「富士講」が盛んでした。現代でも白衣・金剛杖・鈴という姿の登拝者があとを絶ちません。
富士山はまた、切手や紙幣、硬貨にも使われています。つまり日本最高峰として国の象徴であり、日本を代表させる「アイコン」として使われているわけです。日の丸に代わる国旗のデザインをもし考えるとしたら、赤い丸の代わりに富士山をかたどったデザインを配置するのが適当と思えるほどです。
まとめると富士山は「信仰の対象」であり「芸術・文化との結びつき」が強く、さらに「国の象徴」にもなっているわけです。
信仰と文化:海外では・・・
海外で似たような存在はあるでしょうか。アジアに目を向けると、信仰の山・霊峰はたくさんあります。特に中国の道教の聖地である泰山や、チベット仏教とヒンズー教の聖地であるカイラス山(チベット高原)が有名です。
東山魁夷『黄山雨過』(1978) [site : 長野県信濃美術館] |
ヨーロッパの山岳地帯をもつ国、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、ドイツ、スペインなどではどうでしょうか。これらの国では山を信仰するという文化的伝統はないようです。昔にあったとしてもキリスト教の影響ですたれてしまったはずです。山は登山やスキーの対象のようですが、その登山・スキーは近代以降に発達したものです
芸術、特に絵画ではどうか。ヨーロッパに有名な山はたくさんありますが、我々が知っているような著名画家の作品で特定の山を主題にした絵はあまり見た記憶がありません。マッターホルンやモンブランやモンテローザやヴェスビオ山の絵は、誰かが描いていたでしょうか。
さすがに山の「本場」のスイスでは、スイス人画家・ホドラーがユングフラウやアイガー、メンヒなどの山を主題とする絵を描いています。しかしスイスで活躍し「アルプスの画家」と言われたセガンティーニは、アルプス風景をいっぱい描いているわりには、山は背景として描かれるだけで、山を主題として描いたわけではない。山を主題にしたセガンティーニの絵はないはずです。ドイツのフリードリッヒも山岳風景をたくさん描いていますが、特定の山が主題の絵はごく少ないわけです。
フランスやイタリア、スペインは、歴史的にみてスイスやドイツ以上の絵画大国です。しかし山の景色を描いた絵はあるものの、特定の「山を主題にした絵」は少ないと思います。日本では富士山だけではなく、桜島、大山、浅間山、筑波山、磐梯山、八甲田山、出羽三山、羊蹄山などの特定の山が単独でよく画題になりますが、それと対照的な感じです。
セザンヌ:大きな松の木がある サント・ヴィクトワール山 (ロンドン:コートールド美術館) |
ヨーロッパでは山に対する信仰がなく、かつ「山を愛でる」という行為も文化としてなかった感じです。セザンヌのように「故郷や郷土の風景や風土を愛する」というのは当然あるでしょうが・・・・・・。このことを端的に語っている記述があります。
山の名前は?
No.29「レッチェンタールの謝肉祭」でとりあげた、スイス政府外務省がスイスを対外的に紹介しているホームページがあります(http://www.swissworld.org/jp/)。ここに「ハイジ」の一節が紹介してありました。
「ねえ、見て!見て!」ハイジは興奮して叫んだ。「真っ赤に染まったわ!あの雪を見て!すごく高くて、とんがった岩!ペーター、あれは何て言う名前?」「山に名前なんてないよ」とペーターは答えた。 |
「ハイジ」は19世紀後半、1880年頃の小説です。その時点でさえ「山に名前なんてない」のです。人間社会において、モノは名前を付けられることによって初めて認識されます。名前がないということは、物理的に存在するものの、人間文化の観点からは存在しないわけです。「山の本場」のスイスでさえそうだったようです。
日本人の深層心理
以上をまとめると「信仰の対象」「芸術・文化との結びつき」「国の象徴」の3点が成立していることにおいて、富士山は世界でも特徴的だと言えると思います。似た存在としては、山水画のルーツとも言える中国の黄山ぐらいでしょうか。
そこまで日本人は富士山を「愛でる」のか。その背後にある日本人の富士山に対する心理を推測してみたいと思います。日本最高峰という以上に、普通の日本人が暗黙に抱いている「思い」は、
富士山は非常に美しく、それは日本の誇りである。さらにその美しさは世界でみても飛び抜けた美しさである。 |
というものではないでしょうか。そういう深層心理があるように思います。「自然の山」として、遠方からの「眺望」「景観」の美しさに対する「誇り」が無意識下にある。
しかしある外国人の弁なのですが「確かに富士山は美しいが、大騒ぎすることのほどでもない」という意見を読んだことがあります。新幹線に日本人と一緒に乗ったとき、車窓から見える富士山の美しさを日本人から長々と説明されて閉口したという話でした。果たして富士山は、世界の観点からみてどの程度「美しい」のでしょうか。
成層火山
富士山は成層火山(海抜3776メートル)です。つまり火口から火山灰が長年に渡って噴出され、次第に火口の周りに積もって高くなって出来た山です。従って火山地帯であれば成層火山はそんなに珍しいものではない。世界における標高6000メートル級の代表的な成層火山を3つあげます。
◆コトパクシ(エクアドル。5897m)
◆キリマンジャロ(タンザニア。5895m)
◆ミスティ(ペルー。5822m)
コトパクシはエクアドルの中央部にあり、今でも噴煙をあげている活火山です。キリマンジャロは、この3つの山では一番知られているアフリカの山ですね。タンザニアの北部、ケニアとの国境付近にあります。ミスティはペルー南部にあるペルー第2の都市、アレキパの郊外にある山です。以下に掲げる写真のように、コトパクシとミスティは富士山と同じ「独立峰」で、かつ「円錐形」をしています。キリマンジャロが円錐形でないのは火口が3つあるからです。いずれも海抜6000メートルに近い高山ですが、こういった山の「威容」は海抜よりも麓から頂上までの「比高」で決まります。たとえばミスティ山のあるアレキパの街は海抜2300メートルを越えています。ミスティ山の比高は3500メートル程度でしょう。その意味では富士山と「いい勝負」です。
コトパクシ山(5897m) [site : エクアドル観光省] |
キリマンジャロ山(5895m) [site : 駐日タンザニア大使館] |
ミスティ山(5822m) [site : ペルー政府観光局] |
このほかの海抜5000メートル級の山、4000, 3000メートル級の山を含めると、成層火山は世界の火山地帯にいっぱいあります。そのすべてを知っているわけはもちろんないのですが、形の美しさを問題にするなら、コトパクシやミスティーがそうであるように「富士山なみ」の山、つまり「成層火山」で「独立峰」で「円錐形・円錐台形」の山は他にもあるはずです。たとえば南アメリカのパタゴニア地方、アルゼンチンとチリの国境にあるラニン山は「成層火山」「独立峰」「円錐形」で、しかも全くの偶然ですが、標高が富士山と同じ(3776m)です。
ラニン山(3776m) [site : パタゴニア情報サイト www.patagonia.com.ar] |
そもそも世界の成層火山をうんぬんする前に、日本においても成層火山は数々あり、羊蹄山(蝦夷富士)、岩木山(津軽富士)をはじめ「何々富士」が日本中にあるくらいだから、富士山のような山が世界中にあっても何らおかしくありません。標高が同じ山があってもおかしくない。それは確率の問題です。
羊蹄山(1898m)
富士山を愛する心
以上からうかがえるのは、富士山が美しい山だというのは全くその通りですが、その美しさが世界的にみて「飛び抜けていて」「ダントツ」であり「他の山を圧倒的に凌駕する美しさ」とは言えないようです。「世界に冠たる山」だという無意識下の思いには根拠がないのです。
しかし多くの日本人はコトパクシやミスティを知らないし、知らないで富士山が「世界に冠たる山だ」と深層心理で思っている。それは主観的にそうだということです。それはそれでよいと思います。富士山を「美しい」と思い「誇り」に思い「愛する」。日本の象徴であり、大切に守るべき自然である・・・・・・。新幹線で外国人に富士山の美しさを長々と説明した人の行為は、自国の誇りを対外的に説明しようとする「シンプルな愛国心」の発露だと思います。
「愛国心」というとちょっと大げさなようですが、国を構成する重要な側面は「自然」です。そして日本の場合、富士山を含む「山」は自然の極めて重要なファクターです。従って「日本を愛する」ことの一部として「富士山を愛する」ことがあって当然だと思います。
富士山と世界自然遺産
以上の考察をもとに、富士山と世界遺産の関係を考えてみたいと思います。以前に「富士山を世界自然遺産に」という動きがありましたが、最終的に日本政府はユネスコへの登録申請はを見送りました。
もちろん「形の美しい成層火山」というだけでは世界自然遺産になりません。「形の美しい成層火山」ということだけで登録ができるなら、ほかにも登録すべき山がたくさん出てくる。富士山が世界自然遺産なのに、6000メートル級のコトパクシやミスティが世界自然遺産でないのは説明がつかないわけです。
ではなぜ富士山は世界自然遺産に申請されなかったのでしょうか。その理由を探るために、登録済の日本の世界自然遺産をみてみたいと思います。日本の世界自然遺産は、
◆屋久島
◆知床
◆白神山地
◆小笠原諸島(2011年6月24日 登録)
の4つです。これらがなぜ世界自然遺産なのか。
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知床は、知床半島とその沿岸海域が世界遺産です。この海域は世界的にみても流氷が到達する南限です。流氷のもたらすプランクトンと魚類、知床半島を遡上する鮭、半島の豊富な植物と熊や鷲などの動物や鳥類、半島から海に注ぐ川がもたらす栄養分。これらが有機的に結びつけられた循環生態系を構成しています。
白神山地(秋田・青森)の世界遺産の理由は、言わずと知れたブナの原生林です。面積は世界でも最大級といわれています。
この3つの自然遺産に共通するのは、日本人として客観的に見ても世界遺産として保護する価値がある自然が残っていることです。もうひとつの共通点は、自然を保護するための厳しい規制があることです。屋久島、知床半島(遠音別岳)、白神山地は自然環境保全地域であり、法律によって開発の規制がされています。知床半島北部の観光は、船から眺めることしかできません。貴重な自然遺産として後世に残すのならこの程度の規制は当然です。
なお、4番目の自然遺産に登録された小笠原諸島ですが、ここは「東洋のガラパゴス」と言われる、生物の固有種の宝庫です。一つの例ですが、何とカタツムリの9割は固有種だと言いますね。小笠原では外来生物から固有種を守るための島民の方々の努力が続けられています。それは無人島に入るときには靴の裏の泥・土を水で洗う(外来種の種子などを持ち込まないため。観光客も)といった地道な努力の積み重ねです。また、飼い猫の飼育に数々の規制を設ける「飼いネコ適正飼養条例」もありますね。猫が希少動物を襲うことを避けるためです。
富士山とその周辺地域には、以上の4つに比べて自然遺産としての価値が弱く、かつ強力な自然保護活動もなかった、ということではないかと思います。樹海や各種の洞穴などの自然が残っていますが、5合目まで自動車道が通り、排気ガスがタレ流されています。また5合目以下はリゾート開発が進んでいます。登山道周辺や樹海がゴミだらけであり、これでは自然遺産にはならないと問題になりました。しかしゴミ問題以前に、富士山とその周辺地域の自然を保護するという強い流れになっていない。国の自然環境保全地域にも指定されていないのです。
そもそも富士山を「自然遺産」に登録しようとした意図は何でしょうか。富士山周辺の自然環境が破壊されていく現状を憂い、自然遺産に登録することによって、それを契機に屋久島・知床・白神山地なみの保護や規制を行うのが目的だとすると、それはそれで理解できます。たとえば世界遺産を契機に、
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5合目より下に厳しい開発規制を敷く |
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5合目まで通じているスバルライン、スカイラインの一般のクルマの通行は禁止する。公共交通(たとえば電気バス)のみ通行可にする。 |
◆ | ガイドなしでは入山できないようにする(登山道のゴミは皆無になるはず) |
などです。「遺産」は「次世代に引き継ぐ」ものです。引き継ぐために保護するのは当然です。しかし、どうもそういう目的でもなかったようです。
2009年6月、ユネスコは「ドレスデン・エルベ渓谷」の世界文化遺産登録を抹消しました。周辺の渋滞解消のため4車線の橋の建設が始まり、景観を損なうと判断されたためです。小笠原諸島の人たちは、自然保護のために数々の努力をしていますが、その中には住民生活に不便を強いるものもあるわけですね。世界遺産を守るということは、それによって「利便性」や、一般の国民が享受している「豊かさ」が一定程度失われることを意味します。その覚悟をするかどうかが、登録への出発点だと思います。
富士山と世界文化遺産
現在は富士山を「文化遺産」ないしは、文化と自然の融合体である「複合遺産」に登録しようとする運動がされています。そのポイントは、登録を推進する団体のアナウンスによると「芸術と文化の山」だとのことです。つまり初めに書いたように、日本でにおいて富士山は、絵画、短歌、文学、工芸などの主題として深く関わってきていて、かつ信仰の山だという点です。これは確かにその通りです。
その動きに反対するわけではありませんが、ちょっと危惧するのは「富士山が世界文化遺産として適当だ」という客観的判断から運動がされているのだろうか、という点です。
「富士山を世界文化遺産に」という今の運動の多くの部分は、実は「シンプルな愛国心」から来ているのではないのでしょうか。まず「富士山を世界遺産にするのだ」という「愛国心」ないしは山梨・静岡を中心とする「愛郷心」に裏打ちされた「目標」が先にあって、「世界遺産として適切な理由」が後から付け加えられているような気がする。その証拠に「自然遺産」への登録を見送ったら、手の掌を返すように「文化遺産」が持ち出されている。
「国の誇り」や「愛国心」から世界各国の人が世界遺産登録を言い出したらきりがないし、遺産としての「質」が保てません。富士山が「世界遺産」として適切と考えられるのはなぜなのか、何がユネスコに(世界に)対する訴求点なのか、遺産として何をどのような手段で次世代に伝えるべきなのか、登録を実現するためにもよく考えてみるべきだと思います。
日本の世界文化遺産
ここで自然遺産と同じように、日本の代表的な世界文化遺産をみてみたいと思います。日本の世界文化遺産は11あります。その中の代表的な以下の遺産を考えてみます。
◆京都の文化財
◆奈良の文化財
◆法隆寺地域の仏教建築
◆姫路城
◆紀伊山地の霊場と参詣道
◆原爆ドーム
◆石見銀山
これらの文化遺産を眺めてみると、自然遺産と同じように「世界というレベルで考えて、次世代に引き継ぐべき客観的な価値」が十分あると思えます。それはユネスコの世界遺産登録基準を知らなくても分かる。
京都や奈良の文化財は言うまでもないでしょう。世界的にみて京都・奈良ほど、宗教建築物、歴史的芸術(絵画・彫刻)、庭園、伝統文化の集積地域はあまりないと思います。これほどの密集地域はローマぐらいでしょうか。そのローマは、もちろん世界遺産です。
法隆寺は誰もが知っている「世界最古の木造建築」で、世界的にも有名です。法隆寺にいっぱいある国宝の仏像群を持ち出すまでもなく、この事実だけで世界文化遺産の資格はあると言えるでしょう。
姫路城は400年前に建てられてそのまま残っている木造の城郭です。これは世界的にみてもめずらしい。また白鷺城といわれる白漆喰の美しい姿は、美術品と考えても一級です。
紀伊山地の霊場と参詣道ですが、20近くのの寺院・神社と、熊野・大峰・高野山の参詣道のネットワークと、山と原生林と滝(那智)が一体となった「地域信仰複合体」です。これは千年を超える人間の活動によってできあがってきたものです。
広島の原爆ドームが世界文化遺産として適切なことは論をまたないでしょう。アメリカは反対したようですが、日本は何もアメリカへの非難や「あてつけ」のために世界遺産に登録申請したのではありません。核兵器がない世界を願ってのことです。これはプラハ演説に触発されて「オバマ大統領を広島に招こう」という運動をするのと同じ動機です。
石見銀山は、16世紀から17世紀にかけて、西のポトシ(ペルー)、東のイワミと言われたほど、銀鉱山として世界的に有名でした。No.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」で書いたように、銀は通貨や決済手段としては大変重要なもので、銀本位制をとっていた国も歴史上多々あります。ヨーロッパ製の地図で日本を単体で描いた最初の地図(ティセラの日本図)には、すでに石見の地名と銀鉱山の記述があります。当時のヨーロッパの「関心」が何にあったのかがうかがえます。また石見銀山では、まわりの自然環境を破壊することなく銀の採掘・精錬が行われたことも、次世代に残す遺産として重要です。歴上有名なスペインのビルバオ銀山やペルーのポトシ銀山の周辺が荒野になってしまったのとは大きな違いでしょう。
ティセラ「日本図」
ポルトガルの宣教師、ルイス・ティセラ作成の日本図(1595年頃)。ヨーロッパ製の地図で、日本を単体で描いた最初の地図。[site : 九州国立博物館] |
山陰部分の拡大図
ティセラ「日本図」の山陰地方を拡大したもの。石見の位置に「Hivami」(石見)と、ラテン語で「Argenti fodinae」(銀鉱山)と書かれている。[site : 山陰中央新報] |
文化遺産の「客観性」
以上を考えると、日本の世界文化遺産は、世界に残すべき遺産としての客観的な価値が、日本人から見てもあるようです。決して日本の「ひとりよがり」ではない。また日本人として「誇りに思う」とか「日本人の愛国心」から出たものでもない。確かに、京都、奈良、法隆寺などは「日本の誇り」であり、かつ「世界文化遺産」でしょうが、それは「たまたま」と考えた方がよく、そうでないものもある。
たとえば石見銀山を「日本の誇り」だと思っていた日本人は、歴史学者や地元の人を除いて、どれだけいたのでしょうか。むしろ世界文化遺産に登録されるまで石見銀山の存在さえ知らなかった日本人が多いはずです。さらに原爆ドームのような「誇り」とは無関係な「負の遺産」として残すべきものもある。あくまで次世代に残すべき遺産としての価値の問題なのです。
そこで富士山です。富士山は「世界文化遺産」として価値がどの程度なのか、世界にどう説明できるかです。ユネスコにどのようにロジカルに説明するかです。富士山は信仰の山であり、それが文化遺産に推薦する1つのポイントになっています。確かにそうなのですが、ひとつ気になるのは「紀伊山地の霊場と参詣道」が「信仰のジャンル」で既に世界遺産になっていることです。これに比べて富士山はやや「小ぶり」な感じがする。
やはり富士山の特徴は日本人の芸術・文化活動との結びつきの強さでしょう。しかしこの点をどう対外的に説明するのか。歌舞伎や能などの伝統芸能なら無形文化財として残すことができるし、演じることができるし、見学もできます。しかし富士山に関係した歴史的文化活動の「成果」は日本中に散らばっています。どこか一カ所で「見学」することはできない。どうやって、遺産として可視化して次世代に残すのか。その工夫は我々日本人自身にとっても重要な課題だと思います。
そして思うのですが、富士山を「芸術と文化の山」として世界文化遺産に登録する際の一番の障害となるものは、皮肉なことに「世界文化遺産に登録するという活動の動機」そのものではないでしょうか。「富士山を世界遺産にする国民会議」という組織があります。そのホームページには次のように書いてありました(2011.6.24 現在)。
日本一。とえいば、富士山。 |
 補記1「世界に54の〇〇富士」  |
2012年6月30日の朝日新聞(夕刊)に「世界に54の〇〇富士」という記事が掲載されました。移民や旧日本兵が命名し、今でも現地の日系人の間で山の呼称として使われている「〇〇富士」が54あるとのことです。これは筑波大付属高校の田代教諭が調査し「世界の『富士山』」(新日本出版社)という本にまとめました。記事に名前が掲載されていた世界の「富士」と、その一つ「ニュージーランド富士」の写真をここに掲げておきます。
ニュージーランド富士 | ナウルホエ山 | 2291m | ニュージーランド・北島・トンガリロ国立公園 |
タコマ富士 | レーニア山 | 4392m | アメリカ・ワシントン州 |
リベイラ富士 | ボツポカ山 | 416m | ブラジル・サンパウロ州 |
ルソン富士 | マヨン山 | 2463m | フィリピン・ルソン島 |
マナド富士 | クラバット山 | 2022m | インドネシア・スラウェシ島 |
ラバウル富士 | コンビウ山 | 688m | パプアニューギニア・ニューブリテン島 |
エルサルバドル富士 | イサルコ山 | 1910m | エルサルバドル |
ジャワ富士 | メラピ山 | 2923m | インドネシア・ジャワ島 |
ナウルホエ山(ニュージーランド富士) [site : ニュージーランド観光局] |
(2012.7.7)
 補記2 - 標高6000m級の成層火山  |
南米にはエクアドルのコトパクシ山よりも標高の高い、6000mを越える成層火山があるようです。コトパクシのあるエクアドルの最高峰のチンボラソ山(6310m)も成層火山です(噴煙は出していない)。またチリとボリビアの国境にはパリナコータ山(6348m)やリカンカブール山(5916m)があります。さらにボリビアの最高峰であるサマハ山(6542m)も、活動した記録はないのですが、火山のようです。
下の写真はチリ・ボリビア国境のアタカマ高地にあるリカンカブール山で、標高は 5916m です。麓の標高は 4300m ぐらいなので、比高は1600m 程度でしょう。アタカマ富士と呼ばれているようです。
リカンカブール山(アタカマ富士) [site : Smithsonian Institution, Global Volcano Program] |
(2012.7.8 / 2013.1.8)
 補記3 - ALMA  |
補記2の余談です。写真を掲載したリカンカブール山があるチリのアタカマ高地には、日米欧の共同プロジェクトである電波望遠鏡施設が建設されています。ALMA(アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計 - Atacama Large Millimeter / submillimeter Array)と呼ばれるこの施設は、アタカマ高地の直径約18.5キロのスペース(山手線の内側と同程度の規模!)に電波望遠鏡・66基を設置し、それらを一体運用することで直径18.5キロメートルの巨大な電波望遠鏡として機能させ、宇宙観測を行うものです。ALMAの公式サイトからその写真を転載しておきます。
標高5000メートルの高地にある電波望遠鏡施設(AOS - Array Operation Site)。 |
標高2900メートルの地点には、望遠鏡の遠隔制御やメンテナンスのためのサポート施設・OSF(Operations Support Facility)が設けられている。遠くに見える円錐状の山がリカンカブール。 |
(2013.3.16)
2011-06-25 07:53
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