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No.21 - 鯨と人間(2)日本・仙崎・金子みすゞ [文化]

前回より続く)

日本の伝統捕鯨


前回からの継続です。日本の伝統的な捕鯨にまつわる動物観は、

動物は、人間が利用し、かつ人間が敬う存在である。利用するときには徹底的に利用するのが動物の供養になり、その方が動物も浮かばれる。そのとき、動物を殺生しないと生きていけない人間の罪を意識する。

というようなことだと思います。これは前回に推定した欧米の動物観とはかなり違います。これを江戸時代からの日本の伝統捕鯨で確認して行きたいと思います。

日本では江戸時代に、沿岸に近づいてくる鯨を捕獲する「沿岸捕鯨」が盛んになりました。下の図は「鯨と捕鯨の文化史」(森田 勝昭。名古屋大学出版会。1994年。No.20 参照)に掲載されている鯨の回遊路(推定)です。北太平洋の鯨は、高緯度領域でオキアミなどの餌を接種し、南の低緯度域で繁殖するという行動パターンをもつものが多いのですが、日本列島周辺の海域はその回遊路にあたっています。図でわかるように黒潮にのって鯨が北上してくるわけです。前回の、No.20「鯨と人間(1)」で森田さんが「日本列島は、それ自体が捕鯨場に浮かんでいるという地理的条件にあった」と書いていることを紹介しましたが、この図を見ていると「日本列島は捕鯨場に浮かんでいる」というのは誇張ではないことがわかります。

No.21-1 鯨の回遊路.jpg
ナガス鯨、シロナガス鯨、ザトウ鯨の回遊路
(「鯨と捕鯨の文化史」より)

しかし上図の回遊路どおりではなく、そこからはずれて沿岸に近づいたり、餌を追って湾に迷い込む鯨も出てくる。それを捕らえるのが日本の沿岸捕鯨です。これは縄文・弥生時代から行われていたようですが、特に江戸時代に各地に「鯨組」が形成されて組織的になり、盛んになりました。ほぼ日本全国で行われ、現在まで続いている地域もあります。有名なのが和歌山県の太地(たいじ)町や、千葉県南房総市の和田町です。

日本の沿岸捕鯨の目的はまず鯨肉です。古来、鯨は「魚」のジャンルだったので、肉食が忌避された明治以前は貴重な食料でした。さらにもう一つの特徴は、鯨肉だけでなく油、髭、骨、歯など、鯨のあらゆる部位を活用することです。これは20世紀に行われた南氷洋での日本の近代捕鯨でも引き継がれていて、確か昭和30~40年代ころの教科書には「鯨を徹底的に利用する絵」や「鯨がいかに人間社会に役立っているかの絵」があったはずです。このあたりは鯨油を目的とする、イギリス・アメリカ系の捕鯨と大いに違うところです。

日本における鯨と人間の関係を、かつて捕鯨が行われていた山口県長門市の仙崎・青海島地区で見てみます。


仙崎の捕鯨の記憶


仙崎は山口県の日本海沿岸にあり、萩から西へ電車で30分程度の所にある町です。仙崎の沿岸には陸地と橋でつながっている青海島(おうめじま)があり、仙崎湾を囲むように位置しています。

山口県長門市 : 仙崎・青海島
No.21-2 仙崎・青海島.jpg

仙崎・青海島では、かつては沿岸捕鯨が行われていました。仙崎湾に入ってきた鯨を網に追い込み、モリで突くという捕鯨です。捕鯨は現在は行われていませんが、その「記憶」は今でも町に残っています。

青海島に向岸寺(こうがんじ)という寺があるのですが、ここには「鯨の位牌」が保存されています。また、このお寺には「鯨鯢過去帳」という「鯨の過去帳」があります。過去帳とは亡くなった「人」の没年と戒名を年月ごとに記録した帳面を言うのですが、仙崎の人々は捕獲したすべての鯨一頭ごとに戒名をつけ、鯨の種類、捕獲場所とともに年月を追って過去帳として残しました。

なお「鯢(げい)」はクジラの意味で、音読みも「鯨」と同じです。詳しくは「鯨」が雄のクジラで「鯢」が雌のクジラです。

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鯨の過去帳(別冊太陽 日本のこころ 122 より)
上段の戒名の下に鯨の種類が書いてあるものがある。
「智譽鯨惠」の戒名には「ザトウ」とある。

No.21-4 鯨墓.jpg
鯨墓(「古式捕鯨の里 通」より)
また近くには「鯨墓」があり、鯨の胎児78頭が葬られています。捕獲した鯨が雌であった場合、捕鯨の結果として胎児を殺す結果になることは当然あるわけです。こういった「本来意図しなかった」殺戮によって命を失った鯨の子を哀れんで、漁民たちは墓に葬ったわけです。この墓は向岸寺の境内にはありません。少し離れた所にあります。その理由は「海が見えるところに墓を作ることによって、死んだ子鯨が故郷の海を偲べるようにするため」(「鯨と捕鯨の文化史」による)とのことなのです。なるほど、という感じです。

「死んだ人が見たいはずの風景が見える位置に墓をつくる」という事例が日本史にありますよね。一例をあげると、鳥羽藩主だった九鬼嘉隆は、関が原の合戦で西軍に参加して破れて自害するのですが、その首塚は鳥羽沿岸の答志(とうし)島の山の上にあります。これはもちろん、九鬼嘉隆の居城だった鳥羽城が見渡せる位置、ということです。この手の話は、言い伝えも含めていろいろあったと思います。それが仙崎では鯨の子供、というわけです。

さらにこのお寺では毎年春に「鯨法会」が行われ、これは捕鯨をやめた現在も続いています。一般的に、法会(ほうえ)は亡くなった「人」を追悼するための仏教儀式ですが、仙崎では「鯨」ための法会があるわけです。なお、鯨法会は「鯨回向(えこう)」とも言います。

日本の伝統捕鯨にまつわる動物観は、

動物は、人間が利用し、かつ人間が敬う存在である。利用するときには徹底的に利用するのが動物の供養になり、その方が動物も浮かばれる。そのとき、動物を殺生しないと生きていけない人間の罪を意識する。

ことだと、先ほど書きました。鯨墓、鯨法会などの仙崎に残る捕鯨の記憶はそれを端的に表していると思います。しかしよく考えてみると、これは何も鯨に限ったことではありません。

日本全国には多数の「動物を供養するモニュメント」があります。「供養塔」「供養碑」「慰霊碑」「塚」「墓」など、名前はさまざまです。供養されている動物も、鯨、イルカ、魚全般、鮭、うなぎ、鳥獣全般、馬、乳牛、牛、豚、鶏、虫、蚕、蛙、と多岐に渡っています。また現代の話ですが、日本各地の動物園には「動物慰霊碑」があり「動物慰霊祭」が行われるのが普通です。さらにもっと言うと、実験動物を殺すことで研究が成り立っている生物系学部をもつ大学にも「動物慰霊碑」があって、医学部が中心となって「動物慰霊祭」が行われるのが常識になっています。

仙崎の鯨墓、鯨法会は、こういった日本における動物慰霊モニュメントや動物供養の、ほんの一例に過ぎないのです。


金子みすゞ と 捕鯨


仙崎に生まれた詩人、金子みすゞ(1903 - 1930。明治36年 - 昭和5年。以下、金子みすずと記述)は、仙崎地区での捕鯨を題材とした詩を書いています。


 鯨捕り

海の鳴る夜は
冬の夜は、
栗を焼き焼き
聴きました。

むかし、むかしの鯨捕り、
ここのこの海、紫津しづが浦。

海は荒海、時季ときは冬、
風に狂うは雪の花、
雪と飛び交う銛の縄。

岩もこいしもむらさきの、
常は水さえむらさきの、
岸さえあけに染むといふ。

厚いどてらの重ね着で、
舟のみよしに見て立つて、
鯨弱ればたちまちに、
ぱつと脱ぎすて素つ裸、
さかまく波にをどり込む、
むかし、むかしの漁師たち---
きいてる胸も
をどります。

いまは鯨はもう寄らぬ、
浦は貧乏になりました。

海は鳴ります。
冬の夜を、
おはなしすむと、
気がつくと---

金子みすず 全集 3 「さみしい王女」より
(JULA出版局 1984)
(注)紫津が浦は仙崎湾に面している青海島の入り江。地図参照。



いまは鯨はもう寄らぬ


No.21-5 金子みすゞ.jpg
金子みすゞ(大正12年5月3日 撮影)
詩のなかに

いまは鯨はもう寄らぬ、
浦は貧乏になりました。

とあるように、金子みすずさんが生まれたとき(明治36年、1903年)、捕鯨は既に行われていませんでした。みすずさんは古老の漁師から捕鯨の様子を聞いてこの詩を書いたのでしょう。捕鯨は明治時代半ばまでに幕を閉じたようです。仙崎で最も多くの鯨が捕れたのは江戸時代の末期の1840-50年頃です。その後、鯨はだんだんと捕れなくなった。仙崎での捕鯨は、回遊ルートをそれて沿岸にやってきた鯨を捕獲するという沿岸捕鯨のスタイルです。どこかの遠洋へ出かけていって捕鯨をするわけではない。従って鯨が沿岸に来なくなった時、捕鯨は終わりです。では、なぜ仙崎に鯨がこなくなったのか。

向岸寺のある、青海島・通(かよい)地区の「通地区発展促進協議会」が作った「古式捕鯨の里 通」というホームページがあります。ここに、こう書かれています。


弘化3年(1846) 通浦では鯨が一番捕れた年です。弘化3年11月29日には、鯨5頭、半年で24頭捕獲しました。当時、鯨一頭は、銀10貫、江戸風に170両、今の日本円で3400万円の価値でした。しかし時代の流れは皮肉なものです。この年にアメリカは鯨銃を発明し、西洋各国は争って日本海近海に鯨油を求めて鯨を乱獲しました。「弘化~嘉永年間(1844-54)」ペリーが日本に開港を求めたのは、鯨船のためでした。薪炭補給、食料補給、海難救助などの理由でした。


No.20「鯨と人間(1)」でみたような欧米諸国による鯨の乱獲と仙崎の捕鯨の衰退の関係を現時点で「科学的に証明」することはできないと思いますが、状況証拠からすると強い因果関係を推測できるでしょう。「鯨と捕鯨の文化史」の著者・森田さんも「日本近海の資源が減少すると、北海道から千島列島、カムチャッカ半島、ベーリング海にかけての海域が捕鯨場として開発され、捕鯨船が殺到した。」と書いています。一般的に仙崎だけでなく、日本各地の沿岸捕鯨は江戸末期から衰退ないしは縮小に向かうのですが、各種の捕鯨史研究から、外国捕鯨船の日本近海における鯨の乱獲がその原因だと推定されています。

鯨を絶滅危惧種に追い込んだ人たちの行為は、仙崎での捕鯨も絶滅に追い込んだのです。そして付け加えると、その人たちの子孫の一部は、現代の日本に僅かに残った沿岸小型捕鯨(和歌山県・太地町、南房総市・和田、など)をも絶滅に追い込もうとしているのです。


鯨法会


仙崎の捕鯨は終わりました。しかし「鯨法会」は現在も続いていて、もちろん金子みすずさんの時代にもありました。彼女はその「鯨法会」を詩にしています。大変に印象的な詩です。


 鯨法会

鯨法会は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。

浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、

村の漁師が羽織着て、
浜のお寺へいそぐとき、

沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、

死んだ父さま、母さまを、
こひし、こひしと泣いています。

海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。

金子みすず 全集 3 「さみしい王女」より
(JULA出版局 1984)

金子みすずは長い間「忘れられた童謡詩人」でした。彼女は20歳の頃(大正末期)から、数種の雑誌に童謡を投稿し、数々の作品が掲載されました。当時の童謡界の「大御所」だった西条八十に激賞されたこともあります。1926年(大正15年)に出版された「日本童謡集」には2編の詩、「大漁」と「お魚」が採用されました。発表した詩は合計90編程度になると言います。しかし若くして亡くなったため(26歳)その後返り見られることはありませんでした。

金子みすずを「再発見」したのは矢崎節夫という方です。1957年(昭和32年)、当時学生だった矢崎さんは、岩波文庫の「日本童謡集」(与田順一編。現在も入手可能)にたった1編だけ採用されていた金子みすずの詩「大漁」を読んで感動し、みすず作品の探索に乗り出します。そして16年後の1982年(昭和57年)に、みすずの実弟である上村正祐氏が存命であり、みすずの自筆童謡集3冊を保管していることが分かったのです。この童謡集の合計512編の詩は1984年に出版され、死後50年たってから金子みすずの存在が全国に知られるようになったわけです。


大漁


大正時代の「日本童謡集」に採用され、戦後の岩波文庫の「日本童謡集」にも採用され、そして矢崎さんに衝撃を与えた「大漁」という詩が次です。


 大漁

朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮おおばいわし
大漁だ。

浜は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何萬の
いわしのとむらひ
するだらう。

金子みすず 全集 1 「美しい町」より
(JULA出版局 1984)

「大漁」を読んですぐに気づくことは「鯨法会」の詩と瓜二つだということです。題材と詩の長さは違いますが、そこに現れている作者の感性と詩の構成方法が「まったくと言っていいほど同じ」です。「鯨法会」と「大漁」は双生児なのです。

しかし、双生児だけど題材が違う。これが決定的でしょう。「鯨法会」は仙崎のローカル色の強いものです。「鯨法会は春のくれ」という出だしからして、地方行事を詠んだ郷土詩という先入概念にとらわれかねない。それはそうでしょう。「鯨のための法会」を行っている漁村など日本全国を探しても他にまずないのだから・・・・・・。しかし「大漁」の詩は違います。「大漁」の詩は、みすずさんの意図は別にして「日本全国の漁港ならどこにでもありうる情景」です。これがこの短い詩に、おそらくみすずさんも思ってもいなかったような意外なパワーを与えることになった。

このことを踏まえて、金子みすずという詩人が現在の世の中に広まるきっかけとなった経緯を振り返って整理すると、こういうことだと思います。

鯨法会に典型的にみられる仙崎の漁民の心が、金子みすずの感性を育て「鯨法会」の詩が生まれた。
    
その感性に従って彼女は、いわし漁をテーマとする「大漁」を書いた。
    
「大漁」は大正時代の童謡作家の心に訴え、雑誌や本に掲載されることになった。
    
戦後に日本童謡集が編まれることになったとき、「大漁」の詩は編者(与田順一さん)の心を捉え、採用された。
    
それがまた矢崎節夫さんの心に衝撃を与え、彼の執念によって金子みすずの全作品が発見され、世に広まった。


捕鯨が後世に残したもの


「漁民の心」が「詩人の感性」をはぐくみ、その感性が詩になって、雑誌の編集者、西条八十、与田順一、矢崎節夫と順々に「言葉の威力によって伝染」していき、詩人の没後50年からは日本の多くの人々に伝わっていく・・・・・・。現在、仙崎には「金子みすず記念館」があり、ここを目当てに仙崎を訪れる観光客も多いわけです。ここまでになったのは、もちろん金子みすずという人の詩人としての天性、感受性、言葉を操る力だということは間違いありません。しかし、そのトリガーを引いたのは鯨法会・鯨墓・鯨の過去帳に代表される、仙崎の人々に受け継がれてきた「伝統」であり「文化」であり「自然・動物と共存していく心」だったのではないでしょうか。

「大漁」だけでなく他の作品も読めば分かりますが、彼女の詩は、小さいもの、弱いもの、犠牲になっていくものへの共感と、その立場から世界を把握する感性に満ちています。それは仙崎の伝統がはぐくんだものではないか。特に捕鯨の記憶が育てたものではないか。非常に強くそう思います。

仙崎の人々の沿岸捕鯨が鯨を絶滅危惧種に追い込んだわけではありません。それどころか、仙崎の捕鯨は後世に「金子みすず作品」という文化財産を残したわけです。という言い方が大袈裟なら、少なくとも「鯨捕り」「鯨法会」「大漁」という3編の詩を残した。

仙崎・青海島地区に残る捕鯨に関するの数々の記憶、この地における捕鯨の隆盛と衰退の歴史、そして金子みすずさんの「鯨捕り」「鯨法会」「大漁」の詩は、動物と人間の関係を考える際の大変に奥の深い教材だと思います。




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