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No.24 - ローマ人の物語(1)寛容と非寛容 [本]

No.7「ローマのレストランでの驚き」で、ローマのカピトリーノ美術館の「マルクス・アウレリウス帝の騎馬像」について「唯一、ローマ皇帝の騎馬像で破壊をまぬがれたもの」と書きました。これは、塩野 七生 著「ローマ人の物語」に沿って記述しているわけです。またNo.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」でも、ローマ帝国の銀貨改鋳の歴史を「ローマ人の物語」から引用しました。

その「ローマ人の物語」についての感想を書いてみたいと思います。「ローマ人の物語」は全15巻という大著であり、感想を書き出したらきりがなくなります。ここでは、著者の塩野さんが書いている「ローマの隆盛と滅亡の要因、特に滅亡の要因」に絞って記述したいと思います。なお「ローマ」とは、塩野さんの考えに従って「古代ローマの建国から西ローマ帝国の滅亡までの、ローマという都市を中心(首都)とする国をさすもの」とします。


前提事項-1 歴史を素材とする小説


まず断っておくべき前提事項が3点あります。第1点は「ローマ人の物語」は歴史書というより小説に近いということです。つまりこの本は「過去の歴史研究に基づくローマの歴史、特に政治史・軍事史を素材にし、それを詳細に記述する中で著者の人間観や社会観を述べた小説」と考えた方がよいと思います。従って「ローマ帝国滅亡の原因」というような歴史研究の範疇に属するテーマは本書の第1の主旨ではないわけです。この本はあくまで、随所に記述されている塩野さんの「人間性や社会の本質」に迫ろうとする多様な角度からの洞察にこそ意義があります。その、ほんの数例をあげてみますと、

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改革の主導者はしばしば新興の勢力よりも、旧勢力の中から生まれるものである。
第1巻:ローマは一日にして成らず

天才とはその人だけに見える新事実を見ることのできる人ではない。誰もが見ていながら重要性に気づかなかった旧事実に気づく人である。
第2巻:ハンニバル戦記

言動の明快な人物に人々は魅力を感じる。はっきりするということが責任をとることの証明であるのを感じるからだ。
第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以前

戦争は死ぬためにやるのではなく、生きるためにやるのである。戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。生きるためにやるものだと思っている間は、組織の健全性も維持される。
第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以前

人間だれでも金で買える、とは、自分自身も金で買われる可能性を内包する人のみが考えることである。
第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以前

経済人なら政治を理解しないでも成功できるが、政治家は絶対に経済がわかっていなければならない。
第6巻:パクス・ロマーナ

などです。ほんの一部ですが・・・・・・。

ここで特に取り上げた「洞察」はいずれもローマに対する評言であると同時に、現代ないしは現代日本に向けられたものであるとも言えます。「改革の主導者はしばしば旧勢力の中から生まれる」というのは、まさにその通りです。ペレストロイカを主導したミハイル・ゴルバチョフは、ソ連共産党のエリート中のエリートでした。私の知り合いだったあるアメリカ人は息子にミーシャという名前(本名)をつけましたね。ゴルバチョフの愛称です。それほど彼を尊敬していました。

言動の明快さが、責任をとることの証明だと人々は感じる」というのは、警告だともとれます。「責任をとる気もないのに、言動だけが明快な人」がいるからです。

戦争は生きるためにやるのである」というのも「死ぬために戦争をやった(やっている)」人たちへの批判だと思えます。もちろん過去の日本を含めてです。

人間だれでも金で買えるとは、自分自身も金で買われる可能性を内包する人のみが考えることである」というのは、現代日本のある特定の人たちを痛烈に批判していると聞こえます。「自分は金で買われますよ」と宣言しているに等しい人間を信用する人はいないはずなのですが、現実は不思議なことに信用する人がいるようです。

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さらに、こういった社会や人間性についての洞察や考察だけでなく、女性である塩野さんの実感からでしょうか「女とは」「女は」という考察もいろいろあります。

女とはモテたいがために贈り物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈り物をする男の違いを敏感に察するものである。
第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以前

女は無視されるのが何よりも傷つくのだ。
第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以前

女とは同性の美貌や富には羨望や嫉妬を感じても、教養や頭の良さには羨望もしなければ嫉妬も感じないものなのだ。
第9巻:賢帝の世紀

なるほど・・・・・・。参考になります。


前提事項-2 政治史と軍事史


話を本題に戻します。注意すべき前提事項の第2点は、国家の興亡を「ローマ人の物語」が主として扱っている政治史や軍事史だけをもとに語ることはできないということです。世界の歴史を振り返ると、特に古代は気候変動などの自然環境要因も文明の衰退の原因になります。仮に気候の寒冷化により年平均気温が3度程度下がり、小麦の収穫量が半分になったとしたら、国家の経済は破綻状態になるはずです。実際、2世紀の後半から3世紀にかけは寒冷期でした。古代ローマ時代とは比べものにならないほど農業技術が発達した1993年の日本で、夏の平均気温がわずか1~2度下がっただけで米が大凶作に陥り、国をあげての大騒動になったのを思い出します。

また2世紀の後半から3世紀にかけてのローマ帝国ではアントニウスの疫病(165-180)や、キプリアヌスの疫病(251-266)などの伝染病が大流行しました。このうち「アントニウスの疫病」は五賢帝の最後の皇帝、マルクス・アウレリウス帝(=カピトリーノ美術館の騎馬像)の時代です。メソポタミアでアルメニアと戦ったローマ軍はユーフラテス河の沿岸のセレウキアで大勝利をおさめます。青柳正規著「ローマ帝国」(岩波書店 2004)によると、その後の経緯は次のようです。

『しかし、勝利の美酒に酔いしれていた165年の秋、セレウキアで突然はやりだした疫病は、またたくまに兵士のあいだに蔓延し、ローマ軍はメソポタミアから撤退せざるをえない状況となります。しかも帰還する兵士によって、小アジア、ギシリャ、エジプト、イタリアにこの疫病がひろがったため、帝国各地の人口が3割近くも減少するという深刻な事態となりました。』

アントニウスの疫病は天然痘だと言われています。それにしても3割もの人口減少、しかもそれが急激に起こるというのは国家の衰退にもつながりかねない深刻な事態です。「パックス・ロマーナ」においてローマ帝国が防衛・保障してくれる安全は、外敵の進入や内乱からの安全であって、病原菌からの安全ではないのです。あたりまえですが・・・・・・。数百万人規模が死亡したとされるこれら疫病の蔓延は、当然社会不安を引き起こします。病気の原因が神の怒りだとする人々からすると、神の怒りをなだめられない皇帝は皇帝の資格がないわけで、皇帝に対する不信感にもつながるでしょう。皇帝が神格化されていればなおさらです。

さらに経済の観点から言うと、No.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」で紹介したように、基軸通貨であったデナリウス銀貨の銀の含有率は紀元64年には93%でしたが、265年には5%までに下落しました。またこの間に小麦の価格は80倍にも高騰したのです。こういった貨幣価値の暴落や物価の暴騰・インフレ(ないしはスタグフレーション)は国の経済をマヒさせます。物資の流通は滞り、物々交換が横行し、農業の生産性は低下するはずです。

以上のような環境史や経済史と国の興亡の関係、特に環境史は「ローマ人の物語」のスコープ外であることには注意が必要です。


前提事項-3 巨大組織の崩壊


第3の注意点は、巨大システム・組織の衰退の真の原因は1つであることはまれであり、たいていは複数の要因が複雑にからみあった中で起こるということです。しかも「原因」は別の要因から派生した「結果」でもあり、また「結果」が「原因」を作り出します。その上、一つの衰退の要因を取り除こうとすると同時に国家の「強み」や「アイデンティティー」をなくすことになり「にっちもさっちも行かなくなる」というようなことがあるわけです。ガン細胞だけを手術で切除するようにはいかないのです。


ローマの隆盛:「同化」と「隷属化」


以上のような3点が前提条件ということになりますが、これらに注意しつつ、ローマを隆盛と衰退、特に衰退に導いた重要だと思える要因について読後感を書いてみたいと思います。まず衰退を考える前に、衰退の前提となるローマの発展・隆盛についてです。

ローマの発展・隆盛に関しては、征服した異民族や異文化もローマに迎えて「同化」したということが大きく、その具体的な数々の事例が本書には書かれています。人材を登用し重要なポストにつけたような例はたくさんあり、(記憶が正しければ)元老院議員になった例さえある。少なくとも元老院議員になるまでの道は制度的に開かれていたわけです。二重市民権(二重国籍)まで認められていたようです。こういった「開放性」に関してローマは非常に進んでいて、これが隆盛の大きな原因だということは本書を読んで納得できました。

この「同化」というのも、別の観点からみれば「隷属化」だというのは注意した方がよいと思います。ただし単に「奴隷状態になる」というのとはちょっと違う。貧しくて食うや食わずの生活をしていた「蛮族」があったとします。その「蛮族」がローマと戦争をして征服されたとします。その結果として奴隷に近いような状態でローマに「収奪」されたとしても、ローマの文明と経済力を背景とするシステムの中に組み入れられたとしたら、農業生産力は向上し、結果として生活は以前より安定・向上し「蛮族」としては「うれしい」のではないでしょうか。しかもローマ市民権を得る道や、可能性としては元老院議員になる道まで開けているとしたらです。ローマは征服した属州に次々と「ローマ式都市」を建設しました。道路が舗装され、下水道は完備し、公衆浴場もあり、外敵の進入をさせない強固な防壁の「近代的」都市です。都市間をネットワークで結ぶ道路もある。生活がそれなりに安定した上に近代的な都市に住める期待もあるなら「蛮族」は「喜んでローマに隷属した」という面があるのではと思います。しかも奴隷同士の殺し合いを野外劇場で観戦するという、これ以上は考えられないような「刺激的娯楽」もある

これはローマの支配層からみると「文明の力」を利用した非常に巧妙な支配システムであると言えます。征服した民が「不満を言わずに奴隷なみに働いて」くれたら、そして「喜んで収奪されて」くれたら、支配する側にとってこんなにうれしいことはない。

ローマの発展と領土拡大のプロセスを読んでいて、ふと、有名なノンフィクション作品「ああ、野麦峠」(山本茂実 著。角川文庫。1977。原著は1968)を思い出しました。明治末期から昭和初期にかけての時代、生糸は日本の非常に重要な輸出品です。そこで資本家は信州の諏訪や岡谷に製糸工場を作るわけです。そして飛騨地方の農家の娘をつのって「工女」として働かせる。野麦峠は飛騨と信州を分ける峠ですね。その製糸工場では夜10時までというような長時間労働がある。体をこわすと即解雇で、何の保証もない。何よりも労働の成果(工女たちが紡いだ絹糸)の量と質が厳しく検査され、それで賃金が決まる。「百円工女」と言われた年間賃金100円のトップクラスの人はごく少数で、多くの工女の賃金は30円~40円程度であり、20円の人もいる。この状況は一面からみると「資本家ないしは工場経営者が、無垢な農家出身の女性労働者を競争させ、長時間労働で搾取している」わけです。「ああ、野麦峠」の副題は「ある製糸工女哀史」となっていますが、そのタイトルそのままです。

しかし著者の山本さんはフェアに書いています。500人以上の元工女にインタビューすると、食事は「うまい」が90%、労働は「普通」が75%、賃金は「高い」が70%なのです。さすがに検査は「泣いた」が90%、病気への対応は「普通」が50%で「冷遇」が40%となっています。しかし総括では「行ってよかった」が90%なのです。その理由は「工女哀史」ではあっても農家の仕事よりは楽だからです。朝5時から夜10時まで女性を働かせるのはひどいと言っても、農家では夜10時、11時まで夜なべをすることがあるわけだし、朝も日の出前から農作業です。工女は年1回の休暇のときに稼いだお金を飛騨の実家に持って帰れます。これが非常に大きい。一家の一年の稼ぎより、一人の工女が持って帰るお金の方が多かったという例さえ出てきます。親に喜んでもらいたい一心で働く。これはつらい労働に耐える極めて大きなモチベーションになります。製糸工場を「工女哀史の舞台となった搾取システムである」と切って捨てるのは簡単ですが、飛騨の農家の娘にとって何が幸せだったのかは別問題だと思います。

「野麦峠」的状況はその後も繰り返されています。以前、はやりました。中国の上海あたりに日本企業が工場を作る。そして四川省などの農村地帯から女性労働者をリクルートする。彼女たちは時間給80円とか、為替レートで換算した日本の水準からすると信じられないような「低賃金」で働くわけです。労働集約商品を作っている日本の企業からするとコストが劇的に下がり、日本に輸入して大きな利益が得られます。一方、農村地帯出身の女性労働者の方からみると、そうして頑張って5年間働いて故郷に帰れば、貯めたお金で両親にささやかな家をプレゼントできるわけです。こんなに「うれしい」ことはない。

現代は「奴隷」とか「属州」とか、そういうものは一切ないわけですが、そんなことに頼らなくてもローマ発展のメカニズムと同じことが「差異」を利用して合法的にできる。むしろそれをやった人が賞賛される。そういう感じがします。但し、ロジカルに考えてみると分かるように、このメカニズムは「差異」がなくなったときに終わりです。ローマ帝国に置き換えてみると、帝国の領土が固定化し、新しい奴隷(低コスト労働力)の獲得がなくなり、多くの人々が生活に満足するようになり、それ以上のローマ化を望まなくなった時に終わりです。それ以上の発展のためには、別のメカニズムが必要になる。

野麦峠と中国工場の話を書きましたが、これはグローバルに場所を変え「差異」を求めて繰り返えされ続けると思います。


「寛容」と「非寛容」


古代ローマの話です。ローマの隆盛の根幹にあるのは「寛容」だと、塩野さんは規定しています。確かにそうで、ローマが征服して属州とした国から人材を登用し重要なポストについたような例はいっぱい出てきます。こういった「敵をも同化する寛容さ」がローマ発展の原動力となったというのは、まさにその通りだと感じました。ギリシャなどの他国の優れた文化を積極的に取り入れたりするのも寛容の精神だと言えるかもしれません。もっとも文化は「高いところから低いところへ流れる」のが自然なので、ローマは高度なギリシャ文化に学んだのだとは思いますが・・・・・・。いずれにせよ、このような「寛容さ」は当時の他国にはなく、だからローマは発展した。これは納得できました。

しかし「ローマ人の物語」全体から受けるもう一つの印象は「ローマは寛容と非寛容の使い分け」で成長したという感じなのです。俗な言い方では「アメとムチ」でしょうか。「寛容」の一方で寛容とは正反対の「非寛容」もまたローマの特質だったと読み取れるのです。

「非寛容」の典型はカルタゴの抹殺です。カルタゴとローマの戦いは第2巻:ハンニバル戦記に詳述されているように幾多の紆余曲折があったわけですが、最終的に第3次ポエニ戦争でローマはカルタゴの市民を殺戮し、あるいは奴隷として売り飛ばし、町に火を放って焼き尽くして「更地」にし、そこに塩を撒いて二度と植物が生えないようにしました。

陥落後のカルタゴは、城壁も神殿も一般の家も、市場の建物も船着場も倉庫も、何もかもが元老院の指令どおりに破壊しつくされた。石塊と土くれだけになった地表は、犂(すき)で平らにならされ、ローマ人が神々に呪われた地にするやり方で、一面に塩が撒かれた。不毛地帯に一変したカルダゴしか見ない人ならば、つい先頃まではこの地に、地中海の富を集めた大都市が存在していたとは思えなかったであろう。
第3巻:勝者の混迷

ローマ人の物語03.jpgカルタゴをガリアやスペインと同様の「属州」にし、そこから優秀な人材をローマに登用し、それでローマはより発展する、という風にはならなかった。考えてみるとローマは地中海のまわりをぐるっと一つの国にするなら、極めて強大な国ができるというコンセプトのもとに作られた国家です。もちろん、初めからそのように計画されたのではないが、結果としてそういう方向に進んだ。キーとなるのは海上輸送が(陸上に比べて)圧倒的に効率的で、それが経済発展の要だという事実です。そのための必須事項は地中海の制海権の完全掌握です。たとえばナイル河流域の穀倉地帯をローマの直轄領にし、そこから安価な小麦を大量にローマに運び、その食料に依存して国を運営する。しかもローマ市民に小麦を無料配布までする・・・・・・。海上輸送が敵の勢力によって途絶えるリスクがあるのなら、こんな国家運営は絶対にできません。地中海の制海権を握る国家はローマが唯一でなければならない、カルタゴは無いものとしなければならない・・・・・・。政治的に冷静に考えると、ローマのとった行動は理にかなっていると思われます。

しかしよく考えてみると、カルタゴというフェニキア人の「通商国家」を壊滅させる意味は大いにあるが、都市を破壊し更地にして塩を撒くということの軍事戦略的意味はないはずです。カルタゴ人を完全に追い出し(抹殺し)、ローマ市民を入植させて、地中海に「にらみ」をきかせる軍事拠点とすることもできるのですから・・・・・・。事実、ローマはその後カルタゴに町を再建し、ローマ人を入植さます。

ではなぜカルタゴを抹殺したのか。考えられるのは「みせしめ」でしょう。地中海全域に住むフェニキア人はカルタゴがたどった運命を聞いて震え上がったのではないでしょうか。都市を破壊し更地にするということは、そこにあった墳墓、墓地も完全に破壊するということです。カルタゴ人の死生観は今となっては分からないのですが、もし古代エジプト人のように死後も魂が永遠に生きるという死生観なら「墓地の破壊」はそれを知った死生観を共有する人々とって最大の恐怖でしょう。また死生観がどうであれ、塩野さんが書いているように、塩を撒いて「神々に呪われた地」になったのだから、ローマに反抗すると死後も魂の安住の地なくなる、と古代の人々が考えるのは自然だと思います。

カルタゴの抹殺が「みせしめ」だと思うのは、ギリシャの都市国家・コリント(コリントス)が、まさにカルタゴと同様の運命をたどって抹殺されたからです。「ローマ人の物語」からそのまま引用すると、

ローマ軍によって、コリントは徹底的に破壊され、美術品は没収されてローマに送られ、住民は老若男女を問わず奴隷に売られた。すきとくわで地表をならし、街そのものが消滅してしまった。
第2巻:ハンニバル戦記

とあります。塩野さんによると、そもそもの発端はコリントを訪問したローマの元老院議員たちがコリント市民から無礼な態度で迎えられたからだそうです。まさに「みせしめ」ですね。「ローマを侮辱するとこうなるぞ」という・・・・・・。もちろん背景としてコリントがギリシャの反ローマ活動の拠点だったというようなことがあり「侮辱」は引き金なのだと想像します。しかしこういう「実績」をいったん作っておくとローマはギリシャ全土に対して圧倒的な優越的地位になりますね。「コリントがどうなったか覚えているだろう」という脅し文句、ないしは最後通牒が可能なのだから・・・・・・。コリントにあったはずのコリント人の墳墓も完全消滅したはずです。

コリントが「抹殺」されたのは紀元前146年で、これはカルタゴの「抹殺」と全く同じ年です。偶然なのでしょうが、地中海におけるローマの覇権を確立するために当時の「先進国」に対して徹底的な破壊行動に出た、と考えるのが妥当でしょう。またスペインにおける反乱軍の拠点となったヌマンツァも、カルタゴやコリントと同じ運命をたどりました。思い起こすと町や村全体が住民もろとも抹殺されるという悲惨な「事件」は、20世紀にもフランス(オラドゥール)やチェコ(リディツェ、レジャーキ)で起こりました。経緯とシチュエーションは全く違うけど、これらの理由も「みせしめ」です。

「みせしめ」以外の「非寛容」の理由は「生かしておいてまずいものは殺す」という論理です。カルタゴはまさに生かしておいてはまずい国家だったわけです。カエサルのガリア戦役でのアレシア攻防戦で、ガリアのリーダーであったヴェルチンジェトリックスは、同胞を救おうとして自ら進んで捕らわれの身になりますが、ローマ側はヴェルチンジェトリックスを処刑します。「生かしておいては危険すぎる、有能な人材」(第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以前)だったというわけです。「敵をも同化する」と言ってもそれは国レベルの話で、個人レベルでは有能すぎると殺されるわけです。

次に宗教がらみの「非寛容」をみてみると、ユダヤ王国の中心であったエルサレムはユダヤ戦争で壊滅しました。これもローマにとって危険な一神教を抹殺しようとする意味なら「政治的」に納得できます。ユダヤ教徒迫害はその後も続けられ、五賢帝の一人であるハドリアヌス帝は、ユダヤの最後の決起と言われるバール・コクバの乱(131年)を鎮圧したあと、ユダヤ教とその伝統を根絶させるような迫害政策をとりました。エルサレムへの立ち入りやユダヤ教の礼拝・集会は死刑にする、などです。その結果ユダヤ教徒たちは祖国を完全に失ってしまいました(第9巻:賢帝の世紀)。

多神教と一神教.jpgもちろんキリスト教徒も迫害されました。キリスト教徒はローマの国家祭祀や皇帝崇拝を拒否しますね。ローマにとっては危険分子です。「ローマ人の物語」にもその迫害の例がいろいろと出てきます。またどこかの本で読んだ記憶があるのですが、西暦248年のローマ建国一千年祭に参加を拒否したキリスト教徒は全員処刑されたはずです。これはキリスト教徒の迫害というよりも「危険分子の排除」でしょう。ローマの基本的スタンスが理解できます。

宗教に関して補足しますと、迫害されたのは他の宗教との共存を拒否する一神教(ユダヤ教、その後にキリスト教)だけではありません。紀元前186年に「ディオニュソス事件」という宗教弾圧が起こりました。これは「ローマ人の物語」には書いてないので、本村凌二・東京大学教授の「多神教と一神教」(岩波新書 2005)から引用します。

このころひそかにディオニュソス祭礼の密儀がイタリア半島に浸透している。この祭礼は破廉恥とも見なされる狂騒をともなっており、それはローマの社会の健全さと公共の秩序を脅かすように思われた。元老院はある醜聞をきっかけに、イタリア全土におけるディオニュソス祭礼を禁ずることを決議する。祭司の逮捕、祭礼集会の取締り、神殿の破壊が行われ、信徒たちの大恐慌のなかで、七千人が処刑された、と歴史家リウィウス(前59 - 後17)はいう。

ディオニュソス(バッコス)信仰は地中海世界に古くからある信仰ですが、多神教といえども、ローマ社会にとって危険とみなされる信仰は徹底排除されたわけです。


「非寛容」の理由


寛容の意味を考えてみたいと思います。寛容の意味は「寛大で、よく人をゆるし受けいれること。咎めだてしないこと」(広辞苑)です。罪や敵対行動、異質さがあったとしても、咎めず、許し、受け入れるというニュアンスです。これは特定の個人の性質、性格、人格を表現するものとしては(=寛大な人)何ら問題がないと思います。

しかし国家や組織の運営原理としての「寛容」ということを考えてみると、ちょっと違う。こういった国家レベルの運営原理においての「寛容」は「非寛容」と必ずセットのはずです。「寛容の精神で国家や組織を運営する」という宣言は、それだけでは論理的に破綻していて、国家レベルの運営原理にはなりえない。なぜなら「国家や組織が示す寛容」を悪用する人間が必ず出てくるからです。

たとえば「寛容」を利用し、それとは全く逆の専制・専決・排他的体制を作ろうと動く人も出てくるし、「寛容」をうまく利用して富を不当に独占してしまう人が必ず出てきます。「寛容」をいいことに、外面的には国家に服従しながら国家への復讐を狙う人たちも出てくる。人間社会とはそういうものです。「寛容」の精神で国家や組織を運営するが、その運営理念を否定する人や、組織としての統合を危うくするような思想・活動・グループ・集団に対しては徹底的に「非寛容」であるというのが正しい。

「寛容」という、日常的に多くは使わない言葉と国家運営の関係を問題にするのでちょっと分かりにくいのですが、寛容を「自由」という概念に置き換えてみると明瞭になると思います。「自由主義で国家や組織を運営する」とはどういうことでしょうか。

それは「やってはいけない事項、禁止事項が網羅的かつ整合性をもってルール化されていて、それ以外の事項は自由にやってよい」という運営方針です。このルールの中には法律などの明示的なもの以外に、伝統的に決まっている暗黙のルール(しかしながら、それを守らないと集団の中では生活できない実質上の強制、場合によっては明示的ルールよりも強いルール)も含まれます。「禁止事項=非自由」が自由主義の根幹であり、これはちょっと考えてみればあたりまえのことです。現代の自由主義国家の運営はそうなっている。自由主義社会はあくまで「それ以外は自由という社会」なのです。この「それ以外は」というところがミソで、それが人間の創造性をかき立てて国家発展の原動力になる。従ってルールを決め過ぎると発展を阻害することになり、この兼ね合いが難しいわけです。「それ以外は自由」というたった一言を言いたいがために、膨大な時間と試行錯誤のコストを負担してルールと禁止事項を決めているのが自由主義国家です。

しかし、たとえ網羅的に禁止事項が決まっていても、その「抜け穴」を見つけ「アンフェア」な行為で「不当な利益」を得る者が必ず出てきます。そこでルールが改正される。現代は自由主義経済ですが、経済活動おける禁止事項(=非自由)は精緻に決められています。これはたとえば雇用契約における各種のルール(最低賃金、労働時間、年少者の雇用禁止、年間残業時間・・・・・・)だけをみても分かります。象徴的な例を言うと、独占禁止法は自由主義経済を成立させるための最重要ルールなのです。

経済活動におけるルールは先進国を中心にグローバル化=世界共通化が徐々に進んできていますが、一般的に言って禁止事項=非自由の決め方はいろいろなやりかた、流儀があります。従って「自由主義」といっても、組織や国によって違ってきます。「アメリカ合衆国は自由の国だ」という言い方がありますね。それは厳密に言うと「アメリカ合衆国は、アメリカ的自由の国であり、それをはずれる自由は排除される国である」というが正しい理解です。この「排除」されて「非自由」になる部分を指して「アメリカの自由なんて嘘だ」というたぐいのことを言う人がいますが、幼稚だと思います。

「寛容」も「自由」に似ています。「徹底的な非寛容があってこそ、寛容が意味をもつ」のだと思います。ローマの「非寛容」は「敵をも同化して発展する」というローマの隆盛の要因に必然的に付随していたものだと感じました。

(以降、続く


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